いのちの水2009年6月 580号・内容・もくじ
早朝のさえずり
朝五時過ぎに目覚めたとき、山を少し登ったところにあるわが家のすぐ近くでホトトギスとウグイスのさえずりが耳に入ってきた。こんなに家の近くでホトトギスが鳴いたのはかつてなかったことであるし、ウグイスもともに鳴きかわしたのも初めてである。
ホトトギスは強い、訴えるような、あるいは叫びのような声で鳴く。それは古来多くの人たちに注目されてきた。他方ウグイスは流暢なながれるようなさえずりであった。
まだ朝もはやいために静まった大気のなかを、ふたつの特徴ある小鳥が私の心に天来のメッセージを送ってくれたのである。主日の朝、小鳥たちの賛美をゆたかに受けた気持になった。
小鳥たちはいかなる人間の意図も受けず、また人に聞かせて認めてもらおうとかいった不純なものがいっさいない。ただ小鳥たちを創造された神の御計画のままに、力強い、あるいは美しいさえずりをする。それゆえに、その声に耳を傾けるときには、創造された神のご意志やお心がそこに込められているように感じる。
神は生きて働いておられるゆえ、たえず何らかの生きたメッセージをご自身が創造されたものを通して送っておられる。小鳥たちもまた、神の国のよろこびを伝えるはたらきをしていると感じた朝であった。
芽生え
六月ともなると、山道のあちこちに芽生えの若木が見つかる。種が落ちて春になって芽生え、今頃になるとそれが成長してくるので、よく目立つのである。わが家のすぐ前に植えたはずのないところにクチナシの木が芽生えて、それが今年初めて香りよき花を咲かせた。
どうしてここに種が落ちたのか不思議であるが、あちこちには一つ一つ、意外なものが芽生えているのをよく見付ける。遠いところの植物の種もあれば、付近のものもある。おそらく何年も地中にあったのが、雨などで土が削られ、芽を出してきたのもあるだろう。風に飛ばされたのも小鳥が運んだのもあるはずだ。
実にさまざまの仕方で種は地面に落ちて、思いがけないときに芽生えてくる。
福音も似たところがある。それをあちこちにいろいろな方法で蒔いていくとき、それも一つの種となり、思いがけないところで芽を出していく。だれひとり予想もしないところから、また植物とおなじように、長い年月を経てようやく芽を出すのもある。
私たちは蒔いたらすぐに芽が出るといったことを期待することなく、芽を出させるのは神がなさることを信じ、神の御手にゆだねていくことだと思う。そうすれば神ご自身が適切なときに、ふさわしい場に芽を出させて下さるであろう。
苦しみと前進
前進するには推進させる力がいる。ロケットやジェット機などは燃料を燃焼させ、生じた燃焼ガスを噴出させて、その反作用で前進する。プロペラ機はプロペラを回転させて空気を後方に強く押すことにより、その反作用で前進する。自動車はガソリンを燃焼させ、車輪の回転力に変えて、タイヤが地面を後方に押すことによって地面からの反作用で進む。
神は人間を前進させるために神は苦しみを多くの人に味わわせ、推進力とされる。
ベートーベンのあの力強い音楽は、彼が生涯を通して味わわねばならなかった大きな苦しみの中から生み出された。十代の後半で最愛の母を失い、あとはアルコール依存症であった厳しい父によって育てられた。三十歳になるころから激しい耳鳴りで苦しみはじめ、遂に聞こえなくなっていき、その苦しみと絶望のあまり遺書を書いて命を断とうとするところまで追い詰められた。
さらに、親代わりとなって世話をしていた甥のことで散々苦しみ、その甥も自殺未遂をしたりして、重い荷を背負うことになった。しかし、その苦しみの中から、聞こえない耳を持ちつつも、内なる耳に聞くことへと道が開かれ、「彼が書いたピアノの最高の名作であり、また古今のあらゆるピアノ音楽中での最高峰である」とされるピアノソナタ「熱情」や、交響曲第五番「運命」など、歴史的に有名な作品が生み出されていった。
彼も、神を信じて若いころはいろいろな教会に通ったりしたが、のちには司祭につよい不信感を持つようになり、教会にも行かなくなったという。そのため聖書的信仰とは違った独自の解釈も持っていたとも言われているが、多くのキリスト教音楽を生み出したのはその信仰があったからである。
そしてつぎつぎと襲いかかる苦難に耐えるにあたって、彼のキリスト教信仰が大きな支えとなったであろうことは、次に引用する書にある、ベートーベンの次のような言葉からもうかがえる。
「それゆえ、私は心を静めてすべての矛盾を甘受し、永遠のあなたの善なる本質に強い信頼をおくのです。
神よ! わが魂は、変ることなき存在であるあなたによって喜びます。わが岩となって下さい。わが光となり、永遠にわが信頼となって下さい。」(*)
Therefore calmly will I submit myself to all inconsistency and will place
all my confidence in your eternal goodness,
O God! My soul shall rejoice in Thee,immutable Being.
Be my rock,my light,forever my trust!(**)
(*)「大作曲家の信仰と音楽」P.カヴァノー著 67P 吉田幸弘訳 2000年11月発行 教文館
(**) Patrick Kavanaugh THE SPIRITUAL LIVES of GREAT COMPOSERS Sparrow Press 38P
ベートーベンにとって、耐えがたいような苦しみこそは、そこから必死で脱出しようとする強い意志を生み出し、それがこうした力強さという点でほかにみられない名曲を生み出すことになった。彼の経験した多くの苦しみが地上の揺れ動くものへの関心を振り切って、あのような作品の創作へと推進させたのである。
このような特別な才能を持った人において、とくにその苦しみの意義が明らかにされているが、現在の私たちが神の国へと前進するには、なにがそれをさせるのだろうか。
それは、神の生きて働く御手であり、生けるキリストである。また聖なる霊である。使徒たちがキリストの復活と十字架の福音を宣べ伝えることができるようになったのは、聖なる霊を豊かに受けたからであった。
恐怖におびえていた弟子たちは、単にイエスが復活したということを耳にしただけでは、前進する力はなかった。イエスとともに三年間もあらゆる奇跡を見たり、教えを直接に聞き続けてもなお、イエスが捕らえられたときには、みんな逃げてしまい、イエスなど全く知らないといったペテロのように力は与えられていなかった。
しかし、そのような無力な弟子、無に等しいような者を強力に前身させる力は、聖なる霊が与えたのであった。
そして、その聖なる霊がさらに力強く働くために、神は信じる者にプラスアルファというべきものを与えられる。
それが苦しみである。苦しみから何とかして脱したいと強く願う。苦しみや悲しみが強く深いほど、必死になってそこから逃れようとする。
神を知らないときには、その苦しみから逃れていく方向が分からないから、絶望したり酒や遊びなどで一時的に忘れようとすることもある。
一度神を知らされたときには、神に向かって叫び、その方向にむかって何とか進もうとする。
…(パウロとバルナバは)弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録十四・22)
パウロは、絶えず神を信じて福音を伝えるために働いた特別な人であった。しかし、彼のような人であっても、本当に神に頼るように全身をあげて信じるようになったのは、非常な苦しみに陥ったときであった。
…兄弟たち。わたしたちがアジア州で会った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまった。
そのため、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さると神に希望をかけている。(Ⅱコリント一・8~10)
死者をも復活させる力を持つ神に全面的に頼ろうとする心が生まれるには、パウロのような聖霊豊かな人であっても、なお苦しみを必要とした。大いなる苦しみが彼をして、死にも打ち勝つ神へと向かっていくための推進力となったのであった。
私たちのキリスト集会にもさまざまの苦しみを日々負っておられる方々がいる。また表面的には苦しい問題など持っていないと思われるような人であっても、そのなかにどのような苦しい問題を抱えているかはだれも分からない。
当事者にとって、それが解決したらどんなにいいだろう、と思われるような重い問題をそれぞれが持っているであろう。しかし、その重荷や苦しみがあるからこそ、いろいろな犠牲をはらって集会へと足を運び、み言葉に触れ、生けるキリストに出会おうとして礼拝集会に参加していると言えよう。
主イエスの十字架上での想像を絶する苦しみこそは、無数の人たちの罪を赦し、あがない、そして今もなお、神の国へと前進させる最大の推進力となっているのである。
無実の罪
先頃、かつて有罪として十七年もの歳月を刑務所で過ごした人が、犯人でなかったとして、釈放された。このような冤罪は、おそらく数多く発生してきたであろう。
まちがったことが証拠として採用され、また意図的に偽りを言う証人があらわれたために犯人とされたということも数多くあっただろう。
何の罪も犯していないにもかかわらず、そして取り調べのあまりの苦しさと長時間のために耐えがたく、やっていないことを自白してしまって、犯人にされてしまい、長い年月を家族や周囲の人たちから見下され、捨てられ、絶望的な生活を送らざるを得なくなった人の苦しみと無念さはいかばかりであろう。
とくに政治犯においては、支配者の側が意図的に一部の人を犯罪人としてしてしまい、長期間の服役を課するということも昔からたくさんみられた。
刑務所に入るなどという大きな問題でなくとも、生活のなかで、私たちがたった一人からでも、やってもいない悪いことをした、と言われたらどんなにくやしい思いをすることだろうか。いくらやっていない、と言ってもそれを証明する証拠を出すこともできず、ただ疑われてそのことをいろいろな人に言いふらされてしまったとき、それを聞いたひとたちはそれを信じてしまうのである。そのような時には、深い悲しみと強い心の痛みを感じることであろう。
