20063月号 第542号・内容・もくじ

リストボタンイースター(復活祭)

リストボタン見えないものを見る

リストボタン単純の深み

リストボタン目に丸太

リストボタンモーセの召命―燃える火の中に現れた神

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせ


リストボタンイースター(復活祭)

キリスト教で最も重要な祝日は何かと問われると、たいていの日本人は、クリスマスと答えるだろう。しかし、クリスマスは、キリストが十字架で刑死してから、数百年を過ぎて祝われるようになったのである。
それに対してキリストが復活した日曜日を主の日として記念して集まることは、最も初期のキリスト教の時代から始まった。聖書にも「主の日」という言葉が見られる。

わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。"
ある主の日のこと、わたしは霊(聖霊)に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。(黙示録一・910

キリストの復活によって聖霊の働きが新たになされるようになった。それによって使徒たちは目ざましい変化を遂げて、いかなる困難のなかでもキリストの福音を携えて世界に出て行くことができるようになった。
復活がなかったら、聖霊もなく、キリスト教の世界への伝道もまたなかったのである。意気消沈していた弟子たちにとって、復活こそは、すべての出発点なのである。それゆえ、復活した日曜日に集まるようになった。
それが復活祭(イースター)の起源である。このような成立の由来から、日曜日を休むという世界的になっている習慣は、実はその起源はキリストの復活にあるのである。日曜日ごとに復活を記念しているのであり、毎週の日曜日そのものが、復活祭なのである。
そしてキリストの十字架上の死は、ちょうどユダヤ人の最大の重要な祭である、過越祭のときであった。
それゆえ、キリストが十字架にかけられる直前の最後の夕食は、ユダヤ人の最も重要な信仰上の祭である、過越祭の食事でもあった。

…イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなた方と共に、この過越の食事をしたいと私は切に願っていた。」(ルカ福音書二二・15

過越の祭では、子羊を用いてその血を祭壇に注いだ。十字架で血を流されたキリストは、この過越の子羊を象徴しているとみなされてきた。
このように、キリストの十字架の死は過越祭の霊的な実現として受け止められた。そして三日後の復活も過越祭と結びつきが生れた。
*

*)ギリシャ語では、過越祭をパスカ(pa,sca)という。フランス語では、復活祭のことを、PAQUES(パック)というが、これは、過越祭のギリシャ語に由来する言葉であり、復活祭と過越祭との関わりの深さが言葉の面にも現れている。

過越祭は満月に祝われたために、キリストの復活日も満月とかかわることになった。そして過越祭が現在の太陽暦では三~四月の頃であるから、復活祭もまた春分の頃の満月と結びついたのである。こうしたいろいろの理由から、復活祭は、春分の日の次の満月の次の日曜日という分かりにくい決め方になっている。このことは、キリストの復活が春分の日の頃で、最後の晩餐は満月のときであったこと、そして復活したのが日曜日であったということと関係していることなどを同時に思い起こすことにもなっている。
このように、福音書をよく見ると、復活祭とは、イエス・キリストの復活を記念すると同時に、その背後に過越祭の意味が含まれているのがわかる。
すなわち、主イエスが十字架によって血を流して私たちの罪のあがないとなって下さり、私たちに対する裁きが過ぎ越され、わたしたちが救いを受けたという重要な意味があるのである。

 


リストボタン見えないものを見る

「天路歴程」の中に、神の国を目指して進む巡礼者たちはいろいろの苦しみや誘惑、また危険に出会いつつ導かれていくが、その途中で羊飼いたちに出会う場面がある。その羊飼いたちは、巡礼者たちに、天の国の門や、天の国の栄光を見ることができるようにと、望遠鏡(眼鏡)を巡礼者たちに、与える。そして巡礼者たちは、本来見えなかったものを見させていただけたのであった。
「天路歴程」にはこうしたごく分かりやすい言葉で、霊的な深いことに関わりあることが記されている。この「望遠鏡」あるいは「眼鏡」を与えられることは、単なる物語でなく、どの時代のどんな人にもあてはまることなのである。
聖書も自然もまた先人も望遠鏡として働く。
自然科学や経済学、法学といった学問も、死後の世界については何ら教えるところがない。 私たちが死んだらその後に何があるのか、そのようなことを見る望遠鏡というべきものは与えられないのである。それゆえ、この世の終りとか、最終的にこの世はどうなるのか、そういったことについても、何ら確たる希望は与えられない。
しかし、信仰によって、私たちはいわばさまざまのことを見る望遠鏡や顕微鏡を手にしたようなものである。私たちの内部を見る顕微鏡とも言うべきものも与えられ、私たち自身にいかに不十分なところ(罪)があるか、をも初めて知らされていく。
植物を肉眼で見ているだけでは、細かな花や葉のつくりは決して見えない。しかし、ルーペで見ると、ごく小さな目立たない花が驚くべき美しさを持っていることがしばしばある。さらに顕微鏡で見ると、肉眼では全く見えなかった細胞まで見えてくる。
私が四十年ほど昔、初めて千倍ほどの顕微鏡で一滴のスライドグラスにおいた汚水の中に見た、大量の細菌、じつに多様な形をし、さまざまの運動をしているすがたに接したときの驚きは今も新鮮によみがえってくる。
遠くの物体を見る場合も、倍率の低い望遠鏡であっても、月もたくさんのクレーターがあるのが容易に分かる。
光学望遠鏡は、レンズやプリズム、あるいは反射鏡を巧みに使うことによって、遠くの物を近くに引き寄せて見ることができる。
心や霊的な世界にも、本来は決して見えないものが見えるようになる道がある。キリスト信仰こそは、そのような顕微鏡とか望遠鏡の働きを持っていると言えよう。
性能のよいレンズを使うほどゆがみや色がついたりしないで、正しく見えるように、私たちの信仰も、正しい信仰であるほど、見えない霊的な世界のことが、正しく見える。
この世にはさまざまの目には見えない力、悪霊とか汚れた霊といわれているものがある。それによってふつうなら到底考えられないような悪事がなされたり、不可解な行動をすることがある。
そうした人たちが持っているレンズは、ゆがんだものであるから正しく見えないのである。
聖書で言われている聖霊は、その果実として愛や平和、喜び、忍耐を生み出すような働きである。そしてその聖霊こそは、私たちの魂にとっての最大の望遠鏡であり、顕微鏡なのである。はるかな遠い先のことと思われている神の国のことも、聖霊によるならば実感することができる。
また、小さなことの中に他の人が決して見えないものを見ることもできる。マザー・テレサが路傍で死にかけているような貧しい人の中にキリストを見る、と言っていることもそうである。
聖書そのものが一種の望遠鏡であり、顕微鏡なのである。それがあれば、世の終りというはるかに遠いように思われていることも、見えてくるし、人間の心の隠れた深いところに潜む微細なもの、小さな不信実な心の動き、罪も見出すことができるようになる。そして、人間の心に点火された神の霊の働きも見えるようになる。
さらに自然のさまざまの世界もまた一種の望遠鏡である。それを通して神の国のことが部分的にせよ見えるようになるからである。
しかし、逆にふつうに色眼鏡で見るという言葉もあるように、わざわざ曇った眼鏡で見ることもよくある。私たちが、特定の人間だけを大切に思ってひいきしたりするとか恋愛で夢中になったりすると、それは一種の色眼鏡をもって見ることで、正しいものが見えなくなる。そのあげくに、他人の家庭を破壊したり、差別を引き起こしたりして人間関係の分裂が生じたりする。
だれにでも本来持てる神の国を見るための眼鏡、それこそは主イエスが言われた、神を仰ぐ幼な子らしい心である。聖霊によって新たに生まれ変わるのでなかったら、神の国は決して見ることはできない、という主イエスの言葉を思い出す。新しく聖霊によって生れるということは、神の国を見る眼鏡を与えられるということなのである。


