私は、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威をあなた方に与えた。
だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。


(ルカ福音書十・19より)



2009 10 584-内容・もくじ

リストボタン取り囲む主の愛

リストボタン山と川の流れ

リストボタン一本の杖

リストボタンお話し下さい(その2)

リストボタン叩け、そうすれば開かれる

リストボタンことば

リストボタン報告とお知らせ



リストボタン取り囲む主の愛

聖書には、神の前を歩む、ということと、神に従って行くという表現がある。多くの場合私たちは、神が先立って導いて下さるから、その後を従っていくということを思いだす。旧約聖書の出エジプト記において、雲と火の柱が、先立ってモーセや人々を導いたとあるが、これは神の臨在の象徴であり、神ご自身が彼らを導いたということである。
また、アブラハムも神からの呼びかけに従って、未知の遠い土地に親族と別れて、出発した。そして大いなる祝福を与えられていった。
新約聖書においても、主イエスは、私に従ってきなさい、と呼びかけられた。私たちは、すぐれた指導者には自然に従っていこうという気持ちになる。
しかし、悪しき指導者は、強制的に服従させる。江戸時代のような封建時代では、有無を言わさず命令に従わせた。どんなに作物が不作でも年貢を取り立て、応じないものは罰せられた。キリスト教信仰を持つことも許されず、幕府の命令には絶対服従であった。
江戸時代が終わっても、天皇というふつうの人間を神とまであがめてその天皇に従って戦争に行かされ、命を捨てるように強制させられたという歴史があった。
現代でも、子供の小さなグループや学校、会社などあらゆる組織は何らかの強制で従わせていくし、宗教も間違った宗教ほど強制と一種のおどしで従わせようとする。
このように、従うということには、なにか強制や重いものがつきまとう。
しかし、それとまったく異なる従う仕方をキリストは人間の世界に導入された。それは喜びをもって、自発的に従うということである。畑に隠された宝(福音の真理)を見付けたものは、喜びのあまり持っているものをすべて売り払ってその宝を買う、とイエスが言われたとおりである。
そのようにして、二千年の間、無数の人たちがその生涯、そしてときには命まで捨てて自発的にキリストに従っていった。
このように、従うということは極めて重要なこととして聖書で記されている。
他方で、「神の前を歩む」ということも聖書では記されている。
「あなたが私の前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、私の前を歩むなら、王座につく者はいつまでも続いていく…」(列王記上八・25
ここで、「私の前」と訳されている原語は、「私の顔」という言葉である。私たちはとても「神の顔にあって歩く」とか、「神の顔の前を歩く」などという表現はしない。しかし、旧約聖書においてこのような意外な表現があるということは、それほど神が近くにいてその御顔の前を歩むということを実感していたからであろう。
神はすぐ後ろにいて私たちを見守って下さっている。もし私たちが間違った道へとそれようとするときには、それを警告し、それでも聞かないならば、苦しみを与え罰を与えてでも正しい道に戻そうとされる。また、母親が幼な子を遊ばせるとき、いつもすぐそばで見守っているように、私たちの苦しみや悲しみをすぐにわかってくださり、耐えるための必要な力や導きを時に応じて与えて下さるということが感じられる。
主は、いつも前にあって私たちを導き、また後ろからも見守り、さらに苦しくて歩めないような時、並んで私たちを支え、共に歩んで下さるのである。
次の詩はこのような、主の取り囲む愛を深く実感した人の言葉である。

…あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方。(詩篇三二・7
…神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。(詩篇三二・10



リストボタン山と川の流れ

私たちの日本では至るところに山と川がある。小さい山、山頂も目立たない山なみ、富士山のように、だれが見てもその美しさを感じるような山もある。
それに私たちは心を休め、また心動かされる。旧約聖書には、私は山に向かって目をあげる、それを見つめていると、真の助けはどこからくるかが浮かび上がってくる。
山は数知れない霊感と安らぎ、そして力の源である。
聖書には、こうした目に見える山とは違った大いなる山のことが書いてある。

終わりの日に
主の家の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かう。(イザヤ書二・2)

主の家とは、神殿のことであるから、神殿のある山で、それはいかなる山よりも高くそびえる。
神殿とはその中心に神の言葉が置かれてある建物である。言いかえると、神の言葉がある山こそ、どの山々よりも高くそびえるということである。
その高さは、何か。それは神の言葉が高く引き上げるのである。神の言葉の力がここにある。実際にはエルサレムは標高八百メートルほどの高さにある山の上の町である。この高さより高い山々が無数にあることはみんなが知っていた。それにもかかわらず、主の家(神殿)の山はあらゆる山々よりも高くそびえるという。
人間も同じであって、神の言葉をしっかり持っている人は、神が高く引き上げるのである。目に見える高さでなく、本当の高さは、目には見えない。社会的地位は最も低いようであっても、霊的に高い嶺としてそびえるようにして存在してきたのは、漁師のヨハネやペテロなどの弟子たちがあり、その他無数の人たちがいる。文学にもストー夫人の描いた、黒人奴隷のトムのような例がある。
十字架上でイエスとともに処刑された重い罪人、彼は激しい苦しみのなかで、イエスの言葉をしっかりつかみ、イエスにわずかの願いを捧げた。それによって彼は高く引き上げられ、二千年を経てもその高さは変ることがない。
それとともに、大いなる流れというのがある。それは、世界の国々、民族が主の山に向かう流れである。それは言いかえると、神の言葉に向かう、神のご意志に向かって流れていくということである。
このような聖書の啓示がなかったら、私たちの前途や、この世界全体はどこに向かっていくのか、わからない。わずか、一年後のことさえ、どんな経済学者も政治家も評論家たちも預言することはできないのである。例えば、民主党が総選挙で圧倒的多数で勝利する、など数年前にはだれも予測できなかったし、トヨタのような大企業が赤字になるなど、これまただれも予測しなかったはずのことである。
このような目先のことさえ、無数の学者が日夜研究をし、さまざまの高性能のコンピュータなどを駆使しても、そのような学問や人生経験、あるいはおびただしい情報があってもなお、予見できないほどこの世は複雑であり、万人の予測を超えた動きをしていく。それゆえに、いまから百年先、千年先、さらに、人類の全体としての将来や最終的な行き着く先というようなことなどはまったく分からない。
私たちが聖書の真理を知らないときには、こうしたまったく分からないところに向かって私たちは進んでいるのだというばくぜんとした不安が生じる。列車に乗っていて、どこへいくのか分からない、と思いつつ乗っている人がいるだろうか。
聖書にはこうした究極的な行き先が記されている。単に心の問題とか、道徳的な戒めなどが書いてある書物ではないのである。
この無秩序に満ち、混乱や悲劇的出来事がつねに生じているこの世が全体として滅びに向かっていて、そのまま消滅していくのか、それともまったく違ったところに向かっていくのか、それはきわめて重要なことである。
聖書はすでに二千五百年以上も昔から、この究極的な問題についての神の啓示を記している。それがこのイザヤ書の箇所である。そしてそのことは、ほかの預言書にも「主の日」という表現で記されている。神の定めたときがあって、そこに向かって歴史は流れていく、導かれていくというのである。

…見よ、わたしは新しい天と地を創造する。(イザヤ書六五・17

私たちが向かっていくところは、私たちにはふつうに考えてもそれがどのようなものなのかは言葉で表現できないが、「新しい天と地」なのである。
新約聖書においても、さまざまの混乱や苦難があるけれども最終的には、神の御支配が完全になされる新たな世界のことがはっきりと記されている。
キリストは雲(神の臨在と、神秘の象徴)とともに来られてすべてを完全にされる。それは聖書の巻頭にある、闇と混沌のただなかに、光が神の言葉によって突然もたらされたという記述の完全な成就ということができる。
神の啓示を最も明らかに受けた使徒パウロは、その代表的な手紙において、つぎのように述べている。
…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(ローマ人への手紙十一・36

また、次のようにも記されている。
…こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エペソ書一・10

キリストのもとにすべてが集められていく。そういう大いなる流れがこの世界の根底にある。地表にどのようなことがあろうとも、地中深いところではしずかにゆっくりと地下水が流れている。聖書に記されている大いなる流れもまた、地上の世界がいかに混乱や変動があろうとも、その目に見えない流れはキリストに向かって、新しい天と地に向かって続いている。
神の言葉を中心とする霊的な山がそびえ、そこに向かう大いなる流れ、それらをすでに数千年も昔に、神から特別に示された人がいた。現代の私たちもそうした啓示を万能の神を信じるゆえに、そのまま受け取ることができる。
これは信仰によって受け取ることであり、またそこに大いなる希望が示されており、そうしたすべては神の私たちへの愛ゆえに御計画されていることなのである。