こうした無実の罪の苦しみを最も大規模に、二千年にわたって受けてきたのは、キリスト教徒である。すでに、今から二千年近くも昔、ローマ皇帝ネロの権力によって、ローマの大火の犯人とされ、多数が逮捕され、火あぶりにされたり、大競技場でライオンに食わる見せ物にしたりされた。彼らの家庭や人生は粉々にされてしまったであろう。日本においても、豊臣秀吉のバテレン追放令(一五八七年)から、一八七三年(明治六年)の切支丹(キリシタン)禁制の高札を撤去
するまで、およそ三〇〇年近い年月は、長い迫害の歴史であった。
その間に、単にキリスト者であるというだけで、最も重い犯罪人とされ、生きたまま雲仙岳の火口に投げ込まれたり、生きながら火あぶりや、俵につめて重ねられて街路に放置するとか、ノコギリで耳や鼻を切り落として放逐する等々、すさまじい迫害がなされた。これらはすべて無実の罪なのである。
二〇〇〇年という長い歳月、このようなひどい無実の罪をきせられた人たちは計り知れない。そしてこれら無数の犠牲者たちのもとをたどれば、そこにはキリストの無実の罪ゆえの死がある。キリストの十字架の死からこうした数知れない人たちが、罪もないのに重い罪人とされていったのである。
耐えがたい苦しみであるにもかかわらず、それでもなお、あえてそのような恐ろしい罪人とされることをすら甘んじて受けていった人たち、私たちの想像を絶するような苦しみと痛みをも越えて導かれたのは、生きてはたらくキリストであった。
無実の罪、それは何も生み出さないのろわれたことである。キリストは誰よりも神に忠実に敬いつつ生きたにもかかわらず、神を冒涜したとされ、民衆を煽動したとされて死刑とされる冤罪の犠牲者となった。
しかし、神はそのような忌まわしいことを最大の善きことに転じさせたのであった。十字架上の無実の罪による死こそは、人類の罪を赦し、あがなうという最も深い人間の問題の解決に用いられたのである。
このようなことを振り返ってみても、この世で受けるあらゆる不正に対することができ、それに打ち負かされない唯一の道は、永遠の命そのものであるキリストを信じ、キリストに結びつくことによってであることがわかる。
主の平和
どんな人でもいろいろな人間関係において、争いよりは平和、国々においても戦争よりは平和を願う。しかし、この世の平和は、それが個々の人間関係のものであれ、国家社会の平和であれ、維持することはとても困難である。絶えず人間関係も国家の関係も壊れ、反感や敵意が生じてしまう。
こちらがどんなに平和をねがっても相手が理由なき憎しみを持ってくることもある。それはこの世の平和の大きな限界であろう。
しかし、そのようないかなる状況にあっても与えられるのが、主の平和である。言い換えると神から与えられる平和、神の国にある平和である。
キリスト教信仰を与えられてよかった、と思うのは主の平和(平安)(*)が与えられるからである。この世が与える平和とは全く異なる平和であるからこそ、主イエスが「私の平和をあなた方に与える」と最後の夕食の席で約束されたのであった。
このように、キリスト者の間でよく用いられる「主の平和」という言葉は、この時のイエスの約束がもとになっている。
(*)日本語では、平和と平安とはかなりニュアンスが異なっている。国と国の平和とは言うが、国家間の平安、などとは言わない。新約聖書では、平和(平安)という原語は、エイレーネー
eirene というが、それは92回出てくる。そのうちほぼ半数は、口語訳も新改訳も平和と訳し、残りの半数を平安と訳している。しかし、新共同訳はすべて 平和という訳語にしている。平和という言葉は、国家間にも使うし、心の世界にも使うが、平安というと国家間などには使われないためであろう。なお、旧約聖書でも大体その傾向であるが、新共同訳は旧約聖書では、平安という訳語は一部で用いている。
平和というと戦争や一般的な争いやもめごとがないといった、消極的表現を思いだすことが多いが、旧約聖書の原語のシャーロームは、そうでなく、「完成された、満たされた状態」という積極的な意味を持っている。
ヘブル語では、動詞のシャーラム は、完成する、不足のない、平和な、全うする、満ちる、十分、真実などという訳語があてられている。
このことは、シャーラムが使われている聖書の箇所を参照するとわかる。
ソロモンは主の神殿で行われてきた仕事がすべて完了すると…(列王記上七・51)
・こうして彼は神殿を完成した。(列王記上九・25)
・主があなたの行いに 〔豊かに報いて〕下さるように。(ルツ記・12)
・アモリ人の悪がまだ、満ちない…(創世記十五・16)
このように、聖書における平和、平安という原語の意味は、「完成され、あるいは満たされた状態」であることが分る。
主の平和にある状態と反対の状態は、混乱と闇のなかにあって苦しんでいる状態である。なにが正しいのかどう考えたらいいのか、将来はみな死んでしまって善も悪も同じように滅んでしまうのだ、というように考えているときには何をしても力が入らない状態になる。努力してもよいことを目指してもみな最終的には滅んでいくのなら、すべては無意味になるからである。
このような状態は私自身かつて経験したものであって、それはまさしく闇であり混沌であった。
そうした状態からたしかにこの世の一時的な平安ではない、主の平安というべきものを与えられたのであった。それはたしかに聖書の巻頭で言われている次のことが、私の内にも生じたのである。
…地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記一・2~3)
闇と混沌の中に、神の光が注がれるときすべての解決がはじまる。それは主の平安(平和)そのものである。キリストを信じた人は、さまざまの国々で圧迫され、数知れない人々の命が奪われた。そのような迫害を受けて最初の殉教者となったステパノは、死の直前に、復活したイエスが、神の右に座しているのが見えたという。そしてその天の国のキリストを見つめながら息を引き取ったと記されている。
復活のイエスは光そのものである。周囲の人たちに憎しみのあまり、石で撃ち殺されようとするときにこのような特別な世界をまざまざと見ることができたこと、それはたしかに闇と混沌のただ中に、神の光が差し込んだゆえであった。それゆえに、ステパノは人々が理解しようとせずに自分に激しい敵意を持って襲いかかったことへの恐怖もなく、理解してもらえない悔しさもなく、敵対する人たちへの憎しみでもなく、深い平安を与えられつつ、息を引き取った。それはまさに「主の平安」が与えられた人の究極的な姿であった。
このように、主の平安(平和)というのは、計り知れない強靱さと深さを持っている。いのちを奪われるという恐怖、石を投げつけられるという激しい痛み、憎しみの炎がうずまくようなところにあってなお持ち続けることができるような性質のものだとわかる。
このような驚くべき平安は、日本の江戸時代における恐ろしい迫害のなかにも多くみられた。それは、宣教師たちが克明な記述を彼らを派遣していた国に書き送っていたのが、保存されていてそれらをほかの膨大な資料とともに書き綴ったのが、戦前の一九三八年に岩波書店から「日本キリシタン宗門史」全三巻として発行されていた。その中から一部を引用する。(現代の日本語として意味がわかりにくい一部の箇所は分かりやすい言葉に変えた。)
…豊後(大分県)にはひどい迫害があった。ここには、三カ所の伝道所があった。…迫害がはじまって一番はじめに取り調べを受けたのが、二組の夫婦と子供三人であった。みな着物をはがされて丸裸にされ、町を引き回された。ついで彼らは俵につめられ、街道に沿った竹や木で作った柵の中に積み重ねられた。彼らはこのままで一晩いた。そのうちの一人は、このためにひどく衰弱して二日後に息を引き取った。ほかの六人の信者は長崎に追放された。
別の町のあるキリスト者の妻は、処刑されることになった。その女に対して、役人が「つまらない宗教のために、この生きている間は苦しまねばならない拷問を受けて、それを耐えるとは、お前は馬鹿だ。こんな信仰によって生きているにしても、お前が救われると誰が保証しているのか。誰がいったい来世のことなど見たのだ。」と言った。
その女は、その役人に言った。
「来世のことは、この肉眼では見えませぬ。信仰によって輝いた心の目には、見えまする。しかし、信仰を持っていないお前さまは、暗闇に住んでいます。お前さまの今のお言葉は、そこから来る言葉です。」
彼女の夫とその兄弟たちは火あぶりの宣告がなされた。その女性は高貴な出身で、上品な生活に慣れていたが、4日間俵につめて、地上に放棄されていた。…二人の兄弟たちは柱につけられ、山のように積んであった薪に点火された。彼らは、「使徒信条」を唱えた。そしてまもなく、彼らの魂は、火ばかりでなく、神を愛する熱情によって清められ、天の喜びに入った。
役人たちから、苦しめられたその女性は早く刑場に行って、火炎のなかで死ぬことだけを望んでいた。死刑の執行人は彼女に、首を切ると宣告した。彼女は、肩のあたりに波うっている髪をぱっと前方になびかせて、刀の下に首を置いた。その瞬間、執行人は間髪をいれず一撃で落命させた。…(「日本キリシタン宗門史」上巻341~342頁より)
このような迫害を受け、家族のつながりも破壊され、耐えがたいような苦しみを受けるにもかかわらず、その信仰をまげることなく、すすんで命を信仰のゆえに捨てた。現代の信教の自由が保証された日本では想像もできないようなことであるが、こうしたことは、ここに引用した書物やローマ帝国時代の迫害のことを学ぶと、数知れず生じたことだとわかる。
このような信仰と行動を支えたものは、何であっただろうか。それこそ、主の平安であった。人間の自然のままの心の平和というのは、ちょっとしたひと言でも乱され壊されてしまうほどもろいものである。
しかし、こうした歴史上でみられる人たちの平安は、どのようなことが生じても揺るがないような強固さを内に秘めた「主の平安」であったのがわかる。主イエスが言われたように、「岩の上に建てた家」であった。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。」(マタイ福音書七・25)
おそるべき拷問を受け、命の危険にさらされるにもかかわらず、主がともにいたゆえに「主の平安」を持ち続けることができたのだといえよう。
