2007年6月 557号・内容・もくじ
主こそは王
神は愛である、そして創造主である。このことは多くの人の心にある。
しかし、神は王なり、ということを連想する人は少ない。王なる主とは、すべてを創造しただけでなく、また私たちの悩みや苦しみを個人的に励まし慰めて下さる愛の神ということに留まらず、今もこの世界、宇宙全体を支配されているということである。
すべての被造物を愛をもって支え、そして動かしておられるのである。王ならば家来がいる。神の家来ともいうべきは、この宇宙の全体である。国家、社会も、それらを支配する大統領や王、首相といった人たちもすべて神の家来であり、部下なのである。
しかし、その支配のなさり方は私たちの常識的な考えをはるかに越えているために、あたかも神が支配していないかのように映ることがしばしばである。
だからこそ、信仰が必要になる。 いかに人の目にその支配を疑わせるようなことが生じようとも、神がそのような表面の現象を越えて御支配なさっているという信仰である。
神の王たることは人間社会のことだけでない。星も風も、また樹木や草花、動物たちもみな神の家来であり、しもべなのであって、神の御支配のもとにある。それゆえ、神が成そうとすればそれらはすべて神の愛にしたがって動かされる。
年を経た樹木が私たちにとって神の静けさを感じさせ、草花も私たちに愛のメッセージを送り、青く澄んだ空が神の清いお心をそのまま映し出し、星たちも信じる人たちに清い響きで語りかけるのもそれらがすべて神のしもべたちであり、王なる神によってその働きをなすからである。
主こそ王
力を衣とし、身に帯びておられる。
世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
御座はいにしえより固く据えられ
あなたはとこしえの昔からいます。(詩編九三篇より)
主こそ王(終り)
隠されているものは現される
この世で何かを多くの人に告げ、それを十分に認識させようとするなら、テレビやラジオ、新聞、雑誌あるいはインターネットが用いられる。また、国家権力を用いて、教育という手段で、特定の思想を植えつけようとすることも、よく用いられる。
しかし、聖書は真理そのものの力で知らず知らずのうちに、広がっていくことが示されている。
主イエスの種まきのたとえがある。ある種は道端に、また石地に落ちる。ある種は藪に落ちて芽が出てもしばらくすると、周囲の雑草におおわれて成長できない。しかし、よい地に落ちた種は、何十倍にもなる、というたとえである。
これは、キリストの福音に対する姿勢にはいろいろなものがある、○○さんは、石地に落ちたようなものだ、自分は種が藪に落ちたようなものだ、といった程度の意味だと考えられやすい。
しかし、このたとえは、神の真理(種にたとえられている)の持っている強力なエネルギーを言おうとしているのである。
また、パン種のたとえも同様である。女がパンをつくるときにパン種を入れた。すると、ぐんぐんふくらんでくる。
カラシだねのたとえも同様であって、はじめはどんな種より小さいように見えるが、後になってほかの野菜や草花を越えて大きくなる。
ここにも、真理そのものの驚くべき力が言われているのである。
福音書では、さらに別のたとえがある。
…隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
(ルカ福音書八・17)
この言葉も、実は真理の持つエネルギーの強さ、その本質が言われているのである。
どんなに真理がおおわれていても、そこに閉じ込められていることは決してなくて、必ず神から呼びだされた人が現れて多くの人たちに伝えるようになる。
いかに隠そうとしても隠しておいておくことができない。それは一種の法則のようなものなのである。
隠されていたことが、明らかにされていく、真理はそれ自体に、時が来れば明らかになっていく本質を持っている。
福音ということも、長い間隠されたものであったが、キリストが現れたことによってその全貌が明らかにされてきた。使徒パウロはその真理を伝えることが使命であった。
…神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。
この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。
わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。(エペソ書三・7~9)
…世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 (コロサイ書一・26~27)
このように、ずっと隠されていた真理がそのベールをとられて明らかにされたのが、今なのだ、という啓示を受けてその真理を命をかけて伝えたのがパウロであった。
救い主が現れる、そしてその救い主は万人のための救い主であるということは、キリストが現れる七〇〇年ほども昔からすでに一部の預言書に啓示されていた。隠されていた真理が開かれ始めたのである。
そしてその後も折々に、その救い主の出現に関する真理が開かれていき、今から二〇〇〇年前にキリストの出現となったのであった。
このようにして、真理はキリストの出現によって決定的な形で全人類に示された。長い闇が世界をおおっていて、キリストのことも他の国々においては全く隠されたままであった。
世界を閉ざしていた重い扉を、使徒パウロはキリストによって押し広げていくことになった。 その後に続く無数のキリスト者たちも大なり小なり、その使命を受け継いでいくことになった。
このように、歴史を通して隠されていた真理は開かれ、そのエネルギーを世界の各地に分かち与えていったのである。千年、二千年という長い歳月を通して絶えず真理を各地に現していくほどであるから、このような真理の力を一人一人が少しでも受けるとき、それは隠しておくことができないのは当然だということになる。
真理を覆ってしまおうという闇の力が働いて、そこに伝えられたキリストの福音が閉ざされるように見えることがある。しかし、時至ればその福音の種は芽を出し、成長していく。
日本においても、豊臣秀吉のバテレン追放令(一五八七年)以来、一八七三年(明治六年)のキリスト教の禁止令が廃止されるまで、三〇〇年ほどの長い間の迫害の時代が終わって、キリスト教の真理が公然と語られるようになった。
まさに、「秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」という主イエスの言葉が実現していったのである。
さらに、中国では、第二次世界大戦後、この半世紀ほどで一〇〇倍にも達する人たちがキリスト者となり、キリスト者は七〇〇〇万人とも言われ、アジア最大のキリスト者を持つ国になった。このようなことを一体だれが、五〇年前に予想しただろうか。
長い間弾圧され、隠された状態になっていたが、時がくるとその驚くべきエネルギーを発揮して現していく、それが真理の本質なのである。
こうした本質は、今後も続く。そして最終的には、一人一人のキリスト者においても隠されている真理はすべて開かれる時がくる。
…わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
(コリント人への手紙第一十三・12) (隠されているものは 終り)
真理とその外側
真理はなかなか人に受けいれられない。しかし、聖書に記された真理こそは真に永続的に私たちの魂を満たし、力づけて下さる。
それは、ヨハネによる福音書でも冒頭に言われている。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 (ヨハネによる福音書一・16)
From the fullness of his grace we have all received one blessing after
another.(NIV)
真理そのものはこのように誰でも求める者に、神の満ちあふれる豊かさの中から、次々と与えられた。その豊かさの泉からくみ取るもの、それを飲む者こそは魂の奥深いところで満たされるゆえに幸いな者と変えられる。
しかし、人は、しばしば真理そのものでなく、わざわざ真理の周辺、しかもかなり遠い周辺、つまり、人間的な意見や考え、伝統、習慣といったものを探し求めたりしがちである。
