神は人の歩む道に目を注ぎ |
2007年 5月 556号・内容・もくじ
風
早朝、まだ暗いときから風が吹いている。時折の小鳥の声を乗せて、またあちこちで木々や葉を鳴り響かせながら吹きわたっている。夜の闇に、また光に満ちた昼も、あるいは藪のなかにも、高い梢をも、さらに高く雲の流れるところも、風はどこにでも吹いていく。
そのように、神の国からの風は、私たちの小さな心にも、また病や孤独に悩み、人間同士の憎しみや悲しみのなかにも吹いていく。
そしてその風に触れた者、受け入れた者は、変えられていく。
…風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハネによる福音書三・8)
聖書には、その巻頭の創世記においてこの風(*)が現れる。全くの混沌と暗黒のなかにあって、神の霊的な風が吹いていたことが記されている。
(創世記一・2)
(*) 聖書の原語であるヘブル語でもギリシャ語でも、霊という語と、風という語は同じであって風は霊を暗示するものとなっている。
現代においても、神の国からの風(聖なる霊)を誰が受けるか分からない。それは人間の思いを超えたところで神がなされる。私たちはただ祈って待つ。自分自身の魂のうちに、そして闇と混沌のなかにある人たちの魂、さらにこの世界にそのような風が吹き続けるようにと。
信望愛と、求め、捜し、門をたたくこと
「信仰は求め、希望は捜し、愛はたたく」という。
私自身、若き日に神とキリストを信じて初めて目に見えないよきものを求めるようになった。そして神が与えて下さるという希望をもって、より深い真理を探し求めるようになり、さまざまのよき書物と、その書を書いた過去の人物や、現在生きている人たちとの出会いが与えられてきた。そしてさらに神が私の魂を愛をもって叩いて下さっているのが少しずつ分かり始めた。
… 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。
(黙示録三・20)
主とともに食事をする! このようなことを誰が本気で考えたりするだろう。しかし、そのような驚くべき恵みが、求めるなら誰にでも与えられると約束されているのである。
そしてその恵みを与えられた者は、受けた神からの愛をもって、身近な一人、二人の心の扉をたたき続けるようになるであろう。
小さな世界からの脱出
妻が古い苔むした水瓶にメダカを飼っている。餌を上からまいてやると、喜んで食べる。メダカたちはその小さな水瓶の世界を小さいとも知らずにそこが自分の世界として満足しているように見える。
人間も宇宙からみれば、この水瓶よりはるかに小さな世界である地球のそのまたきわめて狭いところに、そのうえ自分という小さなものに縛られて生きている。そしてそれが小さいということも自覚していないことが多い。
さらに、目には見えない広大な霊の世界においても、私たちはやはり自分という小さく狭い世界に生きていて、水瓶の中のメダカのようなものである。
しかし、私たちはメダカと違って霊的存在であり、神に導かれ、その霊を注がれることによってこの水瓶のような小さな世界から脱して広大無辺の世界へと導かれて行くことができる。
「希望とは、何と勇敢な能力であろう。それは一瞬にして無限、永遠をわがものとしようとする。」と言った思想家がいるが、キリスト者にとって希望とは、単なる夢や空想でなく実現される事実なのである。
「ああ、幸いだ、心貧しき者たちは! 天の国はその人たちのものである。」と主イエスは言われた。貧しき心とは、自分の罪深さを知り、何にも頼ることができないことを知っている幼な子のような心を意味する。そのような心でただ、神を仰ぐだけで私たちに神の国という無限のもの永遠のものが与えられるという約束なのである。
一人も滅びないで
私たちは絶えず滅びの力にさらされている。滅びの力とは死の力である。また悪の力である。昔の強大な帝国も滅び、現代の人間もその人間が創り出した文化、文明などもそのうち滅んでいくであろう。
そして現在生きている人間も、そのうち死んでいき、今生きていてもすでに悪の力によってその魂のよき部分が滅ぼされ、善悪の判断もつかなくなってよきこと、美しいことに感じる心すら失い、自分の行動がどんなに自分の生涯や相手、あるいは家族の生涯を苦しめ、破壊するかをも考えることもできなくなって重い犯罪を犯してしまうような人たちもいる。
このように、大きな波が打ち寄せるように滅びの力は絶えず私たちに向かっている。それは、身近なこととしては、死というかたちで絶えず私たちも実感せざるを得ない状況にある。そしてその死の力はまた悪の力ともしばしば深く結びついている。悪の力が人を支配するときその人自身の魂は死に至るし、そのような人間は憎しみや怒りなどによって他人の命を奪うこともあえてするようにもなるからである。
滅びゆく人間の魂の世界、それは闇と混沌である。生きる希望が失われ、あるいは悪の力にとりつかれてしまった人間の心は闇であり、また何が善いことなのか、何が希望なのか自分はどうなるのか、頼れるものがあるのかないのか、魂は濁った水の中にうごめくように全く分からなくなる。
このような滅びに向かいつつある魂は実に多いことだろう。私もかつては何が真理かも分からず、人類の未来とかこの世界、宇宙の前途は、また悪の力に打ち勝てるのか、人間の無力さ醜さなど、さらには病気のこともあり、心は混沌とし、滅びの波が打ち寄せていた状況であった。
しかし、この世界は決してこのような闇と混沌、混乱の状況が究極的な姿ではない。
そこから救い出そうとする強大な力がある。それは、いかなる滅びの大波にまさってそれらの闇の力を呑み込むはかりしれな力であり、そのことを宣言しているのが聖書であった。
聖書はその巻頭から、この大いなる力をはっきりと述べている。
それは、創世記の最初に記されている。闇と混沌の世界に「光あれ!」という神の言葉は、それ自体が、滅びようとしている人たちすべてへの救いのメッセージなのである。滅びようとしている魂とは、闇と混沌にある魂であり、そのようなところにこそ、神は光を注ごうとされている、そこに神の愛がすでに聖書全編に対する要約と言えるように記されている。
私は、聖書とキリストを知ってはじめてこのことが、単なる思想や主義、主張でなく、永遠の真理であることを深く知らされたのであった。
聖書の最初に記されているこの、「光あれ!」というみ言葉、そしてその神の言葉によって、光が現実に生じたということは、さまざまの問題の根本的解決を指し示すものとなっている。
聖書の記述は相当な部分が、このように一見私たちと関わりがないように見えることが実は深い関わりを持っているのが分かってくるようになっている。それは、神からの教えを受けることによって、また自分の経験によってそのように示される。
また、創世記二章で、エデンから水がわき上がり、エデンに神が創造された園を通って、そこから分かれて四つの川となって世界に流れだしていたことが象徴的に記されている。ここにも、神は全世界をうるおそうとしていることが示されている。
また、罪の赦しということがなければ、すべての人間は滅ぼされてしまう。罪の元となったアダムとエバに対する罰はどのようなものであっただろうか。それは、働く苦しみであり、女は産みの苦しみを持つようにされたというのが、罰であった。しかし、そうした罰だけでなく、意外にも、サタンの力に勝利する力を与えられるという約束がすでに記されている。
…お前(蛇)と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。(創世記三・15)
