2006年6月 第545号・内容・もくじ
神の国への門
この世には思いがけない事故、病気、あるいは災害、そして職場や家族の人間同士の問題などが生じてくる。それらが生じなかったような人でも、最後に老年という重荷が迫ってくる。そのいずれも状態がひどいときには生きていけないほどになるだろう。
なぜこのような目に会うのかと、やり場のない怒りや悲しみ、あるいは絶望感にひしがれることがある。
どうしてこの世はこれほど不公平なのか、ある人は生涯元気で家族も恵まれているのに、ある人は病気や家族などで重い荷物を負っている、なぜなのか、との疑問、運命への不満、悲しみや怒りなどが生じてくる。
しかし、そのようなどこにも道がないように見える状況にこそ、神の国へのひとすじの道が静かに続いている。かつて元気なときには全く道など見えなかったのに、苦しみの経験をした後に、いつしか自分のすぐそばから、道がはるかな高みへと道がつけられているのに気付く。
この世のどこにも平安の道がない、隠れ場もない、どこへ行っても安住の地はない、という時にも、神はそのような打ちひしがれた魂のすぐそばから、御国への道をつけて下さっているのである。
真理の永遠性
この世は、真理そのものを見つめようとしないで、その周りをぐるぐるまわることを好む。新聞やテレビ、映画、雑誌などの類でキリスト教に関することが取り上げられるときには、ほとんどそうである。キリストの深い言葉の意味、その永遠の命、罪の赦しの深い意味と聖霊の力、そうしたことなどは全くといってよいほど触れられない。
特殊な内容の写本を見付けたとか、ノアの方舟探しのこと、あるいは、聖地巡礼とかローマ教皇のこと、ゴシップ的なフィクションである映画など、真理そのものの力を知らないゆえにそのような真理の周辺、しかもはるか遠くをまわるだけでなく、キリスト教の真理に傷を付けようとするようなことがマスコミでもてはやされる。
そうしたことが真理でない証拠、それはそのようなことを心に信じて、またはそれらの知識を貯えたとき、心が清められるのか、絶望に追い詰められた魂が力を与えられるのか、自分の犯した罪の赦しを与えられて平安を得、新たな力を与えられるのか、などなどを考えればすぐに分かることである。
キリストの十字架による罪の赦しとか復活の真理は、体験されるものであり、しかも魂の最も深いところに働きかけるものである。そうした真理そのものは、決して破壊されることも、傷つけられることもない。
ちょうど、夜空の星がどんなに近代的な武器弾薬をもって破壊しようとも、いっさいそれらからは傷を受けないのと同様である。
真理は真理であるからこそ、いかなる時代の状況や、悪意、あるいはサタン的な力によっても変質させることはできず、真理の度合いが減少したり、傷を受けることもない。
聖書ですでによくたとえられているが、それは不動の岩のごときものなのである。
この動揺して止まることのない現代、そしてインタ-ネットや映画、印刷物などによって間違った情報が乱れ飛ぶ世界にあって、そうした一切によっていかなる傷も受けない真理こそ、ますます必要となるし、そのような確固として存在し続ける真理を求める人もまた起こされるであろう。
真理それ自身がそのような人を生み出すのである。
すべてを知っておられる神 ― 詩編一三九編―
日本人にとって、神という名は、何か遠い存在である。神社に行って自分ととても近いという実感を持った人はどれほどいるだろうか。戦前は、天皇が現人神とされたが、天皇が自分の心のすぐそばにいるように感じる経験を持った人はほとんど聞いたことがない。それも、ヒロヒトという名前すら言ってはいけない、近くに来訪しても最敬礼して、通りすぎるまで顔を上げてはいけないという状況であったから当然であろう。
最近よく問題になっている靖国神社にしても、そこに祭られているおよそ二五〇万人の人間はみんな神々だとされていて、拝む対象であるが、戦争でどんな残虐なことをした人でも一律にみんな神々なのである。
有名な北野天満宮で祭られている神は、菅原道真であるが、もともと、彼は学者であり、政治家であったが、政敵によって太宰府に流された。その頃京都で落雷など異変が続いて生じたため、道真の怨霊の祟りだと恐れ、それを鎮めるため九五九年に作られたのであった。
また、京都の八坂神社は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)他の神々をまつり、伏見稲荷大社は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が主祭神だという。こうした古い時代の人間や神話の神々に心で親近感を感じることも難しいだろう。
一般の神社には、鏡や玉、剣、あるいは石や人間のからだの一部まで御神体としているところがあるという。
だれでも、身近にある神社では何という神々をまつっているのか、ほとんどの人は知らないのではないか。知らないものに対して親近感を抱くことはできないことである。
そのような得体の知れない神々に親近感を感じるという人はごく例外的ではないだろうか。
こうした日本の神社の実体と非常に対照的なのが、聖書にあらわれる神である。
ここでは、今から数千年昔の旧約聖書にあらわれた詩のひとつを学んでみたい。なお、この詩は、旧約聖書の詩編のなかでも特に高く評価されているもののひとつである。
アメリカの有名な聖書注解シリーズのなかで、つぎのように言われている。
…この詩は、詩編のなかでも特に優れた詩のひとつであるだけでなく、その信仰にかかわる洞察と敬虔な熱心は、旧約聖書の偉大な箇所のなかでも顕著なものとなっている。」(*)
また、イギリスの十九世紀の大説教家であった、スパージョンも、この詩は、詩編のなかで最も注目すべき詩のひとつであるとしている。 (**)
(*) This poem is not only one of the chief glories of the Psalter, but in
its religious insight and devotional warmth it is conspicuous among the
great passages of the O.T. (「THE INTERPRETER'S BIBLE Vol.4 712P」)
(**)One of the most notable of the sacred hymns.(「THE TREASURY OF DAVID」Vol.3 258P)
…主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え
あまりにも高くて到達できない。(詩編一三九・1~6)
この詩の作者はまず、神がとても身近に感じられるゆえに、神に向かって一貫して、親しく「あなた」と呼びかけ、私との関わりを述べている。神は宇宙を創造されたほどの無限に大きい存在であり、それは私たちにとって遠くの存在と感じる。しかしこの詩の作者はそのような遠い存在であるはずの神が土くれにすぎないような自分のすべてを見つめておられる。まだ言葉を出さない前からその思いを見抜いておられる、という実感を持っていた。