 


リストボタン単純の深み

谷川を流れる水の音、それは実に単調である。毎日毎日ほとんど同じ量の水が、同じように流れ続けている。しかし、その単純な水音、流れのたたずまいであっても、毎日それを目にしても、飽きることのない深い味わいがある。 それは人間の意志でなく、天地万物を創造された神のご意志が直接的に現れているからである。
しかし、人間の世界で多くの人たちが注目することは、例えばオリンピックの金メダリストの演技など、そこには、何とかして一番になりたい、その選手を育てたコーチや親などは、自分の名誉のため、またその母校などもその人がメダルを取れば、自分たちも誇りになるとかの期待、あるいは、外国選手に対しては、その選手が何か失敗すればよいのに、などと思っている人もいるかも知れない。また金メダルなど取ったら、今度はさまざまの団体や会社が、その人を利用して宣伝に使おうとする。背後で多額の金が動く等々。
この世では、美しいようなものも、その背後には実にさまざまの複雑極まりない人間の思惑が働いている。そこには清い美しさなどというものはない。
こうした人間世界の美に対して、天然の美というのは根本的に異なる。夜の闇に輝く星は、それ以上単純なものはないと言えるほどに単純である。闇の中の光、ただそれだけであり、何万年経ってもほとんど変ることがない。
そしてそこには人間の複雑な利害のこもった思惑など、存在しない。その闇の中の光のうちに存在するのは、神の無限の英知であり、また創造のご意志であり、そのような光を人間に示して、神の国へと引き上げようとする神の愛の心だけがある。
また、自然に咲いている野の花は、人間が創造されるよりはるかに前から、存在しているのであって、人間の考えや、もっときれいになろうとかの願望、それを用いて利益を得ようなどといった考えとは無縁である。
こうした単純さの深みということは、この世の幸福ということについても言える。
一般に言われている幸福は、まず健康、お金、よい家族、よい住まい、社会的地位、よい職業、友人などなどが揃ったら幸福だと思われている。そこには、さまざまの条件がある。よい社会的地位を得るために、幼い時から、塾に行かせ、英語を学ばせ、あるいはスポーツクラブに親が送り迎えする。有名大学に入るためには非常な準備をいろいろとする。そして会社に入ってもさまざまの困難な条件をクリアしていかねばならない。 少し病気とか、事故、あるいは失敗などがあっても、そうした幸福は得られなくなる。
この世の幸福とは、実に複雑な迷路を歩むようなもので、そうした迷路をどんなにたどっていっても、目的とする幸福には達することができない。それで魂の深いところで不満や空しさ、疲れを持っている。しかもそれは年老いていくほどに、健康も失われ、家族、友人たちから離れ、仕事もなくなっていき、その疲れや不満、虚無感などは増大していくことが多いだろう。
しかし、昔からそうした複雑な迷路を通っていく幸福への道というのとは全く異なる道、きわめて単純な道が備えられている。
それが、聖書が数千年も昔から示してきた道である。幼な子のように神を信じ、神を仰ぐことによって、壊れることのない幸いが与えられると一貫して記されている。
この世の道はきわめて複雑で錯綜しているが、神の国への道は、まっすぐな単純な道なのである。
主イエスが、「幼な子のようにならなければ、神の国に入ることができない」、と言われたことは、そうした聖なる単純さを指している。そしてこの単純な道は、すでにキリストより、五百年以上も昔から明確に言われてきたことである。

地の果のすべての人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22

ここで「仰ぎ望め」と訳されている原語は、「転じる」(turn)という意味を持っているゆえに、英語訳の多くは、

Turn to me and be saved.

