主よ、あなたの慈しみは天に、
あなたの真実は大空に満ちている。
命の泉はあなたにある。


(詩編三六・610より)

 



いのちの水20089  571号・内容・もくじ

リストボタン星を見つめる

リストボタン投げ出すこと

リストボタンみ言葉への愛  

 リストボタン小さきものへの祝福

 リストボタン人間ではなく、神から

 リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせ

 


リストボタン星を見つめる

車窓から、月や星を見つめると、地上でいくら早く走っても、月や星は私たちについてくるように見える。
遠いものほどそのように、地上の位置が次々と変わっても変化することがない。
私たちがこの世の出来事を見つめているとき、あたかも車窓から次々と風景が過ぎ行くように流れ去っていく。
しかし、神を見つめているとき、神はどこまでも私たちについてきてくださる。疲れたとき、弱さを痛切に感じるとき、あるいは悲しみのとき、また人から大きな誤解や非難を受けたとき等々…どのようなときであっても、主を見上げるときにはいつも同じように私たちを見つめて下さっている。
私たちは神に従いたいと思う。でもしばしば別の道へと迷い出る。それでもなお、神は迷い出たところから仰ぐときに、やはり同じように私たちを見つめて下さっている。

 


リストボタン投げ出すこと

去年九月十二日の安倍首相の政権の投げ出しは、国会での所信表明のわずか二日後であった。それに続いて、一年も経っていないのに、再び今度は福田首相が内閣改造して一か月でほとんど同じように投げ出した。
このようなことは、外国でも例がないのではないか。
この世は私たちの予想通り、期待通りには進まない。それは人生の長い経験ある者でもあまりの想定外の出来事に打ち倒されることがある。病気や事故、人間関係の崩壊等々、いつどこで私たちに押し迫ってくるか分からない。
それがあまりに突然であったり、失うものが大きかったりすると私たちは投げ出したくなる。仕事も人間関係も、そしてその苦しみが耐えがたいときには、自分の人生そのものも命すら投げ出したいと思うようになる。
老年になり、仕事もできず体力もなくなり、病気との戦いと孤独に悩まされるとき、投げ出せるものならすべて捨ててしまいたいと願う心情が生まれてくる。
このことは決して一部の人に生じることでなく、誰にでも、そしていつそのような気持になるかは分からないのである。
そうしたすべての投げ出したい心情の人に主イエスは言われる。

…すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。 (マタイ 十一・28

どんなに重い荷物であっても、耐えがたいものであっても主イエスに向かってそのまま投げ出すことができる。そして、私たちが投げ出したものを主イエスは常に受け取ってくださる。そして私たちに新たな力というボールを投げ返して下さるのである。

 


リストボタンみことばへの愛

聖書全体のなかで、神の言葉への愛というただ一つのテーマが長い詩句によって最も繰り返し語られ、情熱的に記されているものとして、詩編一一九はほかに類のないものであろう。
これは長大な詩であり、またヘブル語のアルファベットの頭文字の順に作られているということもあって、十分に心を入れて読まれることが少ないと思われる。しかし、私はこの詩編一一九編については、その内に込められた神の言葉へのあふれるような情熱に心を動かされてきた。
各行の詩句の最初の言葉がアルファベットの頭文字の順に書かれている。
例えば、詩編一一九編の最初の区切りである一節から八節までを見てみよう。ここでは、ヘブル語のアルファベットの最初の文字である、アレフで始まる言葉が各行の最初に置かれている。例えば、一行と二節の行の最初の言葉は、アシュレー(幸いだ)であり、三行目はアフ(強調を表す語)、四行目は、アッター(あなた)、五行目は、アハライ(ああ、間投詞)等々となっている。
このようにして、ヘブル語のアルファベットの最後の文字、タウまでずっと続けられている。
これは、単に技巧的な詩というのでなく、このように一七六節という長い節を繰り返し神の言葉を中心とした讃美や思い、感動を書き続けていけるほどに、泉のようにあふれてきた詩人の心がここに反映されているのである。
この詩でとくに私たちがあらかじめ知っておく必要があるのは、この詩篇では、この詩の中心となる言葉が、詩であるゆえに、繰り返しさまざまの言葉で表現されているということである。しかし、そのことを知っていないとき、律法、掟、戒め、諭し、教え、み言葉、仰せ、命令、定め等々と訳された言葉が一つ一つ違った意味であるかのように受け取ってしまう。そうなると、これらはどう違うのか、といったことにまどわされて、肝心の内容それ自体が不明瞭となってしまう。その結果、この長大な詩の背後にある、神によって燃やされた神の言葉への情熱的な愛、そしてそのような情熱を燃え上がらせるような神の言葉の力を見失ってしまうのである。
これらの訳語は、決して全く別のものではない。例えば次のような訳語の例を見てみればすぐにわかる。
詩編の原語であるヘブル語で、トーラーという語は、日本語の聖書では次のような訳語を使って訳されている。

・主のおきてに歩む(口語訳)
・主のみおしえによって歩む人々。 (新改訳改訂第3版)
・主の律法に歩む人(共同訳)
・主の御教えに従って歩んでいる人たち。(現代訳)
・文語訳聖書は、律法と書いて、おきて とふりがなを付けている。

