2008年3月 第565号・内容・もくじ
沈黙のなかで
ある冬の終りのころの夕べ、山の冬枯れの木立を歩いていた。だれひとりいない静かな山であった。
左右上下にさまざまの方向に枝を出した木々が、夕日を浴びてそこにあった。それらはじっと見ていると、語り合っているのであった。
その大小さまざまの木々、枝、それらの会話が聞こえるかのようであった。
沈黙していながら、語り合っている。
ときに、風が吹いて木々の枝によって音楽が奏でられる。あたりの常緑の木々の葉が鳴る。
私たちのこの世界もまた、その沈黙のなかでたえず言葉が交わされているのである。それは人間に向けられた神の言葉であり、また神にうながされ、聖霊に導かれた祈りの言葉である。
数千年の昔、聖書の詩人がうたったように。
…話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう(詩編十九より)
無数のリピーターを持つ本
世界には本は無数にあるし、次々と膨大な数の本が出されている。それらの本もある種の催し物をしているようなものである。その本の内容に惹かれてやってくるようにと宣伝し、いろいろな目を引くようなグラビア、図版などを入れている。
しかし、ほとんどの本はそのような努力にもかかわらず、ただ一度だけ、あるいはせいぜい数回その本を開いただけでもう捨てられてしまう。新聞は一日経たないうちに、その新聞はゴミになってしまう。マンガ、雑誌、週刊誌なども、せいぜい一か月もするとやはりもうリピーター(*)はなくなって捨てられてしまう。
(*)リピート(繰り返し)する人の意。
リピーターを数知れないほど持っているのは、聖書である。一度訪れ(その本を開き)二度、三度とその本を訪れる人は無数にある。一年に数百回も聖書を開く人もたくさんいる。どんな面白いテーマパークのようなものでも、リピーターといっても年に数回、あるいは毎月一度行っても年に十回あまりということであろうから、聖書という本には驚くべきリピーターがいることになる。
他の本、例えば岩波文庫発刊以来、最もたくさん読まれてきたのは、夏目漱石の「こころ」だという。これはタイトルに惹かれて購入したり、読んだりするのであって、その内容は不快なもの、暗くなるようなものであって、繰り返し何度も読むという人はごく少ないであろう。一年に十回もこの本を読むようなリピーターというのは聞いたことがない。
なぜ聖書だけ際立ってリピーターが多いのだろうか。
それは、聖書という本は、ほとんどどのページも、繰り返し訪れる(開く)たびに新たな何かを感じ取るからである。例えば、「あなた方は羊、羊は羊飼いの声を聞く」(ヨハネ福音書十章)という短い文を知識として知っていても、それを私たちへの生きた主イエスからの語りかけとして聞き、羊飼いであるイエスの声を聴こうとするとき、イエスの声に近いかすかな響きのようなものを聞き取るということなら、いくら繰り返しても奥は限りなく深い。羊飼いである主イエスの声を聞くということは、何十年試みても、何十年聞いたとしても、いっそう惹かれるものなのである。聖書の言葉とは、窓なのである。神の面影や神の国の光、神のいのちの水などが見えてくる窓なのである。
聖書の言葉、とくに新約聖書の言葉は、それを単に表面的に知っているというのでなく、その言葉が生きて働いておられる神からの言葉だとして感じられるようになるときには、飽きるということがない。いのちの源である神から直接来るものはいつも新鮮でいのちに満ちているからである。
私とつながっていなさい、と主イエスは言われた。主イエスとともにあるとき、毎日見聞きしていること、何度読んだか分からない聖書の言葉も新しいものとして感じられる。そしてしばしば新たな意味をも感じ、見出すことにつながっていく。主と結びついているときには、神が霊の養分をつねに与えて下さるから、そのように読み慣れた聖書の言葉であっても、そこからこうしてつねに養分をくみとることができる。これが聖書が数知れないリピーターを持っていることの理由であり、また繰り返し聖書をひもといてみようという気持ちを起こさせるのである。
これはまた、神の直接の被造物である、周囲の自然に関しても同様である。星などは、一年中、まっ暗な闇にただ単純に光っているだけであるのに、これもまた無数のリピーターを持っている。繰り返し夜空を見つめて、あるいは折々に見上げてそこから地上のものからは得られない何かを与えられる人は昔から数知れずいた。
神ご自身が、そこに訪れる無数のリピーターを持っておられるお方なのである。
主よ、いつまで
この叫びは旧約聖書、とくに詩編において多く現れる。しかし、新約聖書では黙示録に一度しか見られない。それは新約聖書では個人の苦しみや悲しみを詩のようなかたちで直接に表現したものはないからである。
このような点を見ても、新約聖書だけでは分からない信仰の世界が旧約聖書にははっきりと示されているのであって、詩編の重要性を示すものである。
とくに、旧約聖書のヨブ記も正しき人に降りかかる苦しみをテーマにした長編の詩である。そこでは、死を望むほどに苦しみや孤独が深く、いつまでこの苦しみは続くのか、という叫びに満ちたものが全編を覆っている。
わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。…
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。…
なぜ、労苦する者に光を与え
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。…
湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。
静けさも、やすらぎも失い
憩うこともできず、わたしの心はかき乱されている。(ヨブ記三章より)
神はわたしの道をふさいで通らせず
行く手に暗黒を置かれた。…
四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように
希望は根こそぎにされてしまった。
神はわたしに向かって怒りを燃やし
わたしを敵とされる。…
神は兄弟をわたしから遠ざけ
知人を引き離した。
親族もわたしを見捨て
友だちもわたしを忘れた。
わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。
息は妻に嫌われ
子供にも憎まれる。
幼子もわたしを拒み
わたしが立ち上がると背を向ける。
親友のすべてに忌み嫌われ
愛していた人々にも背かれてしまった。
骨は皮膚と肉とにくっつき
皮膚と歯ばかりになって
わたしは生き延びている。(ヨブ記一九・8~20より)
このヨブの苦しみは、財産が失われ、愛する子供たちも次々と死に、自らも重い病気となって夜も眠られないほどに苦しみ、妻からも見下されることになり、底知れない苦しみにさいなまれるものであった。そのような苦しみは耐えがたいものであったので、彼は日夜いつまでこの苦しみは続くのかと祈り、叫び続けたことであろう。しかし、その願いはかなえられなかったゆえに、はじめにあげたような、生まれてこなかったほうがよかったのだ、なぜ生まれてきたのか、という激しい問いかけとなった。
家族も幾人も失い、残った子供や妻からも嫌われ、病気の状況が嫌悪をもよおすような状態であったために、まわりの人々たちや友人たちからも見捨てられてしまった。
神を信じ、正しく生きてきたはずの者であってもこのような叫びをあげざるを得ないほどに、精神的にも肉体的にも追い詰められることがありうるということをこの詩は示している。
いつまで続くのか、というその問いかけに答えもなく、神が自分の行く手に闇を備えたのだ、としか思えない状態であった。
このような苦しみは歴史のなかでも、数知れない人たちが体験してきた。旧約聖書の詩集(詩編)にもそのような内容のものが多く見られる。
この世では、愛の神を信じていても、さまざまの苦しみが降りかかってくる。ときには病気や家族の問題、職場や周囲の人間関係など、それぞれに苦しみが続く。とくに病気の場合にはもう治らないというような病気である場合には、気力を失わせて、将来を生きる力が失われていくことも多い。
いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。(詩編十三篇)
この詩では、四回も繰り返して「いつまで…」という叫びが発せられている。このように繰り返し強調されているのは聖書のなかでもこの箇所だけである。それほど、この詩は、病気あるいは敵対する力によって追いつめられた人の心が表れている。この詩の作者は、全能の神を固く信じている人であっただろう。しかしそれでもこのような、耐えがたい苦しみに投げ込まれてどうすることもできない状況となっている。
この世にはこうしただれにも言えないゆえに、また言ってもどうにもならないゆえの深い苦しみに日々置かれている人たちが数知れなくいる。そうした逃げ道のない状況のゆえに、みずからの命を断つ人たちが年間三万人ほどもいるし、未遂に終わった人たちを含めるならばその何倍にもなるだろう。
そうした人たちとこの詩の作者との大きな違いは、前者がその苦しみを訴える相手を持たなかったのに対し、この詩の作者は、人間に言えない、わかってもらえない悲しみや苦しみを訴える相手を持っていたことである。
