私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、
神の愛が私たちの内で全うされているのです。


(Ⅰヨハネ四の12



2010 2 588号 内容・もくじ

リストボタンi沈黙の賛美

リストボタン岩なる神に

リストボタン人は何によって生きるか 

リストボタン幼子、乳飲み子の口によっ て―詩篇第八篇

リストボタン理想と現実

リストボタン元号問題

リストボタンことば(エピクテートス他)

リストボタン休憩室

リストボタンお知らせ(五月の四国集会)



リストボタン 
沈黙の賛美

一年で最も寒さ厳しいこのときに、わが家の梅が次々に咲き始めている。ほかの木々や野草などはその寒さに身をひそめているようなこのとき、そのような寒さも何の妨げにもなることなく、次々と花を咲かせ、近づくとほのかな香りを漂わせて咲いていく。
そして冬の澄みきった青空を背景にして咲く梅は、その沈黙を通して神を賛美している。そしてそれはいかなる不純なものもないゆえに、完全な賛美である。
沈黙であれば伝わらないということはない。神がともにいますとき、その沈黙もまた雄弁なのである。
聖書の詩人は、宇宙に響く沈黙の賛美を深く聞き取っていた。
…天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても
その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。
(詩篇十九の一~五)

リストボタン岩なる神に

海の波、それはたえず生まれ、変化していく。時として大波で揺れ動く。しかし、海を少し深く入ればもうその波はない。この世の出来事も同様である。毎日、新たな出来事がおきる。政治や社会問題、またスポーツなど日々ニュースとして現れる。それらは波のようにいつも揺れ動いている。
しかし、少しこの世の奥にあるもの、目に見える現象の背後にあるものに目を向けるなら、そこには、そうしたこの世の動揺や変化にいっさい影響されない世界がある。
旧約聖書の詩人は、そうした揺れ動かないものをはっきりと知っていた。それをしばしば岩と表現している。現代のキリスト者は神のことをこのように岩として浮かんでくる人がどれほどいるだろうか、とても少ないように思われる。
この世のさまざまの苦しい出来事にあっても揺るがぬ心、それは確かに次にあげる詩の作者のように神を岩としている人である。それほどに固く魂を神に結んでいる人の状態である。
…主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、砦の塔。
主のほかに神はない。神のほかに彼らの岩はない。
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。(詩篇十八より)

詩篇十八篇では、このように繰り返し、神こそわが岩と言われている。たしかに神こそわれらの岩、そこにすがっていれば、流されないしこの世の動揺に巻き込まれない。
何か小さなことでもすぐに動揺し、ちょっとした他人のひと言でも気になって仕方がないという心の状態、それはいわば揺れ動く草に結んだ心である。神を信じないなら、そして信じていても心のうわべだけでの信仰の場合には、たえずこのような揺れ動く状態となる。 人間はみな程度の多少はあってもこうした状態である。
そのような状態だからこそ、私たちに岩なる神が与えられているのである。

 


リストボタン天に宝を積む

私たちは、なにかに時間とエネルギーを注ぐ。小さな子供の時は、単純に次々と手当たり次第にさわったり、動かしたり、壊したり、水や泥があったらそんなものでも使っていろいろな遊びをする。
そのような幼児のときには、たくわえるということはあまり見られない。
しかし、少し成長すると、友だちとの交流が増え、勉強やスポーツ、ゲームなどさまざまの遊びなども始まる。
そうした行動には、なにかを集めること、大事にすることが増えてきて、たいていの者は自分の宝物のようなものを持つようになる。
それは、子供のときは、ちょっとした玩具や飾り、切手、小物であり、少し大きくなるとゲーム機とか遊具になり、さらに学校に入ると、友人が宝物のようになる人もいるだろう。家族、とくに母親が自分の宝だという場合もある。 また、自分の成績やスポーツの能力、絵画、音楽などの能力を宝として重視している人もいる。
そして、成人すると、周囲の人達から、あるいは職場での評価が宝となる場合も多いし、恵まれた家庭なら、その家庭が宝となる。
大多数の人にとっての第一の宝は、健康であると思われる。また相当数の人にとっては、それは、お金であるだろう。その二つがあったら、何でも自由にできると考えられているからである。そして、金があっても健康で有りうるとは限らないが、健康であったらお金も何とかなる、ということからは、健康第一ということ、言いかえると健康こそ最大の宝だということは自明のことと考えられている。
また、この世は、地上の宝、その最もはっきりしたかたちであるお金の争奪ということで、いろいろな出来事が生じている。経済問題ということは毎日のニュースで必ず言われている。株価のニュースや、日本だけでなく、アメリカ、中国やインドの経済状況といったことは、毎日のようにニュースに出てくる。これらは要するに、金の争奪ということである。携帯電話とかパソコン、自動車などは、激しいモデルチェンジがなされている。そうしなければ、競争に勝てない。売れなくなる。つまり金が入ってこなくなる。そうなると従業員も解雇、会社も倒産ということになる。
国家同士で、こうした地上の宝である金やそれと深く関わる資源、エネルギー、領土などの問題が最重要問題となることが多く、それが戦争の原因となって、おびただしい人達の命が失われ、家庭が破壊され、多くの人の体が傷つけられて生涯苦しみを負っていかねばならないようになってしまう。
また、他人の評価というものを宝とする(重要視する)ことも多い。認められなかった、ということはそうした評価が壊されたということであり、宝が失われたために打撃を受ける。
人間関係のさまざまの問題は、地上のものを宝とするところにあるのがわかる。
こうした人間のだれでもがかかえている問題の根本的解決の道を、キリストは明確に、しかも分かりやすい言葉で語られた。
…あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。(マタイ福音書六の一九~二〇)