詩篇の訳語にはこのように、訳によってかなり差があるが、原語は同一なのである。それゆえ、例えば、新共同訳という一つの訳をとって掟と律法、御言、、み教え、等々の言葉はどう意味が違うのか、などと考えても意味がないのであり、たんに訳者の語感や解釈の違いにすぎない。
日本語では、「掟」というと、ある部族の掟とか、何らかの特別な集団の掟といった厳しいものを連想することが多い。
しかし、「み教え」といえば、ごく普通の「教え」ということを、神の教えといったニュアンスを付けるために、「み教え」と、丁寧に言っただけで、どこにでも使われている言葉となる。
他方、「律法」という語は、ほとんどの日本人にとって、まったくなじみがなく、違和感が強く身近な言葉とは受け取れない。少し知識のある人は、律法とはユダヤ人のものだ、という既成のイメージがあって、これも私たちの身近なものでなく、まったく関係のない言葉として受け取られてしまう。
主の律法に歩む人は幸いだ、などといわれて、大多数の日本人には自分には関係のないことと思うのが自然である。訳語一つでそれを読む人の受け取り方が大きく違ってくるのである。
律法とは神の言葉であるから、新改訳や現代訳のように、「み教え」とするのもわかりやすいがそれよりも、「み言葉」あるいは「神の言葉」と言い換えて受け取るのが最もこの詩の現代に訴える意味がはっきりする。 このような理由によって、はじめにあげた、律法、定め、掟、命令、等々を詩編一一九篇を読むにあたって、「み言葉、神の言葉」と置き換えて読むとわかりやすく、身近に感じられるであろう。
この詩の冒頭において、何が人間にとって本当の幸いなのかが明確に記されている。

…いかに幸いなことか、全き道を歩み、主の律法に従って歩む人々は。
主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。

…どのようにして、若者は
歩む道を清めるべきでしょうか。
あなたのみ言葉通りに道を保つことです。

…どのような宝よりも、あなたのみ言葉に従う道を喜ぶ。
私はあなたの命令に心を砕き、あなたの道に目を注ぎます。私はあなたの掟を喜びとし、
み言葉を決して忘れません。(詩編一一九・116節から抜粋)

これらの言葉、それはすべて神の言葉こそが、人間の生活の中心にあるべきことを語っている。神の言葉によって人はさまざまの誘惑に負けないで神の道を歩んでいくことができる。
そして、神の言葉こそは、喜びの源泉であるという。
さらに、み言葉は、いのちの源であることも知っていた。

…わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。(25節)
あなたの仰せ(み言葉)はわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。(50節)

…もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。(92節)

また、神の言葉こそは、讃美の源であり、み言葉そのものがそのまま讃美になる。

…この仮の宿にあって
あなたの掟をわたしの歌とします。
主よ、夜ともなれば御名を唱え
あなたの律法を守ります。(54節)

ここでも、掟とか律法、といった固い、日本人にはなじみない言葉でなく、それを神の言葉、み言葉と置き換えて読むことで、身近なものとなる。
この詩の作者が言っているのは、私たちの日々は旅であり、仮の宿ともいえるものである。そのようななかで、それに流されず、神への心を持ち続ける魂の姿がここにある。神の言葉は讃美の源であり、夜にもみ言葉を思いだしてそれによって生きる力を得ている。ときどき詩編では、この詩のように、夜においても床のうえで神を思い、み言葉に魂が満たされる平安や喜びを歌った詩が見られる。

…ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。(詩編六三・6

電気のなかった時代の夜は長い。テレビも本もなく、仕事もできない。そのような長い夜の時間に、神との結びつきの豊かな人たちは神を思い出し、神との交流によって夜のひとときをすごしたことがうかがえる。

…苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
あなたのみ言葉は、私にとって幾千の金銀にまさるものです。(7172節)

神の言葉を学ぶことができたのは、苦しい経験を通ってであった。この世のことでも、本当に学ぶためには苦しみを経験していく必要がある。勉学、スポーツ、芸術などどんな分野にあっても、単なる楽しいという気持だけでは到底上達したり深いことは分からない。苦しみとなるほどに打ち込んではじめてより深いものが私たちの魂に刻まれる。
同様に永遠の真理に関わることも、苦しみによらねば分からないゆえに、神は私たちにさまざまの苦しみを与えられる。自分では決して選び取ることはあり得ないような苦しみ、それは病気や事故、あるいは家族の問題や職業上の耐えがたい経験などもあるだろう。
しかし、そこを通って神の言葉の深い意味とその力を学んだものは、それがほかのどんなものにも増して宝となる。
この詩の作者にとって、み言葉は力であり、命であるから、日々の生活のなかでも、それを全力で求める。

…わたしの魂はあなたの救いを求めて絶え入りそうです。
あなたの御言葉を待ち望みます。(81節)

困難の中から、ただ神のみを信じ、神の助けが必ず与えられると信じて求め続ける、そして疲れ果てるまで真剣に求めたというのがうかがえる。そうした状況において、この詩の作者はますますみ言葉の重要性が示されていく。人間の助けやお金といったものでなく、神の言葉のみを待ち望むのである。
この世のものはみんな限界がある。人間の意見や思想なども時代とともに移りすたれていく。しかし、ただ神の言葉だけは永遠である。それは神ご自身が永遠であり、その神のご意志やお心が神の言葉なのであるから。

… 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見た。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広い。(96節)

また、神の掟とか律法といった表現からは冷たい、何となく近寄りがたい堅いものを感じるが、本来の神の言葉は決してそのようなものではない。それは神ご自身が愛とゆたかさの総合されたものであり、あらゆるよきものの総体であるからだ。
愛そのものである神の言葉が単に冷たいとか威厳だけではないのは当然だということになる。
それは、私たちの魂をうるおし、何にもまさるよき味わいをもっているものでもある。

…あなたの仰せを味わえば
わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。(103節)

このような、命であり、うるわしきもの、味わい深いものであるみ言葉、それこそは私たちの前途を照らす光であり、導きだと言える。
それゆえこの詩の作者は、次のよく引用される言葉を記している。これは誰もが共感する言葉であるので、そのまま現代にあっても讃美としても歌われている。(讃美歌21・四五番)

… あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(105節)

この聖句はまた、プレイズ&ワーシップにも、讃美歌21よりも変化もあり、より長いメロディーをもった讃美の形で収録されている。
その元の讃美は、アメリカの讃美集「Praise CHORUS BOOK」の Expanded 3rd Edition 234 に収録されている。
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Thy Word
(あなたのみ言葉)

Thy word is a lamp unto my feet
And a light unto my path
Thy word is a lamp unto my feet
And a light unto my path

あなたのみ言葉は、
我が足のともしび
私の道の光

When I feel afraid
Think I've lost my way
Still You're there right beside me
Nothing will I fear
As long as You are near
Please be near me to the end

私がおそれを感じるとき
道を失ったと思うとき
そんなときでも、あなたは私のすぐ側にいて下さる
私は何ものも恐れない
あなたが近くにいてくださる限り。
どうか最後まで私と共にいて下さい。

I will not forget
Your love for me and yet
My heart forever is wandering
Jesus be my guide
Hold me to Your side
And I will love You to the end

私は忘れない
あなたの私に対する愛を。
それでもなお、私の心はいつもさまよい続けている
イエス様、私の導きとなって下さい。
私をあなたのみ側でとらえていて下さい
私はあなたをどこまでも愛します。
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このように、愛唱される讃美となってこの詩編一一九篇は今も新しく生き続けている。
私たちも、またこの長大な詩によって、み言葉への愛と、その信頼、そしてみ言葉に何よりも聞き入る姿勢へと招かれるのを感じる。
主イエスの語るみ言葉に、ほかのことよりも優先させて聞き入っていたマリアに、主イエスが次のように言われた。

… しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(ヨハネ福音書十・42

このみ言葉への全身をあげての愛は、そのまま主イエスに聞き従う心となっていく。神の言葉への愛なくば、私たちはそのうちにイエスから離れていくであろう。神の言葉への愛、それは主イエスへの愛でもある。キリストは神の言葉の完全なあらわれに他ならないからである。 その愛は、あらゆることに増して私たちを強め、またそこからすべてが開けていく扉なのである。

 


リストボタン小さきものへの祝福

この世においては、大きいものが人々の目に触れるし、大きいほど注目を浴びるという傾向が強い。例えば、先頃のオリンピックにおいても、勝利の数が大きいほど注目され、それが最大になるのは金メダルということである。同じように一生懸命に競技をしても、記録や点数が小さなものであれば、入賞もできず、メダルもとれないから全く注目されず、無視されてしまう。
そして金メダルを取るためには、国家が莫大な資金を投じて選手を養成していくから、アメリカ、ロシア、中国といった大国が当然メダルを多く取ることになる。
こうした何らかの意味で大きいものが重要視されるということは、私たちの生活の至る所で見られる。
収入も多額ほどよい、家や車も金額の大きいものがよい、成績も点数が大きいのがよい、会社も大きいのがよい、能力も大きいほどよいし、治療にいく病院も大きい病院ほど信頼できる…等々。政治においても、まず数が求められ、支持率という数が小さければ退陣することを余儀なくされる。
また数をもとに、特定の政党の都合のよいように決めていくことも多く見られる。太平洋戦争においても、国民に対して天皇が現人神であるとか、侵略戦争を聖戦であると教育の場でも徹底的に教え込んで、戦争を正しいものだという多数の人間を作り出した。太平洋戦争が始まってすぐに真珠湾攻撃で圧倒的な勝利を得て同時に南方にも進撃していったが、そのころに多数決をとっていたら、圧倒的に戦争に賛成という人たちが多くなったであろう。
このように、多数であるから正しいということは決してあてはまらない。民主主義というのは、多数決で決めていくために、多数が正しいという錯覚を起こしやすい。しかし、真実がわかっていない人たちがいくら多数いても、ごく少数の真実を知っている人たちには及ばない。真理よりも数の多いほうを重んじるなら、真理でないものを重んじることになる。
こうした民主主義的な手法の弱点をすでにプラトンは今から二千四百年ほども昔から鋭く見抜いて、彼の主著「国家」ではその問題点をかなり詳しく論じている。
多数を重んじるために、多数の機嫌をとるということが広く行われるようになる。民衆に対して「ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、尊敬するようになる」(「国家」五五八C
現代の日本の政治は一年の間に一国の首相が二度も突然に辞めるという特異な状況になっている。しかもそれはやる気がなくなったとか、選挙で負けないための方策だなどとといった理由であり、その後の処理も、ひたすら党派のかけひきや自分の政党の選挙で勝つように国民の多数を得るようになど目先の利益ばかりを考えてやっている状況である。
また、教師は、生徒に対してやはり多数の生徒の人気を得ようとして、生徒の機嫌とりのような姿勢が多くなっている。このことについても、プラトンは次のように書いている。
「…このような状態の中では、先生は生徒を恐れて機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。
一般に、若者は年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者を真似て機智や冗談でいっぱいの人間になる。」(同五六三A

