巻頭言 |
2007年1月号 552号・内容・もくじ
国家の品格
去年は、この表題の本が不思議なほど売れたという。国家の品格を論じるために、「武士道」とか日本の伝統などを持ち出しているが、そんな必要はない。
人の命を奪うことは、最も重い罪である。それゆえさらに多量の人間を殺害し、傷つけ、財産を奪い、家族を破壊し、他国の自然や領土をも破壊するようなことがあれば、それは最も品格がないと言わねばならない。とすれば、他国との戦争を引き起こすような国家は、最も品格を持たないということになる。
それゆえ、戦争を決してしない、という決意を憲法で明示し、それに従ったきたからこそ、日本は世界的にその「品格」を認められてきたと言えよう。
しかし、その貴重な平和憲法の実質を変えてしまおうとする動きがますます濃厚となりつつある。
最近は、教育基本法が改訂され、日本の伝統と文化を重んじることが、とくに強調されている。しかし、長い日本の歴史において、基本的人権(幸福追求の権利、思想、信教の自由、居住移転の自由等々)を尊重するという伝統も文化もなかったのである。これらが日本に取り入れられたのは、明治時代になってからであり、キリスト教の伝統を持つ、欧米から受け入れたのである。
このように考えればすぐに分かることであるが、ある国だけにしか通用しない「伝統」を重んじることよりずっと重要なことは、個々の国の伝統や文化を超えた真理に立ち返ることなのである。
聖書は、すでに数千年も昔から一貫して、国家、民族の品格とは何かを告げている。
正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。(箴言 十四・34)
この言葉にあるように、正義こそは、国を高める。その正義に反すること、罪は国民を恥ずかしめる、すなわち品格を失わせるというのである。
今から二千六百年ほども昔から、エレミヤのような旧約聖書の預言者たちは、イスラエルやユダの人々たちに向かって、神に立ち返れ、神の言葉に従え、と命をかけて語り続けた。
…「ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、皆、主の言葉を聞け。主はこう言われる。
正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。 寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。(旧約聖書 エレミヤ書二二・1~3より)
ここで語られているようなことこそ、正義であり、真に品格ある国家、民族への道なのである。
すべてに打ち勝つもの
この世ですべてに打ち勝つようなものが一体あるのだろうか。金の力は、長い年月を歩んできた会社をも買収したり、倒れさせることもできる。強大な国家権力は、その武力やエネルギーをもってすると、個人や人間の集団はもちろん、一つの国家すらも打ち倒すこともできる。
また、どんな人間も金属の小さな砲弾によって一瞬にして命は奪われるし、強健な人間も見えないウイルスによって簡単に倒れることもある。
このように、この世には数々の強力なものが常に私たちの前にニュースなどによって現れてくる。
こうした状況にあって、このような力あるすべてのものに打ち勝つものなど、到底あり得ないというのが、多くの人の実感であろうし、そもそもそんなものがあるなどと考えることもしないだろう。
しかし、こうした風潮のただ中にあって、「愛はすべてに勝つ」という言葉が知られている。
この言葉は、いろいろな意味に取られている。この世で流行するような歌謡でも、この類の言葉はよくある。しかし、それは何となく若い人の一時の感情を歌ったものにすぎないものがほとんどである。
大多数の人は、すべてに勝つような愛など経験したことがないからであるし、そんなことを歌などでだれかが歌っていても、そのようなありそうもないことを歌っているだけだと、聞き流すだろう。
私自身、このような言葉は口にしたこともなかったし、愛などについて議論する気持ちにもまったくならなかった。愛については、議論や話し合いなどなくとも、だれでも分かっていること、そんなことを口に出して言うことなど、気恥ずかしい感じであった。
しかし、後になってわかったことであるが、分かっていると思い込んでいたのは、実は本当の愛でなく、愛の影に過ぎないものであった。そのことを初めて知らされたのは、二十一歳のころであった。影というのは、実態があって、その実態から生じるものである。それならこの世にいう愛の本当の実態は何なのか、ということになる。
このような、何が本当に存在するものなのか、私たちが本当と思っているものは、実は影のような実体のないものではないのか、といったことは、すでに今から二四〇〇年ほども昔に深く考えられていた。
プラトンの主著である「国家論」の第七巻に洞窟のたとえというのがある。
それは次のようなものである。
人間は、子供の時からずっと洞窟のような、深いところに手足も首も縛られたままで囚人となっている。そこから動くこともできないし、洞窟の奥の方だけしか見ることができないようになっている。縛られているために、頭を後ろに向けて、洞窟の入口の方も見ることができない。
その洞窟の入口の方向、高くて遠いところには、火が燃えていて、彼らを照らしている。人々は、火の光と反対方向だけを見て過ごしている。彼らと光との間には一つの道があって、そこを通るものの影が、洞窟の奥に写っている。彼ら囚人たちは、その影を真実なものと思いこんでいる。
しかし、彼らのうちのある人がその束縛から解放されて、洞窟の上方に上がっていき、影でなく火の光そのものを見るに至ったとき、それまで真実だと思っていたのが実は影であったとわかる。そこで、そのことを知らせようと洞窟に降りて行く。そしてまわりの人々にあなた方が見ているのは実は影にすぎないのであって、真実の光は上方にあるといって誤りを正そうとすると、周りの人々はそれに怒り、何とかして殺そうとする。(「国家」下巻 プラトン著 岩波文庫版 九四頁~)
このように、人間とは、囚人のようなものであって、子供のときから影しか見えないようになっている。しかし少数の人がそこから解放されて真実の実態を見ることができるようになる。しかし、この世の人たち、影が本当のものだと思い込んでいる人たちにとっては、自分たちが大事だと思っているものが、影に過ぎないと言われるとそのように言う者を憎むようになって殺そうとまで考えるようになるという。
ここには、聖書で言われていることと共通点がある。聖書では、人間とは、罪の奴隷であること、罪の力に縛られていることが基本的なことである。
…イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ福音書八・34)
…しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。(ローマの信徒への手紙六・17~18)
このように、人間はどうしても、真実や正義、純粋な他者への愛には生きることができず、自分中心になる。それを罪というから、人は罪に縛られた奴隷なのである。
プラトンは、この世においては、影の動向に関して、何が先に行くのか、どれがその後に来るのか、何が同時に進むか、といったことを多く知って、それに基づいてこれから来ようとするものを推測する能力をもっているものに、特別な栄誉が与えられるようになっていると記している。
すなわち、この世の出来事、経済や政治、人間の趣味、好み、などこれらがどのようであるか、それを巧みに読み取って予見していく、テレビ、パソコンや各種ゲーム機器、その他や数知れない娯楽施設、会社の経営や政治家、このごろの株式などで収入を得るといったことは確かにそうした本質を持っていると言えよう。
科学技術も同様で、事物の相互の力やエネルギーの関係を鋭く見抜いて、そこから法則を見出し、それを巧みに用いて、それから何が生じるか、どんな便利なものが造れるかを洞察していく、そして実際に創り出すことであるから、これらもプラトンが言っていることに含まれる。そしてそうすることに秀でた者が、政治、経済や文化的方面で業績をあげることになり、この世の栄誉を受けるようになる。