*)天に宝を、という箇所を、新共同訳では、天に富を…と訳している。原語のギリシャ語では、「宝」は、セーサウロス thesauros で、大多数の英語訳などの外国語訳も、 treasure(宝) と訳している。 新共同訳でも、東の博士たちがイエスの誕生のときに持ってきたのは「宝の箱」であったが、この箇所では 宝、と訳している。
なお、この 英語の treasure という言葉自体、ギリシャ語の thesauros が語源となっている。 これがラテン語に入り thesaurus となり、大衆のラテン語(Vulgar Latin)で、tresaurus となり、そこから フランス語に入り、さらに英語の treasure となった。


このイエスの言葉の直前に、断食のことが書いてある。断食は当時は重要な宗教的行為であった。
例えば、モーセは四〇日も断食したと記されている。それは民の犯した罪のゆえであった。(申命記九・十八)また、ベニヤミン族の罪のために、人々は深い悲しみをもって断食した。(士師記二〇・二六)また、預言者サムエルも人々の罪のために断食をしたことが記されている。(Ⅰサムエル七の六)
そのように、断食をしていることは、宗教的に熱心な行為であることとされていたから、くらい表情をして自分は断食をして熱心な宗教者だ、ということを評価してもらうために断食している、ということがなされていた。
このように、人の評価を宝とする考え方から断食をしても、神の前には無意味であるばかりか、かえって裁きを受けることになる。宗教的なことを、自分の評価を得るためにしているのであり、神を自分のために利用しているといえるからである。
それは地上に宝を積むということにほかならない。
それゆえに主イエスは次のように言われたのであった。