これは、何を言っているのか分かりにくいところがあるが、人を罪に誘惑する力、サタンの象徴たる蛇と、女の子孫すなわち人間との間に敵意を置く。耐えざる敵対関係に置かれる。サタンは人間を絶えず攻撃して悪へと誘惑しようとする。それによって人間は、「かかとを砕かれる」まともに歩けないほどの打撃をも受ける。しかし、人間―ここでは、人間の究極的なすがたとしてのキリストが暗示されている―はそれにもかかわらず、最終的には、神の力によってそのような悪の力の頭を砕く。すなわちその悪の力の中心を砕いて勝利することができる、という預言であり、約束である。
救いとは、悪からの救いであり、悪に対する勝利である。万人が救いに入れられるように、との願いは、このように万人が悪に勝利するように、という願いと同じである。人間の子孫、人間全体に悪に勝利するような力が与えられるという約束こそは、一人も滅びないで悪に勝利することができるようにという神のご意志が背後にある。
このような神のご意志にも関わらず、現実の人間は、絶えずその自由意志によって神に逆らっていく。それがひどくなってついに神は罰を与え、大洪水ということになった。それは、一人も滅びないでというご意志とは相いれないように見えることであった。ノアとその家族以外はすべて滅ぼされてしまったからである。
旧約聖書では、このように矛盾したように見えることが並行して記されている。(*)
そして徐々にそうした矛盾に見えることが、キリストによって統一されていくことがうかがえる。
(*)例えば、死者の「復活」というのは旧約聖書の創世記からサムエル記に至るはじめの部分には全く記されていない。 人は死んだら「先祖の列につながる」とか、光もない陰府の世界に行くと記されている。
しかし、詩編には次のような言葉が記されており、旧約聖書においても陰府という暗い世界とは別の世界があることが部分的に啓示されている。
…命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。(詩編十六・11~12)
他にもヨブ記やダニエル書にも復活を示す言葉がある。
あるいは、武力による戦いに関しても、神ご自身がペリシテ人やアマレク人たちとの戦いを命じて討ち滅ぼせという命令を出していると記されている箇所もあるが、他方では、イザヤ書二章四節のように、武力による戦いはなくなること、神ご自身が国々のことを裁き、武力による戦争がなくなる、ということも記されている。
旧約聖書はすべてキリストを指し示す、と言われているが、復活した後に主イエスご自身も、次のように言われて、イエスのことは、旧約聖書の全体にわたって預言的に記されていることを示している。
…イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(ルカ二四・44)
旧約聖書には人間の救いについても、多くの人たちが裁かれ滅んでいくことが記されているとともに、神の愛は苦しみや悩み、闇にある人たちのすべてに及ぶことが示されている。
それは神の霊によって時代を越えて真理を啓示された詩編によってもうかがえる。
貧しい人は、永遠に忘れられることなく、
苦しむ人の希望は決して失われない。(*)(詩編九・19)
(*)ここで、「貧しい人」と訳されている原語(ヘブル語)は、エビオーンで、これは英語訳ではほとんどが needy と訳されている。needy とは、having very little food or money ということで、ほとんど食物やお金を持っていない困窮した状態をいう。それゆえ、新共同訳の「乏しい」という訳語は意味が軽すぎると言えよう。実際、乏しいという日本語は、少しの欠乏でも使う。小遣いが乏しくなってきた、最近は私の庭には緑が乏しい、等々。詩編の作者はそうしたちょっとした欠乏を言っているのでなく、そのすぐ前の節にあるように、「憐れんで下さい、死の門から私を引き上げてくださる方よ、…」死に瀕しているほどの苦しい状況からの叫びなのである。
詩編は並行法で作られていることが多く、一行目と二行目はほぼ同じ意味を、異なる表現で表している。すなわち、ここで言われていることは、敵対する人間からの迫害や圧迫による苦しみ、病気、あるいは食物もないような貧しさ、さらに精神的な重圧、悩みなどさまざまの苦しみにある人は決して忘れられているのでない、ということである。
こうした弱い人たちが決して捨てられず、神の愛のまなざしの内にあるという確信がここにはある。
このような神の本質は、次のような詩にも同様にみられる。 現実には至るところで権力者が力をふるい、弱いもの貧しい者たちが圧迫されている状況があるにもかかわらず、そのただなかに神からの直接の言葉として聞き取ったのである。そしてこの神のお心はそのまま新約聖書のキリストの愛のお心へと流れている。
…主は言われる。
「虐げられて苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」(詩編十二・6)
苦しむ者、救いを求めて叫ぶ者のために立ち上がって下さる神であるからこそ、あらゆる人に愛のまなざしを注がれる。
次の詩は、そうしたすべての者への神の愛をはっきりとうたった内容となっている。
主は全てのものに恵みを与え
造られたすべてのものを憐れんで下さる。
主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し
あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえるように。
(詩編一四五・9~10)
旧約聖書は、ユダヤ人だけが救われるといった選民意識がある、と言われることが多い。しかし、ここに引用したように、旧約聖書にはそうした傾向だけで終わることなく、神の言葉は万民に及ぶ、世界の果てにまで及んで、国や民族を越えて神のことを知って讃美するようになることが記されている。
ここにも、神がすべての人を憐れむこと、一人をも見捨てない神の御愛が示されている。他の民族は汚れているとして見下し、排除しようとする多くのユダヤ人たちの中にあってこうした神の言葉の真理は少数の人たちによって啓示として受けとられ、聖書に記され、それが聖書の奥深い流れとなっていったのである。
こうした流れは、霊的に深いものをたたえているイザヤ書にもみられる。
…見よ、私の僕、私が選び、喜び迎える者を。
彼の上に私の霊は置かれ、…
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
真実をもって道を示す。
(イザヤ書四二・3)
ここにも、旧約聖書においてすでに、一人も滅びないようにとの神の愛の配慮が預言されている。イザヤという預言者は、いつかははっきり分からないが、将来に神ご自身が救い主をこの世に送ること、それをまず確信できるようになった。
それから、その神の御性質が示され、後に実際にこのようなお方がイエスという人間の姿をしてこの世界に現れたのである。
このようにあらゆる人が救われるようにとの神のお心は、すでに旧約聖書の詩編やイザヤ書においてもはっきりとみられるのであって、そうした大きな流れが世界にあると言えよう。
救われるとは、罪からの救いである。あらゆる人の罪からの救いをいかにして可能にするのか、それは最大の問題である。旧約聖書のたいていの預言者は、神からのメッセージである「神に立ち帰れ」、ということを繰り返し告げてきた。しかし、命がけでこのことを語り続けてもなお、数知れぬ人たちが神に立ち帰ることをせずに滅びていく。立ち帰ろうとする人でも自分の力、自分の決心でなそうとする。そのような自分中心の考えによっては神に立ち帰ることはできない。
それゆえ、全く旧約聖書においては他に例を見ない新しい道を神は創造された。それが次のような道であった。
… 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負うた。…