しかし、ひとたびこの世の現象が、影に過ぎないものであって、その背後に変ることのない実体、光そのものを知ったものは、この世のそうした栄誉や権力をほしがったり、妬んだりすることはなくなる。そして昔の影を相手の生活に逆戻りするくらいなら、洞窟から出て光を受けつつ、他人の農奴となって貧しい人のもとで仕えることでも、あるいは、その他、どんなひどい目にあうことでも、その方を切に求めるようになる、と述べている。
このように、真理そのものを見出すときには、自ずからこの世のものが自然に不要となっていく、というのは、聖書にも次のよく知られたたとえがある。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。
見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイ福音書十三・44)
主イエスが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二四・35)と言われたこと、この永久的と思われる天地も滅びる、と言われた。確かに太陽ですら五十億年もすれば、寿命を終えると言われ、地球の寿命はもっと短いと考えられている。
きわめて長いと言えるが、結局は消えていく。そういう意味では、たしかに目に見えるどんなものも影のようにいつかは消えてしまうものである。
この、最終的には消えていく「影」だけしか知らないなら、私たちの生きる意味もわからなくなってしまう。みんな消えていくのであるから、当然の帰結となる。しかし、いかなる状況においても影ではあり得ず、滅びないものがある。それこそ、天地創造された神であり、その神のご意志の現れである神(キリスト)の言葉なのである。
最も重要な、「愛」についても、罪に縛られたままであるから、プラトンのいうように「影」でしかないものを、本当のものだと思い込んでしまう。
愛にかぎらず、正義や真実、美しいものなど、この世界で見聞きするものはいずれも、もろさ、はかなさを持っている。何かあるとすぐに壊れ、消えていく。そうした意味で確かに「影」のようなものである。
どんな人でも、幼な子、また死の間際の苦しむ人、高齢の人、また貧しい人や裕福な人を問わず愛に敏感であって、たとえそれが影のような、この世の愛であっても敏感である。
この世にある、空や草木、山川などの自然は、それらも最終的には消えていくものである。しかし、神はそうしたものを用いて、消えないもの、滅びないものを常に指し示している。人間が自然に与えられている、親子、友人や男女などの愛もそこにとどまることなく、そこからその背後にある神の愛へとまなざしを向けるようにとの神の配慮なのである。
そしてそうした人間の愛がほとんど与えられないような孤独や貧困にある人たち、親から棄てられたよう人でも、神の愛だけは知ることができるようになっている。
そのことからすれば、その影の本体である、本当の愛は、どれほど力を持っているかと思わされる。
ヒルティは、神からの愛こそは、あらゆるものに打ち勝つ力を持っていることを、確信をこめて次のように述べている。
…愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲れ果ててしまい、ついにはべシミズムか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
しかしながら、愛の実行はつねに、初めそれを決心するのはむずかしく、やがて神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず習得すべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。
ついに愛をわがものとした人には、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老朽することがないからである。(「眠られぬ夜のために」第二部 一月九日)
(次の原文は、始めと最後の部分)
Mit Liebe ist alles zu uberwinden,ohne dieselbe befindet man sich lebenslang in einem Kriegszustand mit sich und andern,…
Denn Liebe ist ein Stuck ewigen Wesens und Lebens,das nicht altelt,wie alles Erdische.
ここで彼が強調しているように、彼が言う愛は、人間が自然に持っている親子愛、友情、異性への愛などを指しているのではない。それは神のものであり、神ご自身の一部であるゆえに、私たちが神を信じて受けなければ与えられないものなのである。
この神の愛を受けることによって、私たちは過去の罪の重荷、そして現在のさまざまの悩みや苦しみ、そして将来に必ず来る死に対しても打ち勝つことができる。キリスト教の中心である、キリストの十字架による罪のあがない、赦し、復活、そして再臨といったことはすべて神の私たちへの愛からなされることなのである。
本当の新しさ
私たちは常により新しいものを求める。新しい家や車、新しい服、新しい器具、新しい曲とか目新しい出来事にだれもが飛びつく。スポーツがあれほど大々的に、ほかのどんな文化領域でも、見られないような大画面で特定の個人の写真などを繰り返し掲載すること、それはスポーツが、常に新しいと感じさせる、勝負とか試合を提供してくるからである。
試合、それは新しい緊張感を生み出す。その勝負はどうなるのか、といった関心は、一般的に言えば、悪人でも善人でも、また老人や子供でも強い関心を持つ。
この、目新しいという意味の新しさは、新聞や雑誌、映画、テレビ、ラジオなども常に求められている。
そうしたものは、絶えざる目新しさの追求によって成り立っていると言えよう。
このような新しさは、なるほど一時的には人間の煩いや病気、人間関係のもつれなどを忘れさせてくれる。しかし、それは一時的な気休めに過ぎない。
憲法や教育基本法を変えるといった問題も、多くの人たちが賛成するようになったというその理由は、深く内容を検討したうえでのことではない。教育基本法など、大多数の人にとって、学校時代にもまったく説明を受けたこともなかったはずである。
それゆえ、その基本法が間違っているのかどうかすら考えたことがない。圧倒的な人々は、内容が何であるか、ということより、目新しいものを好むのであって、
今の教育基本法は古い、それを作り変えたら新しいものができるだろう、という漠然とした期待に過ぎない。現在の政府もそうした一般的な動きを利用しようとしているのである。
このような「新しさ」を追求することと、際立った対照となっているのが、聖書、キリスト教のもとになっている考え方である。
聖書においても、旧約聖書の相当の分量は「新しい」という真の意味をもたらすものが何であるか、まだはっきりとは意識されていなかったことがうかがえる。
創世記から、出エジプト記、民数記さらにヨブ記に至る、八〇〇頁を越える分量においても、霊的な意味における「新しさ」に触れた箇所はほとんどない。詩編三三編に至って、ようやく後の新約聖書の時代にきわめて重要なことになる、霊的な新しさに通じる言葉が現れる。
主に従う人よ、主によって喜び歌え。
主を賛美することは正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ
十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
主の御言葉は正しく
御業はすべて真実。
主は恵みの業と裁きを愛し
地は主の慈しみに満ちている。(詩編三三・1~5)
このように、全世界が神の慈しみ、愛で満ちていると実感し、啓示されたこの詩の作者は、混乱と人間的な悪しき支配がつねにあったであろう古代社会のただ中にあっても、このように、神のなさるわざをまざまざと見、それを感謝することができたのであった。
そしてそのような神への感謝は神ご自身を喜びとすることができた。私たちももし、このように目に見える人間や物、あるいは地位とかでなく、目に見えない神ご自身を喜ぶことができるようになれば、人間同士のみにくい争いなどは生じ得ないだろう。そうした争いや憎しみは、すべて魂が深いところで満たされていないところから来るからである。
