あなた方は、真理に従うことによって魂を清め、
偽りのない兄弟愛を抱くに至ったのであるから、
互いに心からあつく愛し合いなさい。


(Ⅰペテロ一・22



2008 5 567号(無教会全国集会特集号)・内容・もくじ

リストボタン見えない水によって

リストボタン多くの人の中でも

リストボタン神の愛と導き   リストボタン弱いからこそ

リストボタン「永遠の神―その愛と導き―」 詩篇第90篇

リストボタン無敵の愛 ―「コリントの信徒への手紙一」13章に思う

リストボタン神の愛と導き―新約聖書から

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リストボタン見えない水によって

幅二メートル前後の小さい谷川がある。雨がまったく降らないことが何カ月も続いてもそこには小さな流れが絶えない。ずっと以前に降った雨が山の大地深くにしみ込み、土や岩石や、植物の根などに満ちた地中をゆっくりと通って谷へと向かうのである。
土にしみ込んだ水分は、さまざまの植物を生かし、それがさらに多くの生物の命を支えている。
私たち人間もまた、神の国から流れるいのちの水によってうるおされ、命を保つことができている。神は人間の魂という土壌をうるおす流れを注ぎだしている。しかし、それにまったく気付かずに、渇ききっている魂がなんと多いことだろう。霊的な水は、気付かないときにはその恵みも分からない。しかし、一度そのことに気付くと、山の大地にしみ込んだ雨水がその山肌の数々の植物を生かし、それによってさまざまの昆虫、動物たちをも生かしているように、私たちの魂にしみ込んで、毎日のさまざまの活動を支えているのに気付くようになる。
今もしずかに流れている神の国からの水―いのちの水にどうか多くの人たちが気づき、それによって日々養われますように。



リストボタン多くの人の中でも

人が大勢集まるところ、そこには清い流れのようなものはたいてい失われる。 しかし、このたびのキリスト教の全国集会(無教会)において二〇〇人ほどの人が集まったにもかかわらず、どこか清い流れが感じられた。それはたしかにこの世のさまざまの会合とは異なるものであった。
主イエスは、二人三人、私の名によって集まるところに、私はいる、と祝福の約束をされた。主イエスの名によって集まる、それは言い換えれば祈りをもって、主(神)を仰ぎつつ集まるということである。
それがなされるなら、わずか二人であっても、また二〇〇人であってもたしかにそこにイエスがおられる。イエスこそはあらゆる清いものの根源であるゆえに、そこにはどこからとなく清い風が感じられ、目には見えない水があちこちに流れているのを感じることができる。
清い流れを実感することは、都会の雑踏など人の多くいるところでは難しい。それゆえに神は身近な大空や海、山、川、数々の樹木や野草などの自然の風物を創造し、そこに清いものを注ぎ込んで、人間がそうしたものに触れて神の国の清い本質に触れるようにしておられる。
私たち人間はそうした自然の純粋さにははるかに遠いが、それでも弱きを顧みて罪を清めて下さる主に結びつくときには、本来もっていない清さを天からいただくことができる。そしてそのような人たちが集まることで、さらに恵み深い集まりとなって私たちをうるおすようになる。



リストボタン神の愛と導き―旧約聖書から    吉村 孝雄

光あれ!
神の愛は新約聖書には記されているが、旧約聖書には愛とは逆の裁きや神の怒りといった言葉で連想されるように、神の愛はあまり書かれていないのでないかと思う人が多い。
たしかに旧約聖書には、神がヨシュアなど指導者に戦いを命じることや、ノアの箱船の記事や、ソドムとゴモラの町の人々に厳しい裁きをくだして滅ぼすことなどが書かれている。
しかし、旧約聖書には新約聖書に通じる深い愛がその冒頭からはっきりと記されている。
聖書の最初にあるのは、闇と混沌であったがそれはまさに人間の個人の心の状態、そしてそのような人間が集まったこの世界の状態を象徴的に表している。
それは上よりの光がなかったらどうすることもできない絶望的な状況である。この世の出来事はどれもこの二つ、闇と混沌がつきまとっている。それがとくにひどい状況となると、個人のことや、社会的、あるいは世界的な規模の出来事として新聞やテレビで報道されるようになる。
けれども、そのような闇や混沌は人間の魂の深いところにあるゆえに、人間の努力や学問、技術、制度などをどのようにしてもそれはなくすことはできない。それは、古代や中世の日本の状況からみると、現代は比較にならないほど、学問や科学は発達しているが、だからといって、人間の心の闇や混沌は少なくなっただろうか。
こどもたちの心にあるべき純真さは、人間の悪や闘争を内容とするようなゲームや番組などによって、はやい段階で失われることが多く、その心にある闇と混沌は現代のほうが、戦前の時代よりも深くなっているという感じを持つ人が多いだろう。
それゆえ、闇と混沌のなかに光あれ、との神の言葉によって光がその闇のただなかに輝いたということ、そしてそのあとに続く神の言葉によって混沌とした状態から、神による支配がなされ、意味深い秩序あるものへと変えられていったこと、それは今のような時代だからこそ大きな意味を持っている。
私自身のかつての状態もまさに闇と混沌であって、大学に入ってから三年にかけての頃、学生運動のはげしい嵐のなかに巻き込まれていったが、この社会のどこに真理があり、正義があり、永遠があるのか、真実がどこにあるのか、何のために生きるのか、まったくわからなくなっていた。
そのほか健康上の問題、家庭のこと、さらに新たに知り合った友との大きな問題等々、それはだれに話してもわかってもらえない闇であり、混沌であった。その中にあえぎくるしんでいたが、周囲の人間はだれもそれには気付かなかった。
そこに光が突然射してきた。その光によって私は救い出されて今日に至っている。
それはたしかに愛であった。だれもが触れることのできない魂の闇に神の御手が触れて下さったのであった。

苦い杯を飲み干させる愛
神の愛とは、苦い杯を飲み干させる愛である。それに対して、人間の愛は、苦い杯を飲ませないようにする愛である。
それは、聖書の最初に書いてあるアダムとエバの記述を見てもわかる。罪を犯さないようにはされなかった。あえて、神の愛に従うか、それとも背くかの自由を与え、神に従わないときにはどのようなことがふりかかってくるかを苦しみながら学ぶように導かれた。
信仰の生き方のモデルともなっている、アブラハムにおいても、遠い未知の地へと親しい人々や生まれ故郷のなれ親しんだ地を離れて旅立っていくようにと導かれた。それはアブラハムの存在が彼だけで終わるのでなく、彼が万民の祝福の基となるためであり、それこそが、人間の受け得る究極的な幸いであるからであった。そのような大いなる幸いを与えるために神はアブラハムを遠いところへと旅立たせた。
しかし、そこに着いても飢饉が生じて生きていけなくなり、エジプトまで食料をもとめて旅立ったり、そこでも安住できないこと等々いろいろな経験したことがない状況に直面することになった。
神の導きはこのように、苦しみをあえて受けさせる。このことの最も高い姿が主イエスであった。父なる神に完全にゆだね、導かれていたゆえに主イエスは次のように言われた。

…私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。 (ヨハネ五・30

このようにして神の愛とその導きに完全にゆだねておられたイエスはまた最も苦い杯を飲みほす道へと導かれた。それは十字架の刑だった。
私たちのキリスト集会には、何人もの全盲の方がおられるし、人生の途中で耳が聞こえなくなったり、全身マヒとなって二十年を越えて身動きできない重度の障害を持つ身となっている方、あるいは病気のゆえにさまざまの痛みや苦しみを負っておられる方々がある。そうした方々の苦しみや重荷は、健常者にはわずかしかわからないものであるだろう。
現在も耐えがたいような状況におられる人もいる。そのような日々の苦しみはそれがなかったらどんなにいいだろうと、切実な願いをもって神を見つめておられるだろう。
しかし、そうした苦しみにもかかわらず言えることは、もしそのような苦しみが降りかからなかったら、その人々は、神を知らず、神の愛もわからず、キリストの十字架による罪の赦しという深い真理もまた知らないままで人生の歩みを続けていっただろう。
そしてそこには、自分が何のために生きているのか、死んだらどうなるのか、心に犯す罪はどうなるのか、それが赦される道はあるのか、といったことには生涯わからないままとなる。
そうした重要なことが全くわからないままで生きていくことは、人間としての本当の生きる生はないと言えよう。そのようなことこそ、人間と動物を決定的に分かつものだからである。
健常者であっても、いつ交通事故やガンなど病気になるかもわからないし、どんな苦しみが降りかかってくるかも分からない。 そうした苦い杯を自分で求めて飲みたいと願う人はいない。わざわざ重いガンになりたいとか、ひどい後遺症が残るような大きい交通事故に遭遇したいなどと考える人はいない。
どんなに愛の深い母親であっても、わが子をそのような大事故に遭わせたり、日夜苦しみそのあげくに死にいたるような病気にさせるものはいない。
しかし、神はそのようなことをしばしば行われる。どこにも愛がない、愛どころか運命にのろわれていると思われるような大変な苦しみに陥る人もいる。そこでは、まったく神の愛など感じられないと思われるだろう。
だが神はそのような苦しみをも飲み干させ、そこから神の愛、神の国を知らせようとされる。苦しみを飲み干してきたものは、そこから神に目覚めるときには、深い神の愛を知らされる。自分が神など考えたこともないときから、じっと見つめてくれていた…というような不思議な感じを持つようになる。

突然の変化
つぎに、神の愛と導きは、突然にしておきることがしばしばある。闇と混沌のただなかに、突然、「光あれ!」という神の言葉とともに光が存在するようになった。それも神の恵みは突然にして生じるということを示すものである。
パウロにおいても彼の間違った歩み、真理に逆行する歩みのただなかに、それはまさに闇と混沌であったが、そのなかに突然光が注がれたのである。
旧約聖書にあらわれる最も重要な人物たち、アブラハム、モーセ、エレミヤといった人たちもみなパウロと同様にあるとき突然にして神が近づき、神にとらえられ、神がその愛ゆえにその人たちを選び、特別な使命へと導いて行かれたのである。
これは決してそうした特別な人物だけにあてはまるのではない。私たちもその程度は異なっても人生のあるときにはっきりと神の愛を知らされ、その愛によって導かれていくようになるのである。
突然にして神の御手は差し伸べられる、それゆえにこそ、私たちはどんな状況に置かれても望みを失ってはならないと示される。人間にはできないが、神にはできるからである。三八年もの間、どうすることもできない暗黒のなかにあっても、なお神の御手が伸ばされるときにはただちに光のなかへと移される。
不連続的であるということは、そのように希望へとつながっている。連続的にしか変わらないのならば、一〇年も二〇年も悪にはまりこんだ生活をしているようなものは、その延長上には何もよいことはない、としか考えられない。
しかし、不連続的に変えることのできる神は、いかに長い歳月が闇の生活として続こうとも、そこに突然光を注ぎ、変えることができる。
ちょうど、列車の線路の切り換えのように、今まで走っていた路線とまったく異なる方向へと一瞬にして変えられることが期待できるのである。

詩編における神の愛と導き
詩編には神の愛とその導きがどのようなものであるかを、直接的にあらわしている詩がたくさんある。その中でもとくに広く愛されている詩が詩編二三篇だと言えよう。
その詩とともに、その直前にある詩編二二篇もまた、神の愛がどのようなものであるか、そしていかに導いていかれるかを鮮やかに示している内容となっている。

わが神、わが神、どうして私を見捨てたのか。
なぜ、私から遠く離れ、救ってくださらないのか。
呻きや叫びを聞いてくださらないのか。…
私を見る人は皆、私をあざ笑い、見下して
「主に頼んで助けてもらえ、主が愛しているなら助けてくれるはずだ」…
私を遠く離れないで下さい
苦難が近づいても、助けてくれる者はいない。
あなたは、私を土埃と死の中に捨てられた。(詩編二二・216より)

このように、神が全く自分を見捨てたと思われるほどに助けも力もなく、平安もない、ただ死への恐怖と絶望的な前途への苦しみがあった。しかし、そこからこの詩の作者は導かれていく。
神の愛というのは、人間の愛、母親の愛のように苦しみに遭わないように守ろうとするのではない。愛などどこにもない、と思われるほどに苦しい状況に置かれていたが、この作者の神への全身全霊をあげた祈り(叫び)によって、ついにその願いは聞き届けられる。

… わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
主は貧しい人の苦しみを
決して見捨てない。御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いて下さる。
それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげる。
貧しい人は食べて満ち足り
主を尋ね求める人は主を賛美します。
地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。(詩編二二・2331より)