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。
(イザヤ書五三章より)
それまでは、神が預言者を遣わし、繰り返し神に立ち帰れと警告し、それにどうしても従わないかたくなな者たちを苦しめ、滅ぼすことによって立ち帰るように仕向けられた。
しかし、それでもなお、立ち帰ることをしない圧倒的な多数の人たちを、そのまま見捨てることをしないで、このように、彼らの罪を自らが身代わりに担って苦しみ、死んでいく、という予想もしないような道がここに示されたのであった。
人間を本当の幸いに向かわしめるために、言葉だけで教えるのは一番簡単である。さらに、自らの正しい行動によって指し示すこと、それはより困難なことである。そしてそれでも悔い改めない人たちのために、日夜祈り続けて神の助けを待ち望むこと、そうしたことによってもなお、悔い改めようとしない人たちがいる。
そのような人たちへの全く新しい道がここにある。そしてこれこそ、このイザヤ書に預言された道であり、それを実現したのがキリストの十字架の道であった。
新約聖書の中には、旧約聖書にある記述を完成するかたちで、一人も滅びないようにとの神のご意志はさまざまのところで表されている。
…天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ福音書五・45)
これは、万人が救われるようにとの父なる神の愛を示している。神は悪人にも善人にも、その愛を注いで、愛のまなざしを向けて見守っておられるということである。このように、神の愛ということを誰でもが日常的に経験している身近なことを用いて示される主イエスのお言葉がとりわけ印象的である。
そして、主イエスの次の言葉も、この一人も滅びないように、とのお心から出ている。
…あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・43~44)
敵対するもの、悪人というべき者を憎むことは、その人たちが滅びてしまうことを望む心である。このような悪意、敵意は至るところにある。小さな子供のときからそれはいじめという形で現れるが、大人になっても、老齢になってもこうした心は広く見られる。
しかし、そのようなすべての人間的な心に対して主イエスは、そのような人たちの魂を慈しみ、彼らの魂のために祈れ、と言われた。それはいかに悪いと思われる人であっても、その人が滅んでしまうことを望まないで、救われることを望む愛のゆえであった。
本当の愛はどこまでも救いを望むからである。
このような一人も滅びないでという願いは、九十九匹の羊をおいて、迷い出た一匹の羊を探し求める主イエスの姿にも現れている。
九十九匹はさしあたり大丈夫であるなら、見失われた一匹のために多くのエネルギーを注ごうとする。そうして一人も失われないようにと願うのである。 この心は、そのためにエネルギーと時間、さらに主イエスは命すら注ぎだされたのであった。
使徒パウロが、ローマの信徒への手紙で述べているように、イスラエルの人たちの救いのためには、自分がキリストから離され、神から見捨てられてもよいとまで言っている。(ローマ信徒への手紙九・3)
パウロは、以前はキリストを受け入れるどころかキリスト教徒に激しい迫害をしていたので、そのままでは裁かれることがはっきりと分かっていた。
それゆえ、キリストに回心してからは、滅びようとする人が何とか救われて欲しいとの真剣な願いを持つようになったのである。
悪しき者であっても、そのまま裁きを受けて滅びるように、というのはキリスト者が願うべき事ではない。
最初の殉教者、ステファノが、石で打ち殺されようとして、まさに息を引き取ろうとする時にも、そのような憎しみに燃えた人々の罪の赦しのために祈ったのも、その心であった。
…人々は大声で叫びながら、ステファノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。
こうして、彼らがステファノに石を投げつけている間、ステファノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。(使徒言行録七・57~60)
ステファノはただ、神からうながされるままに真実を語ったが、人々から激しい憎しみを受けて石で打ち殺されそうになった。そのような時、普通の人間感情からは、恐怖におびえてしまうか、石で打たれる痛みに正常な判断もできなくなってしまうだろう。しかし、彼は、そうした時に生涯で最も高く霊的に引き上げられて、神の世界を見るように導かれ、イエスが神と同じお方であり、神の右におられるのがありありと見えたという。そのように引き上げられたからこそ、周りの燃えるような憎しみをもって攻撃してくる人たちに対してすら、彼らの罪が赦されるようにとの祈りのうちに息を引き取ることができた。
こうしたあらゆる人への救いを願う心は、当然その福音を誰にでも分かる言葉で述べることにつながっていく。主イエスは、難しい言葉を使ったりせず、わかりやすい言葉でしかも意味は深く、霊の耳と目を開いて受けとろうとするならば、学問もなく、知識もなく、また人生経験もなくとも、真理が分かるように語られた。(*)
(*)日曜日の聖書の説き明かし(聖書の講話、説教)についても、難しい言葉を使い、大学以上の教養を前提としたようなもの、あるいは、現在の苦しみや悩みに打ち倒されそうになっている人が参加していても全くその人たちのことを配慮せず、延々と語句の解釈を語る聖書講義がなされる場合がある。しかし、このような語り方や内容はすべての人が救われるようにといった心でなされていないのであって自分がどれほど特別な解釈を考えたか、どれほど調べたか、といった研究発表的な内容が多い。
一人も滅びないで、という神の御心は、日曜日の礼拝に参加した人が、一人も用語が難しいとか論理についていけなかった、あるいは自分の苦しみに何の励ましにもならなかったなどという思いで帰る人がないように配慮を求めていると言えよう。
次の毒麦のたとえは、一人も滅びないように、ということと、どのような関係があるだろうか。 麦を蒔いたのに、いつのまにか毒麦が生えてきていた。それを抜き取ろうとした僕に答えて、主人は「抜き取るな」と言った。
意外な言葉である。その理由は何なのか。それは毒麦を抜き取ろうとして、麦まで抜いてしまうからだと言われた。ここには、よい麦と毒麦を判別できないこと、毒麦だけを正確に抜き取ることができないことが暗示されている。たしかに、私たちがこの主イエスのたとえを聞いて、いったいどのようなものを毒麦として連想するであろうか。それは恐らく悪意を持って自分を責める人、いじめとか不正をやっていて世間で悪いことをしているとみなされている人、新聞などに載る犯罪者などなどであろう。
しかし、そのような判断の中に、自分は毒麦でないという前提がある。けれども、人間の内には本人も分からないような毒麦にたとえられるような闇が潜んでいる。それは聖書においては、すでに兄弟アベルを殺したカインの記事に見られる。神によき物を捧げているアベルを妬みのゆえにカインが殺したという、目をそむけたくなるような記事である。人間の最初の家庭においてすでにこのような毒が入り込んでいる。
このような人間はただちに神が厳しい罰を与え、滅ぼすと思われるのに、意外なことに、滅ぼすことはされなかったのである。神はたしかにカインにそれ以後もずっと続く罰を与えた。しかしそれとともに、カインを殺すことのないように、一つのしるしをカインに付けると言われた。
このように聖書の最初から、毒麦をそのまますぐに抜き取ってしまわない、忍耐して待っておられる神のお心が記されている。こうした神の愛による忍耐は、新約聖書にも記されている。
… ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