「新しい歌を、主に向かって歌え!」というこの呼びかけは、この作者が内部からわき起こる神への感動を黙ってそのままにしておくことができないところから生じている。
主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
わたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見
主を畏れ敬い、主に依り頼む。
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人は!(詩編四〇・2~5)
この詩において、作者の心から新しい歌が生れたのは、滅びると思われるほどの、泥沼のようなところで苦しみあえぎ、そこから救われたという重大な経験からであった。新しい歌、神への感謝と讃美ができるようになったとは、心の深いところで新しくされ、そこから泉が湧くような状態である。
新しい心とは、このように、神への感謝と喜び、そしてそこから神のすべてに対して心からすばらしいと実感することであり、それが讃美の心となる。
それは単に歌を歌う、という状態とはまったく異なる。人間の魂の最も深い部分から新しくされ、そこに神ご自身が住んで下さることである。
このような新しさは、人間の決心とか経験、あるいは時が新年になった、というようなことでは与えられない。神ご自身(聖霊)を私たちが受けることによって初めて私たちは本当に新しいものとされる。
神が与える新しい心を受けとることのできる画期的なときが来る、それは、キリストよりも六百年近く昔の預言者がすでに神から示されていた。
…わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル書十一・19~20)
こうした、人間の最も深いところにおける出来事とは、神ご自身の新しい霊を受けることなのである。
これに比べて、単なる時間的な新しさや目に見える表面的な新しさはすぐに古びる。新年がおめでたい、と言っても一〇日もたてば、ほとんどの人は何もその新しさを感じなくなるだろう。新しい服や車なども、それを使っていればじきに当たり前となって新たな感動を生み出さなくなる。
しかし、ここで言われているような、神の霊を受けることによる新しさは、永遠の神に根ざすものであるゆえに、その新しさの実感はずっと続いていく。
詩編二三編の有名言葉も、やはりこの霊的な新しさを深く体験した人の言葉であり、それが神を信じるだけで、誰にでも共感できるからである。
…主は、わが羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。(詩編二三より)
生き返らせると訳されている言語は、シューブという語で、日本語訳では他の箇所で、「立ち返る、方向を転じる」、英語でいえば、turn とか、return の言葉で訳されることの多い言葉である。魂が疲れ、古びてきて命がなくなっているのを転じて、命へと立ち返らせて下さるという意味であるから、多くの英訳は、回復する(restore) と訳している。
そして、より一層新しいものと変えられることを強調して、英語訳のなかには次のように、「新しい命を与えて下さる」とか「私の力を新たにして下さる」と訳されているのもある。
・He gives new life to my soul.
・He renews my strength.
人間はそうした新鮮な生き生きした実感を生み出すことができないが、神は万能であるゆえにそれが可能なのである。それゆえに、寝たきりのきわめて単調な、新しいものに自分の力ではほとんど触れることができない状況にあっても、何でも目新しいもののところに車で自由に行ったり、インターネットでそうしたものを見る人よりはるかに新鮮なものを実感することさえ可能となる。次の詩の作者はそうした例である。
わがために
野菊が香り
わがために
虫が鳴き
わがために
夕空がそまる
わがために
昨日も今日も
神様に
祈ってくれる
人々よ (水野源三)
ここには、ささやかな野菊、外から聞こえてくる虫の音、夕空の美しさ、等々多くの人たちが何の関係もないと思っているものが、神様の自分への愛のゆえに、そのような美しさがあり、音色があるのだと、素直に実感できる心がある。詩とは、心のそのままの表現であり、心の世界がそのままに文字となって広がる。
この詩が生み出されたその心とは、日常繰り返される何でもないような、自然の小さな動きもみんな、神が自分を愛して下さるゆえにあるのだと実感できる心なのであった。
これこそ、新しいものを日々感じる心である。愛はさまざまのものを常に新しいものとして感じさせる力を持つ。路傍の野菊や虫の音、空の色など、大多数の人たちには、単なる偶然でしかない。
しかし、この詩をつくった水野源三の心は、何十年も寝たきりでありながら、神ゆえの新しさを感じていたのである。
使徒パウロは、新しい創造について、次のよく知られた表現を用いている。
…だれでもキリストの内にあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(Ⅱコリント五・17)
原文では、簡潔に、「もし、誰かがキリストの内にあるならば、新しい創造。」(*)という表現になっている。
英語訳では、そうした原文の表現に近い。(**)
(*) ei; tijevnCristw/|( kainh. kti,sij
(**)if anyone is in Christ, he is a new creation;
the old has gone, the new has come!
原文では、英語訳の a new creation という訳文にあるように、「新しい創造」という言葉だけである。
キリストの内にある、という表現は、パウロが繰り返し用いている。キリスト者とは言い換えると、「キリストの内にある人」ということができる。日本語訳のうち、新共同訳は、「キリストと結ばれる人はだれでも…」と訳されているが、口語訳、新改訳では、それぞれつぎのように訳されていて、原語の表現をより忠実にあらわしている。
・だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。(口語訳)
・だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。(新改訳)
キリストと結ばれる、というのは直線的なイメージがあるが、本来は、原語の表現や英訳でうかがえるように、「キリストの内にある」という意味であるから、それはキリストが神と同様な霊的存在なので、そのキリストの内にいることである。それこそが、新しい創造物となることだと言われている。
パウロが、ここで、「見よ、すべてが新しくなった!」(Behold, everything has become new! )と強い感嘆の念を込めて述べているのは、創世記の巻頭にある有名な言葉、
…神は言われた。「光あれ」! こうして光があった。(創世記一・3)
という言葉が背後に感じられる。
闇の中に光が生じた。それは新しい創造物であった。同様に、人がキリストの内にあるとき、その人は新しい創造物となったというのである。キリストは主ご自身が言われたように、「いのちの光」そのものであり、その光の中に置かれることがすなわち、新しい創造物となることである。
私たち自身の内に、光なるキリストを感じるとき、キリストが住んでいて下さるとき、私たちは外見では単調な生活であっても、絶えず霊的な新しさを感じることができる。その光によって新たなものを見、感じることができるからである。
ここに、人間を本当に変えるものは何か、ということがきわめて単純な表現で表されている。
こんな人間に誰がしたのか、とか自分はどうしてこんな性格なのか、どうして○○さんのようになれないのか、などと、自分をほかの人と比べて不満を持つことは、よくあることだろう。そして人間を変えるものとして、勉強する、教養をつける、経験を積む、いろいろな人と交わる、等々は誰でもが思い浮かぶことである。
そうしたことによっても確かに人は変る。経験によって落ち着いた人間になる、苦しみを経験して他人の苦しみにも共感できる人になる、芸術にいろいろと触れることで、感性が洗練される等々、人間が変えられるためには、さまざまの手段がある。