これは、さきに引用した前半の部分とは同じ人の書いたものとは思えないほどに大きく状況が変えられている。この作者は死の陰の谷を通り、絶望的な苦しみを経てついに救いを得て、新たな力を得たのがわかる。本当に闇の力から救い出された者は、黙っていることができない。
作者は救いを与えられたゆえに、兄弟たち―肉親の兄弟にとどまらず霊的な兄弟たちも含め、みんなに語り伝えたい、と言う。 真理は留まっていることを許さない。
すでに創世記の最初の部分に記されているように、エデンの園から四つの川が流れ出て、当時知られていた全世界をうるおしていたという。それは神の祝福を受けた者、救いを本当に受けた者からは必ず神の国の水が周囲へと流れ出ていくという霊的真理を語っているのである。
創世記というのは、現代においてもたえず生じているような生々しい真実をすでにはるか数千年前に預言的に記しているのであって、それは驚くべきことだと言えよう。
そしてそのような流れだす、あるいは溢れ出ていくということは、旧約聖書の預言書の一つ、エゼキエル書の最後の部分に印象的な記述がある。
それは、エルサレムの神殿からゆたかな水の流れが溢れ出ていくという描写である。
「…見よ、水が神殿の敷居の下からわき上がって東のほうに流れていた。…」(エゼキエル47章)
と書かれ、この水ははじめはわずかであったのに、流れ出て二キロも行かないのに、はやくもその水の流れは大きな川となり、泳がなければ渡れないほどの水量となったと記されている。
エルサレムは乾燥地帯の山の上の町であり、そこから大きな川が流れ出るということは本来あり得ないことで、この記述は、ふつうの川のことを意味しているのではない。それはいのちの水が神が臨在される神殿から溢れ出るということを象徴しているのである。
この詩の作者は、神による救いを伝えずにはいられない、周囲の人々に、そして自分の子孫にまで、といって、空間的にも時間的にもどこまでも流れていく霊的な水の流れのもとになるのを実感している。
神によって苦しみや絶望的な状況から救われた者は、このように、その救いの真理を伝える存在になるようにと導かれていくのである。
そのようになった者は、いかなる苦難も悲しみも、それは神の愛の異なる表現であり、神はそれらすべてを用いて導いていかれるのだと知らされる。
かつての苦しみもまた、深い味わいを持っている神の愛ゆえの導きであることに目覚めさせられるのである。
このように、旧約聖書の詩編はこの詩編二二篇でうかがえるように、意味深い神の愛と導きとはいかなるものであるかを証しつづける内容となっているといえよう。

残りの者をもとにする愛

ノアの箱船の記事は、ただノアとその家族だけが救われたということで、そこには神の愛の厳しさだけが印象に残る場合が多い。そこには神の広い愛というよりも、神のさばきの厳しさが現れていると思われている。
しかし、ここにも神の愛のすがたをあらわすものがある。
それは、神はわずかなものを残されるということ、そのわずかな者を用いて多くのひとたちの救いへと広げていくということである。
ノアという神を信じて神に従う生活をしていた者を用いてそのような人をこの世に次々と起こされたのである。
この少数の者、残っている者を用いてその愛を広げていくということは、聖書全体に多くみられる。
旧約聖書のイザヤ書では、残れる者が神のもとに帰って来る、という預言がしばしばみられる。

…シオンの残りの者は、聖なる者と呼ばれる。彼らは全て、エルサレムで命を得る者として書き記されている。(イザヤ四・3

…この民の残りの者にも、広い道が備えられる。(イザヤ十一・16

イザヤという預言者は、自分の子供に「残りの者が帰る」(シェアル・ヤシュブ)(*)という意味の名前を付けたというほどである。

*)イザヤ書七・3 。シェアルとはヘブル語で「残り」、ヤシュブとは、シューブ(転じる、帰る)の変化形。

そしてこの残りの者とは少数の者であり、言い換えると神の愛はいつも少数の者を用いてその愛を多くの者へと広げていくような性質をもっているといえる。
この残りの者を用いられるということは、新約聖書において、「ぶどう園のたとえ」でも言われている。ぶどう園の主人が朝早くから働く人を雇って働かせる。朝、昼、午後と何度も労働者をぶどう園へと送り込む。しかし、夕方の五時になってもまだ誰にも雇ってもらえずに広場で立ち尽くしている人がいた。誰からも雇ってもらえない、いわば残りものとなっていたのである。
しかし、神はそのような相手にされないような残った者をも、朝から働いた人と同じ賃金を与え、しかも最初にその賃金を与えたのである。ここに神の愛とはどういうものかをあざやかに示すたとえがある。
私たちも人間から見捨てられ、相手にされない残り物となったようでも、なお神はそのような弱い、取るに足らないものを特別に顧みて手を差し伸べて下さるということなのである。
ノアの箱船の場合は正しいとされた少数の残りの者がもとになってそこから大きな祝福が生み出されていった。ぶどう園のたとえでは、人間が相手にしないような残りもののような弱いものを大きく取り上げられた。
また、イエスが教えを述べるときには病気をいやしてもらおうと大勢の群衆がひしめき合うほどについていった。しかし、十字架で処刑されるときには、そうした大勢の人たちのイエスへの関心はどこにも見られなかった。人々の心は一転してイエスへの敵意に変わった。
しかし、少数の女たちはそのような敵意のあふれるただなかにあっても、イエスへの真実を失わなかった。
十二弟子たちすら一人は金をもって裏切り残りはみんな逃げてしまったほどであった。しかし、少数の女たちはイエスへの真実をどこまでも持ち続け、十字架で処刑されるときにも最後まで見つめ、そして死んだあとになっても、夜の明けないまだ暗いときにイエスが葬られているところへと急いで高価な香油などを持っていったのである。こうした少数のものを用いて、その真実をどこまでも広げていくようにされた。
ここにも私たちが望みを失ってはいけないということが暗示されている。真実な者、神につく者たちがどんなに少数であっても、その真実の心は続けられ、それがもとになって、また時至ればそうした心は広げられ成長していくのである。
いずれも神は少数のもの、残ったものをも用いてその愛のわざをなされるということなのである。
このように無視された者、弱い者、あるいはごく少数をも用いて神の愛を知らせていくような愛と導きの神がおられるということは、古代世界でもイスラエルの人たち以外では全く知られていなかった。
この宇宙に唯一の神がおられる、というようなことは、現在の私たちの考えからは不思議なほどに古代世界では知られていなかった。ソクラテス、プラトンのような深遠な思想をもっていた人たちですら、その著作にはこうした認識はない。
わずかに、ソクラテスの最後のときに、自分に出された死刑判決を受けようとしたとき、それを押しとどめる声のようなものがなかった、だからそれは正しいことなのだと決断したと書いて、そのような正義のある霊的な存在がいることを記している。
しかし、それが宇宙を創造して、万人とくに弱き者を導く愛であるといったようなことは全く記されていない。
まさにそれはノアやアブラハムに知らされ、アブラハムの子孫たちというごく少数の者たちによって伝えられていったのである。

回り道をさせる神
神の愛は、回り道をさせる愛である。人間の愛がまっすぐに行かせようとするのとは実に対照的である。
例えば、人は自分の子供や友人や異性などを愛しているなら、相手にわざわざ重い肺結核を感染させたり、仕事もできなくなるようなひどい交通事故に合わせたり、目を見えなくさせたりすることは考えられない。できるだけ、苦しいことに出会わないように、重荷や悲しみに悩むことのないようにと精一杯のことをしようとする。
しかし、神は驚くべきことだが、愛する者を徹底的に苦しめることがよくある。
ハンセン病はあらゆる病気のうちでも古来から最も恐れられていた病気だといえよう。外見、容貌も醜く変形し、職業も結婚もあるいは友達との交流も失われ、家族からすら忌み嫌われ、世間からも排除されていく。そのうえに治療法もなかった時代では神罰だとされたり、失明、あるいは手足のマヒ、切断といったことにまで及ぶ患者もあり、家からも社会集団からも追放されて、付近の寺、神社などにて乞食をしながら病重くなって死んでいくという状況があった。
そのような恐るべき状況になってそこから神の救いを体験する人たちも多く起こされてきた。どうしてそのようなはるかな回り道をさせるのか、それは人間では説明できない。
あるいは、私たちのキリスト集会にも大学病院での誤診により全身マヒとなってもう二十年以上も寝たきりとなっているKさんのような方もいる。このような日夜の苦しみと、前途の絶望的状況にいったいどこに神の愛など感じられるだろうか。
しかし、それでも神はそのような驚くべき回り道をさせて、その人たちを神への信仰へと導かれる。あるいはそうした人たちにすすんで医学や看護の技術を捧げようとする人たちや、介護する人たちを起こし、その人たちに近づこうとする人たちを起こされて全体として神の愛を知らしめようとされる。
このことは、聖書にもはっきりと記されている。
旧約聖書(出エジプト記)には、エジプトで奴隷のようにされてそのあげくに滅ぼされる寸前になっていた民族が神から呼びだされたモーセによって救い出されるいきさつと目的地のカナン(現在のパレスチナ)に到達する過程が書いてある。
 エジプトを出てからカナンまで地中海沿いでは三百キロ程度の距離である。それは、毎日四~五時間、距離でいえば二十キロ程度歩いたとしても、二週間あまりあれば達しうる距離である。だから、アブラハムがカナンに着いて食物がなくなったときに、エジプトに行ったと簡単に書いてあるのは彼らの通常の旅からしてそれほどの長距離ではなかったからである。
 また、イエスが誕生したとき、悪魔のようなへロデ大王の敵意を逃れるために、エジプトに行けという御使いのすすめを聞いて誕生したばかりのイエスを連れてエジプトに行ったこと、そしてヘロデが後に死んだときにはカナンに再び帰ったと書いてある。そのエジプトからカナンへの旅が著しい困難があったとは全く書かれていない。ごく簡単に行き来できたように感じられる。
 このように、エジプトからカナンへはたいした距離でないから、決して困難な旅でもなかったのがうかがえる。しかし、彼らは実際には四十年もの間(*)、シナイ半島の砂漠地帯を旅したのである。

*)カナンに近づいたカデシュ・バルネアというオアシスでかなり長い期間滞在していたと言われる。

 わずか二週間の道のりを四十年! この驚くべき回り道を神はなされる。
この理由として、聖書に記されているのは、近い道であれば彼らが戦わねばならないことを知って目的地に行くのをあきらめ、引き返そうとするからだとされている。
たしかに人間は絶えず引き返そうとする弱い存在である。引き返そうとしてもできないような回り道をしていくようにと導かれた。

… 神は彼らをペリシテ街道(地中海沿いの道)には導かれなかった。
それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。(出エジプト記十三・1718より)

けれども神が荒野の四十年の旅へとあえて導かれたのは、こうした理由だけではない。それは次に引用する箇所が示しているように、長い荒れ野の回り道において数々の苦難を経験させ、その苦難のなかで神の驚くべきはたらきを実地に体験させるためでもあった。

…あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。 (申命記二・7
・…この人(モーセ)が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行ったのである。(使徒言行録七・36

どんなに回り道であっても、また苦難であっても、それらの闇のような旅路のなかに光がある。
荒れ野の苦難の旅においても、「昼は雲の柱、夜には火の柱」が現れて彼らを導いたとあるのはそのことを示している。

…主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた。(民数記十四・14

ここにも、創世記冒頭の「闇の中に光あれ、と言われた。すると光があった」という実際の例の一つがある。
わずか数週間で行けるところに、四〇年もかけた。
私たちが出会う数々の苦難や悲しみも人生の大いなる回り道にほかならないが、それはやはりこの人生の荒れ野において神のわざを体験し、闇のなかに輝く光を深き淵から仰ぎ見るようになるためなのである。
生まれつきの全盲という苦しいことすら、神のわざが現れるためという。神とは愛であり、それは愛のわざが現れるためと言い換えることができる。そのために長い苦しみという回り道を経て主の平安に到達するようにというのが神のなされる導きなのである。神の愛は回り道をさせる愛なのである。
人間の目から見ればたいへんな回り道をするようにみえるが、神は最善の道としてそうした導きをなされる。このような導きは、単に個人の人生で見られるだけでなく、国家、民族においても見られることである。
使徒パウロはそのことをイスラエルの救いと関連して述べている。イスラエルの人たちは主イエスを救い主として受けいれずかえってイエスを迫害して殺してしまい、ユダヤ人でキリスト者になった人たちをもほとんど国外から追放した。
*しかし、それによってキリストの福音は広く世界に広がっていくことになった。