現代の私たちは、「敵」という言葉はあまり使わない。しかし、敵とは、昔の時代に武器を持って攻撃してくる戦争などの敵ということでなく、その本質は、私たちの心を傷つけようとし、またさらには生命をおびやかそうとするような闇の勢力のことである。そして私たちはそのような力に、現代においても私たちの生活やその周辺でしばしば直面する。それは、職場の特定の人間であったり、ときには最も身近な家族であったり、また病気や死そのものであったりする。それらが敵のように私たちの命や心に襲いかかるようにして迫ってくることがある。
そのような時、だれでも「主よ、いつまで…!」という強い叫びを出さずにはいられなくなるだろう。
神が私たちを忘れているのではない。しかし人間は神の無限に深いお心を量りかねて神は自分のことなど忘れておられるのだ、としか思えないような状況に陥ることがある。
このような状況にあって、この詩の作者は、こんな苦しみを与えるのだから神などいないのだ、というようには思わなかった。かえって、一層真剣に神に願ったのである。
わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
敵が勝ったと思うことのないように
わたしを苦しめる者が
動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。(詩編十三・4~6)
この作者はいつまで続くのかと思われる苦しみのただ中から、神がどうか応えて下さるようにとそのことを必死になって願った。
「光を与えてください!」というのがその願いであった。苦しみのときに、私たちはこの詩の作者のように祈るだろうか。今この苦しみを取り去って下さい、というように祈ることがずっと多いだろう。
しかし、ここで作者が全身をあげて求める光とは、死ぬかと思われるほどの苦しみに何の意味があるのか、またその苦しみの背後に神の愛の御手がはたらいていることをはっきりと見ることのできる光なのであった。
私たちの苦しみは、その苦しみが得体の知れない暗黒の力によってもたらされているかのように感じるゆえにいっそう魂に重い負担となる。苦しいほど何も分からなくなって、ヨブがそうであったように、神だけでなく、周囲の誰もが自分を見捨てているかのように感じられ、まったき孤独のなかに投げ込まれたと感じられてくる。
底知れぬ苦しみとは、闇なのである。ダンテもその神曲の最初に、かれが体験した苦しみを「暗き森」にたとえ、その苦しみは死ぬかと思われるほどのものであったことを記している。
神から受ける光があれば、そのような苦しみの限界や意味がはっきりとわかる。そのために待ち望むことができるようになる。光なきことこそ、最大の苦しみをもたらすものなのである。
それゆえに、この作者は光を求めた。「死の眠りに就くことがないように…」そして敵対する力が自分を呑み込んでしまうことのないようにと。
聖書において、神の光は、単に知識的によくわかるようになるというのでない。それは実際の生きるときの力なのである。これと似たことは、つぎの詩にも表れている。
主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。
さいなむ者が迫り
わたしの肉を食い尽くそうとするが
わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
よろめき倒れるであろう。
彼らがわたしに対して陣を敷いても
わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても
わたしには確信がある。(詩編二七・1~3)
この詩の最初の言葉「主はわが光」のラテン語訳の文(*)がオックスフォード大学の標語として用いられ、同大学出版局の頁数の多い書物には、書物の図の中にこの言葉がはめ込まれた一種のマーク状ものが背表紙に付けられている。「主はわが光」という言葉が、主こそは光を与え、真理探求という大学の使命を支えるものと受け止められているのを示している。
(*)Dominus illuminatio mea(ドミヌス 主 、イルルーミナーティオー 光 、メア 私の)
そしてたしかに神の光はあらゆる方面の真理の探求を啓発し、刺激して導くものだと言えよう。科学的な方面だけ見ても、ケプラー、ニュートン、パスカル、ファラデー、メンデル等々科学史上の巨人たちが多く神を信じる人たちであったことはそのことを示すものである。その他、音楽や美術、哲学などさまざまの方面においても神の光はきわめて重要な刺激を与えてきた。
しかし、この詩編二七篇を見ればすぐにわかることであるが、ここでは神の光とは、そうした知的な探求に光が重要だということでなく、この詩の作者を取り巻き、滅ぼそうとして迫ってくる悪の力に対抗するための力なのだ、ということが強調されている。
神の光こそは、何にもまして悪に打ち勝つ力なのであり、神の光を受けることによって悪の力が迫りくるとも、その悪に倒されない力を与えるということが言われているのである。
いかに科学など学問上の真理が分かっていても、数々の生きていく上での病気や悪との戦いの苦しみに打ち勝つ力を与えるものとはならない。自分や家族が事故や病気で苦しみ、死ぬほどの状況にあるとき、だれが科学書や学問的な研究書などを開いたりするだろうか。そうした複雑な学問的真理は、苦しみや悲しみの押し迫るときには役に立たないものとなる。
それゆえに、人間にとって根源的なものは、生きるための力であり、とくに闇の力が迫るときに死にたいと思うほどの状況にあってなお、踏みとどまる力を与え、慰めと潤いを与える力こそが、必要なのである。
聖書はそのことを深く知っているのがわかる。聖書とは単なる楽しみや、知的な満足や興味深さといったものを提供するものでなく、生きるか死ぬかという追いつめられた状況にあってなお立ち上がらせる力を与えるために書かれたものなのである。
この詩の作者は、恐ろしい苦しみを経たのち、最終的につぎのような魂の平安へと導かれた。
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。
人間も、医学もどうすることもできない困難の中から救い出すことができるのは、ただ神の光、神の力のみ。そしてこの詩は、いかに困難であろうとも、神に心からよりすがるときには、最終的には、このように「神は救ってくださった!
」という喜びと感謝の声をあげることができるという証言なのである。
聖書の冒頭にあるように、神とは、闇と混沌のなかに光を与える神なのである。そしてこの神の光こそは、はるか古代から現代にいたるまで、そして未来においても、つねに人間の「いつまで続くのか」という叫びに応えるものとなっている。
悪を退かせる力
私たちは、毎日の生活の中で、何に最も苦しめられているだろうか。病気、家族や友人、あるいは職場などの人間関係、老齢化ゆえの孤独、将来の不安、職業上の問題、お金や生活など経済問題等々である。戦争などが生じている地域においてもやはり、戦争のゆえに病気が起こり、さまざまの人が死んだり怪我して働けなくなったり、それがまた経済問題にもなっていく。
こうした問題はどこの世界であっても、昔から現代まで至るところにみられる。
私たちを苦しめるもので満ちていると言えるほどである。
そしてこれらの問題は深刻になるほど、だれもどうすることもできない。
しかし、よく考えてみると、これらの問題は一つが解決されてもいくらでもあらたな問題があとに続いているということである。例えば病気であってそれがいやされたとしたら何もかも解決して平安であるということはない。健康な人も数知れない問題や苦しみを抱えているからである。
貧しい人が食物やお金が入ったからといって、それですべて安心ということにはならず、新たな問題が次々と見えてくる。
こうして人間を苦しめる根本問題は、病気やお金、老齢化といったことだけでなく、目に見えない悪の力によって私たちは苦しむのだということである。
悪が入り込めば、いかに健康であっても地獄の苦しみに陥る。例えば、人を殺害するなど重い罪を犯してしまうとき、長期の刑務所暮らしとなるし家庭もすべて破壊されてしまう。このように悪というものは私たちがすでに持っている苦しみや重荷をさらに深刻なものとし、ときには解決不能な事態へと進んでいく。
それゆえ、人間にとって悪の力、闇の力がどうなるのか、ということこそ、最も深い関心事となる。
悪の力が除かれる時、私たちはたとえ貧しくとも、また病気があっても、あるいは大きな罪を犯しても、魂の奥深いところである平安を持つことができる。
聖書はまさに人間を苦しめる根源的な悪はどのようなものか、そしてそれは究極的にはどうなるのか、ということを徹底して追求している書物であると言えよう。
それゆえ、聖書はその最初から、悪について述べている。
この世界ははじめは、混沌と完全な闇であったという。それは悪の状況を暗示している。悪は秩序を破壊し、何が正しいか、善いことであるかを全く区別しない。方向を見えなくする。これが悪のわざである。悪はひろく人間を取り巻いている。至るところに闇と混乱がある。
しかし、そこに光あれ、との神の言葉によって光が存在を始めた。光は究極的に闇に打ち勝つという闇の末路が暗示されている。