…また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。(マタイ六の十六~十八)
断食をするとしても人にわからないようにして、真剣に悔い改めの祈りを捧げ、他の人のためにも、神の国を願い続ける、病気の人のため、苦しむ人のためにも祈りを集中させるということこそ、天に宝を積むことになるのだということなのである。
ここで主イエスが言われたこと、私たちが何かよきことをするのは、「隠れたところにおられる父なる神に知っていただくため」である。隠れたところにいます神、というのは、目には見えないお方、ということであり、人の評価を考えてするのは、目に見える人間のことを考えているので、それでは祝福はない、それは地上に宝を積もうとしていることだからである。
天に宝を積むとは、神に知っていただくためにという心でものごとをなすことである。もし自分が他人からよく思われたい、という心でするなら、そのような不純な心を神はすべて見通しておられるのであって、そこには何も祝福はない。むしろそれはさばきを招くことである。
神は、私たちの魂の父であるのだから、愛と真実をもって見つめて下さっている。その父なる神に知っていただくということは、ある意味では最も簡単なことである。
人に知られて評価されるということはなかなか大変なことである。まず健康、そして時間や能力、お金なども必要になることが多い。世の中で多少とも知られている人、小さな会社や学校などの組織の長にしても、ほとんどこうしたものを与えられているからその組織のトップになって知られるようになっている。
しかし、どこにでもいて、愛をもって見つめて下さっている霊的な父である神に知っていただくためには、そうしたものは何も必要でなくなる。
主イエスが、神に向かう本当の心(礼拝)は、「霊と真実をもって」なされると言われた。 (ヨハネ四の二三~二四)
それゆえに、人に感心されるような目立った行動である必要はまったくないのであって、真実な心で、他者のために祈るなら、それこそは天に宝を積むことになる。そのような心を神はみていて下さるからである。
とくに自分に対して不当な言動(中傷やいじめ、差別)などをしてくる人に対してうらみや憎しみを持って対するなら、それは地上に宝を積むこととは逆にみずからの魂をも害することになり、相手にも周囲にも何もよいことは生じない。憎しみは魂にとっての毒のようなものであるからだ。
もし、そのような相手に対しても、主イエスが言われたように、その人から悪の力が除かれるようにと祈るならば、それは天に宝を積むことになる。そのような心こそ父なる神が知って下さり祝福して下さるからである。
また、さまざまの出来事を主が背後で最善になしてくださっていると信じて感謝し、喜ぶこと、またそのようにできるために祈ること、それも神が望んでおられることである。(Ⅰテサロニケ五の十六~十八)
神が望まれることをするのは、神がすぐに知って下さる。たった一人の心が今まで自分中心であったことに気付き、神に方向転換すること、それを神の天使たちが喜ぶし、そのような方向転換をする必要がないと思っている人よりも、大きな喜びが天にある、と主は言われた。(ルカ十五の一~十)
日々の生活で絶えずこうした神に心の方向を向け変えて、万事を神からのよき目的があるのだと信じて受け取るとき、それもまた天に宝を積むことになる。
常に喜べ、祈れ、感謝せよ、それは自然のたたずまいに触れることが容易な田舎の地方では、そうした自然の姿に心の目を開いて接するだけでも、神からのメッセージがさまざまに感じられて、感謝し喜ぶことができる。
水仙や梅の花のすがたと香りに接し、その気品あるすがたを見つめていると、それは一種の霊的な音楽だと感じる。神の創造されたものに神の力と美、万能を感じ取り、神に感謝と賛美の心を抱くとき、それもまた天に宝を積むことなのである。
満員の電車に揺られているとき、何もできないが、そうした無数の未知の人たちのために祈ることはできる。街路を通るとき、病院の建物を見て、そこにいるたくさんの苦しむ人たちへの祈りを持つこと等々、もし私たちが少しでもそのようなことができるなら、それも天に宝を積むことである。
このような毎日の生活の小さな場面で、天に宝を積むことはいくらでも可能だとわかるし、そのようにしている人はとくに晩年になってくるとその表情やまなざしにも、生まれつきの容貌とは異なる独特の清さや明るさを現すようになる。
逆に、地上の宝を追い求めていたり、それを積むことに心を注いでいる人の目からは、清らかさが失われていくことは何となく誰もが感じているであろう。
主イエスは言われた、「宝のある所に、あなたの心もあるのだから。」(マタイ六の二一)
私たちが天すなわち神のところに大切なものを置こうとするなら、つねに私たちの心は神のところにある。地上の仕事をしながらも、神のところに心を置いてなすことができるし、そうなれば日々天に宝を積みつつ生活がなされることになる。

 