一般の人間にとって家族は最も身近な存在である。しかしその家族であってもまた特に親しい友人であっても、自分の思いをすべて見抜き、言わない前から自分の思いを知っているなどとどうして思うことができようか。
神の御手などどこにあるのか分からない、そんなものなどない、という気持ちを持つ人が多数を占めると考えられるが、この作者は、その見えざる御手が自分の上に置かれ、取り囲んでいるというのを実感していた。
…どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。…
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。(同・7~12)
ここには、いかなるところに隠れようとも神はすべてを見られているということから、罪を犯してそのことを隠して置こうとしても決してできないこと、裁きから逃れようとしても不可能であることが語られている。たしかに、これほどまでに神が至るところで自分を見つめ、そばにおられることを実感している者にとって、罪を隠すなどは思いもよらないし、それはまさに神への畏怖である。
そしてこの詩の作者は、そのような万物を見抜く神の本質は裁いたり滅ぼすために見つめているのでなく、私たちを正しい道へと導き、救いを与えるためであることを知っていた。神の右の手は、その力によって滅びようとする私たちを捕らえ、引き上げて下さることを実感していたのである。
すべてを見ておられる神を実感するものは、このように、神への信頼と愛とともに、神への畏れをも同時に深く抱くものなのである。
自分がたとえ神から隠れようとして闇に入ったとしてもそこもすべて神は一瞬の光をもって照らしだし、すべての隠れたものを明らかにする。
この神の光の特質は、またこのように罪をも照らしだすとともに、闇にある者への光としても臨むのであって、ここにも厳しさのなかに愛をたたえた神の姿が記されている。
…あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。…
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。(同・13~16)
次にこの詩の作者は、自分の原点に立ち戻る。自分の存在を創造して下さったのは神であり、胎児であるときからすでに見守って下さっていたという実感である。この広い天地のどこに行こうとも神は自分を愛と正義のまなざしをもって見つめ、さらに生れる前から見つめておられたのだと感じるのである。空間的にもまた時間的にも自分という存在を取り囲んで下さっているのが神なのである。
生れない前から、神はその書に自分のことを記して下さっている、つまり、自分を愛をもって神は心に留めて下さっているのを知っていた。それほどまでにこの詩の作者は、神のお心が手にとるように感じられたのである。
現代の多くの人は、どこにも神などいない、という。この詩の作者の心の経験といかに異なることであろうか。
人間は誰でも愛なくば、生きていかれない。誰かから愛されていると感じるからこそ、生きていく気力が生じる。全く愛されていないと本当に感じるとき、表面的には生きていても、内なる人間は死んでいくであろう。それゆえ、本当の愛がどこにあるか分からないときには、無理やりにでも愛のように見えるもの、愛の影にすぎないものをもぎ取ろうとする。それがこの世にいつの時代にも見られる男女間のさまざまの問題である。
…あなたの御計らいは
わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒より多く
その果てを極めたと思っても
わたしはなお、あなたの中にいる。(同・17~18)
この詩の作者にとって、神の考え、神のお心は計り知れないものであった。たしかに歴史の動き、周囲の自然の動き、雲や大空、星、野草や樹木、海や川の一つ一つの姿、それらはみんな神の御計らいであり、神のご意志そのものの表れなのである。
そのような無数の神の御計らいは、私たちにおいても見られるのであって、偶然に見えることもみんな、神の御計らいのうちの出来事なのである。
私たち人間を日々導いて下さっていること、一つ一つの私たちのからだを支えて下さっていること等々すべての周囲の出来事はみな神の御計らいとして、この詩の作者には実感されているのである。
神はいるのかも知れないが、何も自分にしてくれるなどということはない、というのが多くの人の気持ちであろう。しかし、この詩の作者にとっては、自分になして下さっている神のわざを数えていくならそれは限りなくあることを知っていた。
どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。
たくらみをもって御名を唱え
あなたの町々をむなしくしてしまう者。(同・19~20)
作者は、自分と神との間の深い交わりを破壊しようとする力があるのを知っていた。この世の悪の力、それはどんなところにも進入してくる。最も価値ある神との個人的な交わりという霊的なところにも悪の力は忍び込んできて、神が近くにいますという実感を壊そうとしてくる。そして神への疑いを持たせようとする。
それゆえこの作者は、そのような悪の力に対して強い調子で神に訴える。どうか主よ、悪の力を滅ぼして下さい!と。こうした激しい悪への憎しみは、新約の時代に入って、より霊的なものへと高められ、悪人そのものへの憎しみでなく、霊的な悪そのものへの憎しみとなった。それゆえ、悪人に対しては憎しみでなく、その人から悪が除かれるようにとの祈りをもってせよ、それが敵をも愛するという意味なのだ、迫害する者ののために祈れ、と主イエスは言われたのであった。
…神よ、わたしを探り
わたしの心を知ってください。わたしを調べ、私の悩みを知ってください。
見て下さい、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしを
とこしえの道に導いてください。(同・23~24)
最後の段落で作者は、再び祈りをもって神に向かう。いかに深く神との交わりを実感している者といえども、人間はもろく揺さぶられる。どんなに意志を堅固に保とうとしても、悪からの攻撃や誘惑に倒れることがある。
それゆえこの詩の作者は、自分の内に間違った道がひかれていないかどうか、を見て、どうか自分を正して下さいと願うのである。ここには、自分はずっと神の国への道を正しく歩めるのだ、といった自信や誇りはない。前半で述べているように、著しく神の近いこと、神が自分のすべてを取り巻き、ともにいて下さるのを実感しつつ、なおこのようにそこから迷い出ることがあり得ることを自覚していたのである。
それゆえに、永遠の祝福である神の御手の内に置かれていること、そこから絶えず神の国のよきもの、神の平和を与えられることを願い続けるのである。
種まきのたとえ
主イエスは、福音を伝えることを種まきにたとえられた。私たちは何かをいつも蒔いている。
