巻頭聖句

願いと祈りと感謝をすべての人々のために捧げなさい。…
神は全ての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。


(テモテ二章より)



200710 560号・内容・もくじ

リストボタン消えることなき道

リストボタン水をくみ取る

リストボタン雲からも風からも 

 リストボタン詩(俳句)の世界から

 リストボタン真理とは何か

 リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタンお知らせと報告

リストボタン編集だより

リストボタン天からの光を受けて 

リストボタン願いと祈りと感謝をすべての人々のために捧げなさい。   …神は全ての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。(テモテ二章より)



リストボタン消えることなき道


前の内閣には、重要な立場にいた人が二人、途中でその道を歩き続けることができなくなった人が生じた。一人は自殺し、一人は突然国家の代表をする首相という職を投げ出した。
首相の突然の辞任は、誰一人予想もしていなかったことであり、人間のもろさ、弱さを露呈したことであった。
国会において、所信表明演説を行った直後に辞任するということは、いかなる人も考えたことがなかっただろう。
しかし、これは前首相個人の問題であるとともに、人間そのものがいかに弱いものであるかをあらためて示すものとなった。しかもそのような人を多数の日本人が支持したことから、日本人の精神構造のもろさをも象徴的に示すことになった。
どんなに経験があり、また金や権力があってもなお、人間にはそうしたものとは全く別のものがなければ進んで行けない。
彼らにおいては、自分がそれまで歩いてきた道が突然陥没し、歩けなくなったのである。
しかし、彼らだけを非難することができるだろうか。多数の日本人にとって、自分が歩いていく道は、そのうち陥没してしまうのである。死というすべてを壊すものが前途にあるからである。
どんなことがあっても、決して壊れて不通になることなく、どこまでも続いていく道、しかも病気や孤独の苦しみの道でその道の終点となるのでなく、輝かしい永遠の国へと続いていく道、そのような道こそ、私たちが本当に望むものである。
そしてその深い願いに応えて下さるのが、「私は道である」といわれた主イエスである。もう歩けなくなった、と思われるときでも、私たちを支え、また道がなくなったと思われるところには新たな橋をかけて下さるお方なのである。

 


リストボタン水をくみ取る

乾いた大地にも、草が生えている。雨がずっとなくて、からからに乾いていて、どこに水分があるのかと思われるような土からもわずかの水分を取り入れて生きている。植物の吸水力は驚くべきものである。植物の根の先端部分には、直径が0.01ミリメートル前後のきわめて細い根毛があり、それが固い土の中に入り込んでいき、地中の水が吸い取られるのである。
根は、ときには石垣の中に入って石垣を壊し、あるいは岩の中にも入り込んで岩をも破壊するような強力な力を持っている。
土にしみ込んでいるわずかの水、それはもちろん人間が見ても肉眼ではとうてい見えないごく微量の水であるが、それをも植物はみずからの中に取り込んでいく。根毛はきわめて細くて植物を引き抜けばみんな取れてしまうほどでしかない。しかし、それが、だれも見ていない土の奥深くにて、植物を支える大きな働きがなされているのである。
神が人間に与える精神的、霊的な力というのも、これと似た面を持っている。弱々しいものでありながら、堅い権力や組織の中に入り込んで、それを破壊するほどの力をもっている。そしてどこにもうるおいのない恐ろしい迫害のなか、また敵対する厳しい状況のなかでも、霊的養分を吸収して成長していく。
こうしたすがたはとくにローマ帝国の迫害のときや、日本のキリシタン時代にも見られるし、世界でキリスト教が広がっていく過程で至るところで生じたことであった。
しかし、そのような過去の特別な状況だけでなく、現在の私たちにおいてもこのことは成り立っている。小さな弱いものでありながら、神の力を受けるときには、無理解と冷遇のなか、あるいは困難な病気のなかにあってもなお、神の国のいのちの水をくみ取っていく人たちは数知れずいる。
キリスト者とはその程度はいろいろあっても、本質的にそのような人たちだと言える。渇ききったこの世にあって、霊的な根毛のようなものを延ばし、日々神からのいのちの水をくみ取っていくのである。

 


リストボタン雲からも風からも

私たちが家の外に出るなら、ほとんどの人にとって雲は見えるし、風に当たることもできる。それほどにどこにいても身近なものである。大空一面に雲は広がり、風はわずかのすきまをも吹き抜けていく。
このきわめて日常的な何でもないものから深いインスピレーション(霊感)を得、あるいは言葉にならない真理を暗示され、また力を得てきた人たちは昔から多く見られる。

わが雲に関心し

わが雲に関心し
風に関心あるは
たゞに観念の故のみにはあらず
そは新なる人への力 
はてしなき力の源なればなり(「日本の詩歌18 宮沢 賢治 346頁」1968年 中央公論社)

雲や風に科学的な関心を持つこと、これは子どものときから見られる。雲はどうしてあんな色をしているのか、なぜ消えたり増えたりするのか、形はなぜいろいろあるのか等々。風はどこから吹いて来るのか。目には見えないのになぜ大木をなぎ倒すような力をもっているのか等々。
しかし、宮沢 賢治が言っているのは、そうしたことよりも、私たちに力を与えるもの、力の源であるからだ。
人に力を与えるもの、それは知識だ、友情ある他人の励ましとか支えだ、人生経験だという人が恐らく多数を占めているだろう。
このように「雲がはてしなき力の源だ」と言うような人はごく稀だ。彼は他の詩においても雲から受けるものについて書いている。

新たな詩人よ
雲から光から
風から
新たなエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ(同270頁「春と修羅第四集」より)

このように、雲や風、光といったいつも戸外に出れば、自然に接するごく普通のものからも新たなエネルギーを得ることができ、そのエネルギーをもって、あるべき姿を指し示すというのである。
宮沢 賢治は、キリスト者ではなかったが、同時代の内村鑑三の熱心な信仰上の弟子、斉藤宗次郎に強い影響を受けたのが分かっている。そして有名な「雨ニモ負ケズ」の詩は、その斉藤宗次郎がモデルであった。また、「銀河鉄道の夜」において、その頃生じたタイタニック号の沈没という事件が現れる。そしてそこに讃美歌三二〇番の「主よみもとに」が現れ、賢治の心にも流れ込んできたのがうかがえる。このように、キリスト教の世界は彼の魂にも波のように強く打ち寄せていたと言えよう。
聖書の世界では、その冒頭から風は現れる。闇と混沌のなかで動いていたのは、風であった。この風という原語(ヘブル語)は、霊という意味をももっているから、聖書は最初から風の重要性を明確に告げていると言えよう。
暗黒と混沌のただ中であっても、神の風(霊)は働くことができる。光あれとの神の言葉によって生じた光とともに創造にかかわったのである。
私自身を振り返っても、まだ光を知らず、どのように考えて生きていけばよいのか全く分からずに混沌としていたのであるが、そこにもすでに神の風は吹いていたのである。そしてその後実際に神の光が暗闇の心に射してきたのであった。
次に聖書で雲が印象的な場で現れるのは、出エジプト記においてである。神の人モーセによって導かれたイスラエルの民にとって、雲は重要なものとなった。

…主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エ 十三・21

神は、荒野といっても砂漠のようなところを導いたが、そこで不思議なものが現れる。それがここにあげた、雲の柱と火の柱である。雲とはふつうは柱状になることはない。せいぜい積乱雲のようにむくむくと上に立ち上る程度である。雲の中、火の中にあたかも人のようなものがいて、立って導くかのように、雲の柱、火の柱と言われている。
たしかに、この場合には雲とはその中に神がおられて、人々を導いて行かれたということなのである。
またモーセが旧約聖書だけでなく新約聖書においても変ることなく真理である、十戒を与えられたとき、神は次のようにさまざまの「雲」を表す言葉と関連付けられている。