聖書の無限の深みに入ろうとせずに、わざわざ聖書そのものから外に出て、聖書にないことを求めようとする人たちがあとを断たない。
また聖書に関心を持つといいながら、聖書そのものが語っている真理でなく、そこから出た枝葉のようなこと、あるいは人間の想像や作り事のようなことに関心を持とうとする傾向(*)も後を絶たない。
(*)先頃問題になった、ダ・ヴィンチ・コードなどもそうした例であり、闇の象徴的存在であるユダに特別な関心を持とうとしたりすることも同様である。
聖書という二千頁にわたる真理が我々の前に置かれているのに、特異な神学説をわざわざ根拠にして主張したり、聖書でない文書を重んじたり、あるいはエホバの証人、統一協会、モルモン教などのように聖書の真理と本質的に異なることを言い出して、真理から引き離していくこともみられる。
聖書が二千年の間、このままの形で保たれてきたという歴史的事実のなかに、大いなる神の御手を感じさせるものがある。
神が守り導くのでなかったらどうしてこのように特定の書物がほかのあらゆる古典と言われる書物よりはるかに多く、全世界で読まれることがあるだろうか。
真理の周辺を描こうとしたり、さらには真理に敵対するような悪を内容としたもの、それは小説やドラマ、一般の映画、テレビなどなどいくらでもある。今日私たちの目に触れるおびただしいそれらの印刷物や映像などの類は、真理の遠い外側を混乱したかたちで巡っているような感をいだかせるものである。
偶像崇拝ということも、やはり真理の外側にあるものを第一にすることである。すべての中心にある神を思い、礼拝しようとせずに、石や木で作ったものを拝むということ、あるいは特定の人間や金、名誉などを第一に重んじようとする心の姿勢は、すべて真理の外側を重んじようとすることと言えよう。
教育制度を変えようとすること、「君が代」斉唱とか日の丸の掲揚に、特別に力を入れて強制しようとすること、これらもやはり真理の外側を回っていることにすぎない。
外側を回り続けてとうとうそのまま遠く真理を外れてどこへともなく離れさってしまうことも多い。
そうしたあらゆるこの世のものと異なるのが、聖書の真理である。
聖書にある有名なたとえで、放蕩息子が、わざわざ中心にある父なる神のもとから離れて、遠くへと離れさって行った。そしてそこで楽しんで生きようとした。しかしそれは時がきて生きることもできない状況だとなった。そのような状況になって初めて、この世の中心にある真理に気付いて、立ち返った、という記事はわかりやすいたとえのなかに、人間と神の本質的なすがたが示されていると言えよう。
聖書に記された真理は、まっすぐに核心をついている。
聖書の最初からそのようになっている。創世記という書名であるが、世界を創造したことを書いてある書、というようなものではない。世界の創造に関して書いてあるのは、創世記は五〇章というかなり長い分量があるが、天地創造について書いてあるのは、わずかに一章と二章の二章にすぎない。
大部分は、人間がいかに罪深いか、という事実とそれにもかかわらず神がいかにそのような人間を導かれたか、という内容である。双方とも事実であって、単に頭で考えられた思想とか人間が想像して創り出した話ではない。
人間は闇であり、そこに光を与える神という本質が聖書では最初からはっきりと記されているのである。光とは神の本体であり、それは愛や真実、正義、永遠性などあらゆる神の御性質を込めて言われている言葉である。
私たちが人間関係の不信実に苦しみ、いじめや憎しみを受けるとき、そこに本当の愛が注がれるときに、それを光として感じるのである。
光と愛というのは、一見異なるように見えるが、聖書でこの二つが言われるときには本質的なところで共通したものをもっている。主イエスも、私に従ってくる者は命の光を持つ、と約束された。そして主イエスの内に留まることは、すなわち、イエスの愛、神の愛の内に留まることであるとも言われている。
偽りの愛は盲目であって何が正しいことかも分からなくなって犯罪すら犯すほどになることすらあるが、本当の愛はすべてを見抜く。隠れていることをもいわば光を当てて知ることができる。
主イエスは神の愛をもっておられたゆえに、初対面であったサマリアの女の過去の罪を見抜き、いのちの水を受けるには何が必要なのかを的確に指摘することができた。また、当時、宗教的、あるいは政治的な指導者であった律法学者やファリサイ派の人々、長老たちの心の内にあることにも光を当ててその偽善性を見抜くことができた。
それゆえに、「光あれ!と言われた。そのときに光が生じた」という記述は、そのまま人間の罪、弱さという本質と、神の無限の力、あらゆる悪に勝利する神の本質を述べているのである。
主イエスが厳しく非難している、当時の律法学者、ファリサイ派の人々たちは、唯一の神を知っていてそれを特に専門的に研究し、人々に指導している人々がかえって真理の外側をぐるぐると回っているにすぎない状況となっていることを指摘している。
…それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしている。」 (マタイ福音書二一・12~13)
このような激しい態度には驚かされるが、ここにも、真理の外側ばかりに力を入れていた人たちにまっすぐに中心にある真理を指し示す姿勢がはっきりと見られる。物の売買をして金儲けを目的に神殿にいること、それは祈りという神ご自身に直接に向かっていく心の姿勢と全く異なると、指摘しているのである。
また、次のやはり厳しい言葉も同様である。
… 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。…十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。
…杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。
まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
(あなた方は)白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ福音書二三章より)
人々を宗教的に指導する人たちであっても、このように外側ばかりに力を入れて、中心から遠ざかってしまうことがよくある。儀式的なこと、宗教的な衣服、決まりなどを強調するばかりで、核心にあること、主イエスが言われているように、正義や慈悲、誠実といったことを軽視してしまう。
旧約聖書のモーセが神から直接に受けたと伝えられる、神の基本的なご意志を表す内容が、十カ条にされて示された。これを十戒といって今もなお変ることなき真理であり続けている。
ここには、天地を創造された唯一の神のみを拝すること、偶像を造ってはならないこと、安息日を守ること、父母を敬うべきこと、殺してはいけないこと、男女の不正な関係をもってはいけないこと、盗みをしてはいけない…等々である。
これらは、人間がともすれば中心から外側にはみ出ていくそのことを戒めているのであって、あくまで神のご意志という中心に留まるための基準として言われている。
しかし、この後に数知れない細かい規定が付け加えられていった。
そのために、かえって中心から人々を外側へと連れ出してしまう結果となっていった。あまりに細かな規定は、何が中心にあるのかを分からなくしてしまったのである。
長いイスラエルの歴史において、中心からはみ出してしまった人たちのことが繰り返し記されている。時折そのなかから、真理そのもの、神に立ち返ろうとする人が現れる。そして一時的に偶像は壊され、真実な神のみへの信仰へと導かれる。しかし、その次の王となると、再び中心から外れていく。
こうして全体としてみるとき、神への信仰という世界の中心にある真理を知らされていながら、次第に外側へ外側へと出て行ったが、その結果として外国に侵略され、まず北の王国イスラエルが滅ぼされ、その後百数十年後には南部の王国も滅ぼされ、遠い外国に捕囚となって連れ去られることになった。
このような過程で、自分の命をかけて神信仰の中心に立ち返るようにと繰り返し神の言葉を語ったのがアモス、ホセア、エレミヤ、イザヤ等々の預言者たちであった。
その後、五十年ほど経って、神の特別な愛によって再び祖国に帰ることができた。
これは神ご自身が人々をその中心へと招き寄せようとされたことであり、裁きでなく愛をもって人々を導こうとされる神の本質が表されたことであった。
