主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。

(イザヤ書六十の二〇より)



 2010 1月 第587号 内容・もくじ

リストボタン応答がある世界

リストボタン新しさを生むもの

リストボタン竹林の拡大に思う

リストボタン権威を与えられること

リストボタン主の平和に向かって

リストボタン伝道の精神

リストボタンことば

リストボタン休憩室冬の星座

リストボタン報告とお知らせ

リストボタン集会日の一部変更


リストボタン応答がある世界

人間は応答を求める。動物のなかには単独で生活するネコ科のトラやヒョウなど、またクマなどいろいろいるが、群れで生活するシマウマやライオンなどもまた多い。
しかし、人間は社会的動物と言われるように、単独で生きることはできない。神のかたちに創造されたとある。神は愛であるゆえに、愛は人間同士関わりの中で存在するように、人間は本質的に愛による応答を無意識的にせよ求めている存在である。
この世界そのものがそのように応答する存在として造られている。これは神の創造されたままの自然についても言える。
例えば、青い空が広がっている。それを心を注いで、愛を注いで見つめるとき、その青空が私たちを見つめているのを感じるようになる。風を受けても何も心を注がないときにはただ強い風とか寒い風というようなものでしかない。しかし、その風も神からの何らかの愛にかかわるメッセージを含むのだと信じて受けるときには、たしかにそのような心にはある種の神の国からのメッセージが発せられているのが分かってくる。
私たちの方で、何らかの愛をもって見つめるときには、その対象もまた、何らかの愛をもって私たちに応答してくるのである。 これは万物を愛なる神が創造したこと、さらに新約聖書には、「すべてのものは、ことば(ロゴス)によって創造された。創造されたもののうち、ことば(*)によらないでできたものは一つもなかった。」と記されているようにキリストの愛によっても創造されているからだ。

*)ここで「ことば」とは、新約聖書の原語のギリシャ語でロゴスであり、この地上に約二千年前に生まれる前のキリストを表す。このロゴスという語は「理性」「言葉」などを意味するが、古代ギリシャの哲学者によって、ロゴスはこの宇宙の根源的な理性的存在を意味するとされていたこと、それに加えて、旧約聖書での神の言葉によって万物が創造されたという特別な重要性を兼ね備えた言葉として、キリストがまさにその双方の完全な成就した存在だとされて、このロゴスというギリシャ語がキリストを表すものとして用いられている。

求めよ、そうすれば与えられる、という有名な言葉も実はこのような相互の関係をも含むのである。私たちが周囲の自然に対して心を開き、語りかけ、そこからの応答を求めていくときには、相手の自然からも応答が与えられる。
天地に広がる大空や雲、星、樹木、草花、あるいは山々や谷川等々の自然は、神の直接の被造物であり、そこにはいかなる人間的意志も混入していない。それらは人間が存在するまえから存在しているものだからである。
それだけに、私たちはそうした自然によって、神のお心、ご意志の一端を知ることができる。
こうした自然の中に深い応答を実感した心の世界は、旧約聖書の詩篇で見ることができる。はるか数千年も昔からそのような深い感性があったのに驚かされる。

…主よ、あなたの慈しみは天にあり、
あなたの真実は雲にまで達している。
*
あなたの正義は連なる山々のようであり、
また裁きは深い淵のようだ。
**
神よ、あなたの慈しみはいかに貴重なことか。
人は、あなたの翼のかげを隠れ場とする。
人々は、あなたの家の豊かさに満たされ、
あなたの喜びの流れから飲む。
あなたの光によって、私たちは光を見る。(詩篇三六の六~十より)

*)新共同訳では、「あなたの真実は大空に満ちている」であるが、原文は 「雲」を意味する語が用いられているので、多くの英訳も …your faithfulness to the clouds.と訳されている。一部の英訳は新共同訳のように …your faithfulness to the skies.NIV)と訳している。なお、口語訳、新改訳も「…雲にまで及ぶ」。

**)「裁き」と訳された ミシュパト は、口語訳聖書では、裁きという訳語の他に「正義、公正、公義、公平」など多様な訳語が用いられていて、日本語のような単純な意味ではない。

私たちはこの詩の作者が、愛をもって青くひろがる大空や真っ白い雲を見つめ、心を注ぎだすときには、それらの青空や雲などから神の慈しみや真実が応答して帰ってくるのを体験していたのを知ることができる。そして、近くに、また遠くに連なる山々はただじっとしているのでなく、神の正義の揺るがぬ本性を私たちに語りかけているのであり、またその正義による裁きは深い淵のごとし、と表現し、海の無限の深い姿が象徴しているように、計り知れない深さをたたえていることを意味している。
こうした自然の応答の世界は、当然人間世界にも広がっている。
十二弟子を最初に主イエスが派遣されたとき、次のように言われた。

…町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 (マタイ十の十一~十三)

平和(平安)を相手に祈っても受けいれないような場合、その平安は祈った人に帰ってくるという。私たちが真実なよき心でなしたことは、相手になしたことであるとともに神になすことである。それゆえに人間が応答しない場合には、神ご自身が応答して、その平安を私たちにかえして下さる。
祈りも同様である。私たちがだれかのために祈るとき、相手から具体的な応答があるわけではない。しかし、この場合にも神がその祈りに答えて下さって、祈る人の心に平安や力を与えてくださる。そしてそうした人知れずに祈る心にはいつか、ふとしたときに具体的な何かが生じて、たしかに祈りが聞かれていると分る場合もある。
有名なぶどうの木のたとえも、こうした応答のあるつながりを言われたものである。

…わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。(ヨハネ十五の四)

まず私たちが今も生きてはたらいておられるキリストにつながっていよう(キリストのうちに留まろう)とするならば、それに応えて、主イエスもまた私たちの内に留まって下さるというのである。そしてその内に留まって下さるキリストがよきものを生み出して下さる。
神は愛であり、キリストも愛であるゆえに、このようなことが実際に行われる。愛とは絶えざる応答の世界であるからである。

 


リストボタン新しさを生むもの

新しい年を迎えて、日本では多くが正月休みとなり、飾りつけもなされて新たな年だという気持ちになる。
しかし、ユダヤ歴では、九月に新年が始まるということになっているし
*、中国や東南アジアの国の中には、一月一日も休日であるが、旧暦の一月一日をより重要な正月としている国々もある。

*)旧約聖書には、「この月をあなたがたの月の始まりとし,これをあなたがたの年の最初の月とせよ」(出エジプト十二の2)と記されているように、過越と出エジプトの月が信仰上でもきわめて重要であり、それを第一の月(正月)とされている。他方、「年の終わりにあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない」(出エジプト記二三・16)とも記されているように、収穫祭がなされる秋が正月であったことも記されている。現代のイスラエルは、私たちが使っている暦の九月に新年が置かれている。去年は、九月十九日、今年は九月九日が新年となっている。

このように、世界的に見ても正月は現在の太陽暦(グレゴリオ暦)以外にもいろいろとあるのが分る。
どのように正月の規定がいろいろとあろうとも、私たちが本当に新しさを感じるのでなければ、新年といっても大して意味はないだろう。
新学期、入社が全国的に始まる四月も、新しいものを感じる。人は、こうした外部の出来事や、服や車、家などを新調したときにも、新しさを感じる。
私たちの最も身近で常に新しく聞いたことを伝えているものがある。その名のとおりそれは新聞である。目新しいというだけで、その内容はしばしば読む必要のないこと、あるいは悪しき事件、災害等々がたくさんある。そしてそれらはほとんどの場合すぐに興味をひかなくなり、ゴミとして捨てられていく。このようにそうした新しさは、ほとんどはたちまち消えていくものである。
正月も、一週間もすればもう何も新しさはなく、いつもと同じような仕事や日常生活が始まる。 新学期や新しい車なども同様で、その新しさはすぐに感じなくなって当たり前のようになる。
人は、重要だと感じるほど新鮮な関心を持ってそれに対処する。有名人に人が群がるのも、その人物が重要だと思うからであり、そこに他にはない新鮮さを感じる人が多いからである。
とはいえ、そのような有名人というのは、政治家や歌手、プロスポーツの選手など、何かの事故や病気があるとたちまち消えていく。そしてしばしばそこに利権がからんだり闇の力との結びつきが生じる。そして新鮮さのようなものは汚れたものというイメージに変わってしまう。
本来重要な意味を持っているオバマ大統領の登場や自民党の古い体質を壊そうとする民主党の新鮮さですら、さまざまの問題が生じて数カ月でたちまち衰えを見せるという状態である。
こうしたすぐにはかなく消えていく新しさとは、根本的に違った新しさ、衰えることのない新鮮さを与えるものを聖書では提示している。
 それは聖書の巻頭からすでに見られる。 私たちが暗闇にあって、どう歩いていいのか分からないとき、そこに光が射してくるなら道がみえてくる。闇の中に永遠の光、言いかえると神の光を見出すこと、それこそは、新しさの根源なのである。
 そしてその神の光と本質を同じくしている永遠の命、聖なる霊のはたらきも同様にあたらしさを生み出す根源である。
 それらがあるところ、どんな人でも、新しさを実感する。毎日出会う大空や星、雲の動きすら、新しいメッセージをもって私たちに迫ってくる。
このような神の光を受けているとき、私たちは幼な子のような心でいることができる。幼な子が、母親を信頼しきって見つめるように、まっすぐにその光の方向を見つめることができる。そのような心こそ、つねに新しさを感じる心だと言える。