・見よ、私は濃い雲の中にあってあなたに臨む。…(出エジプト記十九・9
(雲という意味の語を二種類用いている。それを濃い雲と訳す)
・三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。(出エジプト記十九・16
(ここでは、「重々しい(栄光の)雲」という表現になっている。)
・モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。(同二〇・21
(密雲と訳された語は、暗い、全くの闇という意味の語である。)

このように見てくれば分かるように、雲、とくに厚い雲は神がそこにおられるという実感をもって受け止めていたのがうかがえる。
これが、キリストがこの世の終りに再び来られるという再臨のときに、「雲に乗って来られる」(マルコ1326)と記されていることにもつながっている。
神が雲のうちにおられるということから、雲の中からも人々に語られる。それは次のような箇所に見られる。

…主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。(詩編九九・7

このように、雲は聖書においては神がそこにおられるという特別な意味がこもっていた。
現代においても、雲は刻々と変わり色や形のその無限の変化、青く広がる大空に浮かぶ真っ白い雲、それらは、私たちに神の国の一つの表現のように感じられることがある。
それゆえにこそ、そこから新たな力をくみ取ることができる。
風、どこにでもある自然現象である。 しかし、聖書においては、風にはすでに述べたようにその最初から深い意味が暗示されていた。
そしてキリストの時代になって、聖なる風というのが前面に現れることになった。それは聖なる霊(聖霊)である。
ギリシャ語でも、風と霊とは同じ言葉(プネウマ pneuma)なのであって、この言葉が使われているところでは、この二つの意味が重ね合わされ、溶け合わさって用いられていると考えられる。
ヨハネによる福音書によれば、キリストの弟子たちは、主が十字架につけられたのちには意気消沈して部屋にこもっていた。復活を知ってもなお、立ち上がる気力は出てこなかった。
そのような弟子たちを奮い立たせ、福音を宣べ伝えるためにいかなる困難をも超えて歩み始めるようにしたのは、聖なる霊(風)が彼らの祈りのときに注がれたからである。そしてそれから二千年という長い歳月を経てもこの神の国からの風は止まることがない。今も絶えず吹き続けているのである。
私たちも、戸外に出れば風に当たることができるように、祈りによって今も吹き続けている神の風を受けることができる。

 


リストボタン天からの光を受けて
神曲・煉獄篇 第五歌より

ダンテの神曲は、地獄、煉獄、天国の三つをダンテが導かれていく状況が描かれている。地獄編は興味本位で読まれることもあり、話題になったりすることも多く、挿絵も地獄編が最も多く書かれている。
煉獄編になると、多くの人にとって関心を持てなくなる。それは煉獄という言葉自体がなじめないものだからである。そしてそれは現代の私たちと何の関係があるのかと思われるだろう。煉獄という言葉は、聖書になく、プロテスタントでも話題にほとんどならないからである。
しかし、ダンテの神曲の煉獄篇には、過去のことでなく、現代の私たちにかかわるメッセージが深く折り込まれている。ここでは、煉獄篇の第五歌の内容からそれを見てみたい。

ミセレーレ(憐れみたまえ!)
煉獄とは南半球にある、海にそびえる山と想定されている。
その煉獄の門に入る前のところで、死の直前になってようやく悔い改めた人たちがいる。その人たちは「ミセレーレ」という言葉を唱えつつ歩んでいた。ミセレーレ
*とは、「憐れんで下さい!」という意味である。大きな苦しみに置かれた人が祈る最も簡潔にして、深い思いをこめることができるのがこの言葉である。

*)「憐れんで下さい!」ミセレーレ(miserere)とは、ラテン語の 「憐れむ」という意味の動詞 misereor の二人称単数の命令形。神に向かって発するこの祈り、願いは、例えば詩編五一・3のラテン語訳では、「憐れんで下さい、私を、神よ」miserere mei Deus(ミセレーレ メイ デウス ) のように現れる。
なお、この言葉から派生したのが、フランス語の miserable (悲惨な、みじめな、貧しい)であり、ユーゴーの大作 レ・ミゼラブル「Les miserable」とは、「みじめな、悲惨な人々」という意味。 Les は複数の名詞につく定冠詞。


この言葉が、煉獄の門へ入り、罪が清められることを願いつつ歩んでいた人々の祈りであったが、これは旧約聖書にすでに詩編で多く現れる。詩編とは単なる自然への感動とか身の回りの出来事に感じたことを書いたものでなく、もうどうにもならないような追い詰められた状況、悪や病気によって苦しめられ、ただ叫ぶほかないような中で書かれたものが多い。それゆえに、この「主よ、憐れんで下さい!」というのは多く現れる。

神よ、わたしを憐れんで下さい
御慈しみをもって。深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。 (詩編五一.3

この「憐れみたまえ!」という切実な祈り、神への訴えは、新約聖書にもそのまま流れている。
…イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。(マタイ九・27

昔の盲人の生活は悲惨なものであった。歩くにも他人の手を借りねばならないこと、仕事も何もできない、家でじっとしているだけということのため、乞食となってせめてもの食物やお金を通行人からもらうというぎりぎりの生活をしていることも多かった。日本でも、生まれつきの盲人は家に閉じ込められているということも多かった。そのような文字通りの闇の中から救いを求める叫びが、この「憐れんで下さい!」という祈り、叫びである。それゆえに、この言葉はいろいろなところでも用いられるようになり、キリスト教音楽の重要な分野であるミサ曲においても、この言葉が現れる。病、敵からの迫害、死の恐れ、罪のゆえの神の裁き…それらからの救いを求めてどの場合でも祈ることができるのが、この「憐れんで下さい!」という祈りなのである。 旧約聖書の詩編から流れ出して、新約聖書の闇にある人たちの心をとおり、さらに無数の以後のキリスト者たちの心を流れていったが、このダンテの煉獄篇にも流れ込み罪からの清めを求める人たちの祈りとなっているのである。 そして現在にあってもこの祈りが世界の至るところでなされているであろう。