と訳されている。今まで、地上のことばかり、人間のなすこと、目に見えることばかりを見ている魂が、そこからそれらすべての地上の物を創造した神へとまなざしを転換するというただそのことだけで、救いが与えられるという。
後に十字架がキリスト教のシンボルとなって、十字架を仰ぐということが、キリスト教信仰を象徴するような意味を持つことになった。
キリスト教史上で最大の働きをした使徒パウロは、ギリシアの都市コリントを訪れて福音を宣べ伝えたとき、その地方はギリシャ哲学の影響が色濃く残っていたところであったにもかかわらず、あえてきわめて単純な言葉で福音を伝えようとした。
それは、つぎのようである。

私はあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。(Ⅰコリント二・3

パウロは、若いときから特別にユダヤ人としての英才教育を受けた。すぐれた教師について学んでいたから、さまざまの知識を十分に使ったり、幅広い議論をして相手を説得することもできたであろう。イエス・キリストについてはその生れとか系図、そのさまざまの奇跡、深い教えなど語ればいくらでもできただろう。
しかし、そのような知的な論争とか説得のようなことをせずに、ただ十字架につけられたキリストだけを、心においてそれを宣べ伝えようとしたのであった。
このような単純さ、十字架につけられたキリストを宣べ伝えようとすることによって、神の力が働くことをパウロは知っていた。人間的な議論、博学や論理の巧みさなどをふりかざしても、そこには人間的な思いがしばしば働く。議論ができる、知識を自分がたくさん持っている、自分の方が能力が上なのだ、といった秘かな高ぶりがあれば、神の力は働かない。
神の力がより働くため、そしてその神の力によって一人でも二人でも、キリストの十字架による罪の赦しを受けて救いを得るために 十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えようとしたパウロ。
ただそのことを見つめていれば、神の力はそこに注がれる。
パウロ自身は、決していつも強い状態ではなかった。

…兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いなかった。
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからである。
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であった。
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものであった。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためであった。(Ⅰコリント二・15より)

パウロのような大使徒ですら、衰弱し、恐れに取りつかれ、不安であったという。そのような力の失せたような状況であっても、否、それだからこそ、十字架のキリストだけを見つめる単純な信仰に徹しようとしたのである。そして神はその姿勢を祝福され、多くの人たちにキリスト教を伝えることができたのであった。
主イエスは、「なくてならないものはただ一つ。」(ルカ福音書十・42と言われた。御国への道は単純である。谷川の水の音が単純で純粋であるように、星の光に二心がないように、キリストの愛は単純で深い。
わたしたちもまた、十字架によって罪赦されるという福音の単純な原点にしっかりと留まり、キリストを仰ぎ望むというただ一つのことを持ち続けていきたいと願うものである。


 


リストボタン目に丸太

主イエスは、ほかのどんな人にもまして分かりやすい言葉の中に深い真理を込めて、しかも力と権威をもって語ることができた。人の目に丸太とか、おが屑といった表現で、人間の深い罪を語られたのである。
私たちの目には、大きな丸太があるのにそれが見えない、しかし他人の小さなおが屑を見てそれを取り除こうと言っているという。

…イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
(ルカ福音書六・3942

盲人が盲人の道案内をする、これは、どういうことか。
目が見える人は、自分は盲人ではないと思っている。しかし、別の箇所で、次のように言われている。

…イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える(と思い込んでいる)者は見えないようになる。(ヨハネ福音書九・39

このように、主イエスがこの世に来られた目的そのものが実は、真理が見えない人間に、真理を見させ、神のわざ、神の国が見えるようにするためなのであった。そして傲慢にも自分こそはそうしたものが見えていると思い込んで、他人を裁いている人たちはかえって見えなくなる。高ぶりは裁かれるのである。
こうして考えるとき、この世のすべての人が実は盲人なのである。神のこと、自分の罪、この世界がどうなっていくのか、人間にとって最も重要なことは何であるのか、そういったことが分からないのである。

だから人間は本質的に他者を導くことができない。罪ある人間はそのままでは、自分自身がどこに行くのかも分からないからである。
人間に深い罪があって、他人をも正しく見分けることができないということを、目に丸太がある、という驚くべき表現で表しているのである。
目とは心を表す。目に丸太とは、心に丸太のような邪魔者があるということであり、これはすなわち罪のことなのである。パウロがローマの信徒への手紙で書いているように
*、どうすることもできない人間の本質を主イエスはこのようにごくわかりやすい日常的な言葉で表したのである。

*)…ではどうなのか。私たちにはすぐれた点があるのだろうか。全くない。すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある。次のように書いてある通りである。「正しい者はいない。一人もいない。…」(ローマの信徒への手紙三・910より)

自分の丸太を取り除く、すなわち自分の罪を取り除くということは、自分の力ではできない。それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙で力を込めて述べているように、キリストが十字架にかかる必要があったのである。
十字架によるキリストの死によって神はただ信じるだけで、私たちの内にある「丸太」を取り除く根本的な方法を与えて下さった。しかし、それもたえずそのことをしっかり覚えていないと、いつのまにか、キリストによって丸太を除いてもらったことも忘れて、他人のおが屑を除こうとする。つまり他人を裁いていく。
他人を裁くということは、罪に定めて非難すること、そこには愛がない。結局は、裁くな、ということも愛をもって祈れ、ということになる。敵対する人や中傷する人に対して悪く言い返すことによっては自分にとっても、相手もにとっても何一つよいことは生じない。神からの愛をもって祈ること、それによって自分も他者も周囲の人にもよきものが流れてくる。
主イエスは、人間同士の関わりのあり方について、私たちの生涯の目標というべきものを示された。それは、ここに言われる、他人の目にある小さなおが屑を見るのに、自分の目にある大きな丸太を見ようとしないこと、すなわち、他人の罪ばかり見て、自分の罪深さを知らないことを強く指摘された。
このことと、次の人間関係の究極的なあり方を示す言葉とも内的につながっている。

敵を愛し、憎む者に親切にせよ、悪口を言う者に祝福を祈れ、侮辱する者のために祈れ。(ルカ福音書六・2728

私たちが、敵対する人や憎しみをもってくる人に好意を持てないのはごく当たり前のことである。それは、すぐに相手を裁いて、あの人は悪い人間だ、いやな人間だ、と裁いてしまう。そして自分もまた敵意とか反感といったものを返してしまう。相手の悪意に目がくらんで、自分の中にもひそんでいる自分中心の考えや罪深さという丸太には気付かなくなってしまう。
敵を愛せよとは、敵対する人を好きになれ、ということではない。それは、敵対する者の心がよくなるように祈れ、ということだが、それは裁く心とは反対の心である。
自分の心にも同じような「丸太」がある、罪があると実感しているときには、だれかを強く非難したりできなくなる。しかし、そのような時であっても、相手のために神に祈ることはできる。自分に罪あると思えばこそ、自分が相手の悪いところを直したりできないから、神に祈る心となる。
裁くな、そうすれば神からも裁かれない、と主は言われる。裁くのでなく、祈れ、と言われる。また、次のように言われた。