詩編においても、この悪がどうなるのか、ということは最初から最大のテーマとなっている。ふつう、私たちが詩ということで思い浮かべることは、個人の感動を記したもの、であって、悪の運命はどうなるのか、などといったことではない。それは哲学的宗教的な問題であると思われていることが多い。
そのような予想と異なり、聖書に収められた詩集(詩編)では、その冒頭からして、悪の問題が記されている。
その内容は大体次のようなものである。
いかに幸いなことか
悪の道に歩まず、
主の言葉をいつも心においている人たち
そのような人たちは
流れのほとりに植えられた木のようだ
実を結び、葉もしおれることがない。
しかし、悪の道に歩む者は
神に裁かれ
風に吹き散らされるもみ殻のようになる。(詩編第一篇より)
これは、まさに神の言葉に従う者の祝福と、それと対照的に、人間をおびやかそうとする悪の運命が記されている内容である。詩集の冒頭にこのように、神に従う者の祝福と、それと対照的に悪に従う者の運命を内容としているのは、ほかの古くから知られてきたいろいろな詩集とは、大きくことなっている。
例えば、日本を代表する古代詩集は万葉集であるが、そこで第一にあげられているのは、雄略天皇の歌と伝えられている次のような歌である。
籠もよ み籠持ち ふくし(*)もよ みぶくし持ち
この丘に菜摘ます子
家 告らせ、名告らせ……
(*)ふくし 菜を掘り取るためのへら。
といった表現から始まる。
(以下は口語訳)
きれいな籠を持って
この丘で若菜を摘んでいる娘よ
家を教えよ 名を教えよ
大和の国は すべて 私が支配している
まず 私から名乗ろう 家と名を(巻一の1)
このように、四五〇〇ほどの歌を収めるにあたって、第一に何を置くかは十分に考えられたと思われるが、天皇が土地の娘に結婚を求めるという内容である。これは、作者の個人的な娘への愛情とともに、その土地の支配ということが背後にある。これは、本来は相聞歌(*)であるけれど、第一に置かれている理由は、結婚によって子孫繁栄と、天皇の支配ということを意味しているとされる。
(*)相愛の情を内容とする歌
また、その後の代表的な詩集というべき古今和歌集の冒頭は春歌で、次のようなものである。
年の内に春はきにけり ひととせを去年とや言はん 今年とや言はん
・口語訳… 旧年の内に立春が来た。一年を去年と言おうか、今年と言おうか。 ( 昔は旧暦であって、その新年は二月の始めころとなり、立春もほぼ同時期なので、旧暦の正月よりも前になることがあるのでこのように言った。)
これは特に思想的な内容ではなく、春を迎えているなかでちょっとした時間のことが心にかかって歌にしたものである。 この古今集の冒頭の序文にあるように、「心に思うことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり」ということで、日常の小さなことに感じたことを歌ったというものである。生活の小さな感情であり、世界や悪の問題などといったことは全く問題にはなっていない。
その配列も、万葉集は大体年代順に配列し、古今集、そしてその後に成立した新古今和歌集もまた季節ごとの配列となっている。年代や季節を第一においた編集であって、詩編のように善の祝福、悪の運命といった深遠な人間全体にかかわる永遠の問題とは大きく異なっている。
中国ではどうか、中国の最も古い詩集は、詩経である。これは孔子(*)が編纂したと伝えられる。数千のなかから、三〇〇ほどを選んだものとされ、今から二五〇〇年以上も昔の詩集である。
その第一に置かれている詩は次のような内容となっている。
関関たるしょ鳩は
河の洲に在り
ようちょうたる淑女は
君子の好きゅうなり(「中国古典詩集」世界文学体系七A 5~6頁 筑摩書房 一九六一年刊)
(原文は日本では使われていない難しい漢字が含まれる文。大体の意味は、「雌雄鳴き交わす鳥の声が河の洲から聞こえる。それにつけても思いだすのは、よき家庭で育った貞潔なおとめこそ、君子の妻としてふさわしい。」)
このように、日本と中国の最古の詩集が、その最初にともに支配者階級の結婚のことを歌っているというのは、興味深いものがある。これは、支配ということとよき配偶者を得て、よい子供を産み、その支配を永続化するということが重要な問題であったからだと考えられる。
またギリシャの最大の詩編(叙事詩)であるホメロスの作と伝えられるイリアスは、次ぎのように人間の怒りということから始まっている。
怒りを歌え、詩の女神よ、アキレウスのその怒りが、数知れない苦しみをアカイアに与え、たくさんの勇士たちの魂を陰府へと送ったのである。…(「イーリアス第一巻1より」)
このような他の著名な詩集と比べるとき、聖書の詩集(詩編)の内容はその巻頭の第一の歌から全くその本質が異なるのがわかる。
聖書の詩編においては、人間の季節に対する感情とか人間の支配や男女の情、時間の順などを第一に置かない。そうした揺れ動くもの、一時的なものでなく、永遠の問題を第一においている。それは究極的な善である神に従うことによる祝福と、それと逆の悪につくことによる運命である。
人間のあらゆる不幸な問題は、悪の力による。病気による苦しみの重さも家族の分裂や人間同士のいさかい、民族や国家同士の争い、戦争といったことも、要するに悪の力が支配するときにこのようなことが生じる。病気というのは、悪というのと本来関係なく、生まれつきの弱さや、栄養不足、災害や戦乱によっても生じることである。病気になったからといって、その人が悪に支配されたなどということはもちろん関係のないことである。
しかし、病気の苦しみは、私たちの心が悪に支配されているほど重いものとなり、私たちを苦しめるものとなる。それは例えば、もし私たちが他の人に大きな罪を犯してしまったとき、病気になるとその罪のことがいっそう病床にあってもその人を苦しめるであろう。
私たちは、他の人から何か悪いこと、中傷、攻撃、策略、暴力、破壊等々をされたゆえに苦しむことがある。そのようなとき、相手への憎しみが生じるといっそうその苦しみはつのることになる。憎しみというのは、本人をもむしばむからである。そして憎しみとは悪に負けた心の状態である。悪が私たちの魂を支配するとき、憎しみやねたみ、怒り、虚偽、傲慢、無気力等々が生じてくるからである。
それゆえ、主イエスは、病気そのものよりも、罪そのものを取り去ることを重要なこととみなされた。
中風で寝たきりの人を友人たちが、何とか主イエスの力によっていやしてもらいたいと、運び込んだことがあった。どうしてもイエスのいるところまで運べないし、まわりの人々が場所をあけてくれないために、最後の手段として屋根をはいで病人をつり降ろすという非常手段に訴えてまで、イエスのところに持っていこうとした。そのようなことは常識では許されることでないし、そもそもそんなことまでしてイエスのもとに連れて行こうとする熱心はなかなか見られないだろう。
しかし、そのような友人たちの必死な姿、それはイエスへの絶対の信頼を持っていたゆえであったことをイエスは見抜かれ、中風の苦しみを持っていた人の最も深いところの苦しみ、それは赦されない罪の苦しみであったゆえに、彼に罪の赦しを与えたのであった。イエスは、友人や本人たちが最も願い続けてきた中風という病気のいやしでなく、その奥にある最も重要なことに目をつけられたのである。それこそ、魂を支配している罪、つまり悪の力を追いだすことであった。
このように、悪の力とはすなわち罪の力であるから、主イエスはかれらの信仰によって中風の人を苦しめていた罪の力を追いだして平安を与えようとされたのである。
神に従うことと悪に従うこととの根本的なちがいは、詩篇第一編において歌われている。これは詩編全体のタイトルともなっている。それに続いて、本来の詩編の最初に位置づけられていると言える第二編もまた神なる善と悪の問題が前面に出されており、神の支配の力と比べて悪の力がいかに取るに足らないか、ということがテーマとなっている。
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし
縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い
主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし…
主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子…
わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」
すべての王よ、今や目覚めよ。…
畏れ敬って、主に仕えよ…(「詩編第二篇より」)
初めてこの旧約聖書の詩編を読むときには、この詩は一見不可解なものとうつるだろう。詩というのは、「風景・人事など一切の事物について起った感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの」(広辞苑)と言われている。
しかし、詩編第二篇においては、人間の情や自然の移り変わりや美しさを歌うのでなく、そうした日常生活のこととは全く異なる世界のことが詩とされている。
すべての国々や王とか、地の果てまでとか、主が笑うといったことが書かれている。これはおよそ通常の詩というような範囲に収まらない内容であり、単なる一時的な感動とか興味のゆえに作ったのでない。
ここで言われていることは、何だろうか。