逆に、そうした経験によって暗い人間になる、無感動になり、またテレビや悪い雑誌、ゲームなどによって悪い方向に変わっていくこともよく見られる。
こうしたことから考えると、人間を変えるものは、環境や教育、経験などだと思う人が大多数になるのは自然なことである。
聖書が驚くべき書物であるというのは、そのような誰でもが思っているようなことと、まったく異なること、思いも寄らないことをはっきりと示しているからである。
この、「キリストの内にある」だけで、「新しい創造」なのだ、という簡潔な断定は、旧約聖書の長い時代にも想像もできなかったことである。
しかし、はじめにあげたように、旧約聖書の詩編の中には、「神に向かって新しい歌、讃美を歌おう!」という詩が見られる。キリストはまだ現れてはいなかったが、神ご自身の驚くべきわざに触れ、実際に死ぬかと思われる苦しみから救われたゆえに、そこから新しくされた魂は、パウロが述べたような、「すべてが新しくなった」という感動をすでに与えられたのがうかがえる。
さらに、終りの日には、新しい天と地になる、ということは、ごく一部の特別に神に引き寄せられた預言者に示された。
こうした旧約聖書の記述は、まだ、ユダヤ人だけ、しかもその内のごく一部の人だけが実感できたことであったが、キリストが現れてからは、ただ、キリストを信じるだけで、私たちはキリストの内にあることになり、ただそれだけで、新しい創造物となったのである。
ここには、いかなる貧しい人、苦しむ人、無学な人であっても、ただキリストにあるだけで、新しい創造物としていただけるという大いなる希望が込められている。
そしてこれは、罪深い人間、心の奥深いところではどのようにしても、清くならない、純粋な愛を他人にも持てないという罪深さをも根本から解消することになる。すべてが新しい創造物なら、そうした罪の本性もまた払拭される。
老齢化という、苦しみと悲哀の入り交じった状況はもはや医学も経験や学識もどうにもならない。しかし、そのような状況であっても、すべてが新しくされるために、霊的には生れたばかりのようなフレッシュな状態が有りうるという約束なのである。
確かに、イエスとともに十字架にかけられた重罪人は、釘で打ちつけられて激しい苦しみのさなかにあったが、まさに「キリストの内にとどまろうとした」ゆえに、彼の魂は新しくされ、その日にすでに過去のあらゆる大罪は拭われ、清められてパラダイスに住むことになった。
確かに、彼にとって「見よ、すべては新しくなった!」のである。
聖書とは、またキリスト教とは、喜びの知らせである。そして同時に、それは新しい創造の知らせなのである。
常に古びていくこの世、地球や太陽ですら、数十億年といった長期間には、古びていくものでしかない。そのただなかにあって、どこにあっても、どんな状況に置かれている人であっても、常に新しく創造された、という実感を与えられることは、ほかのどんなものにも代えられない恵みである。
魂の空き家とならないために
だれでも、心の内に何かが住んでいる。何に動かされて日々生きているか、それによって私たちの内に何者がいるのかがうかがえる。自分が、自分の心のうちに住んでいる、それは当然のことである。自分がまず食べたい、何かをしたい、といった行動をするのは、自分の内に、何よりも自我というものが住んでいることを示している。
しかし、聖書を見ると、「空き家」という表現があり、何も住んでいない状態のことが記されている。
… 汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」(マタイ十二41~45)
汚れた霊が、人間を出て砂漠を歩き回るという。しかし安住するところがないので、再び元のところに帰ると、そこはきれいに掃除してあり、また飾りつけまでしていた。
そのような清掃された所は汚れた霊(悪霊、あるいはサタン)にはふさわしくないと思われるのに、そこに七つの悪霊を引き連れてきたという。
これは、とても意外なことである。汚れたところ、暗いところならば、そのような悪の霊が次々に入り込むというのも分かるが、掃除をして整えられているようなところに、なぜ悪霊が、他の七つのもっと悪い霊をも連れて入り込むと言われているのだろうか。
ここで引用した個所の直前には、神を知らなかった異邦人、ニネベの町の人たちですら、悔い改めて神への方向転換をしたこと、また神がソロモン王に授けた真理(英知)を求めてはるか遠くのアラビアから来訪したシバの女王のことが書かれてあるが、そうした絶えざる悔い改めや神の真理への強い求めの心がなければ、信仰の心は古び、空き家になり、悪しき霊が入り込んでくるということなのである。
これは、当時のユダヤ民族に実際に生じることと、一人一人の人間に生じることが重ね合わされて言われているのである。
ユダヤ人たちは、律法によっていろいろとこまかく決まりを定め、神の命令に従って間違ったことをしないようにという名目的には、宗教的な厳しいあり方を規定した。例えば、安息日にはどれほどの距離を歩いてはいけないとか、火を使ってはいけない、などといったこまかな作業についてもいちいちそれは仕事にあたるからしてはいけない、といったようにである。
このようなことは、たしかに表面的に見れば、神の律法に基づいているように見えるから、きれいに掃除をして、人々の日常生活をも整えているように見えたのである。
しかし、そのようなことについて、主イエスは次のように言われた。
… 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ福音書二三・27~28)
このように、神からの決まり(律法)だと言っても、そこには人間が造り出したものがたくさん含まれていた。そのような人間的な考えでいかに多くの規定を作ってもその内側を清めることはできない。
このように、一度は追いだされた汚れた霊が、再び戻ってくる、しかもそれは掃除して整頓した家である、ということは当時のユダヤ人全体の現状を鋭く見抜いて言われたことであり、さらにユダヤ人たちの将来の暗い前途をも預言的に言われたものであった。
しかし、この主イエスのたとえは、決して当時のユダヤ人だけのことではない。主イエスの言葉、総じて聖書は、特定の時代のことを述べているようであっても、千年、二千年後の数限りない人々にもあてはまることが言われている。
このような普遍性と永遠性を兼ね備えているのが、聖書であり、とくに主イエスの言葉である。
ここでも、この主イエスの言葉は、特定の民族だけにあてはまるのでなく、私たち一人一人、そして現代のさまざまの人間の集まり、社会にもあてはまる。
例えば、江戸時代の厳しい身分差別があり、社会保証もなく人権などという観念もなかった時代から、西洋文明に触発されるかたちで、明治維新となって新たな憲法、法律が制定され、国民の生活は大きく変化した。人権といった考え方も取り入れられ、思想信教の自由も相当の制限がありながらも認められ、教育の面でも国民全体が基礎的教育を受けられるようになった。その他にもいろいろと新しい制度が造り出された。
そうした状況は、たしかに「きれいに掃除し、飾りつけ」をしたと言えるだろう。江戸時代の非人間的、差別的な制度を撤廃して、「掃除」し、欧米から学んだ新たな法律によって「飾りつけ」をしたからである。
しかし、そのような新しい装いをしてきた日本は軍事国家としても急激に成長し、周囲の国々との戦争を通じて領土を獲得していった。国民もそのために相当の犠牲を払わされることになった。
そして日清、日露の戦争、中国との戦争など、さらに米英なども敵にまわした太平洋戦争と、おびただしいアジアの人たちの人命を奪い、自国民も多数が死んでいくということになった。
こうした状況は、「七つの悪霊を連れて入ってきた」と言えるような事態である。
さらに、ただの人間である天皇が「神聖にして犯すべからず」として礼拝されるほどであり、全権を握っていたり、治安維持法など間違った法律なども作られていたが、太平洋戦争後には、それらが撤廃され、「掃除」された。
そして世界的にも類のないような徹底した平和主義に基づく新しい憲法が制定され、その精神に基づいて法律も新たになり、教育の方面でも教育基本法が制定され、さまざまの点で全く新しい歩みを始めたのであった。これは見事なまでに「飾りつけ」された状況となった。