*)その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。…さて散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。(使徒言行録八・14

イスラエル人がキリストを信じないということが、福音が世界に広がることにつながり、それがさらに、最終的には、イスラエル人たちもキリストを信じてその福音を受けいれることになるという歴史の長い流れのなかで実現していく神の御計画をパウロは啓示されたのであった。
このように、パウロは人類の大いなる歴史の流れのなかにも、人の目から見れば不可解な回り道とみえることが実は、神の遠大な御計画なのだとはっきり啓示された。それはだれもそのような壮大な規模での御計画を知る人はなかったゆえ、特別にパウロは自分に示され、それを人類に知らせる使命を感じたのである。
その大いなる回り道をしてすべての人を救おうとされるその御計画を啓示された感動があまりに大きかったゆえに、彼は思わずつぎのような感嘆のさけびが口をついて出てきたのである。

… ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。…
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。
(ローマ信徒への手紙十一・3336より)

このようなことを深く知らされるとき、私たちは周囲のさまざまの人間の暗い状況に出会っても、だからといって絶望したり、罪に陥っている人たちを見下したりあるいは嫌悪感をもって見ることなく、そのような人たちも救いへの回り道の途上にある、と信じるように導かれる。
じっさい、私自身もかつてもうどうすることもできない苦しみに置かれていたし、その苦しみや悲しみはだれにも言うことができなかった。あまりの苦しさにじっと部屋でいることができずに、下宿から出て自転車にのってあてどなく北へ北へと行き、とある山道からどこの何という山かも知らずして登っていった。そして一時間あまり登ったであろうか。目の前に開けた山なみから今も忘れることのできない感動を受けたのであった。これは、大学二年になったばかりの頃である。
それは霊的な世界に初めてその片鱗に触れた出来事であって、それ以後私は山が魂のふるさとのようになって今日に至っている。
しかし、それだけでは救いはえられず、そのあともさまざまの苦しみにさいなまれてようやくそれから二年ほど経ってキリストの福音を知らされ、さらにその直後に神からの霊的な語りかけに初めて接することになった。それが「静かなる細き声」の体験であった。
さまざまの回り道をして、ようやくたどりついて永遠の真理の福音を知ることができたのである。私は自分自身の経験からしても、あるときにどんなに無関心であっても決して見捨ててはいけないと思う。
十字架でイエスとともにはりつけになった重い犯罪人、それは自分たちはとても悪いことをしてきたから、こんな報いは当然だ、と言ったほどに大変な悪行を重ねてきたのであろう。しかし、あとわずかで息を引き取るというときになって、心から悔い改めて主イエスに魂の方向を転換し、イエスが神の子であるゆえに処刑されてもそれで滅びるのでなく、神の国へ行くのだと確信していた。
それゆえ、その犯罪人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ二三・42)と心からの祈りをイエスに捧げることができたのである。
彼もまた大いなる回り道をして生きた人間であったと言えよう。神はそのようにだれも考えたことのないような回り道とみえる導きを一人一人についてなされる。
私たちもまた世界がどんな状況であっても、また周囲の人たちの個々の状況がどんなに闇にあるようにみえても決して望みを失ってはならないと言える。それらは神の愛の御計画が表されるための回り道のようにみえるだけなのだ、その背後において神が必ず最善のところへと導いておられるのである。
神はそのようなあらゆる事態をも用いて、壮大な回り道とみえることを通して世界を導かれていくのである。



リストボタン弱いからこそ
                  小国フォルケホイスコーレ  武 義和

     
1 それでも主はともに

 山形県小国町の山村に、私の母校キリスト教独立学園がありますが、不思議な導きで12年前、私は当時教員として勤めていた学園を退職、家族と共に北欧のノルウェーに行き、1年間音楽のフォルケホイスコーレ(市民による高校か短大、というような意味)で学ばせていただきました。不登校やひきこもりなど、日本の社会や学校の中で立ち止まっていたり、うまく生きることができないたくさんの若者たちにも、豊かな自然の中で学んだり、深呼吸をしたりする場所を作ってあげたい、と言うビジョンが与えられたからです。
 しかし、いざ新しい道を歩みだそうとしたとき、私の心は急に不安で震えました。職もなくて、幼い3人の子どもたちを育てることができるのだろうか?一音楽教師に過ぎない私に、そんなことができるのだろうか、と。
 その時、弱き私に主が与えてくださったのが、ヨシュア記1章5節のみことばでした。旧約聖書には幾度となく「恐れるな、私はあなたと共にいる」というみことばが記されていますが、モーセの後継者として心震えるヨシュアに、主が語られたこのみことばに私も励まされ、押し出されるように新しい道を歩みだしたのです。
 そして12年がたち、与えられたビジョンは、小国フォルケホイスコーレという小さなフリースクールとなり実を結んでいます。確かに主は共にいてくださったのです。
 しかし、私は自分自身の12年を振り返ったときに、そのあまりの情けない歩みに、胸を張ってこのみ言葉を語れません。こんな情けない私であっても、「それでも主は共にいてくださったのだ」、これが今の私の実感です。

   
 2  114敗の勝ち越し キリストの愛
 
 小国フォルケの営みに参加してくれる青年たちと、毎朝「朝の会」という聖書を学ぶ時間を持ってきましたが、その中で彼らに語ったことです。
 私は好きではありませんが、人生を勝ち組、負け組と分ける見方があります。ひきこもりの青年は負け組だと思っていますし、彼らの多くは「自分はだめだ」「生きている意味はあるのだろうか?」と言う激しい自己否定をしています。学びも仕事も恋もしてこなかった青年のこれまでの人生は、ある見方をすれば0勝8敗か1勝7敗くらいだったのかもしれません。
 大相撲は15日間相撲を取り、8勝すれば勝ち越しとなりますが、人生の大相撲は、私は全く違うと思っています。14敗をしたとしても、たった一つ、「本当に大切なもの」「本当に尊いおかた」との出会いがあるとすれば、その一つの白星により、その人生は偉大な勝ち越しとなるのです。そしてその出会いは、私たちの努力やがんばりのご褒美として与えられるものではなく、一方的な、神様の側からの恵みによるのです。これから賛美する曲の詩を書かれた水野源三さんも、ある意味では114敗の大勝利の人生を送られた方です。彼の詩による「キリストの愛」と言う曲をさんびしましょう。

   
3 キリスト教をひとことで言うならば 「主われを愛す」
 
 小国フォルケに参加してくれる青年の中には、一日だけ参加して、もう2度と参加することのない人もいます。全く聖書に触れたことのない青年も多いですから、もしかしたら人生で聖書に触れるたった一度の機会、という人もいるかもしれません。たった5分か10分の会で、私は「キリスト教とはなにか」という話をすることがあります。みなさんならどんなお話をされるでしょうか?私はこんな話をすることが多いです。
 キリスト教を一言で言えば、「私たちを作られた神さまが、私たちを愛してくださっている」と言うことです。私がどんなに弱くても、トホホであっても、なにもできなくても、ひきこもっていようとも、同じように主は私たちを愛してくださっています。主は私たちのすべてをご存知で、いつも私たちの最善をなしてくださるのですから、私たちの人生は安心なのです。
 最後にみなさんと「主われを愛す」を歌いますが、この曲は今回の徳島集会のテーマソングでもあると思います。この曲の中に、われ弱くとも、と言う部分がありますが、私はこれは少し違うと思っています。
 われ弱くともというと、「強いほうがいいけれど、ま、弱くても大丈夫さ」と言うようにも聞こえますが、そうではなく、われ弱いがゆえにおそれはあらじ、なのではないでしょうか? 私たちは弱いことが大切なのです。それこそが誇りなのです。
『私の恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。』 コリントⅡ 129節 

 
自己紹介
 
 武 義和 1954年群馬県生まれ 
 小国フォルケホイスコーレ代表、作曲家。音楽を通して神様の恵みと愛を分かち合うはたらきもさせていただいています。
 愛農学園、ゴーバル農場、自由の森学園、独立学園で働いた後、家族と共にノルウェーにわたり、1年間教師と生徒の両方の立場で学ばせていただく。帰国後、小国町にキリスト教宿泊型のフリースクール、小国フォルケホイスコーレを設立、現在まで8年間を歩む。今はひきこもっている青年たちとの交わりが深い。作品は「水野源三の詩による賛美歌集」ほか。



リストボタン永遠の神―その愛と導き―」 詩篇第90篇
                           秀村 弦一郎

 老境に入った詩人は死と向き合わざるを得ない。永遠の神、創造の前から存在しておられるお方に比べて、人間の何とはかないことか。死の問題は私たちにとって最大の問題と言えよう。
神を知っている詩人は死の原因は「罪」であるという。それはアダムの堕罪物語(創世記3章)にあるとおり、生まれながらの人間は神に背く(心が神にではなく自分に向かっている=的外れ=罪)存在であり、そのことは神の前に立たされなくては分からない(隠れている)ことなのである。
 そんなはかない存在であるにも拘らず、人は永遠を求めてやまない。詩人も長年にわたって様々なことを試み、努力してきたのであろう。そして多くの苦難に会い、涙を流したと思われる。70~80年の人生の実りは「労苦と災い」という。それが私たちの現実であり、詩人はそのことを直視する「知恵」を与え給え、と祈っている。
*   *  *
 自分の罪を知り神の憤り(死)を感じるとき、そこからの救いを求めるに至るが、この詩人は驚くべきことに、自分で何ごとかをやって救われようというのではなく、神の恵みによる救いを求めるに至っている。「主よ、帰ってきてください」、「喜び、歌わせてください」と、徹底して神中心である。(「塵に帰れ」と命じられる神に「帰ってきてください」とも。)
 そして、この詩人の祈り(帰ってきてください)は、約500年後、想像も出来ない仕方で私たちに示された。それがイエスの十字架である。私たちの真ん中に、否もっとも低いところに神ご自身が来てくださり、私たちを贖ってくださった。私たちの神は一方的に(一切の代価無しで)恩恵を与えて下さる方、究極の愛でいますお方である。与えてくださるものは「永遠」のいのち。冒頭にあるとおり「主よ、あなたは代々に私たちの隠れ家」である。

 神さえあれば、イエスは要らない、と考える人もいる。若い頃私もそうであった。私の経験から申せば、それは自分の罪に泣くことが無いから。子供の頃から神のことも罪のことも聞き知ってはいたが、罪は頭で分かるものではない。罪は全人格が問われる深淵である。その前に立たされるとき十字架と復活の福音のみが救いとなる。イエス・キリスト無くして私の救いは無い。
「永遠」を求めて何と空しいエネルギーを消費したことか。この詩は私自身の歌でもある。
*  *  *
 詩人は更に神の導きを祈っている。神の御業(創造に、また歴史に現れた威光)を心に留め(仰ぎ)、私たちの営み(手の業)が御心から逸れることの無いように、と。救いの喜びに溢れるなら自ずとそれが可能になるであろう。自分の努力では出来なかったことが出来るものとされる(イエスが働いて下さる)のである。
 ささやかながら私もイエスがして下さったとしか思えないようなことをさせていただくことがある。聖霊の働きとしか言いようがない。いつもイエスを心の中心にお迎えして歩んでいたいものと思う。
*  *  *
 最後に、個人の問題を超えて国家、社会の問題にも示唆を与えられる。日本の将来は解決を迫られる問題だらけ、国際情勢も激変のときである。どこに基盤を置いて(何を指針として)問題に取り組むかが鍵である。私たちは変化の波に飲まれることなく、愛をもって「永遠」に支配し給うお方にこそ揺るぎ無い基盤(導き)を求めたい。

(メモ― 新共同訳による)
  1 「モーセの詩」とあるのは天地創造・堕罪物語という創世記(モーセ五書)の記事と関係することによる。また申命記33章のモーセの歌も連想される。この詩の成立時期は捕囚記以降、第二神殿以前(BC500頃?)と見られている。
  1 「宿るところ」は隠れ家、住み家、支え。
  3 「帰れ」は(シューブ)。
  4 「夜の一時」・・夜回りは3交代したがその1交代の時間。最小の時間単位。
  6 「朝が・・夕べには・・」は砂漠の花の厳しく枯れ行く様子。
 12 「帰ってきてください」も (シューブ)。3節に呼応しているのが印象的。
15 「私たちを苦しめられた日々を思って喜びを返してください」は損得埋め合わ   せを願うのではなく、怒りの神が怒りを止めて恵みの神として顧み給えと祈る。
17 「喜び」は慈愛とも訳せる。神の慈愛が私たちの営みを導く。