止まることなく
ダンテがこの煉獄の山を歩んでいるとき、たくさんの人たちが、自分たちのことを彼らの親しい人たちに祈ってもらうためにダンテのところに駆け寄ってきた。そのとき、彼を導く詩人は、言った。
「歩みは止めるな。行きつつ耳を傾けよ」と。
人間のいろいろな問題にかかわって、相談相手になり、また彼らの苦しみや悩みを親身になって聞くことは、それらの人達を重んじて、愛をもって接しようとするときには必ず必要である。しかし、しばしばそうした人間の生々しい問題に深入りすることによってその泥沼の中に自分も入り込んでしまい、人間の苦しさや絶望的状況の中に引っ張り込まれることがある。そして自分も動揺し、あるいは清い心を失ってしまう。人間関係の問題のなかで、当事者にかかわることによって知らなかった他者の驚くような問題を知らされ、それがひっかかって前進できなくなることもある。
重い病人や罪を犯した人との関わりの中に埋まってしまうとき、相手をするのが精一杯で、相手の人間に高きを見つめるように指し示すこともできなくなることもある。
ここで、「歩みは止めるな、行きつつ聞け!」と言われているのは、そうした現代に生きる私たちへの言葉でもある。前進しつつ、神を見つめつつ人にもかかわるということである。
この世は私たちの前進を止めようとする力に満ちあふれている。快楽や欲望、あるいは自分中心の心、あるいは他人の悪意や闇、そうしたものの力は強力で、うっかりしていたら前進どころか後退してしまうであろう。
すでにこの第五歌のはじめの部分にも、ダンテの後ろからいろいろとうわさをしたりする人々のことがとくに取り上げられている。そのため、ダンテも心が動揺しがちになる。そうしたときに、ダンテを導く詩人は、こう言った。
「お前は、どうしてそんなに遅いのか。彼らの話していることがお前と何の関わりがあるか。この人々の言うがままに任せよ。風ふきつのることがあろうともその頂きを決して揺るがさない堅固な塔のように立て!」
ここにも、絶えず前進をのみ念頭におく姿勢がみられる。他人がどのように批判し、陰で悪いことを言おうともそれに心を向けずにただ前方を、神の国を見つめて歩むべきなのである。
自分中心の考えはつねに停滞的であり、後退的である。
前進とは何だろうか。私たちの目的地は神の国である。神の国とは、正義と愛、真実、平和といったものであるから、もし私たちが他人や自分自身の罪ゆえに、正しいことに反することに誘惑されたり、他人を憎みあるいは敵視し、快楽に負けたり、心に真実な思いをもって日々を過ごせなかったりするなら、それは停滞であり後退である。
それゆえ前進しているとは、こうした心とは逆に絶えず心が神の愛や真実といったものに向けられている状態を意味する。たとえ寝たきりであっても、このような心を主に結びついてもっているならば、その人は絶えず前進していると言える。

天からの光を受けて
私たちはいずれ地上の命を終える。そのとき、どのような心でこの世を去っていくかはきわめて重要なことである。
マラソンでは、ずっとトップクラスを走っていても、最後に弱ってしまい抜かれてしまうこともある。人生も同様で、いくら若いときにはよく生きたとしても、晩年になって真実に生きることを捨てて大きな間違いをして悔い改めもしないで死んでいくなら、神の祝福は受けられないであろう。
逆にいかに重い罪を犯しても、死のまぎわに神に心を向けて罪の赦しを受けるならば、神のもとへ行くことができるということは、聖書にも記されている。
ダンテの神曲・煉獄篇 第五歌においてもこのことが印象的な書き方で記されている。
ここでは、一人の男がダンテに自分の死に至るまでのことを語る。

どうか私がこの重い罪を清めることができるように、
私のために祈りをささげてくれるよう、取り計らってくれないか。
私は、そこが一番安全だと思っていた道をたどって、
ミラノ市の長官として赴任しようとしていたが、
権力をもったある人々―理由のない恨みをいだいていた人々によって襲撃された。
もし、別の方角に逃げていたら助かったかもしれないが、
沼の方に走って必死で逃げた。
しかし、そこで葦にからまり、泥に足を取られて倒れた。
そこに私の体から血が流れ出て、
地面に血の海ができるのを見た。(煉獄篇・第五歌)

このような、個人的な憎しみによって殺されたが、この人はそれでもなお、最後の息を引き取る前に、悔い改めて救いへと入れられたのであった。
次に現れた男が次のように語った。

…喉を刺された私は、歩いて逃げて行った。
あたりの野を血に染めながら。
そのとき悔い改めの涙を流して死んでいった。
悪魔が起こしたかと思われるような雨風によって
付近の川は流れを増して彼のからだをも流していった。
私の冷えきったからだは峡谷の出口までながされていき、
さらに下流へと押し流していった。
私が自分の腕で組んだ十字架をもその流れは引き離した。
流れは、岸に沿い、また川底に沿って私の体を転がしていった。
そしてついに私の体は川砂によって覆われ呑み込まれていった。

このように、ただ一人深手を負って激しい痛みと孤独のなかを、逃げていくとき、その魂に光が差し込んだのであった。戦争という人間の悪意や攻撃のただなかで、また雨風の激しい中、川の大きな流れに呑み込まれていくという全くだれからも看取られず、祈りも受けないような状況の中でこの世から消えていったのである。
しかし、それでもなおそこにも神の光は差し込んで最後のときに悔い改めをなすことができたのであった。
これら二人の死は、個人的な憎しみによる攻撃や戦争による偶発的なものであった。その死には特別な儀式をも何もすることもできず、その長い生涯において神への信仰をももってこなかった。そして落ち着いた雰囲気のなかで神に祈ることも、聖書を開いて静まることもできないような非業の死であった。しかし、そのようなところにも、天の国からの光は差し込むのである。

三人目の人は、女性であった。この記述は短い。
…ああ、現世に帰られて
この長い旅の疲れをお休めになりましたら
思いだして下さいませ、ピーアです。
シェーナで生れました私を、マレンマが滅ぼしたのです。
その理由は、私に指輪を送って
私と結婚した男が知っているのです。

この女性の前に現れた二人の男の死に至る状況は詳しく記されていた。それに対して、この女性に関しては、わずかに原文で六行である。
ピーアという名の女性は、シェーナで生れ、マレンマという場所で死んだ。この短い記述からでは何のことか分からない。しかし、この女性の悲劇的な最期は、当時広く知られていたようである。夫は、有力な権力者で城主であったが、妻とは別の女性と結婚するために一二九五年に妻を殺害したという。
このときダンテは三〇歳ほどの年齢であって、この女性は地位も高い人の妻であったこともあり、同時代のダンテも周囲の人たちと同様に強い関心をもったのがうかがえる。
しかし、ふつうなら単なる悲劇的事件で終わってしまう出来事のなかに、ダンテは人間の真実と神の真実の深い消息を示されたのであった。
それまでは神のこと、信仰のことも心にとめずに生きてきた一人の女性が、突然にして襲ってきた死のときに悔い改め、神に引き寄せられたのであった。ここにも、いかなる不幸に見える状況であっても悔い改めて神の光を受けることができるのだという真理が込められている。
どんなに遅くとも、死のまえに神への方向転換をなすものを神はずっと待ち続けておられ、ここに神の真実がある。
この女性は、ダンテに自分の切なる願いをただちに言うこともなく、まずダンテが長い旅から帰って疲れを休めたのちに、思いだして下さい、と願っている。こうした奥ゆかしさを心にたたえている。しかも、自分を殺した夫とか周囲の者への恨みとか激しい感情を出すことなく、ただ事実を淡々と述べているだけである。
ここであげられた三人が死んだ理由は、いずれも病気でも高齢でもなかった。外部からおそいかかってくる力によって死に至った。
最初の人は個人的な敵意、憎しみが襲いかかり、逃げていくときに沼に入り込み葦にからまれ、そのまま血を流して死んでいったし、二番目の人は戦争という多数の人間同士の敵意のうずまく中での死であり、さらに川に流され川岸や川底にぶつけられながら砂に埋もれていった。いずれもこの世の闇の力を象徴している。
聖書の最初にある記述は、さまざまの場面を象徴しているが、この第五歌に記されている状況はまさに、深い闇と混沌の世界である。憎しみ、うらみ、敵意、策略、大量殺人等々、それは方向の見えない混乱状態である。
しかし、そこに天の光が射し込み、悔い改めへと魂は導かれることができる。

この第五歌で罪を浄められている人々がダンテに言った次の言葉はこれら三人の魂の状況を示すものとなっている。

…私たちはみな非業の最期をとげた。
臨終の際まで罪人だった。
だが、そのとき天の光に目覚め、
それで罪を悔いつつ敵を赦しつつ
神との平和を与えられてこの世を去った。
神は神を見たいという望みを呼び覚まして下さるのだ。 (煉獄篇 第五歌5257行)


Then light from Heaven gave us understanding,
so that, repenting and forgiving,
we came forth from life at peace with our God,
who with desire to see Him pierces our heart.
J.D.SinclairDANTE The Divine Comedy OXFORD U.P.