また、闇と共に混沌であったとあるが、例えば混乱して雑多な状態にある室内や机上を整理する、というだけでも新しい気持ちになるが、創世記の最初に、神が混沌としていた万物に神の言葉によって秩序を与えたと書かれている。
このように、神は、完全な闇と混沌のなかに、光を与え、その混沌に神の御支配の力をもって秩序を与えることで新しさを創造されていくということが最初から書かれている。
光があるとき、そこには新しさを感じる。あらゆる書物のなかで、ただ聖書だけが、いくら繰り返し読んでも読み飽きることがないと言われるのも、そこに光を感じるからである。
また、人間についても、信仰をしっかりもって日々罪清められている人たちはどこか新しさがある。それもその人の内部に主の光が輝いているからである。それは老人になっても同様で、若いときの美しさなどがもはやなくなり、顔はしわがたくさんでき、白髪であっても、キリストに結びついている人、祈りのある人は、そこに美しさがある。それはその人が神の光を受けているからである。
夜空の星もまた見飽きることのないものであるが、それもまた、闇に輝く光そのものであるからだ。
またいろいろのことに感謝することのできる心は、新しさを実感していることを表している。
 
…だから、わたしたちは気落ちしない。わたしたちは外見的には滅びつつあるが、内的には日ごとに新しくされていく。 (Ⅱコリント 四の16
*
Therefore we do not lose heart. Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.
New International Version

*)この箇所は、外なる人、内なる人 というように訳されてきたが、New Interpreter's Bible Commentary シリーズでも採用されている英訳(NIV)のように訳するのが、現代の私たちによりはっきりとその内容が理解できる。また、滅びる、新しくされる、という原文は現在形であり、ギリシャ語の現在形は継続の意味も含むので、この英訳のように訳される。

老化して、読み書きの能力も衰え、手足の力も弱くなり、記憶も不十分となっていくのに、どうして日々新しくされていく、と言えるのか、疑問に思う人もいるであろう。
しかし、キリストによって滅びから救い出された私たちの内には、主イエスが住んでいて下さっているのであるから、記憶力や手足の運動等々が衰えていこうとも、内なるキリストは衰えることがない。
 私たちは、見かけ上の老化現象によって人間全体が滅びつつあるように思いがちだが、霊的に見るならば、私たちの内に住んで下さっているキリストはそうした外見には関係なく、存在しつづける。
 老齢化とともに、人間の本質ではないような能力は次第に失われていくが、神と結びつく霊的な本質、それは内に住んで下さるようになったキリストでもあるが、その本質は私たちの肉体がいよいよその役目を終えたときには、そのキリストが残って私たちを新しい霊の体へとしてくださる。
 私たちは主と同じ栄光の姿に変えられる。という聖書の言葉は、そのことを意味している。
私たちの内に完全な光であるキリストが住んでいて下さるときには、何に接しても新しさを感じるであろう。
人間関係でも、初めて学校に入ったりして知り合った友人は新しい気持ちでつきあうだろうが、まもなく変わっていく。しかし、二人、三人の人間の間に、キリストがいるならば、その関係はずっと古びることがない。
キリストは光そのものである、それゆえに、キリストに従うときには、命の光を持つと約束された。キリストに従いつつこの世の仕事に従事するとき、この世の仕事も新しさを感じつつなすことができる。
本も同様である。ダンテの神曲やアウグスチヌスの告白などの古典には、永遠の光がそこにあるゆえに、古びることがない。さらにそれらよりはるかに完全な光がある書物、それが聖書である。聖書という書物は、至る所から光が放射されているゆえに、私たちは聖書をいつまでも持っていたい、読みたいという願いが持続する。
水野源三は、四十年近く寝たきりでしかも言葉も話せず、部屋から出られなかったような人である。もちろん職業にもつけず、結婚もなく、自分で好きなところに行くこともできない、起き上がることすらできない、そのような変化のない状況に置かれたなら、身心ともに老化して何も反応できないような状況に陥ってしまう可能性が高い。
 ところが、彼はつねに新しいものを日々実感しながら生きていた。それはキリストの光を常に見ていたからであり、キリストの言葉のように、命の光を与えられていた。それゆえに、詩が次々と生まれた。詩(短歌、俳句なども含め)とは、何らかの新しいものを感じなければ作れない。

かくれている 水野源三

緑も花もない冬の庭には
神の恵みはないだろうか
北風が吹き、雪が降る冬の庭には
神の恵みはないだろうか
かくれている かくれている
雪の下に 土の中に
神の豊かな恵みが

このように、隠れているのが見えるなら、そこには限りない新鮮さが実感される。この世には無数のよきものが隠れている。そしてそれは特別な光を当てないかぎり見えない。
 闇にある者は新しいものを実感することができない。よいもの、心を安らげるものが見えないからである。
しかし、光あれば、どんな闇にあっても私たちは新しいと感じるものなのである。逆に上よりの光がなかったら、どんな教育も旅行や勉学、研究、芸術なども本当の新しさ、新鮮なものを永続的に与えることはできない。
聖書とは、驚くべき新しさを全身をもって感じた人たちの心と行動の記録であると言えよう。預言者たち、それは先ほどの水野源三の詩と通じるものを持っていて、だれもみえていない神の大いなる恵みや神の力、あるいは悪に関する神の裁きなど、それらに光があてられてまざまざと見えたことが書かれている。

…わたしの戒めに耳を傾けるなら、
あなたの平和は川のように、
恵みは海の波のようになる。(イザヤ書四八の十七~十八より)

 神の戒めとはすなわち神の言葉である。 み言葉に聞き入るとき、平和は川のように次々と流れきて、心はつねに新鮮であり、新しい。川の流れは古びることがない。よどむことがない。
また、祝福も打ち寄せる波のようになる。そこにたえず新しさを感じる。日々、神の国からの波が打ち寄せる、そしてそれを心に受け取るときに日々新しい心となる。
聖霊、聖なる風も同様である。
 このように、私たち信じる者に、神からの平和が川のように流れ来て新鮮なものをもたらしてくれるのは、神が愛であるからだ。
 愛は、人間的な愛であっても、一時的ではあるが心に新鮮なものを与える。愛のないところは心が古びていくし、固まっていく。愛されているという実感は魂を生かす。人間の愛はすぐに移り変るし、何かちょっとした不真実があっても壊れていく。
しかし、神の愛は永続的に私たちに注がれているゆえに、神の愛を知らされるときには常に新しいものを感じる。十年、二十年という人間関係のなかでも、神がその内にいて下さるなら、その人間関係はつねに新鮮である。
しかし、神が内にいないなら毎日会っていても何も新たなものを感じない古びた関係となる。
立体写真とか映像などが次第に広がっているが、次々と移り変わり消えていくものをそのような立体的映像で見たところで一時の興味を満たすにすぎない。
もし、神が私たちの心にあるときには、単調な風景や毎日見る空や雲であっても、そこに日々新たなものを感じ、それらが立体的に迫ってくる。
主イエスは、「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神がそれらを養い、装って下さっている」と言われた。ガリラヤ湖の北部などには二月下旬から三月は美しく野の花が咲く。そうした無数の野生の花の群生を見て、神がそのようになさっている、とごく自然に言われた。
私は子供のとき、わが家にいたニワトリや山羊などが子供を育てるのをよく見てきた。そこにはたいていの人は新鮮なものを感じる。愛こそは新しさを実感させる原動力であり、動物が本能的に愛をもって子供にかかわっているというのがよく分るからである。
そのように、神がその愛により、その見えざる御手をもって、身近な一つ一つの樹木や野草、草花などを育てているのだと実感できるとき、そこには尽きることのない新しさを感じることができる。
さらに、毎日見る雲や風の動き、夜空の星などの無生物も、そこにも神が愛をもって、人間に向けてそのような変化のある自然を見せて下さっているのだと信じて受け取るときには、私たちをさまざまの手段で育てようとしてくださっている神の愛を感じる。そうした日々の実感は私たちに衰えることなき新鮮さを感じさせるものとなる。
このような実感を与える根源は、キリストそのものが与えるいのちの水にある。水は古き汚れたものを洗い流す。同様にキリストから流れ出るいのちの水は目には見えない心のさまざまの汚れ、よどんだものを洗い流し、かつそこに新たな命を注ぎ込む。

…わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出る。(ヨハネ七の三八)

よどんだものには流れはない。私たちの内に命の光たるキリストが住まわれるとき、それがもとになって、この聖句のように生きた水が私たちの魂の内から流れ出ると約束されている。言いかえれば、その人の心が一つの泉となる。そうなれば、外側の出来事に関わりなくその人は新しさを実感することになる。
このような尽きることのない新しさこそが、聖書が約束しているものであって、それは求める者には誰にでも与えられる。ここに喜ばしい知らせ(福音)がある。

 


リストボタン竹林の拡大に思う

わが家の裏山に竹が生えている。今から五十年以上昔は、手首ほどの太さにも及ばない細い竹が、何本か生えている程度であった。父がこれに肥料をやったら太い竹が生えるようになるといって、周囲の雑木を切り開き、肥料を次々とやっていた。何年か経つうちに、次第にひろがり、そして太くなっていった。それから半世紀を経て、折々には伐採もしていたが、相当な労力を要するために時間が取れず、それよりも竹の増殖するはやさが大きくなってきて、わが家のすぐ裏にまで迫ってきてそれ以上放置すると家の中にまで侵入しかねない状況になった。
こうした竹の状況は、全国的に同様で、手入れする人がいないために、どんどん竹林が増え、本来の広葉樹林をも破壊していっているというのを報道で見たことがある。
私が竹の伐採に苦労していたとき、いつも思わされたのは、竹の根の広がり方の強靱さであった。踏みしめられた固い土の中でも着々と根が伸長していく。
そして付近に生えていた雑木を次第に枯らしていき、竹ばかりが増えていく。
こうした状況は、この世の状態をも暗示していると思った。悪いものが根を張ってひろがりはじめると、次第に次々とその組織に浸潤していき、よいものを駆逐していく。同様に、一人の人間の心の世界においても、悪しき力が入り込むと、徐々に子供のときに持っていたよきものがだんだんと枯れていく。
大体において、聖書にも最初から書いてあるように、この世には悪しきもの、目に見えない悪の霊(力)のようなものがあって、人間の心のなかにその根を広げていく。そしてかつて持っていた純真さ、幼な子らしさ、感動する心などが次々と枯れていく。
そして大人になって生きていく過程で、美しいもの、清いものへの感動や関心を失っていくことが多い。
しかし、これと全く逆の状況にもなる。一つの清い種、天来の種がある人の心の中に入ってそれが徐々に根を張ってその人の精神世界全体に広がっていく。それによって入り込もうとする悪の力、悪霊ともいうようなものが入り込まない。そしてその人の心にはさまざまの良きものが芽生え、成長していく。固いかたくなな心の部分をもその良き種から出た根は壊していく。 そして変化に富んださまざまのよきものが成長していき、花を咲かせ、実を結んでいく。
この世は、悪の根のようなものが伸長していくのと、良きものが根を張っていくのとの戦いである。
キリストが生まれたときは、へロデ王の時代とある。この王は、自分の王位を守るため、妻や子供すら次々と殺害していった深い闇をもった人物であった。イエスが誕生したときに新しい王が生まれたと聞いて殺害しようとしたが見付けることができなかったために、付近の幼児をみな殺害したということが聖書に書かれている。
そうした悪の根が広がっていた時代に、イエスは誕生した。そしてそこから良き根を広げていった。この良き根の出発点は暗く汚れた家畜小屋で生まれた一人の乳児であったが、そこから着実に根を民衆の心に広げていった。
数十年後、権力ある人たちの手によってイエスは十字架で処刑されたが、それも新たな神の霊的な真理を伸長させていくための出来事であった。
そして、数十年という短期間で、広大なローマ帝国全域にキリストという大樹の根は広がっていった。そしてさらに、ヨーロッパ全域にその根を延ばし、アメリカ大陸へ、またアジアの全域に、さらに世界の果てにあった日本にもその真理の根を広げてきた。
どんなにその真理の伸長を妨げようとしても、その伸びていく力をおさえることはできない。
竹は肥料があるとぐんぐんとそこに伸びてきて広がる。
しかし、福音の真理は、富も能力も健康など、この世で評価されるものが何もなくとも、そこにかえって根を広げていくという不思議な性質がある。
キリストの真理は、この日本には根を降ろし、張っていくということがとくに少ないゆえに、さらに福音の真理がこの日本の人々の心に広がっていくことを私たちも今後一層願っていきたいと思う。

 


リストボタン権威を与えられるということ

現代において、何をするにも権威(資格)がいる。会社に就職するにしても、高卒の資格を必要とするところは非常に多いし、教員や医者になるとか、はりやマッサージをする、パイロットになるなど、当然資格が必要である。会社に入社するにしても、試験を受けて一定の評価を与えられないと入れない。
イエスの時代にも、資格、権威ということが大きな問題となることがあった。
イエスが神殿の境内で教えていると、祭司長や民の長老たちが、「何の権威でこのようなことをしているのか、誰がその権威(資格)を与えたのか」と詰問した。イエスの当時も、神殿で語るには、当時の議会での承認を受ける必要があり、その議会のメンバーとは、祭司長や長老、律法学者たちであった。権威者たちから認められて初めて神殿で教えたりすることができたのである。
イエスはそのような認定や資格を得ることなしに、教え語っていた。
宗教の世界でも、例えばキリスト教でも、一般の教会では、牧師や神父になるためにはそれなりの資格が必要とされる。
この世はそのような資格や権威ある組織や人間によって認めてもらわねばいろいろなことができない。
このイエスの当時も同様であった。そのとき、イエスは、自分が人々を教えているのは神から直接にその権威を与えられているからだということをあえて言われなかった。
真理に耳を傾けようとするのでなく、イエスをわなにかけようとするような悪しき意図をもって近づいてくる心のかたくなな人たちには、イエスは真理を語らなかった。
このことは、私たちにおいてもあてはまる。自分の考えにこだわっていて、それが正しいと信じているかぎり、神の国の真理は入ってこない。主イエスが「幼な子(*)のような心で神の国を受けいれるのでなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ十の十五)と強い表現で言われたとおりである。

*)この幼な子と訳された言葉(ギリシャ語でパイディオン)、生後八日の乳児にも使われている。(ルカ福音書一の五九)

イエスが言われたように、幼な子のように真っ直ぐに仰ぎみることによって神の国に入る、すなわち神が実際に支配されている目には見えない世界に入ることが許される。それによって権威が与えられる。神の国に入らない者には、神の国にだけあるそのような価値あるものは与えられないということになる。
キリスト教の中心にある真理は、キリストの十字架の死は私たちの罪を身代わりに負って下さった、ということであり、そのことを信じるだけで実際に赦しの実感を与えられ、感謝が湧いてくる。
また、ペテロたちによる最初の福音伝道は、キリストは死の力にも勝利して復活したということを証言することであった。キリストの復活を信じるという、ただそれだけで、福音を宣べ伝える権威(資格)が与えられた。真のキリスト教はきわめて単純なのである。
これは誰かの個人的な意見とか考え方、特定の教派だけのものということではない。あらゆるキリスト教の教派が生まれた根源である聖書そのものに記されていることである。
キリスト教は、キリストが殺されてしばらくしてから突然強力な力をもって福音が伝えられていくようになった。ふつうの人間なら、そのリーダーが殺されたりすればそれでその運動は消滅していくというのが実に多い。
だが、キリスト教は逆であった。リーダーであったキリストが殺されたにもかかわらず、全世界に向かってめざましい福音伝道の働きが生じていったのである。
その弟子たちが聖霊によって力を与えられ、キリストの復活を宣べ伝えはじめたときも、イエスの時と同様に、議会の議員たち長老、律法学者たちが次のように非難した。