(Ⅱペテロの手紙三・9)
このように、人間は悪への裁きが遅い、悪を一掃するためのキリストの再臨が遅いと思う。しかし神は決していたずらに遅らせているのではない。それは万人を救おうとの神の忍耐と愛の現れなのである。
このような、一人も滅びないで、という願いは、新約聖書の最初のイエスの誕生のときからはっきりと現れている。それは、マリアがイエスをみごもったときに告げたのは、次のような言葉であった。
…その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ一・21)
神がイエスを地上に遣わしたのは、単によい教えを伝えるためでなく、また奇跡的なわざを見せるためでもない。病人をいやすためであるとも言えない。病気をいやすためならそれは健康な人には関係のないこととみなされる。
しかし、罪からの救いということは、万人の必要とすることで、しかもいかなることよりも重要なことである。一部の人のためでなく、万人の罪からの救いのためである。それはすなわち罪というものを持っている人がすべて救われるようにとのお心からである。
次に、主イエスの山上の教えの最初に置かれている内容を見てみたい。
…ああ、幸いだ、心の貧しい者は。
天の国はその人たちのものだからである。
ああ、幸いだ、悲しむ人々
その人たちは慰められるから。
ああ、幸いだ。義に飢え渇く人たち。
その人たちは満たされるからである。(マタイ福音書五・3~6)
ここで幸いだ、というのは滅びるということと逆のことを意味している。
心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人たちの幸いが告げられている。
特定の能力がある人が幸いだとか、地位、家柄などがある人たちは幸いだ、というのではない。心の貧しさ、悲しむ人、自分が正しいことはできないが、その正しいこと(正義)を見つめ、飢え渇くように真剣に求めるだけで、私たちは満たされると言われている。
ここには、どんな状況にある人であっても、心を神の前に低くするだけで天の国が与えられる、ということがあり、また悲しむ人たちは幸いだ、それは神からの慰めを受けるからだ、ということも、人から捨てられたような、あるいは人間がどうすることもできないような悲しみにある人たちも、神に向かうだけで慰めを受けるということであり、ここにも、人から捨てられていくような人々をも広く御手を広げて受け入れて下さる神のお心がある。
墓場にいた悪い霊に取りつかれた人がいて、精神の荒廃した状況になっていた。そのような人のうちにあった悪の霊をも追いだして救い出されたこと(マタイ八・28~34)、また自分で起き上がること、歩くこともできず、絶望的な状況で生きていた人が、その人を運んできた人たちの信仰によって救われたということも記されている。
あるいは、耳の聞こえない人、目の見えない人、ハンセン病の人などなど、さまざまな人たち、とくに当時は見捨てられた状況にあった人たちに特に心を注がれたこと、そこにこの世が捨てたものをイエスは見出して救い出そうとされている姿がある。
十二人の弟子たちを選んだときに、主イエスはどんな力を彼らに与えただろうか。それは、特に「汚れた霊に対する力」であって、「汚れた霊を追いだし、あらゆる病気をいやすため」であった。彼らを人々のところに派遣するときも、「失われた羊のところに行け」(マタイ十・6)と言われた。
失われた羊とは、悪の力また病気や悩み、自分に宿る罪の苦しみなどによって打ち倒された人たちである。このようなことから見てもうかがえるのは、主イエスの伝道は、最初からこうした失われた人々に手を差し伸べるためであったし、十二弟子を派遣したのもその目的を達成するためであったのが分かる。
ぶどう園の労働者のたとえというのがある。
…「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
(マタイ福音書二十・1~10)
朝から働いた人も、夕方からわずかの時間働いた人に対しても主人は同じ賃金を払ったという。このようなことはとても意外なことである。 それは、どんな意味があるだろうか。誰も雇ってくれないので、夕方まで雇ってくれるのを待ち続けた人、それはもうほとんど見捨てられた人である。だれも雇ってくれない、それは多くの人から無視されるような弱さや病気あるいは何らかの外見的な不都合なことがあったのかも知れない。これは失われた羊と似たものである。
しかし、人が相手にしないような者であっても、神は重要な存在だとして愛をもって扱って下さる。ここにも、この世が見捨てたような者をも、とくにすくい取ろうとして下さる神のお心が記されている。
また、次のぶどう園のたとえを見てみよう。
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
(マタイ二一・28~32)
これは、はじめは放蕩息子のように父なる神に背を向け、自分の欲望中心に生きていた人が、さまざまの経験をし、またいろいろな苦しみをも通って、晩年になってようやく神に立ち帰り、それによって神の国に入ることができるようになるという。
ここにも、どこまでも神に立ち帰ることを待って下さる神のお心が示されている。そのために、ユダヤ人独特の供え物や割礼などの律法、儀式的なことを一掃し、ただ神がこの世に送られたキリストを信じるだけで救いを受けることができる道を開かれたのであった。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。 (ヨハネによる福音書三・16~18)
この世にはさまざまの悪があり、誘惑がある。そこに引き寄せられることによって滅びへと向かう。私たちが人を憎んだり、無気力になったり、欲望に負けるときには必ず魂の深い平安は失われていく。真実なもの、美しいものへの感動もなくなり、それが魂の滅びを暗示させるものとなる。神の真実と愛をそのままご自身に持っておられるキリストを信じて受け入れないなら、このようなことが現実に生じてくる。それは教義とか説などでなく、事実そうなっていくのは私たち自身の経験や、周囲でいくらでも見ることができる。それを、このように、「信じない者はすでに裁かれている」という言葉で表現している。
一人も滅びないように、そのためにこそ、主イエスが地上に送られ、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けて十字架にて血を流され、そして復活されたのである。
このことは、すでに述べたように、旧約聖書のイザヤ書で驚くほどキリストの生涯とその使命をそのままに預言されていた。その預言から、七〇〇年ほどもの長い年月を経て、実現されるに至ったということ、それは神の長い期間を通しての御計画を指し示すものである。
使徒パウロはこのような長い期間を通してなされる神の御計画を、ユダヤ人の問題に対しても啓示された。
パウロのローマの信徒に宛てた手紙は、キリスト教の中心を述べたもので、きわめて重要なものである。そのかけがえのない書簡において、九章~十一章という多くの内容を充てて書いているのはやはり「一人も滅びないで…」という願いからである。そしてそれは単にパウロの個人的な願望を書いたのでなく、神の長期にわたる御計画をはっきりと他の誰よりも明らかに啓示されたゆえに、詳しく述べているのである。
七百年も前から、メシアが現れるということが預言されていたにもかかわらず、現実にそのメシアが現れたときには、イスラエルの人たちは多数が受け入れず、ことに当時の宗教的、また政治的指導者たちがイエスに激しい敵意をもって迫害し、ついに十字架にかけて殺害するということにまでなった。