しかし、それから六〇年余りを経て、果たして日本の現状はとくに、全体としてみたとき、若い人たちの心が清くなったであろうか。
最近の、子供たちのいじめとか社会的ないろいろな出来事を見るとき、そのように思う人は、ごく少ないと思われる。
どんなによい憲法が作られ、適切な法律ができても、それらは変えられ得るし、またそれらにもかかわらず、人間の心は奥深いところではよくはならない。
おびただしい数の堕胎、家庭内の暴力、学校などのいじめ、などなど、ここにも、「ほかの七つの悪の霊」が入り込んできたと思わせる状況がある。
主イエスは、このたとえの中で、掃除をして、整頓してもなお、「空き家」である、と言われた。ユダヤ人の宗教もどんなに律法で細かに規定しても、パリサイ派やサドカイ派の人たちなどがいて熱心に宗教的な活動をしてもなお空虚であった。
それは、イエスが魂の深いところに入ってきてそこに住むのでなかったら、主イエスの目からは、「空き家」だということである。このような言い方は、次のような言葉とも通じるものがある。
… ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(*)
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ十五・4~)
(*)ここで「つながっている」と訳されている原語(ギリシャ語)は、メノー(menw)であって、この本来の意味は、次のような個所で用いられているように、「留まる」である。
…町や村に入ったら、ふさわしい人はだれかをよく調べ、その人のもとにとどまりなさい。(マタイ十・11)
それゆえ、英語訳では、「留まる」という意味の、remain とか、 abide が用いられている。 そして、原文では、「私の内に留まれ」(mei,nate evn evmoi) であって、英語で言えば Remain in me または、 Abide in me となる。それゆえ原文の意味からは、「私の内に、留まっていなさい」となり、イエスは神と同様に霊的存在であるから、そのキリストの内に留まっていようとするべきこと、そうすれば、キリストが私たちの内にも留まってくださる、ということなのである。これは、言い換えると、キリストが内に住むことを意味する。
実を結ぶとは、私たちが心の中に真によきもの、神が持っておられるような真実や愛が生れることであり、それらを少しでも持つようになるためには、主イエスの内に留まること(主につながっていること)、が不可欠なのである。イエスはぶどうの木、人はその枝、というたとえは、穏やかな果樹園のたとえのようであるが、他方このたとえは、厳しい側面を持っているのはすぐにわかる。
主イエスの内に留まり、主イエスが私たちの内に留まって下さらないかぎり、その人は、投げ捨てられて、枯れる、そして火に投げ込まれて焼かれてしまう、という。
このことは、単に人間的な考えで、悪いことをすまい、と決心しても、決まりを作って悪いことをさせないようにしても、決してそれだけでは人間は変わらない、ということを示している。そのような人間的決心というのは、必ず衰え、力をなくしてしまう。そして元のようになってしまう。そうすると、あんな決心などしても無意味だ、決まりなど作っても守れるはずはない、無意味だ、というように考えて、何らかの不正を犯すのは仕方のないこと、当然なのだ、というように開き直ってくるほどになる。
こうしてもはや真実なものを求めるという心すら失っていくなら、はじめよりもっと悪くなる、ということなのである。
盗みや詐欺、暴力などの悪に対しては、追いだすことに力が注がれる。そのために、法律があり、教育や、警察、軍事力などもみなそのような悪を追いだすためにある。そうした努力は当然なされねばならない。人間のからだも絶えず注意して病気にならぬように守らねばならないのと同様である。
しかし、そのようにしてからだの健康を守ったからといって、心までよくなるとは言えない。多くの犯罪は、病気で苦しんでいる入院している人たちが起こしたのでなく、体力もあり、からだは健康な人たちによって起こされていることを見ても分かることである。
どんなに教養や経験、知識を身につけても、神の目から見れば本当によきもの、永遠的なもの、神の国に属するものが住んでいない「空き家 」であり、「罪の奴隷」になったままだということになる。
それゆえ、新約聖書では、真実の主人がおらず、自我というものしか住んでいない事実上の空き家でなく、神が、キリストが住むようになることが最終的な人間のあり方として繰り返し言われている。
信仰を与えられて間もないギリシャの都市の人たちにとって、自分の内に神(キリスト、聖霊)が住むようになる、いわば神殿になるというようなことは考えたこともないことであった。そのような人たちに使徒パウロは、次のように繰り返し強く自覚を迫っている。
…あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(コリントの信徒への第一の手紙三・16)
…知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(同六・19)
さまざまの信仰のあり方があり、宗教がある。しかし、どんなに宗教的に熱心なように見えても、人間を超えた永遠的かつ真実な存在(神)が住んで下さるのでなく、宗教的な衣をまとうだけなら、かえって悪くなる。
新約聖書における主イエスや使徒パウロの願いは、そのまま現代の私たちへの願いへと通じる。主よ来てください、という祈り、御国が来ますように、との主の祈りも、やはりこのこと、神が、そしてキリストが一人一人の心の内に、そして人間の集まりであるキリストの集まりの内に、さらにこの世界全体に来て下さるようにとの願いとなる。
…信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、
あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エペソ書三・17)
拉致に関して
北朝鮮による拉致問題は、この数年繰り返し重大問題として報道されてきた。人権を重んじるはずの現代の国家が、こともあろうに計画的になんの関係もない他国の若い人間をいきなり捕らえて自国に連れ出し、自分たちの計画に利用するといった、考えられないような犯罪行為をしたことが明らかになったのであるから、国民に強い関心が生じた。
政府がこの問題の解決に努力するのは当然のことであるが、この問題を特別に重視し、さまざまの方策をとっているのは、不当な圧迫に苦しむ人たちへの配慮からとは言い難い側面がある。
それは、似たような状況に置かれてきた中国残留孤児への待遇とは大きくかけ離れていることからも明らかである。
それは、去年の十二月に神戸地裁がこの問題について出した判決でも触れられていたことであった。
小泉前首相や官房長官時代の安倍氏はこの国民的関心の波を受けて、彼らの支持率が大きく拡大することになった。それは結果的に彼らの力を側面から強め、郵政改革の選挙でも外部から特別な候補を入れるという手段によって、大きく得票を延ばした。それによって与党は重要問題でも、次々と決定していくようになった。
教育に関する問題は、いじめや授業が静かにできないといった学校現場の荒廃問題など、さまざまの問題があるにもかかわらず、まともに議論せず、タウンミーティング問題に現れたような姑息な手段で世を欺き、教育基本法は強行的手段で改訂されてしまった。
さらに、防衛庁が防衛省となり、海外派兵が本来任務となり、外国との摩擦が現実の問題となってきた。
このような方向に進んでいくことに、拉致問題が手助けするかたちになったのである。北朝鮮による拉致問題がなかったら、あのように小泉前政権や安倍首相の人気は高まらなかっただろうし、従って教育基本法の改訂などもあのようにはやく決まることはなかったであろう。
現在の政権の目指す方向は、たしかに戦争に加わる危険性を高めていく方向である。アメリカのイラク戦争開戦に、率先して支持したのは、小泉政権であった。しかし、すでにその戦争は誤りであったと、アメリカ大統領自身が国民に向かって「従来の政策の失敗を認め、誤りの責任は私にある」と最近になって表明した。