このような長い年月の神の愛による働きかけにもかかわらず、神という中心に帰ることができないゆえに、人間全体を招き寄せる全く異なる道を示された。
それが、キリストである。
キリストは神の本質で「愛」ということを、目に見えるかたちで、地上で実際に行われたのであった。
キリストが十字架で処刑されたということ、これは単に無実の罪で殺されたということでなく、人間の罪という暗黒のなかに、きらめいた光なのであり、その光はそれ以来今も輝きつづけている。主イエスが十字架にかかられたのは、人間の深い罪を赦し、清めて神の子供とするための光のわざなのであった。
また死んでから三日後の復活ということも、死といういかなる者もどうすることもできなかった闇のなかに永遠の光を投げ込む出来事となった。死は、古事記に見られるような、闇の世界、ウジがたかり、骨になってしまうことでなく、またさまよう霊となって生きている人間にたたってくるような不気味なものでもなく、私たちが生前にキリストを信じて罪赦されて生きるだけで、キリストの栄光の姿に変えられるという、画期的な真理が表されたのであった。
このように、復活ということは、まさに永遠の闇であり続けるような死後の世界に投げ込まれた永遠の光なのである。
さらに、過去、現在の罪や問題などを越えて、この世界、宇宙の未来はどうなるのか、について、地球上はますます環境問題が深刻になっていきつつあり、防ぐことの困難なウイルスの発生、食糧問題、核兵器の脅威などなど、誰一人将来の世界像を確信をもって語ることはできない。
この点については科学、経済学などさまざまの学問をもってしてもあと五〇年後にどうなるのかということすら、明確なことはなに一つ分からない。
今から五〇年ほど前に、現在のように携帯電話を子供までたいていの人が持っていて自由にだれとでも話したり、手許でメールを送ってはるか離れた人のところにまで用件を伝えられるなど、誰が想像しただろうか。
また、世界で初めてライト兄弟が飛行機を造って飛んだのが一九〇三年である。その頃、当時の有名な科学雑誌や新聞では、いろいろな大学の科学者たちや陸軍の関係者などが、「機械が飛ぶことは科学的に不可能」とする記事を発表していたという。
それから現在まで一〇〇年あまりしか経っていないが、さまざまの航空機、驚くべき性能をもった戦闘機、ミサイル、人工衛星、等々、「機械」が空を飛行するということは、ごく当たり前のことになっているが、このようなことは当時は誰も想像できないことであった。
これも、いかに人間が先のことが読めないか、ということの一例である。
このようなことは科学技術の方面だけでなく、政治や社会の方面でもいくらでもある。人間にはどんなに学問や技術が進んでも、将来のことについてはごくわずかのことしか見えないのである。
地球にしても、科学の結論としては太陽の膨張によって太陽は十数億年も経てば半径は二割、明るさは四割ほども増大することが理論的計算で分かっているという。そのためそのときには地球上の水は蒸発し、高温のために生物も死に絶えるという。さらに今から五〇億年以上も経てば、太陽は地球を呑み込むほどに大きくなり、それ以前に高温となった地球は物質の沸点を越えるために蒸発して宇宙に飛び散ってしまうとされている。
このような未来像しか科学という学問では示すことができない。ちょうど、一人の人間の終りは、だんだんと体全体が老齢化とともに弱ってきて、病気となり、ついには死に至る、そしてその後は腐敗して骨だけが残る、という未来像しか描けないのと似ていると言えよう。
こうしたことは、物質的な側面からみると事実なのである。人間がそのようになることはだれでも知っているが、太陽の末路も何十億年の未来には、次第に膨張して赤色巨星となり、ついには白色矮星となり、寿命を終えるとされているが、これは理論と実際の多くの星の観察から結論されるという。
このように、学問の結論からだけでは、目に見える物質としての人間も太陽や地球も死んでいくということしか分からない。
しかし、目に見えない霊的な本質は、そうした学問や科学技術では全く関与できないことである。霊的な本質は、そうしたあらゆる物質的な変化や死には影響されないのである。キリストの復活はそうしたすべてに打ち勝つ神の力を示すものであった。
キリストに結びついたものは、死後は肉体は見えなくなるが、霊的には、キリストの栄光のからだとされる。
同様に、この地球や太陽などの星々も、物質としては朽ち果てようとも、霊的には「新しい天と地になる」という表現で永遠的な世界が背後にあることが聖書には示されている。
そうしたことが起こるのは、キリストの再臨の時、という普通に考えては理解できないこととして聖書では記されている。それは、ただ信仰によって受けいれることであり、その点では、十字架によるあがないや復活を信じることも同様である。
こうした真理を神の万能と愛を信仰によって受けいれるとき、さらに私たちに光が注がれてこうした理性での理解を越える事柄についての確信をより強めてくれるようになる。
ここに、闇のなかに差し込む光がある。学問や科学技術だけでは、永遠的な光をもたらすことは決してできないのである。こうして人類や宇宙に関する未来についても、私たちは聖書によってその核心にある真理を知らされている。
私たちは真理の周辺のことによっては深い満足を決して与えられない。この世のことは常に私たちを真理の外側へと引き戻そうとする。私たちはそのようなある種の力に抗して、真理そのものに留まっているために、聖書に立ち返り、み言葉と祈りによって聖なる霊を与えられ、その聖霊に導かれていきたいと願う。(真理とその外側
終り)
清められる世界
―ダンテの神曲 煉獄篇第一歌
私たちは清い心、汚れた心というのを直感的に感じることができる。そしてだれでも嘘や不信実な心を不快なもの、汚れたものとして感じるのであり、清い心ということは、そうした意味で、誰でもが本来望んでいることだと言えるだろう。
ダンテの神曲・煉獄篇の第一歌では、煉獄(*)とはどのようなところかがその冒頭に暗示されている。
(*)煉獄とは、浄罪篇 とも訳される。神曲はイタリア語で書かれてあるが、そのイタリア語では、煉獄篇のことを、プルガトリオ(purgatorio)という。この言葉は、ラテン語の、プールガートーリウム(purgatorium)に由来する。そしてこの言葉は、「清める」プールゴー(purgo) という語から来ている。なお、この言葉から、英語の「清い」pure という語が生れた。英語では、煉獄のことを、パーガトリィ(purgatory)という。
煉獄という場合の「煉」とは、火偏があるのは、火で鉱石の不純物を取り出すという意味を持っているからであり、煉獄とは、死後に想定された罪の汚れを清めるための場所であるからそのように訳されている。このような原語の意味からは、「浄罪篇」という訳語のほうがよりわかりやすいと言えよう。
死後の世界というのは、聖書でもはっきりと記していない。霊的な世界であり、本来言葉で表現できないものなのであるから、それを言葉で表したりしようとすれば、かえってまちがったことになる。
それで、私たちにとっては、煉獄とは、キリストを信じて生きるとき、この世そのものが清めのためにあるので、この世を象徴的に表していると受け取ることができよう。
私たちがキリストを信じて新しい歩みを始めたとき、それはまさに煉獄の歩みである。
私たちの清めは、すでにキリストが十字架で死んで下さったことで、なされている。それは、「キリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるからである。(ヘブル書九・14)
それゆえ、このことを信じて、感謝をもって受け取るだけで私たちの魂は過去のあらゆる罪、汚れから清めを受けるのである。
それだけでない。主イエスはヨハネによる福音書においてその最後の夕食のときに、「私の話した言葉によって、 あなた方はすでに清くなっている。」(ヨハネ十五・3)と言われた。主イエスを救い主として信じてその言葉を神からの言葉として受け取るだけで、もう清められているという。汚れとは、心の汚れである、食物にはよらないと、主イエスは言われた。キリストの完全な清い心から出た言葉を心して受け取るものは、それだけで清めを受けることになる。
キリスト者とはこのように、清められ、赦された者であるから、キリスト者の歩みは、ダンテの浄罪篇(煉獄)での歩みと重なってくるのである。