この世には私たちが神のもとに行こうとする気持ちをさまざまの手段で弱めようとし、なくしてしまおうとする力が働く。それは、自分の内なる欲望であるし、また周囲の同様な誘惑や働きかけ、慣習などでもある。また、ここにあげられた個人的な憎しみや敵対関係、さらには大規模な戦争のような個人の気持ちを踏みにじっていく出来事、そしてそれらと対照的にごく身近なところ家庭という秘められた場においてもやはりそうした力が働くことがある。
さらにダンテがここでも暗示しているように、当時の宗教の教義などが、救いのためには一定の儀式が必要だとするような形式重視の考えもまた神に向かう心を妨げようとする。
このようなさまざまの力が押し寄せる波のように働いて私たちの悔い改め、神への方向転換を妨げようとしてくる。
しかし、そのようなあらゆる闇の力や混沌とした出来事も、ひとたびそこに神の光が射し込むときには、それらすべての妨げを越えて人は神に向かう。こうしたダンテの記述は、悔い改めへと向かわしめる神の強力な力を指し示しているのである。これは、聖書の最初に記されている、闇と混乱のただなかに光を投じることで、その闇と混沌を退ける神の力の宣言に通じるものなのである。
そして人生の最期において光を受けて悔い改め、神のもとへと招かれた例として、ルカによる福音書では、イエスとともに十字架につけられた二人の重い罪人のことが記されている。そのうち一人は最期までイエスを、神の子であるなら十字架から降りて自分を救え、と罵ったが、もう一人は、「自分たちは自分のやったことの報いを受けているが、イエスは何の罪もない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思いだして下さい。」と言った。
この罪人は、先ほどのピーアという女性のように、息を引き取るまぎわになって「私を思いだして下さい」という控えめな願いをイエスに向かって差し出した。そこには自分の犯した罪を深く知っていたがゆえに、自分の特別な願望を具体的に言って求めるのでなく、ただ「思い出して下さい!」という願うのみであった。
この罪人は、イエスというお方は殺されても滅びることはない、必ずよみがえって神のもとに帰るのだということを確信していたのである。弟子たちですら、なかなかイエスが十字架で殺されてしまうことや、復活などを信じることができなかったのと比べると驚くべき洞察である。
これこそ、天からの光を受けたということである。主イエスは、死してから復活して御国に帰ってから思い出すのでなく、このように願った罪人にただちに答えられた。「あなたは今日、私とともに楽園にいる」と。
この罪人もダンテが描いた人物と同様に、周囲の人々の敵意や死のまぎわの言葉を絶する苦しみ、誰一人自分のことを愛してくれる人もおらず、ただ見せ物として多くの人たちの前で釘で打ちつけられて絶命しようとしている、それはたしかに、激流が押し寄せ、泥にまみれ、葦にからみつかれ、そして流れに押し流されて翻弄されていく一つの魂であったが、そこに悔い改めを起こさせる天来の光は、そうしたあらゆる悔い改めを妨げようとする力を粉砕し、神へと立ち上がらせることができたのである。
肉体は痛めつけられ滅ぼされていくが、その魂は天の光によってしっかりと神の御前に立ち上がることが赦されたのである。
いかに闇や混乱がひどくとも、そこにも神の光は射し込むことができる。この聖書の冒頭から言われていることは、どんなにひどい状態に陥っている人間をも見放すことはないという神の愛である。
この世には昔から現在に至るまで至るところにそうした闇があるが、この神の愛を実際に受けた実感を持つ者は、決して望みを失うことはないであろう。信仰と、希望と愛は永遠に続くと言われているとおりである。

 


リストボタン詩(俳句)の世界から

真清水に己が心をうつしみぬ (植木道子)
(「神を讃う」新教出版社)
この俳句の作者は東京の「ベテスダ奉仕女母の家」というところで奉仕されている人で、その奉仕のなかで病気となり入退院を繰り返していたころに俳句と出会った。「俳句は、精神の自浄作用である」が持論だとのこと、祈りをもって周囲のものごとを見つめ、それを俳句という短い言葉に凝縮することで、心の清めをも受けているのがうかがえる。 清い水、そこに自分の姿も映るが心も映る。また水からその清さが心へと伝わってくる、心と水の通い合うものがここにある。

心澄むどこまで深き秋の空

青く澄んだ空に神の深い心を感じ、それが自らにも流れてきて清めを受けているのが感じられる。自分の心が混乱していれば秋の空の深みも分からない。心清く保つことで深い秋の空が自分に迫り、その背後の神のお心が伝わってくる。

 


リストボタン真理とは何か

誰でもが意識しているかどうかにかかわらず、魂の奥深いところで求めているのものがある。それが真理ということである。誰でも、たとえ嘘をよくつく人であっても、自分に嘘が言われることは嫌う。真実なもの、本当のものを誰もが求めているということの現れである。
高校時代の初めころ、岩波文庫の最後の頁に書いてある言葉を不思議な思いをもって読んだのを思いだす。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し…」
真理そのものが生きたもののように、真理それ自身が人間に求められることを欲している…一体どういうことだろうと、この言葉は私の若き日の心のどこかに留まり続けていた。 しかし、芽を出すことなく埋まって行った。その意味が実感できるようになったのは、大分後になってからであった。
真理とは、ある辞書には「その物事に関して、例外無くあてはまり、それ以外には考えられないとされる知識・判断。」とあり、広辞苑には「判断と実在との一致」あるいは、「本当のこと」とある。
真理とは、本当のこと、などと言ってもそのような説明の仕方は単に言い換えただけで、何も私たちに役に立たない。
例えば、今いる部屋のボールペンの重さは何グラム、長さは何センチ、机のサイズはいくら、高さはいくら、などということは、測定したらすぐに分かる。それは、「本当のこと」ではあり、「事実」ではあっても、真理とは言わない。窓の外に見える木の葉を一枚一枚の重さや長さを計ったらいくらでも「事実」は出てくる。しかし、そのようなことをもって、私は真理を知っているなどという人は誰もいない。
事実ではあっても真理ではないのである。
このような個々の事実は、無数にある。しかしそのような雑多な事実は何の役にも立たないから誰もそんなことを聴こうともしないし、調べようともしない。
このように、真理というものは、単に「本当のこと」ではない。真理を求めるといい、大学は真理の探求の場である、などと言うのは、真理とはそのようにどこにでも転がっている事実でないからである。そんな事実なら大学とか探求など関係なく、無数にあるからである。真理というとき、それは人間にとって、価値のあるものである。
一般的に、真理とは科学的な真理を連想することが多い。例えば、水は一気圧のもとでは、零度で氷になる、百度で沸騰するとか、太陽の光によって緑色植物はブドウ糖を作っている、炭素が燃える(酸素と化合する)と二酸化炭素になる等々、日常生活の中で生じていることの背後にそうした科学的な真理がある。また、数学においても、2×3=6といったことが真理であることは誰でも納得している。
しかし、聖書にはこうした科学的真理については触れていない。聖書にいう真理は、人間の本質である心、魂といったものにかかわる内容を持っているからである。
これは、聖書の巻頭から明確にされている。
世界の最初は闇と混沌であった。そこに神が「光あれ!」と言われたとき、そこに光があった。
この闇と混沌、そしてそこに投げかけられた光こそ、真理とはどういうものかを深く示すものとなっている。 闇と混沌とは人間の心、魂の状態である。そこに光が注がれてその闇が消えていくということ、真理とはそのような働きをするものなのである。
ここに地球のことを言っているようにみえながら、実は単に地球の科学的な形成を言っているのでなく、人間の精神にかかわることが隠されているのである。
真理とは、闇に輝く光であり、それは人間の心や人間社会に存在する悪、憎しみや怒り、欲望や妬み等々の闇と混沌に勝利するものなのである。
こうした観点からみれば、例えば科学的真理というものがそれらには関わりがないのが分かる。いくら科学的真理を知っていても、それは悪に打ち勝つ力とはなりがたい。どんなに物理学を知っていても、また数学の微積分の計算やその意味を理解していても、そうした科学的、数学的真理は、嘘を言わないようにさせる力を持っていないし、人を殺してはいけないという命令とは何も関係を持っていない。
それは、そのような科学的真理を何一つ知らない場合でも、人を殺してはいけないことを人間は知っているし、またそれを行わないようにブレーキをかけることも知っているからである。
今から百数十年前なら、日本人は科学的教育など全くといってよいほど受けていなかった。現在は、小学校から中学、高校、大学と比較にならないほどたくさんの時間をかけて教育を受けているが、だからといって、日本人が昔より、愛が深まったとか、心が真実になったとか憎しみをもたなくなった、などということは到底言えないことを見ても分かる。
もし、そうした科学的真理が愛や真実を増大させるのなら、昔の人よりはるかに現代の日本人は愛や真実が深くなっているだろう。
創世記に書いてある有名な話がある。アダムとエバがエデンという所に作られた園で、食べるのに美味で、見ても美しい各種の果樹の木々を神が用意して下さっていた。そして神は二人に命じた。「どの木からでも自由に食べてよいが、園の中央にある木の実だけは食べてはならない。その実を食べたら必ず死ぬからだ。」
このようにして、アダムとエバは、自分たちは何一つ働かなくても、神が一方的にすべてを用意して下さっているエデンの園にあって、心ゆくまで日々をゆたかに過ごして行けるはずであった。
その食べてはいけない木は、「善悪を知る木」
*と訳されているが、原語では、単に道徳的な善悪だけを意味しているのでなく、いろいろな物事を(神抜きにして)知るというニュアンスになる。