リストボタン一本の杖

朝の山道で、私の目の前、足元にマムシが現れた。そういうことのために杖をもっていたので、その杖で一撃で倒すことができた。ただの木切れにすぎないものでも、マムシを撃退することができる。
時と状況によっては、このように何でもないものが大きなはたらきをする。
私たちは、一本の木切れのようなもの、土の器のようなものであり、すぐに折れてしまったり壊れてしまうものである。
そのような私たちでも、神が必要とされる。神は愛の神、真実な神であるから、無駄なものは作らない。
主イエスは、小さなロバの子に乗ってエルサレムに入られた。それはどんな小さなもの、見すぼらしいものでも主は積極的に用いられるということを暗示している。
私たちの心の旅路においてもしばしばこのような毒をもったものが前途に現れる。それは最も身近な自分の体に難しい病気が生じたり、また家庭や職場、あるいはキリスト教の集会、教会などにおいても、悪意が入りこみ深刻な対立が生じて深い傷を与えるものとなってしまうこともある。
そうした毒のあるものに苦しめられようとするとき、私たちにとって一本の杖に相当するもの、それは神の言葉である。
主イエスが、伝道の最初に受けた荒野での試みはそうしたことを象徴的に表すものである。私たちが受けるあらゆる災い、苦難、悩み、悲しみはすべて一種の荒野の試みである。そうしたときに、私たちは対抗するものを自分でもっていないと思われるほどに無力なことを思い知らされる。
しかし、そのようなとき、主イエスは神の言葉によってサタンの力を撃退された。マムシの毒牙を滅ぼすのに一本の杖で足りたように、あらゆる悪との戦いにあっては、ただ神の言葉だけで足りるのである。
このことは、深い意味を持っている。学識や経験、あるいは人間の助けもときにはよく働くことがある。
しかし、そのようないかなるものも助けにならないことも多い。深刻な悩みほどにそうである。死の近づくとき、さまざまの暗い誘惑が私たちを打ち倒そうとするであろう。そのようなとき私たちは、聖書そのものにある、「主よ、憐れんで下さい! 私を思いだして下さい!」という簡潔な祈り、必死の祈りによって守られるであろう。
パウロも、死ぬと思われるほどの苦難にあって、復活をさせて下さる神の力に頼る気持ちになったことを書いている。それは言いかえると、信じるものは滅びることがない、復活するというみ言葉を思いだしてそれにすがったということなのである。
聖書の神の言葉、すなわち永遠に力ある真実な言葉であるにもかかわらず、それを人間の考察や研究といったものでその力を分断するようなこともよくある。自分が神の言葉によって打ち砕かれ、それに従っていかねばならないのに、逆に人間的な考えで神の言葉を調理するような姿勢がしばしば見られる。そうすることによって、聖書、神の言葉そのものに対する不信感が生まれ、み言葉を聞いてもそれは本当なのか、といった疑問などが生じてみ言葉から力を受けるということが失せていく。そして信仰も動揺していく。
このようなことが起こらないためにも、主イエスは、「幼な子のような子でなくては、神の国を見ることはできない。入ることができない」と言われたのであった。
神の言葉が、私たちにとってつねにサタン的なものから私たちを守る杖であり、また導きであり、力であるために、幼な子のような真っ直ぐに主イエスを見つめ、み言葉を受け取っていくものでありたいと思う。



リストボタンお話しください(その2)

(これは、今年の七月に北海道の南西部の日本海側にある瀬棚聖書集会での聖書講話をもとにした内容です。)
前回は、サムエル記に出てくる、幼な子サムエルが、神からの呼び出しを受け、「お話しください。しもべは聞いています」という箇所を中心に話した。
今回は、ルカによる福音書のマルタとマリアの箇所である。とてもわかりやすい言葉で書いてある。
福音書の良いところは、全然難しい言葉を使わず、子どもでも分かるような表現で書いてあることである。主イエスがある家に入ったら、女の人が二人いて、一人は来客のイエスのためにせわしく働いていて、もう一人はすべてを忘れてイエスに聞き入っていた。すると、マルタはどうしてマリアを叱ってくれないのか、わたしは準備で大変なのにと。そうすると主イエスは必要なものはひとつだと言われた。
このようなわかりやすい表現のなかに深い真理の込められた内容が、二千年も無数の人の心を動かし、流れてきたのである。まさに神業である。これは人間には出来ないことで、この世には文筆家はいくらでもいるが、ベストセラー的なものは時間のふるいにかかってみんな消えていく。しかしこの聖書の真理は消えない。
 マルタとマリアがいた。そこに主イエスが来られた。主イエスはいろいろなところに行っているので、この場所にも二度と来ないかもしれない。もうこれでお会いできるのは最後かもしれないと思ったら、当然一生懸命もてなそうと思うのが普通である。
だからマルタは一生懸命働いた。ところがマリアは手伝いもしないで、主イエスが最初に話しかけたのか、マリアが質問したのかは書かれていないが、マリアはじっと主イエスの足元で聞き入っていた。
マリアも、マルタが一生懸命もてなす用意をしていたら、普通だったら私も手伝おう、イエス様、ちょっと待っていてくださいということになるはずだが、それができないぐらいマリアはイエスの深い御言葉に引き寄せられていたのである。
それを見ていたマルタは、だんだん落ち着かなくなって、主イエスにどうしてマリアに手伝えと言って下さらないのかと抗議した。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカの福音書十・40
 こういうところにマルタの心にある種の高ぶりがある。主イエスのことを本当に神の預言者だと信じていたら、イエスに不満を言うのでなく、マリアの肩をちょっとたたき、「わたしは準備で忙しいのだから手伝って。イエスさまのお話を聞くのはあとにしよう」ということになるだろう。
後に、主イエスが十字架にかけられると弟子たちに予告したとき、ペテロは、「そんなことがあってはいけません」と言って、こともあろうに主であるイエスを脇へ引き寄せてイエスを叱ったことがあった。そのとき主は、サタンよ退けと厳しい言葉でペテロを叱責された。
マルタの言い方は主イエスに対して、何にも思わないのですか、あなたのなさっていることは不公平ではないですか、と暗にイエスの間違いを指摘しようとしているかのようである。
マリアは最初は主イエスが来ると分かり、もちろんもてなそうと思っていたであろうが、主イエスの言葉や神の御言葉に非常に深い関心があったから、思わず引き寄せられたのである。自分には全く知らない世界が開けていき、周りのことが消えていったのであろう。
一方マルタは自分がしているという気持ちが大きくなり、主イエス、マリアがだんだんと小さくなり、二人に対してどうして自分のことに心を配ってくれないのかという気持ちになり、仕える者の気持ちでなくなっていった。
一見正しい行動をしているものが、かえってその心のうちには、自分は正しいのだ、ほかの者よりよくやっているのだ、だから何らかのよい報いは当然なのだと考えてしまう。
放蕩息子のたとえも同様である。財産を使い果たして遊び暮らした弟に対し、自分はずっとまじめに働いてきた。それなのに、その遊び暮らした弟が帰って来たといって、最大級のご馳走をしてやるのはあまりにも不平等でないのか、自分はずっと仕事してきたのに何もそんなことをしてもらったことがない。そう言って父に強い不満を言った。この兄も弟への愛や父親への愛が小さくなり、自分への報いを求める気持ちが大きくなっていったのである。
このようなことは、わたしたちにもあることで、自分が何らかのよいことをしていると思っていると、その人の心のうちでは、主イエスが小さくなる。一般的な人間は、神やイエスのことなど全く心にはなく、自分がやっているのだと思っている。しかし主イエスに聞き入る人ほど、自分や周りの人間が小さくなり、主イエスがますます大きな存在に見えてくる。
我々の身近なところで見ても、一つ一つの小さな草花や、葉っぱの一枚一枚、雑草までも神が意味をもって創られたわけで、スイスなどの美しい山だけが神の栄光を表しているのでは決してない。神は完全な愛のお方で、万物をその愛によって創造された。愛は無意味なものを作らない。
 そのような目で、小さな草花や、チョウやハチなどの虫を見たら創造の神秘というものにだんだん感じるようになる。
「ざくろの聖母」というボッティチェリという画家の絵画がある。マリアが幼児の イエスを抱いている絵であるが、そのイエスが真ん中に大きなざくろの開いた実を持っている。そのザクロはたくさんの実をなかに持っている。そしてその赤い色はキリストの血によってなされるあがないをも暗示しているといわれている。 このようにザクロの実という本来はキリストと何の関係もないようなもの、一つ一つに意味を持たせて、絵を書いている。
 神はこうした画家にその才能を与えたもとになるお方であり、いっさいの事物に深い意味を与えて創造されているのである。
この世の出来事や、自然のさまざまの姿に接して、神は何を言おうとしておられるのかと聞こうと思うほどに、全てひとつひとつに神の壮大なご計画があることを知ると、神がすごく大きな存在となる。ここでは単に忙しく働いていたら、大事なことを忘れるということだけでなく、だんだんと自分がしているんだと大きく自分が膨らんできてしまう。そして、膨らんだものは簡単にしぼんでしまう。そして一番大事なものが小さくなってくる。
 自分というものにこだわっていたら、神の語りかけを聞くことができない。それとは逆にマリアには聞く心があったから、だんだんと主イエスと御言葉と真理の世界が膨らんで、そしてそこに小さい自分が引き込まれていったのである。
人間でも自分の感情的な判断で この人はよい、この人は悪いと判断して退けるようにしていたら、そのような人間の心は小さくなる。しかし悪いと思われる人も、あるいは体に大きな障害を持った人も、病気の人、そして老人も、死が近いような状態の人など、みんな神から何らかのメッセージが託されている、深い意味があるんだと信じて対するとき、いろいろなものが開けてくる。
 一般の仕事でも忙しかったら、「忙しい」という漢字の通り、心が滅ぶとよく言われる。忙しければ目先のことばかりに気をとられてしまうのは誰にでもあることである。
主イエスはマルタの言葉に対しても「マルタ、マルタ」と二回も呼びかけたところに、主イエスの人間の弱さなどいろいろなことを知りぬいた愛を表している。
 ここには、「主の平和」が書かれている。主の平和というのは本当に大事なことで、ヨハネの福音書では、主イエスが最後に残していくものはわたしの平和であると書いてある。自然のままの人間はそれを持っていない。
人間の議論や研究、経験などがいくらあっても得られない「主の平和」をあげようと言われた。ヘブライ語で「シャローム」、ギリシャ語で「エイレーネー」という。新共同訳聖書ではほとんどが「平和」と訳されるが、新改訳や口語訳では心のことに関わるニュアンスが強い時は、「平安」とも訳されている。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」
(ヨハネの福音書十四・27)