この煉獄篇において、まず現れるのは次のような情景である。
東方の碧玉のうるわしい光が
はるか水平線に至るまで澄みきった 大気の
晴朗な面に集い、
私の目をまた喜ばせてくれた。
目を痛め、胸を痛めた
死の空気の外へ私はついに出たのだ。
愛を誘う美しい明星が
東の空にきらきらと満面の笑みを浮かべ
後に従う星の光をおおっていた。
視線を転じて、私は目を右の方
南極の空にすえ、四つの星を見上げた。
空は星のきらめきを喜んでいるかにみえた。(煉獄篇 第一歌より)
煉獄は、神曲においては南半球の海からそびえる高い山として表されている。そこに着いたダンテは、東の方をみてその光景に深く動かされたのである。そこには、東方(オリエント)のすぐれた産物とされていた、碧玉(サファイア)の青い澄みきった色が大空に広がりかけていた。
この訳では、「うるわしい光」と訳されているが、原文は、dolce color d'oriental zaffiro である。ダンテは、dolce (ドルチェ)という語(*)をしばしば用いている。
(*)煉獄篇だけでも、四六回、ドルチェの派生語(dolcemente, dolcessa)を入れると、五一回ほども使っており、天国篇では、四五回(うち派生語四回)と多く使われているが、これは煉獄や天国篇における、神の世界、神的なものを象徴していると考えられる箇所がしばしばある。
例えば、煉獄篇の終りに近い第二九篇にて、煉獄の川を歩いていくときに、突然にして麗しいメロディーが光に満ちた大気を貫いて流れるという場面がある。
原文 E una melodia dolce correva 逐語訳 and one melody sweet ran
第二九篇22行(英訳 And a sweet melody ran through the shining air)
これは、英語の sweet にあたる語であり、英訳では、例えば The sweet hue of the oriental sapphire と訳されている。(J.D.Sinclair 訳、hue とは、「色合い」の意)
ここでは、罪清められる新しい世界の色合いの基調が、青い色なのである。青い海と青い空、それは現在の私たちの世界にとっても都会でないかぎり、最も広大な領域を占めている。目を上方に転じるなら晴れていればいつでも青い空は目に入ってくる。
そして、海岸に立てば、今度は眼前に広大な青い海原が広がる。このように最も広大な目に入るものを青い色になるように神は創造されている。このことは、ダンテにおいても大きなインスピレーションになったと考えられる。
神はこの暗い世界にあっても、つねに目を上方に向け、大空の青い色に向けるようにと仕向けておられるのである。
そしてその青く染められていこうとする大空に目を向けたとき、ダンテの心に喜びがあふれた。それまでは目を痛め、心を苦しめた地獄の中であったが、ここの煉獄では、広大な青い空が広がっており、それは希望の広大さと清らかさ、心惹きつける世界を暗示しているのであった。
そしてそこに輝いていたのは、明けの明星(金星)である。その星の強い輝き、誰もがそのじっと見つめるような澄んだ光に出会うと、愛の心を呼び覚まされるという。やさしい人とか美しい人がその人への愛をうながす、ということなら誰でもが経験することであろう。しかし、ここでは、夜明けの青い色が染むようになりつつあるときに輝いている明けの明星が、愛へと誘う不思議な力を持っているのをダンテが知っていたのである。
そのまだ暗さの残る空に神の光のような輝きをたたえて私たちを見つめるその光は、私たちの内にある眠っている何かを覚まし、心を活気づけて愛へと赴かせるというのである。
これは逆のことを考えるといっそうこのことが分かる。暗い、陰鬱なものをみていたら自分までそうした重苦しいものが伝わってきて心が狭く固くなっていく。
しかし、神から来ていると言える星の光を見つめ、その光を魂に受けいれるときには、私たちの内なる本質的なもの、愛への心が呼び覚まされるのである。
この最も深い出来事が、神の光、キリストの光を深く受けるときに、敵をも愛し、迫害するもののためにも祈るような愛が呼び覚まされるということである。
また、ダンテは愛を呼び覚ますこの明けの明星が、東の青く染まりはじめた空全体を微笑ませるものとして描いている。
このように、煉獄篇の最初の情景は、地獄篇の最初の状況と比べると一層際立った対照をなしている。地獄篇においては、その最初の地獄の谷に入ると、そこには、はてしない叫びが集まって雷鳴のように響いていた。そして暗くて霧が濃く、何も見えないような恐ろしいところであり、それは全く希望のない状況であったからである。
現代においても愛と真実の神を受けいれず、その存在を否定するときには、私たちの心を本当に明るくするものを得ることはできないであろう。そして重い病気となり、死が近づくにつれてこの地獄篇の描写にあるように、暗い叫びが聞こえ、あるいは暗い霧に包まれたようになって何も希望が見えなくなる、といった状況を思い起こさせるものがある。
次に、ダンテが見たのは、南極上方の空にある四つの星であった。これは、キリスト教を知らなかった人たちが、人間の目指すべきあり方としてあげた、思慮、正義、勇気、節制
を指している。
何が価値あることなのか、何をいつ、どのようになすべきかなどを冷静に判断する能力としての思慮、何が正しいのかを知り、実行する正義ということ、そしてその正しいことに向かっていく力としての勇気、それから自分自身の内なる欲望などに負けないで、理性的に人間としてあるべき姿へと向かおうとする節制などを四つの星で象徴的に表しているのである。
そして、これらの星の輝きが周囲の夜明けの空を一面に喜ばせているとダンテは描いている。
このようにして、煉獄篇の冒頭には、青い色、澄んだ光、そして喜びというのが次々と現れ、それが全体として、煉獄篇の特質である大いなる希望を象徴的に表している。
私たちの心においても、このような深い青色や星の光、そしてそうしたことからくる喜びがあふれているようでありたいと願うものである。
煉獄の番人はカトー(*)というローマの政治家であり、自由のためにシーザーによる圧政に従うよりも自らの命を断つことを選び、プラトンの「パイドン」という魂の不滅を記した書物を読みつつ死んでいったと記されている。
(*)ダンテが煉獄の番人にカトーを特に選んだのは、それだけの理由があった。カトーがいかなる人物であったか、それは稀にみる正義と勇気をもった政治家で、しかも元老院には誰よりも早くきて、静かに哲学の書を読み、正義にもとづく冷静な判断を周囲の反対や一身の危険をも顧みないで実行に移していくという人であった。こうした彼の具体的な言動や考え方は、「プルターク英雄伝」(岩波文庫)
第九巻 二二五頁~三〇三頁に詳しい。プルタークとは、紀元四七年頃生れの帝政期ローマのギリシア人著述家で、古代の優れた人物の的確な伝記を多く書いたのが特に有名。
このカトーが、煉獄の山をこれから登ろうとするダンテに、イグサの茎でその腰を巻くように言う。イグサとは、日本では畳に使っているので、広く知られているが、そのしなやかさが特徴である。ここでは、そのしなやかさは、真理(神)の前に砕かれていること(謙遜)の重要性を暗示しているのである。
福音書の最初のところに、主イエスの教えの代表的なものである山上の教えがある。その第一に書かれているのが、「ああ、幸いだ。心貧しきものたちは!」ということである。この心貧しい者とは、神を心に見つめるときに自然と実感される自分の無益さ、弱さ、罪深さを知っている状態のことであり、そうした心こそ、煉獄の山を歩んでいく心であると言われている。
この神の前での自分の無力さを知っているという意味での謙遜こそ、煉獄の山を昇るために必須のことなのである。それゆえ、この謙遜を持たずに、この煉獄の山に登ろうとする者がどのような結末に至るか、それを印象的な表現で表したのが、地獄篇二六歌に書かれているオデュッセイアである。
それは次のような内容である。
オデュッセイアは、家族に対する愛情にもまさって、この世界を知りたいという激しい情熱には勝てなかった。そのゆえに未知の大海原へと乗り出した。地中海を西へ西へと進み、ついにスペインの南端ジブラルタルに来た。そこから先は何があるか分からない。人間は行ってはならぬ、という言い伝えがあった。しかし、オデュッセイアは、言った。