赦せ、そうすれば赦される。
与えよ、そうすれば与えられる。(ルカ福音書六・3738より)

この主イエスの言葉に対しては、自分は赦すことができない、という気持ちをいう人も多い。このことについて、主イエスは、別のところでたとえを話して示された。

… ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
現在の日本の値打ちになおせば、六千億円ほどにも相当する大金を借金している家来が、王の前に連れて来られた。
しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
ところが、この家来は外に出て、自分に百万円ほどの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ福音書十八・2135より)

ここで、六千億円ほどにもなる大金、それは返すことが不可能な金額を象徴しているが、それほどの借金が主人にあるということで、それは人間の罪がほとんど計り知れないほど大きいということを象徴的に示すものである。
そのような罪をすべて帳消しにしてくれた王とは、神である。神からそうした絶大な赦しを受けたのに、自分はごく小さなことで他の人を赦さない、これが人間の罪深い姿である。このたとえで、私たちは神により、十字架で主イエスが血を流して死んで下さったことによって罪赦され、救いを受けた。それゆえに、他者を赦せるはずなのだと言われようとしている。
他人を赦せないのは、主イエスからの赦しが与えられているのに、それを心を開いて受けとろうとしていないからだということになる。
だから、「赦せ、そうすれば赦される」ということは決してできないことを命じているのではない。赦すために私たちは主の十字架を仰がねばならない。そこから赦しを豊かに受けるほど、私たちはこのイエスの命令を、実行できるし、私たちの罪もいっそう赦される。
このことのゆえに、主がすべての祈りの中心にある祈りとして、次の祈りを示されたのであった。

私たちが自分に罪(負い目)ある人を赦しましたように、私たちの罪をも赦して下さい。(マタイ福音書六・12

また、ここで主イエスは、「与えよ、そうすれば与えられる。」という簡潔な法則を教えられた。あたかも数学で、二×三=六 となるように、これはだれに対してもいつでも成り立つ精神世界の法則として言われている。
ここで「与える」という言葉で意味されているのは、何であろうか。与えるというとすぐに、お金や物、食物などを思い起こすが、この箇所では前後関係から見ると、相手が自分に対して犯した罪の赦しをも含んでいると考えられる。相手に、主の愛のうちにあって、赦しを与えるとき、私たちもまた赦しを与えられる。このように、人間の世界で根源的なものでこうした法則が成り立つのであれば、当然それよりももっと表面にあることでも成り立つ。それは私たちが愛をもって何かを与えるとき、私たちもまた与えられる。神に捧げるとき、神から与えられるのである。
主にあって与えるときには、それが祝福され、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに与えられる」と言う。このような特別な表現で強調されているのは、それほどこの世で、まず与えるということが確実に与えられるということに結びついているからである。
ただし、ここで、秘かに自分に返礼やお返しを期待して与えるのは、実は自分中心であって、自分へのお返しが目的であるから、それは真に与えたことにならない。かえってそれは与えるように見せかける偽善という悪にすぎない。こうした不純な心では、真に良きものは決して与えられない。
与えよ、そうすれば与えられる、という言葉は、次の有名な言葉を思いだす。

求めよ、そうすれば与えられる。(マタイ福音書七・7

まず私たちは神に求める、そうすることで神からの賜物を与えられる。その心をもって、他者に与える。そうすれば他者からも、そして神からも与えられる。
祈りという霊的なことについても同様である。
他者に対してまず、祈れ、そうすれば祈りを与えられる。
そして神に対しても、まず神に祈るなら、神から霊的なものを受けることができる。この世はいくら与えても奪われたまま、与えて大きな損をするということもある。しかし、目に見えない世界では、決してそういうことはない。たとえ、相手から金を盗まれたとしても、祈りをもって対処すれば、その人には平安という賜物が神から与えられる。
主イエスが、福音をもって他者を訪れるとき、平和を祈れ、相手がそれを受け入れないときでも、 その祈った平和は、あなた方に帰ってくる、と約束された。
主にあってなしたことは、すべて無駄になったりせず、神からよき霊的な賜物に変化して帰ってくる。ここに驚くべき神の御支配を感じさせられるのである。


 