数が多いほどよい、という考え方は、子供から大人まで、ごく普通に見られることである。
それゆえ、小さきものに深い意味があるとか特別な祝福がある、などといったことは考えることもしない傾向がある。
こうした一般的な見方に対して、聖書は全く異なる見方をしている。
聖書には、最初から大きいものほどよい、といった考え方は全く見られない。
聖書の最初は、闇と混沌であって、それは世界がそのようなものであるかということを暗示している。そして大切なのは大きいか小さいかの問題でなく、この世の闇の中にあって、それを越える、あるいはその闇の力に打ち勝つ力をもった光を与えられているかどうかこそが根本問題とされている。
また、もう一つの世界の創造に関する啓示は、創世記の二章にあるが、そこではこの世界は、渇ききったものであって、そこに命を与える水が流れているのであり、その水に気付いてそれを受け取るかどうかこそが根本問題であるということが暗示されている。
このように、聖書でははじめから、大きいものに執着するという人間の本性とは異なる道を指し示している。
聖書で唯一の神を信じる信仰の基本的な姿を示しているアブラハムにおいても、彼が大きいものに価値を認めたというようなことは全く記されていなくて、彼の生涯の決定的な分かれ目は、神からの語りかけを聞いてそれに従って未知の遠い地へと旅立ったということである。彼は何か大きいものにあこがれて郷里の人々や財産を捨てて出発していったのでなく、場合によっては自分の命すら危ない状況があるだろうし、途中で何が生じるかわからない、また神が示す地に到着したとしても、すでにそこには別の民族の人たちが住んでいるのであって、生きていく保証もないのである。
そうした状況を考えるとき、大きいものを目指して歩みをはじめるということとは全くことなる原理で聖書の代表的人物はその歩みを開始しているのがわかる。
このように、神に従うことが根本とされているから、そのことをはっきりさせるために、あえて少数を選ぶということも記されている。
今から三千年以上も昔、イスラエルのギデオンという指導者が、神によって呼びだされて敵との戦いにあたることになった。そのとき、三万二千人ほどの兵士がいたが、それでは多すぎるということで、その百分の一にあたる三百人ほどにまで選別したということが書いてある。
しかもその選別にあたっては、兵士をまず、恐れているものを帰らせたのち、小さな水の流れへと残りの兵士を連れて行き、そこで水を自由に飲ませた。その飲み方によって三百人ほどにまで少なくした。
およそ、戦いということにおいて、三万二千人よりも、三百人のほうがよいなどと考えるものはまずいないであろう。しかし、神はあえてそのような少ない人数にすることを命じられた。
このことは、まず数の力を求めるのでなく、まず神の力を信じることの重要性を示している。
旧約聖書の創世記に現れる最も重要な人物の一人である、ヨセフは末っ子であった上に、特別にすぐれた能力を持っていたこともあって、父親に特に愛されたが、兄弟たちから憎まれて殺されそうになり、そのあげくにエジプトへと売られていく。そしてそこでも無実の罪で牢獄に入れられたり、苦しいことが重なることもあったが、そうしたことをも忍耐と希望をもって受けいれていった。そして彼の預言的な能力が用いられて、エジプトで起きる長い飢饉を神の啓示によってあらかじめ知ることができ、それによってエジプトは飢饉に備えて国の安定を確保することができた。それゆえに、ヨセフは国王に次ぐ地位まで上がることになった。
このようなことも、もしヨセフが苦難に遭遇しなかったら自分の能力を自慢し高ぶる人間になっていたであろう。
神はそのようなヨセフを打ち砕き、小さくすることによって神の祝福が豊かに流れ込むようになさったのである。
また、やはり聖書のなかでも特に重要な人物であるダビデは、若いときからすでに並ぶものもないほどの武力を発揮して、どのような兵士も対抗できなかった敵軍の巨人ゴリアテを石投げだけで、いわば素手同然で倒したし、楽器の演奏や詩作の才能も与えられていた。そして羊飼いの少年にすぎなかったダビデは王の側近のようになり、さらに王以上の働きをするようになって民衆からも支持された。
そのように類まれな実力を発揮していくとき、王によって妬まれ、憎しみを受けて命をねらわれる。そしてダビデは砂漠地帯をあちこちと逃げていく。そうした苦しい状況において詩が作られたがそれらは貴重なものとなって伝えられた。そうした苦難の歳月ののちに、王は戦死する。そしてダビデが王となった。王となったダビデは次々と周囲の国々を平定していき、王国は広大となっていった。このように王として頂点に立ったとき、ダビデは甚だしい罪をおかすことになった。夫のある女性に心を奪われ、自分のものとしてしまった上に、その女性の夫を激しい戦いの前線に送り出して戦死するように仕向けた。
このような悪事は神によって厳しく罰せられることになり、それ以後ダビデの家庭には醜い争いや混乱が生じ、兄弟同志の憎しみから命を奪うことや、父親のダビデに向かって敵意をむきだしにして王位を奪い取り、殺そうとまでする息子まであらわれた。ダビデはその息子アブサロムから逃れようと王宮を出て砂漠地帯をさまよい苦しみの日々が続いた。
このようなこともすべてダビデの犯した重い罪のゆえであった。
こうした苦難は単なる罰だけではない。それは若くして王の側近のように取り立てられたとき、そこからの傲慢が生じないようにとの目的があった。
また王となって最も広大な領地を獲得した絶頂期にあってそこで彼は神の絶大な力、偉大さを忘れ、自分の武力や権力の大きさに魂の目がくらんだといえよう。
そのような増大していく自我、自分の力に頼ることを根底から打ち砕くために、神は厳しい罰を与えたのであって、大きくなったダビデを小さなものに過ぎないということを徹底的に思い知らせるためなのであった。
人間はだれでも何も苦しいことや悲しむべきことが起こらないときには、神の無限の大きさを忘れ、自分がひとかどの者であるかのように錯覚していく。
神は小さきものへとするために人それぞれに思いもよらないようなことを起こし、その苦しみや悲しみの中から、小さくしていかれる。そして自分というものがいかに小さきものであるかを、思い知ったときに初めて神からの祝福が豊かに受け取れるようになる。
 旧約聖書においてとくに重要な内容を持っている詩編においても、困難や苦難における圧迫された状況から、みずからが砕かれ、小さくされ、そこから神への叫びをあげ、神との深いつながりを持つようになっていく例が多く記されている。