「数々の危険を越えて お前たちは世界の果てまで来た。お前たちは、動物のように生きるために生れたのではない。勇気と知識を追い求めるために生れたのである。」
このように言って仲間たちを強く励ました。彼らは、先へ先へと未知の海へと向かって行った。もはや引き返すことは不可能に近かった。南へ南へと進み、南半球に入り、出発して五カ月ほども進み行くと、前方はるかかなたに一つの山が見えてきた。それはかつて見たことのないような高い山のようであった。
これが、煉獄の山なのであった。
彼らは歓喜した。しかし、そのとき未知の陸地から激しい竜巻が巻き起こり、船首の一角に突き当たった。三度、船を周囲の水とともに巻き込み、高く空に持ち上げ、船首から海深くへと落ち込んでいった。これこそは、神のご意志によるものであった。やがて彼らの上に、海が元通り海面を閉ざしたのであった。
オデュッセイアは勇気と知識を求め、家族への愛着をもこの世の安定した生活をも捨てて、未知の危険な大海へと船出した。それは、動物的に生きる生き方とは全く異なる目標をもった歩み方である。
それがなぜ、このように煉獄の山を目前にしてそこから突然生じた激しい風に巻き込まれて海の藻屑と消えたのだろうか。
それは唯一の天地創造の神、愛の神を信じ、その前に心砕かれることなくして、知識と勇敢さを求めて行ってもついには破滅する。煉獄の山へと達することはできない、という意味が込められている。
これは、旧約聖書の創世記にあるアダムとエバが、「あらゆることを(神とは無関係に)知る知識の木」(*)を食べて楽園から追放されたことを思わせるものがある。
(*)しばしば「善悪の木」と訳されているが、原語は、トーブ と ラァ の木であり、単に日本語のように道徳的な善悪を意味するのではない。善と訳された原語は「トーブ」であり、「悪」と訳された原語は「ラァ」であるが、それらは、それぞれ口語訳では五十種類ほどにも及ぶ訳語が当てられている。例えば、トーブ
については、「愛すべき、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、好意、幸福、好意、ここちよい、親しい、幸い、親切、順境、親切、正直な人、善、、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、福祉、恵み、安らか、豊か、りっぱ」等々と訳されている。
「ラァ」については、「悪、悪意、悪人、悪事、痛み、いやな、恐ろしい、害悪、苦難、苦しみ、汚れた、つらい、悩み、罰、破滅、不義、不幸な、滅び、醜い、災い」などと訳されている。以上のような事実から、トーブを善、ラァを悪、と訳して道徳的な意味の善悪の木だと受け取るのは、意味や原文のニュアンスよりも狭めてしまうことになり、不適切だということになる。英語訳では、the tree of the knoledge of good and evil となるが、英語のgoodと evilも、日本語の「善」「悪」よりずっと広い意味を持っているから、日本語訳よりはより原文に近いニュアンスを持っている。
それゆえ、「善悪の木の実を食べる」とは、「(神を抜きにして)好ましいこと、好ましくないことなどの総体、すなわちあらゆることを知ろうとすること、またそうした知識」という意味を持つことになる。
これは、現在の状況を見るとき、聖書やダンテの深い洞察に驚かされるのである。現代の問題はまさに神抜きにあらゆる知識の実を食べている状況から生れているのであり、今日の環境問題や未知の危険なウイルスの発生、あるいは世界大戦による何千万という膨大な犠牲者を生じたのは、高性能の爆弾や戦闘機、核兵器の出現など、科学技術という「知識の実」を神への畏れなしに食べていったことによると言えるだろう。
さらに、教育を戦前などと比べると比較にならないほどに多くの教育時間を大多数の人々に提供しているのに、子供の心がより純真に、愛や真実が深くなったかというと全くそうではない事実がある。これも教育を単に、「(神抜きに)知識の実を食べる」ことにしてしまっているからである。
現代では、もはや不可欠となってしまったインターネットなども、神抜きでおびただしい知識を得る傾向に拍車をかけている。
こうした知識的なことだけでなく、道徳的な方面においても、いかにその志はよくても、人間の力に頼り、人間の内なる情熱によってことを成そうとするならば、その末路は突然に竜巻のようなものによって巻き上げられ、滅びていくというのである。
神に導かれ、神の愛によって砕かれて人間の弱さと小さきことを知ること、神の前の謙遜がなければ、煉獄の山には登れない、従って神の国へとは達することができない。
そしてこの「謙遜」すなわち神の前に心砕かれた状態を象徴するイグサは、引き抜いてもすぐにまた生えてくるという驚くべき性質があることがこの第一歌の最後に記されている。
これは、こうした神の前の謙遜は、不滅の性質があるほどに神に祝福されるのだということなのである。謙遜に限らず、愛や真実、正義といったものは、永遠なる神にその基盤を置いているために、いくら人間が引き抜いても踏みつぶしても再び生えてくるのであって、それを踏みつぶそうとする人間のほうが、つぶされていくのである。
ダンテが、この第一歌の最後から三行目にあたるところで、 oh maraviglia! (英訳では、O marvel!) と、簡潔に間投詞を用い、感嘆符をつけてその驚くべきことを表したのは、神の国に属するものの永遠性、不滅性への驚きがここに表されているのである。(神曲・煉獄篇終り)
万人救済説について
以下は、今回の四国集会である参加者が、「一人も滅びないで」という四国集会のテーマに関連して、「感話」の中で述べた万人救済説について疑問を感じる人も多くあったので、この問題についてどう考えるべきか、を説明するために書いたものです。
なお、一人も滅びないで、という神のご意志が聖書にどのように表されているかについては、「いのちの水」誌の前月号に書いたので参照して下さい。
その「感話」は、宮田光雄という人の著書から引用というべき内容でしたが、その時の話しは、どんな人でも、悔い改めもなにもなくして、救われるといったような内容として受け取られたと思われます。現にそのように受け取って驚いた人もいます。何年か前にもそのようなことを聞いた、といって大きな疑問を私に話した人もいました。
しかし、宮田は、万人救済説の本質が「万人が救われてほしいという希望」であることを強調しているのです。
宮田光雄の書物から次に引用しておきます。
…万人救済説といい、予定説といい、それは、すべて優れた信仰の先人たちが、みずからの信仰体験にもとづいてそれを論理的に表現したものなのです。だから、私たちがその結論だけをつまみ食いしてもダメなのです。
むしろ予定説といい、万人救済説といい、そうした教えは、私たちが自分自身でも心からそのような信仰告白ができるよう祈り求めるべき、私たちの信仰の道しるべなのです。
さきほど注意したように、ボンヘッファーは、(万人救済説は)「体系」でなくして、「希望」だと言いました。
私たちは、まだ、本当は、予定説などということを問う資格がないのかも知れない。…(「嵐を静めるキリスト― 万人救済説の系譜」二百頁 新教出版社 一九八九年)
このように、宮田光雄も、万人救済説とそれに対立すると考えられている予定説の双方をいずれも優れた信仰の先人たちの深い体験と思索の結果として尊重しているのであり、そのような深い信仰の体験とそこから来る確信がないのに、万人救済説が本当だ、などとその結論だけをつまみ食いすることを宮田は、とくに注意しているのです。
実際、「救いが予定されている」、という信仰的な受け止め方の元にあるのは、長い苦しみのなかから初めて光の世界、神の愛に触れたとき、それは単に偶然的に自分が信じたのだ、だから救われたのだ、というような気持ちに留まることなく、自分が意識するずっと以前から、神の愛によって救おうとして下さっていたのだという実感なのです。
人間の愛でも、深い愛ほど、一時的、突発的でなくずっとつづいていたと感じるものです。
聖書における放蕩息子の例にしても、息子は長い間父の愛を全く感じていなかったのです。そして財産をもらってそのまま遠くに行って放蕩のかぎりを尽くし、破滅寸前になって初めて父の愛に目覚めたわけで、父の愛はずっと自分に注がれていたのだと気付いたのです。