「お前たちは、何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」(使徒言行録四の7

弟子たちは、十二人のうち、四人までは漁師であったし、ユダヤ人から憎まれ、差別されていた徴税人、ローマ帝国の支配に武力闘争を企てるような人も含まれていたのであって、そういう人たちが、ユダヤ人の議会から宗教上のことを他人に教える資格が与えられるなど、考えられないことであった。
そのような全くの無資格者が突然宗教上の主張、証言をたくさんの人々の前ではじめたのであるから、当時の支配者たちが驚き、怒ったのも当然のことだと言えよう。人々の上に立っていた祭司などの指導者たちは、弟子たちを逮捕し、牢に入れた。翌日弟子たちを引き出して問いただした。何の権威によってそのようなことをするのかと。
弟子たちは、そうした支配階級の人たちの詰問に対してどのように答えただろうか。答え方によっては牢から出してもらえずに、暗く汚い牢で病気になるか、厳しい処罰などを受けて生きていけない、家族もどうなるか分からない…といった状況があった。将来のことを考えたら、到底安心できない不安や恐れがあった。
しかし、弟子たちは、そうした人間的なものを見つめず、真っ直ぐに神を見つめ、神のなさったわざ、すなわちキリストの復活ということを見つめていた。
その姿勢こそは、主イエスが言われたこと、幼な子のような心であり、神のわざたる復活の事実をのみしっかりと見つめていたのである。そのような姿勢はすでに真理を宣べ伝える資格、権威が与えられていたことを示すものである。
彼らが主イエスの復活を信じたとき、その資格は与えられ、それからしばらく後にみんなで集まって真剣な祈りの日々を重ねていたときに与えられた聖なる霊こそは、その資格を実行に移していく力を与えることになった。
イエスとともに十字架にて処刑された重い犯罪人も、死のまぎわにイエスが、殺されてもなお復活し、神のもとに行くことを信じていた。弟子たちすらキリストの復活をなかなか信じられなかったのに、この重い罪人はいかにしてそのような信仰に達したのか、記されてはいない。それは、神ご自身がその犯罪人の魂に直接に触れたからであった。
また使徒パウロも、キリストの真理を迫害して撲滅しようと全力をあげていた。そのさなかにキリストの光を受けて突然キリスト者に変えられた。そしてただちに、キリストの復活を証しし、十字架の死が人々を罪から救い出すためであったことを宣べ伝えはじめた。
ここでも、ただ信仰によって、また神からの一方的な光によって福音を伝える資格、権威、そして力が与えられたのがわかる。
このように、キリストの十二人の弟子たち、そして最大の使徒といえるパウロも共通しているのは、キリストから直接に権威を与えられたということである。
これは現代の私たちにとっても重要な結論を与えるものとなっている。
私たちもキリストの福音を宣べ伝えるためには、何等人間や人間の作った組織による承認などは不要であるということである。直接に神(キリスト)からの光を受けること、信じること、そして聖なる霊を受けることによって誰でもが、福音を伝える権威(資格、力)を与えられるということなのである。
これは特定の教派とか、だれかの個人的考えということでなく、聖書そのものが語っていることであり、ペテロやパウロたち使徒自身が経験してきたことなのである。
わたしも、ただ主イエスが私たちの罪を身代わりに担って死んで下さった、と信じるだけで全く新たな世界、目には見えない世界へと導かれた。そして福音を伝える力(資格)を与えられた。
万人祭司というのはプロテスタントの特徴だというが、そしてあたかもルターの考え方だと言われたりするが、それは実はルターの個人的意見というものでなく、聖書そのものが次のような箇所において述べていることなのである。

…あなた方は、選ばれた民、王の系統をひく祭司、聖なる国民、神のものとなった民である。 (ペテロ前書二の九)
…わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように。 (黙示録一の六)

このような聖書の箇所をそれまでは軽視していたが、ルターがその箇所の重要性に気付いた、あるいはその重要性を特に啓示されたということなのである。万人祭司ということは、キリストを救い主として信じて受けいれた人は、みな祭司、すなわち神と人とを橋渡しする存在になる、ということなのである。

神とキリストを信じた者には、ある権威(資格、力)が与えられる。それはすでに述べたように福音を説くということである。そしてさらに、病をいやし、死んだような者に新たな命を与え、悪の力を追いだす権威をも与えられた。これらの力(権威)は、多くのキリスト者にとっては与えられていない、と考えられがちである。
しかし、信仰を与えられた者が病気に悩む者に福音を伝えたことにより、その病気の人が新たな力を与えられて、心に光を得、その病気の重荷がずっと軽くなっていく、ということは一般のキリスト者にも経験されることである。死んだような絶望的な人にもやはり福音を伝えることによって生き返ったようになって新たな生活をはじめていくということもある。また、悪しき習慣からどうしても抜け出せない人がそこから解放されたということもある。
このように、イエスが、生前に弟子たちに与えた特別な権威は、やはり現代でも与えられている。
さらにヨハネ福音書においては、罪を赦すことさえも与えられると記している。

…そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
(ヨハネ二〇の二二~二三)

罪を赦すということは、魂の最も奥深いところのことであって、人間には決してできないはずのことである。しかし、ここでは、重要な条件がある。それは聖霊を受けるということである。聖霊とは神やキリストご自身の霊であり、その聖霊が深く留まるなら、その聖霊が他者の罪を赦す力を発揮するということである。
別の箇所で、次ぎのようにも言われている。

…あなたがたに真実を告げよう。わたしを信じる者は、わたしのしている働きをする。そればかりか、もっと大きい働きをする。 (ヨハネ十四の十二)

このようなことは、普通に考えると到底ありえないことである。イエスは神の子であり、神と等しい力を与えられているのであって、我々人間は罪深く、少しのことでも動揺し、決心してもなかなか実行できないような弱いものにすぎない。それなのにどうしてこのようなことが言われているのか、だれしも不可解に思うところである。
これも、イエスを本当に深く信じるとき、そして同じヨハネ福音書で言われているように、イエスのうちに留まり、イエスが私たちのうちに留まるならば、何でも求めよ、そうすれば与えられる。という約束に含まれることである。相手の罪の赦しさえ求めると、赦されるということである。 それは弱い人間がすることでなく、私たちのうちに留まっておられるキリストがなされるのである。先のキリストの言葉も、イエスの生前の働きは、肉体を持っていて、イスラエルの失われた羊のところに行くという限定された働きであったが、弟子たちが豊かに聖霊を受けてからは、広くローマ帝国全体に伝えられた。弟子たちが祈って聖霊を待ち望んでいたとき、突然大きな風の音のように聖霊が注がれ、ペテロたちは力強くイエスのことを証言をした。それによって信じるようになった人は、三千人にも及んだという。(使徒言行録二の四十一)またそこから全世界へと伝える働きがなされていった。それはたしかに、生前のイエスよりも大きな働きをしていったということになる。
このように、神の本質である聖なる霊を受けるとき、人間は到底予想もできなかったようなことをなすようになる。
これは、神の子になる権威(資格、力)を与えられたからである。
このように、汚れた弱い者であるにもかかわらず、神の子供たち
*としていただける。

*)「神の子」と訳されているが、原文は、テクナ セウー tekna theou であって、神の子供たち である。英語訳では children of God となり、ドイツ語、フランス語など他の外国語訳でも、すべて複数形として訳している。日本語には複数形がないために、単数のように受け取られ、イエスが「神の子」であるのと同様に神の子となるのか、とまちがって受け取られる可能性がある。イエスは神の子である、というとき、原文の表現は、ヒュイオス セウー であって「子」という原語が異なる。

人間はだれでも神の子(子供)であるのに、なぜイエスを信じた人だけが神の子供たちになるのか、しかも神の子となる権威(力)を与えられる、と書いてあるのだろうか。
たしかに神が創造したという点では、どの人間も神の子供たちだと言えよう。だがそのように神の子を広く考えるなら、動物も植物も無生物もみな、神の子供たちだ、ということになる。
聖書では人間は誰でも生まれつき神の子供だ、という表現はどこにも見られない。神が創造されたゆえにある意味では神の子供たちである。しかし、子供であるなら創造した神を「お父さん」と呼ぶはずであるが、自然のままの人間にはそのようなことはない。
 特に日本人は大多数の人がそのように呼ぶことはない。唯一の神そのものを存在しないと考えているからこのことは当然であろう。
 生涯のあるときに、何らかの啓示を受けるのでなければそのように目に見えない方に心を注ぎ、魂の父親と慕うようにはならない。
だが、イエスを信じたときから、私たちはイエスと共にあり、イエスを派遣された神を魂の父親として感じるようになり、神様に対して、「お父様」と言えるようになる。
そのとき初めて神の子供たちの一員となったわけである。普通の親子でも、子供が親を親と思わず、暴言や暴力をはたらくなら、そのような子供は形式的には親子であっても、心のなかではつながりが断たれている関係である。 逆にたとえ血縁はなくとも、貰い子であっても、その育ての親を敬愛して心からお父さんと呼ぶことができているなら、その関係は本当の親子の関係だと言える。
神と私たち人間との関係も同様であって、神が真に父であるなら、神をお父様と呼び、神の側からも私たちを愛する子供として扱って下さり、父親が子供の願いに応じてよいものを与えるように、神も必ず慕い求める子供の願いを聞いて下さっていると信じることができる。

…あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ十一の十一~十三)