わたしは、平和を残し、与える、と特に強調して書かれている。それは人間のいかなる方法によっても「主の平和」はなく、ただ主イエスから受けるのでなければ、決して与えられないのである。
だからパウロも手紙の最初に、「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とまず祈りを持って書き始めている。
わたしたちもクリスチャンであれば、拝啓とか、敬具といった単なる形式的な言葉を使って手紙を書くのでなく、主の平和を祈るということをもって書き始めたいものである。
主イエスが弟子を遣わしたとき、「家に入ったらその家の人に対して平和を祈れ、そしてその家の人々がその平和を受けるにふさわしくなければ、その祈った平和はあなた方に返ってくる」と不思議なことを言われた。
このように聖書ではさまざまなところで「主の平和」が言われているが、この「主の平和」をマルタは持っておらず、多くのことに思い悩み、心を乱していた。
聖書の言葉というのはそこに書かれている特定の人にだけにあてはまるのではなく、ここでもマルタだけでなく、人間はみな同じである。わたしはこれだけしているのに、あの人はしていないと見下したりし、またそれを認めてくれないと心が乱れる。
主イエスが十字架で犯罪人として血を流して死ぬことによって私たちが罪によって縛られている状態から救い出して下さった。そしてその結果与えられた主の平和をしっかりと持っているのでなければ、私たちの魂は揺らぎ続けるであろう。
自分は心の平和を持っていると思っている人であっても、たった一言の悪意ある言葉によって波のように心が揺れ、乱れることがある。しかしそうした弱い者であるが、主イエスの「静まれ」という御声を受け取ることができたなら、魂の平安が与えられる。
学校教育によっても、「主の平和」が与えられるかどうかというと、そのことに関しては全く無力である。いくら勉強しても学んでも、多読をしても、人生経験をしても魂の深い平安は与えられることはない。
日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹でさえ、晩年は非常に暗く憂鬱な表情で、心から笑ったことがないのではとさえ感じた。なぜそうなったのか。パグウォッシュ会議(*)に加わり、核兵器をなくそうという運動に加わったり、科学関係の著作だけでなく、「本の中の世界」といった文学的著作もあり、非常に教養の深い人だったが、信仰は全く持っていなかった。

*)イギリスの哲学者ラッセルと、ユダヤ人科学者アインシュタインによる呼びかけを受け、十一人の著名な科学者によって創設された。一九五七年、カナダのパグウォッシュという地で、湯川秀樹、朝永振一郎をはじめとし、ジョリオ=キュリーら10カ国22人の科学者たちが集まって第1回の会議が開かれた。その最初の会議では、すべての核兵器は絶対悪であるとされ、抑止力を認めなかった。

彼は、さまざまの知識を知れば知るほど明るい表情になるのでなく、晩年には暗い憂鬱な表情となっていった。科学や他の学問とか知的能力がいかにすぐれていても、魂の深い平和や喜びというのは、そうしたこととは関係がないということを私は学生時代に直接に湯川博士の講義に出席して痛感したことであった。
人間の心は、揺れ動いてやまないものがあり、それは本当の光を見出せないときには必ずそのようになるのであって、そのような動揺する心をマルタによって象徴的に示しているのである。
人のため、世のためといくら行動しても、政治・経済、ほかどの分野でも、いかなる手段を持ってしても、そこからは深い心の平和は訪れることはない。
そして死が近づき、病気がちとなると、ますますこの心の内なる波が揺れ動くことになる。
しかし、もし主の平安を深く与えられているときには、どのように変るであろうか。それは、最初の殉教者、ステファノによって記されている。
彼は、ユダヤ人たちの前で、彼らが神に対して逆らってきた事実を言ったにもかかわらず、まわりの者たちみんなが怒り、引きずり出され、石を投げつけられて殺されるに至った。しかし、そのような通常なら誰でも激しく動揺するようなときでさえ、彼の人生で最高の平安を得て、天が開かれて復活した主イエスが神の右に座しているのを見て天に帰っていった。
マリアとマルタの記事は、単に家庭の問題や姉妹の性質の違いなどを言っているのではなく、本当の平和はどこにあるのかという普遍的なことを、主イエスの独特な手法で、なじみの深い家庭的なことに託して、伝えようとしているのである。ここの箇所は今まで言ってきたように「主の平和」と大きいかかわりを持っているところである。
「必要なことはただ一つだけである。」英語訳では one thing is needful.こんな短い一言に二千年間も響かせるような深い余韻を持たせるというのは、主イエスの天賦の才能、神の子であったからだろう。
このような類の深い表現は旧約聖書にはなかった。必要なことは一つだと言われても、あまりにも極端すぎるのではないか、わたしたちにはまず食べ物がいる、お金がいる、服がいる、家がいるではないか、なぜ一つなんだとだれもが首をかしげるような内容である。
だからこそ引き付けられる。どう考えても必要なことは一つであるはずがないのに、なぜこのように断定され、それを確信を持って言われたのであろうか。一体奥になにがあるんだろうかと自然に引き寄せられる。
長い言葉で書かれていたら読む気がしなくなりがちだが、短い言葉にさまざまの意味が込められているとき深い余韻が出てくる。
ここのところはやはり、別の箇所と照らし合わせる必要がある。よく知られているヨハネの福音書のもっとも有名な箇所の一つで、ヨハネ福音書の十五章と言えばクリスチャンであれば、ほとんどの人がいろんなところで見聞きして熟知しているだろうところであるが、今日のところと関連させて読まれることは非常に少ないであろう。
五節でこの箇所を別の表現で言っている。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
*わたしを離れては、あなた方は何もできないからである。」(ヨハネの福音書十五・5
マルタはまさに主イエスから離れ、自分に固着してしまったのであった。そうなると一生懸命奉仕しているように見えても、このヨハネ福音書のイエスの言葉に照らしてみると何もしていないことになる。
なくてはならないもの、真に必要なものは主イエスに聞こうとすること。そして、聞こうとするということはイエスにつながっていようとすることである。
人間関係においても心が結びついておらず、反感を持っているなら、すぐ近くにいても、聞く耳を持たない。しかしつながっていれば、遠く離れていても何か言ってるんじゃないかと聞こうとする。聞こうとするということは、その人と心が結びついているということである。
主イエスの足元で聞き入ろうとするマリアの姿勢と、主イエスにしっかりとどまっていようという心は同じである。この一つのことがあって初めて、他のことが意味のあるものとなる。
マルタもマリアに対する愛があり、マリアのようにイエスが語ることを真剣に聞こうとしていたら、きっと良いものが得られたであろう。
その気持ちがあれば、「私が準備しているから、マリアはしっかり聞いていてね」という気持ちになったであろうし、あとで自分も聞かせてもらうこともできたのである。主イエスに心が結びついていれば、そういう気持ちになっただろうが、このマルタの場合は主イエスに心が深くつながっておらず、そのためにマリアに対しても愛がなかった。
その代わりに自分というものに結びついていたから、マリアに対し、また主イエスに対しても不満持つようになったのである。

*)「つながる」と訳されている原語(ギリシャ語)は、メノーであり、これはヨハネの福音書では特に多く用いられている語である。前置詞のen とともに用いられて~の内に留まる というのが原意である。新共同訳では「つながる」と訳されているが、「つながる」だと直線的で「霊的に内にある」というニュアンスが出てこない。英語訳では remain in あるいは、abide in と訳される。
霊的な主イエスの内にとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの内に留まっている、という意味である。
この「メノー」という語は、マタイの福音書では三回、ルカでは二回、マルコでは七回、パウロの書簡では一回しか使われていないが、ヨハネの福音書では38回、ヨハネの手紙では26回も使われている。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はイエスの言動を記す書であるが、最後に書かれたヨハネの福音書は他の福音書とはかなり違って、さまざまの出来事を記す文や一つ一つの言葉に表面的には分からない意味が隠されていることが多い。いわば、イエスの言動を霊的に表現しなおしているということができる。

「留まる」(メノー)という語は、ヨハネ福音書とヨハネの手紙では64回も使われているが、ヨハネ福音書の十五章で一番使われている。そして新共同訳でも、この語は、何通りかに訳されていて5節では「つながる」、7節で「いつもある」、9節で「とどまる」と三通りの言葉で訳されている。これらは全て原語は同じである。


「イエスの内にとどまって」仕事をする、運転をする、御言葉のことを思う、どんなときでも絶えず頭に置いておく。主イエスの内にとどまろうとするには、理性的に意志をもってする必要がある。そうでないと、とどまれない。
漠然と空を見ていても何も感じない。しかしそこに神の愛に関わる何か、主イエスとの関わりの何かが込められているんだと、信仰と意志をもって見つめるとき、何かよきもの、真理に関わることを感じ取ることが出来る。
いつも自分の意志を働かせ、いつも思いを込めて、主イエスとのかかわりの中で物事を思うということは、主イエスの内におるということである。だから苦しい出来事があっても、悪い人と出会っても、それもイエスの内にいるための天より与えられた訓練なのだと受け取るとき、確かにプラスになる何かを与えられる。
そうした訓練は、気の合う友人、良い人とばかり会っていたら、与えられないし、従って鍛えられることもない。
必要なことはただ一つ。しっかり主イエスにとどまっていたら、あとは主がなさるという基本的な考えがある。このような講話でも準備のときに考えたり、祈ったりするわけだが、講話が他の人の心にどう入っていくのかということは、神がしてくださることである。
 大事なことは神がしてくださるというのは、非常に古い時代から言われている。