主よ、あなたを呼び求めます。
わたしの岩よ
わたしに対して沈黙しないでください。
あなたが黙しておられるなら
わたしは墓に下る者とされてしまいます。
嘆き祈るわたしの声を聞いてください。
至聖所
*に向かって手を上げ
あなたに救いを求めて叫びます。(詩編二八・1~2)

*)至聖所とは、神の最も重要な言葉(十戒)を記した板を納めていた可動式の幕屋。(一種のテント)

 ここには、もし神が自分に答えて下さらないなら、滅んでしまう、という追い詰められた心がはっきりと感じられる。自分はもはや何ものでもない。ただ神の答えを待ち望むだけだという気持がある。
 このような魂の状態こそ、小さくされた姿である。そして神を全面的に信頼し、ただ神だけをまっすぐに見つめるというその姿勢は、主イエスが言われたような「幼な子」のような心である。
 神を讃美し、神に心からの感謝を捧げるという心は、自分が大きいのだ、といった感覚を持っている人には到底できないことである。それゆえに、そのような魂は神というどこにいるのか分からないような存在でなく、自分を讃美しようとする。そして周囲の人たちが自分に何かをしてくれても、それが当然だと考える。
 キリスト教世界は、この二千年の間に無数の賛美歌、聖歌を生み出してきたが、それは神の前に自らがいかに小さいかを知らされた魂からの叫びであり、また感謝なのである。 
主イエスの教えとして最も広く知られている次の言葉もまさにこうした小さくされることのなかにある祝福を指し示すものである。

…ああ、幸いだ、悲しむ者たちは。彼らは(神によって)慰められるからである。
ああ、幸いだ、心貧しき者たちは。天の国は彼らのものだからである。(マタイ五・34

私たちが深い悲しみや苦しみに追い詰められたとき、自分の小さいことを思い知らされる。心貧しいとは、自分のなかに誇るべきもの、頼るものが何もないと深く知らされた心を言う。
また、次の言葉は、一見柔和な人が土地を受け継いでいくという意味に受け取られる。

柔和な者は幸いだ、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ五・5

 しかし、この聖句は、旧約聖書の詩編三七編十一節の引用である。そこでは、

貧しい人は、地を継ぐ。
(詩編三七・11

であって、これが本来の意味である。
*
 貧しく圧迫されているような人がかえって、神の約束の地を与えられるようになるという驚くべき神のなさり方がここには記されている。
 日本語においては、「柔和な人」というのと、「貧しい、あるいは圧迫された、しいたげられた人たち」というのとは全く意味が異なる。柔和な人、というと一般的には、やさしい、物柔らかな態度を連想するのであって、貧しいとか落胆しているとか苦しんでいるといったニュアンスは全くないからである。
 この詩編の言葉のすぐ前には、

「主に望みを置く人は、地を継ぐ。主に逆らう者は消え去る。」(詩編三七・9~10)

とあるので、「貧しい人が地を継ぐ」ということも、よく似た意味を表現を変えて言っているのだとわかる。

*)この「貧しい人」と訳された原語(ヘブル語)は、「圧迫された、曲げられた」といった意味を持つので、ドイツの注解シリーズとして有名なATDは、これを die Gebeugten (曲げられた人たち、というのが原意、意気消沈した人たち)と訳しているし、英語訳にも、the oppressed(圧迫された、しいたげられた人たち)と訳されたり(NET)、Oppressed people とも訳しているのがある。(GWN

 このように、主イエスの教えとして、最も広く知られている「幸い」についての教えは、その中心に「心の貧しい者、悲しむ者、圧迫された者たち」といった者へのメッセージが込められているのがわかる。
 このような人たちは、自分自身の小さきことを深く知らされている魂の人たちである。こうして新約聖書の最初の書であるマタイ福音書では、山上の教えのなかで、小さき者たちが受ける祝福をそのはじめに置いていると言えよう。こうした配置も、聖霊が導いてなされたゆえであろう。
それに対して旧約聖書ではどうであろうか。
旧約においては、まず人間の基本的なあり方として、神に聞く、そして従うことが一貫して述べられている。すでにあげた信仰の父とも言われるアブラハムの生涯の記述は、彼が神の声に聞いて従うところから始まっている。
 そして、アダムとエバが理想的なよき場所から追放されたのも、闇のなかの光のように、神によって完全に備えられたエデンの園にあって、神の言葉に聴こうとしなかったからである。ノアのはこ舟の記事も、また神に聴いて従った人と、聴こうとしなかった人たちが受ける運命が共に対照的に描かれている。
 従おうとしないということは、神などいないとみなすか、自分は神の罰や裁きなどないし、また神からの罰などなんでもないとみなすほど自分というものを大きく見ているということである。
 旧約聖書の預言者たちも、つねに神に聞くこと、従うことを語り続けてきた。
それは神にすべてを委ねることができるほどに、小さな者となれ、幼な子のように神をまっすぐに見つめよということであった。
神に聞け、という単純なことをもとにして、旧約聖書は書かれているといえるほどである。神の前にその正義の力を畏れないほどに自分を大きいものとみなしてはいけないということなのである。
 新約聖書において、主イエスはすでに述べたように、心貧しき者、悲しむ者、圧迫された者をとくに配慮された。それはそのような状態に置かれたものはおのずから小さきものとなっているからである。
 キリストがとくに心を注がれたのは、すでに述べてきたようなさまざまの意味において小さくされた人たちであった。
 当時の世界で、生まれつき目が見えないとか、ハンセン病、あるいは足が立たない、耳が聞こえないがゆえに言葉もわからず、言葉を発することもできないような人たちは、周囲からの差別によって圧迫され、貧しく、また深い悲しみにある人たちであっただろう。福音書でも主イエスがまずそのように小さくされた人たちのところに出かけ、あるいはそのような人たちの必死の叫びを受けいれられたのであった。
 そして、実際に幼な子を側に呼び寄せて言われたことがある。