このように、今後生じる激しい迫害においても、それを乗り越える力をもったものとして、イエスは、最後の夕食時に、教え、約束されたのであった。
シャーロームという、満たされ、完全にされている状態は、すでにエデンの園において象徴的に表されている。渇ききった砂漠のようななかに、水が湧き出ており、エデンの園はその水によってうるおされ、見るからに美しく、食べてよいものをもたらすあらゆる木を地に生えさせた。それはたしかに完全に神の祝福で完全にされ、良きもので満たされた状態であった。
そうした祝福された状態は、驚くほどあっけなく失われてしまった。それは、人が人間の自由意志をまちがって使って、真実な神の言葉に背いたからであった。そのために、無償で受けた大いなる恵みは失われ、エデンの園から追放されていった。その後の生活は、どうなったであろうか。それはアダムたちの子供であったカインの罪に対して神が告げられた言葉のなかに暗示されている。
「地上をさまよい、さすらう者となる」(創世記十一・12)ことこそ、神に従わない者が受ける罰なのであった。
落ち着くところがない、平安を得ることができずに絶えずさまようのである。これは魂に確固たる拠り所を持たない人間の心を象徴的に表す言葉である。主の平和とはまったく逆の、静まることのできない、安住の地を失った魂を表すのである。
こうした創世記の古い記述は、昔物語であって今日の私たちと何の関係もないと思われやすい。しかし、大きな罪を犯し、赦されない心、人から攻撃され平安を得ることのない魂は、今も昔もさまよい続ける。この世の混乱や闇のなかで、そのさすらいは止むことがない。
新約聖書のなかに、当時ユダヤ人から憎まれ、見下され、汚れているとされていた徴税人のザアカイは、金には不自由しなくなっていたが、この魂のさすらいがとどまることがなかったことが想定される。それゆえに、イエスが群衆とともに自分のいる地域に近づいてきたときには、何としてもイエスに会いたい、このお方こそ自分の分からないある力で魂を鎮めてくれるお方であるのかも知れないと強く引きつける力を感じた。
それゆえに、何とかして会いたいと強い願いを持った。だが背が低く人々によって妨げられ、直接に見ることもできないので、前方の大きな木に登ってそこからイエスを見ようとした。こうした大人にはふさわしくない子供のような行動のなかに、何か哀しげなもの、切実なものがひそんでいるのを感じる。
そしてそのザアカイの魂のさすらいをイエスは鋭く見て取り、イエスのほうから彼を見つめ、木の上にいるザアカイを見上げて、今日私はあなたの家にて宿泊したい、と言われ、ザアカイは予想もしないことで胸踊らせてイエスを迎え、そこで彼の魂のさすらいは止み、主の平和を得たのであった。イエスのひと言、その愛に満ちたまなざしを受けるだけで、長い年月さまよった魂はあらゆる欠けたものを補い、それらを満たすのである。
自分で獲得もできないし、家族や他人も与えることのできない主からの平安を受けたからこそ、ザアカイは、今までは固執していた財産からも自由な気持になり、誰からも命じられないのに、「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に与えます。またもしだれかからだまし取っていたらそれを四倍にして返します」(ルカ十九・8)と言うことができた。
このように、主からの語りかけを受けて、主の平和を与えられた人は、他者に自然と与えようとする心になる。一般的に言って、だれでも、神からよきものが与えられていると感じている人は、魂の平和を持つ。与えられていないと感じるひとは、平和を持つことができないで、さまよい続け、不満や不安が去ることがない。
新約聖書の相当多くが使徒パウロによって書かれている。
パウロは書簡でもまず、与えられていることを感謝している。それはパウロが主によって魂が十分に満たされていたからである。
例えば、彼の書簡は、新約聖書でもとくに重要なものであるが、その書簡で自分がイエスに全面的に仕える者となったこと、それは神から選ばれ、この世の生活から呼びだされ、福音を宣べ伝えるために遣わされた者となったということを書いている。
このようにすべて受動態で書いてあるのは、彼にとって根本的に重要なことは、すべて自分の力で獲得したというのでなく、神から与えられたという深い感謝の心があったのがうかがえる。
また、その最初の書き出しのところで、次のように祈りをもって書き始めている。
…私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。(ローマやコリントの信徒への手紙の第一章を参照)
ここには、パウロの絶えざる祈りが感じられる。手紙を書くにあたっても、まずそれを書く自分自身が主の平和を持ち続けていないと書くことができないし、それを読む側もまた、主の平和が与えられるようにとの祈りを込めつつ、書いていったのである。
主イエスは、最後の夕食のとき、次のように約束された。
…わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。思い悩むな。恐れるな。(ヨハネ福音書十四・27)
パウロはまさにこの主の平和を、復活して生きて働く主ご自身から豊かに受けていたのであったからこそ、その書簡でつねにそれを読む人たちにも同様な平和が与えられるようにという願いと祈りを持ち続けていたのである。
平和とともにすべての人が求めている愛について、平和との関係を見てみよう。
人間的な愛は、平和とは逆にしばしば激しく動揺する。とくに一般的には愛というと男女の恋愛を思いだす場合が多いが、それは熱烈になるほど、動揺も激しくなって相手のちょっとした言動に嫉妬したり、喜んだり、不満を持ったりする。また、相手が心変わりすると憎しみへと一転してしまう。
しかし、それと対照的なのが、神の愛である。神の愛、それは主の平安と深く結びついている。御国がきますようにと、神の御支配をのみ究極的な願いとして持ち続けている人にとっては、いろいろと間違ったことを言われようとも、一時的には驚いたり感情的になったりすることはあっても、じきに神のもとに戻って、平安を保つことができる。
主の平安、それは神が持っておられるような、神の国の平和である。それはすでにアブラハムにおいても見ることができる。アブラハムは、人生のあるときに、親族を離れ、郷里を離れて未知の土地に行け、と命じられた。そのとき、大きな動揺があったであろう。途中はどうなるのか、生きていけるのか、目的地はどれほど遠いのか、そこで別の人たちが住んでいるのはどうなるのか、途中で盗賊に襲われることはないのか等々。
このようなことへの心配によって動揺が大きいほど、神の言葉には従っていけない。聴こうとしない。アブラハムがしたがって行けたのは、神の言葉と共に与えられた平安な心であった。
途中のあらゆる困難にも打ち勝てる、導いていただけるといった固く神に信頼する平安な心がなければ決してそのようなはるか彼方の未知の土地へとは出発できなかった。
信仰とは、信頼であり、神への真実な心である。真実な心であるからこそ、信頼するのである。それゆえ、平安の根底にあるのは、信仰なのである。
神とともにある平和、神から受ける平安は、旧約聖書においてもアブラハムやヨセフなどのような人においても見ることができるが、詩篇には、主の平和への道と、その与えられたゆえの平安な魂の詩が多く含まれている。
その巻頭の詩篇第一編は全体の詩篇のタイトルのように置かれているが、これもまた、何が平安の道であるか、を最初に述べているのである。それはひと言で言えば、み言葉に従う道である。神を信じ、その神は愛と真実の神であると信じるからこそ、その言葉に従っていきたいと願う。そこに平安がある。その平安は水の流れのほとりに植えられた木のようなものであって、いつも命の水を与えられ、葉は茂り、実を結んでいく。
神を信じないとは真理の言葉があるとは思わないことであり、究極的な真理に背を向けることである。それゆえ自分や人間、あるいは人間の造った伝統や習慣、組織や国家などの命令に従うほかはない。
人間はいつも動揺しており、周囲の状況でおおきく動かされるのだから、そのようなものに頼る人間もまた、平安ではあり得ない。
このように見てくれば、詩篇というのは単なる個人の揺れ動く感情を歌ったものでは決してなく、荒れ狂うこの世のなかにあって、それに巻き込まれて混沌とした状態にならないように、真の平和、魂の平安の道を個人においても国家や世界全体に対して指し示すものなのである。
詩篇の第二篇は今月号で、その内容が世界の混乱の現状はどこに根本の原因があるか、そして真の平和への道は何によって来るか、についての詩であることを明らかにしたいと思った。
次の第三編においては、多くの人たちが自分を取り巻き、悪意と嘲笑をもって詩の作者の信仰を退けようとするなかで、必死に神に叫ぶ一つの魂がある。そして彼は、主に向かって祈り叫ぶことによって、ついに神からの応答を与えられた。神のみ声を聞き取るということこそ、私たちの究極的な平安の源なのである。
このように、この第三篇もまた、この世から主の平和への道をはっきりと示すものとなっているのであり、こうした見方をもってすれば、詩篇全体が平和への道を個人の深い体験や啓示を通して、また神ご自身がその背後にあって、人間に示しているのである。
また、広く知られている次の詩は、神からの平和を最も美しく、また親しみやすい表現で記している。それは魂の牧歌であるとともに、神の国からの音楽のように無数の人々の心に流れてきた。
…主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れない。
あなたがわたしと共におられるから。…
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれる。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴う。
わたしはとこしえに主の宮に住む。(詩篇二三篇)
この詩が最も愛されてきたのは、まさにそこに主の平和がしずかに満ちているからである。愛の神、力ある神が私を個人的に導き、魂の水際へとともない、神の国の目に見えないよきものをもって心を満たしてくださる。そして、たえず自分がリフレッシュされる。