肉親の愛にしても、子供のときには父母の愛など分からなかった人でも、大人になって自分がいろいろと苦労してようやく、子供のときからずっと父母は自分を愛していた、あるいは自分のことをとても心にかけていたのに気付く場合も多いと思われます。
深い愛ほど、それを受けた人は、はるか以前からずっと続いていたと実感させるものなのです。
同様に、万人が救われるということは、自分のような罪人が救われた、自分は救われるために何もよいことをしたわけでない、かえっていろいろと罪深いことを考えたりしてきたのだ、それでも救っていただいたのだから、きっとどんな人でも救われるであろう、との受け止め方であり、希望なのです。
自分の罪深さに苦しみ、滅びていこうとしているさなかにキリストの十字架を知らされ、救われて主の平安を与えられた者は、大なり小なりこうした実感を持つはずです。
このように、予定ということ、万人が救われる希望といったことは、本来だれも断定できることではありません。はるかな過去のことや未来のいつか分からない最後の審判の時のことを誰かが断定できるなどということ自体あり得ないということは容易に分かることです。
しかし、本当の救いを受けた者ならだれしもこの二つのことは程度の差こそあれ、魂の深いところで実感するものなのです。
今回の四国集会での話は、残念ながら話した人の信仰上の体験が語られることなく、単に本で読んで知った万人救済の結論だけを参加者に提示したようなものとなったと言えます。
この万人救済説は、その真理性がずっと以前から大いに問題にされてきた、難解な神学説であるにもかかわらず、それがあたかも真理であるかのように断定的に語られると、聖書の真理から大きく外れてしまいます。
いかなる悪人も、悔い改めもないままに赦されるなどということは、もちろん全く聖書には記されていないことです。それは、次のキリストの言葉からしても分かります。
・はっきり(アーメン)言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ福音書三・28~29)
・ だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、(聖なる)霊に対する冒涜は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
(マタイ福音書十二・31~32)
このように、赦されない罪というのがあることを、キリストは明確に述べています。しかもこの言葉を発する前に、マルコ福音書では、「アーメン(真実に)」と言っています。これは、次に特に重要なことを言う場合に、この表現をとっていることがしばしばみられます。(*)
(*)例えば、次のような箇所である。ここで「はっきり」と訳されている原語は、アーメンである。
…はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ5:24-25)
この世でも来るべき世でも赦されないと言われる聖霊を汚す罪とはどのようなものか、それは私たちには明確なことは分からないことです。
主イエスがこの言葉を話されたのは、主がなされた悪の霊を追いだすという驚くべき業を、ファリサイ派の人々や律法学者が、神のわざとして受け取ることなく、かえって、それを「悪霊のかしらの力で悪霊を追いだしているのだ」と、全面的に否定して、悪魔の力でやっているのだとしたからでした。
しかし、このようなことは一例であって、じっさいにどのようなことが、聖霊を汚すことになるのかは、だれもはっきりとは分からないことです。
それは霊的な深い罪であり、人間はそのような深い霊的な世界についてはわずかしか分からないからです。
私たちは、自分自身の心の中にすらどんな罪が潜んでいるかも分からないのです。ペテロが命を捨ててでもイエスに従っていく、といった直後に、三度もイエスの弟子であることを否定したこと、ダビデのような子供のときから勇敢で、あらゆる困難をも神への信仰をもって対処していったような人が、王となって安定したときに、本人も周囲の者もおよそ考えられないような重い罪を犯してしまったこと、これらは聖書そのものに、いかに人間が自分のことすら分からないかということを示すものです。
そのような私たちが、どうしてだれが聖霊を汚しているとか赦されないとか、赦されるとか議論することができるでしょうか。
またこのような明確なキリストの言葉があるにもかかわらず、どんな人でもみんな赦されるのだとして、その罪の深さ、重さを軽々しくみてしまうこともまた、この世界の無限の奥深さを軽視するものと言わねばなりません。
私たちは、不可解なキリストの言葉があっても、それを人間の小さな頭で勝手に解釈し、矮小化してしまってはいけないことですし、それは神の言葉の無限の深さを人間的な基準に浅く狭くしてしまうことにほかなりません。
だれが聖霊を汚しているか、などといったことは、すべて主に委ね、私たちはどんな人でも赦されるようにと祈り願っていく、ということが求められています。
万人救済説は、キリスト教の長い歴史においては、少数の人の唱えた「説」であり、アウグスチヌス、ルターやカルヴァンなどもこのような万人救済説を、聖書の真理に反する教説(異端)として退けてきました。
Ⅰペテロ三の19で、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」と言われていることも、万人が救われるとは全く言っているのでなく、死後の世界、陰府にまで、キリストが行かれて宣教された、ということであって、それは万人を太陽のように愛される神の愛の一環にほかなりません。しかし、だからといって、悔い改めもしようとしない聖霊を汚した者が赦されるなどとは全く言われていないのです。
また、万人救済説の根拠となる聖書の箇所としてあげられることがあるのは、次の箇所です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネの福音書三・16)
しかし、この箇所は、万人救済説の根拠とはなっていません。それどころか,はっきりと「独り子を信じる者」とあって、信じないものも、ユダなどもみんな悔い改めもなしに救われるなどとは全く言われていないのです。
つぎに、神が愛であるならば、救われない人がいるとか、厳しい裁きをうけるなどは、神の愛に反することだ、として、すべての人が救われる、と考えようとする一部の人もいます。
しかし、説明できないことはいくらでもあります。例えば、神が愛であるなら、なぜ戦争とか飢饉、災害などで何千万という人たちが死んだり、苦しんだりするのか、ということもとても説明できないことです。
人間が分からないから、分かるように変えてしまって、それを信じる、などというのは、神の言葉や神の御計画の無限の深さと遠大さを著しく矮小化することです。
そのような考え方からは、キリストが神であって人であるというキリスト教の根本である三位一体ということや、主イエスの数々の奇跡や復活、そして十字架によるあがないなどをも否定しかねません。
実際、万人救済説をとる人たちにはこのような傾向を歴史的に生んできたのです。アメリカの万人救済説に立つ人たちは、ユニヴァーサル教会を設立しましたが、これは、三位一体の神を信ぜず、アメリカのユニテリアン教会と協力関係にあるとされています。
また、 万物復興ということと、万人救済説との結びつきについて、「黙示録の21章で、万物の復興という教義が書いてある」と言われることがあります。そして、あたかも黙示録が万人救済説に立っているように言われるのを実際に耳にしたことがあります。しかし、黙示録では、決してサタンが救われるとか、万人が救われるなどとは言われていないのです。
たしかに、「見よ、私は万物を新しくする」(黙示録二一・5)と書いてありますが、そのすぐあとで、「臆病なもの、不信仰な者、人を殺す者、魔術を使う者、みだらな行いをする者、…すべてこのような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。」(黙示録二一・8)
と書かれてあり、さらに、黙示録の二十章でも、次のような悪への厳しい裁きは記されています。
… 「悪魔(サタン)は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そしてこの者共は昼も夜も世々限りなく責め苛まれる」(黙示録二十の10)