この世界全体が神の正義の支配などその存在を信じないで、真実や正義など見下す状況となっている。悪の力はたえずこのようにして、目に見えない正義の神の支配というのを否定し、自分たちの利益のため、都合のいいように人間を支配しようとする。このようにして神の生きた支配をなきものにしようとするのが悪の力である。
しかし、神はそうしたこの世の力、悪の力をいとも簡単に退けられる。「天を王座とされる方」とは神であり、神はそのようなこの世の権力者、支配者たちの動きを笑ってかれらの力を投げ捨てると言われる。
ここには悲壮な悪との戦いという光景でなく、じつに余裕のある堂々とした姿勢がある。神は、この世のあらゆる悪の力の動きを高みから見てそれらを一笑に付すのである。
そしてさらに、悪の力を打ち砕く新たな使命をもった神の子を地上に送り出し、神の力を全世界に表すということがこの詩の内容となっている。
このように、この詩は日常の花鳥風月に、また愛し合う者同士だけの限られた世界にしか通用しない感情などを歌う多くの詩とは全く異なって、善と悪の戦いの場としての世界を天の高みから見下ろし、そこからこの問題の究極的な解決を与えるものとなっている。
このような内容のものがなぜ詩なのであろうか。それは、そのような大いなる神の力を直接に啓示された者は、そのことこそ世界の根本問題であり、その解決が示されたということに、ほかにはない深い感動を呼び起こされているのであり、それゆえに、詩というかたちで表現せざるを得ないのである。
この深い感動は人間的なものでなく、神ご自身がとくに選んだ魂に起こさせたものなのである。
こうした世界的な範囲にわたる神の権威と力をまず、冒頭の二つの詩で述べた上で、詩編にはつぎに個人の深い苦しみや悲しみを表している詩が配置され、一、二篇で示されたような偉大な神であるからこそ、そうした個人の苦しみにも応えることができると言おうとしているのである。
このような神の悪の力に対する勝利は、詩編でもその深いところを流れるものとなっていて、数多くの詩がこのことをテーマとしている。ここではそれらのうちから、次の詩を見てみたい。
イスラエルはエジプトを
ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り
ユダは神の聖なるもの
イスラエルは神が治められるものとなった。
海は見て、逃げ去った。
ヨルダンの流れは退いた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
どうしたのか、海よ、逃げ去るとは
ヨルダンの流れよ、退くとは
山々よ、雄羊のように
丘よ、群れの羊のように踊るとは。
地よ、震えよ、主なる方の御前に
ヤコブの神の御前に、
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。(詩編一一四篇)
この詩は分かりにくい詩である。このような詩は何を言っているのか、初めて読むときにはとくに旧約聖書のことも知らない場合にはまるで意味不明である。こうした詩のゆえに、詩編全体が何となく我々とは遠いもの、私たちの心の問題とはかけ離れているような印象を与えることにもなっている。
これは、一一三篇からはじまって一一八篇までとくに「ハレルヤ!」(主―ヤハウエ―を讃美せよ!)という言葉がよく用いられているので、ハレルヤ詩篇と言われているなかに含まれているが、そのなかではこれだけが、ハレルヤ!という言葉を含んでいない。しかし、その内容には神の力への深い讃美がある。
この詩は四つにはっきりと分けられている。最初の段は、歴史を通じての神の導きを示している。イスラエルの民族としての歴史は、エジプトで奴隷として労役を強いられて苦しめられていたなかから神の力によって導き出されたことにその出発点がある。エジプトに行くまでは、アブラハムの孫のヤコブの家族だけであったが、エジプトで増え広がり、一つの民族となった。しかし、もし神によって送り込まれたモーセと彼によってなされた神のわざがなかったら、イスラエルの民族は滅びてしまっていた。
神はとくにイスラエル民族を覚え、奴隷としての闇の状態から救い出された。そしてその民族に神が宿るという特別な恵みが注がれていった。 ひとたび神がそこに宿るとき、あるいは神がその民とともにいるとき、そこには驚くべきことがなされる。それが、次ぎの段落である。
海は見て、逃げ去った。
ヨルダンの流れは退いた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
「海が逃げ去る」とは、葦の海の奇跡のことを指している。モーセに導かれた民がエジプトの支配を脱してまもなく、前途に海、後方からはエジプト軍が追いかけてきて絶体絶命というときに、神の命令によってモーセが杖を高くあげ、手を海に差し伸べると、海のただなかに道が開けてそこを歩いて救われたという記事がある。
また、ヨルダンの流れが退いたということは、イスラエルの民が目的の地カナンに入るとき、ヨルダン川を渡らねばならなかった。そのとき、神の言葉を刻んだ石を入れた契約の箱を担った祭司がその川に入ると水の流れがせき止められて道ができてわたることができたという事実を指している。
海が逃げる、とは不可解な表現である。このようなことは大多数の人にとって思い浮かぶことのない感じ方であろう。しかも、「海」とは、古代の人たちにとって恐るべきものであり、その果てのない広がりと少し深くなると暗黒の闇となること、そして嵐のときなど船など何もかも呑み込んでしまうその力によって、聖書においては海は闇の力の象徴として用いられているところがある。そのような巨大な力を持っている海が逃げるという。そして、川の流れも単に止まったのでなく、後ろに退いた、つまり逆流したというのである。
ここには、この詩の作者が特別に深く神の力を示されたために、何もかも呑み込んでいくような海の力をも、また川の流れをも共に背後に退かせることができるというほどに、神の大いなる力を啓示されたのであった。
このことは、現代の私たちにおいても、意味深いことを示すものである。私たちの生活、命を脅かし、迫ってくる力はいつの時代でも存在する。それは病気や、人間の憎しみや誤解、またねたみや支配権の争い等々、そして事故、災害などそれらは皆、ここで言われている「海」の力、「川」の流れの力で象徴されるものである。この世のさまざまのそうした問題は、私たちをのみ尽くそうとしたり、正しい道を歩むことを妨げようとする。
しかし、そこに神の力が働くならば、そうした悪の力は退く、ということである。
これは人間が持つべき重要な確信である。このような確信をこそ、私たちは生涯ずっと持ち続けるべきことである。現実の世界は、それと逆のように見える。すなわち、悪の力が善の力を次々と押し出していく、そして善きものはこの世の悪の前に背後に退かされてしまう。
聖書の最初の部分、創世記の四章には、はじめての家庭でその兄弟たちの関係が破壊されてしまう記述がある。弟の神への捧げ物が受けいれられて兄のものが受けいれられなかったという、ただそのようなことから、兄は弟を憎みついに殺害してしまう。このように、悪の力は善きものを退かせてしまうことが、聖書の最初からすでに書かれている。
このようなことは、この世の現実であり、この聖書の記事はまさにきびしいこの世の実体をこのような記述で表したのである。
しかし、それにもかかわらずこの詩編にあるように、神の力は絶えず働いてきた。
山々は雄羊のように
丘は群れの羊のように踊った。
この記述は何のことか、そのままでは分からないような表現である。山々が、羊のように飛び跳ねるのか、という疑問が生じて、こんな記事はまるで現代の私たちには関係のないものと受け取られるだろう。
これは、シナイ山においてモーセが神から直接に神の言葉の基本となる十の戒めが与えられたとき、「山全体が激しく震えた」とあることを意味している。
この一見奇妙な詩を作ったのは、神の力の前には、本来動くことのない山々ですらもいとも容易に動かせるというのである。それほどこの詩の作者においては、神の圧倒的な力が迫ってきたのがうかがえる。
どうしたのか、海よ、逃げ去るとは
ヨルダンの流れよ、退くとは
山々よ、雄羊のように
丘よ、群れの羊のように踊るとは。
これは、人間を押しつぶしたり、呑み込んでしまう大きな力を持った海の力であっても、神の無限の力をはっきりと示された立場から見るときには、いわば子供を相手にするように、「なぜ、逃げ去るのか、退くのか」と、ある種のユーモラスな問いかけすらできる余裕をもって対することができるというのである。
この一見不可解に見える表現は、この詩の作者がいかに神の力をまざまざと実感していたかを示すものなのである。神の力が見えないほど、私たちは悪の力が大きく途方もないようにみえてくる。
昔から現代にいたるどのような時代においても大多数の人たちはこの世において、真実や正義、あるいは清い心などといったものより、悪の力がはるかに強いものだと思っているであろう。だからこそ、真実や正義そのものである神を信じることができないのである。そのような神を信じるということは、いかなる悪にも勝利する力が現実に存在するということを信じることなのである。
地よ、震えよ、主なる方の御前に(*)
ヤコブの神の御前に、
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