ヨハネ福音書において、全内容の要約といえる第一章に、とくにこのイエスを信じる者には、神の子供となる権威(力、資格)を与えると記されているのは、このように生きた親子の関係として、たえず良きものを与えられるという特別な地位にして下さるということを非常に重要なこととしているからである。
しかも、このような地位になるための資格は、特別な修行とか能力、経験も不要である。それどころか過去にどんな重い罪を犯した者でもただ、悔い改めてイエスを信じるだけで、神の愛する子供としていただけるというのである。
十字架上でイエスとともに処刑された重罪人も、ただ悔い改めてイエスが神と同じような存在であることを信じ、死んでもよみがえって神のもとに帰ることを啓示されていた。
彼はただ主イエスを信じるというだけで、―もちろん水の洗礼や組織に入るなどはなく、直接にイエスから、「あなたは今日、パラダイスに入る」という救いの約束を与えられた。神の子供となるのだ、という宣言であった。これは最悪の人間とされた人でも、ただ信じるだけでただちに神の愛を受ける子供とされる特権(資格)が与えられるということをはっきりと示すものである。
この世が与える資格を何一つ取れないような病気の人、体に重い障害のある人、また罪深い生活をして牢獄に入れられた人、また、老年になってこの世の資格ももはや役に立たなくなった人でも、神の子供としていただき、神の国に入れていただくための資格を失うことはないのである。

 


リストボタン主の平和に向かって

 旧約聖書のサムエル記というのがある。今から三千年ほども昔のことを記している書物である。それは上下に別れていて百ページほどもあるかなり内容の多い書物である。サムエルは上巻の半分ほどにしか現れず、サムエル記の多くの部分はダビデが中心の記述となっている。にもかかわらず、書名がダビデ記でなく、サムエル記となっていることのなかにも、サムエルの歴史的重要性が古くから人々のなかに刻まれていたからであろう。
サムエルという預言者の重要性、それは王のいなかったイスラエルに、王という存在を導いた人物であり、そこからダビデ王も現れ、その子孫としてキリストが現れることになった。このことから考えても、サムエルは歴史の流れのなかで神の言葉に従い、大きな分岐点を作った人物ということになる。
そのような重要な役割を果たしたサムエルは、ハンナという一人の女性の苦しみと悲しみから生まれた。ハンナの夫は妻が二人いたが、そのうちの一人は子供が生まれたが、もう一人の妻ハンナには子供が生まれなかった。そのために大きな苦しみを受けていた。
子供が生まれないということは、古代にあって非常な恥とされ、大きな苦しみとなっていた。
 当時は女に子供が生まれないということは神の罰を受けているという見方をされたこともあり、大きな苦しみであった。その上に同居している家族(夫のもう一人の妻)から見下され、敵視され、ハンナは耐えがたい苦しみを持つことになった。
 普通なら、ハンナはその苦しみを相手にぶつけて憎むとか絶望してしまうところである。しかし、ハンナは相手がひどく自分をいじめ、苦しめても相手を憎んだり、仕返しをすることなく、ただひたすら祈って、神に自分の重荷、苦しみを投げかけた。
 そうした日々のたたかいのなかで、家族が神殿に礼拝のために行く機会が訪れた。
 神殿で当時の宗教的儀式を受け持っていた祭司は職業的な宗教家であり、祈りは日常的なことであった。しかし、祭司の祈りは、毎日のことで真剣なものではなくなり、単に習慣的に形式的に祈っている状態であったと考えられる。
 このような状態であったから、祭司の霊的状態は低かった。
 ハンナはそうした職業的な宗教家とは全く異なるふつうの女性であった。ハンナが必死で祈っている姿には、そこに彼女の非常な苦しみや悲しみが当然刻まれていたはずであったが、それに祭司は全く気付くことなく、食事が終わったのになお、酒に酔っているのだと勘違いするほどであった。
このように、その祭司は、人の苦しみを見抜くことができず、共感することもできない状態であった。
しかし、ハンナの祈りがそれほどに激しいものであったことを知って、そのような祭司ではあったが、これほどの真剣さと持続した祈りを神は聞いて下さっていると分ったのである。その部分を次に引用する。

…ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」
 そこで祭司エリは、
「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
(Ⅰサムエル一の十五~十八)
 このように非常な苦しみのなかから主に向かって叫び、祈り続ける、それによって時至って神からのはっきりした応答を受けて、新たな力を与えられ、前進することができるようになったという例は、旧約聖書の詩篇に多くみられる。
 ここではそのうちの一つを部分的に引用する。

…死の綱がわたしにからみつき、
陰府の脅威にさらされ、
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい。
主はお前に報いてくださる。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。
私は主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる、「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、 不安がつのるときも。

主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
献げ物を主にささげよう
あなたに感謝のいけにえをささげよう
主の御名を呼び、 主に献げ物をささげよう (詩篇一一六より)

 ハンナが受けてきた耐えがたい苦しみ、そこから彼女の真剣な祈りが生まれた。そしてこの詩にあるように、弱り果て、死んだようになっていた状態から救い出されたのである。
 この詩の作者の体験してきた苦しみと救いの事実は、あらゆる世代の人たちにおいて同じように体験されてきたと言えよう。
 この詩篇の作者は最終的には、精一杯の感謝の心を捧げるということができるようになった。
 ハンナの場合においても、神は老齢化して霊的には衰えてきた祭司エリを用いて、ハンナに深い安心を与えられた。ここではそのときのハンナが受けた言葉に注目したい。
 祭司がハンナに言った「安心して帰りなさい」と訳された箇所は、ヘブル語文の直訳では「平安へと行け」。
であり、そのギリシャ語訳も、「平安に向かって行け」、「平安の方向を目指して行け」 といった意味を持つ。
*

*)平安(平和)という言葉の前に置かれた前置詞は、方向を表す エイス eisが使われている。これは英語で言えば、 to あるいは toward にあたる前置詞である。
 そのため、英語訳のなかには、そうした原語の意味を生かして、 Be going on to peace!(平安へと歩み続けよ!)と訳しているのもある。
 
 この言葉は、そのまま新約聖書のイエスの言葉に見られる。
人々から罪の女として見下され汚れているとされていた一人の女性が、高価な香油をイエスに注ぎだした。それは自分の内なる最も重要な心の部分を注ぎだしたのと同じである。
そのとき、周囲の人たちはその女を非難し、イエスをも非難した。しかし、主イエスはその女性に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。平安に向かって行け。(平安の内へと行け!)と。
*(ルカ七の三六~五〇)
*)この箇所は、日本語訳では「安心して行きなさい」となっていて、ごく普通の言葉以上のものは感じられない訳文である。しかし、原文はすでに書いたように、「平安の中へと行け」であり、depart into peace である。
International Critical Commentary St. Luke 214p


 ここでも、原文では、サムエル記の箇所のギリシャ語訳と同じ表現が用いられている。平和の中に、平安に向かって行け という意味である。
さらに、この箇所以外にも 次の記事がある。十二年間も、出血の病気で悩まされ、さんざん費用も使い果たし、しかもそのような病気は当時は宗教的に汚れているとされて、一般の人たちとの交際もできないような見放された立場に置かれていた女性のことである。
 その間、深い苦しみのなかから医者や祭司などに頼ってもどうにもならなかったが、どこからともなく聞いたイエスのことから彼女はイエスこそ自分をいやす力のあるお方だと確信するにいたった。
 そこでひそかに群衆の中にまぎれこんで、必死の思いでイエスの服にさえ触れたらいやされると信じて触れた。そのとき、不思議な力が伝わってきてその女の病気はいやされた。イエスはそれを敏感に感じ取って、誰が自分に触れたのかと問われた。女は見つかってしまったと知り、群衆たちの前でさらしものとなって責められるのではないかと恐れおののいた。
 しかし、その女に対してイエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 ここにも、同じ表現がある。平安の中へ行け! である。たしかに今救われ、長い間実感することのなかったたとえようのない平安が与えられた。しかし、それで終わるのでない。彼女の前途はさらにかぎりない平安を目指す日々となり、人生となったのである。(ルカ八の四八)

 主イエスは、十字架の上から、汝の罪、赦されたり と私たちに語りかけて下さっている。そしてその言葉を信じた者は、たしかに赦された実感を与えられる。
 そして、さらに「主の平安のうちにあって、平安の中へ行け(主の平和、平安を目的地として)」という声を聞く。
私たちが日頃の生活で必要としているのは、主イエスからのこのひと言である。多くは要らない。私たちの一人一人に、この闇と混乱の世ではあるが、主はこのひと言を投げかけておられる。
私たちの前途には、不安や闇でなく、主の平和がある。すべてが解決されている世界がある。そこに向かって私たちは進んでいくのである。主イエスが、最後の夕食のときに、約束されたあの主の平和がそこにある。

 