…すると、イエスは幼な子(*)を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。…
 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
(人の子は、失われたものを救うために来た。)(**
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 (マタイ福音書十八・2~10より)

*)幼な子と訳された原語(ギリシャ語)は、パイディオンで、この語は、乳児のような幼な子、あるいは一般的な子どもをも意味する。例えば、新共同訳ではこの言葉を「子供」と訳しているが、イエスの誕生のときに東の博士たちが会いに来たイエスについては、「幼な子」と訳している。ヘブル書では生まれて三カ月の乳児であったモーセについても使われている。(ヘブル書十一・23
**)この節は、四世紀ごろのシナイ写本やバチカン写本にはない。しかし、その後六世紀の写本などには含まれているので、カッコを付けたり、新共同訳ではこの福音書の巻末に付加しているが、古くからこの節も伝えられてきた。

 
 この箇所は、小さき者への主イエスの特別な関心を示すところである。このような小さきものへの深い関心は、深い英知を持っていたはずのギリシャ哲学の代表者ともいうべきプラトンの著作にも見られないことである。
自分を低くするとは、自分の罪を知るということである。そこからすべてが出発する。たしかに自分がいかに弱く、正しい道を歩けない小さな存在なのかを知らないなら、神に助けを求めることもしないし、救い主など不要と感じるだろう。
また、能力もなく仕事もできないような人、それは幼児はまさにそのようなものであるが、大人であっても、病気等のゆえにそのような状態にある人も多い。この世ではそのような人を軽視し、見下すことになる。しかし、そのような小さき人をも、主が愛されているのだ、主によって深い意味をもって存在しているのだと受けいれるときには、イエスをも受けいれることにつながっているという。
大きなもの、地位や名声、あるいは芸術、スポーツなどで有名な人は、多くの人たちが受けいれる。それゆえにオリンピックのような競技は世界中が注目する。しかし、小さきものを受けいれるということは、神と結びついていなければ難しい。
小さきものには、特別に神と近い天使がついているという。この世では人から無視され、捨てられることが多いが、神は決して見捨てないで、かえってそのような特別な天使がいると言われている。
幼な子のような者にならなければ、天国に入れないという。天国とは、ほかの福音書では神の国と記されていることで、本来の意味は神の王としての支配というものである。その神の支配が及んでいる領域も意味するようになって、死後の霊的な世界も含むことにもなっている。
幼な子のような心、それは幼稚な心というのではなく、幼な子が、母親に心から信頼するように全面的に神に信頼するということである。そしてそれは、主イエスが山上の教えで話された、「心の貧しい者」でもある。
新約聖書でよく知られた放蕩息子のたとえがある。父が生きているうちから、自分がもらうことになっている財産の分け前をもらって仕事もせずに遠いところに出かけ、遊び暮らしていよいよ生きられなくなったとき、ようやく自分の罪に気付いて、父のもとに帰ろうと決心した息子のたとえである。
ここには、自分がどんなに遊んでも義務を果たさなくとも、罰を受けることもない、と、神の裁きなど全く気にも留めない態度があった。しかしそうしたいわば大きな態度が、根本から砕かれる必要があった。その息子は、自分の罪に気付いてから、「もう息子と呼ばれる資格はない。使用人の一人にして欲しい」という気持になった。
これは、自分が小さなものに過ぎないということに初めて気づいた、そのような意識へと変えられたということである。
そのように変えられたとき、父親は遠くから走り寄り、抱きしめ、今までにしたことのないような最大限の歓迎をしたと記されている。それは、いかに、そうした小さきものへと変えられた魂を神が愛しておられるかということを表している。
しかし、それまでずっとまじめに働いてきた兄のほうは、そのような遊び暮らしてきた弟が帰って来て、父親が高価な子牛をも調理して食べさせたりするのを見て、なぜそんなことをするのか、自分はずっと長い間、父親に従って働いてきたのに何一つそのようなものはくれなかったではないかと、父親に向かって不満を述べ立てた。
これは、自分はひとかどの者だ、自分こそ立派な者なのだ、という高ぶった意識が心の深いところにあったのを表している。このような自分が大きい者なのだという意識を持っているならば、そこには神の祝福はないということを、このたとえは示そうとしている。
この世はすべて大きいものへと向かっていこうとする。スポーツなどでも大記録を立てる、大きな会社を目指す、目ざましい業績をあげようとする、より収入の大きい方へ等々である。そしてこのような傾向は、子供から大人まで、ありとあらゆる人間の本性に深く刻まれている。
そうした根深い性質にまっこうから反対のあり方を聖書は指し示しているのがわかる。
このような小さきものへの重視と聖書で最も重要としている愛とはどのような関わりがあるだろうか。
私たちが自分は大きい者である、と思い込んでいるとき、それは罪を知らない姿である。自分がいかに正しい道や、真実な愛の実行が困難であるかを思い知らされたとき、また病気の苦しさや人間関係の解決がいかに困難であるかを知らされた者は、自分がほんとうに小さな存在であることを知らされる。
今の存在そのものも、数年あるいは数十年のちには必ず朽ち果てて病気となり死んでいく。そのことを考えただけでも実に小さなはかない存在である。
こうしたことを静かに思うとき、キリスト教の内容とか関係なく、理性的に考えても、自分が小さいものだと実感することこそ、ごく当たり前のことだと知らされる。その当たり前のことを深く知ることからあらゆるよきものへと通じる道が開けていく。聖書はそのことを詳しくさまざまの方面から記している書物だといえよう。
人間はどんなに大きいように見えても実に取るに足りない。それは死が近づくとだれもが思い知らされることである。学者も、天才もあるいはマスコミをにぎわしたような芸能人でも、老年となり、病気になり、死が近づくとき実に小さきものとなっていく。
そのような小さい存在になるとき、周囲の人間は多くが関心を持たなくなる。
しかし、神はいっそう心に留めてくださることを信じることができる。