リストボタンモーセの召命―燃える火の中に現れた神

エジプトの王の命令によって生れた男の子はナイル川に投げ込まれていったが、その内の一人の赤子が、エジプトの王女によって拾い上げられ、王子として育てられるという不思議な生い立ちをしたのがモーセであった。 成人した彼は、自分の力で同胞のイスラエルの人のためにしたことから、王に命をねらわれることになり、砂漠を越えてはるかな遠くへと逃げのびて行った。
そこで結婚し、荒野で、羊飼いとしての静かな生活を送っていた。そのようなある日、モーセは不思議な光景を目にした。乾燥した地帯では樹木は所々にしか生えていない。そのうちの一つの木が燃えているのにそれが燃え尽きないのに気付いた。
この大自然のただ中で生じた出来事が、神からモーセへの語りかけの最初の場面であった。
なぜ、神は、燃える木(柴)の中から話し掛けたのか、聖書の箇所でこのような状況から語りかけたというのは他にはない。
それでは、他の聖書で重要な人物はどのような状況で神からの呼び出しを受けたのであろうか。それを簡単に見てみたい。
アブラハムに最初、神が語りかけたのは、どんな状況であったかは全く記されていない。アブラハムが神からの語りかけを受ける前にどんな生活をしていたのかすら全く記されていない。ただ現在のイラク地方に住んでいたこと、そこから家族でユーフラテス川の上流地方へと旅立ったということだけが書かれている。そしてその直後に、突然、神がアブラハムに、「生れ故郷を出て、父の家を離れて私の示す地へ行け」という記事が続いている。(創世記十二章)
アブラハムの孫にあたるヤコブについては、兄に命をねらわれるという状況になったために、一人遠くの親族のところに逃げていく途中の夢の中に、天に至る階段が現れ、天の御使いが上り下りしているのが示され、神がヤコブに語りかけたのであった。(創世記二八・1015
また、王として特に重要であるダビデを選び出す使命を帯びていた預者者、サムエルは、子どものときに神からの呼びかけを、夜の眠りのときに受けた。(サムエル記上三・4
ダビデは羊飼いをしていたが、サムエルを通して神に選ばれた。そのときから神の霊が注がれるようになったと記されている。(同右十六・1213
最も重要な預言者のうちの一人、イザヤはある時突然、神のすがたを啓示され、預言者として呼び出された。それが宗教的儀式のときであったのか、祈りの時なのか、あるいは旅の途中なのかは何も記されていない。(イザヤ書六章)
またイザヤと並ぶ偉大な預言者、エレミヤも若き日に神からの呼び出しがあったというのは分かるがそれが生活のどんな時であったかはやはり何も分からない。
新約聖書に入って、イエスの弟子たちのうちで、代表的なペテロ、ヨハネ、ヤコブたちは、いずれも漁師であって、漁師として漁をしているとき、ヨハネは、網の手入れをしているという仕事中に突然イエスからの呼びかけがあって、それに従って弟子になったことが記されている。
また、最大の弟子とも言えるパウロは、熱心なユダヤ教徒としてキリスト者を迫害している最中に復活のキリストからの呼びかけを受けた。
このように、聖書のなかには、神からのはっきりした呼びかけはいろいろな状況でなされているが、モーセの場合のように、砂漠地帯で時折みられる木が燃えているその中に神が現れて語りかけたというのは、異例のことである。
燃える木(柴)の中から、御使いが現れたとあるが、四節では、柴の中から声をかけたのは、神であるのが分かる。このように、御使いとあっても、神ご自身の一つの現れである場合がある。
まず、神はモーセに対して、エジプトにおいて人間の力の弱さと空しさを思い知らせ、次に静かな荒野での生活へと導き、そこでモーセは単独の長い時間を持つことによって神との対話を続けていった。そして、時至って神は直接的にそのお姿を現してモーセに個人的に呼びかけた。個人的に呼びかけられて始めて、私たちの信仰は確固たるものとなる。人間の呼びかけは力にならない。
アブラハムもその個人的呼びかけから全く新たな生涯が始まった。そしてそれが全世界に絶大な影響を及ぼすことになった。神が何事かを成そうとされるとき、特定の人間を呼び出す。そしてその人間に特に大きな力と、神の言葉を与える。
キリストの十二弟子たちも、弟子たちが志願したのではなかった。次のように、自分で希望した者はかえって退けられた。

…ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス)には枕する所もない。」(マタイ福音書八・1920

律法学者のような、聖書を人に教えている人がイエスに従う、と言っているのだから、ふつうなら「それでは従って来なさい」とすぐに受け入れるように思われる。しかし、自分がどんなに決断しても、自分の意志は固いと考えていても、この世で生じることの前にはいとも簡単にそうした自分に頼る姿勢は砕かれてしまう。
キリストの十二人の弟子たちは、みんな自分の意志で従おうとして選ばれたのでなく、彼ら自身はイエスに従っていくなど、全く考えたこともない人たちばかりであった。そのような人たちをイエスご自身が呼び出したのであった。
同様に、パウロも彼自身の意志はキリスト教を撲滅することであってキリスト教徒を迫害する指導者であったが、キリストからの呼び出しによって使徒に変えられた。
私たちもまた、自分の意志や希望でなったのでなく、神の御計画からキリスト者とされたのである。すべての本当のキリスト者はみなこのように神がはるかな昔から予定し、計画して選び、個人的に呼び出したのである。
このように、人間の運動とか社会状況によるのでなく、神ご自身がその御計画によって呼び出すのであるから、私たちはただ祈ることである。神は、当時のエジプトにおけるイスラエルの人たちの苦しみ、叫びの祈りを聞いた、と記されている。

…イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。 神はその嘆きを聞き、…神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記二・2325より)

モーセは、命が助かって以後も、絶えずエジプトのユダヤ人の過酷な取り扱いを思いだしていただろう。
神は全く思いがけないときに現れた。モーセ自身、また他のすべての人たちも神がいつモーセに現れたのか、分からないような遠隔地であった。 どんなに遠くにいても、神は見出される。

燃える火の中に現れた神、それはすでに述べたように、数ある預言者や信仰の人のなかで、モーセにだけそのようにして現れた。これは何を意味しているだろうか。
それは神の御性質を表している。神が火の性質を持っていることは、旧約聖書でもあちこちにみられるが、特にエゼキエル書ではその四十八章にわたる長編の内容の冒頭に記されている。

… 主の言葉が祭司エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。さらにその中には四つの生き物の姿があった…
それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。…
彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。(エゼキエル書一・314より)

エゼキエル書とは、ユダヤ人が遠くバビロニア帝国に連れ去られたとき、その地でエゼキエルが神の召命を受けて、神の言葉を語った預言書である。ここにあげた描写は現代の我々にはとても実感しにくいが、これは、神の本質をこのようなかたちで示されたのであった。それは、神は火のような力、焼き尽くす力を持ったもの、火はまた明かりでもあり、闇を照らしだす光でもあるが、それはじっと光っているのでなく、物事の根本を造り替え、悪や不純なものを根底から滅ぼす力をもったお方として現れたのである。さらに四つの生き物のような姿というのも、神を象徴的に表しているが、そこでも、「燃える炭火が輝くようだ」と記されている。
炭火というと、現代の私たちにはせいぜいごく弱いものとしか考えられない。戦前の人であっても、小さな火鉢に入れる炭火、あるいはたき火などの残りに炭火ができるが、そのようなものと考えたら大きな間違いになる。
古代においては、現代のように石油や石炭、電気などを大規模に用いるなどは全くなかったのであり、一般的には、木材から木炭を作り、空気を送って千数百度にし、化学反応を起こして鉄を溶かし出していた。
そうした状況で使うような強力な火がここでは言われているのであって、この「炭火」とは、「岩石(鉱石)をも鉄をも溶かすような、激しい力」をもったものという意味を持っている。
それゆえ、家庭で見るような火鉢の炭火などをイメージすると全くここで言われている神の姿を間違ってしまう。
現代の人々は、(キリスト者以外の人が抱いている神に対するイメージも含め)神を思い起こすとき、「火」を連想する人はごく少ないと思われる。火というのは、古代からずっと比較的最近まで、きわめて重要であって、毎日の食事のために調理にも不可欠であり、夜の明かりとして、また寒さから防ぐためなど、火がなければ生きていけなかった。しかし、最近では、電気での炊飯、電磁調理器、電子レンジなどのため燃える火というのはますます遠ざかりつつある。さらにこのごろは、たき火もしてはいけないとかで一層、火というものに触れることがなくなっている。
それゆえ、神が燃える火のなかに現れたといっても、当時の人たちが受けた強いメッセージ性が失われているので、私たちは少しでも当時の人たちが持っていた火というイメージを思い浮かべて読む必要がある。
神とは、火のような存在だ、ということは、エゼキエル書と共に、さまざまの霊的かつ、視覚的なイメージによって神の啓示を記しているダニエル書にも見られる。次の記述は、ダニエルが、眠っている間に神からの特別な啓示を受け、神ご自身を見るという特別な恵みが与えられたときの内容の一部である。