リストボタン伝道の精神

福音を若い世代の人たちに伝えること重要性は言うまでもないことである。
若者に伝えることで、その人が生涯福音を証ししていくことになる。
これは私自身も若いときに信仰を与えられてそれ以後福音を伝えようとする心を起こされて今日に至っている。
そのような自分自身のことから考えても、若い世代がこの何にも代えがたい福音を何とか受け取ってほしいと思う。聖書にも、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(伝道の書十二の1)とある。
若い世代にキリストの真理を知ってほしいというのは誰もが願っている。
しかし、意外なことであるが、新約聖書には「まず、青年(若者)に神の言葉を伝えよ」というような箇所は見当たらない。
若者に伝えなければ、この真理は未来の世代に受け継がれない、それはだれでもわかることである。それなのにどうして聖書にはそのような言葉がないのだろうかと誰しも不思議に思うであろう。
青年にイエスが語りかけたと言えるのはただ一カ所、イエスのもとに青年が教えを乞うためにやってきたときである。
その青年が、永遠の命を得るために何をすればよいか、と尋ねたのである。イエスは、「殺してはならない、盗んではならない、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛せよ、」といった古くからの戒めを告げた。
するとこの青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 (マタイ十九の十六~二二より)
このように、福音書において、イエスが青年に語りかけた唯一の例は自分はすべての神の戒めを守ってきた、ということを公言する人であって、イエスはそのような自分の弱さや限界を知らず、自分は何でも十分にできているという彼の心の傲慢さを知らせるために、持ち物を売り払って貧しい人々に与えよと言われた。このように言われてはじめて、その青年は、神の戒めである「隣人を愛せよ」という戒めを守ってはいなかったことを思い知らされたのであった。
ここに、青年に共通して見られがちなある種の傲慢さがあり、それを鋭くイエスは見抜き、このように突き放すような言葉を投げかけて、彼の自分は模範的な人間だ、といった傲慢な心が砕かれるようにと仕向けられたのであった。
それなら主イエスはどのような人に福音を告げよ、と言われたのだろうか。
イエスは十二人の弟子を選んで、どこに遣わされたか。それは、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行け」ということであった。失われた羊とは何かと言えば、当時の人々から見捨てられたような人たち、それは、病人であり、死んだような人たちであり、ハンセン病のような重い苦しみを持った人たちであった。
現代においては、病人といってもいろいろあり、風邪での発熱状態にある人も一時的な病人である。しかし、昔の病気というのは、薬もなく、病院もなく、医者に診てもらうこともできず、痛みや苦しみで耐えがたい人たちはたくさんいた。
現代の私たちは、ガンになっても、また内臓その他のさまざまの病気、骨折などであっても適切な医療を大多数の人たちが受けることができる。
しかし、昔はそもそも医者といっても、診断のための研究も発達していなかったし、そのための機器もなく、さまざまな医療に関するデータもなかった。
 そしてともかくも医者にかかることができるような人はごく一部であった。病人を運ぶための車もなかったし、病院も看護師もない、適切な薬もない、といった状況であった。そのため、治らない病気はいくらでもあり、苦しみがいくらつのってもどうすることもできず、大変な苦しみに置かれてしまう人たちも多かったであろう。
私もかつての苦しい状態―ある急性の病気にかかり、それは細菌感染によるものであって、それによる高熱が出て、夜も眠れず、耐えがたいような苦しみだったことを思いだす。医者にかかって適切な薬(抗生物質)を処方されたが、そうした治療によってあれほどの苦しみが徐々にひいていった。 もし、あのような時、医者も薬も病院もなかったら、そのまま生きてはいけなかったかも知れない。
また、単に歯が虫歯などで激しい痛みがあったときなど、食事もできず、ただ耐えるばかりであったということは多くの人たちが経験しているだろう。あのようなとき、昔なら、あるいは現代でも歯科医のいないような山奥であったら、歯痛のため、また歯がいたくて噛むことができなくて食事ができず、生活ができないほどになっていただろう。
病気が重くて痛みや苦しみが大きいとき、そのような病人というのがいかに困難な状況にあるか、それは他の元気な人には全く分からないのである。そのような苦しみの渦中にある人のところに主イエスは、心を深く留めておられた。
主イエスが、病人のところに行け、と言われたこと、病気で苦しみ悩む人のところにて神の力を受けるようにということはどれほどかありがたいことであっただろうか。
それゆえに、主イエスは、「失われた羊」のところへ行け、と言われたとき、病人を第一にあげられたのもそうした理由が背後にあったと推察される。病気の苦しみは時として耐えがたい。現在の苦しみとともに、将来のことが不安となって圧迫してくる上に、家族やまわりの人たちからも邪魔者扱いされることにもなりかねない。
つぎに、死者を生き返らせる、といったことはおよそ現代の私たちにはありえないと思われ、私たちとは無関係のように見える。しかし、死んだような状態の人はたくさんいるし、そのような人とは、最も見捨てられた人、もはやだれもかかわろうとしないような人を暗示する。
死者をよみがえらせる、それは病気の極限としての死の力から解放するほど、弟子たちに与えられた神の力を豊かに注げ、ということである。病気のなかでその病気の苦しみだけでなく、宗教的にも汚れているとして差別され捨てられてきたらい病の人たちのところへ行くようにと言われた。
また、聖書に言う「悪霊につかれた人」とは、どうしてそのようなことをするのか分からないような不可解な言動、自分も他人をも害するような言動をする人と言える。そのような人のところに行くとは、当時は見捨てられた状態の人のところへ行けということである。
さらに、らい病の人を清くすることが、多くの病人のなかでもとくに取り上げられている。他の病気はその苦しみや孤独ということで見捨てられた状態にあるが、らい病は宗教的にも汚れているとみなされて一般の人たちとは引き離されて暮さねばならないという状態であった。
このように、イエスが十二弟子たちをまず遣わしたところは、若者のところではなかった。誰にも分かってもらえない病気の苦しみや孤独、心の病、悪の力に打ちひしがれているようなところ、貧しさ 等々のところであった。
主イエスが最も大切なこととして言われたのは、「神を愛し、人を愛すること」であったが、そこには、とくに若者をまず愛せよといったことは言われていない。隣人を愛するとは年齢とか能力とかその人の状況にかかわらず、だれでも、という意味である。
また、驚くべきことであるが、主イエスは、当時社会的に見下され、宗教的にも汚れているとされていた取税人(*)や遊女が、聖書学者や祭司長といった宗教的な指導的人物たちよりも、先に神の国に入ると断言された。

…イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがた(祭司長、長老、律法学者たち)より先に神の国にはいる。
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。(マタイ二一・三一~三二)

*)取税人(徴税人)は、現代で言えば、税を取り立てる仕事であるから、聖書にまだなじんでない人は国家公務員である税務署職員を連想するかも知れない。しかし、一般の人々からの評価は全く異なる。福音書に出てくる取税人とは、ローマ帝国の税金を取り立てる人で、ユダヤ人であるのに同胞から税を取り立てる人であり、しかもしばしば不正な高額の税を徴収することが多かった。ルカ福音書に現れるザアカイという取税人も、イエスに出会って「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にしてかえします」と言ったが、こうした不正のゆえに憎まれていた。さらに、当時は偶像崇拝のゆえに汚れているとされていたローマ人たちと常にかかわっていたことから、汚れているともされていたから、一般のユダヤ人からは、ひどく見下されていた。

遊女や取税人たちもまた、主イエスが言われた「イスラエルの失われた羊たち」のなかに含まれる人たちであった。
多くの人が思い浮かべる「若い人」というのは、そうした人たちとは対照的である。元気で、苦しみを知らず、何でも自分の力でやっていると思い込むような傲慢さがあり、自分自身が苦しい経験をしていないから、この世の苦しんでいる人たちのことを思いやるような心が乏しく、体力的にも恵まれている場合が多い。また、学生によっては親から相当な金を仕送りしてもらっていながら、大学での勉強もあまりせずに、遊びやアルバイトに力を入れているという人たちも相当いると言われている。
時の政治的支配者の行動の間違いを指摘したゆえに捕らえられた洗礼のヨハネが、牢の闇のなかで苦しい状況に置かれていたとき、だんだんイエスのことを救い主であると信じられなくなってきたことがあった。そのとき、イエスのところに二人の使いを送って、本当にあなたが旧約聖書で預言されていた救い主なのか、と尋ねたことがあった。
そのときの状況がつぎのように記されている。

…そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている
わたしにつまずかない人は幸いである。(ルカ七の十九~二三)