たとえ死が近づくというような危険なところ、暗いところを歩むときですら、不思議な平安をもって対することができる。
また私たちの日常生活で、敵対する人、いわれなき憎しみを持ってくるような人を前にしても、それにのみこまれないように、あふれるばかりに豊かな霊的な恵みを注いで下さる。永遠に神とともにいることをはっきりと予感している。
主イエスが最後の別れの夕食のときに、あなた方は苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はこの世の力に勝利しているのだから、と言われたが、そのことをこの詩は一読して忘れることのできないような表現で表している。
この世の闇の力に勝利した魂、その世界はこの詩篇二三篇によって不滅の刻印を押されて続いてきた。この詩は、これが作られてから三千年ほどものちになって主イエスが約束した、主の平和を預言するものともなっている。
旧約聖書においてすでにこのような、主の平和への道は示されているが、それはまだユダヤ人のごく一部の人たちに示されただけであった。ユダヤ人のうちでも、相当多数は神とは恐ろしい裁きの存在で近づくと滅ぼされるといった感情を強く抱いていたし、律法という規則に縛られてそれを守らなかったら正しいとはみなされないと信じていた。
そうした場合には、神に近づいても一種の恐怖や裁かれるという不安が伴うのであって、深い平安は与えられないことになる。
こうした限界を根底から打ち破り、万人に主の平和への道を指し示したのが、主イエスであった。
…実にキリストは、私たちの平和であります。…(みずからの十字架上での死によって)規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エペソ信徒への手紙二・15~16)
主の平和、それはキリストが十字架によって死なれたことによる。ユダヤ人は世界のどの国も知らなかったときから、唯一の創造主であり、愛と真実の神を知っていたが、多くは律法によって縛られ、本当の自由や平和を知らないままであった。また、ユダヤ人以外はそうした神を知らず、さまざまのものを神々として拝んでいた。こうした神を知っているはずのものも知らないものも、その両者には相容れない深い溝があった。それをキリストは一挙にその溝をなくし、両者が持っていた古い体質を砕き、あらたな人間、キリストに結びついた人間を創造された。
それは、ユダヤ人の割礼など特別な儀式や習慣を守らなかったら平和も救いもないといった狭い民族的なものでなく、全世界に究極的な平和を与える道を示すものとなった。それゆえに、キリストの平和は以後世界中に伝わっていくことになった。
パウロがその手紙につねに、主の平和があるように、との祈りをもって書き始めているのも、その重要性を示すものである。
ここではとくにユダヤ人と異邦人の間の深い溝、敵意というのが言われているが、これは私たち一人一人についても言える。互いに愛を持てない関係、無関心であり、ときには嫌悪や敵意がある。そのような人間関係のなかにどちらかにキリストの平和があるときには、そうしたものが消えていく。キリストご自身が平和を教え、その道を指し示すというだけでなく、このエペソ書の言葉にあるように、「キリストは私たちの平和」だからである。
キリストを信じるだけで、平和がそこにやってくる。どんな敵意や憎しみのあるところにもキリストを心にしっかりと持っている人においては、その人の魂には主の平和があった。すでに述べたように、罪なくして最大の刑罰を課せられ苦しめられて死んでいくことを選んだ人たちには、私たちに想像もできないような主の平和を持っていたのがうかがえる。
主イエスが、弟子たちに行く先々の家で、まずその人たちの平安(平和)を祈れ、と命じられた。そして相手がそれを受け取るにふさわしくなかったら、その平和はあなた方に帰ってくると言われた。
聖なる霊が私たちの魂に吹いてくるとき、おのずから主の平和は生まれる。求めよ、そうすれば与えられる、という主の約束はこのような主の平和についても言われている。科学技術や経済、あるいは教育や文化がどのように発達しても、「主の平和」は近づくことはない。何にも代えることのできない、高価な真珠とも言えるこの主の平和を、この混乱した現代にこそ、多くの人に注がれるよう、祈り願いたいと思う。
この世を支配するもの
詩篇第二篇
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、
主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし怒って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた。」
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち陶工が器を砕くように砕く。」…
いかに幸いなことか
主を避けどころとする人はすべて。
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この詩篇第二篇は、第一篇と同様にタイトルのようなものがない。次の三篇から以降の詩の多数は「ダビデの詩」といったタイトルがついている。そしてそれらの詩の内容を少し見ただけで、苦しい叫びや、喜び、苦しみ感謝といった感情をそのままに表しており、「詩」だということは、だれにもわかるような内容である。そして一般的にいえば、そうした個人の悩みや苦しみなどを適切な言葉であらわしたものを詩と受け取っていることが多い。
歴史的な事件やそこに現れる特定の英雄的な人間を題材にした、叙事詩というのもあるし、戯曲の詩(劇詩)といったものもある。しかし、私たちが最も詩ということで思いだすのは、やはり個人の感情をうたった詩であろう。日本の詩は、古代から、五・七・五
の形がもとになっているのが多く、和歌とか短歌、あるいは俳句と言われているから、それらが詩のひとつの形、日本独特の形であると思っていない人も多い。
聖書における詩集は、こうした日本人が考えている詩とは大きく異なる内容を持っている。聖書以外の詩集は、ギリシャのもの、中国や日本のものであっても、人間が中心である。ギリシャの叙事詩であるホメロスの作品には神々が出てくるが、それは怒りや嫉妬、復讐など人間的感情がそのまま見られ、万物創造をなす神とは根本的に異なっている。
詩篇はそうした人間的な感情がテーマでなく、人間と神との相互の交流が中心となっている。創世記にある記述「天からの階段を御使いたちが上り下り」するという内容なのである。
この詩篇第二篇は、個人の苦しみや悲しみはまったく出てこない。
ここで歌われているのは、神の大いなる支配なのである。この世のさまざまの混乱や悪の力がはびこっている事実に直面し、それらに巻き込まれてしまうのでなく、そうしたこの世の大波のはるか上にあってこの世を見つめているまなざしがここにある。その神のまなざしと全世界を支配しておられる神の力がこの詩の主題となっている。
さらに、それだけでなくそのような大いなる神の支配の力を受けた王が新しく立てられるという預言がこの詩に含まれているという意味で、この詩が作られた後、はるか後に現れる完全な王イエスのことが指し示されているという点でも、特別に重要なものとなっている。
詩篇の詩は単なる個人的な感情を表すのでなく、第二篇のように、正義の力と悪の力の問題というこの世界の根本問題を扱っているのもある。詩篇のなかの多様な詩で歌われている内容は、個人を越えて万人にあてはまる人間の最も深い心の動き、心の叫びや願い苦しみや悲しみ、そしてそこからの救いを表しており、それが神ご自身が背後にあってそのような苦しみや嘆きを導かれていることが示されている。それは神ご自身のご意志や愛がそこに人間の作った詩のなかに刻みつけられているものなのである。
それゆえに、詩篇が人間の言葉であるにもかかわらず、神の言葉として聖書の重要な位置を占めているのである。神のご意志がこめられているゆえに、将来に起きる重要なできごとの預言をもその内容に含んでいるのである。
詩篇第一、二篇は個人的な感情を表すような叫びなどは書かれていない。内容を注意深く検討するとき、これらの二つの詩は全体の詩の言わばタイトルのように置かれていると言えよう。
「アシュレー」(いかに幸いなことか!)という言葉は、第一篇の最初にも出てきたヘブル語で第二篇にも最後にこの言葉が書かれている。このことからも第一篇と二篇はまとめて一つの内容であると感じることができる。
詩篇第二篇は、普通に言われる詩らしくないし、たいていの人は、意味が分かりにくいと感じるであろう。
最初から「どうして国々は騒ぎ立つのか」「人々はむなしく声を上げるのか」と疑問形で始まっている。
目には見えないけれども、万能の神、正義の神はおられ、必ず悪に対しては裁きを行われる、というのをはっきりと知っている者にとっては、世の中の至る所でみられる動きは、実に不可解なものだからである。
「地上の王」と書かれているが、日本人には「王」と言うと、昔話に出てくる王様といったイメージを持つことが多い。
現在では、国家の代表者は、大統領や首相という選挙で選ばれる人たちが圧倒的に多く、世襲の「王」がいるのは世界でもほんのわずかである。このように、私たちにはあまりなじみのない言葉ゆえ、自分たちには関係なく思いがちだ。このようになんとなく分かりにくいものがどうして詩篇全体のタイトルのようにおかれているのだろうかという疑問が生じるであろう。
これはその一例であるが、聖書は、一般の人がそのまま読むとどうも分かりにくいことがしばしばある。
この詩はずっと昔にユダヤの王が位に就くときに実際に歌われたものであるという。そのときの現実の状況は、周りの国々が新しい王を打ち倒そうという動きがあった。このような支配の力を奪い合うということはどこの国でもあり、日本の歴史においてもしばしば見られたことである。
この詩は、単に国々の王の支配権の争いの状況を書いているのではない。新しい王の背後には、神がおられ、王を起こされたのは神ご自身なのだ、という明確な気持がここにある。
人間同士の争いの背後には、真実で正義の神に敵対しようとする本質があるのをこの詩の作者ははっきりと啓示されていたのがわかる。