キリスト教の中心となる真理は、十字架の死によって私たちの罪が赦されたということと、復活ということである。それらをもとにしての再臨ということである。
これらはみな、人間は無に等しいような小さき存在であるが、それを神の前で大きい存在として下さるための道であると知らされる。罪赦され、清められて私たちは日々新たにしていただき、最終的には、復活を与えられ、主イエスの栄光と同じ姿にまで変えられるという。主イエスの栄光とは神の栄光であり、それ以上に大きなことはない。それは、信じがたいほどの大いなることである。
それほどの大きなことを、ただ、自分の罪を知り、小ささを知り、そして十字架を仰ぐ、それだけで神はわたしたちに与えて下さる。そのためにはただ、神を見あげる心だけあればよい。
この世で大きい者(業績をあげるとか、有名になったり多方面で活躍する等々)になるためには、生まれつきの健康や能力、あるいは周囲の援助、金など、さらには運といったようなものまで実にさまざまのものが必要であり、ごく一部のものしかできない。
しかし、聖書に記されているような意味での、大きくされることは、だれにでも開かれた道であり、永遠に祝福される道なのである。

 


リストボタン人間ではなく、神から

イエスが当時の宗教的政治的な中心の場であった神殿で、人々に福音を教えていたとき、当時の宗教や政治などの指導者たちが、何の権威でそのようなことを教えているのか、と問いただした。人間が権威を与えるのだと、とそのような指導者たちは考えていた。
しかし、一般の人々のほうがかえって神からきている権威に敏感であった。主イエスのさきがけとして来た洗礼のヨハネについて、多くの民衆はその力は神から来ていると直感していた。
しかし、指導者たちはそうではなかった。
神からのものであるかどうかは、学者だから地位が高いからといって分からないのである。幼な子のようにまっすぐに神を見つめるまなざしこそが、そのような根源をかえって見抜くことができる。
現在でも、このイエスが持っている権威(力、支配力)が神から来ていると信じる人は日本ではきわめて少ない。アメリカやヨーロッパ、あるいは南北アメリカ大陸など多くの国々では、一応イエスの権威は神から来ていると信じる人が圧倒的に多いといえるだろう。
イエスを神の子と信じるのは、イエスが神と同質であるということを信じるのであり、イエスの力のすべてが神から来ていると信じることと同じである。キリスト者とはまさにイエスの存在のすべてが神から来ていると信じているのであり、そのように実感している人たちのことである。
この権威と訳された原語は、エクスーシアというが、これは権威だけでなく、力、支配、何かを自由に扱う力などをも意味する。
人間の指導者たちは、いつも民衆の上に立って支配しているゆえに、支配の力が自分たちにあるという観念で固まっていくことが多い。現代の政治家などもほとんどがそのような状態である。
私たちが与えられているものは、人間が与えようとして与えられたのでなく、その背後に神がおられ、神がその人間を通して与えられるのにすぎないのであるが、神を見ようとしないし、神の存在が分からないのである。
これはイエスが神からの権威とか力を与えられているかどうかという問題だけでなく、私たちの日々の生活においても、さまざまのことを人間がしているのだ、と考えるところから大きな間違いが生じてくる。例えば、健康は自分の努力で保っているということではない。その努力そのものも神が与えたものであるし、この体の目や手足、内臓など一つ一つの部分はみなだれかが与えようとして生み出すことはできないのである。
神は完全な善きお方であり、愛と真実に満ちておられるのであるから、その神から与えられるものはそのような本質を持っているといえる。いかに不快なようなものでもそれは究極的には善きものへと結びつくように創造され、私たちに与えられていると受け取ることができる。
例えば、いろいろな病気も私たちにとってはときには耐えがたいものであって、苦しい病気になりたい人など皆無であろう。しかし、そうしたさまざまの病気や苦しみがなかったら、私たちは実に浅い考えや感受性の人間でしかないこともまた確かである。
私たちのキリスト集会には事故や誤診によって、自分で起き上がることもできなくなるという、重い障害を受けた方々がいる。それは自分ではいかなることがあっても選びとるということはあり得ないような生涯にわたる苦しみである。
しかし、それによってTさんの奥さんが信仰を与えられ、また家庭での集会によっていろいろな人が学び、導かれる場となり、Kさんも信仰が与えられ、介助の仕事をしているSさんにも信仰が伝わり、また讃美のパソコン用のデータが次々と作成されて、多数の人たちによって使われている。そしてそこでも、集会がなされるようになった。
いかに私たちにとって重い荷物、苦しいことであっても、神はそれらを用いて善きことへと導かれる。神は与える神であり、しかも必ず善きことに結びつくことを与えようとされるお方である。
このことから、私たちもいろいろな出来事を単に無関係と思わず、それを通して何かを与えようとしておられる神を思い、目を覚ましてその与えようとして備えておられるものを見つめ、受け取ることが期待されている。
また、周囲の自然のさまざまの変化や美についても同様である。一枚の葉に見られる葉脈一つとっても、そこに水や養分を行き渡らせようとする御計画が感じられる。自然にそのようになった、とだけしか考えない人が多い。しかし、その自然になる、ということは、神を信じるならば、神がなさっているということになるのであって、単なる偶然というものはなくなる。
私たちのまわりの自然の世界は、私たちの衣食住の生活を支えているだけでなく、精神的な意味においても、深く関わっている。主イエスも、野の花、空の鳥を見よ、と言われたのは、そうした人間と一見無関係にいきているように見えるものも、霊の目が開かれるときには、人間に深い意味を語りかける存在として与えられたものと受け取ることができるということである。