…なお見ていると、
王座が据えられ
「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
その前から火の川が流れ出ていた。(ダニエル書七・910より)

これは、ダニエルがイザヤやエゼキエルと同様に、霊的に引き上げられて神を見るという特別な恵みを受けたときの経験を伝えている。ダニエルが示された神の本質とは、すべてを支配する王であること、永遠性、そして雪のように白いという表現によって完全に清められた存在であることが示され、自由自在にどこにでも動くことが車輪を持っているということで表され、しかもそれは火であり、火の川が流れ出ているというのである。
ダニエル書が書かれた時代状況は、激しい迫害の時代であったが、それは悪の力がそれまでのどの時代にも増して激しく襲いかかると思われたほどであった。しかし、そのような悪の力も、すべてを焼き尽くす火のような神の力によって滅ぼされるという確信が啓示されたのであった。
神の前から流れ出ているのは、「いのちの水の川」である。

…天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。(黙示録二二・1

聖書の最後の書物ではこのように、神と小羊といわれるキリストはいのちの水であふれているゆえに、そこからは永遠のいのちの水の流れが湧き出ていると記されている。悪の力に苦しめられてきた人間も最終的にはこうしたいのちの水の豊かな流れの中に置かれて、十分にうるおされ、満たされるのがこうした表現で表されている。
主イエスご自身もいわれた。

…私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ福音書四・14

神御自身がいのちの水の源であるゆえ、それを頂いた者もまた一つの小さな泉となる。
それにもかかわらず、このように、ダニエルは神の御座から、火の川が流れ出ているのが見えたという。火と、水、全く相反すると思われるものが共に神の御座から流れ出ているのである。
火の川が流れていくところ、どこであっても焼かれていく。ただしそれは神の真実や正義に意図的に反し続け悔い改めない者に対してである。悪そのものの力は、この神の御座から流れる火の川によって焼かれていくのである。
このように、神が「岩であり、砦」である、というイメージ(詩編にしばしば見られる)と同様に、神に対する私たちの日常的なイメージを打ち破るものを聖書はつねに私たちに対して指し示している。
主イエスご自身も、また神の力は火を連想する力を持っていることを話された。

…すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マタイ七・1719

…だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ福音書十三・4043

ここで、火で焼かれるとか燃え盛る火の中に投げ込まれる、というのは、神の裁きの力によって滅ぼされるということであり、ダニエルの見た、神の御座からの火の川の流れで燃やされるということになる。
神は愛であると言われる。そして愛とは柔和なやさしいイメージで受けとられる場合が多い。しかし、その愛は万能かつ正義なる神の愛であるゆえ、悪そのものを裁き、滅ぼす力を持っている愛である。弱い人を踏みつけ、理由なく苦しめるのが悪の本体であるとすれば、そのような悪をそのままにしておいてどうして愛と言えようか。
それゆえ、聖書では先に述べたように主イエスも最終的には悪は火で焼かれると予告しているのである。さらに、聖書の最後の黙示録でもその終りに近い部分で、悪の最終的な結末がつぎのように言われている。

…サタンは地上の四方にいる諸国の民を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは、聖なる者たちの陣営と愛された都を囲んだ。すると、天から火が降ってきて彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。…死も陰府も火の池に投げ込まれた。(黙示録20714より)

このようにして、悪の力の根源は火の池に投げ込まれて滅ぼされ、死の力そのものも同様に滅ぼされる。
聖書の全体から、「火」というものがいかに神の力の象徴として表されているかが分かる。そうした観点から見るとき、モーセに対して、火の中に神がなぜ現れたのか、という最初に提起したことの意味が明らかになってくる。
長い人類の歴史を通じて特別に神に選ばれた人であったモーセはその困難な生涯の出発点にあたって、愛の神、導きの神と同時に、火の力を持った神をはっきりと悟らされたのであった。
そして実際に、荒野にあってモーセが民を導くとき、「火」が伴った。

…主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エジプト 十三・21

これは、夜の闇を照らす明かりとしての火であったが、それだけでなく、目的の地への旅路に現れる悪の力から守ろうとする神の力をも表すものであったであろう。
柴が燃えている火の中に現れた神、そして火の柱、雲の柱ということによって神が共にいる象徴も示されているが、これは単に古代のモーセにだけ生じたことでなく、現代の私たちにも迫ってくる事実である。
私たちの周囲には古代には分からなかった遠くの国々の状況が毎日新聞やテレビ、インターネットなどを通して洪水のように入ってくる。それらの多数の部分は悪の支配によっていかに混乱や苦しみが生じているかを報道するものである。そうした事実に接して、私たちが確固たる足場を持っているためには、それらの根源にある悪の力に勝利する存在を確信している必要があるし、そうした力によって日々守られ、歩みを続けているという実感が必要である。
その実感を与えるものこそ、この火の中に現れる神であり、火の柱、雲の柱をもって導く神なのである。


 


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228)あなたは、働いているときも、祈ることはできます。仕事は、祈りを止めることはしないし、祈りは働くことを止めさせたりしません。
祈りは、次のように心を少しだけ主に向けるのを必要としているだけなのです。

私は、神様、あなたを愛しています。
あなたに信頼しています。
あなたを信じています。
今あなたが必要なのです。

このような小さなことなのです。
こうしたことがすばらしい祈りなのです。(「マザー・テレサ 日々のことば」二月三日の項 女子パウロ会刊)