リストボタン無敵の愛 ―「コリントの信徒への手紙一」13章に思う
                                        小舘美彦
序.「賜物」としての愛
*皆さんは13章の「愛」に関する記事がなぜ12章の「賜物」の記事の後に載せられているか、考えたことがあるでしょうか。それはもちろん「愛」が神様が私たちにくださる最大最高の「賜物」であるからです。パウロは12章で様々な「賜物」について語った後にこう述べて13章を始めます。
12:31
あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
このような前口上によって13章の「愛」の記事が始まる以上、「愛」はまさしく神様が私たちにくださる最大最高の「賜物」、無敵の「賜物」なのです。そして12章後半から13章はそのような最大最高無敵の「賜物」である「愛」に対する讃美なのです。
・そこで今日はこの部分をたどることによって皆さんと一緒に「愛」を讃美していきたいと思います。
1.「愛」と「アガペー」のずれ
*その前に一つだけはっきりさせておかなければならない問題があります。それはここで言われている「愛」とはどのような
ものかということです。聖書では「愛」は「アガペー」と訳されており、「アガペー」とは「神が上から下の者を救い上げる愛」のことですが、ここで言われている「愛」はそれとは若干違うと思うのです。それは単に「神が上から下の者を救い上げる愛」ではなくて、「神ご自身が上から下へ降りてきて、下の者を救い上げる愛」であると思うのです。言い換えれば、それは神ご自身が人間の苦しみや悲しみを分かち合うことによって人間を救ってくださる「愛」であると思うのです。
・この微妙な違いを理解するためには芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い浮かべるとよいでしょう。この話では仏様が極楽から蜘蛛の糸をたらして地獄の血の池にいる人間を救おうとします。これはまさしく「神が上から下の者を救い上げる愛」です。しかしもしこれが仏様ではなくてイエス様であったらどうするでしょうか。きっと単に「蜘蛛の糸」をたらすだけでなく、自らも「蜘蛛の糸」を降りていって血の池にいる罪人たちを抱きかかえて救い上げようとするのではないでしょうか。これこそ「神ご自身が上から下へ降りてきて、下の者を救い上げる愛」です。イエス様が十字架によって示された「愛」はこのような「愛」のことであり、13章で語られる「愛」もまたそのような「愛」のことであると私は思います。
・それではさっそく聖書に沿ってこの「愛」を讃美していきましょう。

2.誰にでも与えられる「愛」
*まず12章の後半に注目しましょう。
12:28
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
 12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
 12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
 12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
この部分にこめられているメッセージは何でしょうか。思うにそれは「愛」という「賜物」は求めさえすれば誰にでも与えられるということではないでしょうか。
・12:28には様々な賜物が並べられています。使徒(伝道)の賜物、預言の賜物、教師の賜物、奇跡の賜物、癒しの賜物、援助の賜物、管理の賜物、異言の賜物。しかしこれらの「賜物」はどれもある特定の人にのみ与えられるものであり、決して誰にでも与えられるものではありません。だからこそ「みんなが・・・だろうか」とパウロは繰り返すのです。これに対してパウロは「愛」についてだけは全員に対してもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさいと呼びかけています。これは明らかに「愛」という「賜物」だけは熱心に望みさえすれば、祈りさえすれば誰にでも与えられるということです。
・皆さんは誰かを愛そうとして、神様に祈ったとき、「愛」が与えられなかったことがあるでしょうか。特にイエスの十字架に向かって祈ったときに「愛」が与えられなかったことがあるでしょうか。私にはありません。このことを私は何度も経験しました。登戸学寮の寮長になってからは特にです。私はすでに数十人の学生と寝食をともにしましたが、この中に愛そうとして愛せなかった学生は一人もいません。中には生意気で反抗的な学生もおりましたが、そしてそのような学生には憎しみさえ覚えることもありましたが、そのような学生に対してさえ、「十字架」に対して祈り求めるならば必ず「愛」は与えられたのです。つれあいに対してもそうでした。夫婦喧嘩をして顔も見たくなくなることもありました。それでも十字架にむかって祈るならば必ず「愛」は与えられました。
・このように、祈り求めさえすれば「愛」は誰にでも与えられる、だからこそ愛は最大最高の「賜物」だとパウロは言っているのです。

3.人格の完成に導く「愛」
*次に13章の4節から7節に注目してみましょう。
13:4
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
ここにはほとんどすべてと言ってよいほどの「徳目」が並べられています。「寛容さ」(忍耐強さ)、「思いやり」(情け深さ)、「潔さ」(ねたまないこと)、「謙虚さ」(自慢せずたかぶらないこと)、「礼節」、「無欲さ」、「温厚さ」、「素直さ」(恨みを抱かないこと)、「正義感」、「正直さ」、「包容力」(忍ぶこと)、「信仰」、「希望」、「忍耐力」。これらすべての徳目が「愛」を与えられるならば一機に与えられるとパウロは訴えているのです。「愛」が与えられるならば人格的完成に一機に近づくとパウロは言っているのです。もちろん人間は罪にとらえられていますから、完全に完成には至れないでしょう。それでも十字架に祈り、「愛」が与えられるならば、罪人であるにもかかわらず私たちはこれらの徳目のすべてに対して開かれて完成に近づくのです。
・皆さんもこれに似たような経験をなさっているのではないでしょうか。例えば誰か異性を愛するようになったときのことを思い出してください。その人の前では我知らずに最高の人格に近づいていなかったでしょうか。あるいは子供を愛するときのことを思い出してください。子供の前で親は最高の人格を演じていないでしょうか。私自身もそうでした。普段はくだらない欠点だらけの人間である自分が愛する人の前では我知らず最高の人間を演じておりました。もちろん異性への愛や子供への愛はエゴ(罪)を含むものです。しかし私はこのような人間的な愛のうちにも神の「愛」が含まれていると思います。だからこそ人間は誰かを愛するときには人格的完成に近づき、その果てにはその人のためになら自分を捨ててもよいとさえ思えるようになるのではないでしょうか。いずれにせよ、人間的な愛を抱いているときでさえ人は人格の完成に近づきます。ましてやイエス様から「愛」を与えられた時に人格の完成に導かれないことがありましょうか。
・このように「愛」は本来なら自分のことしか考えていない罪人である人間を自己犠牲さえいとわない人格的完成へと近づけてくれます。もし修行をもって上述のような徳目を一つ一つ達成することによって人格的完成に至ろうとするならば、恐らく一生かけても不可能でしょう。ところが「愛」を与えられるならばそのような人格の完成へと一機に近づく、とパウロは訴えているのです。だからこそ「愛」は最大最高の「賜物」なのです。

4.永遠の命へいたる「愛」
*最後に13章の後半に注目しましょう。
13:8
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。・・・
13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
難しい書き方をしていますが、要するにここで言われていることは、「愛」は決して滅びないということです。「愛」は完全であるがゆえに、「愛」を与えられた者は永遠の命に導かれるということです(「そのとき」を私は再臨のときではなく、十字架の前に立つときととります)。
・私は死んだことも復活したこともありませんから、「愛」が本当に永遠の命をもたらすのかどうか知りません。しかしこのことに関して一つだけ確信していることがあります。それはいかなる人間の集まりであれ、もしその集まりのうちに「愛」があふれているならば、その集まりはこの世界で永続的な生命力を持つということです。夫婦でも家族でも会社でも学校でも国でもどんな集まりでもそうです。「愛」がある集まりはたいてい滅びません。登戸学寮での体験を通じて私はこのことをはっきり確信いたしました。私が「愛」を祈り求め、学生たちの悩みや苦しみを分かち合っていこうとするならば、寮はたちまち活性化します。しかし、「愛」ではなくてルールや理屈や倫理や力で寮を動かそうとするならば、寮はたちまち生気を失っていきます。寮の生命力は実に単純であり、「愛」があるかどうか、悩み苦しむ学生たちとともにあろうとするかどうかどうかにかかっているのです。
*このように「愛」は確かにこの世界の集まりに永続的な生命力をもたらします。だとすれば、完全な「愛」が永遠の命をもたらすというパウロの主張も信用するに足るのではないでしょうか。もしパウロの言うとおりだとするならば、まさしく「愛」は最大最高にして無敵の「賜物」ではありませんか。
むすび
*以上「コリントの信徒への手紙一」の12章後半から13章をたどることによって「愛」が三つの点から最大最高にして無敵の「賜物」であることを述べさせていただきました。このような「愛」は確かに十字架への信仰によって与えられるものですが、単にそれだけではなく、ひるがえって信仰を高めるという恵みをももたらします。皆さんが信仰より「愛」の素晴らしさと喜びに開かれ、さらに信仰を強められますようお祈り申し上げます。