*)「善」と訳された原語は、トーブであり、これは幸い、よい、好ましい、健康等々数十種に訳されている。「悪」と訳された原語の「ラァ」も同様で、不幸、病気、災い、等々多くの意味を持つのでそのように多様な訳があてられている。

たしかに、いろいろなことを知るということは、とくにこの二百年ほどというものは目を見張るほどに発達してきた。化学上での大発見であった電池(バッテリー)が、千八百年にボルタによって希硫酸に銅と亜鉛を浸すという方法で発明されてから、今日に至るまで、電池は限りなく発達しつつある。
現在は、電池はかつて考えられたような明かりのためとか、簡単な器具を動かすためといった用途だけでなく、以前には予想もしなかったような数々の領域できわめて重要なものとなっている。パソコンや携帯電話といった身近なもの一つとってもそのことがうかがえる。全世界に急激な普及を続けている携帯電話も次々と改良されていく電池がその発展を支えてきたのであって、優秀な電池がなかったら今日のような発展はなかったのである。
また、世界の経済や個人の生活を支える自動車も、いくらガソリンがあっても電池がなかったらエンジンの点火ができないから動き出せないのである。個人の生活の便利を与えるだけでなく、自動車によってあらゆる産業は支えられている。鉄道がないところからのさまざまの資源や肥料、農作物などの運搬、そしてそれらから作られた衣食住にわたる製品は、ほとんどすべてそれらの運搬は自動車、電車あるいは航空機であるが、それらはいずれも電気の力がなくては動かないのである。航空機は一見電池と関係ないようであるが、それも動き出すためには、補助動力装置というエンジンがまず、バッテリーによって起動する必要がある。それによってメインエンジンが起動できるようになっている。
このように著しい発展を遂げている器械であるが、それらの発達の急激なことはだれも予測できなかったところである。
また、そのような電気の力によってさまざまの実験機器も発達し、原子核の分裂を用いて核爆弾を造るまでに至った。これはまさに、神抜きに知るということをどこまでも押し進めると、一発で何十万、何百万人もの人の命が奪われる状況になるということであった。
このような大規模の殺人でなくとも、ビデオとか映像、インターネット、印刷物、携帯電話などで、悪しきものを取り込むならそうしたものによって人はますます純真な心とか、真実さを失っていく。そうでなくとも、無限に増え続けていくこうした情報とか知識を追い求めていくときには魂に平安は失われ、心の奥深いところには漠然とした闇や空白が漂う定まらない精神となっていくであろう。 それこそ死に至る道である。
現代の世界的な問題は、環境問題、とくに地球温暖化問題が大きく取り上げられている。これはたしかに重要な問題であるが、こうした目に見える現象だけでなく、さらに奥深い問題がある。
それは、霊的な環境汚染ということである。あまりに闇の世界、悪の息を吹き込まれたような情報が世界にはんらんし、子どもたちにも襲いかかり、その純真な心を汚し、また迷っている人たちをさらに泥沼に引き込むような情報が洪水のように押し寄せている。
それらによってどれほどか霊的な環境が汚染されていることだろう。
こうしたすべては、創世記にある、神と無関係に知識を得ていくなら、それは死に至る、ということを思わせるのである。
知識の実だけを食べていくと、死んでしまう、という神の言葉は、恐ろしいほどの深い洞察を持っていたのである。
そして、その知識の実のかたわらに植えられていた、命の木の実こそは、はるか後になって、主イエスが現れ、十字架に死して人間の罪を赦し、清めて下さり、ご自身が復活して求める者には誰にでも、永遠の命を与えられることになる、ということを預言的に指し示すものとなっている。
旧約聖書においては、千五百頁にもなる大冊であるのに、「真理」という訳語は意外なほど少ない。わずかに十回ほどである。聖書は真理の書であるはずなのに、どうしてこんなに少ないのだろうか、聖書は真理について書いてないのだろうか、と考える人もいるかも知れない。
しかし、そうでない。聖書においては、人間のあり方に関する真理が全巻にわたって記されている。真理というより、「真実、まこと」 という内容を持っている。これに相当する原語(ヘブル語)は、エメス とか、エムーナーという語がある。エメスは、旧約聖書では一二七回ほど使われているし、エムーナーは、四九回ほど使われている。これらは、いずれも、アーマンというヘブル語から由来している。アーマンという語は、固くする、堅固にするといった意味を持っている。それゆえ、エメスとかエムーナーも堅固のもの、揺るがないものといった意味が元にある。神こそは最も揺るがない存在であり、その本質である愛や真実というものは変ることがないことをこれらの言葉は意味している。
エメスという語は、口語訳聖書では、「真実、真理、誠実、まこと、忠実、忠信、確か」など、さまざまに訳されている。これらは、みな「変ることがない」という共通した意味を持っている。
またエムーナーという語も、「真実、まこと、信仰、忠実、忠信、固く立つ」などと訳されており、エメスとほぼよく似た意味を持っている。
これらの言葉は、神の本質を表す言葉として、しばしば用いられている。
すでに述べたように、真理と真実、これらはよく似ているが、前者の典型的な例である科学的真理と聖書に記されている真実とは、大きな違いがある。現在も科学的真理は、日夜探求されており、日々新たな真理が世界の至る所で見出されている。そしてその真理が、技術に用いられていくからコンピュータとか携帯電話など誰でもがよく知っているものから、あらゆる器械や技術の革新となって、世界中で絶えずより進んだ機能が増え続けていくのである。
この点はほかの学問的真理でも同様に多くの人たちの研究によって絶えずより普遍性のある真理、今まで知られていなかった真理が見出されているであろう。聖書に関する分野でも、この点ではより進んだ聖書の内容の研究や、預言者たちの活動の背景、ヘブル語と周辺の原語との関連性、正典以外の書物の研究等々、絶えず研究は進んでいくだろう。
しかし、「真実」はどうか。右のような数々の科学的真理やほかの学問的真理がどんなに進んでも、人間の真実という点では何等押し進めることができないのは明らかである。
旧約聖書での真理すなわち真実とかまことと訳される、エメスという言葉が初めて現れるのは、次の箇所である。