…モーセたちは山の上に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。(出エジプト記十七・11

三千数百年も古い時代の話だが、この記事は何を暗示しているのであろうか。手を挙げることは祈りのシンボルで、神とつながっているということである。祈りの手を上げているときには神が働いて下さって敵との戦いに勝利し、祈りの手を下ろしているときには、敵の力が優勢になったというのである。
今のわたしたちでも主イエスにつながっている、言いかえると心の手を挙げることによって神が働いてくださる。モーセは先頭に立って敵陣と戦ったのではなく、祈りの手をしっかり挙げ、神と結びついている状態を保つことによって勝利を与えられたのである。
現代の私たちにおいても、どのようなことに関わる場合でも、心の手を神に向かって挙げていれば 、 言いかえると、主の内に留まり、主が働いて下さることを祈りつつ、そこで主が語りかけることに耳を傾けること、その姿勢があれば、神はなすべきことを示して下さるし、そのための力をも与えて下さる。
普通はスポーツなどに典型的に現れているが、結果など外的なことが重視される。しかし主イエスは、私たちがこの世から認められて、何らかの賞をもらうとかいうこととは関係なく、いつも共にいて下さる。そして愛のまなざしで見つめてくださり、新たな力を与えてくださる。
この世のさまざまの困難な問題、それは、主が語ることではなく、人間的な声に耳を傾けそれに聞いて従ってしまうというところに原因がある。それは聖書の最初の創世記に、アダムとエバが神の語りかけに従わず、蛇で象徴されるサタンの声に聞いてしまったということ、それはこの問題を早くも前面に出していることなのである。
人間の根本問題はこの単純なことをどれほど真剣に守ろうとするかどうかにかかっている。
必要なことはただ一つ、それは主が語ることに耳を傾けることである。



リストボタンたたけ、そうすれば開かれる ―マタイ七章七~八節

求めよ、そうすれば与えられる
探せ、そうすれば見出す。
たたけ、そうすれば開かれる。(マタイ福音書七章78

これはよく知られたイエスの言葉である。しかもこのことは、一部の人だけでなく、「すべて求める人には与えられ、すべて探す者は、みいだし、すべてたたく者には開かれる」と、右の言葉に続いて言われている。
この文を原文のニュアンスに近く訳するならば、次のようになる。

求め続けよ、そうすれば与えられる。
探し続けよ、そうすれば見出す。
たたき続けよ、そうすれば開かれる。

原文のギリシャ語では、求めるという動詞の現在形が使われているが、ギリシャ語では、現在形は、継続をも含む時制である。それゆえ、そのニュアンスは、一度求めたら与えられる、というのでなく、求め続けるという意味を含んでいるのである。
それゆえ、英語訳でも次のように訳しているのがある。

Keep on asking,and it will be given you;
Keep on seeking,and you will find;
Keep on knocking and it will be opened to you.
(ウィリアム・バークレイ William Barclay訳)
*

*)バークレイは、イギリスのスコットランドの新約学者。グラスゴー大学の教授。新約聖書全巻の注解書が有名(The Daily Study Bible )。わかりやすい説明、独自の見方で掘り下げて平易な英語で記されている。他にもこのように継続の意味をはっきりさせた訳は、New Living Translationや、The Amplified New Testament などがある。

求める、これはどんな人にもみられる。だれでも何かを求めているものである。生まれ落ちたときから、乳児はミルクを求める。少し大きくなっても、食物、母親、遊び道具や友達、さらに、成績とかスポーツとか何らかの活動において他人から認められることを求めるようになる。
病気などの苦しみを少し知ると、健康を第一に求める人も増えてくる。
また、そうしたことと並行して、同性や異性の友人を求めるようになり、よい結婚相手を求め、住居、車とかの持ち物などに広がる。
そうして人生の途上において、数々のものを求め続け、老年になると今度は、孤独となり、いっそう健康や人間同士の交わりを切実に求めるようになる。
このような求め続ける人生において、与えられた、という実感を持つ人もいるだろう。しかし、そうした人も老年になり、病気がちとなると、それまで与えられたものを感謝する余裕はなくなり、ただ与えられていないものを求めて苦しむようになる。
そして、老年になって病気がちになると、たいていはそれらは求めても与えられる状況はますます少なくなっていくばかりとなる。
このような状況を考えるとき、キリストの「求めよ、そうすれば与えられる。すべて求める者には与えられる」という確言は、あまりにも現実性が乏しいと感じる人も多いであろう。
しかし、福音書には数々の病気や重度の障害者―全盲、ろうあ者、精神が錯乱状態になった人、長い年月寝たきりになっている人たち、あるいはその親が必死になって主イエスにいやしを求める場面がしばしば記されている。
イエスの生きておられた当時のユダヤの国は、ローマ帝国に支配されていた。支配している側のローマの百人の兵を支配下に置いている将軍がイエスのところに来て、嘆願していやしを願い求めた。

…主よ、わたしの僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。

この真剣な求めの姿に接した主イエスは、すぐに「私が行っていやしてあげよう」といわれた。しかし、その将軍は、「あなたを私の家に迎える資格はありません。 ただ、ひと言を下さい。そうすればいやされるのですから。」(マタイ八・59

このように、主イエスに全面的に信頼して、幼な子のようにまっすぐに主イエスに向かった。そのような信仰を主イエスは受けいれられた。そして、イスラエル人のうちでも、これほどの信仰を見たことがないと、言われた。そして、「あなたが信じたとおりになるように」と言われて、実際にその百人隊長の僕がいやされた。
これは、実際に主イエスに求めて、それがかなえられた実例である。イエスはたしかにこのような切実な願いを聞かれてその願いを実現されたのであった。
このような実例は他にも多く記されている。全盲で生活できないゆえに道端に座って通りがかりの人にお金や食物を求める乞食がいた。彼は当時のような時代では見捨てられた最悪の状態に置かれた人の一人であっただろう。その人が「ダビデの子よ、私を憐れんでください!」と叫び続けた。周囲の人々が黙らせようとしたが、それでも必死に叫び続けたので、イエスは立ち止まっていやされたことがあった。(マルコ福音書十・4652
このような昔の記事は直接的には、現在の自分と関係がないと思う人が大多数であろう。盲人でも乞食でもないし、自分はローマ時代の将軍とは何の関係もない、単なる昔話だ、そんなことは伝説であって、本当にあったのかどうか分からない、といった気持ちで大多数の日本人がこうした箇所を読んでも自分と関わりあることとしては読もうとはしない。だからこそ、聖書は日本でもよく売れても、ほとんどがキリスト者にはならないのである。
しかし、このようなことは、「求めよ、そうすれば与えられる」という真理を、イエスは具体的に実行されてその真理性を永遠に証しされたということなのである。
私たちの多くは盲人でもなければ、乞食でもない。だから関係ないというのではなく、当時のそのような極めて苦しい状況にあった人が主イエスに真剣に求めていくときには、ほかのいかなる人間からも与えられないことが与えられる、という真理はだれにとってもあてはまるからこそ、聖書に記されているのである。そのすべての人に生じ得る真理を歴史に刻み込むために、実際に主イエスは当時出会ったそのような人たち、闇に置かれた人たちをいやされたのであった。
求めよ、そうすれば与えられる、それはこのような必死の求めであり、そこにすべてを注ぐようなまっすぐな気持ちで求めるときには、与えられるということなのである。
しかし、実際に目が見えない人が必死で求めても、聖書に書いてあるように目がみえるようにならない、ということがほとんどである。だからといってこのことが架空のことだ、ということでない。それは、肉体の目が見えるようにはならなくとも、心の目、魂の目が見えるようになっていくということは万人に開かれた真理である。私たちのキリスト集会にもそうした方々が何人もいる。
それまで見えなかった神のこと、神の国のことが実感できるようになること、聖書の言葉の意味が示されてわかるようになっていくこと、こうしたことはたしかに真剣に求める人には誰でも生じることなのである。主イエスは、「あらゆる求める人は、与えられる」と約束されたのである。
こうした奇跡は、本来誰でもに生じることなのである。それを、主イエスは、「すべての 求める人は、与えられる」と表現された。愛と真実の神(あるいはキリスト)を信じて、病気のいやしを真剣に祈るときには、たとえそれが文字通りいやされなくとも、それに変る何かよきものが、求めるすべての人に与えられるということなのである。
十字架でイエスとともに処刑された一人の罪人は、息を引き取るまぎわに、「あなたの御国に行かれるとき、私を思いだして下さい!」と、願い求めたとき、ただちにイエスは、その求めに答えて、「あなたは今日、私とともにパラダイスにいることになる」と言われた。それは、求めよ、そうすれば与えられるという約束が、どんな大きな罪を犯した人であっても、また死を間近にした特別な状況であってもかなえられるということを示している。
これは、与えられるものは、究極的に目に見えないこと、あるいは死後の世界においての救いであるのがわかる。この世においてもたしかに真剣に求めるときには良きものが与えられる。健康も与えられることがあるし、友人や社会的地位や結婚その他のことも与えられることがある。しかし、それらも老齢化や病気、状況の変化などとともに変質したりなくなっていくことが多い。
求めて与えられ、しかも変質もしないし、なくなることもない、そうしたものとは、当然目に見えないものとなる。死後の世界の幸いである。さらに、生きているうちから、目に見えないものが与えられる。しかもそれは最高のよきものが与えられるという約束がなされている。それこそ、神ご自身が持っておられる愛や真実、力といったものであり、それらをすべて持っているのが聖なる霊である。
事故などで失われた手足や視力、聴力損失など、またガン末期などの重い病気のため回復不可能だと思われる状況もある。とくに死ということはどんなに求めてもそれを除き去ることはできない。そのような状況であっても、与えられるのが、聖霊なのである。
ルカ福音書において、この「求めよ、そうすれば与えられる」という言葉に続いて言われているのは、次のようなことである。

…すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。 (ルカ福音書十一・1013

すなわち、真剣に求める者に、すべて与えられるというのは、目に見えるものでなく、目には見えない聖霊である、ということが明確に言われている。
先にあげた、イエスとともに十字架で処刑された重い罪人は、キリストが十字架で殺されたらそれで終わりなのでなく、復活して神の国に帰ることをすでに知っていた。これは驚くべきことである。というのは、三年間もイエスとともにいた弟子たちですら、イエスが復活するということは信じられなかったからである。
イエスを主である、と信じて告白することは、聖霊によらなければできない、と言われているように、十字架で処刑された罪人は、イエスを復活することのできる主である、と信じていたことがわかる。それはすなわち聖霊を与えられていたことを意味する。
…そこで、あなたがたに言っておくが、… 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
(Ⅰコリント十二・3
求める者、信じて求める者には、聖霊が与えられ、死後も復活して御国へとイエスとともにいくことが与えられるのである。
聖霊が与えられる、といっても、ほとんどの日本人にとっては、何の意味も持たないであろう。愛と真実の神などいないと思っているなら、その神と同質の存在である聖霊なども存在しないとみなしていることになるからである。
愛や真実なもの、健康、美しいもの、力あるもの…等々は人間にとって極めて重要かつ必要なものであり、私たちを心の底から満たすものである。それらが豊かに与えられていれば私たちは病気のとき、貧しいときであっても、不足は感じないであろう。
このような良きものすべてが完全に満ちているもの、それが聖霊である。それゆえに、聖霊が与えられるならそれはこの世で最高のもの、ほかのどんなものも埋めることのできないよきものが与えられたことになる。
聖霊こそは、いのちであり、生きがいを与えるものであり、困難なときにも力を与え、絶望的なときでも新たに立ち上がるための力を与えてくれる。
主イエスは、このように求めるものには、この世で最高のもの、永遠に続くよきものが与えられると言われたのであった。
かつて、私は肢体不自由の人たちのいる養護学校で短い期間、勤務したことがある。時々、生徒たちに聖書やその他のよい本の紹介をしていたが、あるとき、この「求めよ、そうすれば与えられる。」という言葉を紹介したことがある。そうすると、ある肢体不自由な小学六年生が、立ち上がって、「私は今、この足を直して下さいと求めました。でも何も与えられません。」と反論したのを思いだす。
求めたら与えられる、そんなことはない、きれいごとだ、といった気持ちは、この言葉に親しんできたはずのキリスト者でも何となく持っているのではないかと思われる。
たしかに、健康も与えられ、家族関係もよい、子供も有名大学に進んでいるといった人もいる。そのような人の中には、確かに求めたら与えられたという人もいようが、自分は病気であるし、家族にもいろいろと難しい問題がある、求めても与えられないことばかりだ、といった人も多くいるであろう。
けれども、主イエスは、求めたら与えられるのは、一部の恵まれた人だけに与えられるのでなく、「すべて求める者には与えられる」といわれたのである。
これだけ与えられているものが大きく異なり、健康も家庭も、職業などもすべて与えられていないような病気の人、重い障害をもった人たちもいるのに、なぜ、主イエスは、「すべて求める人には与えられる」といわれたのだろうか。
このことを考えてもすぐにわかるのは、主イエスがいわれたすべての人に与えられるものは、目に見えるものではないということである。目に見えるものなら、それが金や地位、持ち物といったものは、求めたとおりのものが与えられた、といった経験を持っている人は ごく一部の人であるからだ。
また、私たちが第一に求めるべきものは何か、についてすでに主イエスは、この引用した有名な箇所の少し手前で明言している。
…何よりもまず、神の国と神の義をもとめよ。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。 (マタイ福音書六・33

まず、衣食住のことを求めるな。第一に求めるべきは、神の国と神の義である、といわれた。 しかし、衣食住のような目に見えるものを第一に求めるのが通常の人間だれでもにみられることである。ことに、昔のように社会的な保証の制度もなく、病気、災害や飢饉、戦争などで突然働き手を失うことなどもよくあった時代において、まず求めるものは、それがなかったら生きていかれない食物のことであり、衣服や住居のことである。
こうした求めはごく当然のことであるにもかかわらず、主イエスは、そうしたことをまず第一に求めるべきでないことを示された。これは驚くべき発言である。当時の人間の常識を根本からひっくりかえすようなものであった。 そしてこのことは現在でもそのように、一般的な常識にまっこうから対立することである。だから神の国と神の義を求めよという言葉は、一般の世界ではほとんど引用されないのである。
しかし、私たちが、まず神の国と神の義を求めるという姿勢があれば、神の国が与えられ、それに添えて衣食住など目に見えるものも与えられるといわれている。
このように、はっきりとした条件があるにもかかわらず、一般的には、「求めよ、さらば与えられん」というように、一部だけが切り取られて知られている。そして、前提条件があるのを知らないから、このような言葉は、本当でない、聖書の言葉だからといって真実ではないのだ、と思ってしまうことになる。
この条件が重要であるからこそ、別のところでは次のようにいわれている。

…あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
(ヨハネ 十五・7

ここでは、イエスの言葉がいつも私たちのうちに留まっているならば、という条件がいわれている。主イエスの言葉が私たちの内にあるとは、イエスご自身が私たちの内におられるということである。イエスの言葉とは、そのままイエスご自身のお心であり、イエスそのものである。
もし主イエスが私たちの内に留まっていたら、主が持っている目に見えない喜びや力で満たされるのであるから、この世の快楽とか名声とか高価な衣食住にかかわるものなどを求めることはおのずから少なくなっていく。
求めるならば、与えられるということ、それが最も直接的に表現された聖書の文書は、詩篇である。詩篇のなかには、生きるか死ぬかという瀬戸際まで追い詰められた人の魂の叫びがしばしば見られる。

神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。…
わたしを虐げ、陥れようとする者が絶えることなくわたしを踏みにじる。
恐れをいだくとき
わたしはあなたに依り頼む。…
人々はわたしに対して災いを謀り、…命を奪おうとして後をうかがっている。…

神の言葉を賛美しよう。
神に依り頼めば恐れはない。人がわたしに何をなしえようか。…
あなたは死から私の魂を救い
突き落とされようとしたわたしの足を救い
命の光の中に
神の御前を歩かせて下さる。 (詩篇五六篇より)

このように、死の危険にさらされている絶望的状況のなかからこの詩の作者は神にのみ頼り、必死で神の憐れみを求めた。憐れみを求める、というと、日本語では何かあまりよいニュアンスではないことが多い。他人に憐れんでもらいたくない、というのが大抵の人の感情であろう。しかし、詩篇であらわれるのは、他人にでなく、神からの憐れみを願う祈りなのである。神は私たちの直面する問題を解決し、あるいは打ち倒されないだけの力を与えて下さるお方である。神のうちにはすべてがあるのであり、それゆえに、そのような苦しみにあるときに耐える力や希望をも与えることができる。神に対して憐れんでください、と祈り求めることは、苦難に耐える力を与えてくださいということと同じなのである。
人間は健康で自分がやっていることが順調なときには自分の力で生きていけるなどと錯覚をして、人の憐れみや、神の憐れみなど要らない、といった強気になっていることが多い。しかし、一度難しい病気になったり、事故や予想していなかった大きな失敗や罪を犯してしまって、人々から見下されるようになったときには、たちまち立ち上がる力もないほど弱いものとなる。
そのようなとき、人間にどんなに求めてもそうした力は与えられない。人間はその人自身わずかな力しか持っていないからである。そして相手の人間もまた弱いもの、問題を抱えた者でしかない。
それゆえに、どんな困難な問題のときでも、必ず力を与えてくださるというのは人間を超えた存在、神でしかない。
憐れんでください! という切実な祈り求めは、こうした追い詰められた状況から生まれたものであり、私たちがそれに近いような状況に置かれるとき、初めて共感をもってこの詩篇の叫びや祈りを自分の物のように受け取ることができるようになる。
この求めに応じて、神が力を与えられるとき、この詩にあるように、神への賛美と感謝に代わり、さらなる確信へと導かれる。そしてそのような深い闇を通っての経験は、必ず周囲へと証しせずにはいられなくなる。それがこの詩であり、事実、数千年という歳月を通して神の確かなる助けとして、求めるなら必ず与えられるという証言として無数の人たちを励まし続けてきたのである。
求めよ、そうすれば与えられる、という約束は、また言いかえると神の光が与えられるということである。その光にいのちあり、力あり、また平安がある。そして前途を正しく歩んでいく導きともなる。
聖書の巻頭に、闇と混沌のただなかに、神が光あれ!と言われたときただちに光が生じたとある。また第二章においても、水のない砂漠的状況においてある所にはすでに水が流れていたことが記されている。
これらは、いかなる闇や渇ききったうるおいのない世界であっても、すでに目に見えない霊的な世界では、光があり、いのちの水が流れているのだという神の確言なのである。
闇のなかにすでに光が輝いているからこそ、求めたら与えられるのである。その背後には、神の愛がある。暗黒だけなら、そして 与える主体である神がいないのなら、与えられることは有り得ない。
こうした聖書の巻頭の言葉は、そのままキリストによって完全に成就されている。それゆえに、ヨハネ福音書の最初の部分で、つぎのように記されている。

…(キリストは)わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・1416より)

キリストがこの世に来られたということは、このような無限の豊かさをたたえたお方がこの世に来られたということである。闇がいかに深くあっても、またどんなに渇ききった状態であっても、キリストが来られて今も霊的存在として私たちの社会のただなかにおられる。
だからこそ、私たちが求めたら与えられるのである。それゆえ、恵みの上にさらに恵みをといってあふれるばかりにキリストからの恵みを受けてきたことを証言しているし、このことは、福音書が書かれた時代の人たちだけにあてはまるのでなく、永遠の真理として成り立つことなのだと言おうとしている。