なにゆえ、国々は騒ぎたち、人々は空しく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王、支配者たちは結束して、主に逆らい、主が油注がれた方に逆らうのか。
「我らは、枷をはずし縄を切って投げ捨てよう」と。
ここには、地上の王たちの考え方が書かれている。そこに住む人々、そして彼らを支配する者たちや国々は、本当の王である神と、神ご自身が立てられた王(油を注がれた王)に逆らうという事実がある。
これは今も昔もあることで、神という本当の王(支配者)は要らないと、自分たちから捨ててしまおうという動きがある。神は、自分たちを縛る存在でしかない、じゃまものだという考えなのである。
このことは、福音書の中でもあるようにイエスを捕まえた人々が集まり、騒ぎ「イエスを十字架につけてしまえ。」と叫んだ状態と似ている。神に等しいお方で、神の愛と真実を持っておられた主イエスに対しても人々は尊敬ではなく、よってたかって騒ぎ、逆らったのである。
この世の力は、結束して本当の王であるイエスに対して対抗し、なきものにしようとする。これは、まさに詩篇の第二篇のはじめで言われているのと同じことであるのがわかる。詩篇第二篇はこうしたこの世に本質的な動きを鋭く見抜いて預言的に言っているのである。
四節からは場面が大きく変わり、地上の混乱とは非常に対照的に天上の世界に変わる。そこでは、神や真実に逆らうあらゆる動きに対して神は笑い、嘲けられる。どんなに大きく神に敵対するような動きでも神は笑われるのだ。
すぐに壊れてしまう動きであり、無意味でなんとむなしいことをしているのかと神は見ておられる。
そうした人間世界の動きに対して神がなされたことは、神のご意志を実行するための王を新しく起こされたということである。「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた。」(詩篇二・6)
七節以降に神がたてられた本当の王の性質について書かれている。
まず、第一に、その王は神の子である。旧約聖書では、モーセやエリヤ、ダビデ、あるいはエレミヤやイザヤといった大きなはたらきをした預言書であっても、「神の子」とは言われていない。
一部の新興宗教などで、人間みな神の子といわれたりするために、だれでも神の子だといった考えを持つ人もいるが、聖書の世界ではそのような誰でもが神の子である、といった考え方は全く見られない。
それゆえ、旧約聖書のなかでも、次のような言葉は異例のことなのである。
「お前は、私の子。今日、わたしはお前を生んだ。…」(七節)
神が特定の王に対して、私の子だ、神の子だと、言われたのである。それゆえ、この詩篇第二篇で言われている王とは、それまでのいかなる王とも異なる存在であって、神の権威、力を全面的に受けているという意味が込められている。その王に与えられた約束とは、次のようなものである。
…国々をお前の嗣業とし(*)
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち、
陶工が器を砕くように砕く。(八~九節)
(*)嗣業とは、相続する土地のこと。新改訳では、「ゆずりの地」と訳されている。
とくに、神と神が立てた王に敵対するような闇の力を打ち砕き、滅ぼす力を与えると約束されている。
この世では至るところに憎しみやそれが原因となる争い、領土を求めての戦争等々が見られる。そして善とか愛や真理などといったようなことはそうしたこの世の悪の力によっていとも簡単に滅ぼされてしまうように見える。実際にこの世を見ても善の力、あるいは真実なものが勝利していく、といったことはわずかしか見られない。とくに国家間においては、勝利を与えるのは、武力や領土の広さ、政治的駆け引き、策略、富などだ、ということは常識のようになっている。
しかし、この詩篇第二篇では、そのようなこの世の常識を根底から打ち破る見方がある。人間の悩みや苦しみなどに対する神の愛を信じてそれを受け取ることの重要性とともに、個々の人間や民族を超えた世界的な視野で見るときには、この見方が不可欠となる。
この新しい王とは、世界の国々をもその所有とし、地の果て、全世界にその支配を及ぼすという。
この箇所は新約聖書でもいくつかの箇所で、イエスご自身を預言している神の言葉として引用されている。以下に、この詩篇と新約聖書との関わりについて記したい。
主イエスが、その伝道の出発点において、神からイエスの本質について啓示があった。それは、天が開いてイエスの上に聖なる霊が降ってきたこと、そして天より「これは、私の愛する子、私の心にかなう者」という声が響いてきたことであった。(マタイ三・16~17)
また、十字架で死なねばならぬ時期が近づいたとき、イエスが三人の弟子だけを伴って高い山に登った時、やはり同様に、「これは私の愛する子、私の心にかなう者。これに聞け」という神の声があった。(マタイ十七・5)
このように、イエスは神の愛する子である、ということは、この詩篇第二篇に現れる表現がそのまま用いられており、それはこの詩篇に言われている王は、イエスによって実現したということが示されている。
さらにこのことは、イエスの弟子たちも次の箇所によってこの王とはイエスご自身にほかならない、ということを啓示され、確信をもっていたことが記されている。
…神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩篇の第二篇にも、
『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』
と書いてあるとおりです。(使徒言行録十三・33)
さらに、別の箇所でもこの「あなたは私の子、私は今日、あなたを生んだ」という記述がイエスを預言していると記されている。(ヘブル書一・5)
このように、神の子、というのは、イエスに対して特別に用いられるほど、重要な意味を持っている。父なる神がイエスに対して「あなたは私の子である」と言われるとき、それは神と「ひとつである、神と同一の本質を持っている」という意味を含んでいる。
日本では親子関係は上下関係を意味していて、ひとつであるといったニュアンスは幼児のときは、母親とはひとつになっているように見えるが、同じ親であっても父親との関係は薄く、また少し大きくなると一日の大部分は保育所などにいて離れているし、さらに成長すると親からはどんどん離れていく。そのため、親と子が一つだというようなことを連想することはほとんどないと言えよう。
そのため、聖書にある父なる神と子なるキリストという意味を、間違って捉えがちだが、聖書には特別な使い方があり、ここで言う子というのは、神と全くひとつである、同じ本質を与えられているということなのである。(*)
(*)エホバの証人(「ものみの塔」に属する信者たち)は、「父と子供を比べたら父がずっと権威ある存在だ。だから、イエスは子なのだから、父と子が同じではありえない」といった説明の仕方で、子なるキリストの神性を否定する。これは、聖書における「神の子」という独特の意味のなかに、現代人が持っている聖書と無関係な通常のニュアンスを持ち込んで、聖書の真理を否定する考え方で、この間違いに多くの人たちが引き入れられて正しい聖書に基づく信仰から引き離されるという事態が生じた。
聖書では、神の子というのは、父なる神とひとつである、完全にひとつであるということ、イエスの神性を基本においているので(特にヨハネ福音書やヘブル書の第一章など参照)、このようなエホバの証人のとらえ方は、新約聖書の中心にある真理を否定するものであるゆえ、聖書を使う宗教ではあっても、キリスト教ではないとされるのである。
神が直接に神の力をすべて与えて王を立てたゆえ、この世の王、支配者たちが、神自ら立てられた王を滅ぼそうとしてもそれは不可能なことである。
目に見えないけれど、この世界には本当の王がおられ、地の果てまでも支配する力を持っている。そして神は日本にある偶像のようなものではなく、人間には到達できない正しいもの・愛そのものなのである。その愛に反するものが悪であり、その悪の力を打ち砕く。「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩篇二・9)
このように、非常にはっきりとこの世の王(支配者)と本当の王が対照的におかれていることが分かる。主イエスは、当時の宗教や政治的な支配者たちに捕えられ、処刑されてしまったことから非常に弱い者のように見えるが、神の力を持っておられた。
それゆえに、殺されたあといっそう大いなる力がイエスを信じる人たちに与えられ、現代に至るまで全世界の国々にその力が波及し続けてきた。例えば、中国のような広大な国、アフリカのような貧富の差の激しい国など全世界へと広まり、至る所で主イエスの力が見られる。
以前、ニュージーランドへ行く機会があり、教会の牧師や信徒の人たちとの生活を体験することができた。そのひとたちの心を動かしているものは紛れもなく主イエスであった。二千年も前に殺された主イエスが、今も力を持ち彼らを動かしていて、初めて訪れた私にとても真実な交わりを与えてくださった。このようなことは読んだり聞いたりして、知っていたことであるが、実際にそこへ泊めてもらい、彼らと共に過ごしたことを通して、主イエスは人々の心の深いところで生きておられるのだと実感したことであった。
このように主イエスは強力な方であり、その力により、必ず悪は滅ぼされて行く。イエスを滅ぼそうとする人は自分の方が滅んでいく。主イエスを神の子と信じる人は、社会的にどんなに弱い立場にあっても、不思議な力が与えられ、守られ支えられる。
主イエスが、この詩篇でも約束されているように、神の力を与えられ、悪の力を砕くことについて、イエスご自身もつぎのように言われた。
「この石に落ちるものは打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(マタイの福音書二一・44)
「この石」とは支配者たちが十字架につけて捨てた石、主イエスのことである。
「家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に思える。」(マタイの福音書二一・42)
イエスを、すなわちイエスが持っておられる愛や真実といった本質に敵対し、それを滅ぼそうとする者は、かえって自分が砕かれてしまうと警告されている。