(*)震えよ、という箇所の原語(ヘブル語)は、フール で、「震える、揺れ動く、苦しむ」などと訳される言葉であるが、この箇所では、ほとんどすべての英訳は
tremble また、独語訳は erbeben であり、「震える、揺れ動く」である。日本語訳のうち、関根正雄訳は「ふるえよ」、口語訳、新改訳は「(主の御前に)おののけ」とある。おののくとは、恐怖のために震えることである。新共同訳だけが、「身もだえする」と訳しているが、この訳語では、大地が身悶えするなどという不可解な表現となってしまう。
この最後の段落は、全地に対して神の前に震えるほどの畏れをもって神に向かえ、という呼びかけである。そしてその神はすでに述べてきたような絶大な力をもったお方であるとともに、岩を水のあふれる泉とするような恵み深きお方であると結んでいる。
岩とは、何もそこには生まれないところである。私たちにおいては、出口の見えない困難、人間関係が破壊されたようなところ、事故や病気で絶望的な状況などはまさに岩のような状況で、そこにはいかなるうるおいもなく、人間の柔らかな心をも呑み込んでしまい、あるいははねつけてしまう。しかし、悪の力をただちに追い払うことのできる神は、そのような固く閉ざされた状況においても、そこから水を流れさせ、その岩のただなかに泉を生み出すお方だと言われているのである。
このような神の強力な力と、うるおいに満ちた側面がここには記されている。ここにあげたのは一例であって、聖書ではしばしばこのように並行して表されている。
新約聖書において
神の前には、悪の力が退くこと、それは新約聖書でも多くの箇所で記されている。以下にその一部を取り出してみたい。
主イエスがその福音を伝える最初のときに、悪魔(サタン)から誘惑を受けた。この世の支配権を得るとか、まず食物を求める生き方が重要だとか、あるいは霊的な力を悪用するとか、この世の支配権や物質的豊かさを与えられること等々、この世でだれでもが直面する誘惑にさらされた。
そのときに、主イエスは、自分の考えとか経験、あるいは議論をもって対抗するのでなく、聖書の言葉をもって一つ一つ対抗された。そうするだけで、「悪魔は離れ去った」(マタイ四・11)とある。
これはいかに神の力、ことにその神の力をたたえた神の言葉が力を持っているかということを示すものである。神の言葉は、迫ってくる悪の力を退かせる力を持っていることを意味している。
また、十二人の弟子たちを選んで、彼らに何を与えて送り出したと記されているだろうか。それは教えをたくみに語る弁舌の能力といったものではなかった。
まず第一にそれは、「汚れた霊に対する力」であり「汚れた霊を追いだす」力であった。(マタイ一〇・1)このように、悪の力を退かせるということは、弟子たちに与えられた第一の力であり、使命であったのである。そのために、パウロが受けたような律法などに関しての学問的な素地を与えるとか、そのような訓練をするといったこともなかった。それらが全くなくとも、悪の力(霊)を追いだすことは、直接に神から与えられる力によって可能となる。
今日の私たちにとっては、あまり使わないこの、「悪霊を追いだす」といった表現は、イエスのなされた働きに関して用いられている。
悪霊が追いだされると、口のきけない人がものを言い始めた…(マタイ九・33)
これは単に口がきけないという特別な障害のあった人だけのことを意味しているのでなく、ふつうは人間の言葉は真理でなく、しばしば間違ったこと、人の罪をあばいたり、話すべきでないことを言ったりするというまちがった使い方をしている。しかし、そのような狭いところに閉じ込めようとする霊を追いだすとき、人は神の国に関することを語れるようになる、ということの象徴的なできごとであった。
それは目が見えない人が見えるようになるという奇跡の記事の最後に、主イエスが、「こうして見える人が見えなくなり、見えない人が見えるようになる」(ヨハネ福音書九・39)と同様である。それは自分は何でもよくわかっている、と思い込んでいる傲慢な人がかえって最も重要なことが見えなくなる、ということであり、何も知らないと思っていたものに神の啓示が与えられるときには、神の国のことがよく見えるようになるということと似たことなのである。
次にの記述を見てみよう。
悪霊に取りつかれた人が、鎖でつながれていたがひきちぎってしまう手の付けられない状況になっていた。その人が墓場から出てきて大声で叫んだ。主イエスは彼らのなかに宿っていた悪霊を見抜いて、「汚れた霊、この人から出て行け!」と命じて、その悪霊を追いだされた。するとその人は、それまでの恐ろしい状況から救われたという記事がある。(マルコ福音書五章)
ここでも、悪の霊を追いだす力を持ったお方として記されている。
こうした悪の力を退かせ、追いだす力を持っている主イエスのことを、ヨハネ福音書ではつぎのように記している。
… それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(ヨハネ一七・3~6)
イエスの弟子でありながら、イエスを金で売り渡すという驚くべき仕方で裏切ったユダは、武器をもった多くの兵士や宗教的指導者たちをも連れてイエスを捕らえようとしてきた。そのような悪の力の迫ってくる状況にあって、主イエスは、まったくひるむことなく、自らすすんで、彼らに対した。そして言われたのは、「わたしである」というひと言であった。
この箇所では、イエスがこの「私である」と言ったひと言のゆえに、大勢の人間たちがあとずさりし、しかも倒れたというのである。これは、ずっと以前、初めてこの箇所を目にしたとき、不可解な箇所として残っている。ひと言で、武器を持った兵士たちやイエスを捕らえようとしてきた多くの人間たちが、後に退き、それだけでなく倒れるなど、どうしてこんなことが起きるのだろうかといぶかしく思ったのである。
私たちがこの状況を思い浮かべるとき、ここには比類なき主イエスの力が浮かびあがってくる。ここで「私である」という言葉は、日本語での表面的な意味だけでは決してない意味が込められている。これはヨハネ福音書に独特の表現で原文では、「エゴー・エイミ」(
egw eimi)である。(*)これは、英語の I am にあたるギリシャ語の表現である。英語でも、am はbe動詞 と言われるが、存在をも意味する。
(*)ギリシャ語で 「私、自分」を意味する エゴー(egw)は、英語にも入り、日本語でも使われるエゴイズムという言葉に含まれている。 エイミ(eimi)は、発音も似ているが、語源的に 英語の am と共通していることが分かっている。
ギリシャ語のこの表現は、旧約聖書の出エジプト記のギリシャ語訳(七十人訳)に表れる。それはモーセに初めて神が現れたとき、神の名が示される箇所である。神は、ご自分の名を
「在りて在るもの」、要するに、永遠の存在者であるとされた。名とはその本質を表すものであるから、神はご自分の本質を永遠の存在だとして表したと言える。このヨハネ福音書の箇所ではその箇所の意味をそのまま用いている。イエスが、「エゴー・エイミ」と言われたとき、それは私は、永遠の存在者である神に等しいものだ、という意味が込められている。すなわち、ここで武器を持った兵士や他の人たちが退き、倒れてしまったことは、永遠の存在者たる神の力に圧倒されたということなのである。
神の力がそこにあるとき、悪の力はこのように、退き、倒れてしまうという、霊的な真理をこの福音書ではこのような表現によって明確に告げているのである。
絶えず悪の力によって善きものが後ずさりさせられているかに見えるこの世にあって、数千年前から一貫してこのように、究極的な善である神の力がそこに来るときには、悪は必ず後退し、倒れるのだという確信が告げられてきたのは大いなる福音である。この確信と神の力の勝利する実感は、単なる経験や知識、また知的な優秀性とは何の関係もなく、神から直接に啓示として与えられることなのである。それゆえ、これからの世界においても、この確信は変ることなく、時代がいかに変動しようとも、生み出されていくであろう。時代の変化にいささかも影響されない神がその啓示を与えられるゆえに。
合同集会の恵みについて
今年の五月一〇日(土)十時~十一日(日)の午後五時まで、徳島で、無教会のキリスト教全国集会が開催されることになった。
全国大会というとふつうは全国の地区の代表が集まる会である。日教組の全国大会とか、児童・生徒などのコーラスや高校野球の全国大会、研究関係の全国大会等々、それらは全国からの代表者が集まる会である。しかし、無教会のキリスト教全国集会はそのような代表者たちの集まる会でなく、全国のさまざまの集会、数人の小さい集まりなどにも呼びかける集まりであって、だれが参加してもよい集まりである。
こうした全国集会の恵みはどのような点にあるだろうか。
まず、ふだん集まっている小さな集まりでは出会うことのない、いろいろなキリスト者の方々と出会い、新たな霊的な刺激を受け、また学ぶことができるということがある。これは住んでいる地域と異なる場所に旅行すると、見慣れた風景や人間とは全く違った自然や人間と出会って新鮮な感動が与えられることが多いのと共通している。
信仰の世界でも同様であるが、とくにそうした普通の旅行とは異なるものがそこにはある。それは、こうした特別な集まりには、準備段階から多くの祈りが注がれ、参加する側の人たちもまた、遠距離をいろいろな犠牲をはらって参加するために特別な祈りをもって参加し、時間やエネルギーも費やすために、ふだんの集まりとは異なる祝福と恵みが与えられるからである。