You can pray while you work.Work does'nt stop prayer and prayer does'nt stop work.
It requires only that small raising of the mind to Him:
I love you God
I trust you
I believe you
I need you now.
Small things like that.
They are wonderful prayers.
(「The Joy in Loving73p

・このマザー・テレサの言葉は、新約聖書で、次のように言われていることが背景にある。

…絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ五・1718

絶えず祈れ、と言われているが、それは何かをいつも祈っているというより、ここでマザー・テレサが言っているように、心を常に主イエスに向かわせていること( small raising of the mind to Him)を意味している。

229)英知への愛(哲学)は、それを実行する際に、他のすべてのものにはるかにまさっている。というのは、英知を愛するということを実行するためには、どのような道具も、また、どのような特定の場所も必要とせず、世界のどの場所であれ、人が自分の思考を働かせさえすれば、その人は、いわばいずこにでも、同じように存在している真理に触れることができるからである。
このようにして、英知への愛(哲学)は可能であるということ、それがいろいろな善きものの中で最大のものであり、それを獲得するのは容易であるということが証明された。
そしてそれゆえに、あらゆる点から見て、英知への愛(哲学)のためには、熱心な努力を傾けるに価するものである。(「哲学の勧め」アリストテレス全集 第十七巻 五五三頁 岩波書店刊)

・哲学というと、難しいもの、ごく一部の人のもの、と思われがちであるが、これは本来は、「学」ではなく、原語のフィロソフィア( philosophia )という言葉は、「英知(ソフィア)を愛する(philew)」という意味なのである。
そして、ここで言う英知とは真理にかかわる判断能力であるから、フィロソフィアとは、「真理愛」というような意味を持っている。
それゆえ、アリストテレスが、哲学について言っていること、真理を愛することは、どこであってもできること、道具も要らない、場所も選ばない、自分で考えること、そして直感的判断を鋭くさせることだけでできることだから、この世で最もよきことだと述べている。
これは、キリスト教で言えば、神を愛することは、いつ、どこででもできるし、何の道具も要らない、資格も不要、そして祈りの心をもってすれば、いつどこででも存在する神の愛に触れることができる、と言い換えることができる。そして神への愛は、いろいろな善きもののなかで、最大のものであって、そのような点を考えると、さらにそれを身につけるのは、容易なことである、ということになる。

230)モーツァルトは、この光に包まれた全創造を聴いたのである。
そしてこのとき、彼が中間的で中性的な音を聴いたのではなく、否定的なものよりは、肯定的な音をより強く聴いたことは、本当に理と秩序に合ったことなのであった。…
彼はただ一つの側だけを抽象的に聴くことを決してしなかった。彼の音楽は昔も今も、全体的音楽である。…
彼は、彼自身の音楽でなく、被造物の世界それ自体の音楽を造り出した。(「モーツァルト」カール・バルト 8081より 新教出版社)

・モーツァルトの音楽は、光に包まれた創造世界の全体から発せられている自由と喜びの表現であり、被造物の世界が神を讃美している姿を音楽によって表したものと言える。
聖書には、次のように記されているが、モーツァルトの音楽には、確かに、天も地も主を讃美している霊的状態が、音楽によって表されている。

…天よ地よ、主を讃美せよ
海も、その中にうごくものもすべて。(詩編六九・35

231
一切の仕事が、神を離れては困難であり、神とともにあれば、一切が可能である。(「幸福論」第三部 278p ヒルティ著 岩波文庫 )

・私たちは何らかのことをしている。働きをもっている。ふつうは、病気の人は仕事ができないと思われているが、それぞれの病状に応じて、手紙を書く、言葉や、まなざし、心で思うこと、祈りなどで神の国のために、「働く」ことができる。そのようにどんな人でも何らかの仕事を持つといえるが、その際、どんなに活発に働いている人であっても、神を無視して、つまり自分中心の考えでやっているかぎりそれはそのうちに壊れていく、消えていく。しかし、神とともにあるとき、どのような小さな働きであっても、必ず生かされる。祝福がある。私たちの願いは、それゆえ、人から注目されるとか、目に見える結果を得たいとかいったものでなく、絶えず神が共にいて下さるように、そしてその神が私たちの心を導いて下さるように、ということである。


 


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○明けの明星

早朝五時前の、東の空を見れば、だれでもはっとするような強い光の星があります。それは、思わず心が引き寄せられるような輝きで、まばたきもしないで見る者をじっと見つめるような光です。
これが、明けの明星といわれて、古来有名な金星です。しかし、この明けの明星を一度も見たことのない人が相当いるようです。まだ当分は見られるので、見たことのない人は、ぜひ見ておいてほしいと思います。今ごろの金星はとても明るく、-四.四等の明るさです。恒星で最も明るいシリウスは、マイナス一・五等ですから、金星はシリウスの十五倍余りの明るさです。(等級が一違うと、二・五倍明るくなる)
明けの明星としての金星は、聖書の最後にある黙示録の終りに近い部分で次のように言われています。

…わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16

このように、主イエスご自身が、自分のことを明けの明星と言われたほどに、この輝きは人の心を強く惹きつけるものがあったのです。人々がまだ寝静まっている早朝、まだ暗い空にまばたくこともなく強い光で輝く星、その後に夜明けが訪れるために、この金星は夜明けを呼び覚ますメッセージをたたえているとも感じられます。

また、その頃、南の西よりの空には、これもまた透明な明るさといえる強い輝きの星がすぐに見つかります。これが木星ですが、この星は、現在では、夜中に東から登ってくるので、深夜に外に出て東方を見るならこれもだれでも直ちにわかる強い美しい星が見えます。(木星は、マイナス二・三等で、これもシリウスよりずっと明るい)
それから、朝は早く起きられないという方は、三月三十日頃であれば、夜八時頃には、真南のやや高い空に土星が見えますから、これもぜひ見ておくと惑星に対して、また夜空に対して
一層関心が深まります。(土星は〇・一等)
そして星への関心は、信仰生活の上でも、プラスになります。
聖書に、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編十九・2)と言われている通り、夜空の星は生きた神の言葉でもあり、神のお心を感じさせてくれるものだからです。