子どものときからすでに、親や周囲の人たち、また学校などにおいて数知れないものが、子どもの心に蒔かれていく。言葉を覚えるということも、言葉が知らず知らずのうちに、子どもの中に蒔かれていった結果である。
三~四歳ともなると、日本語を自由に話すことができるようになる。しかし、英語を中学、高校、大学と八年も学んでも、たいていの人は自由に読み書き話すなどはできない。
これを見ても、いかに子どものときに大量の情報が頭(心も含めて)のなかに蒔かれているかがうかがえる。
私たちは、毎日の生活の中で、絶えず周囲から何らかのものを種蒔かれていると言える。
よい種が蒔かれるとき、例えば、数学や英語、音楽といった学校の教科などでもめざましく進歩することがある。人間の性格や精神的な成長もどんな教師からどのように蒔かれるかが決定的になることもある。
そして私たちもまた、周囲に対して常に何かを蒔き続けているのである。
このように、種まきの比喩的な意味は、我々にとって身近なことであるが、主イエスは、人間にとって最も重要な真理の種まきについてたとえで話された。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 (ルカ福音書八・4~8)
このたとえは、現代の私たちの知っている種まきとは様子が違う。日本では、このように種まきをする人が、道端に種を落としたり、石地や茨の中に落としたりすることはほとんどないだろう。
ていねいに畝を作ってそこに種をまくからである。
しかし、古代のイスラエル地方では、種を畑に手でばらまくという形で蒔いた。それゆえにこのような道端や石地、あるいは草が少々生えているところにも種が落ちるということがあったのであろう。
山道でツツジの美しい花が、崖に咲いていたのを見たことがある。人間の判断ではあのような場所に種を蒔こうとは決して考えないようなところに種が落ちて立派に成長し、花を咲かせていた。
こうしたことは、少し植物を観察していると随所に目にすることである。
人間が蒔いてもなかなか芽生えないものが、思いがけないところにめったにない植物が生じているのである。
野山における種まきは、自然に行われる。すなわち神ご自身が何億年も前から行って来たと言えよう。植物は、たくさんの種をつける。シダ植物のようにおびただしい胞子をつける植物なら、たくさんあちこちに芽が出るかといえばそうでない。無数の胞子が地面に落ちても、そこから芽生えるのはきわめて少数である。そしてそれは、また植物によっても異なる。あるものは、たくさん種が落ちてあちこちにごく普通に増えるのに、別の植物は、ほとんど新たな芽生えがなく、広がらない。驚くほどわずかしか見られないのもある。
落ちて芽生えなかった種はどうなったのだろうか。適切な水分が与えられないなど、落ちた環境が悪かったり、または土がないため、あるいは、乾燥のため、発芽能力を失っていくもの、また細菌などによって腐敗してしまうものなど、実にさまざまの理由があるだろう。
このように自然の世界においても、種の芽生え、成長の仕方は実に千差万別である。
福音の種が蒔かれることについてはすでに引用したように、ある種は、道端に落ちる。別の種は、石地に、他のものは、茨の中に落ちる。それらは、人々に踏みつけられ、あるいは動物が食べてしまい、またあるものは水がないために枯れるのもあり、別のものは、いろいろな雑草が繁っているために芽が出ても成長できないままとなり、枯れていく。
こうした状況は、福音の種という目には見えないものであっても、自然の状況と似たところがある。主イエスは、自然の現象の背後にも、霊的なこと、精神的なことが暗示されているのを深く見抜いておられた。
キリストの福音は、人々に踏みつけられ、悪の力によって倒されていくものもある。あるいは、一度は福音を受け入れて、心に信仰がめばえ、み言葉によって励まされて生きていく人であったのに、家族やいろいろなこの世の問題の悩みのために、神からの励ましを受けることができなくなり、福音から離れていく場合もある。
主イエスがこのように福音の種が育たないような状況を一つ一つ述べているのは、この世の現実を鋭く見抜いているからである。
聖書はいつもこのように、単なる表面的なこと、きれいごとを述べるのでなく、現実の厳しい状況、実際の姿を描いている。
そのような現実があるが、他方、必ず福音の種が落ちて芽生え、成長していく「良き地」がある。しかし、良い地とは、人間が見てこれは良い地だと思うようなものではないことが多い。
それは、主イエスの十二人の弟子たちや後に最大の働きをすることになった使徒パウロについてもいえる。
真理そのものであるキリストの福音にとって、良い土地が、社会的にはほとんど無視されていた漁師たちであるとは、いったい誰が考えただろうか。ペテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレの四人もの漁師がキリストの弟子となった。
特にはじめの三人は、十字架上での死が近づいてきたころに、特に連れられて高い山に上り、キリストが太陽のように輝き、服が真っ白に輝いて神と同じお方であることが示された。このような重要なときにもこの三人が選ばれたのであった。
なぜこのように、ペテロ、ヨハネ、ヤコブたちが特に選ばれたのか、それは分からない。彼らは、良い地であったということになる。しかし、彼らがどうして良い地であるのかは、人間の側からは理由がはっきりとはしないのであって、神の側において、良い地としようとされるなら、どんなに人間が見て悪い地であっても良き地へと変えられるのである。
この主イエスのたとえを表面的に読んで、自分は茨の地、Aさんは石地に落ちたのだとか、Bさんは道端に落ちたのだとか、いろいろと他の人のことを裁いたり、人間の評価をしたりすることに引用されることがある。しかし、本来このたとえの意味するところは、決してそのように人間を分類することではない。
キリスト教が広がっていく過程で数々の苦しみがあり、迫害のひどい状況が生じて命すら奪われることも多かった。新約聖書にも、キリストの十二弟子のうち特に重んじられた一人であったヤコブは、使徒たちが聖霊を豊かに受けて、キリスト教伝道を命がけで始めてあまり経たないときに、ヘロデ王によって剣で殺害されたことが記されている。良い地であったはずのヤコブがこのようにキリスト教のごく初期にすでに殺されたが、ほかの重要視されていたペテロはもっと後まで生きたし、ヨハネはさらに長く生きてキリスト伝道に捧げたと伝えられている。
このように「良き地」に落ちたと思われていた人であっても、その働きの期間には大きな差がある。
しかし、その良き地であったヤコブの殉教によって、それを知らされた人たちはまた新たに信仰に生きる決意を奮い立たされたのであり、そこからさらに別の人たちを良き地となるように導くことにつながっていった。
このように、特定の人間が最初から良き地だというのでなく、さまざまの人間が神によって真理を受けとる器とされるのであって、荒れ地であっても良き地にされていくのである。
いかに迫害の時代であれ、また真理に反した教えが茨が繁るようにはびこるようになっても、そのような良い地はなくなることがない。よい地は神ご自身が創造されるからである。