「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。(創世記二四・26

これは、アブラハムの僕が遠くの一族のいるところに出向いてアブラハムの息子の嫁を探しに行ったとき、不思議な導きによって適切な女性にめぐり合うことができた。そのときの感謝の祈りである。
アブラハムは、旧約聖書から新約聖書に一貫している神への信仰の大きな流れの源流にある人物であり、彼がそのような大いなる人物として後世に絶大な影響を与えたのは、彼がもともと偉大であったのでなく、ここにあるように、神の「慈しみとまこと(真実)」が常にアブラハムを離れることなく与えられていたからであった。
また、旧約聖書で特に重要なもう一人の人物ヤコブについても、彼が長い間自分を殺そうとした兄エサウを逃れて遠い伯父のもとに行った。そこで働き、妻をも与えられ、二〇年を過ぎてようやく故郷に帰ることになった。しかし、その帰途、かつて自分を殺そうとした兄が会いに来るというので、ヤコブは、自分を攻撃してくるのではないかと恐れた。兄と会うその前夜、ヤコブが必死に祈ったのは次のようなことであった。

… わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。
どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。…(創世記三二・13

ヤコブがこのように真剣に祈ったことはかつてなかった。彼としては場合によっては殺されるかも知れないという恐れのただなかにあったが、その中からこのように神にすがったのである。そのときにヤコブが深く実感していたのが、神の「慈しみとまこと(真実)」であった。 ヤコブは兄を欺き、今までの生活も必ずしも正しいことばかりでなかったことを知っていたがそれでもなお、神は慈しみと真実を尽くして下さったという実感があった。
このようにして聖書の最初の書である創世記から、神の本質としての慈しみと真実ということが記されているが、それがさらに明確に書かれているのが、主自らがモーセと共にあって宣言された次の言葉である。

…主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記三四・67より)

旧約聖書のなかで、神の御性質が初めてはっきりと記されているのは、この箇所である。ここでは、神は、まず、憐れみ深く恵みに富むことが言われ、慈しみと真実に満ちていること、それは一言で言えば愛ということになる。日本語では、慈しみとは「愛する、大切にする」といった意味であるが、旧約聖書で「慈しみ」と訳されている原語(ヘブル語)は、ヘセドという言葉で、このヘブル語は、口語訳では慈しみという訳語以外にも、「愛、憐れみ、真実、忠誠」などと訳されている。
「慈しみとまことに満ち、…」という箇所は、外国語訳では次のようにいろいろに訳されている。

rich in faithful love and constancy,NJB 新エルサレム聖書)
この訳は、「真実な愛と、不変性に満ちている」ということで、慈しみもまことも、いずれも、真実で変わらないということが強調されている。

abounding in steadfast love and faithfulness,
NRS 新改訂標準訳)
これも、「堅固な愛(変ることなき愛)と、真実に満ちている」と訳している。

plein de fidelite et de loyauteTOB フランス語 エキュメニカル訳聖書)
さらにこの現代フランス語訳で用いられている、 fidelite とは、英語のfidelity と同語源の言葉で、「忠実、 誠実」という意味であり、loyaute も 英語の loyalty という語と同語源で、英語のように「忠誠、誠実, 正直」といった意味を持っている。すなわち、この仏語訳では、慈しみと真実という神の本質をいずれも、真実、忠実といった意味で訳しているのである。
こうしたことからもうかがえるように、この重要な言葉は、日本語の「慈しみ」という言葉がやさしさを連想させるのに対して、ヘブル語ではそのようなやさしさと共に、不変性、永続性が中心にあり、意味がより深く広いと言えよう。
この訳によれば、神は、一度約束したことは決して変えることがなく、どこまでも忠実に真実に守って下さるというお方である。 この不変性、永遠性こそは、神の重要な特質なのである。
しかもこの不変性は、人間には決してないもので、私たちが神に心惹かれるところもそこにある。
変ることがないのは真理であり、真実である。人間の愛でなく、神の愛は変ることがないゆえに、そのような真理そのものである。
使徒パウロの言葉は、愛こそはそのような真理であることを示すものである。