そのようなことであるから、通常なら、ユダヤ人はもう救われない、神のさばきを受ける、とみなされてしまう。たしかに、その後まもなく、ユダの国はローマ帝国の武力によって滅ぼされ、そこから残った人々も追放され二千年近くもイスラエルの地に帰ることができなくなってしまった。
そのような破局は迫っていたが、パウロがローマの信徒に手紙を書いたときにはまだユダの国は滅ぼされてはいなかった。 しかし、こうした滅亡が刻々と迫っていることを、予感していたのである。主イエスご自身も、イスラエルの滅びをはっきりと知っておられた。(*)
(*)次はそれをはっきりと示す箇所である。
…エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
(ルカ福音書十九・41~44)
このような重大な状況にあって、パウロはユダヤ人たちの滅びをまざまざと見る思いがあった。彼らは、「不信仰のゆえに折りとられた」(ローマ十一・20)とパウロは言っている。
しかし、ユダヤ人は、折り取られた(滅ぼされた)ままになってしまうのかというと、決してそうでない。そのようなかたくなさとか折り取られるという悲劇も、神の全世界の歴史を通しての御計画なのであって、ユダヤ人がそのように主イエスを拒み、殺すに至ったことも、それが用いられて異邦人の救いとなり、さらに最終的にはイスラエルがすべて救われるに至るためだと述べている。
… 兄弟たち、次のような秘められた(神の)計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
こうして全イスラエルが救われるということです。…
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
(ローマの信徒への手紙十一・25~33)
このように、パウロが歴史を通じて行われる神の御計画を啓示されたゆえに、そしてそれは他の人には全く分からなかったゆえに、「秘められた計画」と言っている。
パウロが思わず感動の余りに書いたと思われる表現を使っているほど、特に深い感動をもって語っているのは、彼自身もかつてそのような神の御計画については聞いたことも考えたことも、思い浮かんだこともなかったからであると考えられる。
それはすべての人を救おうとされる神、どんなにかたくなであっても、それをも越えて救いに入れようとされる神の深い御計画と愛をまざまざと啓示されたのであった。
キリストを殺したような人たちは毒麦ということになるだろう。しかし、その毒麦を簡単に刈り取ってしまってはいけない。神はその毒麦をも用いてよき麦の成長の道具とし、さらにその後に毒麦をも変えていき、すべての者が救いを受けるようにと働きかけるのである。
神の愛は、一人も滅びることなく、というお心が根本に流れている。それはこのように背き続けるものにも繰り返し働きかけることにより表されてきた。そしてそれでもなおそのような神の愛に背を向けて受け入れない者は裁かれる。
そして多くの苦しみを受けることになる。しかしそれはそのまま放置するためでなく、そのようなかたくなさをも用いて多くの人々への救いにつなげるためなのであった。
そして、それだけでなく、死者の世界、背いた者たちのいる世界にまで行かれて宣教された、ということが新約聖書のなかでも次の一カ所だけに記されている。
…霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教された。(Ⅰペテロ三・19)
宣教をしたということであって、そこでキリストに背いた者たちがどうなったのか、悔い改めたのかなどは記されていない。このことは、主イエスもパウロやヨハネの手紙にも触れられていないことであって、その意味ではこの記述は例外的な内容となっている。
しかし、この記事も含めて、こうしたさまざまの方法によって神はあらゆる人に神の愛を及ぼし、闇と混乱の世界から救い出そうとされているのは聖書全巻にわたって示されている。
私たちは、このような神の広大無辺の愛によって、さまざまのよくない心やそこから出る言葉や行動等々計り知れない罪の数々を赦されてきた。
はじめに述べたように、私たちに絶えず襲いかかってくる滅びの力があるが、そうしたあらゆる闇の力に真正面から立ち向かい、自らの十字架上の死によってその滅びの力、罪の力に勝利し、復活によって死というすべてを滅ぼす力に打ち勝たれたキリストこそ、一人も滅びないで、という神の深い愛を目に見えるかたちにして現れた存在であった。
この世は、悪の力、死の力によって一人残らず滅んでしまうように見える。しかし、その世界のただなかに、それとは逆の、「一人も滅びないように」という切実な愛の心と力が働いていることこそ、この世界の驚くべき本質なのである。(5月17日の四国集会の聖書講話をもとにしたもの)
詩の世界から
神は愛である
その愛を
心に深く
感じ取ることが
できたとき
それは 私たちの
最高の時である(沼田吉嗣詩集より)
・山の縦走というのがある。山々のピークや尾根など最高のところをたどって歩むものである。かつて四国剣山や石槌連峰、北アルプス、近畿の大峰山系など何日もかけて重い荷物を背負って歩いたが、さわやかな大気と山なみ、汚れなき霊的な雰囲気等々生涯忘れがたいものとなった。
私たちが日々神のわざを実感し、その愛を感じて感謝を捧げて生きることができるなら、それはいわば霊の世界の縦走のようなものである。
使徒パウロが「常に感謝せよ、すべてのことに感謝せよ」と勧めているのは、そうした見えざる世界の縦走の喜ばしい生を自らが歩み、それを私たちにも与えられるようにとの勧めであるだろう。
憲法第九条の精神は変えることはできない
憲法を変えようという人たちが増えている。しかし、その多くは、古いものは変えたらいい、といった単純な発想である。これは例えば、家でも、車や衣服など生活用品でも、古くなったら変えるのは当然だといったごく普通の常識的な思いと共通している。
このような考えが成り立たないのは、文学や哲学、宗教、音楽あるいは美術などの分野である。例えば、ギリシャ哲学のプラトンの書物に記された真理、ダンテやゲーテ、シェークスピア、トルストイなどの文学にこめられた内容、バッハやモーツァルトなどの芸術が持っている真理は古くなったから変えよう、などという人はいない。真理であればこそ、時代やその状況にかかわらず永遠的な内容を持っているのである。
最も影響力がある書物は聖書であることはこの二千年の間変わっていない。聖書の内容を変えようなどという試みは大きなうねりになったなどということは全くなかった。十九世紀にアメリカで生れた新興宗教であるモルモン教とかものみの塔、あるいは韓国で戦後につくられた統一協会なども、聖書の内容を変えようとか、聖書に似て全く異なるものを聖書に置き換えようとする宗教である。しかし、それらによっても聖書は変えられなかった。現在においても聖書の内容を変えて、それを新たな聖書としようなどとする人が生じても、それは結局ある期間内のまたある範囲の人々に留まるであろう。
このようなことを考えてもすぐに分かるように、古いから変えるべきだ、ということは間違っているのである。真理にかかわることは、古いものがかえって多く保持していることも多いのである。
憲法を変えようとする人たちは、現在の憲法の内容がさまざまの面で不要になったり、改正すべき間違いがある、というためでない。とくに第九条の第二項を変えようとすることが中心的な目標である。それをいわばあいまいにして、環境問題とか伝統、文化、愛国心の記述、成立の過程などを問題にしていかにも多くの改正せねばならないことがあるように言っている。
憲法を変えようという人たちがよく主張している、環境問題への重視などは現在の憲法のままで、いくらでも対応できるのである。