リストボタン人は何によって生きるか

生きるということは、食物がなければできない。それゆえに食物の確保は第一に重要である、ということは誰もがすぐに分ることである。毎日のニュースで、経済問題が出ないことはない。経済とは、生産や流通、消費等の活動をいう言葉であるが、その根底にあるのは、食物の問題である。
 携帯電話や自動車、テレビ、パソコンなどの生産、販売のことは毎日のようにニュースなどでみられるが、それらは販売競争で熾烈な戦いをしている。それは、うまく消費者の心をつかんで多く売れると多額の収益を確保できるが、油断して新しい消費者の求めを把握することを怠ると、たちまち業績が悪化し会社が倒産して、社員も解雇となり、生活に困るようになる、すなわち食物をえられなくなる。
 とくに発展途上国においては、生活保護を受けて、最低限の生活をすることも保証されていないところも多い。
 高度に産業が発達した国々であっても、世界的に知られた大企業が、大方の予想を裏切って会社が消滅してしまうということもあるゆえに、やはり経済問題はきわめて重要な問題となっている。 
 このように、貧しい国も、豊かな国も経済問題、その究極的な問題としての食べるということは当然のことながら、つねに第一の関心を集めている。
 このことは生き物にとって共通のことであり、一般の動物はその行動はたいてい食物の確保のためになされている。山を少し登ったところにあるわが家では、かつてこどものためもあって、二十羽ほどの小さいニワトリ(チャボ)を放し飼いで飼育していた。その生活ぶりを何年も観察することになったが、朝から夕方まで、ずっと食物を探しての一日であることがよく分る。
 これほど基本的な営みである、食べるということについて、最も深い見方を歴史の中で与えてきたのは、キリストであった。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ福音書四の四)
 これは、人間が生きるということは、何であるのか、それをきわめて簡潔に、しかも最も深い意味を持たせた言葉である。
 しかし、神の口から出る言葉で生きるといわれても、具体的にどういうことなのか、神を信じていない人には全く不可解であろう。
 神の言葉で生きる、それは私自身を振り返ってみて、確かにそうであった。私が大学時代、さまざまの考え方が対立し激しく互いに攻撃し合う状況に接した。人間の考え方とか生き方には千差万別のものがあり、どれがよいのか分からなくなった。
 そうした混乱のときに、ほかの難しい問題もあって、生きていく力を失っていった。そのときに、キリスト教の本に出会った。そこで書いてあった、聖書の言葉によって私は、聖書の真理に目が開かれた。それから、私の生涯の方向が変わった。そして確かに新しい命が与えられて、前に進めるようになった。
 これは、たしかに、神の口から出る言葉、すなわち聖書の言葉によって生きるようにしていただいたのであった。
 生きる力が与えられ、その目標が示され、その方向に歩いていく力がたしかに与えられたのである。
 このようなことは数知れなくある。キリスト教が世界に広がっていったこと、とくに初期には、貧しい人、奴隷、圧迫されている人たちを中心に伝わったのは、そうした底辺にあって生きる力を失った人、あるいは失いそうになっている人たちに、確かに生きる力を与えてきたからこそ、伝わったのである。
 彼らを生かしたのは、国の経済が好転したからでも、地位が上がったからでもない。豊かになったということでもない。ただ、その置かれた状況にあって、神の言葉が、それまで経験したことのない力を与えるものであったのである。
 主イエスが言われたように、深い悲しみに沈む者、追い詰められた者たちが、聖書の短い言葉によって新たな力を与えられたのである。それは風のように、思いがけない人たちに、予想しないような力を与えたのである。
 キリスト教の初期の人たちは、現代のような聖書は持っていなかった。用紙そのものがなかったし、筆記具もいまのような便利なものはなかった。パピルス
*や羊皮紙というのもそれを作るのが大変である。

*)パピルスとは、カヤツリグサ科の植物で、その植物の茎の中味を取り出して打ちたたき、圧力を加えて重ね合わすという方法で紙に似たものを作る。古代ではそれに書いていた。
羊皮紙はその文字のとおり、羊の皮を用いたもので、これも簡単には作れない。現代では、紙はいくらでも簡単に手に入るが、古代では紙そのものが貴重品であったし、現在のような軽くて薄いものでなかった。それにインクの類も作るのは難しいから、神の言葉を書いたものというのは、とても入手の困難なものであった。さらに、書かれた文字を読める人がまた少数であった。
 このようにみてくると分るように、神の言葉は聖書に書かれていると思いがちであるが、印刷術が発明されるまでは、神の言葉を聖書として自分のものとして読むということはごく一部の人しかできないことであった。