主イエスは、このたとえの最後に、必ずよい地に落ちる種があると、次のようにのべている。
…ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(マタイ福音書十三・8)
様々の悪がこの世には満ちている。そしていろいろの問題を深く知れば知るほどその解決には途方もない困難が伴っているのが分かる。一人の人間がどんなに訴えてもどうにもならない。しかし、この主イエスの言葉は、決定的な希望のメッセージである。
いかに、悪いところに落ちて次々と種が枯れてしまおうとも、それらを補って余りある収穫がとれる道がある。迫害のただ中であっても、病気や苦しみに悩まされるときであり、なぜこんなことが生じるのかと神への疑いが頭をもたげてくるようなとき、そのような時にまさにそこに良き地が準備されつつあると言えよう。悲しみや苦しみこそは、人間の魂を深く耕す鋤のような役割を果たすからである。
旧約聖書にヨブ記という書物がある。神を信じ、正しい生活を続けていたが、息子たちが罪を犯したかも知れないと思い、彼らの罪の赦しのために、朝早くからいけにえを捧げていたという。そのような人であったのに、突然大きな苦難が降りかかって、財産や家族を失い、妻からも見下され、耐えがたい病気にもなってしまった。
これは、すでに良き地であったヨブがさらによい地となるようにと、神がなさったことであった。
このように、最初から、ある人間が良い地であって、ある人は悪い地、石地であるといったことをこのたとえで言おうとしているのではないのである。
すでに良き地となっている場合には、さらにそれをよくするために神はその人を導かれる。
神がこの世を御支配なさるその方法は、悪がはびこり、悪が支配しているように見えるその中にあって、絶えず新たな良き地を準備され、そこに真理の種が定着し、三十倍、六十倍、百倍となっていく。主イエスがこのたとえで告げようとされた根本のことは、この増え広がるエネルギー、生命力が、どのようなものであるかということである。
そのことは、この種まきのたとえのすぐ後に置かれているからし種のたとえでもうかがえる。
…イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ 十三・31~32)
これは、天の国、すなわち神の御支配の特質は、小さなものを用いて、そこから限りなく増え広がるということである。増え広がる、神のわざのこの特質は、すでに主イエスより千七百年余りも昔のアブラハムの記述にも、次のようにある。
…主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記十二・1~3)
このように、神に呼び出され、神の御手が臨んだアブラハムにおいては、その祝福のしるしとして周囲の様々の困難にも関わらず、「大いなる国民となる」ということが約束されている。神の真理のエネルギーは、じっと同じ状態で留まっているのではなく、それを受けとる人を限りなく増やしていき、また個々の人もその真理によって自分の本質がいわばふくらんでいくのである。何がふくらむのか、それはよい部分である。それまでになかったものが新たに芽生え、そして増大していく。
このことは、さらに別のたとえで言われている。
…彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記十五・5)
実際に、アブラハムの子孫はユダヤ人という民族となり、世界中に広がってこの預言が成就していったのが歴史のなかで示されていった。さらに、アブラハムの信仰の本質はキリストによって完全なものとされ、キリストを救い主と信じる人たちは、全世界に広がっていった。そのことは、霊的なアブラハムの子孫が文字通り、空の星の数が数えられないのと同様に増え広がっていったのを預言したことになっている。
主イエスも先にあげたたとえの他に次のようなたとえをも言われた。
…また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(マタイ十三・33)
このたとえではっきりと分かるように、ここで主イエスが言われた「天の国」とは、いわゆる天国(死者が行く場所)のことを言っているのではない。これは、死んだ後の世界のことでなく、神がこの地上の世界をいかに御支配なさっているか、ということなのである。(「天」とは、神を言い換えた言葉で、「国」とは、新約聖書の原語であるギリシャ語では、「王の支配」という意味。)
これは、すでに述べたように、神がこの地上を御支配されるのは、まず小さなものから始められる。それとともに神はどんな小さなものでも、取るに足らないものでも用いられてそこに神の祝福を置かれる。それによって、目に見えないパン種(酵母菌)によって粉が膨らんでいくように、神の愛と真実による御支配を膨らませていかれる。
キリストは処刑された後、三日後に復活されたが、そのキリストの福音はとくにペテロ、ヨハネ、ヤコブという漁師三人が中心となって伝道が開始されることになったというのは驚くべきことである。古代の漁師たちは、獲った魚を保存する施設もなく、大量に獲れたときには、価格を安くしてでも早く売りさばかねば腐ってしまう。天候などによって魚がまるでとれないこともある。そうしたことから、金が豊かにたまる、というようなことはあり得ず、貧しい暮らしが多かったであろうし、当然社会的な地位も低かった。学問などとは無縁であり、政治や社会的な変革運動とも関わりは生じなかったと考えられる。
こうして最も地味で自然のなかで働く素朴な人たちであったと思われる人々が、世界にその働きや書いたものが伝わっていき、それによって世界の変革につながり、計り知れない影響を及ぼすことになった。
福音書によってキリストの真実の姿が伝えられ、それによって無数の人たちが救いを経験し、さらにいかに生きるべきかも示されていった。そして福音書に示されたキリストの信仰や教え、考え方、実践そうしたものが後の時代の学問、哲学、宗教、音楽や美術、文学、政治、福祉等々あらゆる人間の活動分野へと影響を大きな波のように伝えていった。
これは、まさに、目には見えないパン種が粉全体を膨らませていくという分かりやすいたとえで表されていることなのである。
真理の種まき、それは人間を用いて神ご自身がなされる。小さなもの、取るに足らないものを用いて、大きく膨らませていく。その驚くべきエネルギーをこの種まきのたとえで表しているのである。
キリストを信じて受け入れるときに、その、いのちのエネルギーと言うべきものを受け取ることができる。
その溢れ出る豊かさを、ヨハネ福音書では次のように表している。
…祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・37~38)
On the last day, the great day of the festival, Jesus stood and cried out:
'Let anyone who is thirsty come to me!