ここでも、若者たちが神を信じ、イエスを信じるようになった状況を見よ、というようなことは言われていない。やはり当時見捨てられていたような人たち、主イエスの言葉で言えば、「失われた羊たち」のなかで確実に変化が起こっているということを主は言おうとしているのである。
洗礼のヨハネは、神から遣わされ、当時の多くの人たちの心を動かし、悔い改めの洗礼を受けに来る人が続出した。そのような人ですら、イエスのこうした弱い人、見捨てられた人たちへの関わりなど社会的に何の大きな変革にもならないと考えていたのがうかがえる。
キリストの福音は、まず第一に若い人たちへの伝道を目指すものでなく、病気や貧しさ、圧迫、差別、国土の荒廃等々で苦しんでいる人たち、そしてそうしたことのすべての苦しみを重くする赦されない罪の苦しみにあえぐ人たちに、まずその闇の中に光があることを告げ知らせるというところから出発している。
 それは子供であったり老人であったり、あるいは若者であったりで、年齢には関わりがない。
もちろん、教員のようにつねに若い人をその職業の対象とする場合には、福音を伝えようとするときには、当然その若者たちが第一の対象となるのは言うまでもない。そのときでも、まず勉強ができるとか能力のある生徒、学生を重んじるのでなく、まず苦しみや問題をかかえている人たちを第一の対象とするというのが聖書の示すところなのである。

そのことは、新約聖書の次のような箇所からも分る。

…兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
…それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。(Ⅰコリント一の二六~二八)

これはギリシャの都市、コリントに宛てたパウロの手紙である。これを見てもまずキリストの福音が伝わっていったのは、この世では評価されていない無力な者、身分の低い者や軽んじられている人たちであったのが分る。
そしてこのような弱い立場の人たちにまず伝えようとしたのはなぜかと言えば、キリストの愛を受けたゆえであった。単なる勢力を広げようとする考え方からは、若くて行動力のある者、また強い者、権力あるもの、豊かな者たちを仲間に引き入れようとすることになる。
まず、何らかの苦しみや悲しみにある人たちにこそ、福音は伝えられるべきであり、それが主イエスのご意志なのである。
そのことは、新約聖書の最初に記されているイエスの教えの中心となることにも見られる。ここでまず書かれているのは、「ああ、幸いだ、心の貧しいものは!神の国は彼らのものだからである。ああ、さいわいだ、悲しむものたちは!彼らは慰められるからである。」ということであり、「義のために飢え渇く者たちはさいわいだ」ということであった。

心貧しき者、実際に貧しい者たち、あるいは悲しむ人たち、それは主イエスが言われた「失われた羊たち」のことに他ならない。
まず若い人に伝えることが重要だとされるなら、多くの人たちはどうしたらよいのか分からないだろう。若い人と恒常的に接するという仕事にあるのは、学校関係以外には多くはないからである。実際の私たちの現実の社会には、子供や若者、壮年、そして中高年の人が入り交じっている。
しかし、まず「失われた羊」といえるような人たちに福音を、福音の心をもって接するということは、どこでも、誰でもにとって可能である。
学校の教員は若い世代が相手である。その場合でも、成績のよい生徒、スポーツのできる生徒といった人たちにまず目を向けるのでなく、失われた羊ともいうべき人たちにまず、心を注ぐこと、それこそが、求められている。
そして、福音を伝えるのは、決して若い人たちだけでない。老人や寝たきりの人であっても、その人に主が祝福を注ぐときには、そこから福音は伝わっていく。
聖書でも、重い犯罪を犯したためにイエスとともに十字架につけられて処刑されることになった人が、最期のときにイエスに対する信仰を示したゆえに救いを与えられたことが記されている。
この記述によってどれほど多くの人たちが、救いとはいかに単純なものであるかを知らされてきたことであろうか。
そして、この死を目前にした一人の重罪人は、ただ信仰によって救われるという真理を明らかに示すということによって、福音の真理を二千年の間証し続けてきたのである。
また、マザー・テレサは一九二八年から一九四七年までカルカッタの聖マリア学院で地理を教え、一九四四年には校長に任命され、インドの上流階級の子女の教育にあたっていた。
しかし、その後、イエスからの啓示を受けて、最も貧しい人たち、失われた羊たちのところに出向くことを決意した。
それによって、若い人たちの教育から離れたのであったが、そこからかえって次々と若い女性たちが、マザー・テレサの後に従っていくようになり、世界的にその運動は広がり、大いなる伝道にもつながっていった。
私自身、高校教員となって福音伝道をするという目的をもっていたので、理科を教えながら福音を伝えたいと念願していた。
そして、全日制高校でいたとき、自分の内に強いうながしを受けて、高校のなかでも当時最も忘れられていたところ、夜間の定時制高校へ行くことを希望し、転勤した。
そして、そこで経験したこと、与えられたことはそれ以後の生活に大きな意味を持つものとなった。それは、暴力のはびこるような恐ろしい状況にあっても、じっさいに神は真剣な祈りには応えて下さるという真理を私の魂に刻みつけてくれたのであった。
それは、身の危険を感じる状況にあって体験したことであって、どんなに多くの書物を読んだり研究しても到底与えられない経験であった。そしてそこで忘れがたい人たちにも出会い、主の導きに従うことの祝福を実際に体験させていただいたことであった。
その後、視覚障害者が思いがけなく二人も相次いで別々のところから私に紹介され、そこから盲学校に転じることが示されて、そこでも現在に至る大きな祝福が与えられてきた。私たちのキリスト集会に視覚障害者が多く与えられたのも、そのときの主の導きに従ったゆえであった。
若い世代に伝えなければ、真理は次の世代につたわらないといった考えは、聖書的ではない。
この世のことはそのとおりであるが、聖書の福音は、神がその御計画にしたがって伝えるに必要な人を起こしていく。
そして若くても老年であっても、神の愛、そして神への愛はそうした人を動かして福音を伝えていく。
ローマ帝国の長く厳しい迫害の時代、福音が根絶されようとするような迫害にあっても、なお力強く福音が伝わることになった大きな原動力は、単に若い人が伝えたというのでなく、殉教した人たちであった。
テルトリアヌスが書いたように、殉教者の血はキリスト教徒の種であると言われてきたとおりである。
こうした殉教者たちは若者もいれば老人や子供、女性もいた。
彼らの内にあったのは、自分の命をかけてもキリストに従いたいという、神への愛であったし、神がそのような強靱な信仰を与えるほどに彼らに愛を注いだといえよう。
このように、きびしい迫害をも越えて、福音が伝わっていったのは、単に若者が受け継いだというのでなく、神への愛、神の愛がそのようになさしめたのである。
現代の私たちには、かつてのような命の危険がともなうような迫害はない。
しかし、その基本は同じである。それぞれの立場にあって、主の御心に従うことである。 若者相手の仕事ならそのところで、また一人養生している場合にはそこで接する少数の人や、関わりある人たちへの真剣な祈りに、また老人に関わるひとはその人たちに…ということである。
肝心なことは、相手がだれであっても、神の愛をもってすることであり、愛こそはすべてに勝つものだからである。
福音を伝えたいと願うとき、広く見れば、人間はそもそもみな、失われた羊のようである。
主イエスは、そのことについて言われたことがある。

…また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
そして弟子たちに言われた、
「収穫は多いが、働き人が少ない。
だから、収穫の主に願ってその収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ九の三六~三八)

イエスもこの世の人たちがみな本当の飼い主を知らず、弱り果てているという実態を鋭く見抜いておられた。それは今日においても同様である。イエスもそのような状態だからこそ、真実な力を与える福音を伝える人たちが起こされる必要を強調されたのであった。
私たちもそうしたところへと福音が伝わるようにと願うところに、主の祝福があり、御心にかなうときには、青年にも老人にも、元気な人にも、そして海を越え、大陸をも越え、民族の別にもかかわらず、そして時代のあらゆる変化にもかかわらず伝わってきたし、これからもそのようになるであろう。

 


リストボタン休憩室

冬の夜空は、一年のうちで最も空が澄んでいて、風も強い日が多いために、星空がよく見える時期です。(日本海側では雪や曇りの日々が多いですが。)
この時期は明るい星が多く見られ、星たちの賛美が、声なき声で響きわたっています。
夜の一〇時ころには、オリオン座がほぼ真南の方向に見え、ベテルギウスの赤い光、リゲルの青白い光がよく目立ちます。 それからその近くには、大犬座のシリウス、小犬座のプロキオン、雄牛座のアルデバラン、御者座のカペラ、双子座のポルックスなどが、何によっても汚されない清浄な光を放っています。
さらに、 夜の九時頃には、火星の強く赤い光が、東の空に見え始めます。まばたきをしない強い輝きなので誰でも見付けることができますので、火星を見たことのない人はぜひ、見てほしいと思います。
これらの星々を、冬の風を受けつつ見つめていると、大空は神の愛のわざであり、それゆえに私たちにも語りかけてくるのを感じます。

 


リストボタンことば

325)主はその沈黙によってご自身が、神の小羊であることを決定的に証明された。そのようなお方として、私たちは今朝、主をお迎えする。
主よ、私たちと共にいてください。そして、私たちの心の静けさの中にあって、あなたの愛のみ声を聞かせて下さい。 (スパージョン著「朝ごとに」四月二日)
*

By His quiet He conclusively proved Himself to be the true Lamb of God. As such we salute Him this morning. Be with us, Jesus, and in the silence of our heart, let us hear the voice of Thy love.