国連イラク支援団(UNAMI)は、一月十六日、イラクの人権状況に関する報告書を発表し、昨年、テロや宗派間の暴力などで死亡した民間人が三万四四五二人に達し、負傷者も三万六〇〇〇人以上に上ったという。
このような悲劇的事態となり、多数の死傷者が次々と生じるようになったのは、直接的にはアメリカのイラク戦争開戦による。この開戦は、国連の同意も得ることなく、しかも、その戦争開始の直接的理由が、大量破壊兵器を持っているという嫌疑のためであったが、後になってそのようなものはなかったことが判明したのであった。
そしてそのような間違った戦争を日本の政府が、率先して支持したのである。にも関わらず現在の安倍首相は、そのことについての前政権の誤りには極力触れないようにしている。防衛大臣に至っては、あれは小泉前首相個人の考えだったと言い出したりしたが、イラク開戦直後に、小泉内閣ではイラク戦争開戦を受けて二〇〇三年三月二〇日、「わが国の同盟国である米国をはじめとする国々によるこの度のイラクに対する武力行使を支持する」との首相談話を閣議決定したのであり、政府の公式見解であった。
平和憲法があってもなお、国外に自衛隊を派遣し、アメリカの戦争を助けているのであるから、憲法が改訂されるならば、アメリカと共同して今回のような戦争を遂行していくことが予想される。
そうなれば、今問題となっている北朝鮮による拉致とは到底比較にならない人たちの犠牲が予想される。平和憲法の歯止めがなかったら、イラク戦争にもアメリカとともに深く関わり、多くのイラクの人たちが殺されることに加担することになっていただろう。
拉致よりもはるかに悪いのは、捕らえて殺すことである。無差別に爆弾を破裂させてなんの関わりもない一般市民の命を奪うことである。戦争とはそうしたものであり、拉致やそれ以上の殺人が次々と日常的に行なわれるのが戦争なのである。
それゆえに、大量の殺人などの悲劇をもたらさないためにも、現在の平和憲法を守ることがさらに重要なのである。
そのことを忘れて北朝鮮による拉致のことばかりに目を向けて、それが知らず知らずのうちに憲法を変えていく勢力を後押しすることにつながっていくのを十分に警戒しなければならない。
生涯、私は主を呼ぼう
一般的に宗教といえば、多くの人たちは、組織に入るとか、行動や献金などにおいても強制される、何か特異なことというイメージを持つ場合が多い。新聞に掲載される宗教に関する記事は、たいていどこかの教団が何か不正なことをしたといったものが多いからである。
聖書は、全世界で最も広くまた長く読まれ続けてきて、その影響が断然際立っているのは誰もが認めることであるが、聖書がどんな内容であるか、具体的な聖書の箇所の解説などはほとんどなされることがない。聖書は、母胎となったユダヤ教とそこから発展したキリスト教だけのものと多くの人たちに思われているが、イスラム教にもとくに旧約聖書の内容が深く入り込んでいることは、コーランを見ればすぐに分かることである。
しかし、聖書に基づく信仰は、その中心は、組織に加わるとか、そこでの強制などではなく、目には見えない存在への愛、最も清くて真実なもの、正しいものへの愛なのである。
これは、すでに信仰を与えられて生きている具体的な人間を通しても分かることであるが、現実の人間には、さまざまの不十分なこと、罪の名残があってそのためにその人の内部でどのように神への愛、神からの愛が働いているのか、分かりにくいことがある。時には、神への愛などまるで感じられないような場合もある。
そのために、最も深い魂の記録としての、聖書を心して読むとき、そこに数千年を流れてなお古びることなく、無数の人たちの共感を呼んできた神との交わりの実体が見えてくる。
ここでは、そうした一つの詩(詩編一一六編)から学びたい。そのために、少しでも、その作者の心をより十分に受けとるために、その一部に英語訳をつけておく。
わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。
I love the LORD, because he has heard my voice and my supplications.
Because he inclined his ear to me, therefore I will call on him as long
as I live.
この詩は、まず自分の歩みの結論を歌う。それは、冒頭にあるように、「私は主を愛する」ということである。
神を信じる、とか神の教えを守ろう、あるいは神よ守ってください、という願いでなく、彼自身の究極的な魂の経験とは、「私は主を愛する」という簡潔な一言なのである。
すでに数千年も昔から、この詩の作者にとって、神は単に信じるだけの存在とか、裁きの神として恐れる存在、あるいは得体の知れないことを人間にする不気味な存在でもなく、
何よりも、神は私たちの心を尽くして魂を注ぎだす相手なのであった。
目には見えない、そして大多数の人たちが神などいないという、そのようなものに対して、心からの真実をもって、目には見えない神を愛する、と一言で断言できるほどにこの詩の作者は、神からの愛を強く実感していたのである。私たちが何かを愛するためには、まず、相手が自分に何か心地よきものを与えてくれるのが出発点にある。美しい音楽を愛する、それはその音楽が自分に安らぎや力、あるいは心を清くするといった何かよきものを与えてくれるからである。
山を愛する、植物を愛するというようなことも同様である。また特定の人、自分の子供や友人や異性を愛するというときにも、相手が何か自分によきものを与えてくれるからこそ、自分も心を注ぎだす、それが愛である。
それゆえに、この詩においても、神を愛する、という一言が確信をもって言われる背景に、さばきの神と言われ、万能の神であり、天地創造の神ゆえに無限に遠い存在であるにもかかわらず、自分を個人的に顧みて下さる、という魂に触れる経験がなされたのであった。
主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」であると言われたが、この詩の作者はこの最も重要な「神への愛」を深い個人的体験から持つようになったのである。
あるものを愛するとは最も心に近いということであり、神を愛すると言えるのは、神がこの作者の魂の最も近くにいるのを感じていたからである。
そして次に彼が、どうして神を愛することができるようになったかが記されている。それは、「主は嘆き祈る声を聞いて下さった」(*) ということであった。
(*)原文には、「私は主を愛する。なぜなら、主は…」とあって、愛するようになった理由を表す接続詞がある。それゆえ、ほとんどの外国語訳も、例えば英語訳なら、つぎのように理由を表す接続詞が訳されている。
I love the LORD, because he has heard my voice and my supplications.(NRS)
この詩の作者は、長い苦しい経験のなかから、神に向かって叫び、必死の祈りを捧げてきた。 その結果は、「神は聞いて下さった!」という、生涯忘れることのできない体験となった。
これは、神がどこか遠いところでじっと存在しているとか、特定の神殿、神社などの建物にしかいないような神であるなら、このような生きた確信は与えられないだろう。
人間同士でも、こちらが相手に語りかけても、何等応答もない相手は愛することはできないはずである。自然のような本来応答しないように見えるものでも、野草や星、山なみなどから自分に向けて語りかけるものがあるからこそ、それらを愛することができる。
神への愛も同様であって、人間の側からの語りかけ、祈り、叫びというものが確かに聞かれたという実感があってはじめて、神への愛は深まるし確実なものとなる。
次にそれほどの強い体験をしたゆえに、この詩の作者は、神を呼び続けることを生涯続けようという。これも、神が自分の叫びに、身を乗り出すようにして、ご自身の耳を傾けて聞いて下さった、という実感があったからである。ここでも、英語訳のほうがより、原文のニュアンスを表現している。
Because he inclined his ear to me, therefore I will call on him as long
as I live.