リストボタン神の愛と導き―新約聖書から
                               吉村 孝雄

 遠くからそして近くから、北は北海道からそして南は、沖縄、台湾に近い西表島から、さらに遠いアメリカからも参加者が与えられ、ここに内村鑑三の流れを汲む無教会の全国集会を与えられました。
このことのなかにも、神の愛と導きがあります。ここに参加されている方々は多数がすでにキリスト者となっておられる方々であり、過去をふりかえりますと、数知れない神の愛が思いだされることでありましょう。遠い過去だけでなく、現在日々の生活のなかでも生活の困難、苦しみや悲しみのときにそばにいて励まし、新たな力を与え、また、内なる重荷である罪の赦しを与えられ、神の愛を日々感じている方々も大勢おられると思います。
また、まだ神を信じていない、信じられないという方々にあっても、その背後にはだれかが祈り、語りかけて来られたゆえに、この会に参加されたのであり、その背後には神の愛と導きがあります。
そして、健康な人、病気の方、人工呼吸器をつけた極度の不自由な生活をされている方、視覚や聴覚、知的な障害をもった方々など、多くの障害者も加わり、一〇代の若い人から、八〇歳を越えておられる方々とさまざまの方々が集まりました。ここにも導きがあります。
唯一の神がおられることを信じられないゆえに、神の愛と導きなどどこにもない、と感じる人が日本では圧倒的に多い状況です。しかし、じっさいに存在しているにもかかわらず、気付いていない、ということはたくさんあります。
例えば、日本では豊かな食事や医療を受けられますが、食べ物すらない、飢えに苦しみ医者にも薬の恩恵にも全くあずかっていない人々は何億といます。
 また、身近なところでは、すでに触れたように、この会場には自分では身動きもできない上に、器械の力を借りないと呼吸もできない方がおられます。そのような状況がどんなに困難なことか、筆舌につくしがたいことです。
 また、目が見えない方々が五名ほど参加されていますが、ほかの人は見えます。参加者のお顔、またこの部屋の状況や室外の眉山や青空が見えます。それらがいっさい見えないだけなく、少し移動するにも他人の手を借りねばならない、だれかと話しをしたいと思ってもそこに自分ではいくことができない、何でも人に頼まねばならないというようなことも、生きていく上で特別な困難を伴います。
 また見える人はそれができるということはどんなに大きい恵みであるか、そうしたことはほとんどの人が日常感じていないはずです。
そのような状況に置かれた人たちに対して、ほとんどの人は食事も豊かにあり、病気のときには医者にかかれるし、そもそも自由に呼吸できること、起き上がって歩くこと、目が見えることなど数えきれない恩恵が与えられています。
 しかし、そうした恩恵があるのに、それをほとんど感じていないというのが現実ではないかと思います。
 このように、私たちが受けている恵み、神の愛や導きといったことは、私たち自身の心の目、魂の感受性が開かれているかどうかにかかっているわけです。
聖書という本は、そうした私たちの眠ってしまっている状態から目覚めて、神の愛と導きが至る所で存在しているのだということを繰り返し指し示している本だと言えます。
現実には神の愛どころか、それと全く相容れないような出来事がいろいろと生じます。そのために私たちは苦しめられ、神の愛でなく、悪の力が支配しているのだと思い込むことにもなります。
しかし、そうした暗い出来事が生じても、それは最終的には善きことへと神が導いて下さると信じることによって、神の愛がいっそう実感できるようになっていきます。ここでもまず神の愛と導きが必ずあるのだ、と信じることが出発点にあります。
「神を愛するものには、万事がともに働いて益となる」と聖書に書かれてある意味が少しずつわかってきます。
さらに、やはり新約聖書で、「すべてのことに感謝せよ、いつも喜べ」と言われているのも、最終的にすべてを善きとして下さる神の愛と導きを信じるならばそのように感謝できる、ということです。
このすべてに感謝できる、という心は、聖書の一番はじめにある創世記で、神が天地を創造されたときに、「良し、とされた」と繰り返し記されていることを思い起こさせてくれます。そして万物の創造をされたときに、「非常に良い」とされたと記されています。(創世記一・31
このことは、昔の単なる神話であるとか、創造の最初の良い思い出のようなものと思って、私たちと関係のないことだと思われがちです。私たちのまわりにはあまりにも「すべてよい」などということに反することが満ちているからです。
しかし、神の力、キリストの力によって新しく生まれた者は、それゆえに、まわりのさまざまの出来事の背後に最終的には「非常に良い」という状態に導く神の御手を感じることができるようになっていきます。
すべてに感謝し、すべてを喜ぶという心は、まさにそのような新しくされた魂の状態であり、創世記に言われているような「すべて良し」という神のお心に触れることができるようになると言えます。
 聖書の最初に置かれている創世記で、神が天地創造をされたとき、その一つ一つに、「良しとされた」と言われたというのは、なぜだろうと、だれでも思うものです。これは単なる神話だからだろう、というように思う人もいてそれだけであとは深く考えない、というのが聖書を手にとる人たちの多数を占めていると思われます。
 しかし、これは、預言でもあるのです。もし、私たちがキリストに深く結びつき、キリストの聖なる霊によって導かれるときには、私たちに生じるさまざまの悪しき出来事、周囲の出来事においても、その背後に万事を最終的に良きものとされる神の愛と導きの御手を見るようになるからです。
聖なる霊によって生まれ変わったようになった魂にとっては、それ以前には、単なる神話であり、命のないただの物語と思われていた聖書の内容が新たないのちを得て私たちの魂を活き活きと映し出しているものとしてよみがえってくるのです。
私たちの魂の奥深いところにある罪、闇の部分がよいものへと変えられなかったら、私たちの幸いはありません。新しく生まれるとは、神の霊が注がれ、それによって私たちはキリストの死が単なる刑死でなく、私たちの重い罪を身代わりに背負って死んで下さったのだと信じられるようになり、罪の赦しと清めを受けることができます。 そして初めて魂の平安を与えられます。 しかし、そこで留まるのでなく、そこから、この世を導かれて歩むことが始まります。
 そのためにこそ、聖霊が与えられたのです。十字架で死んだだけのキリストでなく、復活して聖なる霊となって下さり、また生きてはたらくキリストとなって私たちの生活のなかに、また心のなかにも住んで下さり、私たちを支え、励まし、導いてくださるようになったのです。
それゆえに、十字架と復活、それは神の愛とその導きを最も深いかたちであらわすものとなっているのです。キリスト者の生活とは、一言で言えば、罪赦され、聖なる霊によって導かれる生活だと言えます。
十字架こそが、私たちが悩み苦しむ根源的な原因である、心の問題の解決となってくれました。心の最大の問題とはいじめや病気ではなく、魂の深いところにある心の自分中心という発想なのです。それを罪といっていますが、その罪を除き去るために、その罪を赦して清め、新たな力を与えるためにキリストは十字架で死んだのでした。それは人間の最も深いところの悩みを知っておられたゆえのことでした。そこに愛があります。
愛とは可愛がるだけのものでなく、私たちの心の根本問題の解決をすることです。あらゆる問題の根源の原因となっているものに手をつけてその難問を解決することです。 それこそが最も深い愛だと言えます。
そのような魂の根本問題を主が解決してくださったのです。 人の表面に見える問題にふれるだけでもやさしさの表現となります。ひと言の言葉でも愛を表すことができます。しかし、そうした慰めはすぐに過ぎ去っていくことが多いのです。
私たちの表面の数々の苦しみや悩み、いかなる民族やどんな時代でも、必ず持っている人間そのものの奥に潜む根本問題にメスを入れてそれをえぐりだし、魂の大手術をしてくださったのが主イエスであったと言えます。
 さんざん長い歳月を苦しめられてきた難しい病気がいやされること、それは人生最大の喜びのうちに数えられます。 それゆえ、魂の最大の病気である罪が赦されることこそ、何にも増して大きな喜びとなるわけです。
主イエスが愛と導きそのものであることは、つぎの言葉で簡潔に表されています。

…わたしは道であり、真理(真実)であり、命である。
(ヨハネ十四・6)

 自分や他人、あるいは家族の罪ゆえに、また病気や事故などの苦しみや絶望で死にたいと思うようなときに、ほかのいかなるものも与えられないような新たな命を与え、そこから立ち直らせて下さるなら、それはまさしく愛であります。
 ただ主イエスを信じ、心を結びつけるだけでこの世のさまざまの闇の力に巻き込まれず、神の国へと歩んでいくことができる、それこそ、導きであり、そにゆえに「道」だと言われているわけです。
 そして、イエスは「真理」である、といわれます。ここで真理と訳された原語(*)は、「真実」と訳されている箇所も多く、真理と真実という二つの意味が重ねられて言われていると考えることができます。

*)アレーセイア alhqeia これは、口語訳では、十数カ所で「真実」と訳されています。例えば、「私はキリストにある者として真実を言う。」(ローマ九・1)など。

 イエスは、この世の人間のすべてが罪を持つ、言い換えれば真実であり得ないにもかかわらず、ただ主イエスだけは真実であり、どこまでも偽りがない。しかも、その真実や愛、神の国への道は真理であり、永遠だというさまざまの意味がここに含まれているのです。
 このように主イエスが私たちに、神の国にある愛によって私たちを守り、支え、そして神の国へと絶えざる前進をすることができるように、来てくださったのですが、この世界、宇宙の前途は最終的にどうなるのか、ということについても明確な方向が示されています。 
 それは最も深くキリストに結ばれ、聖なる霊を受けた使徒パウロが神からの啓示を受けて語ったことです。

…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。 (ローマ書十一・36

…時が満ちるに及んで、救いのわざが完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめらる。
天にあるものも地にあるものも、キリストのもとに一つにまとめられる。(エペソ一・10

 この世界は全体としてどこに向かっているのか分からない、というのが大多数の人々の実感だと思われます。政治家も、科学者も芸術家も、その方面でいかに優れていても、この世、宇宙が向かう最終的な状況はだれも分からないことです。
 しかし、天地創造の神、万能の神の愛と導きを信じるとき、この世界ははっきりとした目標、神とキリストに向かって進んでいるということが受けいれられるのです。
(これは全国集会の開会メッセージとして書いたものですが、実際に語ったのはもっと簡略化した内容でした。)


リストボタン無教会全国集会二〇〇八・徳島に参加して

 以下に、全国集会が終わってから私(吉村 孝雄)宛てに届いたメールでの内容の一部を掲載します。長い文には私がみやすくするためにタイトルを付けています。全国集会に関して参加者の方々が何をどう感じたか、それによって主が働いて下さった一端に触れることができればと願っています。そうすることで、いっそう主イエスのはたらきが浮かびあがってきますようにとの願いによってここに引用させていただきました。
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○福音への新たな希望
主イエス様の姿を、心に刻んで歩んだ徳島の集いでした。
 始めの沖縄のご姉妹を始めとするお話、手話による主への賛美、お二方の主日礼拝のお話し、それぞれが心に残りました。不思議なことに、疲れを全く感じない、二日間でした。眉山は穏やかで美しい姿でした。
印象深かかったのは、最後の日の晩に訪れた、徳島聖書キリスト集会の集会所でした。
 福音を求めて集まる人々、その人々が入れなくなって、集会所が少しずつ広げられて来た姿に、パウロの時代の集会の姿を思いました。キリストの教会とはこのようにして、できて行ったのだと思いました。
 今の教会は、始めに教会堂を建てることに心血を注ぎます。無教会の物に執着しない姿を深く思いました。
 福音への新しい希望を心に宿すことができました。その恵みを深く考えて参ります。(関東地方の方・男性)

○聖霊と恵みの雨
今回の全国集会は、聖霊と恵の雨が豊かに降り注ぐ、本当に良い会になりました。
祈りが聞かれ、参加したそれぞれの方々に、神が与えてくださったものは計り知れないと思います。
私の人生にとっても、とても大きな出来事になりました。
ありがとうございました。お疲れになったことと思います。
スタッフのみなさんのご健康が守られますように。
昨日は徳島の全国集会から帰ってすぐに、ひきこもり青年(心も病む)と一緒に仕事をしました。悶々としている彼に、初めて「聖書を一緒に読もう!」と呼びかけたところ、意外にすんなりOKだったので、さっそく仕事をしながら神の愛の話をしました。君も神に愛されている大切な一人であること、それに君が気づいていないだけのこと、努力や精進やがんばりで救われるのではないこと…
徳島での集会中に、こちらで暴発して、私の妻に「地獄へ落ちろ!」と叫んでいた彼の目から、涙がぽろぽろとこぼれました。
今週から、彼のための聖書の会を妻と3人で持てたらと思っています。
こんな出来事も、私が徳島でいただいたものがあったからだと思います。
感謝いたします。(中部・男性)

○昨日までの全国集会でのたいへんなご苦労を深く感謝いたしております。その御旨の真意には計り知れぬものがあると思います。主日礼拝の講話で「神は回り道をされる」との御旨を受けとめられたことに、いたく感銘を受けました。…(近畿・男性)

○聖霊による明るさ
明るく聖霊に満ちた集会をありがとうございました。印象に残ったのは、各地からの参加者の感想の中で確か東京からの女性の方が「入った時とても明るいのでびっくりした」と言われて、子供の時にキリスト教の集会に行った時に集会に参加する人は聖書を包んだ風呂敷を持って暗い顔をしているのですぐわかった、という話をされたことです。
 何かの本でも同じようなことを読んだ事がありますが、昔のクリスチャンといえばすべての罪を一人で背負ったような暗い顔をしていたイメージがあるようです。
イエス様は全然暗くない。ユーモアたっぷりで、快活で、食欲も旺盛です。クリスチャンはイエス様を見習うべきだろうと思います。
 私は三〇年間待って、よき集会に招いてくださった神に感謝しています。
もっと早く教会に行っていたら、多分、キリスト教を間違って理解し離れてしまっていただろうと思います。啓示に導かれた吉村さんの聖書の講話に感謝しています。(近畿・男性)

○この度は参加できて本当に良かったと感謝しています。多くの霊的たまものと、昔の懐かしい方々と再会できたことも言葉に尽くせぬ感謝でした。
準備運営は本当に大変だったこととお察しします。主が疲れを癒し祝福して下さいますように。(中部・男性)

○全国集会の主日礼拝だけでしたが、長女と共に参加させていただき 大変恵まれました。… 今日、お二人のご講話をお聞きして、私も人生における神さまの愛と導きを深く感じさせられました。 本当にありがとうございます。 皆様の上に神さまの祝福が豊かにございますように。(四国・女性)

○バリアフリーの徳島
聖霊に満たされた本当に素晴らしい全国集会でした。午前4時、宿泊していたホテルの七階から 星が見えました。徳島での星、嬉しくて、星を見つめつつお祈りしました。窓越しですが、朝日も写しました 感無量でした。…
心にも体にも、バリアフリーの徳島の皆様の輝いたお顔を思い出して感謝しております。徳島では良く眠れました。聖霊の風がふんわりと包んでくださったからですね。 本当に有難う御座いました。(中部・女性) 

○全体的にはとてもすばらしい集会であったことが参加した一日を通してよく分かりました。特に、徳島の人たちの神様への真実な心からの祈りとご愛労に主が豊かに答えてくださったのですね。(四国・女性)

○一致した祈り
栄光在天。全国集会を終えて、昨日(12日)午後3時過ぎに家に到着しました。
着替えを済ませて病院に駆け付け、透析。あわただしく一日を過しました。でも、大変に充実した一日でした。
 二日間の充たされた集会のプログラムを家内と共に何度もなぞって語りあっています。
 お名前は知っていたが、一度も会ったことのない御方とも言葉を交わしたり、写真を共に撮ったり…。
 明るく、爽やかな風の吹き渡った二日間の集会を感謝しています。
 徳島聖書キリスト集会の兄弟姉妹が一致した祈りが、伝わりました。この集会から、生きた真実の信仰が津々浦々まで浸透して、無教会の群れのリバイバルが起こることを祈っていきたいと願います。(北海道・男性)