 このような時代、文字も読めない人が多数であったときには、書物になった神の言葉を読んで、それをもって生きる糧にするということはできないことであった。
十二弟子たちが直接にイエスの生前に聞いた言葉を語り伝え、また、使徒たちは復活したイエスと出会い、そのイエスの別の現れである聖なる霊を受けて復活のこと、十字架の死による罪の赦しの福音その他の真理を聞き取り、それが、口頭で伝えられていった。
それらを神からの言葉として受け取った人たちは、たしかに苦しい生活で暗闇のなかにいた人たちが実際に光を与えられ、命を与えられて、さらにその喜びと力を他者に伝えていった。
それは使徒パウロの次のような言葉からもうかがえる。
…わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(Ⅰテサロニケ二の十三)
神の口からでる一つ一つの言葉で生きる、と主イエスは言われた。そして私たちが本当に神の言葉として受けているかどうかは、パウロが言っているように、それが今も私たちの内に働いているかどうかでわかる。
神の言葉が私たちの内に働いているならば、それはたえず、愛へとうながすものであり、さまざまの出来事、現象のなかに神の力やはたらきを実感させる。
すでに旧約聖書の詩人が述べている。
…天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。(詩篇十九の二)
神の言葉が内に働いているならば、このように空の青いひろがりをみても、夜空の星や月、あるいは毎日当然のようにみている太陽を見ても神の栄光が実感され、神のはたらきを見るようになる。
人間世界を見ても、自然のさまざまの現象を見ても、そこに神の御手のはたらきを実感するなら、それが神の口から出る言葉を食べることにつながる。
口から入る食物だけでは人間として本当の意味で生きることはできない。
聖書にはこのことを補って、一般的にはとても不可解でなじめない表現であるが、「キリストこそ命のパンである」と言われて、それを食べることの重要性が強調されている。これはどういうことであろうか。
…わたしは命のパンである。
これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。…このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。
*
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネ福音書六の四八~五六より)
*)「はっきり言っておく」原文は、アーメン、アーメン(「誠に、まことに」、あるいは、「本当に真理を」の意)と、繰り返した表現であり、この言葉の真理性を強調した言い方である。単に「あいまいでなく、明確に」という意味ではない。
このような一般の人たちが強い違和感を持つような表現を使ったために、当時のユダヤ人たちも、意味がわからずに互いに議論をはじめたが、それまで従っていた多くの弟子たちまで、「こんなひどいことは聞いてはいられない」と、イエスを離れさり、もはやイエスとともに歩まなくなった。(ヨハネ六の六〇~六六)と記されている。
それは今日でも同様で、いろいろな聖句集などでも、この箇所を引用することはほとんど見られない。しかし、これを書き残したヨハネ福音書の著者は、つよいうながしと啓示を受けたからこそ書き記したのである。ここでも、注で書いたように、
*の部分にある、「はっきり言っておく」と訳された部分は、特別な強調表現なのである。
これは、「キリストを食べる、キリストの血を飲む」ということが、人間にとってきわめて重要だからである。それは、キリストの真実な実体を私たちの魂の内に取り入れることにほかならない。キリストの命を私たちが受け取ることなのである。
それをしないかぎり、私たちは本当の人間としては生きられない、と言おうとしている。
それは、さまざまの出来事のたびに、キリストを思うことであり、それによってキリストからの霊を受けることである。
よいことがあれば感謝する、よいことでなくても主に感謝する、それによってキリストとの結びつきが新たにしていただける。それがキリストを食べるということである。さまざまの事件、事故に接しても、キリストがそうした出来事に遭遇した人達を導いて下さるようにと、祈り願うことである。
創世記には、闇と混沌のなかに、神の言葉によって光があった、ということが記されている。それは、どんな闇であっても、そこに光を待ち望み、光あれ、との神の言葉を待ち望むときに、光が与えられるということであり、またキリストが来られたことによってすでにその光が闇と混沌のこの世に輝いているということである。キリストご自身が光であるから、キリストを心で見つめるだけで、その光が私たちの内に輝きはじめるようにして下さった。
そのことが、キリストを食べることであり、キリストの命をいただくことである。主イエスが、「私は命の光である」と言われた通りである。
悲しみのときも、キリストに向かうとき、主からの力づけを与えられるなら、それもキリストを食べることだと言える。
主イエスがわたしにとどまっていなさい、と言われたことも、イエスのうちにいる、ということは、イエスを霊的に食べるということである。もし私たちがイエスのうちにとどまっているならば、主イエスも私たちのうちにとどまっている、と約束された。それは、私たちの食べ物となって私たちの内に入るということである。
いつも感謝しなさい、いつも祈れ、ということは、言いかえるといつもキリストと結びついていること、キリストを食べるということをすすめているのである。
しかし、敵を憎めば、毒を食べるようなものである。また、敵対する人に恐怖を抱くばかりであっても、また私たちに有害なものを食べることになる。敵でなくとも、まわりの人達に無関心であることは、何もそこから栄養をとらないことである。