 


リストボタンことば

294)福音を説くべし

世に惨事多きや、福音を説くべし。
世に罪悪多きや、福音を説くべし。
国を救わんと欲するや、福音を説くべし。
社会を改良せんと欲するや、福音を説くべし。
福音は世を救うための神の能なり。
福音によりて救われずして国も人もいまだ救われざるなり。
福音によらざる救済ほすべて偽りの救済なり。
(「「聖書之研究」内村鑑三著 一九〇二年十二月号」)

・救いとは人間の心の根源の問題を解決することである。そしてそれは確かにキリストの福音によって解決される。どんなひどい状態の人でも、ひとたびキリストの福音を受けいれることで新たにされる。それこそ救いである。 キリストが私たちの魂の病根である罪を除くために十字架にかかって死んで下さった、と信じて十字架のキリストを見つめるだけで根本問題の解決となる。
一人の人間のこうした解決によって周囲の人間社会にもそれが及ぶ。
複雑な神学的な議論とか多方面の聖書関係の知識、あるいは政治社会的な問題そのものをいくら知っても、たった一人の魂の苦しみを救うことはできない。それは二〇〇〇年伝えられてきた単純な福音そのものが救うのである。私たちの最大の願いは、この福音が伝わるようにということであり、人間の根本問題は必ずこの福音によって解決されるという確信にもとづいて伝えることなのである。
そのために、福音のための働き人が起こされるように、との強い願いがある。

295)何かにつけて、怒ることがある限り、まだ自分を支配しているのではない。
どのような悪に対しても、静かな抵抗が最もよく勝利をおさめるものである。
(「眠られぬ夜のために 第一部」九月二十一日)

Solange man sich noch uber etwas erzurnt, ist man seiner nicht Meister geworden.Allem Bosen gegenuber ist ruhiger Wiederstand das Siegreichste.

・感情的に怒ること、それは私にも時折生じる。そしてそれは確かに自分で自分を支配できていないことを知らされる。人間的感情によっては悪の力には勝利できない。主の力によってのみ勝利できる。そして私たちが主に結びついているときには、主の平和を内に持ちつつ、神がその悪しきことに勝利して下さることを待ち望むことができる。
「静まって、神のわざを見よ、主が戦われるのを見よ」と神がモーセに言われたことが思いだされる。(出エジプト記十四・14

 


リストボタン休憩室

○アシナガバチ
私たちの集会場の庭の花壇の花と樹木にアシナガバチ(正確にはセグロアシナガバチ)がかなり大きい巣を作っています。 私が子供のときには家の軒下などに必ず毎年複数の巣を見かけたもので、山にあるわが家の周囲にはいつもアシナガバチが飛んでいるのを見かけたものです。
しかし、三〇年ほども昔に、保健所が松くい虫防除と称して大量のスミチオンという薬剤をヘリコプターで何年もにわたって空中散布してからは姿を消してしまったのです。
私たちの集会場は市街地にあるにもかかわらず、庭には花壇や樹木が若干残っているためか、セミも多いのです。ハチと見れば、駆除するとしか考えない人たちがこの頃は増えてしまったようです。たまに誰かが刺されるとたちまち殺虫剤でハチの巣からハチたちを追いだし、滅ぼしてしまうのです。
しかし、攻撃的なスズメバチなら仕方ないとしても、アシナガバチの巣はぜひそのままにして見守ってやるのが正しいと思います。アシナガバチに関しては、私は子供のときからたくさん家のまわりにいたし、また、さまざまのハチをとらえて観察や収集したことがあるために、その習性をよく知っていますが、特別にアシナガバチに向かって危害を加えようとしない限りまず、人間に向かって攻撃などしてこないものです。
そしてこのハチは花の受粉をするだけでなく、ケムシ、青虫などをとらえて食べるので益虫とされているのです。
寒くなるとほかのハチは死んでしまい、巣も日光や風雨によって朽ち果ててなくなります。女王バチ一匹だけが生き残り、寒い冬をかろうじて生き残り、翌年の春になると一匹で巣を造りはじめて増えていきます。 巣の材料は木などを削って唾液とまぜてかなり丈夫なものとなっています。ハチという動物を観察するのには好材料です。
子供たちに対しても、英語とか算数などを単に点数をあげるためにやらせるより、このような生きた昆虫や植物などの生き方を見つめることのほうがずっとよいことです。
私たちも、そうした生き物の、その驚ろきに満ちた生き方は、神の創造の神秘を知る一助になります。

 


リストボタンお知らせ

○「ともしび」は、徳島聖書キリスト集会の中川 春美姉が編集、発行している文集です。追加などご希望の方は、吉村(孝)まで連絡あればお送りできます。申込は「いのちの水」誌の奥付にある、電話、メールアドレス、あるいはハガキなどでお願いします。価格は一冊二〇〇円(送料共)

○祈の友・四国グループ集会は、今年は高知県での開催。九月二三日(火曜日・祝日) 会場は、高知駅前の高知パシフィックホテルで、午前十一時からの開始です。聖書講話の講師は、冨永 尚(愛媛)、吉村孝雄(徳島)です。今年は、初めて香川県の「祈の友」会員も参加予定です。これは「祈の友」会員でなくとも、だれでも自由に参加できますので、共に祈り、祈りについて学び、ともに賛美できますことを願っています。問い合わせは吉村 孝雄まで。