憲法を変えたほうがよいという人たちの多くは、とくに若者たちはどこが問題なのか、憲法を変えないとできないのか、現在の憲法のままで法律を新たに作ったら対応できるのではないかなどを考えないで、ただ、六十年も経ったからという漠然とした理由を言うのが多い。
そのことは、最近毎日新聞が行った調査でも表れている。改正賛成の理由は「時代に合っていない」四九%で「一度も改正されていないから」二八%という。この二つを合計すると、七七%になり、これは要するに、どこが古いのかよく分からないが、とにかく古い憲法だから新しいのがよい、といった単純な理由なのである。
このことに関して、今から五〇年余り以前に書かれた「日本の憲法」という本で、著者の末川博が、次のようにのべている。
「…憲法改正論者の本当にねらっているところは、戦争を放棄して戦力を保持しないということに関する第九条の規定を改廃しようとするところにあることは疑いないけれども、かれらは、この点をぼかしてなんとかカモフラージュしようとあせっていて、いろいろの添え物を付け加えるとともに、現在の憲法が出来た成立の過程を大げさに取り上げて、国民の関心を別の方向にそらそうとつとめていることを知り得るであろう。」(「日本の憲法」一二七頁 末川博著 一九五〇年)
戦後十年の頃であり、今から半世紀以上前に書かれたこの本で言っているように、憲法の特に第九条を変えて軍隊を持つ国家にしようというのは、この本の記述を見ても分かるように、戦後からずっと今日まで続いている議論なのである。
そして今の憲法を変えようとする動きにおいても、末川が言っているように、やはりじわじわと環境問題とか愛国心、文化と伝統を重んじるとか道徳心を重んじるといった内容を付け加えて何となく新しいよい憲法にするのだ、といった気分にさせてきた。
そうしたいわば助走の段階を経て、現在の首相になってから、なんとしてでも、九条を中心として憲法を変えるのだ、という本音を真正面から打ち出してきた。安倍首相は「時代にそぐわない条文で典型的なものは九条だ」としていて、改憲の中心が九条にあることを明言している。
それゆえに、戦後最も九条が危機に陥っていると言える。
しかし、九条の精神は古くなったり押しつけとかいったものでなく、真理そのものに根ざしている考えなのである。真理は人間が権力や武力で押しつけたりできない。また、排斥したり滅ぼすこともできない。真理そのものがある力をもって私たちに迫ってくるのである。
これは、例えばキリストは、時の指導者たちの考え方に合わないとして最大の侮辱と苦しみを与えられた末に殺されるに至った。しかし、彼が持っていた真理そのものは殺されるどころか、その後世界に広がっていった。
このことと同様に、憲法第九条の精神は真理に根ざしたものであるゆえに、いかに自民党や現在の首相が変えようとして、そしてもしも将来変えられることがあったとしても、その精神そのもの、その方向性は消し去ることはできないのである。
私たちが第一に考えるべきは、表面的な時代状況にまどわされて、時代に合っているかどうかを第一にするのでなく、時代を超えた真理に合致しているかどうかなのである。
いまから六十数年前の太平洋戦争の時など、平和主義を主張したりすれば、非国民とののしられ、逮捕されるほどの犯罪であった。しかし、敗戦後は一転して日本の常識となった。こうしたことでも分かるように、時代状況に合わせるなどということは、真理に背いて大いなる誤りを犯してしまう危険性を持っている。
現在改憲論争の中心となっている憲法第九条が、どのようなところから流れてきた精神なのかをたどってみたい。
日本が敗戦となった一九四五年に作られたのが国連憲章である。その第二条の3~4項は次のような内容となっている。
3 すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
このように、これは日本の敗戦の直前六月二六日にサンフランシスコで署名され、十月に効力が生じている。この内容は、日本の憲法の第一項と響きあう精神を持っている。
日本の憲法九条を次にあげる。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
この憲法第九条は、直接的には、第一次世界大戦後にパリで締結されたパリ不戦条約(*)に影響を受けていることがうかがえる。その文面を比較してみたい。
(*)一九二八年八月二七日にアメリカ合衆国、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本など十五か国が署名し、その後、ソビエト連邦など六三か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ不戦条約と言われる。
第一条 締約国は国際紛争を解決するための戦争に訴えてはならないものとし、さらに国家が、その政策の手段としては、戦争を放棄することをそれぞれの国民の名によって厳粛に宣言する。
この条約の精神が憲法第九条にも流れ込んでいると分かる。
こうした平和に関する考え方はさらにさかのぼると、一七九一年のフランス憲法にも共通した内容が規定されている。
「フランス国民は征服を行う目的で、いかなる戦争を企図することも放棄し、かつ、その武力をいかなる人民の自由に対しても決して行使しない」(第六編一条)
この頃、哲学者カントの「永遠の平和のために」(一七九五年)という著書が出ている。そこに、現在の国連のような組織の必要性が説かれていて、それが国連の創設にもつながっている。そして、その著書の第一章には、次のような「常備軍の廃止」という項目がある。
「常備軍は、時とともに全廃されなければならない。」
なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。
日本の平和憲法は、「いかなる戦力をも持たない」という明確な条項を持っており、カントが説いているように、常備軍も廃止するというのが本来の意図であった。
これらの他にも、思想家エラスムス(一四六七?~一五三六年)の平和論などが知られている。その「平和の訴え」には次のような記述がある。
…大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和への悲願を持っている。ただ、民衆の不幸の上に財産や権力を得ておごり高ぶろうとするほんのわずかな連中だけが戦争を望んでいるにすぎない。こういう、一握りの邪悪な連中のほうが、善良な全体の意志よりも優位を占めてしまうということが、果たして正当なものかどうか、皆さん自身で十分に判断していただきたい。戦争は戦争を生み、復讐は復讐を招き寄せる。しかし、好意は好意を生み、善行は善行を招くものなのである。(76節)
エラスムスは、キリスト者としてキリスト教会の分裂をくい止め、キリストにある平和の実現のためにエネルギーを注ぎだした人で、この著書は近代最初の平和論の古典とされる。
直接的にキリスト教の真理を土台として戦争に反対したことで、後に世界的に広く知られることになったのは、キリスト教の一派のクェーカーであった。一六六一年頃、すでに彼らの指導者が戦争はしないのだという、公の宣言をしている。(*)そして、以前の「いのちの水」誌に書いたように、トルストイはこのクェーカーの非戦主義の主張に強く共感をもっている。
(*)「クェーカー三〇〇年史」ハワード・ブリントン著 二一〇頁
このような平和論や平和の主張をさらにさかのぼっていくと、クェーカーやトルストイらの根拠ともなっている新約聖書にたどりつく。新約聖書では、キリストや最大の使徒パウロやペテロ、ヨハネたちは武力による戦争というものは一切指示していない。むしろ主イエスはありとあらゆる誤解や中傷、攻撃に対して全くの非暴力を貫き、自らが十字架にかかるということまでされた。
こうしたキリストのあり方こそは、究極的な人間の目標となっている。