私たちは二種類の王のどちらに頼るのか。さまざまの国家や社会の組織において、それらを支配している力を持っている者たちは、しばしばキリスト教で言われているような本当のあり方を捨て去ろうとする発想を持っている。現在も、機会があれば軍備を増強しようとか、憲法を改悪しようとして、神の力や神の正義などを信じないで、武力、経済力などに最大の力を認めようとする勢力がつねにある。私たちに問いかけられているのは、そのようなこの世の王(支配者たち)にすがっていこうと思うのか、神がたてた本当の王である主イエスにすがっていこうとするのかということである。
…すべての王よ、今や目覚めよ。
地を治める者よ、諭しを受けよ。
畏れ敬って、主に仕えよ。…
いかに幸いなことか
主を避けどころとする人はすべて。(10~12節より)
この詩の10節からは全ての人々に対するすすめが書かれている。全ての王、今や目覚めて畏れ敬って主に仕えよ。悪に従って行かないようにせよと言われている。神の無限の力を知るときには、畏れをもってその神に従うことが唯一の道であり、そこには大いなる幸いがある。
このように第一篇では主の教えを愛し、それをいつも心に持っている人こそ、本当の幸い、上よりの祝福があると約束され、第二篇の終わりでは主にいつもより頼む人は幸いだ、とある。
世のいたるところに悪の力があり、強い力を持っている。私たちの内にもそうした悪の力(罪)が入り込み、自分自身も罪を犯し、また他者の悪(罪)によって苦しめられる。さまざまの悲しみや痛みも生じる。
しかし、私たちを苦しめる悪の力は一篇に記されているように、時至れば風に吹き飛ばされるもみ殻のように簡単に消えてしまうものであり、二篇には神の鉄の杖でそうした悪の力が打ち砕かれるのだということを神からの言葉として確信をもって記されている。
しかも、この地上にそうした悪の力を砕く、真の王、王のなかの王(King of kings 黙示録十九・16)である、キリストが人類のために遣わされるという約束が記されてあり、そのとおりに実現し、そのことを信じる人たちが今まで無数に起こされ、現在もそのキリストの目に見えない支配の力は決して変ることなく続いているのである。
神曲 煉獄篇 十七歌
怒りの罪の清め(続き)
ダンテは、ウェルギリウスと共にようやく、濃い霧に包まれた場所から出ることができた。怒りという罪が受ける罰と清めは、前方が全く見えない厚い霧状のもので苦しめられることであった。沈みかけた夕日が深い霧が薄れたところに見えてきた。その光に向かってダンテは、導きをするウェルギリウスとともに歩んで行った。その際、ダンテはウェルギリウスの一歩一歩に歩調を合わせてついて行った。このようなことがとくに記されているのは、何も見えない苦しみから逃れるには、理性の象徴たるウェルギリウスに忠実に従っていくことが必要だと言われているのである。ダンテが自分の歩みで深い霧から出て行けないのである。
ここでも、人間の意志や努力では越えることができないときには、他者の導きによってそれができるということが込められている。その導きをする存在とは、生きている人間である場合もある。またすでに地上にはいない人で著作物となった人、あるいは自然の樹木や野草、山々や海、川などさまざまのもの、また事故や大きな病気によって暗い闇に包まれたところから脱出することができたという人たちも多いであろう。
だが、やはり多くの人にとって決定的な導きは、人間によって与えられている。生きた人によって直接に導かれることがあればそれは大きな恵みであるが、その人間がいま生きていなくとも、書物というかたちでその人間の本質が残され、その書物によって導かれることは実に多い。
私自身もキリスト教信仰は、生きた人間によってはまったくだれからも何一つ暗示されることも誘われることもなかったが、すでにそのときには地上にはいない人の書物によってキリスト教へと導かれたのであったし、それ以前にソクラテスやプラトンといった哲学に導かれたのもまた、一人の思想家の著書であり、プラトンの著作から初めて哲学的思考とは何かを深く教えられ導かれたのであった。
ようやくダンテが厚い霧から出ると、そこから煉獄の山の頂上だけを照らして、ふもとの海辺のほうは暗くなっていた。そのとき、ダンテは、怒りによって大きな罪を犯した人たちの姿がありありと見えてきた。それは、周囲でどんな大きな音がしてもそちらに引っ張られないほどの強い力でその人たちの姿やそこでの言動が浮かんできたのである。
「ああ、想像の力よ!」(O imaginativa…)とダンテは、自分をそうした深い世界へと引き込む想像の力の驚くべき性質について思わず語らずにはいられなかった。(13行)
幾千ものトランペットが鳴り響いても、それに気付かずにおらせるほどの想像の力! 一般の人間にはそのような強力な力を体験することはできないだろう。しかし、人によっては、とくにこの想像力の賜物を豊かに与えられている人がいる。(*)
(*)ここを河出書房の訳は「空想」と訳しているが、原語をみればわかるように、ここは、英語でいえばimagination (想像)の力を述べているのであって、空想ではない。空想とは、現実離れしたことを思い浮かべることであるが、想像というと、現実の苦しみや喜び、できごと、あるいは未来に生じることなどをありありと思い浮かべることも含むのであってより広い意味を持っている。英語訳でも数種を参照したがすべて、imagination (想像)と訳されている。日本語訳でも、岩波文庫の山川訳、寿岳文章や生田長江訳も同様である。
私たちにとっても、他人の苦しみや悲しみをありありと思い浮かべる想像の能力はとても重要である。それは、神の御手がそこに加わるとき単なる想像でなく、他者の悲しみや苦しみを実感するほどになるであろう。エレミヤ書などには、人々が神に背いていったその行き着く先にはどのような破滅が待っているか、神殿や町々の崩壊、人々の叫びや悲しみなど、それを現実のものとしてありありと見、聞くことができたほどに想像は迫真の力を持って迫るものであった。
…ああ、わが腸よ、私はうめく。
わが心臓の壁よ、わが胸は高鳴り、私は黙することができない。
わが魂よ、お前は今、ラッパの音と、戦のさけびを聞く。
町の破壊が次々と知らされ、この国はみな荒らされる…(エレミヤ書四・19~20より)
このようにエレミヤはまだ現実には起きていない破壊と多くのひとたちの滅びゆく状況を、目の当たりにしたのである。それほど想像の力、そこに神の御手がのぞむときには強力なものとなる。
ダンテがここで特に想像の力の驚くべき本質について触れているのも、彼の畢生の大作である神曲は、そうした深い神の御手の触れた想像の力によって書かれたものだからである。
そのダンテの想像の世界に現れたものは、怒りによって生じた重い罪と裁きに関する内容が、ギリシャ神話から二つ、聖書から一つあった。ギリシャの一つは、ある王妃を欺いた王を取り巻く人たちに関するもので、王が、王妃の妹を取返しのつかない不幸に陥れたのを知って、王妃はその欺きを怒り彼女もまた大きな罪を犯してしまう、という内容である。(19~39行)
次の聖書の例は、旧約聖書のエステル記にある内容で、ペルシャの高官が自分に敬意をはらわない一人のユダヤ人に怒り、彼を磔の刑罰にしようとした。それだけでなく、その一人への憎しみのためにユダヤ人全体を滅ぼそうと策略を立てた。しかし、神の導きによってかえってその高官の悪意が暴露され、その高官自身が王によって磔とされた。
もう一つの例は、やはりギリシャ神話からのもので、ラティウムの王の娘ラヴィーナには婚約者がいたが、王妃はその婚約者が死んだと思い込み、そのときには、アエネアスという別の男と結婚することになることを非常に怒り、みずから命を断った。
このアエネアスは、トロイアがギリシャ軍の計略によって滅びたのち、戦乱のなかで妻を見失い、そこから父親を背負い、幼い子をともなって、未知の土地ローマへと逃れていく。それは、単なる逃避行でなく、滅び去ったトロイアの町に代わって新しいトロイアを建てるという使命を帯びていた。地中海を七年もの間、さまよい苦難を越えてローマにたどりつくが、そこでも敵対する力との戦いが待っていた。ようやくその敵を倒して、アエネアスは、ローマ建国の祖先となった。このアエネアスを主人公とした長編の詩をダンテを導くローマの大詩人ウェルギリウスが書いたのである。(*)
(*)邦訳では「アエネーイス」岩波文庫。全二巻。全体で八百頁にもなる大作で、一万行にわたる。この長編の詩はホメロスのイーリアスなどと似た内容を持っていて、単なる筋書きを興味深く読ませるといったことが目的の作品でなく、たくさんの地名、人名が出てきて読みづらいが、その戦いの表現の奥には高いところを吹いている風のようなものが感じられる。
王妃は、自分の娘のラビィーナとこのアエネアスとの結婚を非常に嫌って怒り、それは自分の命を断つほどであった。すでに述べたように、アエネアスはローマの建国の祖先となり、そのローマにキリスト教が深く根付き、世界の霊的中心となっていったのであり、そうした歴史における神のご計画そのものに、彼女の怒りは向けられたことになる。
ダンテがとくにこのことを背後に含みつつ、怒りというのは、自分が一時的に理性を失って損失を受けるとか他人にも罪を犯すように働くだけでなく、神のご意志にも背くことにつながるということを暗示しているのである。
怒りというのは、激しくなるほどにこのように相手を殺し、自分をも殺し、さらには神のご意志にも真っ向から逆らうことになっていく。それゆえに、こうした怒りの罪の重さをここでさまざまの例をとって読者に告げているのである。
身近にも、怒りというのはいくらでもあり、その失敗もどこにでもある。ダンテがこのようにそうした身近なところから怒りという罪とその裁きの重大さを言わず、ギリシャ神話や聖書からとったのは、この怒りということが人間に共通の重要な問題であり、歴史の動きにもかかわるほどであることを示そうとしているゆえである。
主イエスも、次のように言われた。
…昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。(マタイ五・21~22)