Let anyone who believes in me come and drink! As scripture says, "From
his heart shall flow streams of living water."
ここで、祭の最後の重要な日に、イエスが立ち上がり、大声で叫んだ、と特に記されているのは、イエスが与えようとする真理の種をひとたび与えられるなら、いかに大いなるものが与えられるかを強調しているからである。
他のいかなるものにも代えられない命のエネルギーが与えられるということを指し示している。
福音の種が、三十倍、六十倍、そして百倍になる、という主イエスの言葉が示そうとしているその内なるエネルギーは、溢れ出る命の水という言葉で表されているように、限りなく人をうるおし、死んだような状態からよみがえらせるものなのである。
愛国心
教育基本法の改定にあたって、愛国心に関する記述を入れるということが大きい問題となった。
結局、政府案は、「我が国と郷土を愛する態度を養う」と記された。他方、民主党が示した対案は「日本を愛する心を涵養する」という内容となった。
政府だけでなく、野党の一部などがなぜ、このように愛国心にこだわるのであろうか。そしてなぜ、この問題は重要なのか。
それは、すでに卒業式などにおいて「君が代」の強制が行なわれていることからうかがえるように、愛国心を養うことが法律で規定されるなら、一層こうした国家への忠誠が強要されることになると考えられるからである。
実際、一九九九年に成立した国旗・国歌法に関連して、当時の小渕首相が「児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではない」と国会で答弁していたにもかかわらず、現在では、特に東京都などで顕著に見られているが、卒業式での国歌斉唱での起立が事実上強制されているからである。
教育基本法に「愛国心」の記述を入れると、そのための教育が強制される可能性が濃厚となる。
何のために、愛国心教育を強調しようとするのであろうか。
これは、要するに、自民党や政府の命令どおりに従うような人間を養成したいということがその背後にある。
現在、ますます日本はアメリカの軍事的な協力国家への歩みを強めている。
最近も、神奈川県横須賀市の市長が、米海軍横須賀基地への原子力空母の配備を容認する考えを表明したが、それによって、日本は、日本の心臓部である首都圏に危険な原子力空母の母港を持つことになる。これはどこかで戦争状態となったりすると、この空母が支援することになり、日本も事実上、戦争への強力な支援をすることになる。
そして原子力空母に搭載されている原子炉の危険性も同時に抱え込むことになる。もし炉心溶融などの大事故が生じたときには、神奈川県や東京都、千葉県など日本の中枢部に深刻な被害が生じ、百万人以上が被爆して一〇年以内に死ぬ可能性があるという。(「東京新聞」六月一四日の記事による)
こうした危険性にもかかわらずアメリカの言うがままに、危険な空母の配置を受け入れている。
受け入れを認める政府などの説明では、原子炉を搭載しているが、核兵器ではないなどといっているが、長い間、当然のこととして言われてきた、非核三原則、「核兵器は作らず、持たず、持ち込まない」という国是をも事実上踏みにじるようなことである。
こうしたアメリカとの軍事的な一体化は、アメリカが戦争を起こすとそのまま日本にもかかわってくる。そして政府の命令どおりに忠実に従うようにと強制されてくる。政府などが考えている愛国心教育はこうした事態になると、命令どおりに従う人間を作ることになって好都合になるのである。
そのため、表面的には、若者の精神的な堕落は、愛国心教育がなされないからだ、などという理由を持ってくる。
しかし、国を愛するというようなことは、強制してできることなのか、そもそも「愛する」ということは、その対象が何であれ、強制したり、法律で規定してできることだと本当に考えているのだろうか。
例えば、愛国心教育が最も厳しく行なわれた戦前を考えてみる。国が本当によくなるようにと、人々は考えたのか、そうでなく、単に戦争に勝つということへの強い関心にすぎなかったのであり、偽りの情報に踊らされ、政府の言うがままに従っていくような状態へと落ち込んでいった。
日本は隣国に侵略して、上海のような大都市にも大規模攻撃を加えて計り知れない打撃を与えていったが、そうした大量殺人がその本質であった戦争を、聖戦と信じ込み、天皇のために命を投げ出す、などという考えをもって、敵の艦船に体当たりしていく、こうした精神は正しく成長したと言えるであろうか。
そのような大きな間違いを犯すこととなった理由のひとつは、真実を知らされずに、偽りの情報によってあやつられた結果であった。愛国心教育の結果は、世界大戦に積極的に加わり、率先してアジアの侵略をしていったことであった。そして他国の数千万の人たちを殺傷し、自分の国の人たちも三百万人を越える人たちが死ぬことになった。
これが愛国心教育が強力に行なわれたゆえの結果であった。
こうした歴史の事実を振り返ってみても、愛国心教育なるものが、いかに実体のないものであり、それがむしろ戦争を助長していったことがわかる。
ロシアの大作家であって思想家でもあったトルストイ(*)した、愛国心の本性を鋭く見抜いて次のように述べている。
… 愛国心とは、その最も簡単明瞭で疑いのない意味では、支配者にとっては、権力欲からくる貪欲な目的を達成する道具にほかならない。
また、支配されている国民にとっては、人間の尊厳や理性、良心を捨ててしまうことであり、権力者への奴隷的服従にほかならない。
愛国心とは、奴隷根性である。…(「キリスト教と愛国心」トルストイ全集第十五巻 428頁 河出書房新社刊)
(*)トルストイ(一八二八年~一九一〇年)ロシアの作家、思想家。十九世紀を代表する作家のひとり。代表作は、「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」、「復活」など。晩年にはキリスト教の福音書の教えをもとにした民話集をたくさん書いた。また、キリストの非暴力、無抵抗の精神を受け継ぐ平和主義者としても知られ、インドの指導者ガンジーの非暴力の精神はトルストイに深く影響されたものであった。そしてそのガンジーの思想が、さらにアメリカの黒人牧師であったマルチン・ルーサー・キングに受け継がれていったことをみても、トルストイの影響は、単なる作家としてでなく、政治や社会的にきわめて大きい影響を与えることになったのがわかる。
こうしたトルストイの批判は、戦前の日本の状況を考えるとよくあてはまる。愛国心を鼓舞して要するに、自分たちの命令どおりに従う国民となるように教育などを用いて造り替えていき、戦争という目的に都合のよいように駆りだすために用いたのであった。