○主の祝福、愛と恵み
昨夜、充分な睡眠が与えられ、本日、無事に帰ってくることができました。不眠に悩まされてはいましたが、出発の前日から不思議と眠れるようになり、期間中も快適なホテルで安眠でき、二日目も皆様と一緒に早朝祈祷会からスケジュールを始めることができ感謝でした。
徳島聖書キリスト集会の兄弟姉妹の皆様の篤いお祈りのおかげと感謝申し上げます。
全国集会は、かつてないくらいの感動の連続でした。聖霊にみたされた思いです。
神様のご祝福にあふれていました。キリストの愛と恵みが満ちていました。
ことに、勝浦さんと松田敏子さんの証言は感銘深いものがありました。聖日の午前の手話讃美、吉村、関根兄の講話、平易な話し振りながら、内容は重厚でした。ここにも主がお働きになって、語るもの、聞くものともに聖霊をお送りくださったと思われております。
その他、すべてにわたってこまかな配慮がなされ、満たされ、くつろがされ、いやされた日々でした。
毎月、「いのちの水」誌や「集会だより」を読ませて頂き、毎月の礼拝CDを聞かせて頂いていて、徳島聖書キリスト集会の場所を是非拝見したいものと願っておりましたが、プログラム終了後の夜には集会場での交流会があり、それもかない感謝でした。
この恵みをこの地の教会にまた、こちらの集会にぜひ分かちたいと願っております。本当にお世話になりました。徳島聖書キリスト集会の兄弟姉妹の皆様にくれぐれもよろしくおつたえください。(中部・男性)

○主の御名を讃美し感謝いたします。この度は、全国集会のご盛況、おめでとうございました。皆様のご愛労により、そして神様の大きな御手によって、あのような祝福に満ちた会になったものと思います。
このような会に参加させて頂きまして、本当にありがとうございました。
お陰様で、大きな恵みを体いっぱいに受けて帰って参りました。(関東・男性)

○主が障害者と共に・福音の中心
前夜の交流会に始まり、2日間のプログラムのすべてが主イエスをお迎えした霊感溢れるときであったこと、本当に感謝でした。いまだにその余韻に浸っています。忘れがたい時となりました。
特に障害をお持ちの方など弱い方々と共におられる主が証されたことは圧巻でした。このような集会は徳島をおいてほかでは不可能でしょう。
松田敏子さんのメッセージを伺えたこと、勝浦良明さんにお会いでき、証を伺えたことは奇跡でした。
従来の全国集会にありがちな「無教会・内村」に焦点が当てられるのでは無く、「イエスの十字架と復活」の福音の中心が輝いていたことが何より嬉しく思いました。
私は「時間を守ること」は無教会の大切な伝統だと思っています。今回を機に良き伝統が復活・確立されることを望みます。
ご準備くださった方々のお祈りが如何に熱いものであったことか、感謝あるのみです。お一人お一人がキリストの体の役割分担を果たされたことにも、生ける主を実感しました。(九州・男性)

○無教会の前進
徳島集会のみなさまお一人お一人が一つになってお祈りくださり、私たちの聖書集会のみならず、松田さんを覚える皆さんの祈りが合わさり、神様が御業をなしてくださったと信じます。徳島集会の皆様に、祈りと具体的なこのたびのおもてなしを受けることを通して、親しいものとさせていただきました。
矢内原忠雄 25周年記念講演会で、かつて溝口先生が「無教会の前進とは何か」という演題で講演されたその内容の後半部が十一日(日)の礼拝で紹介され、今回 徳島での全国集会に参加して、深く以下の内容に共感できました。
「福音の根本である『十字架の信仰』と『平和を作り出す使命』とから逸脱しない限り、いかに細分化しても多様化しても、かえってそれだけ日本社会にきめ細かく入り込むことができるのであって、なんら心配しするに当らないと思うのであります。2~3人主の名によって集まる小集会が、日本全国の隅々まで細胞のように生まれ、祈りと聖書の学びを通して成長し、さらに小集会を生んでいく、独自の個性をもった集会が互に交流し、課題に立ち向かう時には連帯し助け合う。一致した課題であれば教会とも共にたたかう。無教会の目指すエクレシアはそのようなものとして世俗社会の中に溶け込み、根づいていきたいものだと思うのです、これが 私の夢みる無教会の前進であります。」(中部・男性)

○聖霊の風
全国集会から帰った翌日、ゴスペルの練習に行ったのですが、そこで、「Welcome Holy spirit」(聖霊よ、おいでください)というゴスペルを歌いながら、「ああ、今、わたしは、『聖霊よ、おいでください』とは、どのような意味かわかって歌っている!」とはっとしました。
「あの、徳島での全国集会のように、今、聖霊の風がそよそよと吹きわたるひとときとなってほしい、と、そういう祈りの歌なんだ!」
おもわず、友人たちに、「わたし、今初めて、聖霊がわかった!」と言ってしまったほどです。
みなさんとともに主を讃美したこと、四人の方々の聖書講話を通して、ずっと思い悩んでいたことに、明確な答えを与えられたこと、たくさんの、愛する兄弟姉妹と出会えたこと、たくさんの証しを聴くことができたこと、本当に実りある、すばらしいひとときでした。
また、恵みとともに、自分の弱さ、罪深さも感じさせられましたが、それも目が開かされた、ということなのだと信じ、ぐっと見つめて進んでいきたいとも思います。(関東・女性)

○十字架の赦しと聖霊
今回ははっきり以下のことを学びました。
イエスの十字架の赦しを受け入れるかどうかに命と死との分岐点が明瞭にあるということ。
それに基づく体験を語り歌えば、聖霊は働くということ。
それについて勉強した知恵を語っても、それに関する他人の体験を語っても、聖霊は逃げ出してしまうということ。
要するに、十字架の赦しを生きていなければ、「我と汝」の関係で十字架に向かわなければ、だめだということです。
次回の東京での全国集会の出演者がそのような人に満ち溢れることを祈ります。(関東・男性)

○歓びの余韻
「無教会全国集会・徳島2008」ありがとうございました。すばらしい集会でした。「神の愛と導き」、豊かな聖霊に満ち溢れる讃美と祈りの集会に参加できた歓びのこの余韻を大切にいたします。徳島の集会の皆さま、開催前の準備、またすべてに行き届いたプログラムの進行…。
最後の夜の交流会、故郷に帰ったようなスイートホーム的な和みをも感謝いたします。(中部・女性)
 
○私はあのような大勢の集会に参加したのは初めてです。自己紹介だけの参加でも恵まれ感謝でした。
いろいろな立場の方々が一つの心となって神様を見上げ讚美することは本当に素晴らしいことです。感動致しました。(四国・女性)

○この度は、全国大会に参加させていただき、ありがとうございました。とても新鮮で、深く心が耕されたような思いです。心から感謝です。徳島集会の人数の多さに驚いたのですが、それよりもその多様性と柔軟性、熱心さには目を見張るものがありました。なんだかゼロからやり直したい、と思いました。日々の歩みを大切にしたいと改めて思います。(東北・女性)

--- それに致しましても、整然と、かゆい所に手が届く愛情あふれるご運営、感服、感謝の他ございませんでした。
私ども共通の信仰の師に当たります、矢内原忠雄が言っております「虐げたるものの解放、沈めるものの向上」が実を結んでいる姿を目の辺りにして、真に生きた信仰の力の威力、これを可能にしてくださる神の愛の実在を信じさせて頂きました。(関東・男性)

(ここに掲載した、今回の全国集会に関する感想は、全国集会終了後五日ほどの間に吉村孝雄宛てにメールで送られてきた個人的な感想から抜粋したものです。やや長い文には見やすくするためにタイトルを付けました。)



リストボタン聖なる霊のはたらく場
― 無教会全国集会に参加して

天よりの風
無教会(*)の全国集会が徳島で開催された。今ふりかえってみると、そこでは確かに神の言葉が語られ、神の愛と導きが語られ、さまざまの出会いが与えられた。そして会場に参加者に聖なる霊が送られてきた会だったのを感じ、深い感謝を捧げる。

*)無教会とは、江戸時代の末期に生まれた内村鑑三(一八六一~一九三〇)に始まるキリスト教信仰のあり方であり、そのあり方に共鳴して集まった人たちの集まりをもいう。それは新約聖書の福音の本質であるキリストの十字架による罪の赦しの福音を根本として、霊と真実をもって神を礼拝しよう(ヨハネ四・23)とする信仰の心である。言い換えれば、人間的な組織やいつのまにかつくられていった伝承を重要視することなく、聖書とキリストの原点に帰ろうとするあり方である。これは一つの教派というべきものでなく、真理そのものに帰ろうとする精神である。そうした原点復帰への主張は、歴史のなかで繰り返し現れてきた。旧約聖書のエレミヤなどの預言者たちもまさにそのような精神をもって神から遣わされた人であったし、主イエスご自身がそうした精神を完全に持っておられた方であった。

こうした集まりは、神の大いなる憐れみなくば、人間的な議論や自己主張の場となり、議論や知識の強い者が時間をとってしまう後味悪いものとなってしまうだろう。
今回はそのようなことはなく、静かに主の霊が、またいのちの水が流れているのを感じることのできた集会であった。
参加者や私たち受けいれる側の多くの祈りが捧げられたと思われるが、その祈りがそのようなよき賜物を受けることにつながったと感じている。
今まで私は過去四〇年間にわたって、全国集会や四国合同集会、あるいは近畿地区無教会集会など、数多くの合同の集会に参加してきたが、今回の全国集会は、それらの中でもとくに神の愛と聖なる霊のはたらきを感じることのできた集会となった。
もとより、今思えば不十分な点もあり、時間と体力的限界があって、私の知らないところでいろいろ不都合が生じたこともあるのではないかと思われる。
そうしたことはあったにしても、今回は、全体として講話や証しをする人も全体会での発言も司会者によってきちんと時間オーバーしないようになされ、参加者のほとんど全員の信仰や人柄の一端に触れることができた。
それは自分の言いたい主張を言ってすっきりしたとか、多いに議論をたたかわせて啓発された、といったのとは違ったものである。それは、目には見えない何かによって参加者がうるおされたという実感であった。それこそ、聖なる霊によるものだと感じた。
それは日本のさまざまの地から、さらに地球の裏側からの参加者もあり、その方々が祈りとともに天よりの風を運んできて下さったからでもある。
受けいれる側の祈りと合わさって、目には見えない風―聖なる霊の風が静かに吹いているのを感じさせてくれた。
ある近畿地方からの参加者が、次のように書いておられた。
「会場のどこからかイエスさまがほほえみながら見ていて下さった…そう感じました。人ではなく、神様、イエス様を讃美するこのような集会にまた参加したいです。」
このように、主イエスのまなざしと微笑みが感じられた集会であったとすれば、それはひとえに神の愛ゆえの恵みであった。
私たちに注がれる太陽が欠けたところ多いものにも小さな者にも大きなものにも同様にその豊かな光を注いでいるように、神がこのたびの全国集会にその慈愛の雨を降らせて下さったのだと思われる。

今回の全国集会は、五月十日(土)午前十時~十一日(日)の午後五時までであった。二日目の日曜日の早朝六時三十分から三十分間の早朝祈祷会もあった。今回の参加者は二百十七名であり、遠い北海道からは四名、台湾に近い西表島を含め沖縄県から七名、さらに太平洋を越えてアメリカ・ニューヨークからの参加者もあった。
その他岩手、宮城、山形などの遠方からの参加もあり、そのような遠隔地からの参加の方々を見るにつけても、そんな遠くからこの四国・徳島にまで引き寄せられる神の不思議な御手のはたらきを感じずにはいられなかった。
また土曜、日曜の二日間では開会や閉会までの全体プログラムに参加できないから、前日の金曜日から徳島に来て、さらに全国集会終了後も一泊余分に宿泊して全日程を参加された方々も多く、そのようにして、金曜日から月曜日までの四日間もそのために費やされた方々もかなりあった。
また、開会前夜の九日(金)の夜には六〇名を越える参加者によっての交流会があり、さらに全国集会終了後の十一日(日)の夜にも徳島聖書キリスト集会の集会場において交流会(参加者約三〇名)が行われたから今までの全国集会のなかでは、最も参加者との交わりの時間が多くとることができた集会となった。
こうした多様なプログラムにおいて、ふつうの会社や勤務先での会食とか交流とはまったく異なる雰囲気を感じた。
それは私に寄せられてきた個人的感想など(別稿のメールでの感想文を参照)からも感じられる。
たしかに、主は活き活きとしたその見えない霊をおくって下さった。それは驚くべき「風」であった。風は思いのままに吹く、と主イエスは言われた。
たしかにかつて私自身の魂に吹き込んできた霊的な風は、ある時突然吹いてきたものであり、誰一人予想もしなかったことである。
まさに神の思いのままに吹いてきたのであり、それによって私は天の国の消息を初めて知ることになったのであった。
しかし、他方、天よりの風は、人間の側の真実な祈りによっても吹いてくる。じっさい初めてキリスト教がその世界に向かっての伝道をはじめるときには、主イエスご自身が「祈って約束のもの(聖霊)を待て」と命じられたのであり、そのみ言葉に従って人々が集まり日々祈りをもって待ち続けていたとき、時が来て大いなる天来の風―聖なる霊の風が吹いてきたのである。