○春の植物
春、それはあらゆる植物や昆虫、小動物などが一斉にそのはたらきを始める季節です。空き地には、ほとんど注目されない野草たちが次々と小さな芽を出して伸びていきます。わが家は低い山にあるため、平地には見られない植物たちもあちこちに見られます。タチツボスミレが、いつのまにか、裏の山の斜面で広がって美しい花を見せています。
またセントウソウの、セリ科独特の小さい花火のような白い花、それは大きさは一ミリ程度のものですが、静かに春を告げています。
ミツバアケビは、つぼみを膨らませ、近いうちにその心惹く花を咲かせようと準備しています。
寒い間に誰からも注目されず、静かにその地味な花を咲かせていたビワは小さい実を膨らませています。ビワは日本ではその食用の実だけに関心が持たれていて、その花の香りはとてもよいものであることは不思議なほど、ほとんど知られていません。
冬の間ほとんど変化も見せずに過ぎてきた樹木たち、また野草たちも、時が来たら、このように何かに動かされるように、奥深いいのちのエネルギーから生れるものが見られるのです。
こうした自然の姿を注意深く見るとき、それらすべての背後にある巨大な神のいのちのエネルギーから、その一部を分かたれたものだと気付くのです。


 


○主日礼拝、夕拝などを録音したCD
MP3というファイル形式にしたCDを聞くために

私たちの徳島聖書キリスト集会では、主日礼拝と、夕拝などの内容をCDにして配布をしています。これは、カセットテープという形では、非常にかさばること、頭出しがとても面倒なこと、カビが生えて使えなくなったり、テープが巻きついたりする不具合が生じること、カセットテープそのものが次第に作られなくなりつつあること、カセットテープをダビングする器械そのものが、日本では製造中止となってしまったことなどから、CDに切り替えつつあります。
このCDは、最近の「DVDプレーヤー」、または「MP3プレーヤー」で聞くことができます。DVDといっても、まだ使ったことがない、という方もおられると思うので、簡単な説明をしておきます。
従来のCDよりはるかに多くの内容が入ります。ビデオテープも次第に少なくなり、DVDになりつつあります。
DVDプレーヤーは、いろいろな種類が市販されていますが、価格は、再生だけなら八千円~1万数千円程度で購入できます。自宅のテレビにケーブルでつなぐだけで、DVDが使えるようになります。主日礼拝のような、聖書講話などは、もちろん映像はなく、音声だけです。市販のDVD映画なら、画面に映画が現れます。
去年に市販した、ヨハネ福音書CDは、家庭用のCDラジカセでもつかえるようにと考えて制作しましたが、ヨハネ福音書だけで60枚近くになってしまいます。 しかし、MP3というかたちにすると、4枚程度に収まります。
このような理由のために、今後の聖書のCD、またはDVDのかたちでの配布は、MP3という形になります。

○復活祭(イースター)特別集会
今年の復活祭は、四月十六日(日)です。私たちの徳島聖書キリスト集会では毎年、復活祭特別集会を持っています。いつもの主日礼拝より三十分早く、午前十時開始です。
キリスト教の原点である、キリストの復活を覚えて共に復活を感謝し、復活のいのちを頂くために、二千年間も全世界で続けられてきた祝日であり、別項で書いたように、毎週の日曜日がミニ復活祭と言えるのであり、その意味では世界でおびただしい人々がその祝日の幸いを受けており、その日曜日の起源となったのですから、復活祭は世界最大の影響を及ぼしてきた祝日と言えます。
これは復活祭に特別な祝福が注がれている証しですから、復活祭を重んじることはそのような歴史的な祝福を受け継ぐことにもなります。確かに毎週のミニ復活祭である日曜日の礼拝を他のことよりも重んじ、霊と真実をもって参加する人は必ず祝福を受けてきたと言えるでしょう。
その祝福によって確かにキリスト教は全世界で続いてきたとも言えます。そうして毎週のミニ復活祭を支えてきたのが、キリストの復活で、その復活の季節に重ねて行なわれる復活祭を共に守り、復活の命の祝福を受けたいと願っています。

○映画「ナルニア国物語」が全国で上映中です。この物語の原作者である、C.S.ルイス(Clive Staples Lewis クライブ・ステープルズ・ルイス)について書いておきます。

彼は、一八九八年アイルランドの弁護士の次男として生まれ、オックスフォード大学に進学、後に母校ケンブリッジ大学英文科の中世・ルネサンスの教授(195463)となりました。ここで友人の影響を受けてルイスは全7冊の児童文学シリーズ『ナルニア国物語』(19501956)の第1巻『ライオンと魔女』を書き始めたと言われています。1963年に大学を定年退職後、その年にイギリス中から惜しまれつつ召されました。
ルイスは、大学教授、文学研究家、批評家、詩人、作家、キリスト教神学者といった、本来一人の人が兼ね備えることは困難なさまざまの分野で、業績をあげた人。その著作は、詩集、文学研究書、キリスト教神学書、児童文学書、文学、哲学、倫理学、さらに、「沈黙の惑星より」、「金星への旅」などのSF小説まで、実に多方面にわたっています。
彼は、青年時代からいろいろ精神的に悩み、最初は無神論、そして、世界の根源として神の存在を認めはするが、これを人格的な存在とは考えずない理神論となり、最後にキリストを信じる信仰へと導かれました。 その晩年に書き始めたのが、今回映画化された、「ナルニア国物語」の7作品のシリーズです。

今回の映画は、その第一部にあたる「ライオンと魔女」の部分です。 児童文学の形をとっていますが、若者が好物の食物によって誘惑され堕落すること、そのことからさまざまの困難が生じること、人間の罪をライオンのかたちをした王自身が負うての死、復活、「希望」の力など)キリスト教の真理がちりばめられています。それをふつうのキリスト教の子ども向けの物語とは大きく異なる独特な手法で、想像力ゆたかに描いたものです。
なお、新教出版社からは、C.S.ルイス宗教著作集八巻などが出版されています。
 キリスト教に関わりある映画というのは、ごく少なく、それゆえに、この映画によってキリスト教に関心が生れ、キリストの真理に少しでも目が開かれることにつながればと願われます。