こうした描写は、世の終わりのときの世界、霊的な世界での裁きに関するもので、悪そのもの、サタンが滅ぼされるということを記しているのであって、文字通りの硫黄の池などがあるということでなく、本来言葉で表現できないことを象徴的に現していることです。
それゆえ、私たちはこのような表現がどのようなことを言おうとしているのか、おぼろげに分かる程度であり、頭で判断しようとしても捕らえがたいものがあります。それは啓示によってのみ分からせていただけるものだと言えます。
このように、黙示録は決して万人救済説などを言っているのではなく、それとは逆の厳しいさばきのことが書かれており、黙示録を根拠に万人救済説とかその説と結びついた意味での万物の復興などはとても言えないことです。
内村鑑三やボンヘッファーなどの万人救済説について。
内村は、自分のような罪人が救われたのだから、どんな人でも救われるにちがいない、という希望をいだいたわけです。
しかし、どんな人でも、主イエスが悪霊を汚した、とされるような人までも、自動的に万人救済される、などということは全く言っていないことです。
ヒトラーのユダヤ人の大量殺害やスターリンの大粛清などにより、彼らが数百万人を殺害したということなどは、内村鑑三の死去した後のことであり、そうした歴史上かつてないような大規模な殺害をした人たちも悔い改めもなしに救われるなどということは内村鑑三も考えたことはなかったわけです。
次に内村鑑三の万人救済に関する考え方を引用しておきます。
万民救済の希望
罪人の首たる余を救いうる愛は、いかなる罪人をも救いえてなお余りあるべし。余は余を救い給いし神の愛をもってして救いえざる罪人の場合を思惟するあたわず。神が世に先んじて余を救い給いしは、余をして万民に神の救済の約束を伝えしめんがためならざるべからず。余は万民救済の希望を余白身の救済の上に置く者なり
(「聖書之研究」一九〇二年五月号)
ここでも、言われているように、内村は自分自身の深い体験によって、このような罪深いものが赦されるのだから、どんな人でも赦されるにちがいない、という思いを述べて、そこから万人救済の希望が持てる、ということを述べているのです。
それは「万人が救われる」といった事実や真理を言っているのでなく、あくまで「希望」なのです。
万人救済説に立つとも言われる、ボンヘッファーも、決してヒトラーやスターリンがみんな救われるなどと、断定的に主張したのではないのであって、そのことは、宮田光雄の本でも、次のように書かれています。
…「…(ボンヘッファーは、)万人救済説というのは、あくまで希望であって、体系にまとめられることはない」 といっている。万人救済説は信仰の「希望」なのだ、教義や神学の体系ではない、と。これは非常にすばらしい指摘です。
(「嵐を静めるキリスト―万人救済説の系譜」 一九三頁 宮田光雄著 一九八九年 新教出版社)
これは、きわめて当然のことです。聖書にも明確に書かれておらず、しかも、自分自身の魂の状態すら、分からず、思いがけない罪を犯したり、明日のことも分からないほどの弱き存在である人間が、他人や未来の人間、そして過去の無数の人たちの魂に対して、どんな裁きや救いがあるとかを、断定的に述べること自体考えられないことです。それを教義や体系などにすることなど到底できないことです。
万人救済ということは、神の愛ゆえに私たちに与えられる「希望」であって、個々の悪人や人間がどうなるのか、それは万能と愛の神を信じて委ねること、すなわち、神はすべての人を最善になし給うということを信じるだけで十分なことです。
救いの可能性がすべての人に及んでいる、ということは、主イエスの次の言葉がはっきりと表しています。
…敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。(マタイ五・44~45)
この短い言葉に神の愛がいかにあらゆる人に及んでいるかが、誰もが分かる言葉で明確に述べられています。ですから、万人が救いの可能性を持っていることをいうのに、わざわざ異端とされてきたような問題の山積している神学説や特異な神学者の本を他人の著作から引き出してくる必要は全くないのです。
聖書(神の言葉)を中心に述べることをせず、数知れずあるさまざまの議論のなかから、特異なものを一方的に引用するのは、人間の教説を神の言葉以上に重んじる姿勢です。
こうした姿勢は、必ず聖書そのものを軽視する風潮に流れ、その延長上にあるのは、さまざまの人間の神学的な解釈や意見に動かされ、確固たる信仰を持つことから離れていくということです。
それは救いの原点である神の言葉やそれを何より尊重するところから与えられる聖霊をも軽視することになるでしょう。
主イエスが地上で過ごされた当時、イエスの深く単純な真理はかえって無学な漁師や一般の人たち、そして当時は見下されていた盲人や病人、あるいはハンセン病のような人たちに深く受けいれられ、それをまったく受けいれようとしなかったのは、神の言葉を綿密に学んでいたはずの学者(律法学者)たちでした。
彼らはかえってイエスを受けいれず、憎しみをもってイエスに対し、迫害をしていったことが思いだされます。
また、使徒パウロもとくに律法をすぐれた教師から学んでいた学者的な人物でしたが、その学問をもってしても、主イエスが神の子メシアであることは全く理解できず、キリスト者たちを迫害し、殺すことにすら加担していたのでした。
パウロが真理を悟ったのは、学問によってでなく、上よりの光であり、生けるキリストからの直接の語りかけであったのです。
主イエスはわかりやすい言葉で、そこに無限の真理を込め、万人に開かれた真理を語ったのに、ともすれば人間はそこに人間的な議論や解釈を次々と入れて、複雑にして、ごく一部の人しかわからないような難解な議論にしてしまうのです。そしてそのような議論が分かったとしても、救いとは関係のないことで、そんな議論は何一つなくとも、信仰によってまた主イエスの恵みによって、生きたキリストが魂に留まり、聖霊を受ければ、そのような議論とは比較にならない平安と確信がだれにでも与えられることです。
私たちは聖書の言葉が分かりにくいとき、異なる解釈があって分からないとき、それを単純化して一方の方だけを軽率に取り入れることから、だんだんと聖書にある神の言葉より人間の考えや解釈を重んじるようになりがちです。
真理は楕円のようなもので、中心が二つある、とは内村鑑三やその信仰上の弟子であった政池 仁ほかの人たちによって、以前からよく言われてきたことです。私たちは、神の言葉の無限の深みと広がりを思うとき、救いと裁きといった重要な問題については、簡単に特定の箇所だけを重要視して、ほかの重要な箇所を無視するのでなく、また、矛盾するように見えるところがあっても、それを一方だけをとって、他方を簡単に捨てて顧みないというのでなく、十分に聖書の言葉をそれぞれに吟味することが必要です。
そして、分からないことは、神に委ね、神が最善にして下さることを信じることです。そして求めるものには必ず与えられると、約束されている聖霊を待ち望むことです。聖霊こそは、そうしたあらゆる問題を最終的に啓示によって霊的に明らかにして下さるからです。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
(マタイ福音書18の3)
この主イエスの念を押すような表現、それは幼な子のような心、幼児が母親を全面的な信頼をもって見つめるような心で主を仰ぐことがいかに重要であるか、を指し示しているのです。
(万人救済説 終り)
「祈の友」の詩の中から
(一)
アネモネの花よ わが信仰の弱さを あわれんで祈ってほしい
イエス様が だまって この花を指しているように思える
ガリラヤの野辺に咲いているというだけでも 楽しいアネモネの花よ
花かげにほほえむ友の眼は澄み みずいろの香りが漂うている
争うまい 黙って歩く 賢治や重吉に続く道か この道 仲 綽彦(*)(大阪)
(「曠野の詩 祈の友同人信仰詩集」二〇二頁 一九五四年 静岡 三一書店刊)
・これらの自由詩(自由律短歌)の中に、作者のアネモネの花への信仰的な愛が込められている。私はかつてイスラエルを訪問したとき、エリヤと関係深いカルメル山の頂上付近の草むらにアネモネがあちこちに自生しているのを見たことが、今も眼に浮かぶ。
四番目の短歌、信仰によって深い清めをたたえた眼、そこからは周囲にもその清い水色が静かに流れていくという。 主イエスの眼はまさにそのようであっただろう。