テーマについて
今回の全国集会ではテーマを何にするかについては、はやくから考えていた。それは今年は徳島が四国集会の担当であったからで、そのため、まだ今年の全国集会のことは何も聞いていないときから、テーマを何にするかと考えていた。それで、去年五月に高知での四国集会が終わってすぐにテーマについて私たちのキリスト集会の方々の意見を聞くため、ほぼ全員からアンケートをとった。そして最も多い内容を中心としつつ、ほかのテーマについてもそれらをできるだけ含むようなものとして今回の「神の愛とその導き」というテーマとなった。
このテーマはたしかに誰にとっても切実な問題である。世の中の数々の問題はみんな、神の愛と導きを受けていないから生じていると言えるからである。
愛なくば、白熱した議論も「騒がしいシンバルの音」にすぎない。(Ⅰコリント十三・1
また、グループ別集会(分科会)にどんなグループを作るか、それをどのようにして二時間を用いるか、ということも、集会の人たちに意見を出してもらい、さらに文章にも書いてもらってその希望の多いものを採用した。 今回初めて、キリスト教信仰をもっていないとか、基礎的なことを知りたい、聖書の疑問などを出してもらうグループをつくったのも、その際に出されたことだからであった。
今回の全国集会でまず重要と考えたのは、人間の頭で考えた研究や調べたことの発表などでなく、一人一人が神に聞いたゆえのメッセージであり、神によって動かされたという確信が語られるように、ということであった。 そして、だれにでもわかる内容、初めての人、いま苦しんでいる人、闇にある人が励まされるような講話、証し、あるいは交わりを…ということであった。
これは、主イエスがそのような人々を第一に重視されたゆえに、そのイエスのご意志に沿ったものとなる必要があるので、そのことに従ったのであった。
それは主イエス中心であり、神のお心を少しでも表したいとしてなされたことであり、神のわざ中心ということである。ふつうの庶民に分からないような論理的あるいは知的な研究や議論など、それは知的にすぐれた人だけを相手にしようとしているという点で人間的である。
そのような人間的なものを前面に持ってくることでは、人は救われないし、苦しみに置かれた人たちには何の喜びもない。
それから、全国集会というのは、全国のキリスト集会の代表者の会でなく、すべてに呼びかける集会であるから、当然初めての人、まだ信仰がよく分からない人も含まれるのであって、その人たちへの伝道的視点も含まれていなければならない。また何十年の信仰の歩みがあっても揺らいでいる人、固まってきている人もいろいろとある。離れていこうとする人もいる。それゆえ、多様なキリスト者に呼びかける集会では、大学でなされるような研究の発表でなく、神からのメッセージがわかりやすい言葉で語られねばならない。

キリスト中心のわかりやすい内容 今回の全国集会は、主イエスを中心とすることを明確にした。それは主イエスがとくに心を注がれた、弱い立場の者、ごくふつうのどこにでもいる人たちを対象として語られ、証しされるようにということである。
今回の全国集会に関して、県外からのある参加者が、次のように書いておられた。
「今までむつかしいご講義を聞いて、わからないことが多く、自分の不信仰、不勉強のためと思わされてきた。今回やさしく心にしみる聖書でした。」
このような難解な「講義」によっては、今、心の重荷に苦しむ人、また現代の若い世代の人たちの心にも届くことは難しい。それは知的な頭の中だけの理解に終わって、燃えようとする霊的な火を消してしまうものとなってしまうことすら多いであろう。
そもそも、日曜日ごとに語られる聖書からのメッセージは「講義」といった用語はふさわしくない。これは大学のような場でしか使われないからである。主イエスは「講義」というようなスタイルで語られたであろうか。否、であることはすぐに分かる。
だれでもが使っているわかりやすい言葉で、今苦しむ人たちへの喜びのおとずれとなるメッセージであり、通行人にも無学な人にも分かるような表現でしかも無限に深い意味をたたえ、それを神の力をもって語られた。み言葉を語る立場の者はだれでもこうしたことを常にあるべき姿として見つめていたいと思う。

弱さのなかに
今回の全国集会で多くの人たちに証しをしていただいた。そのうち、何人かの重い障害を持った方、聴覚や視覚の障害を持った方々にもキリストがいかに働いて下さったかという証言をしていただいた。
今回の全国集会では、全身の障害のために人工呼吸器を装着し、日々寝たきりの方、そしてもう一人は歩行器につかまるようにすればなんとか歩けるが、ふだんはベッドに寝たきりという二人の方の参加があった。
また、視覚障害者は九名(ち全盲五名、弱視四名)また、聴覚障害者は三名(ろう者一人、中途失聴二名)
そして知的障害者は五名で、合計十九名の障害者の方々が参加していた。
さらに、今回はガンの末期で、胸に水がたまって苦しい状況になっている方も遠いところから参加いただいた。
そして、そのような弱さの中にキリストの力は働いたのを私たちは実感させられたのである。「わたし(キリスト)の力は弱いところに完全にあらわれる。」 (Ⅱコリント十二・9
今回の全国集会で聖霊を招き寄せるようなはたらきを、そうした方々がとくにして下さったのを感じる。
そのような弱い立場の方々、病気や障害の苦しみにあっても主の愛に生かされ、支えられ、導かれてきたことは、わずかな言葉を聞くだけ、いや彼らのすがたに接するだけでも、私たちはそこに神の深い愛と導きを実感させていただけるのである。そこには何等の学問やむつかしい表現も不要である。
その方々のなかでも、とくに苦しみや涙を伴う生活を送った方々も多いと思われるが、そこから深められた信仰、そこから滴り落ちるしずくを受けるだけで、接する者にはふしぎな励ましや慰めを受けることができる。それこそが、聖なる霊のはたらきであり、神の愛を実感させてくれるものなのである。

一人一人の発言の重要性
今回は二〇〇人を越えるような多くの人たちが、だれもが何かを発言し、何かを主にあって表すということを考えた。それは神は一人一人を大切にされるゆえに、その神の心を少しでも反映させたいと願ったからであった。
そのような多くの人たちが一人一分語っても、二〇〇分すなわち三時間以上もかかるのであるから、時間配分を厳密にしなければ、とうてい決められた時間には終わることができない。一人二〇秒余分に語っても、二〇〇人ともなれば、一時間以上も余分にかかってしまう。三〇秒という短時間でも、その人の心に一番あることは語れる。祈りをもって語れば、ひと言でも心に何かが残る。
全員による自己紹介はそのように時間をきちんと守ってなされ、司会者の適切なやり方によって予定の二時間という枠内に収まり、短時間ではあるがどんな人たちが参加しているのか、主はどのような人たちを集められたかをじっさいに見ることになった。

讃美のこころ
讃美のうち、コーラスについては、日曜日の礼拝に参加する人はいつも参加するとは限らないために、全員が練習する時間をとることがなかなか難しいことであったし、まったくの素人ばかりであるからコーラスの練習も難しいことであったが、よく担当者がそのために労力を費やして県外の人たちもともに祈りをこめて讃美することができた。
全国集会における、コーラスやほかの讃美の時、それは音楽会ではない。それは祈りなのである。あくまで信仰のため、聖なる霊を呼び起こし、神の国からの風を集会の場に吹きいれていただくためのものである。
それゆえに、どれだけ上手に歌えたか、でなく、どれほど祈りをもってその歌詞を心から自分の信仰の心として歌ったか、が第一に重要となってくる。
いくら上手に歌ったとしても、その歌い手の心のなかにひそかな誇りがあれば神はそうした不純なものを見抜き、そこには祝福を与えないであろう。そうした祈りなき歌は単に楽しませるためにはよくとも、聖なる霊を呼び覚ますことはできない。そして聖霊の働かないところでは、本当に魂を揺り動かすことにはならないのである。祈りあるところには神が働いて下さり、たとい歌唱力が貧弱であっても、相手の魂に届く何かを神がなされるのである。
旧約聖書の詩編とはまさに讃美集である。それは、上手に歌え、などという指示はまったくない。あるのは、主に向かって歌おう、であり、感謝と喜びをもって歌おうということなのである。主に向かって歌うとはすなわち祈りなのである。
主イエスは言われた、「神殿とは祈りの家であるべきだ」と。(マタイ福音書二一・13
神殿とは神がそこにおられると信じられたところである。全国集会の場も神がおられるところであり、ひとつの「神殿」であった。
それゆえそこでなされることはすべて祈りを伴うのでなければならない。単に楽しませるための音楽(*)などはキリスト教の集会では無縁のことなのである。

*)この点で、昨年の青山学院大の礼拝堂での全国集会で夜のプログラムでのオペラ歌手の歌は、祈りとは何の関係もない、まったくこの世の歌であって、本来あのような聖なる場でなされるべきものではなかった。

キリスト者がその集会でなす讃美は、コーラスであれ、手話讃美や全体讃美であれ、歌や演奏は主に向かって讃美、演奏し、それによって聞くものも皆が、神へのまなざしをもつようにという願いをもってなされるべきであり、そうして初めて御国からのいのちの水が参加者の魂に、その讃美、演奏とともに流れてくるのである。

キリストの証しをする重要性
証し、これはキリスト教伝道の出発点にあったことである。キリストの福音を伝えること、それはイエスの教えを聞いたからではなかった。イエスの教えがよい教えだから、それを伝えようなどという気持で全世界に伝わったのではないというのは意外に思われる。しかし、三年間もイエスのよい教えを聞いていた弟子たちは、いよいよイエスが捕らえられていくときみんな逃げてしまったし、筆頭弟子というべきペテロは三度も激しくイエスなど知らないと否認した。それは三年間、あらゆるイエスの教えを聞いて、奇跡をも数々見てきた人間が単なる教えを聞いたから伝えるなどということには到底ならないということを示すものとなった。
それどころかイエスの死が近づいたときに、十字架で殺される、そして三日目に復活すると予告されたとき、弟子たちはみんなそれを理解せず、ペテロはイエスを諌めようとしたほどだった。
こうした状況を見てもわかるように、単なるイエスの教えを聞いたから世界に伝道をはじめたということでは全くないのである。
そうした教えや奇跡を見たり、イエスの命がけの熱心に触れていてもなお、弟子たちは福音を伝えるという力を受けることはなかった。
彼らが根本から変えられたのは、そうした教えとか命がけの模範を見るとか、奇跡を見るといったことでなく、復活のキリストに出会い、そのキリストと同じ本質である聖霊を受けて初めて福音を伝える力が与えられたのである。彼らの宣教はきわめて単純であった。

「神はイエスを復活させられた。私たちは皆、そのことの証人だ。イエスはたしかに復活したのだ」(使徒言行録二・32)ということが、命がけの伝道の出発点なのである。このように、みずからが魂に体験した復活のキリストに出会うこと、聖霊を受けること、その証しこそが、伝道の根底となる。
すなわち、生きたキリストを知らされたという証しはきわめて重要なのである。使徒パウロも最初に語った伝道の言葉は、復活の主イエスに出会ったことなのであった。

…しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださった。
このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっている。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせている。つまり、神はイエスを復活させて私たち子孫のため約束を果たして下さった。」(使徒十三・3033より)

このように聖書に即してみるなら、復活のキリストに出会ったことを確信をもって証しすることは、福音伝道の根底にあることだとわかる。それは議論でなく、研究でもない。他人の本の解説でもない。自らの魂の最も深いところでの現実の出来事をそのまま語ることなのである このような考えによって、今回の全国集会でもキリストに出会った、キリストによって変えられたじっさいの証しを重視したのである。

人は計画し、神がことをなす
いかに私たちが計画しても神がそれを祝福してくださらないなら何にもならない。私たちは今後とも、主の憐れみと主のわざを待ち望み、主が闇にいる人たちにその光を届けて下さるように、聖霊の風を吹かせて下さるようにと願い、祈りを続けたいと思う。


リストボタン休憩室

○竹の成長
朝の山道でたけのこが七~八メートルに成長していたところを歩いたのですが、その若い竹の、まだ竹を包んでいる茶褐色の皮の先端から小さな水滴(*)が次々と頭上から降ってくるのに出会いました。
*) これは竹水といって、ヒスチジン、セリン、リジンといったアミノ酸を多く含んでいるとの分析がされています。