そして国民もまた、愛国ということのために、大事な息子も犠牲にし、働くことも戦時体制となり、戦争の助けをするための労働となり、言論の自由も奪われ、奴隷的な状態へとおとしめられていったのであった。
本当の愛国心
そもそも愛国とはどういうことなのか、国を愛する心というが、国とは何を指しているのか、愛するとはどういうことを意味するのか、そうした基本的なことが明確にされずに、各人がそれぞれにイメージを持って、それをもとにして議論していることが多い。
国とは、そこに住む人間、その人々を統治する組織、その人たちが住む国土などの全体を言う。国を愛するとは、そこに住む人間を愛し、その政府をも愛し、さらに国土をも愛するということになる。
それでは、「愛する」とはどういう意味のことを指しているのか。この場合も、実に曖昧である。
例えば、サッカーの国際競技で日本の旗を持って、応援したり、「君が代」をうたっていると、それで愛国心がある、などと言われる。しかし、そんなものが「愛」であるはずがない。単に自分の国が勝った方が何となく優越感を抱ける、ということにすぎない。
それは、日常生活のなかでも、人より金を多く持っていたり、大きい家、車を持ったり、自分の息子や娘が有名大学や大会社に入ったりすると、周囲に対して優越感を抱くことになるのと同様な感情にすぎない。
自分の国のチームが勝つと、何となく自分が偉くなったように感じる、だから応援を必死になってする。
もしも、弱い者への配慮を持つなら、勝利などたちまち消えてしまう。相手が弱いチームだ、それは気の毒だから、手抜きをして負けてあげよう、などと考えていたらたちまちスポーツの世界では、負けてばかりになり、排除されてしまうだろう。
相手に勝ったら喜ぶ、それは、子ども同士のけんかや、ゲーム、遊びも同様である。そこには、弱者への愛などというものは生れようがない。スポーツは本質的に強者のものだからである。
このような子どもの時から存在する心情が大人になっても続いていく。戦争という事態の背後にも、強者でありたい、という個々の人間の強い欲求がある。戦争となると、国民全体が自分の運命も関わってくるので、自国の勝利を目指し、相手を徹底的に打ち負かすことだけに必死になる。
国を愛するとは、どういうことか、 国(国家)とは、すでに述べたように、領土・人民・主権がその概念の三要素とされているが、第一に重要なのはそこに住む人間である。人間がいなかったら、それは自然の世界にすぎない。人間がいるからこそ、その人々を治める人たち、組織が必要となる。そうした組織が根本でなく、人間が元なのである。だから国を愛するというとき、そこに住む人間を愛するということが、出発点になければならない。そして人間を愛するとは、単にサッカーなどが他国に勝った、などというものではあり得ない。
ボールを小さな枠の中に蹴り込む、それがうまくできたからといって一体どうして日本の人間を愛する心につながり得ようか。それは本来子どものボール遊びの拡大したものにすぎない。
日本はこんなに強いのだ、という感情をくすぐり、自分もその強い一員だ、という一種の優越感を抱くことにすぎない。 しかし、本当の愛とは弱い者、苦しむ者、さらに敵対するものがよくなるように、と願う心であり、そうした優越感とは何の関係もない。むしろ、自分は偉いのだと思って喜ぶ心情は、本当の愛とは対立する感情なのである。
サッカーの応援を必死になってする、そこに愛国心が現れている、などというのは、このように国とはなにか、愛とは何かを深く考えないからである。
本当の愛国とは、そこに住む人を愛すること、言い換えると、そこに住む人間がよくなるようにと心を注ぐことである。偽の愛国心、実体のない愛国心とは、政府のいうがままになることであり、スポーツその他自国のことで優越感を抱くことである。
戦前のように、政府が強制的に天皇のために死ね、といわれれば、そのように行い、この戦争は聖戦だと言われれば、そのままそうです、といって従う、そうした政府への忠誠が愛国心とみなされている。
しかし、これがさらにすすめば、単に政府、権力者への奴隷的心情になる。健康な若者が、飛行機ごと、アメリカの艦船に体当たりして死んでいく、こんなことが全く無意味であることが分からなくなり、それがあたかも愛国心の極致であるかのように錯覚させられた、それは奴隷的と言えるほどに、政府の言うがままになっていった結果である。
愛国心といいながら、愛とは最も反対である、奴隷的な服従を強制させられている状態を、愛国心があるなどということになってしまう。
「君が代」の斉唱を強制する、これも政府の愛国心教育の一環なのである。しかし、「天皇の支配している時代が永遠に続くように」、といった意味の歌を強制させてそれで、日本の人々への愛が増大すると本気で考えているのだろうか。単に教育に関わる人たちは、上からの命令を聞いておかねば、自分の地位に関わるという自分中心の考えからなされていることが多いのではないか。そのようなことを強制している、教育委員会の人たちが、「君が代」をうたってどれほど日本の人たちへの愛を強めたりしているのか、と問いたい。
それならば、本当の愛国心とは何か。これは、愛とは何か、ということをはっきりさせておくことが不可欠である。愛とは、相手が本当によくなることを願い、祈る心である。単にひいきしたり、優越感などではない。
聖書における愛国心
この点で、聖書に現れる真の愛国者を見ればその違いがはっきりとわかる。
旧約聖書における真の愛国心をもった人を幾人かあげると必ず含まれるのは、エレミヤである。彼は、自分の国の人たちを愛し、彼らの生き方が間違っているゆえに迫っている大きな苦難、滅びようとしているのをはっきりと神から知らされ、命がけで人々への警告を発し続ける。その罪の根本は、正義と真実なる神を仰がず、別の神々を敬うということにある、と知った。それゆえ、そのままでは、人々は多数が死に、国も滅びるということが分かっていた。それゆえこの国の人々が救われるためには、正しい道に立ち返ることが不可欠だと、命がけで神の言葉を宣べ伝えたのである。
…主はこう言われる。
お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。…
この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。(エレミヤ書七・3~6より)
…わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。
「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。
わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」(同七・22~23)
これらの言葉は、当時の人たちが、真実な神の示す道を歩もうとせず、弱者を圧迫し、不正なことを重ね、そのようなことをしながら、他方では、神殿での儀式や捧げ物などの目に見える宗教的なことには力を入れている、そのような偽善的な宗教は何の役にも立たない。神からの語りかけに耳を傾け、正しい道に立ち返ることこそ、国が滅びないための道だと、人々に説いた。
エレミヤの目には、自分の国の人々が間違った道へと進み続けているその実体がありありと見え、その末路もはっきりと示されていた。それゆえに、彼は深い悲しみを持っていた。
娘なるわが民の破滅のゆえに
わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。…
わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ書八・21~23より)
… あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその高ぶり傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。(エレミヤ書十三・17)
エレミヤはこのように、真実な神に立ち返らないゆえに、間近に迫っている滅びとバビロンへの捕囚ということをまざまざと神から啓示されたのである。そして痛みと悲しみをもってこれらの言葉を語り続けた。
見せかけの愛国心というのは、自分中心であり、自分を誇り、自分の益を求める。しかし、真の愛国心とは、このように、祖国の人々への愛であり、真理の道に立ち返るようにという強い願いを持っているのであって、他者中心、神中心なのである。
このように深く国を愛する預言活動の結果、エレミヤは、人々から憎まれ、殺されそうになる危険の中に生きていかねばならなかった。
祖国は、攻撃してきた新バビロニア帝国に滅ぼされたが、その国へと連れていかれること、つまり「捕囚」となる道こそは唯一の生き延びる道であり、神の御手がそこに及び、時至れば救いのときがくる、ということを述べ続けた。それは神からの真理の言葉であり、人々の方向を指し示す言葉であった。
しかし、人々はそのような真理を宣べ伝えたエレミヤを憎み、捕らえ、殺そうとまで謀った。そして最後はエジプトへと連れて行かれたという。
このように、身の危険をも顧みず、ただ人々が正しい道(神の言葉)に立ち返ること、それによってもたらされる国の平和と救いをのみ願い続け、生涯をそれに捧げたのであった。
このような、預言書の心を受け継いだのが、主イエスであった。主は、ご自身が最も深い、真の意味での「愛国心」の持ち主であった。
…エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。
それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ福音書七・40~44)
… だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
こうして…地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。
だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(マタイ福音書二三・34~38より)
主イエスは、エレミヤがそうであったように、神からの啓示によって国が滅びようとしているのをはっきりと知っていたのであった。ここに引用した言葉は、イエスがいかに深く人々の現状を悲しみ、その前途を深く憂えているかを映し出している。ここに一人一人の救いと神による平和を願い続ける主イエスの真の「愛国の心」がある。
事実、イエスが十字架で処刑されて四〇年ほど後、紀元七〇年に、ローマの将軍ティトスがエルサレムに攻め込み、人々の精神的な中心であった神殿も焼かれ、無数の人たちは殺され、民は世界に散らされ、祖国なき民となった。
主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」、「人を愛すること」だと言われた。神とは、万能であって天地の創造主、しかも善き正しきこと、真実なこと、美しいものの究極的な存在である。善き存在であるゆえに、小さく弱い者への愛を本質として持っておられるお方であり、罪深い者をも赦し、導いて下さる。
そうした神であるからこそ、その神を第一に重んじ、心を向けることが万人にとって最重要なことになる。そしてその愛の神から受けた賜物を他者へと分かとうとする心が、人への愛である。
こうした神への愛、人への愛こそが、愛国心の根元になけれぱならない。そのような心こそが、いつの時代にも、またどのような状況に置かれた国や人々にとっても最善のものとなる。
ことば
(236)雑用
東京神学大学の学生たちが、卒業しようとするときに、よく言います。雑用を軽んじる伝道者になるな、と。うっかりするとそういう人が出てくるのです。
私は少しも説教させてもらえない。雑用ばかりさせられると。
私は教会に雑用などないと言います。皆、神様の役に立ち、主イエスの役にたち、人々の役に立つものに雑用というものはない。 その雑用といわれるもの、一つ一つを大切にしない人に、説教はできはしないと教えるのてす。(加藤常昭説教全集第十四巻 248頁(*))
(*)加藤 常昭は、一九二九生れ。東京大学文学部哲学科や東京神学大学で学び、後に東京神学大学教授。一九九七年まで、日本キリスト教団鎌倉雪の下教会牧師。
・このことは、主イエスが、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ福音書十六・10)と言われたことである。神は、種まきのたとえにあるように、ごく小さなことを用いられる。大きなことは、この小さきことにいかに忠実に真実な心をもってなすか、ということによって任されるようになる。神の国のためには、小さなことはというのはなく、どれも大きなことなのである。また、逆に、次の主イエスの言葉にあるように、人の目に大きなことのように見えることは、神の目には小さなことになる。
…イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ福音書十六・15)
(237)「真実にして最大の喜びは、被造物から受けるのではなく、造物主から授けられるものである。あなたが一旦この喜びを所有すれば、だれからも奪われることはない。これに比べると、どんなこの世の快楽や喜びも苦痛であり、苦いものであり、どんな栄華もつまらないものとなる。」(クレルヴォーの聖ベルナルドの言葉)