しかし、もし私たちがその人たちのために平和を祈るならば、その祈りは私たちに帰ってくる、と言われた。(マタイ十の十三)
それは私たちが、主の持ち物である主の平和を食べること、取り入れることである。
食前の祈りも同様である。食事が与えられたという感謝とともに、霊の糧も与えてください、と祈ることは、単にからだを支えるということにとどまらず、キリストの霊的なからだを私たちの内に取り入れることができるようにとの祈りである。
ヨハネ福音書、ヘブル書の第一章には、万物はキリストによって創造されたとある。
「万物は、言(原語はロゴスで、地上に現れる以前のキリストを意味する)によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一の三)
「御子によって世界を創造された。」(ヘブル書一の二)
それゆえに、万物には、キリストの愛がそこに込められているのである。
人間を見ても自然を見ても私たちがそのことをいつも主に結びつけ、キリストの愛がそこにあると信じて受け取るならば、それは「キリストを食べる」こと、になる。
相手のことを、主を見上げつつ、祈ることができればその人にとってもそれは新たな命を与えられることになるし、相手にも神の霊が働くであろう。
敵のために祈れというのは、神のお心であり、神の口から出たお言葉であるから、そのことができれば、私たちは神の口から出る一つの言葉で生かされたということになる。
美しい自然、変化に富んだ自然、その力強さや、大空の雄大さ、その色やすがた、野草の花々の繊細な美しさ、雨や風といった身近な自然をも、神からの愛の賜物だと信じて受け取るとき、それも神の言葉を食べて生きるということである。そうした自然のひとつひとつが愛の神の言葉によって創造されたものだからである。
日常生活のさまざまの場面において、つねにこのように神や主イエスと結びつけて受け取ることは、神が望まれていること、神の御心にかなったことである。
神がすべてを最善にされている、と心から信じることによって初めて私たちは、聖書にある言葉「いつも喜べ、たえず感謝せよ」を少しずつ実現していくことができる。
そのことは、すなわち、この神の言によって生かされていくということである。心からの喜びや感謝は人を生かすものだからである。
このように、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ、という主イエスのことばは、きわめて身近なことだということがわかる。 新聞を見ても、テレビのニュースを見ても、また信仰の書物や、自然界や社会的出来事を見ても、私たちの心を引き締めているならば、つねに神と結びつけて受け取ることができる。
それは理性的な判断を伴うことなので、心の奥深くにいつも主にある静けさを保つことが求められている。
旧約聖書に現れる預言者たちは、かれらの置かれたところの人々が、神の正しい道からはずれて生活して大多数が間違った方向へと流されていることを知っていた。それをただ嘆くとか怒るのでなく、神と結びつけて見つめていた。神はそのような人々の心の荒廃を必ず罰せられる、正義の神にはさばきが必ず生じるということ、そこから心を神に向け変える方向転換をするように繰り返し語った。他方では、貧しい人たち、社会的な弱者への神の深い配慮が同時に語られている。
こうした預言者たちは、たしかに神からの言葉によって生かされていたのである。神の口からでる一つ一つの言葉によって生かされていたからこそ、力も与えられ、周囲の敵対する人たちに恐れずに語り続けることができたのだった。
そしてその深い洞察力は、数百年を経て現れることになるキリストを預言し、さらにキリスト以降の世界にも、彼らが受けた神の言葉の持つ力は衰えることなく続いている。
主イエスが、人は、神によって生きる、と言わず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる、といわれたこと、それは、言葉の重要性を意味する。神からのほんのひと言の語りかけであっても、それによって人は生きるのである。人間にはほかの動物にはない、複雑な言葉の世界が与えられている。それは互いに語りかける存在として創造されているからである。
そして、語り合う相手がなかったら、人間は精神的にもやせ細っていく。だれからも話しかけられない、といった状況は、言葉を与えられた人間には耐えがたいことなのである。
しかし、家族や親族がいない人、病院で孤独な苦しみとの戦いを強いられる人、また、学校や会社、あるいは施設にいてもまわりの人たちからのいじめを受けたりする場合には心を通じ合える言葉を交わすことのできない状況も多くあるだろう。
また、政治犯のように、長く孤独、かつ絶望的な牢獄での生活を強いられる人も多数いる。そうした特殊な人でなくとも、死が近づくときには、一人でその未知の世界に直面しなければならない。
こうした語り合える人のいない恐ろしさに対しても、語りかける神、キリストがいてくださるということは何とありがたいことだろう。
そのような死んでしまうような状況にあっても、生かすもの、それこそは神が直接に語りかけること、あるいはかつて聞いた聖書の言葉が生きて語りかけることである。私たちの通常の人間生活にあっても、わずかひと言の愛のこもった語りかけで、暗い気持ちが晴れることもある。そして生かされる。
神の愛の息吹の一吹き、それがたとえ神からの小さく細い語りかけや励ましであっても、私たちの憂いの雲は拭いさられるのである。
そうしたさまざまの意味をもって、人はパンだけでは生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、という真理が私たちに与えられている。