私は、大学四年のときにキリストの福音に触れて、そのときから将来の進路が全く変わり、高校の理科の教師をしながら、キリストの福音を伝えたいという強い思いが起こされた。そして、学友たちの進む方向から一人離れて高校の理科教員となった。そのときには、障害者との関わりは全く考えたことはなかった。教員免許も高校だけであるから、特殊学校に勤務するといったことは念頭になかったのである。
しかし、教員となって十数年を経たとき、すでに三つの高校を経験していたが、そのとき開催されていた四国合同集会に参加していた近畿の方から、全盲の方を紹介され、さらに意外なことにそのすぐあとに別の全盲でかつ肢体不自由の子供が施設にいるのに盲人としての教育を受けていないということで、その子供の教育を県の盲人センターから依頼されたことがきっかけとなって、神が私を盲学校へ移るように導かれていると分かり、希望して高校教育から盲学校に移り、そこで視覚障害者の教育にかかわることになった。そしてそこでまた予想していなかった大きな問題があるのが明らかとなり、それを明らかにしていくことで困難な問題が生じた。そしてそこからまた思いがけないことに聴覚障害者の学校に移り、多くの聴覚障害児童、生徒、さらには成人したろうあ者のキリスト者とも関わりが与えられていった。
私は小、中、高校、そして大学という長い学校教育のなかで、障害者と出会ったのは、小学校三~四年のころであったか、ほかの学校から転校してきた体に障害のある子が短い期間、別の学年にいたことが記憶にあるだけである。その後大学卒業までまったく障害者とは出会うことがなかった。私の学校時代は障害者とかについて話題になるということは一度もなかったし、私が教わった教師たちもただの一度もそのようなことに触れた人はいなかった。
私はキリスト者となってまもなく、高校教員になってキリストの福音という私の生涯の方向を変えることになった驚くべき真理を伝えねばという止むに止まれぬ気持ちが起こってきたのであったが、障害者教育には関わるという気持ちはなかった。
まわりにもそのような教育に関心をもつ人はだれもいなかった。
私は、当時高校では最も無視されているところに行くようにと、内にうながすものを感じて、夜間の定時制高校に特に希望を出し、県教委の特別面接までして転任させてもらった。そこでは私はたいへんな苦しみとともに、書物では到底学ぶことのできない大いなる学びを体で経験することができた。
そのような大きな体験をしてから数年してから先ほど述べた四国集会でのできごとがあったのである。それゆえ、これは、四国合同集会というのがなかったら現在のように視覚障害者とか聴覚障害者との関わりへとは導かれなかったのである。
東京やその周辺、あるいは近畿地方の人たちで、全国集会やほかの合同集会に参加しない方々もおられるが、そうした人々も、キリスト者の書いた本はよく読まれる。無教会では内村鑑三、矢内原忠雄といった人の書いた本である。
そしてそれだけで十分であるから他の集会に参加の必要を感じないというような人もいる。
しかし、私たちが生きて働く神に触れ、そして神の力を新たに与えられるためには、そのような過去の人だけを書物で相手にしているのでは、不十分である。それは、神は生きて働く神であって、死せるものの神でないから、神のそうした生きた働きは、現在生きて働く人たちにも現れているのであって、そのような人たちに接することで、彼らを動かしている生きた神を実感し、聖なる霊の交わりをそうした人たちと共有することができる。
使徒パウロの祈りがある。
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント十三・13)
この祈りは昔から繰り返し用いられているが、本来は祝祷とかいった特別な祈りでなく、キリスト者ならだれでも複数の人たちとともにあるときにはこの祈りを祈ることができる。
ここでパウロの祈りにある、「聖霊の交わり」が、こうした集会には与えられ、その聖霊に私たちも浸され、受けることができるのである。
初代教会の燃えるような信仰、いのちまで捧げるほどの生きた信仰は、また絶えず生きて働く信仰を持っているキリスト者同士の深い交わりが常になされていたことと結びついていたと言えよう。
使徒言行録に記されているように、使徒パウロは、多くの仲間のキリスト者たちがエルサレムに行くのは迫害を受けて危険だからという反対にもかかわらず、ギリシア地方などのキリスト者たちの献金を持って、いのちがけでエルサレムのキリスト者たちのところに向かったのであった。
パウロというと、福音伝道のことだけに心を注いだと思われがちであるが、彼の手紙には、各地の主にある捧げ物を受け取り、とくにエルサレムにおける困窮しているキリスト者たちへの具体的な愛の配慮を行ったことが繰り返し記されている。(Ⅰコリント十六・1~、ローマ十五・25~、Ⅱコリント八・1~)
できることがあるのに何もせずに、祈っているというだけでなく、各自においてなしうることを献金ということにおいてもすることが重要であるのをパウロは知っていたのである。それは神の言葉を伝える別の側面からの強い援助であり、支えになるからであった。
主イエスが単独で福音を伝えずに、十二人の人たちを同行しつつ伝えられたこと、そこにも複数の人たちとの交わりの重要性が含まれている。
また、キリスト教の伝道は、たんにイエスの教えを聞いたりその奇跡を見たりするだけでは決して始まらなかったのは新約聖書の福音書や使徒言行録を見るとすぐにわかる。
三年間もイエスの教えをつぶさに聞いて、その数々の奇跡を目の当たりにしてきた弟子たちであったが、イエスが捕らえられるときにはみんな逃げてしまったし、復活と十字架の死の意味もまったく分からない状態であった。
そうした状態から一新されたのは、主イエスがご自分に従っていた人たちに、「約束されていたものを受けるまで待っていなさい」と言われ、人々は集まって祈りをもって待ち続けていたときに、聖なる霊がゆたかに注がれ、その聖霊を受けて初めて弟子たちはあらゆる困難をも越えてキリストの福音を伝える力が与えられた。
このように、信徒が集まるということには特別な祝福、聖霊の交わりがあるのがわかる。
またいろいろな書物を読むことは、その著者と出会うことである。しかし、それだけでは不足である。書物になるような人は特別な才能と霊的に恵まれている人たちであろう。そうした人たちだけと接していたのでは、ごく普通の素朴な信仰に触れることは難しい。主イエスはただ幼な子のような心で主を仰ぐ者の重要性を説かれた。そうしたごく普通の庶民の信仰に触れることもまた重要なのである。
聖書のなかに、カナンの女の信仰が記されている箇所がある。彼女は地位がある人でもなく、金持ちでもなんでもない、ごく普通のどこにでもいる女性であったとみえる。しかし、その女は、幼な子のような心で、全身全霊をもって主イエスを信じ、主イエスが神の子であると確信していた。それゆえに、娘の危機的状況をいやすことができるのは、彼女にとっては異国人であったイエスだけなのだと、確信して初対面であったにもかかわらず、そしてなりふりかまわずにイエスに訴え続けた。あまりの熱心さに、弟子たちがうるさがって、追い払って下さいとイエスに頼んだほどであった。この女が持っていたのは、学識でも地位や財産でもなかったが、ただイエスを全面的に信頼するという幼な子のような心であった。その信仰を、主イエスは、「あなたの信仰は大きい!」(O woman, great is your faith! )(*)と特別に評価され、ただちにその願いどおりになるようにと力を与えていやされた。
(*)新共同訳では「あなたの信仰は立派だ」と訳されているが、この「立派」と訳されている原語は、メガス megas であり、本来は「大きい」という意味。
このような記述でわかるように、本を書くような著作家とか歴史に残るようなキリスト者だけが立派な信仰を持っているのではない。聖霊を与えられ、聖霊にうながされた人は、どんな無学な人、庶民でも「大いなる信仰」を持つことはたくさんみられる。それは、例えば、キリシタン時代の迫害の記録などを見ると、字も読めない庶民であっても、ゆたかな信仰を与えられて命を神に捧げ、どんなに苦しめられてもなお神への忠誠を捨てなかった人たちが多くいたのが知られる。
こうした例によってもわかるように、私たちはさまざまの人たちから学ぶことができるし、またそれは主の御旨にかなったことなのである。聖霊は風のように吹く、聖霊が神のご意志に従って吹きつけるとき、どんな人であっても変えられ、キリストの福音を宣べ伝えるのにふさわしい者とされる。
今も聖霊は天来の風として吹いているのであって、それを受けた人たちとともに交流しあうことによって私たちもまたその聖霊に触れることができるようになる。使徒言行録にあるように、聖霊を豊かに受けたペテロの証しによってそれを聞いた人たちにも豊かな聖霊が臨み、多数の人たちがキリスト者となったことは、まさにその例である。聖霊が一人に燃えるとき、他の人たちにも燃え広がるものである。
このような点から考えるとき、私たちはいつも日曜日に出会っている信仰の友だけでなく、また異なる集まりに加わってそこに集まる人たちとの聖霊による交わりによって、神のわざに触れることが大切なことになる。