「神がある人に神みずからを愛するという恵みを与えたならば、その人は十分な幸いを授けられたのである。」
この聖ボナヴェントゥラの言葉は、宗教もしくは神学と呼ばれるものの最も簡潔な要約である。この領域での最もすぐれた学識も、要するにこれ以上のもの、あるいはこれ以外のものを含まない。これ以外にふくんでいるすべては、真の幸いにいたるために必要なものではない。
神への愛だけが、われわれを徹底的にエゴイズムから解放することができ、またすべての本当の自己改善の始まりである。この神への愛がとりわけ強くならないかぎり、人間愛、人道、倫理などといっても、そのうしろになんらの力も持たない空しい言葉にすぎない。(「眠られぬ夜のために上・
六月十三日より」)
・ヒルティは、本当の幸いに関する真理を、ベルナルドやボナヴェントゥラという中世の有名なキリスト者の言葉を引用して述べている。人間の究極的な幸いは、人間や目に見える物などからでなく、神から与えられるということは、聖書が一貫して述べていることであり、また約束でもある。心に何も誇ったり頼るものを持たず、幼な子のような心をもてまっすぐに神に向かう心、そこにこそ、神の国が与えられると主イエスは言われたが、このヒルティの文はそのことを言い換えたものである。
休憩室
○六月になると野山は緑一色になります。野草や樹木などの花は少なくなりますが、そうしたなかで、ガクウツギの仲間や、ネズミモチ、クチナシなどの白い花が目立つ時でもあります。
特に野生のクチナシの花は、周囲の緑のただなかに純白の花びらと黄色のめしべが目立つ花です。とくに咲き始めた頃の花びらは、その真っ白の花びらがとりわけ印象的で、その花の他には変えがたい香りとともに六月の野生の花としては多くの人に愛されているものです。
姿とその色彩、そして香り、さらにその実もすぐれた染料として古代から用いられ、薬用にもされてきたという植物です。このクチナシは、植物が人間に向けて、さらにその心に向けても創造されたということを感じさせてくれる植物です。
編集だより
来信より
・…私の手術のことで皆様方のお祈りをありがとうございます。一か月あまりの入院で退院できましたが、現在は近くの外科病院で手当てを受けています。もう大分よくなりました。「祈りの川」誌に出して頂き、多くの兄姉のお祈りを受けておったのかと感謝しております。
○○さんが遠路突然拙宅へお見舞いに来られまして大変驚きました。「祈りの川」誌で知ったとのことでした。全知の神様のお恵みです。数知れない兄姉たちのお祈りが私たちを取り囲んでおるのだと思い、改めて、怠惰に流れんとする愚か者ですが、信徒の方々のお祈りに参加して、いよいよ精進せよとの主の命令と拝受いたします。このたびの病のことを通して、主の道をまた、実体験させられました。…
(四国の方、健康なときには分かりにくいけれど、苦しいとき、病のときに祈りの中で自分のことを覚えていてくれる人たちがいる、ということは大きな支えになるものです。「祈の友」の祈りが今後とも一層強められ、主が聞いて下さる真実な祈りが捧げられますようにと願います。)
・四国集会のことはずっと○○から聞いていましたが、想像以上に暖かく感動で胸がいっぱいになりました。…徳島集会と関東地域で行なわれる集会の違いや無教会の歴史なども教えてもらい、とても内容の濃い集会参加でした。
みなさんの証しを聞いて、生きて働かれる神の姿を見ることができましたし、私自身の信仰の持ち方にも大きな変化がありました。 神様はありのままの私を愛し、すべての必要を満たして下さっている…ことを感じることができたのです。
松山での四国集会を準備して下さった方々に深く感謝します。
何よりも、すべてが神様の御計画されたことだ、という感動が今も私を包んでいます。
集会に参加しなかったら知ることのなかった人々、松山までの風景、すべて必要だったんだと神様に感謝です。これからの日々も、どこかで松山での四国集会で出会った人々が生きていると思いだせる喜びがあります。…
(初めて四国集会に参加された方ですが、短い期間の参加であっても、主が働かれるときには、心に何か忘れがたいものが残されるのを思います。ふだんの集会とはまた異なるかたちで、主のわざがなされるのを思います。)
お知らせ
○メールアドレスを変更しましたので、お知らせします。
pistis7ty@ybb.ne.jp(旧アドレス)→pistis7tywol@ybb.ne.jp(新アドレス)以前からのアドレスに、wol を加えています。これは、water of life(いのちの水)の頭文字を取ったものです。
○七月の県外集会の予定
吉村 孝雄の七月の県外の集会参加について。去年とほぼ同じ所ですが、今回初めてのところもあります。これらのいずれの集会においても、聖書講話を担当することになっています。これらの集会は、み言葉をもとにしつつ、感話、讃美、祈りなどによる交流が内容となっています。
七月十三日(木)~十六日(日)北海道久遠郡せたな町 第33回 瀬棚聖書集会(連絡先 野中 信成氏)
七月十七日(月)午前十時より、札幌市北二条クラブにて(連絡先 大宮司 信氏)
七月十八日(火)昼前から午後にかけて 仙台。(連絡先は、市川 寛治氏 )
夜は、山形にて。(連絡先 黄木 定氏)
十九日(水)八王子市(連絡先 永井 信子氏)。夜は、山梨県南アルプス市。(連絡先 加茂 悦爾氏)
○新しいホームページ
大阪府高槻市の那須 容平兄(大学生)によって、新しいホームページ「無教会キリスト集会」が作られています。近畿地区集会のこととか、徳島聖書キリスト集会の「いのちの水」が印刷されて郵送されているかたちで読めること、主日礼拝などの聖書講話が、そのままの形で聞けるようになっています。まだ、始めたばかりですが、従来の徳島聖書キリスト集会のホームページとともにそれぞれに特徴があり、用いられ方も違ってくると思いますが、共に神の言葉である聖書の真理が伝えられ、救いを与えられることに用いられますようにと願っています。
アドレスは、次のとおりです。
http://www.geocities.jp/ekklesiajapan/
○礼拝CD
徳島聖書キリスト集会の主日礼拝、夕拝などの全体の内容(聖書講話、讃美、感話、祈り)などを含んだMP3のファイル形式で録音したCDを希望者に配布、郵送しています。一カ月分(主日礼拝と、夕拝がいずれも四~五回ずつなので、八~十回分の集会の内容が、CD一枚に収まっています。従来のカセットテープでは、一回九十分一本で、八~十本を要したものですから、とても扱いが簡便になりました。)集会の内外からの希望がありますが、随時新規の希望を受け付けていますので、希望の方は「いのちの水」の末尾の吉村宛に申込をしてください。一カ月分の記録を収めたCDは、送料共で一カ月五百円です。