 


リストボタン幼子、乳飲み子の口によっ て―詩篇第八篇

2 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます
幼な子、乳飲み子の口によって。
(あなたは、みどり児、乳飲み子の口に力の基を置き、
敵に備え給う、
仇する者、敵する者をしずめんがために。―関根正雄訳)
*
4 あなたの天を、あなたの指の業を  
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5 そのあなたが御心に留めてくださるとは  
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう  
あなたが顧みてくださるとは。
6 神に僅かに劣るものとして人を造り  
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7 御手によって造られたものをすべて治めるように  
その足もとに置かれました。
8 羊も牛も、野の獣も
9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。

*)ヘブル語の原文では、「幼な子の口に力を置いた」とあるが、旧約聖書のギリシャ語訳(七〇人訳)では、力でなく、「賛美」を置いたと訳している。新約聖書に引用されているのは、このギリシャ語訳の文である。関根訳、新改訳などはヘブル語文の訳文なので「力」と訳している。口語訳は、福音書に引用された訳文に従って「賛美」と訳している。
この詩では神の本質を讃美せざるを得ない心、神の本質が全地に満ちていることに対する非常に深い驚きと感謝の気持ちが、最初と最後におかれている。
二節にある「あなたの御名は全地に…」というところに、名とは神の本質であるということが表されていて、単なる名前とは全く違うことが分かる。
名という言葉は日本語ではこのような使い方を決してしない。普通の意味での神の名前が全地に満ちて力強いというように受け取るなら、本来の内容がまったくつかめなくなる。
神の名が全地に満ちているというのは、神の名、すなわち、神の万能、英知、美しさ、清さといった神の本質が力強く全地に満ちているということをまず言っている。
世の中には悪も混乱も戦争も危機も昔からあったから、このように実感するためには、地上の出来事を越えて神の御業を見るのでなければ、このような深い感嘆の念は起こらず、むしろどうして飢饉が起こったり、病気が蔓延したりするのかと疑問が生まれるだけである。
心から神の本質を深く感じて讃美するということは、目に見えるものとそしてその背後にあるものをしっかり見ることができているということを意味する。
幼な子、乳飲み子がこの詩の作者にとって重要な意味を持っていた。
この詩の作者は、ふつうは無視されている幼な子が、かえって神の栄光を人間の中で特にたたえているというのである。主イエスも幼子のようにならなければ、神の国に入れないと言われたことに通じるものがある。
幼子らしい純真さをもって語るたどたどしい言葉が神の栄光をたたえているという。言葉の使い方に慣れた人のたくみな表現よりも、何の意図的な表現もなくただ素朴な幼な子らしい言葉づかいのなかに、この詩の作者は深いものを感じ取っていた。
乳児が天に輝く万能の神の栄光をたたえているというような発想は、普通は起こらないはずである。そこがこの旧約聖書の詩と一般の詩の非常に違うところである。
誰でも赤ちゃんはかわいいものと思うだけで、それ以上のものを感じ取ったりすることは少ない。しかしこの詩の作者は、かわいいと感じるだけには決してとどまっておらず、幼な子らしさの重要性を深く実感していた。
日本の万葉集、古今集など、古来の和歌を見ても、幼な子らしさの重要性を歌った和歌などは見られないし、プラトンの哲学などにも出てこない。
しかし、聖書においてはこのようにキリストの出現よりも数百年以上も昔から、幼な子は一番力の弱いものであるにもかかわらず、その純真な口元や表情、そのたどたどしい言葉がかえって神の栄光をたたえているのを見抜いていたのである。
強力な軍隊、高性能の爆撃機、核兵器などは、全く神の栄光をたたえたりはしない。また、政治の世界やスポーツ、人気歌手などマスコミによく現れるような人たちの存在もまた神をたたえることを連想されるものはほとんど見られない。
新約聖書の中でのパウロの言葉はこうした精神の延長上にある。
…ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。(コリントの信徒への手紙一 一・二七)
幼な子と軍隊や核兵器というのは、全く対照的で、幼な子は相手を攻撃したり、破壊したりすることは一切ない。そして幼子や乳飲み子の口は神の栄光をたたえるだけでなく、別の意味をも持っていることは、この箇所の異なる訳が示している。
この詩の最初の部分に、注に記したように、古代のギリシャ語訳では、ヘブル語の文と異なるニュアンスでもって訳されている。
「幼な子の口によって賛美されている」と訳された文は、ヘブル語文では「神は幼な子の口に力を置いた」となっている。
日本語では、賛美と力とは全く異なるように感じられるが、聖書的には、共通したものを持っている。神への賛美ができるということは、神の力を受けた者のみができることであり、神への賛美を捧げるところにはおのずから力が与えられるし、闇の力は退くからである。
詩篇の最後の部分には、神への賛美の詩(ハレルヤ!神を賛美せよ!)が集められているが、それは、闇の力に勝利した壮大なコーラスとなっている。
黙示録にもやはり同様に、サタンに対する神の大いなる力の勝利が天から聞こえてきたことが書かれている。
…その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。…