…いつまでも変わらないのは、信仰、希望、愛、この三つである。そのうち最も大いなるものは愛である。(Ⅰコリント十三・13

これらにはすべて、真実ということが内にある。「信じる」という言葉自体、ヘブル語では、アーマンという、「堅固にする」という意味の言葉からきているし、このアーマンから、「真実」と訳される エメスや、アーメン(真実に)という語が派生している。
また、ギリシャ語でも、信仰という言葉は、ピスティスであるが、これは、「真実な」という意味のピストスの名詞形である。何かの教義を単に信じているというのでなく、もともと、信じるとか信仰という言葉自体が、「真実」という意味を持っているのである。神を信じるということは、神に対して真実な気持ちを持つということなのである。
また、希望ということも、いつまでも変わらない希望は、神が変わらずに真実なお方であるからこそ、変ることなき希望を持つことができる。
さらに愛ということも、人間同士の気まぐれな好きという感情はすぐに変る。ちょっとした一言でも嫌いになったりする。人間同士の愛はかんたんに変質する感情といった側面がある。
しかし、いつまでも変わらない愛とは神の愛で、それは心を変えることがないという真実が背後にある。
このように、信仰、希望、愛というキリスト教で永遠のものとされていることの奥には、常に真実があるのが分かる。
人間はどんなに真実であろうとしていても、その洞察が及ばないこと、狭い範囲しか分からないこと、愛をもたないことなどのために、つい不信実な態度を他者に示してしまうことは誰にでもある。使徒ペテロは、主イエスの究極的な状況は捨てられ、あざけられ十字架で処刑されることだ、と言われたとき、そんなことが決してあってはいけないと、こともあろうに師であるイエスに対して叱るということをしてしまった。
主イエスに対しての真実を、と願っていてもどうしても人間的感情が出てしまうのである。ここに不信実がある。自分中心に考えること、それは本能的にそうなる。自分の命を守りたい、自分が苦しいことを避けて楽をしたい、といったことは苦しむことの延長上に病気や死ということがあるから当然それらを避けようとする。しかし、それは自分中心ということで、さまざまの悪の共通の根にもなっている。
乳児は、まず生きることができるように、まず自分を第一にして母親が眠っているから泣かないでいようなどと考えずに真夜中でも大声で泣く。そのようにしなくては生きていけないからである。 このように自分中心という傾向は生れたときから刻み込まれている。 成長してもこの魂に刻まれた本質は変ることがないから、何をするにしても自分中心に考えていく。自分に利益があるから、嘘を言ってでも得ようとする、自分がおもしろいからする、自分がしたいからする、自分が嫌いだから排除する、自分が損するからしない…。さまざまの犯罪も同様で、こうした自分中心が行き着くところまで行くと他者の物を盗んだり、相手の命すら奪うということまで生じる。 決して人を殺さないと思われるような人でも、一度戦争になると、敵国の人間の命を奪うことは当然となってしまう。戦争とは自分中心が肥大化したものである。 このように自分中心という本性こそが、不真実の根であり、さまざまの悪の根となり、人間の苦しみや悩み、悲しみの根源にある。 そのような状況から脱することは、ふつうにはできないと誰でも感じるだろう。その根源的な問題の解決のため、人間に真理(真実)を与えるためにこそ、神は人を呼びだしてその道を伝えたのであり、それが文書となったのが聖書である。
さらに、聖書は読めない人が多い。そこで神はどんなに文字が読めず、文書も持てないような人であっても、真理が分かる道を拓かれた。それが聖なる霊をこの世に送るということであった。
主イエスは、「真理はあなた方を自由にする」と言われた。 科学的真理は、例えばヒガンバナは触るだけでもいけない、などといった言い伝えが誤りであることを示すことによって、そのような禁止から自由になる、といった側面があるから、何らかの自由を与えることに役だつことがある。
しかし、昔にくらべると比較にならないほど科学的真理は理科教育で人々に教えられているが、だからといって現在の人々がより自由を感じるということにはなっていない。科学技術の産物も同様である。車ができて自由にどこにでも行ける時代であるが、そうなると交通事故の恐れから道路を自由に歩くこともできなくなり、また空気は汚れ、騒音から自由になることもできず、それらに縛られた生活が広がっていくことになった。印刷物も自由に読めるようになった。しかしそのために人間を堕落させるようなビデオや印刷物も急激に増大し、それらによって心が縛られて人間のこしらえた狭い仮想の世界に閉じ込められるということも生じている。
このように、目に見える自由は、必ず別のところでの不自由を生んでいくのである。
こうした点から、いかなる状況のもとでも自由をもたらすものとして、思いもよらない道が与えられた。それがキリストであった。人間を縛っているのは、自分中心という本能と結びついた強力なものであり、それを罪といっている。その罪を除くのがキリストであり、それによって初めてほかのどんな手段によっても与えられなかった魂の深い自由が与えられる道が開かれた。
主イエスが、「私は道であり、真理であり、命である」と言われたのは、そのような真理と自由の関係を指している。
真理とは単に頭で考えて本当かどうか、というようなものをはるかに越えて、それは命を与えるものなのである。科学的真理は、それが高度のものであるほど、一般の人にはまったく分からないものになる。命を与えるなどとは逆に人々を追い返すものとなる。例えば、量子力学などの物理学が分子や原子の運動に関する真理を明らかにしたといっても、それを一般の人に示しても全く理解できない。そうした真理は受け付けることもできないのである。
主イエスは、真理とはキリストである。そしてその真理はまた道であり、命でもあるという、誰も予想したことのないような表現であった。このようなことは普通の判断では理解できない。イエスが十字架刑にかけられる前の裁判で、ローマ総督ピラトが、「真理とは何か」と問うた。 これは、人間全体が、つねに真理とは何なのか、という根源的な問いかけを持っていることを指し示している。永遠に変わらないもの、人間を支えるもの、しかも誰にでも受けることができるもの、そのような真理こそが人間の魂が一番奥深いところで求めているものだからである。
キリストが真理である、といえば、そこからさまざまのことが導き出される。
キリストはまず人間の気分や感情でなく、人間を恐れず、いかなるときにも、まず神の国と神の義を求められた。そしてまず強い人、美しい人、あるいはやさしい人に近づくのでなく、弱い人、苦しむ人、みんなから捨てられたような人々のところへと行かれた。そして正しいことをしているのに、神を冒とくするものという最大の罪を着せられた。それでも、ただ黙してその重荷を担い、万人の罪を担って死なれた。 そして死に打ち勝って復活された。
このような具体的な生き方によって、歴史の中に具体的に記され、人々の魂に刻み込まれ、そのまま伝えられてきた。単に、神といっても、民族によってさまざまの神のイメージがあり、殺人を認める宗教すらあることから神ということだけでは、おぼろげな印象しか与えないことが多い。しかし、主イエスはそうでない。すでに述べたように、だれもが分かる明確な行動と教えをなされたからである。それによって人間は真理とは何かを知らされたのである。
主イエスの生きて歩まれた姿を見れば、神は愛であることがはっきり分かる。敵対する者、弱い人たち、滅びようとする人間に近づかれるような愛の方である。主イエスは生れる前から神とともに存在しておられたのであり、次のように万物の創造にかかわっていると聖書は記している。
…万物は言(キリスト)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
*(ヨハネ一・3

これは分かりにくい表現であるが、万物はキリストによって生じたという驚くべき内容を持っている。多くの人はキリストは偉大な人間あるいは、教師、さらにキリスト者においては、罪からの救い主、愛のお方といった意味をもっていると受け止められているが、万物の創造者でもあるというのは、あまり受け取られてはいないようである。

*)言(ロゴス)とは、人間の姿をしてこの世に生れる以前のキリストを指す。ギリシャ語のロゴスは、「言葉」という意味の他に、理性、とくに宇宙を支配する理性といった意味も持っているので、人間として生れる前の神と同じ本質を持っておられたキリストのことを、ヨハネによる福音書だけが、ロゴスという言葉で表している。
しかし、これはヨハネによる福音書だけでなく、ヘブル書にもそのはじめに書かれていることである。

…御子(キリスト)によって 世界を創造されました。
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブル書一・23より)

ここにも、神の御子キリストが世界を創造し、万物を今も支えているという記述があり、神と同等なお方であるということが示されている。
それゆえ、私たちは周囲のさまざまの自然を見ても、それらは真理なるキリストを通して創造され、今もキリストによって支えられているということであるなら、雲のさまざまの色合いや姿、また大空の青い広がりを見ても、それはキリストのお心が反映されていると受け取ることができる。野草の素朴な花にも、大木の堂々としたすがたにも、野の花に集まる蜂や蝶などにおいてもそこに神の真実をくみ取ることができるようになる。
はじめにも触れたように、この石ころの重さが何グラム、この葉の長さは何センチなどといった「事実」は無数にある。それらは私たちにとって何の意味もなく、力も与えることができない。
しかし、真理は力を与える。私たちが苦しんでいるとき、励まし、また孤独に悩むとき暖かい息を魂に吹きかけて下さる。そうした真理は、心から求めるものに与えられるし、それは個人的でありながら、他のどんな人でももしその人が同様に心の真実を込めて求めるときには与えられる。
神こそは、そうした真理の究極的なお方であり、その神が創造された日々の雲や夕焼け、雨の様子、植物の数知れない変化の様子、花の色、形等々。それらは真理の一端であるゆえに、そこからも私たちは真理をくみ取ることができる。
そればかりでなく、この世のさまざまの出来事、それはよいものもあれば、決して起こってほしくないような苦しいこと、悲しむべきこともある。そうしたすべての背後にキリストがおられるのであれば、それらからも私たちは真理をくみ取ることができるということになる。 「すべてのことが共に働いて、よきことにつながる」(ローマの信徒への手紙八・28とは、すべての出来事から真理をくみ取ることができるように導かれて行った人の言葉なのである。

 