以前にも、裏山の竹林でタケノコが数メートルに成長したものからは、その竹の根本付近が水でぬれているのを時々見かけることがありましたが、細い雨のように頭上から降ってくるのに出会ったのは初めてのことです。
タケノコは、一晩で一メートルほども成長するという、植物としてはほかに類のないようなスピードで成長していくものです。その成長期の二〇日ほどはこのように根本から多くの水を吸い上げ、その余分のものが、竹から沁みだして滴となって落ちていたのです。
この驚異的な竹の成長も、一つ一つの細胞内であらたな物質が次々と合成されていくことでなされていますが、このような物質の合成は人間がする場合には、広大な敷地に巨大な工場を建て、高い温度や圧力をかけ、さまざまの薬品を反応させなければなりません。
しかし、植物の成長は一〇度や二〇度といった低い温度で、わずか一ミリの幅に数十個も並ぶような小さい細胞のなかでさまざまの物質が合成されてなされているのです。その複雑極まりない化学反応を、もし見ることができるとしたら、まさに驚異的なスピードで整然と化学反応が行われ、新たな物質が次々とつくられ、そこに根本からの水も次々と送り込まれているのが分かると思います。
竹が一日でぐんぐん成長する外見も目を見張るものがありますが、その目には見えない内部の化学反応を思い浮かべるときに、驚くべき指令が出されて人間の技術などはるかに及ばないことが行われているわけで、一本の竹から絶えず小さな水しぶきとなって落ちてくるのを見上げながら、しばし創造の神秘に感じたことでした。
人間の場合も、目には見えない霊的な祈りのなかで、闇の力との激しい戦いをなし、あるいは他者のために熱誠こもった祈りがなされ、そのゆえにあちこちであらたな人が神の愛に目覚め、神の国のために働こうとするように変化し、あるいは絶望の淵にいた人が天来の光に目覚めるという、目にみえる変化となっていくのだと考えさせられたのです。


リストボタンことば

283)もし、神がある人に対して、もはや神以外のどのような楽しみも、また、どのような利己主義もうまく行かないように仕向けるならば、それは神の「選び」と恵みとの最も確実な証拠の一つである。(ヒルティ著 幸福論第3部二三六頁)

・私たちが神から選ばれて用いられるとき、神は真実と正義の神、そして愛の神であるゆえに、このようなことが言われている。私たちがひそかな自分中心の思い、自分の栄光を求めるような心があれば、神は何か困ったこと、苦しみをもたらすようなことを起こしてそれを気付かせる。そしてただ心の深いところから神のため、真理のために行おうとするのでなければ裁かれるのだということを思い知らせようとされる。ここに、神の愛と導きがある。

285)愛の十字軍
私は何によってこの世界に救いを提供できるだろうか。剣によらず、正義の言葉によってでもない。
天国の喜びを提供して世界に救いを来らせたいのである。 すなわち、「新しい愛の駆逐力」によって、世のすべての低き卑しい思いを排除し、これに代えて天の高き心を注ぎたいのである。私は愛と喜びと希望によって世を征服したいと願う。(「聖書之研究」一九〇四年六月)

・主イエスこそ、この愛の十字軍の先頭となって歩まれた。そして今も我らの眼前にて歩まれている。私たちはこの愛の軍に入れていただいたものであるが、しばしば弱さのために脱落しそうになる。不誠実、怒りや反感、人の苦しみや悲しみへの無関心などこそ、脱落したしるしなのであるから。

286)神を感じるのは、心であって理性ではない。理性でなく、心に感じられる神。
信仰は、神の賜物である。
神を知ることから、神を愛するまでには、何と遠いへだたりがあることか!
(「パンセ」第四篇より パスカル著)

C'est le coeur qui sent Dieu et non la raison. Dieu sensible au coeur,non a la raison.
La foiest un don de Dieu.
Qu'il y a loin de la connaissance de Dieu a l'aimer !

・神は単に信じるだけでなく、実感される存在である。魂の深いところで、そのあたたかさや語りかけを感じることができるのがキリストの父なる神である。
神を哲学者的に、理性的にあるいは頭の一部で考えて存在する、と信じることと、神を愛することの間には、はるかに遠い距離がある。聖書にも、神を知っていると思っていた宗教家たちは実は神への愛とは何のかかわりもない偽預言者であるということはエレミヤ書のような預言書ではしばしば指摘されている。イエス当時の宗教家たち、そしてパウロもそうした神を愛することを知らないで、神を知っていると思い込んでいた。 私たちもうっかりしていると、頭のなかで神を知っている、信じていると思い込んでいながら、全く神を愛していないということになる。神を愛する魂のことが、最もリアルに描かれているのが旧約聖書の詩編である。



リストボタンお知らせ

○全国集会の録音CD、 録画DVD
無教会全国集会二〇〇八・徳島 は五月十日(土)~十一日(日)に行われました。その内容の録音(MP3版)、主要プログラムの録画(DVD)を現在作成中です。これには、プログラム本体の内容ほかに、前夜(会場のホテル)と全国集会終了後(徳島聖書キリスト集会場)に行われた二つの交流会の録音も含んでいます。
希望の方は、吉村まで申込んで下さい。価格は、MP3録音のCD、DVDいずれも送料共で五百円。送金は本誌巻末の郵便振替にてお願いします。

○全国集会の記録集
今月号には、全国集会の聖書講話だけを掲載しましたが、ほぼ全体の内容の記録集をそのうちに発行予定です。
録音、録画などとともにそれらが主によって用いられ、福音が伝わる一助となりますようにと願っています。

○創世記の聖書講話(MP3版)
かねてより作成をしていました創世記・聖書講話(MP3版)が完成しましたので、お知らせします。これは、吉村 孝雄による徳島聖書キリスト集会での主日礼拝の聖書講話です。六十一回の聖書講話で、約三十時間ほどの内容です。創世記は聖書の最初に置かれているために、聖書を手にとった人たちはまず創世記を開いてみるのですが、私自身の経験もそうでしたが、その内容や表現が現代の私たちの感覚と相当異なっていることもあって、違和感があり、心の深いところにスムーズに入ってくるとは言い難いことも多いのです。
そのために、創世記に含まれている深い真理も気付かずに読み過ごしてしまうということになっている場合もしばしば見られます。それでこの聖書講話CDによって、少しでも創世記が含む真理の一端に触れていただき、創世記を読む参考になればと願っています。 CD三枚。
○ヨハネ福音書CD(MP3版)も継続して販売中です。これは、CD五枚。MP3版。価格は、創世記CDと同じで、送料共で二千円です。
○瀬棚聖書集会
今年の北海道 瀬棚聖書集会のお知らせが、責任者の野中 信成さんから届けられましたので紹介しておきます。 (瀬棚地方とは、日本海側の奥尻島の対岸にある地域です。)
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第三五回 北海道瀬棚 聖書集会 主催:瀬棚三愛同志会 協賛:日本キリスト教利別教会、キリスト教独立伝道会
・テーマ「キリスト者の喜び」
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ44節)
キリスト教は「喜び」と切り離すことのできない宗教です。多くの迫害に耐え信仰が守られ広がり続けたのは、それに勝る「喜び」があったからではないでしょうか。
 今年の聖書集会はこの「喜び」について深く学びます。昨今、混迷の度を増してゆく日本の社会、一人でも多くの方が主にある喜びと平安が与えられることを願ってやみません。
今年の集会がその機会となりますようお祈りいたします。座談会では人生、社会情勢などについて話すことを通しても、おたがいに信仰を深めることが出来れば幸いです。
・開会日時…二〇〇八年七月十七日(木)20時集合
七月二〇日(日) 昼食後解散
・場所…北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館 電話 013787072 
○講師
・吉村孝雄 一九四五年生まれ。 徳島聖書キリスト集会代表。「「いのちの水」誌 主筆。
・相良展子 一九三一年生まれ。。北海道利別教会 牧師。
・会費 一般 一万五千円 学生 一万円( 宿泊費、食費、及びファームステイ費を含む)  
・申し込み、問い合わせ先
野中信成  TelFax 0137846335
049-4431 北海道久遠郡せたな町北桧山区小倉山731
Email
 nobnari.trust-farm@ninus.ocn.ne.jp
・締切630日までにお申し込みください。

○全国集会の録音を聞くために―MP3録音の再生機器
全国集会のときに実物を展示しておきましたので、一〇人近い方々から、MP3対応のCDラジカセの注文がありました。
展示してあったのは、MP3対応のCDラジカセとしては最も安価で、しかもUSBメモリも使え、操作もだれでもできるものです。(なお、カードリーダを使うとSDカードも使えます)
今までにも何度か説明してきましたが、これからの録音はカセットテープでなく、MP3という形式で行われるようになっていきますので、まだ持っておられない方はぜひこの機器を購入をされることをおすすめしたいのです。それがなかったらこの全国集会の録音CDが使えないし、今後のさまざまの録音も聞くことができないからです。
この方がカセットテープよりはるかに大量の内容がわずか一枚のCDに録音でき、しかも音質も優れています。さらに使う際にもテープよりずっと便利で、頭出しも簡単、保存もテープのようにカビが生えたり切れたりして使えなくなるということもありません。
MP3録音は、パソコンまたは、MP3対応機器で聞くことができ、DVDはDVDプレーヤ、または、パソコンで見ることができます。
MP3対応のCDラジカセは、デジタル機器、パソコンなど扱ったことのない方、高齢の方々でも簡単に使えます。今後は、MP3録音ということはごく普通になっていきつつあります。
なお、ふつうのCDラジカセは大型電器店に行けば、数十種類も展示されていますが、MP3対応のCDラジカセは置いていない店の多いのです。私が徳島県内で大きい大型電器店数店で調べたところわずかに前記のサンヨーのMP3対応のCDラジカセだけがありました。これは操作ボタンも大きくて扱いやすいので、今までには私たちの集会内外の方々にもこの製品をおすすめしています。これは近くにそのような電器店がない方、あるいは購入が難しい方のために、私がお送りすることもできます。価格が約八千円(送料当方負担)です。USB機器も接続できるので、パソコンが使える人にとってもとても有用です。問い合わせは吉村 孝雄まで。電話は、050-1376-3017です。

○六月八日(日)午後十時~十二時 神戸市兵庫区の上田宅で夢野集会。午後二時より大阪府高槻市の那須宅にて、聖書をまなぶ集会があります。問い合わせは、上田(078-531-1365)、那須(072-693-7174)または吉村まで。



リストボタン編集だより

○この編集をしているときに、中国とミャンマーに生じた大きな苦しみが報じられてきました。そして世界の各地に以前からある飢餓や貧困、あるいは内戦や迫害など、この地上の闇と苦しみにあるところに、神の愛と導きがありますよう、その御手が差し伸べられますようにと祈ります。
○今月号は、五月十日~十一日に徳島市で開催された無教会全国集会の特集号として、五人の聖書講話の本人による要約を語られた順に掲載しました。ただし、吉村孝雄のものは、実際の講話より詳しくなっています。これらの聖書講話によって、み言葉の真理の一端が読者の方々に留まり、新たな力となりますようにと願っています。全国集会関係の仕事が次々と生じて、今月は発行が遅くなりました。
○全国集会で各地からのキリスト者の方々との出会い、主にある交流は今もよき余韻を残してくれています。今後とも聖なる風が各地に吹き続けますように。



リストボタン集会案内

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47 徳島市バス東田宮下車徒歩四分。
(一)主日礼拝 毎日曜午前十時30分~
(二)夕拝 毎火曜夜七時30分から。 毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で場所が変わります。
(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅)です。
☆その他、読書会が毎月第三日曜日午後一時半より、土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、水曜日午後一時からの集会が集会場にて。
また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(毎週月曜日午後一時よりと第一、四を除く水曜日夜七時三十分よりの二回)、
海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、
徳島市国府町(毎月第一、第三木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、
板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂(綱野宅)、徳島市庄町の鈴木ハリ治療院などで行われています。
また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは次へ。


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著者・発行人 吉村孝雄 〒七七三ー〇〇一五 小松島市中田町字西山九一の一四
電話 050-1376-3017 「いのちの水」協力費 一年 五百円(但し負担随意)
郵便振替口座 〇一六三〇ー五ー五五九〇四 加入者名 徳島聖書キリスト集会
協力費は、郵便振替口座か定額小為替、または普通為替で編集者あてに送って下さい。
(これらは、いずれも郵便局で扱っています。)
徳島聖書キリスト集会