夜空の星もそうした澄んだ眼であり続けている。
(*) 仲 綽彦は、若き日に結核に苦しんだが、癒されて終生結核の人たちの友たらんとして、聖燈社を建てた。この小さな出版社から、榎本保郎の「ちいろば」が出されて、多くの人たちに読まれるようになり、三浦
綾子もこの本に心動かされ、後に榎本保郎の伝記小説「ちいろば先生物語」を書いた。
(二)
迫り来し いのちの暮れや わが魂の 星は久遠のかがやきを増す
み癒しを切に祈れば「わが恵み汝に足れり」と静かなる声
川添繁郎(熊本)
(「真珠の歌」祈りの友同人信仰短歌集二二頁 一九五一年 三一書店)
・若くして召されていった多くの結核の病者たち、しかし、そのような苦しみや悲しみにあって、この作者は、輝きを増すものを深く感じていた。それは自らの魂の内に住まうキリストの輝きであった。その内なるキリストが、若くして朽ちようとする命を支え、作者はその輝きを見つめて静かなる喜びを感じたのであっただろう。
ことば
(266)「私は捕らわれの身になった時からはじめて、聖書のみ言葉の深い意味、そしてそのみ言葉が人に与える精神的な力が大きいのを悟ることができました。
世界を支配するあらゆる権力も、小さな虫にも及ばないと思われてきました。私は四〇年前から激しい病苦に悩んでいますが、多少の苦しみを忍ぶのは当然のこと、今こそよきわざをなすべき時であり、その場所にいるのです…。
御主は私に勇気を与え、世界のあらゆる試練、あらゆる責め苦も何とも思わないほどにして下さいました。この勇気が御主のものでないなら、私はとてもこんなことを申し上げられないでしょう。
自分の弱さも、御主が私を助けて下さることも、きょうこのごろほど明らかに悟ったことはありません。」
(「長崎の殉教者」一五五~一五六頁 片岡弥吉著 角川選書 一九七〇年)
・これは、一六一七年五月にイエズス会の神父が牢内で書いた手紙の一部。この人はこれを書いて二十日ほどの後に殉教した。聖書に記されている最初の殉教者、ステファノが周りの人たちに石で打たれて殺されようとするときに、初めてイエスが、神の右に立っておられるのをありありと見ることができた。そして周囲の荒れ狂った人たちのために祈りつつ息絶えたと記されている。普通では考えられないような恐ろしい状況にあって、神は驚くべき力と平安を、そして啓示を与えられるのだと分かる。
(267)私たちが何を言うかは問題ではないのです。大切なのは、神が私たちを通して(他の)魂たちに何を語りかけるかということだけなのです。
What we say does not matter, only what God says to souls through us.(「MOTHER TERESA IN MY OWN WORDS」GRAMERCY BOOKS 三七頁 )
・これは、使徒パウロが、「たとえ天使の舌で語っても、愛なければうるさいシンバルのようなものだ」と言ったのと通じるものがある。神の愛を受けて語るとき、最も神が私たちを通して他者に語りかけるだろう。私たちはただ器であり、管のようなものにすぎない。
私たちがいかに多くを語っても、主が働いて下さらなければ何もできない。この「いのちの水」誌のような印刷物も同様で、この小さなものを通して神がそれぞれの読者に語って下さることを願うのみである。
(268)伝道とは、神様が私たちを通して働かれることです。(「SOWERーソア 種まく人」日本聖書協会発行 二〇〇三年一月号11頁)
・ここにあげた言葉は、日本から中国に訪れた牧師たち数人が、苦難の中を歩んできた「家の教会」の指導者に会ったとき、なぜ中国ではそのように多くのキリスト者がいるようになったのかと尋ねた。そのときその老伝道者が逆に「伝道とは、何だと思われますか。」と意表をつく問いかけをした。驚いてしばらく答えられなかった日本の牧師たちに語ったのがここにあげた言葉である。
中国では、第二次世界大戦後、共産主義政権が成立したときには、七〇万人ほどのプロテスタントキリスト者がいたと推定されている。それが五〇年後の現在、およそ一〇〇倍にもなって、七千万人ものキリスト者がいるとの報告がなされるほどになった。最近の報道では、大体五%のキリスト者がいると言われる。中国の現在の人口は十三億人余りであるから、六五〇〇万人もに達する。
日本では、一%にも満たないし、毎年五〇〇〇人の受洗者があっても、その数以上に教会を離れる人がいるから、実質は、二五万人ほどだという。 いかに、中国と大きな差があるかを知らされる。
伝道に限らず、私たち一人一人の清めや、愛が生れること、平和、重要なことはすべて私たちが人間的な判断や意図ですることでなく、究極的には神が働かれることによってなされる。私たちはただそのための小さな器となるだけである。
休憩室
○六月の夜空
六月一〇日に阪神方面から車で帰宅途中、夜の九時四〇分に西空に金星が明るく輝いていました。 夜一〇時近い時刻になってもまだ宵の明星が見えるというのは、ちょうど日没が一年で最も遅い六月だからで、他の季節ならこのようなことはなかなかないわけです。
梅雨空になっていますが、晴れているなら、六月下旬ころの夕方八時頃には、金星がまだ西の方に見えています。そしてその金星に並んで土星が見えます。さらに眼を転じて東の空に向けると南東の空には、木星が強い澄んだ輝きを見せています。その木星のすぐ右側に赤い輝きをもって目立つのは、さそり座の一等星アンタレスです。(
ギリシャ語で火星のことをアレース、その火星に対抗して赤く輝いているということで、アンチ(対抗、反対)アレース、そこから、アンタレスという名前がついています。)
また、頭上にかなり強い光で輝く一等星は、牛飼座のアークトゥルスです。そして北の空には北斗七星が杓を逆さにした形で見えています。
星の名前を覚えると、夜空がより親しくなり、星に現れた神の栄光をより身近に感じることにつながります。
○ホタル
わが家の周辺では、六月に入ってしばらく経つと、毎年少数ですが、ホタルが現れ、その不思議な輝きを見せてくれます。谷川でなく、まっ暗な山道に現れるホタルです。ゆっくりと光りながら飛んで行ったり、近くの草むらにとまって点滅するその光は、私たちの心に静かな喜びをもたらしてくれます。
私たちは光を常に求めてやまない存在であり、闇のなかにひっそりと静かなその光は、私たちの心の願いに触れるものがあります。
編集だより
来信より
○元号の問題、私の不注意というより、何の考えもないまま、使用しておれましたが、ご指摘のとおりで改めて元号制について学ばせられました。国の深淵な謀略?に何の抵抗感もなく、以前からそうであったからと従う安易な考えが大きな間違いを、また以前来た道に歩むような愚は絶対に避けねばならないと改めて考えております。そのためにも、身近な問題にも関心を持たねばと思います。(四国の方)
・全国的なキリスト教関係の団体の徳島支部からの連絡に、元号が用いてあったので、その問題性に関する以前の「いのちの水」誌を送付してあったところ、右のような返信が届きました。キリスト者でも元号制は、日本の文化だ、などと思っている人がいますが、それは元号制の問題点を聞いたことがないからです。
現在の憲法を改悪しようとしている勢力と、元号を維持しようとする人たちとは共通していることが多いのです。
○私は、キリスト者の仲間といっしょに「キリスト者平和ネット」などに所属し、運動にかかわっています。その過程で「いのちの水」五五一号の「平和への道」、五五六号「憲法九条の精神は変えることはできない」によって多くのことを教えられ、励ましを与えられました。
私たちが尊敬するガンジーの非暴力による戦いがキリストの教えとそれを熱心に説いたトルストイの影響を深く受けていたということ、そしてそのガンジーが、キング牧師の運動に強く影響を与えていたということを改めて教えられました。
そして憲法九条については「真理そのものに根ざしている考えなのである。…それゆえに排斥したり滅ぼすこともできない」と本当に心強く感じました。 …「いのちの水」に接して新たな勇気が与えられました。
憲法九条が守られ、自衛隊が海外に出かけて戦争することがないよう、ささやかですが、運動を進めていきたいと願っています。(関東地方の方)
お知らせ
○吉村(孝)は、北海道瀬棚の集会のあと、札幌、岩手、山形、新潟、栃木、埼玉、八王子などの「いのちの水」誌につながりある方々を一部ではありますが訪ねたいと願っています。