今回の全国集会は特に、祈りの集められた集会である。そこで「主イエスのめぐみ、神の愛、聖霊の交わり」が与えられることを信じて待ちのぞみ、テーマである「神の愛と導き」が実感できる集会となるようにと祈り願っている。
偽りと戦争
一九三一年の満州事変に始まり、太平洋戦争へとすすんでいった十五年戦争は、アジアの人たち二千万人を殺したと言われ、日本人の犠牲者も三百数十万といわれる。死者がこのようなおびただしい数であれば、手足に重大な損傷をしたりして障害者となってしまったり、家族が働けなくなったなど被害を受けた人たちは膨大な数に上るだろう。
戦争とは大量の殺人であるのにそれを、聖戦であるとしたり、提灯行列をして喜ぶといった異常な事態を生み出していき、それは殺害、盗み、傷害、暴行、破壊等々ありとあらゆる悪を伴う。
太平洋戦争のもとをたどると、それは一九三一年の満州事変にあった。
満州の奉天の特務機関は軍の司令部などに、満鉄の線路が爆破されたという事件に関して、「暴戻なる(*)支那軍隊は満鉄線を爆破し、…わが守備兵の一部と衝突せり」といった情報を流した。
(*)あらあらしく道理にもとること
しかし、実は、爆破したのは、中国軍でなく日本の軍隊であった。これは当時からこの報告が真実なのかどうかが疑われていたというが、戦後になって明らかにされた。(日本の歴史 第三〇巻 「太平洋戦争」小学館発行 22頁 他)
このように、あのアジアの広大な領域を巻き込み、中国だけでなく、アメリカ、イギリスなどとも戦争となりおびただしい犠牲者を出した戦争の出発点には、一部の人間の意図的な嘘があった。嘘というのは、状況によってこれほどまでに、恐ろしい悲劇を生み出していくのである。
さらに、太平洋戦争がはじまってわずか半年後(一九四二年六月)、ミッドウェー海戦によって、日本海軍は致命的な打撃を被った。四隻の空母と巡洋艦一隻を撃沈され、飛行機は三二二機、三五〇〇人もの命がたった一日の攻撃で失われていったのである。アメリカ側は、空母一隻と駆逐艦一隻が沈んだ。
このような大敗北にもかかわらず、日本の軍部は、それを隠し、アメリカの空母二隻を撃沈して勝利したとし、日本側は二隻の空母と巡洋艦一隻に損害があったとだけ公表し、新聞もそのように発表した。
このように国家が大きな嘘をつくということが行われ、そのために国民も勝利を確信させられ、次々と悲惨な戦争のために駆り出されていくことになった。
もし、この時点で戦争を止めていたら、膨大な死者、原爆や空襲などの被害も全くなかったのである。
その意味で、一部の軍部の嘘が大量の人命を失わせ、無数の悲劇を生み出すことになったのが分かる。
そしてそれから敗北を重ねて一九四四年一〇月、台湾沖の航空戦においても、軍部は、アメリカの空母十一隻を撃沈し、さらに八隻を大破させ、他に多数の戦艦や軍艦を撃破して、事実上アメリカの艦隊を壊滅させたといったような発表をしたのである。
しかし、実際には、アメリカの巡洋艦二隻が大破しただけで、空母は一隻も沈んではいなかった。このようなおよそ事実とかけ離れたことを発表したのは、戦闘から帰ったパイロットたちの報告をうのみにしたり、受け取った者がさらに誇張していったことからそのようになったという。
しかし少し経ってからそれらが大きな間違いであったことを軍部は知ったが、すでに国内で提灯行列をしておったとか、天皇からのほめ言葉を受けていたなどから、偽りのまま通していったのである。
このときも、この真実が発表されていたら、もっとはやく戦争を終結させようとする議論も生まれたであろう。
戦争とは、殺人という最も重い罪を大量に犯すように指揮した者に高い名誉を与えるというものであるから、万事において偽りがからんでくる。そしてそれがさらに新たな犠牲を生み出していったのであった。
今回のイージス艦「あたご」と漁船との衝突事故において、海上保安庁の了解を得ないでイージス艦の航海長から事情を聞いていたのに、了解を得ていたといったり、「あたご」の乗員とは会っていたのに、会っていないと国会で答弁したり、会ったときの議事録はないといっていたのに、実は記録をとっていたこと等々、防衛大臣はじめ防衛省関係の人間たちが、次々と偽りを公然と発言したこと、追求されてから訂正し、またそれを繰り返す、という状況となったのは、過去の軍部の大きな偽りの事実を思い起こさせるものがある。こと軍事に関して偽るときには、国家全体を巻き込み、国民のすべてが悪影響を受ける。さらに周辺の国々にも影響を与えていく。
人間が真実を守るという一つのことを真剣に考えてするなら、この世の数々の悲劇は生じないであろう。ここに述べたような例はそのような一例にすぎない。
そして防衛省だけでなく、食品会社とか製紙会社、原子力発電関係などさまざまな領域で、次々と偽りがあったことが指摘されてきた。こうした真実に反するようなことは、何もいまに始まったことでなく、どのような世界であっても、いつも昔からあったことである。
それゆえに、聖書では、そのような不信実な人間を真実へと向け変えるために、まず神の真実が 旧約聖書、新約聖書を通じて一貫して言われている。
主は…宣言された。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまこと(真実)に満ち、…」
(出エジプト記三四・6)
「…あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。」
(Ⅰコリント一〇・13)
真実な神と結びつかないかぎり、だれでも不真実な本性から脱することはできない。
主イエスは、「私とつながっていなさい。そうしなければ、あなた方は実を結ぶことができない。」と言われたが、たしかに神、キリストと結びつくことによって初めて真実という実を結ぶことができるようになっていく。
詩の世界から
仰いだときから 水野源三(*)
一、主なるイエスを仰いだときから
いきなれた道にかおる白い花
みどりの林に歌う小鳥さえ
私に知らせる御神の慈愛を
二、主なるイエスを仰いだときから
見なれた道を消え行く夕ばえなる空
屋根ごしに光る一番星さえ
私にしらせる御神の力を
三、主なるイエスを仰いだ時から
ききなれた窓をたたく風の音
夜ふけの静かに降る雨の音さえ
私にしらせる御神の恵みを
(*)(一九三七年~一九八四年)戦後まもなく、小学四年のときに赤痢による高熱のため脳性小児麻痺となった。しかし、のちにキリスト教信仰を与えられてその感動を詩に作った。四七才で天に召された。
この詩を作ったときには、著者はもう二八年もの長い間、寝たきりとなり、からだの自由ばかりか、言葉を出すこともできなくなっていた。それでもこのような詩を作ることができた。それは、母親が持つ50音の表をまばたきで合図することで、一字一字を拾っていき、つづったものであった。
このような不自由きわまりない生活のなかでも、魂は清くせられ、驚くべき自由を与えられていたのが感じられる。寝たきりという状態で、現在のような車椅子とか車もその家にはなく、毎日寝たきりの単調な生活であった。しかし、神が彼に霊のつばさを与えたゆえに、神の創造されたこの世界を飛びかけることができた。それがこのような詩になった。
彼の詩に触れると、真理は自由を与えるという主イエスの言葉の意味を深く知らされる。
たしかに主イエスを仰ぐという単純なこと、だれでもできることが魂の世界にはじつに大きな変革をもたらすと言える。それによってこの詩のように、身の回りの自然に対する見方も変わり、さらに人間のさまざまの問題、死後のこと、悪の意味、病気や障害などの意味、さまざまのことに新たな意味が開けてくる。
ダンテについてのヒルティの文の紹介
ダンテはキリスト教関係の著作家だけでなく、詩人、文学者、思想家等々に多くの影響を与えてきた人物である。アンデルセンのような詩人、童話作家にも深い影響を与えたことは、「即興詩人」によってもうかがえるが、それは以前この「いのちの水」誌でも紹介したことがある。
ここでは、ヒルティのダンテに関する文の一部を紹介しておきたい。これは白水社から一九六六年に発行された著作集に収められているが、すでに絶版であり、一般の書店からは入手できないので多くの人にとっては参照できないからである。
私たちのキリスト集会で、毎月一度、煉獄篇を読んでいる。ようやく第八歌を終わったところであり、煉獄篇を終えて、天国篇と続けていくには相当の時間を要すると思われる。
現代の多くの本とは異なり、重厚なその内容の十分な理解はなかなかできないけれど、少しでも神が神曲に与えた真理の一端を汲み取っていければと願っている。この引用はダンテの神曲に関して少しでも関心を持つ人か増えるようにとの願いからである。
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ダンテ(神曲)は、老年の方の読み物でなく、あなたぐらいの人生段階にある人たちにとって、本当の幸いとは何かを探求する人の最もすぐれた文学的表現であります。…
ダンテから本当の利益を引き出せる人は、危険な人生段階にある若い方の人たちです。人生のさまざまの困難を知るとともに、それを克服する力が自分に欠けていることもすでに知ってしまって、すべてを投げ出してしまいたいとか、ほかの人よりよくなろうという気も失いかけているような人たちなのです。