探せ、そうすれば見出す

この言葉は、求めよ、さらば与えられん という一連の言葉のなかでは最もなじみが少ないものであろう。求めるということは、幼児から老年の死が近づいたひとまであらゆる人の日常的な行動である。しかし、探す、ということ、何かを無くした人に特有であっても誰にでも探すということはない。毎日の生活でも、何かを求めている、いうことはすべての人に言えても、何かをみんなが探しているとは言えないであろう。
探すということは、はじめから存在しないとわかっているなら探すこともない。例えば、部屋の鍵を無くしたときそれを探すのは、可能性のある場所であって、自分の家で無くしたのに、近所の人の家にいって探すなどはしない。
同様に、私たちが探すということは、あるということが前提となっている。
このことは、例えば書物なら誰でもが考えて探すであろう。何かについての本を買うときには、そこに自分が知らない一種の知識や考え方、あるいは興味深い内容という宝があるはずだから、その宝を探すつもりで読むであろう。
ある著名な思想家は、一冊の本を読むとき全部読む必要はない、何か一つこれはよい、と感じる考え方や知識を見付ければそれで十分だ、と言っていた。これは四〇年も前に読んだ本に書いてあったことだが、その通りである。
この「いのちの水」誌においても、どこかで何か一つでも、読む人の心に残ったらそれでよいと思っている。神がなさろうとすればどんなに貧しい内容であっても、そのなかのわずかの文や言葉を読む人の心に深く残し、魂に刻むこともできるからである。
そのような書物において、何かよいものを探すと必ず見つかる、ということは言えるがここでも最初に書いたように、その本がそもそもよき著者によるものであるほど、そうした宝が見つかる。
そのような、探せば必ずよきものが見つかるという最高の書物は、言うまでもなく聖書である。私自身四〇年以上、毎日一日も欠かすことなく手に取ってきた。山を何日かかけて縦走しているときでも、また勤務で、生徒たちの付き添いでの修学旅行という個人的な時間の持てないときであっても、病気のときも、来客があってずっと対応せねばならないときでも、聖書をまったく手にしない一日というのはずっとなかった。そして、一五年ほど前に教職を辞してみ言葉のためのはたらきに一日を費やすようになって、あちこちの家庭集会で別々の聖書の箇所を語るようになったらなおさら聖書はつねに座右の書となった。
そして、聖書の内容は、創世記から最後の黙示録まで、日曜日の主日礼拝以外の夕拝や家庭集会などですべてどこかで語ったり書いたりしてきた。さらに近年は、旧約聖書続編も夕拝や家庭集会で学んできたからほとんどの続編もやはり学んできた。
それほどの時間をかけてわかってきたこと、それは聖書という本は実に無尽蔵の宝の隠された書であり、広大無辺の世界である、ということである。それゆえ、探せ、そうすれば見つかる、という主イエスの言葉の真実性は、聖書を心して読むことによって知ることができる。
聖書の最初の言葉、「はじめに神は天と地を創造した。そのとき世界は闇であって混沌としていた。」というひと言もさまざまの意味がそこに隠されているのを、何十年もかかって少しずつ見出していく。
この世の宝というべきものは、事故や病気などあるいは予期しない出来事によって簡単に壊れ、あるいは奪われ、失われていく。しかし、神の国にかかわる宝は、決して奪われない。
主イエスが言われたように、見出した宝(*)を天に積んでいくなら、そこでは虫に食われることもなく、さびがつくこともないし、盗人によって奪われることもない。(マタイ六・19

*)新共同訳では、宝を「富」と訳しているが、この原語(ギリシャ語)は、セーサウロス で、宝(trasure)を意味する。新共同訳でも、ほかの箇所例えば、イエスの誕生のときに東方の博士たちが「宝の箱を開けて」(マタイ二の11)の箇所や、天の国のたとえで、「畑に宝が隠されている…」といった箇所などでは、「宝」と訳している。他の日本語訳聖書である、口語訳、新改訳なども「宝」と訳している。 「富」には、次のような箇所に使われているプルートスという別のギリシャ語がある。「あなた方の富は朽ち果て…」(ヤコブ書五の2)

神がこの世界のすべてを創造された、しかもその神は愛と真実の神であると信じるのがキリスト者の信仰である。とすれば、その愛の神の創造された世界で起きる出来事は、何らかの意味で神の愛や真実があるのだということになる。
宝探しというのがある。子供のとき、近くにきれいで遠浅のよい海岸があったため、林間学校ということで何日も学校全体でて水泳を主として過ごしたが、そのときに宝探しがあった。砂のなかに隠されているのであるから、それを探して見付けるというのである。
私たちのこの世も、実は神の国の宝が至る所に隠されているのである。日々私たちの周囲に見られる自然のたたずまい、夜空の星、月、太陽の輝きのなかに、雲や青空、夕日といった一見単調な光景のなかに、そして山野の野草や樹木の姿のなかに、あるいはさまざまの生き物のなかに、神の国の宝を探すことなのである。
また、そのような自然の事物だけでなく、人間世界の日々の出来事のなかにおいてもその宝を探すという気持ちで臨むときには、なにかが見付けられる。
主イエスが、次のように言われたことも、真理は小鳥一羽や、野の花の一つにも隠されているのであって、探す者にとっては、そこから神の導きと守り、その愛を学びとることができるのを示したものである。

…空の鳥を見よ。種もまかず、刈り入れもしないが、天の父は鳥を養って下さる。…
野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ十二・2627

神の愛という最も重要なことも、むつかしい議論やたくさんの書物を読んだり他人の経験を聞かなくとも、どこにでもある身近な植物や動物のいとなみのうちに隠されているのである。真理を探し求める目には、神の日々の導きや守りということと一見何の関係もないことのような中に深い意味を見出すことができる。探せよ、そうすれば見出すということは、私たちにとってとても日常的な真理なのである。
主イエスは、つぎのようなたとえを話された。

…天の国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。(マタイ十三・44

このたとえ話における天の国とは、死後の世界でなく、神のこの地上での御支配という意味である。人は、神がこの世を愛と真実をもって御支配されていることを知るとき、また、その神の御支配のうちにある計り知れないよきものを知るときには、喜びのあまり、ほかのものを捨ててその宝を得ようとするということである。
救われるということは、そのような絶大な宝を発見することであり、本当の救いを与えられたときには、かつて自分をつよく引きつけていたこの世のものの力から自然に解放されていくという心の世界を示すたとえなのである。
探せ、そうすれば見出す、という言葉はこうした神の国に属するものを探すと必ず見出すということである。天の国の宝を多く見出すほど、私たちはこの世で重要視されている物事から自由になっていく。

聖書のなかに、「いつも感謝せよ、つねに祈れ」(Ⅰテサロニケ五・1718 という言葉がある。だれでも、この言葉を読んですぐに思うであろうことは、こんなこと、できるはずがないということである。いつも感謝するどころか、いつも不満とかいつも苦しみや悲しみがある、という人も多いであろう。しかし、もし私たちがさまざまの苦しみのなかに隠された深い意味、よき目的を見出すことができれば、それは感謝をもって受け止めることにつながっていく。私たちが直面する困難の意味が分からないからこそ、苦しみもいっそう大きくなるからである。
探し求めているときに、時がきて、神のほうから一方的にその意味を示される言葉があり、また私たちの小さくとらわれた魂に翼を与えて困難な問題を乗り越えることができるようにし、そこからそれまで分からなかった深い意味が示されることもある。
旧約聖書にヨブ記という書がある。ヨブという人は、信仰を強く持って正しく生きていたのに、財産も失われ、子供たちも死ぬ、といった突然の苦しみが降りかかった。彼はそれに耐えようとしたが、さらに自分自身に恐ろしい病気が生じてもだえ苦しむようになって妻からも、そんな苦しみに置かれたのに神に頼るなど止めて、「神をのろって死んだほうがましだ」とまで言われるようになった。そうしてヨブは、耐えられなくなり、自分など生まれてこなかったらよかった、と叫びをあげるようになった。
そうして長い期間にわたって、なぜこんな目に遭うのか、というその意味の探求が始まった。慰めにきた友人たちとの議論になり、ヨブの罪のためにこんな目に遭うのだと言われたが、ヨブは、どうしても自分の罪のせいだとはうけいれられなかった。
だが、そのような苦しい探求の果てに、神が直接に応えて下さった。それは、神はご自身の創造された自然の深い神秘へと導き、神のなさることがいかに広大無辺であるかを自然の事物を用いて指し示されたことであった。それによってヨブは神が最善をなして下さっていることに目が開かれたのである。
旧約聖書で、信仰をもった人が理不尽な苦しみに出会うのはなぜなのか、という一つのテーマを内容としたヨブ記が六十ページ近い分量をもって記されているのは、意外なほどである。それは現実の生活というものが、信仰を持っていて、神の守りのうちにあるはずなのに突然の不幸、苦しみなどが襲いかかってくるという事実があり、それに応えるものなのである。

門をたたけ、そうすれば開かれる

私たちの前には大切なことがたくさんある。しかし、それらはそのままでは見つからない。扉が閉じられている。それゆえに、重要なこと、価値あるものを見出すためには、その扉をたたかねばならないということなのである。 前の「探せ、そうすれば見出す」ということと、共通しているところがあるが、異なる内容をも持っている。
原文は単純な、「たたけ、そうすればあなた方に開かれる」である。
*

*)日本語訳のうち、従来最も多く読まれてきた日本聖書協会の口語訳やその後の新共同訳、さらに以前の文語訳聖書などにおいて、「門をたたけ、そうすれば開かれる」と訳されていた。しかし、原文のギリシャ語では、「門」という語はない。直訳すると、「たたけ、そうすれば、あなた方に開かれる」 krouete kai avnoigestai hyumin である。塚本虎二訳では、門でなく、戸と訳し、「戸をたたけ、きっと開けていただける」としている。
外国語訳においても、例えば英語訳をみれば、「門 gate」をたたく、と訳しているのは、私の参照した20種を越える英訳でも皆無である。knock, and it will be opened to you.RSV)などのように、原文通りに訳するか、knock and the door will be opened to you.NIV) のように、「door 戸、扉」を付加して訳している。