リストボタン休憩室

○彼岸花
今年の夏の暑さのために、ヒガンバナが十月の六日ころに最も多く花開いた状態になりましたが、このようなことは私の記憶にないことです。それほどこの夏は暑かったのが分かります。植物も秋になっていないと判断したわけでしょう。
この花は野山に少し咲いているとその緑の中で見事な赤色の美しさを感じさせます。わが家でも、ずっと以前に近くの小川の川岸から採ってきた株が毎年緑の中に強いアクセントとなって咲いています。 このヒガンバナは、地下茎(球根)にリコリンという化学物質を含みそれが有毒であること、また彼岸のころに一斉に咲いたり、葉が後から出てくるということ、触れるだけでもいけないなど間違った言い伝えもあって老齢の人は好まない人が多いのですが、そのようなことにとらわれないで、見つめるとき野草としては特別に大きく美しい花の造りを味わうことができますし、畦道や山沿いに一斉に赤い花が咲き揃う様は、秋らしさをたたえています。
これと同じ仲間のナツズイセンは時折みられる美しい花で、キツネノカミソリは近年は貴重な野草となっています。さらにヒガンバナの仲間のリコリスと言われる花は花屋にもみられる園芸植物で、ピンクや黄色の美しいものがあります。そして、誰もが愛好するスイセンもヒガンバナ科の植物なのです。

☆明けの明星、土星、火星☆
この頃、早朝四時過ぎには、金星が東から目を見張るような強い輝きをもって上ってきます。先日、この欄で紹介したあと、県外の方から初めて早起きして金星のすばらしい輝きを見たと知らせてきた方もあります。その金星の左下付近に土星も見ることができます。このように、明けの明星と並んで土星がみられるということはめったにないことなので、キリストにもたとえられている明けの明星を見たことのない人はぜひ、天気予報で翌朝が晴れであることを確認して見ることをお勧めします。できたら月が出ていない頃が一層金星の美しい光を見ることができます。「 わたし、イエスは…輝く明けの明星である。(ヨハネの黙示録二二・16)」
なお、深夜十一時半頃には、東北東のあたりから、赤く強い輝きの火星が上ってきます。火星より先に、すばる(プレヤデス星団)の星の集まりが見え、その下方に雄牛座の一等星アルデバランが赤い光で輝いています。その左(北寄り)に強い輝きの御者座の一等星カペラが見えます。その二つの一等星を結ぶ線の下方に、赤く強い輝きの火星が見えてきます。

 


リストボタンことば

272)聖霊が何よりも求めるのは、意図の完全な純粋さと注意深さである。
聖霊をもっとも確実に追いだすのは、虚栄心、享楽欲、貪欲、虚偽、闘争心、あるいは一般にほんとうの真剣さの欠如である。(ヒルティ著「幸福論」第三部三〇〇頁 岩波文庫 )

・聖なる霊は神の御心に従って吹く。そしてここで言われているように、人間の側で真実さがないときには、それは吹いてこない。 まず神の国と神の義を求めよと主イエスはいわれた。この心を真剣に保ち続けることこそ、聖なる風がいつも吹いてくるために不可欠なことなのである。

 


リストボタンお知らせと報告

○九月二四日(月)の午前十一時~午後四時まで、祈の友・四国グループ集会が徳島聖書キリスト集会場で行われました。
聖書講話は、二十分ずつ、松山市から参加された、冨永 尚兄と吉村 孝雄が担当し、その後、自己紹介、近況報告、そして昼食と交わり、その後、参加者全員による午後三時の祈りがなされました。参加者は31名。

○「野の花」文集
毎年発行している、文集「野の花」の原稿募集の頃になりました。これは、徳島聖書キリスト集会が発行していますが、集会員の文集ということでなく、さまざまの場にいる方々の信仰にかかわる学び、体験(証し)、意見などが集められ、誌上のエクレシアとなることを願っています。
原稿は、メールができる人は、メールで、そうでない方は郵送で送って下さい。字数は、二〇〇〇字程度。原稿の採択や表現が不適切あるいは入力ミスなどがある場合、また編集上で長すぎるとかの場合、意味を変えない程度に表現を変えたり部分的にカットなどもすることがありますので御了承ください。原稿締切りは、一〇月三十一日とします。

○全国集会
来年二〇〇八年の無教会の全国集会が徳島で五月十日(土)~十一日(月)に行われることになりました。ちょうど四国集会を担当する年でしたので、全国集会を開催することによって四国集会を兼ねることになります。
今から十六年前に、第五回の無教会・キリスト教全国集会が地方では初めて徳島で行われましたが、その時もちょうど四国集会が徳島の担当の年であったので四国集会をかねて開催されました。それから、十六年を経て再び徳島での全国集会が開催されることになりましたので、この機会に四国徳島にきていただいて、神の言葉を学び、讃美を多くし、キリスト者としてのつながりを深めたいと願っています。
全国集会は大体十月に行われてきましたが、その頃には台風が襲来することが多いのです。実際二年前の福岡での全国集会のときには、台風のために、一部交通が止まって各地からの参加が危ぶまれたのでした。また、四国集会も以前は夏に行っていたので、何度も台風で交通機関が止まったり、直前まで参加が危ぶまれることもありました。
五月のこの時期ですと、連休明けなので、交通機関も混雑は少ないと考えられますし、気候もよい時期で、台風の心配もなく、梅雨の大雨の心配もありません。主がすべてを導いて下さいますようにと祈りをもって準備をすすめていきたいと願っています。

○ヨハネ福音書CD
数年前に希望者に販売している、「ヨハネ福音書CD」は、私たちの礼拝集会で、二年半あまりをかけて学んだ録音を五十枚ほどのCDにしたものです。しかし、初めてのテープからの制作であったために、内容の重複や欠如などいろいろと不備な点が後から見つかり、ご迷惑をおかけしています。
その修正版はまだ少々時間がかかりますが、それができたら、すでに購入された方には、その追加のCDなどをお送りする予定です。また、その修正追加が終わってから、MP3版も近いうちに修正版ができると思われますのでなおしばらくお待ち下さいますようお願いします。

 


リストボタン編集だより

○礼拝の録音CDとMP3対応CDプレーヤ、ミニコンポなど
何人かの方々は、車での移動が、長時間にわたることが多いので、車の中で私たちの集会の礼拝CDやヨハネによる福音書のCDで学びたいので…とポータブル MP3対応CDプレーヤ希望されてきた方もいます。

また、次のような来信もありました。
・…このたびは、MP3ミニコンポをお送り頂きましてありがとうございました。…なかなか音もよく、スタイルもハイカラなので気に入っています。…徳島の集会の光景や、教友たちのことを思いだしながら(礼拝の録音CDを)聞いています。もっと早く購入しておけばよかったとも思えますが、すべて神様のお計らいで導いて下さっていることを覚えて感謝しています。 (中部地方の方)

・…家事をしながら、仕事をしながら、ポータブル MP3対応CDプレーヤで、徳島聖書キリスト集会のメッセージを聞いています。プレーヤはいつもエプロンのポケットの中で働いていてくれています。…(同右)

○他の来信より
・…私も七〇歳を越してからというもの、我ながら驚くほどの体の不調を感じて、その迫りがはやいのにビックリしてしまいます。皆、老いてこの体験をされて生きているんだな、と改めて「老人」への同情と畏敬の念を持つようになりました。
私自身両親が老いるまえに世を去って老いのお手本がなく、自分が老いてきました。「ええっ、これ何?」なんて戸惑うことばかり。自分より年上の友人などが生きる上での先生となっています。… (近畿地方の方)
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著者・発行人 吉村孝雄 〒七七三ー〇〇一五 小松島市中田町字西山九一の一四 電話 050-1376-3017 「いのちの水」協力費 一年 五百円(但し負担随意) 
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