そしてさらにこの非戦ということ、武力を用いる戦争は廃止されるべきということは、キリストよりはるか昔の旧約聖書のイザヤ書ではっきりと預言的に記されている。
…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4)
この言葉は、ミカ書という別の預言書にもほぼ同様なかたちでおさめられているのも(*)、このことの重要性を暗示するものと言えよう。
(*)… 主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(ミカ四・3)
ミカという預言者はイザヤと同様に今から二七〇〇年ほども昔の人である。このように単にひとつの国が武力を持たなくなる、というのでなく、はるか遠くの国々すなわち世界の国々が神によって裁かれ、武力を捨てて平和のための道具(ここでは農具)にすると預言されている。
至るところで民族や国同士の戦いがあり、常に大国が小国を滅ぼしたり従属させたりしているのが普通の状態であったときに、この預言書に言われているようなことはまるで空想であるとしか考えられなかっただろう。しかし、アメリカのキング牧師が、「私には夢がある」という有名な演説で述べたように、現状がいかに絶望的に見えても、そうしたあらゆる表面の状況のなかに神の啓示は現れる。
この預言書イザヤやミカが生きていた時代には、周囲には全くこのような、武力のなくなる世界が存在しうるとか、それが神の最終的なご意志であるなどということは、考えられないことであった。無から有を生じさせる神は、このような政治的社会的な思想に関するようなことにおいても、時代をはるかに越えて究極的な真理を啓示されるのである。
このような武力を持たないのが究極的理想であること、それが人類の歴史上で最大の世界戦争となった第二次世界大戦で特に多くの人々を殺傷し、また自らも史上初めての核兵器を二発投下されて科学技術の発達した現在において戦争がいかに悲惨な結果を招くかをまざまざと示された日本において、この武力を持たないという理想を明白にかかげた憲法が現れたのである。
これはこうした背景を持った日本であったからこそ、その敗戦からたかだか八〇年程昔の江戸時代においては人権とか平和などおよそ考えることもされなかったような差別と抑圧に満ち満ちていた国家であったにもかかわらず、その日本に平和においては最も先進的な憲法が与えられたのであった。
こうした歴史の流れのなかで与えられた憲法であるゆえに、それに固守することは世界にその到達点を指し示すという、他の国ではできない役割を果たすことができる。
もし、この憲法を変えて普通の国のように軍隊を持つ国としてしまったら、軍備を必要に応じて平和のためと称して外国にも派遣し、防衛と称して相手の国が攻撃する可能性が高いといってアメリカがイラク戦争を始めたように先制攻撃をするということになるであろう。
とくに日本は科学技術や経済の高度に発達した国であり、しかもそれを軍事に用いることを企業の側も密かに待望しているところがあるから、もし憲法の制限が撤廃されるならば、今でさえ軍事の方向へと傾斜する方向を示しているのだから、たちまち軍事関係の戦闘機、原子力潜水艦、核兵器などといった方向へと拡張していくであろう。
北朝鮮が核ミサイルで攻撃するかも知れないのだという理由を付ければ、それを攻撃するためには当然膨大な経費の要するミサイル防衛計画をますます推進することになるし、それは周囲の国々を刺激してさらなる軍備拡張競争となるであろう。
そして靖国神社参拝に見られる、首相の不信実な姿勢、参拝したかどうか一切言わない、捧げ物を実際にしたのに、したかどうかは言わない、と言い張るのは、およそ人間としても子供でも分かるような不信実な姿勢である。
もし、例えば学校内で、実際に大きな問題になることをして、その証拠もはっきりとしている、それにもかかわらず、その生徒に問いただしたら、したともしてないとも言わない、などと言えば、そのような生徒は道徳的に大きな問題があるとみなされるだろう。首相自身が、このような常識的にだれでも分かるような欠陥を持っていることを世界に示しているのであり、このような人間が一国の代表者となりうる日本の状況を考えるとき、もし軍備を正式に認める憲法を作ったらアメリカや日本の軍事産業を受け持つ企業などと一体となってどのような方向に走り出すか分からない。
すでに強引に変えられてしまった教育基本法は、とくに戦後の六年間、東京大学総長となった南原繁らの強い指導のもとに作られたものである。そして南原繁は、内村鑑三門下の無教会のキリスト者であった。この教育基本法で明確にされていたのは、次の前文にその精神がはっきりと示されている。
「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」ということであった。
ここで言われている「個人の尊厳を重んじること」、「真理と平和を希求すること」、「普遍的で、かつ個性ゆたかな文化の創造をめざす」ということは、永遠的に成り立つ教育の基本理念である。
だから、時代に合わないなどということが生じ得ない内容なのである。
この基本法の作成にかかわった人たちは、去年の「いのちの水」誌五月号に述べたように、南原繁(*)をはじめ内村鑑三やキリスト教に影響を受けた人たちが多くいたため、聖書的精神を背後にもったものとなっていた。
そして、新約聖書の精神は、どんな弱い人間も、見捨てられたような人間をも重要な存在としてみつめて助けようとし、永遠の真理と平和を根本の内容としており、また人間を超えた聖なる霊を与えられることを約束し、その聖なる霊が人間をして新たなものを創造させるのである。
(*)評論家の立花 隆が中心となって企画した「八月十五日と南原繁を語る会」が、二〇〇六年八月十五日、東大安田講堂前で開催された。この時には、主催者側の予想を越えて安田講堂の定員の二倍の約二〇〇〇人も集まったという。なお、立花
隆の父君は無教会のキリスト者である橘 経雄氏で、幼い頃は自宅では父親が持っていたキリスト教関係書、無教会の伝道者の冊子などが取り巻く中で育ったという。立花隆が最近、南原繁に強い関心を示しているのは、父親が無教会のキリスト者であったことで、内村鑑三に始まる無教会のキリスト者に流れてきたものが、彼にも流れていたのを示すものとなっている。なお、この会の全記録が、東京大学出版会から「南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由」という三三八頁の書物として出版されている。
こうした重要な精神を持っている教育基本法を強引に変えていったのは、この基本精神の重要性を理解できない人たちがかかわっているからである。そしてそのような人たち、とくに現首相は真理に反する精神をもって現在の憲法九条をも変えてしまおうとしている。
すでにのべてきたように、憲法九条も以前の教育基本法の前文の精神も実は、その本質的な内容は聖書とキリストの真理から流れ出ているということができる。この永遠的な流れとは全く異なる流れを強行に押し進めようとするのが、現在の首相と自民党の多くの政治家なのある。
現在の改憲を引っ張っている安倍首相は、祖父が岸信介でありそのときから改憲を意図していた。そういう流れを受けている。
しかし、そのような数十年前からの流れよりはるかに古く二七〇〇年ほども昔から、旧約聖書にすでにその淵源を持ち、そこから流れ続けてきたのは、神の御手による真の平和への流れである。
私たちはとくにこの大河のような流れの中に置かれているものとして、現在の日本の政府が取ろうとしている方向が誤っているものだということをはっきり認識し、永遠に変ることのない真理を見つめていきたいと願う。
ことば