この英訳では、「なぜなら、神が私に耳を傾けて下さった、それゆえに私は生きているかぎり、神の名を呼ぼう。」(*)ということであり、原文に従って、特にこの作者が生涯、神を呼ぼうという強い気持ちになった理由が強調されている。
(*)従来の口語訳、新改訳も、理由をあらわす語が訳されているが、新共同訳では、おそらく、詩として簡潔に訳するという目的であろうか、その理由をあらわす言葉が省略されている。
神がその耳を傾けて下さると感じるほどに、この作者は神を身近に、また個人的に深い愛を受けとったのである。天地のどこにも神などいない、そんなものは勝手な空想だ、というのが大多数の日本人の感じ方であろうが、そうした神不在の精神世界とはいかに大きな差があることだろう。
耳を傾けて聞いて下さる神、そのような神が同時に、天地宇宙を創造し、万物を今も御支配なさり、導いておられる、それは常識的に考えると到底あり得ないようなことである。
無限に大きく、遠いお方が、宇宙のなかのチリの一点にもならないような自分の叫びに耳を傾けて下さる、それが実際にあるとすれば、まさに奇跡である。そしてその奇跡が現実に生じたのだというのが、この詩編なのである。そのような驚くべきことをなさしめたのが神であり、神の愛ゆえである。そのため、この詩は背後に神ご自身のお心があり、だからこそ、人間の詩でありながら、神の言葉として聖書に取り入れられたのであった。
このように、この作者は、自分の信仰によって歩んだ結果の経験を最初に簡潔に表現した。
次には、どのような困難に置かれていたかを述べていく。
…死の綱がわたしにからみつき
陰府の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」(三~四節)
この言葉によって、この作者がいかにけわしい状況に置かれていたかがうかがえる。それは一言で言えば、死の迫るほどであった。それは、こうした表現から重い病気であったと考えられているが、死の迫り来るほどに困難な状況は、病気や迫害、また戦争など世界のいたるところであったし、現在もあり続けている。
そのような苦しみの極限にあって、この作者は、叫び続けた。それによって、確かな救い、魂の平安を得ることができた。
…主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。(5~7節)
この作者の実感は、神は苦しみのとき、絶望的な状況にあっても必ず助けを与えて下さるという経験が与えられていた。このように追い詰められた状況から救われた者は、たしかにこれからもずっと神の救いを確信することができる。
…わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から(*)
助け出してくださった。
…命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。(7~10節)
(*)新共同訳では「突き落とそうとする者から」と訳されているが、原文では、単に「つまずき」「倒れること」という意味の言葉なので、二〇種類を越える外国語訳や他の日本語訳なども、「つまずきから救い出された」というように訳されている。
このような救いの確信が与えられたゆえに、作者は、自分の魂に向かって、「わが魂よ、再び安らうがよい(憩いに帰れ)」( Return, O my soul, to your rest,…)と語りかけることができた。
ここで、「帰る」という原語は、シューブという語で「(神に)立ち返れ」といった預言者が繰り返し強調する呼びかけに数多く用いられている。これは、方向の転換を意味する。
嵐の吹きすさぶ人生の荒海のなか、どこにも寄せるところがなかった船が、風も波もようやく静まって、港に入ることができた。それは、神の平安であったゆえに、この作者は、その平安に帰れと、魂に呼びかけることができるようになったのである。
人間をつまずかせ、倒れさせようとする力、それは至るところにある。そのような力、それは病気であったり、人間であったり、事故、災害であったりする。
しかし、そこから救い出されるという実際の経験こそは、この作者の生きる土台となった。それゆえ、生きているかぎり主の守りの内にあって歩みたいと願うようになる。
…わたしは信じる
「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
この作者は、苦しみのあまり立ち上がることができないほどになり、恐ろしい苦しみにあえぐことがあったし、人間の偽りに満ちた態度に苦しめられることもあった。それでも、信じ続けてきた。都合のよいことが起こる時だけ、信じることはやさしいが、この作者は死が近いと思われるほどの苦しみにあっても、人間の不信実に直面してもなお信じ続けた。
このような闇の世界から救い出された作者は、おのずから、この感謝と喜びをそのままにしてはおけなくなる。神に何かを捧げたい、という心に導かれる。
…主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
満願の献げ物を主にささげよう
主の民すべての見守る前で。…
あなたに感謝のいけにえをささげよう
主の御名を呼び
主に満願の献げ物をささげよう。
(詩編一一六より)
この詩は、作者が神に捧げるという豊かな心があふれてきたことで終わっている。それは、そのまま、冒頭の言葉、「私は主を愛する」という言葉につながっていく。
自分の最も大事なものを捧げようという心、それは深く愛するものがなかったらそのような心にはなり得ないからである。神を知らないときには、人間がしばしばそのような、愛の対象となり、特定の人間に何もかも捧げてしまい、その結果欺かれて人間不信に陥るということはよく見られる。
あるいは、仕事や事業などに捧げることも多くあるだろう。そうしたものに捧げた結果、魂の奥深いところでの平安や静かな喜びは退いていく。
それは捧げた対象、仕事や人間は移り行くものであり、変質していくものだからである。捧げようとするからには、最もよいもの、重要なものと思えばこそである。しかし、時代や状況によって、また人間の罪によってそうした大切だと思われたものもいとも簡単にその価値を変えていく。そうなると、かつて必死になって捧げたのは何だったのか、と深刻な疑問に取りつかれることにもなりかねない。
いかなる苦難のときにも、私たちの声がかき消されるような細い声になっても、なお耳を傾けて私たちの叫びを聞いて下さる、その神の愛ゆえに、私たちは神とともに歩み、神に魂の最も大切な部分を捧げていく心へと導かれる。
休憩室
○わが家の大きなクヌギの木、そして近くの小さい谷川のそばにあるムクの大木は、いずれもその葉を落として静かにその枝を天にのばしています。朝夕の寒さも冷たい風をもすべて受けて立つその姿は、静かな力を沈黙のうちに感じさせています。
特に長い歳月を経てきた大木は、日の光も雨風も寒さ暑さにも耐え、周囲の世界の移り変わりもすべて見つめてきたためか、見ているだけで、私たちの魂に響くものが伝わってきます。
ことば
(252)涙をもって食物をとったことのない者、
苦しみ多い夜を
ベッドにて涙を流しつつ過ごしたことのない者、
そのような人は、天の力を知らない。
(「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」ゲーテ著(*) 第二巻13章より。筑摩書房刊 世界文学体系 72頁)
Wer nie sein Brot mit Tranen as,
Wer nie die kummervollen Nachte
Auf seinem Bette weinend sas,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Machte.