自分の未来は、求めていけば開かれる、開かれないなら自分の力でこじ開けてでも開きなさい、とある人が言っていたのを聞いたことがある。しかし、病気になったり事故が生じ、その結果、体の自由がなくなってしまったといった事態に直面すると、たちまち自分の健康な時の希望など根底から壊れてしまって、閉じている扉など開くことはない。
私は、学生時代に、自分たちの前途は、閉じられているのではないかという深刻な疑問に陥ったことがあった。当時私は、自然科学の道に進んでいたのであったけれど、人類の未来は暗澹たるものがあり、科学技術の進展によって滅んでしまうのでないか、と湯川秀樹が当時出版された「科学と人間」という本の最後のほうに書いてあったのを見て、同じ学部にいる友人たちとそのようなことをいろいろ議論し合ったが、だれもそのような人類の未来と科学技術といったことについて確信ある希望を語れる人はいなかった。大学の教師たちも同様であった。政治や社会のことについては学生も非常に雄弁であった。何時間でも学生たちを前にして独特の調子で語り続けるものも多くいた。しかし、人類の未来はどうなるのか、という最終的な問題についてはだれも語ろうとはせず、避けていた。 毎日洪水のようにさまざまの学生たちから配布される政治的問題に関する印刷物にもそうしたことはまったく記されていなかった。
まさに、そのような問題は、当時の学生や教師たちにとって閉じられた問題だったからである。そしてそれは現在の多くの人たちにとっても同様である。
人類の未来と科学技術、といったことだけでなく、私たちの最後はどうなるのか、死のかなたに何があるのか、といった問題もまた、固く閉じられているかのように、ほとんど語ろうとしないし、テレビや新聞、雑誌など膨大な情報にもそうしたことはほとんど語られない。
この世界や人類の最後とか人間の最後(死)ということ、それは閉じられていてその奥には何があるか分からない。だから大多数の人たちはそのことについて語ろうとしないし、そこから避けようとする。
門をたたき続けるなら開かれる―開かれるというのは、それははじめは閉じているということになる。閉じていてもたたき続けることによって開かれる。
このことの最もはっきりしている例は、真理の世界、言いかえると神の国の扉である。私自身振り返ってみると、真理の核心と言えることには、まったく閉じられていたという気がする。そしてそれは小学校から中学、高校、大学の教育を受けてもなお、その扉は開かれなかった。むしろますます現代の人間や社会は、どうすることもできない壁で取り囲まれているような閉鎖的なものを感じていた。それはどんな人でも開かれないのだと思った。この世の終わりはどうなるのか、私たちはみなそうしたことに関しては閉じられているのである。天才的科学者も世界的スポーツ選手も、俳優、政治家、教育家…皆同様である。
そうした閉じられた世界が、開かれた人がいる。それが聖書に記されているアブラハムやモーセ、ダビデ、エリヤといった神に呼びだされ、命をかけて従っていった信仰者、王、そして預言者たちである。彼らには、求める前から、まず神のほうから彼らに迫っていき、他のすべての人たちには閉じられている世界が開かれたのである。そしてそれは後の世界の人々に、開かれた霊的な世界、信仰の世界がどのようなものであるかを指し示す役割を果たすことになった。 そしてそれが書物(聖書)として記されて、後の無数の人たちは、それを知って自分もまたそのような世界が開かれるようにと霊的世界の扉をたたき続けていく人生と変えられていった。
扉がしまっていても、それが開いたとして荒れ地しかない、というのなら、だれもたたいて開けようとしない。しかし、私たちの霊的世界というのは計り知れない奥深いものだと知らされたときには、私たちはその戸をたたいて、それが開かれ、私たちもその奥にある無限の豊かな世界へと導かれていきたいと思う。
神を信じ、閉じられているものをたたき続ける、そこから戸は開かれさまざまのことが、始まる。
死の向こうには何があるのか、ほとんどの人にとって死とは固い扉があってだれも開くことのできない状態である。しかし、そのような強固な扉は、二千年前にキリストによって開かれた。それ以後、人間は、ただ信じるだけで、死という本来その扉を開けることは不可能であった重い扉を開くことができるようになった。信仰とは、未知の世界を信じて、扉を叩くことである。
人間同士の関係についてもこれは言える。人の心は閉ざされていることが多い。同じクラスとか、会社が同じということで、毎日会っていても、あるいは家族同士であっても、互いの心は固く閉じられているということもある。他人の心には扉があってそれを開くことはできない状態が非常に多いといえよう。しかし、それも神の愛をもってたたき続けるならば、時至れば開かれると信じることができる。
神(キリスト)への信仰と、主は信じる者には、すべてを転じてよきになされるという希望、そして万人を最善へと導こうとされる神の愛、 これらを持ってたたくならば、どのようなものも開かれていく。神の国のとびらも開かれる。主イエスが約束されたこと、それは、信じる者には、「天が開け、天使たちが、人の子の上に昇り下りするのを、あなた方は見る」(ヨハネ福音書一・51)と約束された。 これは、ほとんどの人たちに閉じられている天の国が開けて、人の子すなわちイエスに天の国に属する天使たちが昇り下りする、すなわちイエスこそは天の国と地上世界との架け橋になるということなのである。そしてイエスを信じ、イエスを魂のうちに持つ者もまた、そのように天が開かれ、そこから御使いが昇り下りするように、天の国のことが注がれ、地上の願いが天の国へと運ばれる霊的交流が与えられるということを暗示している。なぜなら、イエスを信じるものは、イエスに生じたことがまた起きると言われているからである。
扉をたたき続けよ、そうすれば開かれる、というイエスの約束は、個人的なこと、心の問題だけにあてはまるのでは決してない。
次にあげる例はその一つであるが、社会的にも閉じられていた扉が開かれていった例は数知れない。
日本においてプロテスタントのキリスト教が初めて入ってきた当時、いかにキリスト教に対して、また外国人そのものに対して固く扉が閉ざされていたかは、次のような状況であった。
一八五九年、江戸時代の末期にアメリカから宣教師たちが来日した。その中に、今日ヘボン式ローマ字という名称で知られているヘボンがあった。
(本来の発音は、Hepburn であるから、ヘプバーン。日本語としては発音しにくいので、ヘボンと発音されていたと思われる。女優として有名なヘップバーンは一族という。)
キリスト教が解禁されるより十四年ほど前で、キリスト教信仰を持つとかキリストのことを伝えようとすることが発覚すれば直ちに逮捕、処刑されるような時代であった。キリスト教のことと関係なくとも、外国人に対しては強い偏見があり、開国すること自体にも強い反対が国内にあった。開国後一年間で、外国人十数人が日本の武士たちによって暗殺されたという時代であった。
ヘボンが来日した翌年には、日米修好通商条約を結んだ井伊直弼が殺された。外国人を追い払うべきだという考えは当時の孝明天皇も強く持っていて、アメリカとの条約を認めようとしなかった。また、その条約を締結し、日本で初めての駐日公使となったハリスの通訳として重要なはたらきをしていた、ヒュースケンは、人づきあいのよい青年であって何等悪いこともなかったのに暗殺された。
その二年後、横浜に来ていたイギリス商人の妻やその知人、友人たち四人は馬に乗って道を進んでいたとき、薩摩藩の島津久光らの四百人を越える大名行列に出会った。道一杯に広がった行列に出会って制止されたがよけることができず右往左往してしまったとき、いきなり切り付けられ殺傷された。
このような状況の中にヘボンは来日し、医師として深い祈りをもって日本人への宣教を志したのであった。
彼は、アメリカで二六歳という若さですでに東洋への伝道の志を神によって点火された。当時はアジアに向かうには帆船であり、大西洋からアフリカ、インドを回って行くという長大な距離であり、その旅自体が危険なものであった。その荒れる船旅の途中で最初の子は流産、シンガポールに着いて生まれた子供も生まれてまもなく死に、夫人も病気となりやむなくニューヨークに帰った。そこで眼科医として信頼され著名となったがそこで生まれた三人の子供は次々となくなるという悲劇に見舞われた。そのような状況にあってもアジア、特に日本へのキリスト伝道の志が新たに強く起こされた。親や周囲の激しい反対をも越えて、大きな病院、邸宅など財産すべてを売却して日本の伝道にそれを使ったのである。
しかし、一人息子の教育という困難な問題が生じた。日本では教育することができないために、涙をのんで、父や友人にその世話を依頼して日本に向かったのである。ヘボンは一人息子を友人に預けて出発するとき、つぎのように兄弟に心の痛みを記している。
「これが私の出会う最初の別れであり、最も耐えがたい試練でもあります。ほとんど胸も裂けんばかりの悲しみでありました。しかし、私は主なるわが神を信じています。…」(「ヘボンの手紙」34頁 有隣新書)
こうした悲しみや苦しみを持ちつつ、ヘボンは固く閉ざされた日本人の魂をたたき続けていく。そして医者として日本人の苦しみに向かいつつ、聖書の日本語訳のために日本で初めての和英辞書を苦心して作った。そのときに用いられた表記法が今日ヘボン式ローマ字といわれるものである。キリスト教が厳しく禁じられていた江戸時代の末期であったが、そうした危険のただなかで、ヘボンは聖書の日本語訳に取りかかり、まず福音書の訳が完成されていった。
今日私たちが聖書を各種の日本語訳で自由に読めるということは、こうした先人たちの血のにじむような信仰と努力があったのである。日本は、当時は政治的にもまた、言語的にもキリスト教や聖書に対しては、固く閉ざされた状況であった。そのようななかで、ヘボンはその信仰によって神からの力を受け、そうした固い扉をたたき続け、聖書を日本語にしていくことができたのであった。たたき続けよ、そうすれば開かれるという主イエスの約束は、このような歴史の中にもその真実性を見ることができる。
聖書においてはっきりと、どんな固い扉も開かれていくという約束が記されいる。
また実際に開かれて言った実例も記され、開かれた天の国のこともさまざまに記されている。 さらに、神ご自身がそのように人々をうながし、新たな力を与えてきたゆえに、それ以後の人々は、それを信じて、前途に立ちはだかる扉をたたき続けるようにと導かれていった。
そしてその願いは聞き届けられ、さまざまの形で扉は開かれていった。
現代に生きる私たちも、この古くて新しいキリストの約束を信じて、日々神の国を求め、真理を尋ね、そして前途にふさがる扉をたたき続け、開かれた扉を通って御国へと導かれていきたいと願うものである。