(二六四)神は人間にそれだけの力ができてくると、神以外の支えを残らず次々に取り去られる。これは、よいしるしであって、決して不幸ではない。…
最高の段階は、自分の運命をただ不平をいうのでなく、あるいは受動的な忍耐をもって受け取る、というだけではなく、それが正しい運命だという喜ばしい確信をもって迎えうる境地である。これができるようになった人は、キリストとともに言うことができる。
「この世では苦しみがある。しかし、私はすでに世に勝利している」と。(ヒルティ著「幸福論」第三部一一八~一一九頁)
・神以外の支え、それは自分の意志や力、能力あるいは健康などに置いている人は多いだろうし、自分以外の人間とくに家族であったり敬愛する先生や友人であったりすることもあるだろう。さらに、金をたくさんもっているのが支えとかいう人もいる。人が神のみに支えられている状況になってくるにつれ、このような支えが除かれるというのであるが、そのようなことは誰も喜んで受け入れたりはできない。
しかし、そのような不幸とか災いとしか考えられないようなことが、実は神の大きな御手の内にある出来事であって、私たちをただ神だけに頼るようにしようという神の愛のご意志だというのである。
だからそうした出来事であっても、神は最善をなさっているのだ、という喜ばしい思いをもって受け入れる、このような受け止め方こそ、私たちの目標となる。
これこそ、新約聖書に、「いつも喜べ、いつも感謝せよ」と言われていることである。
(二六五)ソクラテスは、「どこの国の人か」と尋ねられて、「アテネの人だ」と答えずに、「世界の人だ」と答えた。
彼はすぐれて広く豊かな思想を持っていたので、世界を自分の町と考え、その友人や交際や愛を、全人類に向かって広げていたのである。
(「エセー」(随想録)第一巻二六章 モンテーニュ著 世界文学体系 筑摩書房版 一一五頁 )
・ソクラテスは今から二四〇〇年余りも昔の人である。そのような古い時代であっても、すでに自分が世界市民であること、すなわち真理、英知といった世界に共通のものと交わり、自分の国だけに関心を持つのでなく、世界の人々を愛し、人間全体にかかわる真理の探求に生きたゆえにこのような言葉が自然に出てきたのである。
現在の日本では愛国心を強制的に教えようとしているが、そのような狭い愛国心など養成すればかえって害があるだけである。
キリスト者は本来は、ソクラテスが言った世界市民よりはるかにスケールの大きい永遠の国の市民、神の国の市民なのである。
…イエスは答えられた、
「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。
しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネによる福音書十八・36)
私たちは、この世の国に固執して争いあうのでなく、神の国を愛する愛国心を持つべきなのである。
編集だより
○五月十二日(土)~十三日(日)の二日間、高知で行われた、第34回キリスト教四国集会(無教会)は、高知集会の方々の祈りと、御愛労によって支えられ、学びと讃美、祈りを共にし、主にある交わりを与えられたことを感謝でした。
こうした一年をかけての準備と祈りが捧げられ、参加する方々の祈りも合わせられてなされる特別集会であり、やはりいつもの日曜日ごとの集会とは異なる恵みが与えられるのが毎回の経験です。
主はたしかにこうした私たちの祈りを具体的に聞き届けて下さり、
沖縄からの参加者三名も含め九州から五名、東京や岡山、鳥取、そして阪神地方からの方々も合わせ、また初参加の方々も集められて、五十名ほどの参加者でした。今後とも主が守り導いて下さってこの四国集会が御心にかなったものとして継続されていきますように。
来信より
○…二月号のアメイジンググレースはアメリカ人の愛唱歌であり、そしてその調べは台湾の聖詩(賛美歌)433首として歌われています。でもその歌の意義を深く解明なさった先生の文章には感動致しました。孫娘がたずねて参りました時、二人で歌いました。
(在アメリカの方)
○ (三月の長野県伊那の地での)ヨハネ伝二十章の講話は、鍵をかけて閉じこもっている場所にも、復活のイエスは入って来て下さる、人間が誰も入ることはできないと考えるところにもイエスは行かれるという内容だったと記憶していますが、私が限界を決めて、あれはだめだ、これは不可能だとしてしまっていることを気付かされました。
神には不可能なことはないということを心から受け入れる者となりたく思います。
「いのちの水」誌四月号の「ラ・マンチャの男」の記事の中で紹介されていた、「見果てぬ夢」 The Impossible Dream は、キング牧師の 「私には夢がある」I have a dream に通じると思いました。キング牧師の夢も当時は実現不可能と考えられた夢であったと思うのですが、侮られ、傷つけられた一人の人がそれでも神を信じ、最後の勇気をふりしぼって到達し得ないと思われていた「星」に到達した、という事実を知っているゆえに、夢見ることができたのだと知らされました。
十二弟子すら十字架の意味を受け入れようとせず、人々からも見捨てられるという絶望的な状況の中で、神への信頼によって生きられた主イエスに従って行きたいと思います。…(中部地方の方)
・キング牧師やセルバンテスのいう、夢、それは神への信仰に基づく希望であるからこそ、必ず神ご自身が実現されるという確信を伴っています。(神とキリストへの)信仰と(神が成就されるという)希望、そして(神の)愛はいつまででも続く、と言われているとおりです。
お知らせ
○五月十二~一三日の第三四回四国集会の録音がありますので、希望の方は、吉村(孝)まで連絡ください。そのとき、カセットテープかCDかを明記し、録音の全部か、それとも、聖書講話だけとか特別讃美や感話、自己紹介など部分的な内容なのかも書いて下さい
。
○読書会でダンテの神曲を学んでいますが、その録音は、インターネットで次のサイト(「無教会キリスト教」)から聞くことができます。
http://www.geocities.jp/ekklesiajapan/ 神曲は内容が深く広がりが大きいものですが、とても読みにくいので、ささやかな参考になれば幸いです。
○第34回 北海道瀬棚聖書集会
主催:瀬棚三愛同志会 協賛:日本キリスト教利別教会、キリスト教独立伝道会
・主題 「神から出たもの、人から出たもの」
今年も一人でも多くの方達と語り合い、信仰を深める機会になればと願っております。
・日時 2007年7月12日(木)19時30集合~7月15日(日) ・場所 北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館 電話 0137-87-2072
・講師 吉村孝雄、相良展子
・会費一万五千円 学生一万円
・申し込み、問い合わせ先 野中信成宛 Tel/Fax 0137-84-6335
・〒049-4431 北海道久遠郡せたな町北桧山区小倉山731 E-mail nobnari.trust-farm@ninus.ocn.ne.jp ・締切 6月30日・
○第七回 近畿地区 無教会 キリスト集会
日時 七月28日 13時~29日(日)13時
場所 京都市 洛西ふれあいの里 保養センター
主題「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたし (イザヤ書五三章)
講師 吉村 孝雄、小舘 美彦 他
会費 九千円
問い合わせ 連絡先
宮田 咲子 072-367-1624
那須 佳子・容平 072-693-7174
○静岡の浜松聖書集会の責任者として、神の国と神の義を求め続け、キリストの証人として歩まれた、溝口 正氏が五月十二日天に召され、葬儀が一三日に行われました。ご遺族の方々、そして浜松聖書集会の上に主の導きを祈ります。