・ここで言われている沈黙とは、総督ピラトの前での尋問のときである。総督が驚いたほどにイエスは沈黙を守られた。

*)スパージョン(18341892)は、イギリスの偉大な説教者で今日に至るまで広い影響を与え続けている。現在でも、入手される彼の著作、説教集などは膨大な量にわたり、ほかのどのキリスト教著作家や、一般の文学者などをもしのぐ多量の書物が現在でも入手可能だと言われる。インターネットでも彼の説教集など相当な分量を原文で見ることができる。 ヒルティと同時代の人であり、ヒルティもしばしばスパージョンに触れている。ここにあげた、「朝ごとに」は、「夕ごとに」とともに日本語訳で購入できる。
なお、筆者(吉村孝雄)も、ちょうど三十年前に、彼の数千頁にわたる詩篇講解集(「THE TREASURY OF DAVID 」全三巻 各巻約千頁 ZONDERVAN社発行)を入手することができ、それから多くを学んできた。それは彼自身の講解と、彼が収集した多数の聖書注解者たちの注解の集大成であって、詩篇が長い歴史において多数の人たちが、どのように詩篇の内容を受け取ってきたかを、おそらく他のどの書物よりも豊かな内容をもって示すものであり、日本語の文献だけでは到底知ることのできない詩篇の影響力を知らされたことであった。


326) 主は、神の御前では、無に等しいものであり、何も持っていないという貧しさの思い―それは信仰によって生じる思いです―だけを求めておられます。 …幼な子のようでなければなりません。
恵みに導くあのもの、つまり、自分が貧しく、無であるとの思いが、自ずから適切な行動へと導くのです。
(「悩める魂への慰め」ブルームハルト著 七十頁 新教出版社)

・主イエスは、「ああ、さいわいだ心の貧しき人たちは! なぜなら神の国はそのような人たちのものであるからだ。」と言われた。心貧しき人とは、ここで言われている 自分が無に等しいものであることを自覚している人である。また、幼な子らしい心というのも同様で、そうした心をもって神を仰ぐ姿勢を持っているときに、神は私たちを最善に導いて下さる。

327)我々を憎む者に善をなすことができて、われらは始めて完全なる者が何であるかを知る。 われらが喜んでこのことをなしうるにいたるまでは、われらはまだ父なる神を知ったとはいうべきでない。
この世において、我々を憎み、ののしり、妬むものがあるのは、われらが、彼らによって全き者となるためなのである。
われらは、彼らを嫌ってこの完全に達するためのよき機会を逃してはならない。
(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇三年一月)
・私たちが本当に神を知っているかどうか、それは単に頭の中で納得するとか、信じたということだけでは分からない。
ここで言われているように、現実の人間関係のなかで、ことに私たちに害をなすような人に対していかに対処するか、どのような心を持って対応できるか、ということでそれが分るというのである。
神を本当に知っているとは、神が送ったイエスを知っていることであり、そのイエスが私たちの内に住んで下さって初めて深い意味において神を知っているということになる。そして、そのときにはたしかにイエスが教えられたように、敵のために祈るということが可能になる。

 


リストボタン報告とお知らせ

○元旦礼拝
今年の元旦は寒さ厳しいけれども満月に近い月が輝いている時刻に開会。
午前六時三十分~八時まで。イザヤ書の中からの聖書講話。二〇数キロあるいは十五㎞を越えるところからの人も含め、参加者十九名。はじめと終わりの祈りのときには、まだ祈りに慣れてない人以外、ほぼ全員が短く祈りました。

○ルカ福音書聖書講話CD(MP3版)の完成
多くの方々の御愛労によって、ルカ福音書の聖書講話のCDができあがりました。これは、徳島聖書キリスト集会における主日礼拝のルカ福音書の吉村孝雄による聖書講話の全内容を、MP3形式でCDに録音したものです。
二〇〇五年二月二十日から、二〇〇九年六月二八日までの四年四カ月にわたる内容です。 毎月第一日曜日は旧約聖書の学びとなっており、第二日曜日から第五日曜日までがルカ福音書講話で、年中休みなく聖書講話がなされています。(なお、この期間、旧約聖書は、創世記の四五章からルツ記、出エジプト記を順に学んできました。)
一回の平均講話時間は約三五分。全部で一六三回の講話です。合計で約九五時間分となります。
CDの内容は次のとおりです。
①枚数… 八枚
②配布形態…薄型ハードケース入り (全部の内容の目次を付けてあり、ルカのどの章節もCDの何巻目の何番目になっているかが分かりますので、聞きたい箇所をすぐに聞くことができます。)
②録音を聞くための機器…MP3対応プレーヤ、またはパソコン。
③価格…八枚と内容目次セットで、二五〇〇円。(送料当方負担)
④購入希望の方は、メール、電話、はがきなどで申し込んでください。奥付の吉村 孝雄まで。代金は郵便振替でお願いします。

○MP3録音のCDを聞くための対応プレーヤについて。
上記の、MP3・ルカ福音書CDを聞くための機器として、十二月号で、それまでこの欄で紹介してきた、MP3対応 CDラジカセが生産終了品となったことをお知らせしてありました。
その後、さらにインターネットで調べた結果、ラジカセタイプでMP3録音を聞くことができる機器が別のメーカーから新たに販売されているのがわかりました。 これは、DVDとも対応になっています。ケーブルでテレビにつなぐとDVDも見ることができるというものです。
ただし、これは、以前紹介していたMP3対応 CDラジカセのように、USBメモリなどは使えません。
この新しいタイプのCDラジカセは、インターネットから購入できますが、ネットからの購入ができない方々には、従来のように私のほうからお送りすることができます。価格八千円。 (送料当方負担)

○ルカ福音書CD(MP3版)の作成について
最近はカセットテープでの録音ということが次第になくなり、MP3などデジタル録音が多くなっています。そのため、こうした録音のCDを作ることを考えている方々にも参考になるかと思い、私たちの集会で以前から作成しているMP3での集会CDや聖書講話CDの作成について書いておきます。
このCDの作成には、まず、日曜日の礼拝のときに毎回デジタル録音をする必要があります。これは、主として熊井 勇、ちづ代夫妻によって二台のデジタル録音機を用いてなされ、欠席のときには、月岡(信)兄、中本(裕)兄たち他によってなされます。
そうして録音された内容を、さらに熊井勇兄が、MP3ファイル編集ソフトによって、録音内容のうちの不要部分などをカットし、ファイルを整えたうえで、海部郡海陽町の数度 勝茂兄にインターネットで送ります。
それを数度兄が、一か月分の内容を日付順に、ファイルに書き込みます。次にその内容目次を作成し、表面レーベルを印刷するソフトによってCD表面にも背景写真とともに印刷します。その目次とCDの内容が合致しているかどうかを、高橋 英明、ルツ子夫妻によって検査され、検査が終わったら送り返されます。
次ぎには、高速ダビング機によってCDを必要枚数作成して、県外に送付されます。またそのできあがったCDは一枚ずつ集会員の貝出、筒井、熊井さんたちに送られ、その三人がそれぞれ十枚余りずつダビング機で作成し、CD面も印刷します。 これらは県内の集会員の希望者に配布されます。
こうして毎月の集会CDが作成されますが、今回のルカ福音書CDはそうした内容の中からルカ福音書の内容だけを取り出し、内容目次も新たに作成されたものです。作成担当は数度勝茂兄。
そして、八枚が一応できたとき、目次とCD表面レーベルの印刷と実際のCDの内容が一致しているかどうかの確認を行います。百六十三回分ものファイルを処理するので、間違いなくすることは至難のわざです。それで、一枚ずつのCDを送付され、十人の方々によって校正されます。(伊丹、貝出、熊井夫妻、西條 、中川(春)、中川(陽)、高橋夫妻、吉村(恵)) こうした修正などの結果などはインターネットで送られます。
そのうえで、CDが修正されて作成されます。それをさらに前述の方々によって再度校正をされます。そうしてようやくできあがったわけです。

 


リストボタン集会日の一部変更

さまざまのキリスト教関係の仕事が増えて従来のままでは対応が難しい状態になっています。そのため、一月より、今までの第五の曜日の休会を変更して次ぎのようにすることになりました。
毎月、第一週と第五週の集会場での水曜集会、土曜日集会が休会となります。
なお、第一週と第五集の月曜日の北島集会は私は不参加となりますが、戸川宅での集会は録音などで継続されます。
月に一度~二度ある家庭集会などは従来通りです。
なお、火曜日の夕拝も従来通り、第五火曜日だけが休みです。
ただし、特別集会が日曜日にあるときとか、県外からの集会訪問があるときには、第五週の土曜日の集会がなされることがあります。