リストボタンことば

リストボタン317) 信仰と境遇

私において、境遇は信仰を作らず、信仰が境遇を作ってきた。神はすべての良きものを信仰の報賞として私に下された。「あなたの信じるとおりに、あなたに成ると主は言われた。(マタイ九・29)
私は、自分の信仰を大にして私の境遇を改めることができる。
(内村鑑三著「聖書之研究」第十一巻434頁 原文は文語)

・よい境遇は信仰につながることはもちろんある。内村鑑三自身、札幌農学校に入学できたという境遇がキリスト教との出会いとなり、信仰につながった。親がキリスト者であるという境遇のゆえに、信仰を与えられたさまざまの例もある。
たしかに、よきキリスト者が近くにいるという境遇によって信仰は与えられることもある。しかし、与えられた信仰をしっかりと保ち、その信仰によって決断し、道の別れ道のとき、より信仰を働かせる道―しばしばこれはより困難な道となる―を信仰によって選ぶとき、たしかに境遇は変えられていく。意外な助けがあり、友人が与えられ、敵対していた人も変化する、あるいはいやなことばかりだという境遇であっても、そこに意外な逃れの道、助けが与えられていくなどがある。
アブラハムは旧約聖書において、信仰が境遇を作ったという最もはっきりした例である。信仰によって彼は未知の世界へと旅立ち、その結果新たな祝福に満ちた境遇となっていったのである。
私たちも信仰によって、神があらたな境遇を私たちのために造り出して下さることを信じることができる。そして、もし信仰がなければ、死とは漠然とした暗い闇のようなものでしかなくそのような得たいのしれない境遇へと落ち込んでいくほかはない。
しかし、愛の神を信じ、キリストを救い主として信じるだけで、死後はキリストの栄光ある姿と同じような姿に変えられ、御使いのごとくにされているすでに召された人たちとともに永遠に生きるという最もよき境遇へと移していただけるのである。



リストボタン318)二つの道

人生を強く堪えぬくには次の二つの道がある。その一つは、世の狼どもと一緒に吠え、目の前にありながら万人に行きわたらない生の享楽の分け前を得ようと猛然と噛み合う生き方である。これは一般に行われている生活であり、「生存競争」である。
もう一つは、神との本当の、誠実な、しかも喜びにみちた交わりにまで精神を高めることによって生きる道である。神との交わりを持つ者には、生存競争は不用になり、また憂愁や無気力は心に生じえない。
(ヒルティ著「眠られぬ夜のために」第一部十月一日の項より)



リストボタンお知らせと 報告

○静岡での集会
九月十九日(土)~二十日(日)の二日間、静岡市清水区に出向きました。十九日(土)の午後は、静岡市の四カ所に立ち寄り、短い時間でしたが祈りや賛美、そして交流の時を与えられました。その日の夜、七時~九時までは、石原新聞店の二階集会場での集会。
翌日の二十日(日)には、JRの清水駅近くの公共の建物にある会議室にて、「たたけ、そうすれば開かれる」というテーマにて、約一時間ほどの時間でお話しさせていただきました。今月号に掲載したのは、その内容です。

○集会員の高橋 英明・ルツ子夫妻に、男子が生まれました。高橋 祐(ゆう)と名付けられたとのことです。この名前の漢字「祐」は、示す偏と右から成り、神を表す示す偏に、かばう意味の右という字から成っています。 語源辞典によれば、かばう働きをするみぎ手を示すので、祐は「示(かみ、まつり)+右」で、神がかばってたすける、ということで、神の助けを意味する漢字です。
その名のように、神のゆたかな祝福を受け、神によって人生のさまざまの困難において助けられ、そこからその力ある助け手である神のこと、キリストのことを証ししていく人にと育っていきますようにと祈ります。

○「ともしび」文集
集会員の中川春美さんが編集している「ともしび」文集ができました。希望の方には余分がありますので、お送りすることができます。一冊一五〇円。送料は当方負担。
○毎年徳島聖書キリスト集会から出している、「野の花」文集の原稿募集の時期となっています。「いのちの水」誌の読者の方々も、どなたでも投稿することができます
①長さ…二千字程度。(原稿用紙五枚程度)
②文集を作る目的… これは、主イエスを信じる人たちが互いに交流し合うことによって、互いに愛しあうようにと言われた主のみ言葉に少しでも近づくため、またその原稿によって証しをより多くの人たちに提供して、伝道に少しでも役だつようにとの願いがあります。主によって用いて下さることを願いつつ作成します。
③ 内容… 聖書やキリスト教関係の書物の学びの感想や紹介、あるいはそこからの印象に残った文や言葉の引用、できれば引用した理由についてのコメント、社会問題とキリスト教信仰の関わり、また短歌俳句、詩などでもよいし、印象に残った聖句や賛美の歌詞の引用でも結構です。
④原稿の採否その他
採否については、編集者に一任ということでお願いします。また、入力ミスや明らかな間違い、あるいは何らかの問題がある場合には、内容の趣旨を変えない程度に表現を一部変えたりカットすることがあります。
⑤締切り…原稿は十月末までにお送りください。
⑥原稿の送付方法… メールでの添付ファイル(テキストファイルでお願いします)、メール本文に書き込んでも結構です。FAXや手紙などにて送られても結構です。
⑦宛て先…「いのちの水」誌の奥付にある吉村 孝雄まで。

○ルカ福音書聖書講話 MP3版…一部の方々から申込の問い合わせありましたが、現在制作準備中です。
○十月の神戸市での阪神エクレシアの集会…十月十八日(日)午前十時~十二時。
高槻市での集会…十八日(日)午後二時~四時ころ。問い合わせは、吉村 孝雄まで。
○香川県での集会…十月四日(日)午後三時~五時三十分。今回は、前回まで集会をしていた高松市の佐々木宅の都合で、初めて香川県木田郡三木町の「サンサン館みき」の会議室を借りて行われました。集会に参加している塩田さん、村井さんたちが世話人となって下さり、この場所での集会が与えられました。田園地帯にある建物の五階で、窓からは山々や田畑も見える自然環境のよい会場でした。
○現在でも時々購入希望や問い合わせがあるものについて
①ヨハネ福音書講話CD (MP3版)…二年八カ月にわたってなされた九十四回の聖書講話です。一回三〇余りとしておよそ五十時間分の内容です。全五巻。
②創世記 講話CD(MP3版)…これは、六十二回の聖書講話で、およそ三十三時間分の内容です。全二巻。なお、価格はいずれも二千円。
③これらを聴くためのMP3対応機器。(①ミニコンポ型、②MP3対応 CDラジカセ型、③携帯用CDプレーヤなどそれぞれ若干の台数は在庫あります。①、②はいずれも八千円。③は五千円 )
④徳島聖書キリスト集会の毎月の主日礼拝、夕拝の全内容の録音CD(MP3)。これは、毎月一度送付します。これには、祈り、賛美、聖書講話、感話など全部の内容がCD一枚に録音されています。費用は、
毎月五百円(送料共)。
⑤集音器…以前から紹介しているもの。前回紹介してから、何人かの方々から申込ありました。 先日九月二三日に松山市で開催された「祈の友・四国グループ集会」でも三人の方々に使っていただきましたが、この集音器を使うと、はっきり聞こえるので、老人性の難聴の方々には効果的です。最近も県外の「いのちの水」誌の読者関係から何人かの申込がありました。
 以前、この製品の製造が終了したとの情報が入ったすぐに、私は、インターネットショップで検索し、多くの店を調べました。そして入手できるものを購入しましたが、一台、二台といった少数でした。それも希望者にまもなく取り次いで送付し、もう購入できないと思っていたのですが、その後大分してから、もう一度インターネットでさまざまのショップを探したところ、一つの店で多くの数を購入することができるのを見付け、そこから購入できました。この集音器の利便性を私は知っていたので、購入しておいたのです。それで、現在でも希望の方々には送付できます。(現在ではインターネットショップでも、すべて販売終了あるいは購入できないとの表示が出ています。一般の補聴器店や通信販売でも購入できないのです。)価格は、もともと一万円程度で販売されていたものですが、今回、以前よりも安価で購入できたので一個五千円(送料当方負担)でお送りしています。私は聴覚障害者との関わりがずっとあり、とくに二十五年ほど前から八年ほどは聴覚障害者の教育に関わって補聴器の調整を数多く手がけたことがあります。各種の集まり、とくに聖書の集会、教会の説教や祈祷会などでみ言葉や参加者の感話などがよく聞こえるための助けとなればと願ってお世話しています。
⑥北田 康広のCD。「藍色の旋律」一枚 一七五〇円。
⑦伊丹悦子詩集「泉にゆく道」五百円(二〇〇八年三月発行)
⑧貝出久美子詩集「ひかりよ」百五十円。
⑨集会賛美集(いずれも一枚百円)
・綱野悦子 集会賛美集CD
・鈴木益美・中川陽子 集会賛美集CD
⑩絵はがき
A、砂丘絵はがき B、ヤマユリ絵はがき。…これらは、去年の鳥取の集会や山形県鶴岡市の集会に出向いたときに私が撮影した写真の絵はがきですが、いずれも多くの方々から好評だったものです。一枚十円。
⑪集会賛美集…SDカード版、USBメモリ版があります。(価格は容量によりますが、三百円~五百円)これは、パソコン、MP3対応MP3対応 CDラジカセ、ミニコンポなどで使うものです。
以上いずれも申込は電話、メール、FAXなどで。なお、いずれも送料は当方負担します。送金は郵便振替でお願いします。