私が以前、初めてこの箇所を読んだときに、怒ることが、殺すことと同じような意味を持つと言われていることに意外な感じを受けたものである。怒るということは誰でもよくあることだが、殺すなどということはめったにあることでないし大多数の人とは関係ないことだと思っていたからである。
しかし、怒りが一時的なものでなく、繰り返しある人に向けられていくときそれは憎しみになって遂には殺すというところまで進んでしまう。怒りはそのように憎しみと深く結びついている。そして憎しみは人を殺すのと同じだということは、ヨハネの手紙でも記されている。
「兄弟(キリスト者の仲間)を憎む者は、人を殺す者である。」(Ⅰヨハネ三・15)
このように、怒りや憎しみというものが、愛とは正反対のものであるゆえに、聖書ではとくに厳しくその怒りの正体を明らかにしていると言えよう。
ダンテが怒りということが何を引き起こすかを神曲でさまざまの例を引いて述べているのもこうした聖書の見方の延長上にある。
このようにダンテは強い想像力によって、怒りの実体とその受ける裁きの世界をありありと知らされていたが、それは突然消えて行った。
それは、「我々の受け慣れた光より、はるかに強烈な光が、私の顔を照らした。」(43~45行)からであった。我々が受け慣れた光とは太陽である。私たちにとって太陽以上に強い光というものは考えられないが、それよりもはるかに強い光が射してきたのである。それは
天使の光であった。このような表現で言おうとしているのは、天使の光はすなわち神の光であってそれがいかに強力なものであるかを示している。
私たちは、この世はどこを見ても混乱や不和、誤解、敵意、差別、いじめ等々があり、世界的にみても貧困や病気、内乱、戦争等々絶えることがない。そうした実体を報道などで知るにつけてもこの世の闇を深く知らされて、知れば知るほど光よりも闇が深まっていくように思われるほどである。自分自身の将来を考えても、だんだん病気がちとなり、老齢になると動くことも制限され、ついには家族も友人もいなくなって家や施設で不自由な生活をせねばならないし、病院で孤独な病気との戦いを強いられる人も多い。そして最終的には死という底知れない闇へと落ちていく…それが人間が直面している現実だと言えよう。
こうした闇は今にはじまったことでない。ダンテの時代においても至るところでそのような状況があり、ダンテ自身も無実の罪に問われ、祖国から追放され、家族とも生活ができなくなり、さすらいの生活をせざるをえなくなった。それは深い闇のなかでの歩みであった。そのことは、神曲の最初に、彼が人生の半ばで正しい道を踏み外し、目を覚ましたときには、暗い森のただ中にいた。それは苛烈で荒涼とした峻厳な森であって、そのことを口にすることも、思いだすことだけでも、苦しさに耐えがたいほどであったと記している。(地獄編第一歌)
こうした闇を深く経験し、さらに地獄の闇をも通ってきたゆえに、彼は神の光とそれを受けた天使の光の強さをこの上もないものとして描写しているのである。
こうした闇に輝く光は、使徒パウロにも生じた。彼がキリスト教徒を迫害して国外にまで追跡していく途上で、突然、天よりの光を受け、復活したキリストの「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞いて、迫害者からキリストの最も重要な弟子へと変えられた。光とともに声を受けて変えられたのである。
現実の世界は至るところで闇があっても、霊的な目が開かれた者にとっては、神の光をはっきりと見ることができる、ということは、創世記の巻頭の言葉、闇と混沌のなかに光あれ!という言葉によって光があったということがそれを示しているが、ヤコブも逃げていく途中に天が開けて天使たちが上り下りするのを見たという。それも天の光を見たのである。
旧約聖書のダニエルもまた、そのような大規模な迫害のさなかに神の光をまざまざと見た人であった。
ダンテはその強い天使の光とともに、次の天使の言葉を聞いた。
「登り口は、ここだ」(47行)
より上の環状の道へと進むには、今歩いている道から登らねばならない。しかし、ウェルギリウスですらその登り口がどこなのかは分からないのである。これは、ウェルギリウスは理性の象徴であるが、理性的に哲学的に考察しても、霊的により高いところへと登ることはできないというダンテの体験に根ざした啓示を示すものである。いかに理性的な思考を重ねても、魂の目に見えない部分は、より高くへと登ることができないし、より清められるということもない、このことは、一見不可解なことに見える。理性は高度のはたらきであってその理性を適切に用いることによって、私たちの魂もより高みへと上がっていくと考えられるからである。
ダンテは哲学書も書いているし、当時の科学的な考え方も深く身につけ、論理的にものごとを考えていくことについても優れた能力も持っていた。じっさいに彼は、哲学書や詩を書くだけでなく、都市国家フィレンツェにおいて政治家としても活動していたのである。
そうしたさまざまの人間の精神的文化に通じていたにもかかわらず、彼は、より上に登るために、そしてさらなる清めを受けるためには人間のそうした思索や経験ではどうすることもできないことを洞察していた。
使徒パウロもユダヤ人のエリートとして優れた教師について学んだがそれでも罪を清め、より高きへと導くキリストのことは全く理解する力がなかった。彼もまた、復活のキリストから直接に光を受けて、「登り口はここだ」という啓示を受けて初めてユダヤ教の世界からより高いキリストの導く世界へと登っていくことができたのである。
現代の私たちにおいても、どんなに教育を受けても科学技術が発達しても、人の心がより清められているとか、より高い精神になっていると感じる人はほとんどいないのではないかと思われる。昔と比べて、現代の小中高校生また、大学生たちの心がより清くなったとか愛が増大した、真実を愛する心が深まったなどと感じる人はたぶんほとんどいないであろう。
天使によって、神によって導かれ、「ここから登れ、ここが登り口だ」という静かな細い声を聞くのでなかったら、私たちは高みへとは登れないのを自分自身や他人、あるいは世界の状況によって、現実に思い知らされているのである。
日々の生活においても、私たちは、たえず「ここから登れ」という上よりの語りかけを必要としている。その声を聞かなかったら、私たちは闇からの声に引き下ろされて罪のなかに沈んでいくことになるからである。
個人の祈り、また礼拝集会や家庭集会など、あるいはよき信徒同士の交わり、賛美により、よき書物、また周囲の清い自然のたたずまいによって私たちはそうした声を聞くことができる。
登っていこうとするとき、次の言葉が聞こえてきた。
「ああ、幸いだ。平和を造る者は! 悪しき怒りがそこにないからである。」
ダンテは、この天使の声を聞いたとき、自分の顔を翼で扇がれる感じがした。このときに、煉獄における第三の罪、怒りの罪が清められたのであった。神からの語りかけを聞くことは、今の私たちにとって力であり、また清めでもある。そして、ダンテが描いたように、私たちもまた、聖なる風が魂に吹きつけてきて、清めを受けることができる。
主イエスは、最後の夕食のとき、
自分の犯した罪を知って、悔い改め、その罪の罰として、またその清めのために何らかの苦しみを受けるとき、天来の風によって清められる、そのようなことに近い経験は現代の私たちも持つことができる。その苦しみが伴わないならば、人はその罪の重大性に気付かないゆえに、神は悔い改めの前に、あるいは悔い改めてのちにも何らかの苦しみや痛みを与えられる。
煉獄を歩むときにも、ウェルギリウスという導きを受け、より上に登るときにもその登り口が分からないゆえに、天使自らの語りかけによって登ることを得、そして罪を清められるのもまた天使の翼によって罪がかき消されるのである。
そしてその歩みも、日が暮れると一歩も前進することができない。
このようにして、煉獄の歩みは徹底した受動的なものであることが示されている。現代に生きる私たちにとって、煉獄の歩みとは、すなわちこの世の歩みだとみなすことができる。罪を犯し、その罪に気付かされ、苦しみを受けつつ、天を仰ぎ、赦しを受けていく。そして身近な導きをする使命を持った人、あるいは書物に導かれ、究極的には、聖なる霊や生きて働くキリストによって導かれていくのが私たちの歩みであるからだ。
ことば
(312)永遠の真理の新しい、実りゆたかな種子がわれわれの心に落ちて、そこに根をおろすことができるには、その前に不安(*)という鋭い、深く切り込む型の刃が、われわれの心のあとからあとから生じる硬い殻を、いくども切り開かねばならない。このような過程を経ていないと、実際に人生の根底にある本当に真実なものに対していつまでも無感覚でいるであろう。
われわれは多くの人生経験をつむことによって、全く苦難のない生活をもはや願わないという心境に達する。これが「永遠の平安の状態」である。
この地上では、苦難こそがわれわれの悪い性質からわれわれを守ってくれる、われわれの変りない番人であり、そのうえ、苦難がなければさらに堪えがたいであろう生活の単調さをも破ってこれを活気づけてくれるものである。
(「眠られぬ夜のために上八月三十一日」カール・ヒルティ著 岩波文庫)
(*)Angst 不安、恐怖、心配
・私たちは誰も、不安や恐怖、心労などを持ちたいと思わない。しかし、それがなければ、固い殻のようなものが、私たちの魂を次々に覆い、真理を感じる心も芽を出せず、成長していかない。固い殻を切り裂いて真理の芽が育っていくために、神はそれぞれの人にさまざまの苦しみを与えておられるのであろう。
主イエスも、「あなた方にはさまざまの苦難がある。しかし勇気を出せ。私はこの世に勝利しているのだから」と言われた。私たちは、苦しみによって固いものが壊され、この世の悪の力に打ち勝って下さった主イエスの平安を受けるにふさわしいものとされていく。
(313)神が私に望んでおられるのは、仕事を成功させることではなく、真実に生きることなのです。
私たちが神に向かうとき、結果は重要ではありません。重要なのは、真実さなのです。(マザー・テレサ)
God does not demand that I be successful.God demands that I be faithful.
When facing God, results are not important.