(*)ゲーテ(一七四九年~一八三二年)はドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家。このような多方面に多くの業績を残した。ゲーテは特に語学に長けており少年時代には、すでに英仏伊の国語を習得し、さらに、古典や聖書の研究に不可欠なラテン語・ギリシア語・ヘブライ語をも習得していた。詩作も幼少時からで、最初のものは彼が八歳ものだという。
(253)もし、ある人が「偶然」を、何等の原因とも結びつかない、でたらめな運動から生じた出来事、と定義するなら、私はこのような偶然は決して存在しないことを確言する。
すべてを秩序の中に保っている神のもとにあって、でたらめが存在するどんな余地があり得ようか。
(「哲学の慰め」ボエティウス著 第五部の一、 一九五〇年版、二〇三頁)ボエティウスは、四八〇年~五二四年頃の人で、古代ローマの哲学者、政治家。右の書は、獄中にあったときに書いたもの。キリスト教の三位一体論やキリスト論についての神学的著作もある。
・万物を御支配なさっている神を信じるとき、偶然というのはなくなる。偶然というのは、どうしてそうなったのかその理由が分からないことである。
しかし、万能であり、すべてを愛によって導かれる神を信じるときには、偶然ということは、あり得ないものになる。
(254)受けとる者であり続けること―へりくだる心から。そしてお前の柔軟性を保て。
受け取る者であり続けること―そして感謝せよ。
耳を傾けること、見ること、そして理解することが許されていることを感謝すること。
(「道しるべ」ダグ・ハマーショルド著 一一七頁 みすず書房刊)
(著者は元国連事務総長)
To remain a recipientーout of humility. And preserve your flexibility.
To remain a resipientーand be grateful.
Grateful for being allowed to listen,to observe,to understand.
(Dag Hammarskjoprd:MARKINGS )
・「受けとる者であり続ける」とはどういうことを意味するのか、これは神を信じない立場にあれば、こんな受け身の態度ではよくない、というように理解するであろう。
しかし、愛の神を信じるときには、まったく違ってくる。主イエスが言われたように、神の愛は、太陽の光のように、また降る雨のように、無差別に注がれている。私たちはただ心の戸を開いてそれを受けとるとよいのである。神の国は近づいてそこにある、魂の方向を転じてその神の国を受けなさい、というのが、キリストの宣教のエッセンスであった。十字架による罪の赦しも、永遠の命も復活もみなすでに誰でもが取り込めるように置かれている。これらの真理は、いわばこの世界の中心に置かれていて、誰でもがそこにアクセスして、自分の内に受けることができるのである。
主イエスは私たちのために、その愛のまなざしを注ぎ、祈りをもって見つめておられる。そのまなざしも、私たちが魂の静けさを持って待ち望むとき、だれでもが受けられる。
使徒パウロも、自分の意志とか考えでなく、主によって選ばれ、呼びだされ、遣わされたのだということを彼の手紙の冒頭にしばしば記している。ここにも歴史上で特別に重大な働きをした人が、魂の深いところで、受けとる者であり続けた、ことを示している。
そしてこのように、神が与えようとしておられるものを受ける心の準備を常にしていることが、心の柔軟性を保つことになるというのである。
編集だより
○来信より
・十二月号「枯れ葉の道」… 自然を観察し、そこに神様の働きを感じ取られることは素晴らしいことです。 私も、今朝早く近くの山道を歩いて来ました。富士山とご来光が同時に見える高台があります。この光景は、昔も今も将来も変わらないものでしょう。
「平和への道」… 長文を読ませて頂きました。
永遠の平和への大道が、ずっと続いていることに感謝いたします。クェーカー、トルストイ、ガンジー、キング、 内村とつながる 命をかけた平和への道筋に神様のお働きを感じます。
私はいつも 「主にある平安」を 自分のためにもひとのためにも祈っています。(関東の方)
○毎回学ぶことが多く、励まされ、支えられています。神の平和は、人間がふつうに求めるような国家間同士の戦争のない状態だけにとどまらない、新しい天と地に希望を見出すことができること、この世において、神による平和を実感できるようにさせて下さっていること、また、具体的にも、神様はその意志に合った人たちを創り出すひとが連綿と続いているということなどを、教えられました。
自分が若いときは、気持ちが前へ前へと勢いよく進んでいくことができたのですが、周囲の老いを思うとき、自分のこれからのこと、日本の将来を思うときに、夜中に眠れなくなることがあります。そんな時、ただ祈って、イエス様を通して神様にすがって、眠りにつくことができます。…インターネットを使っていますので、徳島でなされている礼拝の聖書講話もダウンロードさせて頂きます。(関東地方の方)
○「いのちの水」誌の十二月号を読んで。
「平和への道」という文のもとになった大阪のクリスマス講演会の様子を那須君のホームページから聴かせて頂きました。
一人一人が求めるべきもの、それは「神の国と神の義」であること。そして神の言葉に聴き従うこと、これが大事。 闇と混乱の中で私たちが待ち望むものは、「光あれ!」と「いのちの水」。
・真の戦いは、神への信仰によって、神ご自身が戦われるということ。・滝廉太郎、彼がクリスチャンとは知りませんでした。 (関東地方の方)
お知らせ
○毎週火曜日夜の夕拝は現在、エゼキエル書を学んでいます。関心のある方は、次からダウンロードして聞くことができます。
http://www.geocities.jp/ekklesiajapan/
○移動夕拝の開催に集会員の熊井さんから申込があったので、次回以降に組み入れます。
・二月の県外の吉村 孝雄が聖書講話を担当する集会予定は次のとおりです。
○丸亀市(丸亀集会) 二月四日(日)午後三時三十分~五時
・場所…丸亀市飯山町上法軍寺岡1334ー16(小林宅)
・電話…0877-98-1681
○神戸市での集会(夢野集会) 二月十四日(日)午前十時~十二時頃
・場所…神戸市兵庫区菊水町10丁目 三九ー十一ー一ー四一七 (上田 末春宅)
・電話… 078-531-1365
○高槻市での集会(高槻聖書キリスト集会) 二月十四日(日)午後二時~四時頃
・場所…大阪府高槻市塚原五~八~五 (那須宅)
・電話…0726ー93ー7174
○松山市(山越集会) 二月二十五日(金)午前十時三〇分~十二時
・場所…松山市山越1丁目五~三十五 (二宮宅)
・電話 050-1288-6075
徳島聖書キリスト集会案内
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(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時30分から。 毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で場所が変わります。(場所は、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市国府町のいのちのさと、吉野川市鴨島町の中川宅)です。
☆その他、読書会が毎月第三日曜日午後一時半より、土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、水曜日午後一時からの集会が集会場にて。また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(毎週月曜日午後一時よりと水曜日夜七時三十分よりの二回)、海部郡海南町の讃美堂・数度宅
第二、第四火曜日午前十時より)、徳島市国府町(毎月第一、第三木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂(綱野宅)、徳島市庄町の鈴木ハリ治療院などで行われています。また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは次へ。
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