芸術は直感的な把握によってのみ、理解されるものです。ダンテがかつて言っているように、「…あなた方は愛のみを支配させるのだ。そしてあなた方の筆は、この愛の命じるところに、従っていくだけなのだ」(煉獄篇二四歌58)なのです。
…学者というものは詩的霊感についての正しい観念を全く持っていません。
たいがいは、全く無意識のうちに正鵠を得て、的確に正しいことを書き上げていく霊のうながしとひらめき、それがなかったら真正な詩人も預言者も存在しえないこの霊の稲妻については、学者はさらに理解するところがないのです。…
ダンテは軽い読み物ではありません。なぜなら「尊厳なものは重い」からです。
しかし、その深いところまでも、すべて理解できるものであり、哲学的に深いところだって、分からぬことはありません。…
ダンテは聖書と同様、自分で読まなければならない本であり、何度も繰り返して静かに思いをひそめることによってのみ、しだいしだいに入って行けるものなのです。…
ダンテはすでに多くの人々にとって、高貴な生活への指導者となっておりますし、おそらく現代においてこそ、ますますそうなるでしょう。なぜなら、地上の心配と地上の疑惑の「暗い森」から抜け出る正しい道を、現代の多くの人々は見出しかねているのですから。…
キリスト教を信じない理想主義者にとっても、ダンテは、キリスト教への案内者となりうるのであって、神学の本とかルターやカルヴァンの著作などよりも、はるかに近づきやすい道しるべであります。あなたはまずこの詩編(神曲)の偉大な文学的美に打たれ、引き寄せられて、おそらくは結局次ぎのことをさとられるに至るでしょう。
すなわち、真実に「神に仕える」ことが、あらゆる人生問題の唯一の解決策であるということです。
最後に、私は、思索し、教養をもったあらゆる若手の方々のために、ダンテに対して最も理解あり、最も博識である注解者の一人の言葉を引用し、これに賛意を表しておきましょう。
「ダンテを読むは、これ一つの義務なり、
そは、再読、反復するを要す、
そを感じ得るは、すでに偉大さの証明なり。」…
ダンテ自身、その及ぼす力を特徴づけて、つぎのように言っています。(天国篇一七歌第130行)
「わが言葉の味、はじめ
苦しといえども、消化されるに及び、
聞く者に、いのちの糧を残すべし。」
…
神曲はおそらく全編が、追放された生活の苦悩のうちにあって、魂が深められた賜物として出来上がったものであります。それは、苦悩の果実として、苦悩にめげないで偉大なことをなしうる人々に見られることです。…
神曲は、人間のたましいを真と善とに導いていく神の「導き」を叙述した最もうるわしい詩的表現であり、地獄篇は理性的な洞察に、煉獄篇は神との直接の交わりに、天国篇は超自然的な、ほとんど言葉もなくなる「観想」、直感に属しています。
…
神曲によって描かれているのは、ある注解者が言っているように、「神の恵みの助けによって、人間の罪が段階的にきよめられていくこと」にほかなりません。…
あきらかに、この詩編(神曲)は、作者のたましいの歴史です。…
ダンテの詩編の価値は、人間のさまざまの心の状態と展開―それは下のほうに降っていけば、精神の暗さがしだいに暗さを加えていくことになり、上のほうに昇って行けば、光と真実のいのちにたっするものです―を、きわめて迫真的に、しかもきわめて詩的に叙述しているところにあるのであって、それは宗教的、あるいは教会的論文などよりはるかに読者を刺激するくらいです。(ヒルティ著作集第六巻より)
休憩室
○梅とメジロ
三月となって梅の花も終りに近づいていますが、わが家の梅の木々にはメジロが毎日やってきては花の蜜を探し求めて枝から枝へと飛び回っています。
昔から梅にウグイスと言いますが、もう何十年と梅の木がわが家の前にあるので、いつも観察できますが、梅にウグイスが来てさえずるといったことはほとんどないと言えるほどです。だいぶ以前に、灌木から飛び移ったのがたまたま梅の木であったから、そのとき初めて梅にウグイス、という光景に出会ったぐらいです。
ウグイスは、冬の梅の木々のような葉もなくよく目立つようなところではなかなか見られないものです。冬は地味な地鳴きをしているし、春になるとよく知られた美声で歌いますが、それは必ずといってよいほど、低い木々のしげみの中から声がします。ウグイスの声は聞いたことがある人は多くとも、その姿を目の前で見たことのある人はごく少ないはずです。
だれからも見えるところで歌い、自由に飛び回るメジロ、それに対して人から見えないところでさえずるウグイス、それぞれの個性があります。
人間も、多くの人の前で語り、あるいは歌い、演奏したりする人とともに、隠れたところで祈りの声、声なき声を響かせている人もいます。神はそうしたさまざまの人を神の国のために用いられるのです。
お知らせ
○イースター特別集会
三月二三日(日)は、イースター(復活節)特別集会です。開始は、いつもの日曜日の礼拝集会より三〇分早く、午前一〇時からですので、間違わないようにして下さい。申込は、貝出、中川(春)、伊丹の方々までお願いします。会費(昼食代金)五〇〇円です。
クリスマスとイースターの特別集会にはふだんは参加されていない方々や、初めての方もともに復活の主を礼拝し、ともに神の永遠の命を受けたいと願っています。
○全国集会
・地方で開催するときに問題となるのは、参加者がいくらあるのかがなかなか確定しないので、各種の準備がなかなかできないのが難点です。宿泊や食事を各自が別々にいろいろなホテルなどに申込するのであれば比較的簡単なのですが、今回のように一つのホテルに参加者のほとんどが宿泊するような計画では、部屋割りや各種集会の部屋の準備、食事数等々、参加者の数の概略がはやく分かるほど後々の作業がやりやすいのです。
それで、参加が確定している方々は、なるべくはやく申込をお願いします。
なお、徳島聖書キリスト集会のホームページからも申込ができます。
申込書の内容の追加
・五月十日(土)の宿泊では、大多数がシングルの部屋を希望されると思いますが、とくにツインを希望される方はツインの部屋は数が少ないので、希望者ははやく申込しておいて下さい。
・部分参加の方は、その参加の時間を書くための表以外の時間帯の場合は、各自でその時間帯をその表の側に書いておいて下さい。
○MP3版聖書講話とそれを聞くためのプレーヤ
今も、折々にMP3版ヨハネ福音書CD(吉村 孝雄による聖書講話)や、それを聞くためのMP3対応プレーヤの在庫の問い合わせや申込がありますので、再度書いておきます。
現在も、わたしのところには、それらの在庫があり、MP3対応 CDラジカセ、または、あるいは、ミニコンポ型のプレーヤなどをご希望の方にお送りすることができます。はじめの二つは価格は、ともに八千円、MP3対応ポータブルCDプレーヤ、ポータブルMP3プレーヤは五千円。送料は千円です。
なお、MP3版ヨハネ福音書CDは、二年半ほどかけた日曜日の聖書講話です。価格は二千円。
ヨハネ福音書は霊的な福音書であり、多くの方々の関心をよんでいるのが申込される数でわかります。
これは十分なものではありませんが、ヨハネ福音書を読むときの参考になればと願っています。
なお、創世記のMP3版は、欠落していた講話の再録音も終り、ほぼできあがっていますが、全国集会関係のいろいろな作業が続いているために、そちらに時間をさくことができずにいて、完成はまだ少し後になります。
また、MP3版 創世記講話CDもCD五枚程度に収まる予定です。価格は二千円。これはパソコンがあれば聞くことができますが、パソコンを持っていないとか、あっても聞くのには不便という方には、MP3対応
CDラジカセ、またはミニコンポとともにセットで一万円となります。
なお、ふつうのCDラジカセ(MP3対応していないもの)用のCD版は、五十枚近くになり、製作にも時間と手間が相当必要となるために、価格は一万円です。そのためMP3版CDとMP3対応
CDラジカセの二つセットのものと同価格になります。
そのため、MP3版とCDラジカセのセットで購入されるほうがずっとお得ですし、今後のためにもお勧めできます。
☆USBメモリと(ミニ)SDカード、讃美の録音
すでに述べたMP3対応 CDラジカセやミニコンポを購入されている方で、USBメモリやSDカードに、私たちの集会で録音した賛美を希望される方は、お送りすることができます。これは、新しい讃美を覚えたいという希望の方々に少しでも覚えやすいようにということでデジタル録音し、USBメモリやSDカード、あるいはCDに録音してお送りしています。(なお、きれいに調整する時間がないため、雑音があったりうまく録音できていないものもありますが、一部の方々からは繰り返し聞いていると言われています。)
価格は次の通りです。USBメモリも容量が同じなら、同価格とします。いずれも送料共。
・ 256MB(約130曲収録)→千円、128MB(約64曲)→五〇〇円
なお、CDに録音したものは、MP3対応でなくとも、従来のCDに録音したものも作れますが、それらは、MP3でないので、一枚のCDには二〇曲程度しか入りません。これは一枚百円(送料共)
★「MP3版 創世記」の聖書講話の予約募集について。
購入を希望される方は、吉村まで、メール、電話、ハガキなどでお願いします。また、その演奏機器とともに購入希望の方もその旨併記して下さい。
○私が以前一般の人向けに書いた「キリスト教とは何か」という八頁の印刷物、一部10円です。 希望の方は吉村まで。