Faithfulness is what is important.(「MOTHER TERESA IN MY OWN WORDS」40P)
編集だより
○今月号に掲載した、「主の平和」は、去る五月十六日(土)~十七日(日)に、松山市で行われた第三十六回キリスト教徒無教会・四国集会で話した内容をより詳しく書いたものです。
主の平和は、議論したり、人間の努力や思索によっても与えられず、ただ私たちは主イエスが言われたような幼な子のような心で、静まって主を仰ぐときに与えられるので、
そういう意味では、どんな人にも与えられるものという感じがします。
○「いのちの水」誌四月号の19頁に「老いの坂道」というタイトルの小文を掲載してありました。それを読んで、あの内容は私(吉村)自身のことだと思って、私の健康のことを案じて下さって、はがきや手紙、あるいは電話を下さった方々がいます。
しかし、あの文章は、その前の頁の「ロバの子と落穂」などとともに、17頁に書いた広島の谷口 与世夫さんの「落穂」という文章からの引用であり、谷口さんが、79歳のときの文章なのです。引用したほかの小文のタイトルをゴシック体にしてあったのですが、この「老いの坂道」という文のタイトルは、レイアウトの校正ができてなくて、ゴシック体でなく、明朝体のままになっていたために、私の文章だとまちがわれたのだと分かりました。ちょっとした校正ミスでまちがって受け取られることがあるのをあらためて知らされたことでした。
○「いのちの水」誌には、今月号の、ベートーベンに関する記述のように、引用した本をなるべく、出版社名や著者、頁も書いています。それは、最近のようにインターネットで洋書も含め、簡単に、さまざまの本が入手できる状況にあるので、余裕のある読者の人には、実際に私が引用した書物を購入してもらって確認し、読んでもらいたいと願うからです。以前のインターネットなどがないときには、外国の本の場合、丸善などの洋書店に電話し、目録を送ってもらったり調べてもらって在庫を確認し、ない場合が多くそのときには海外注文ですが、何カ月もときには一年近くも要していたし、価格も高価であったときと比べると比較にならないくらい便利になっています。
原文のちょっとしたひと言がとても強く心に残ることがあるために、短くとも原文を掲載することがあるのは、そのためです。
休憩室
○梅雨が近いというこの時期に、雨がわずかしか降っていないために、県下最大の吉野川や那賀川といった大きい川にも水不足となって水の規制がはじまっています。
他方では、突然に局地的に豪雨があって大きな被害が出ることがあったりします。科学技術が発達してもこうした大規模の気象現象はどうすることもできず、ただ待つだけです。
自然の大きな営みの前には、人間はいかに小さい存在であるかを知らされます。
神の大きい御計画を前に、私たちもただ、祈り待つことの大切さを思わされます。
報告とお知らせ
○第三十六回 キリスト教無教会・四国集会の報告
今年は、松山聖書集会の担当で、松山市にて五月十六日(土)~十七日(日)に、松山駅前のスカイホテルで開催されました。テーマは、「主の平安」。開会礼拝は、松山聖書集会の冨永
尚兄の聖書講話。その後「主にあるお話し会」という会が四時間にわたってなされました。これは自己紹介の時間ですが、このように長時間をとってなされたのは四国集会でも初めてのことでした。
去年の全国集会(第35回 四国集会を兼ねて開催された)では、二百人を越える参加者であったので、一人30秒と時間制限をして全員による自己紹介がなされましたが、その短時間ではごくわずかのことしか話せなかったので、今回はそれを補うかたちで今までになく多くの時間をさいて行うことになったと思われました。平均して一人、五分前後は話せたのではないかと思われます。そのため、従来の自己紹介では語られなかったような詳しい歩みや信仰の証しが話されて恵み深い時間となりました。
その夜は、これも初めての試みですが、自由参加で、徳島の中川春美姉の司会によって、一時間三十分ほどを自由な賛美の時間とすることになり、いろいろな種類の賛美、すなわち今までにないメンバーによる賛美や、ふだんあまり無教会の集会で賛美されない、アメリカでは千人二千人といったたくさんの人たちによって大会場で歌われている大衆的賛美とでもいうべきもの、手話の賛美、静かな賛美などいろいろをリラックスした雰囲気のなかで歌うことができました。
翌日の日曜日の主日礼拝では、吉村 孝雄による聖書講話。「主が与える平和」(それにやや詳しく内容を付け加えたものを今月号に掲載)
その後は、主にある特別讃美がなされ、視覚障害者や聴覚障害者も交えてのデュエットやコーラス、手話讃美など。午後は、感話の時間でしたが、そのうち、那須
容平兄によって、五月はじめの第一回の青年全国集会に参加しての感話が話されて、今後いっそうそうした新たな集まりが祝福されて前進するようにと願ったことです。閉会礼拝では、東京、大阪、岡山、香川、高知、徳島からの参加者から今回の四国集会についての感想が述べられました。参加者は五十名。
10数年前に徳島聖書キリスト集会やその家庭集会に数回だけ参加した当時の小学低学年の子供であった人が、松山の大学に進学しましたが、その人が十年ぶりくらいにこの四国集会に参加したこと、また、私たちの徳島聖書キリスト集会に最近参加しはじめたばかりの香川県のご一家が、仕事の都合で日曜日だけの参加でしたが、朝五時に出発して参加されたということもあり、またふだんはどこのキリスト教集会にも参加されていない何人かがこの四国集会に参加されて信仰の力を新たにされたと思われました。
このように、ふだんの日曜日の集会とは別に特別に準備され、祈りを合わせての集会には、いつもの集会にはみられない何か新しいことがなされます。そこにこうした特別集会の意義があります。今後とも、毎週の日曜日の礼拝集会とともに、こうした各地での特別集会が多くの祈りとともに準備され、主のわざがはたらくところとなりますように、そして福音が伝えられる場となりますようにと願います。
○第三十六回 北海道 瀬棚聖書集会
今回のテーマは、「主よ、お話しください」だと決められました。この集会がこのテーマのように、静まってみ言葉を聞き取る集会となるよう、主の導きを待ち望みます。今回の瀬棚聖書集会では、二日間で、四回の吉村
孝雄による聖書講話とそれぞれの聖書講話の後に「感話、自由な話し合い」という時間がそれぞれ一時間ほど設定されています。これは今までのプログラムと比べて変更されたところです。その他、感話会、交流会があり、さらに十九日(日)には、日本キリスト教団
利別教会の主日礼拝で、やはり吉村 孝雄が説教を例年のように担当することになっています。
問い合わせや参加申込は、次のとおりです。(責任者の野中さんから送付された内容の抜粋)
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日時 2009年7月16日(木) 20時集合~7月19日(日)昼食後解散
場所 北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館 電話 0137-87-2072
講師 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会 代表者)
会費 一般 15.000円 学生 10.000円(部分参加も可能です。一泊食費込みで5000円) 宿泊費、食費、及び ファームステイ費を含む
申し込み、問い合わせ先 野中信成宛 Tel/Fax 0137-84-6335 〒049-4431 北海道久遠郡せたな町北桧山区小倉山731 Email: nobnari.trust-farm@ninus.ocn.ne.jp
締切 6月30日までにお申し込みください。(寸前でも対応は出来ると思います)
所持品 聖書、(讚美歌)、筆記用具、着替え、寝間着、防寒着(夜は冷えます)など
( 聖書は何冊かこちらにもあります。賛美歌は印刷して用意いたします。)
交通 ★JR函館本線「長万部駅」下車、長万部駅前発函館バス「北桧山瀬棚行き」に乗車
約1時間45分程で「瀬棚市街」下車、徒歩15分又はタクシー
★函館駅前発函館バス「快速せたな号」乗車、約3時間半で「瀬棚市街」着
★ 長万部発 6:41 9:05 10:53 12:50 14:36 17:28 19:16
★ 瀬棚市街発 6:26 7:48 8:53 11:31 14:43 16:15 18:31
★ 快速せたな号 函館駅前発 15:37 瀬棚市街発 6:17
○札幌での交流集会
毎年瀬棚聖書集会の翌日七月二十日(月曜日、休日)に、札幌での交流集会が行われています。旭川、釧路、苫小牧などからも参加者があります。場所は、札幌市中央区北二条西21丁目 北二条クラブ。電話 011-643-1141です。時間は、午前十時~午後二時ころまでです。吉村 孝雄も参加してみ言葉を語らせていただいています。今回は、私とともに香川県の方も瀬棚の集会と合わせて参加予定です。
○北海道からの帰途の予定。
去年と一昨年は、北海道からの帰途、各地の集会を訪ねてともにみ言葉を学ぶ機会が与えられました。今年もできればそのようにねがっていますが、長距離のことでもあり、体調が十分でなければこなせないので、まだ確定できていない状況です。近日中に決めたいと思っています。
○第九回 近畿地区無教会キリスト教集会
次は、準備委員の宮田さんから送付されてきた案内の抜粋です。
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… 今回は、人が生きるという原点に返り、この生き難い世にあって、神に造られた人が真に生きるとはどういうことか、「生きるとはキリスト」とはどういうことか、「フィリピの信徒への手紙」を中心に学びたいと思います。
そしてその中から、この世のどんな苦難によっても失われない「福音の喜び」を知り、「主において常に喜ぴなさい。重ねて言います。喜びなさい。」というバウロの切なる勧めに、集った一人一人が喜びをもって応えることができるなら、と願うものであります。
主日礼拝の聖書講話は徳島の吉村孝雄氏です。そして今年は、遠く山形からキリスト教独立学園校長の安積 力也氏をお招きして講演をしていただきます。
集会の内容は、深くそれでいて分かりやすくとねがって、聖書講話、講演の他に、数人の感話や、自己紹介、いつものように「内村鑑三を読む」「御言葉に聴く」の時間もあります。早朝の祈祷会は桂の香る広い公園で、毎年、さわやかな縁の風が印象的です。
主題:「生きるとはキリスト」…フィリピ書に学ぶ
日時:2009年8月8日午後1時~9日(日)午後1時まで
会場:ふれあい会館(075-333-4655)京都市洛西ふれあいの里保養センター
阪急京都線・桂駅下車・西口の市バス西5、西6で25分
会費:全日参加 9000円(一泊3食、9日の昼食代も含みます)
部分参加 一日1000円 (食事代は8日夕食2000円、9日昼食1000円) 学生 半額
申込要項:同封のハガキまたは、メール等でお申し込みください。
申込先:〒589-0004 大阪狭山市東池尻1-2147-1 ・ 1-114 宮田 咲子
メールアドレス saiwai1950@yahoo.co.jp
電話・FAX 072-367-1624
会費は郵便振替にて 郵便振替番号 00980-2-246936
加入者名 宮田咲子
縮め切り 6月30日
近畿地区無教会キリスト集会 宮田咲子、 宮田 博司、 那須 佳子、 那須 容平
○五月号の訂正
26頁4段目 次のように訂正下さい。スキャナで読み取った文で、校正が不十分でミスが残っていました。
Communion with her visible forms, she speaks
A various language; for his gayer hours
She has a voice of gladness. and a smile