わたしはまた、大群衆の声のようなものが、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。(黙示録十九の一~七より)
賛美は力であるし、神の力を受けて悪の力に勝利している者には、おのずから賛美が生まれる。武力や権力、あるいは富の力を持ったものでなく、かえって幼子らしい無力な者に、神はその力を与えられる。
詩篇をはじめとする旧約聖書を深く学ぶと旧約聖書は新約聖書の真理につながるような内容を随所にたたえているのに気付かされる。山の深い地下を地下水が静かに流れているように、神の永遠の真理は、旧約聖書を通じて新約聖書の世界へと流れ込んでいるのである。
この世はごまかしをしたり、欺いたり、武力を持ったり、策略をしたり、このようなものが勝つのだというような考えが多く見られるが、ところが神の世界は駆け引きや策略でなく、神をまっすぐ見る者に不思議と神の力が与えられて、それこそが敵に対する砦になる。聖書は、このような見方を持っていて、これは一般の常識とは非常に違うところである。
この詩篇の真理の重要性をふかく知っておられた主イエスは、この詩篇の言葉をそのまま引用されたことがある。
それは、ご自分の最期が近づいたことを知って、十字架にかかるためにエルサレムに入ってこられた時のことである。人々や幼な子までもが、イエスを救い主としてあがめ、賛美していることを聞いた当時の支配者層の人たち(大祭司や聖書学者)が、怒りだしたが、そのときの言葉である。
…イエスは言われた。「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ二一の十六)
小さきもの、弱いと見える者にかえって神は真理への洞察を与え、神の力、天の力を与えたということは、この世の常識では考えられないことである。福音とは、幸福(良きこと)の音信(知らせ)という意味であるが、まことにこのようなことは、天来の良き知らせだと言えよう。
四節からは、単に星がきれいだとか、神秘的だと思うだけではなく、この詩の作者は、「あなたの天、あなたの指の業…」とあるように、それらは神によって創られ配置されており、いつも見える月や星の光の背後に神の人間に対する愛の心や不思議な力があることを実感していたのがうかがえる。
旧約聖書からすでに言われているように、神の本質は慈しみと真実。その神が創ったものは、無目的に単にきれいに輝いているのではなく、自分たちに向けられた美しさであり、清さである。
科学技術の産物はコンピュータや携帯電話、あるいは各種の器械など非常に便利であり、私たちの衣食住のあらゆる方面において不可欠なものとなっている。しかし、それらは、どのような悪事にも使われ得る。全く善悪への方向性を持っていない。
医学などとくに科学技術がよいほうに使われた例の一つであるが、それすらも、医学とともに発達してきて治療のために不可欠なさまざまの薬剤によってその副作用や誤用や悪用などのために、きわめて多くの病人があらたに作られてきたということもまた事実なのである。
また、現在では車がなければ原料や材料の運搬、販売などもできず、あらゆる産業も成り立たないほどである。しかし、その車によって毎年五〇〇〇人前後という多数の人たちが命を失い、重軽傷を負う人たちは、九〇万人を越えている。
また、爆弾や大砲、銃の類によってどれほど多数の人たちが命を奪われ、手足など体の一部を損なわれ、生涯を苦しみのなかで過ごすようになり、幸いを奪われてきたことだろう。太平洋戦争においてもわずか四年足らずで、数千万の人たちが殺され、また傷つけられ、人生を破壊されてきたのである。科学技術が発達していなかったらこのようなことは有り得なかったことである。
また、現代の最大の脅威とみなされる問題は、核兵器がテロリストによって使われるのではないか、という恐れである。これは科学技術の最も発達したものとも言える核爆発を用いた結果の産物にほかならない。
しかし、神の愛ははっきり方向性があり、人間に向けられているのである。神が真実で愛ある存在であるということは、旧約聖書の古い時代から確言されている。

…主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、真実との豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者…(出エジプト記三四・六~七)

そのような愛の神が創造した自然であるゆえに、それは人間への愛をもって創造されている。創世記の最初にあるように、人間は万物の創造のいわば冠として頂点として造られているからである。
 この詩篇は、単に星や天体などの美しさだけを言ってるのではなく、人間との関わりにおいてそうした自然を見つめている。ここには、人間に与えられた力や能力というものへの驚嘆がある。
この詩の作者は人を神にわずかに劣る者と言っている。わずかどころか、神とは到底比較することもできないほど、人間は小さな存在であるのに、どうしてこのように言っているのであろうか。

ここにある「神」の原語は神の複数形「エローヒーム」で「エローハ」の複数形だが、一般的には「神」と訳されている。一部の訳で、原語では神の複数形で書かれているので、devine(神的)な存在ということで天使を意味していると受け取ることもできるので、king James Versionでは angels(天使たち)、最近の代表的な英語訳の一つとして用いられている New International Versionでは heavenly beings(天的な存在)、 関根正雄訳でも天使と訳している。

この箇所は、詩的な表現を用いて、神が人間にいかにすばらしい能力を与えられたかということを言おうとしている。人間というのは強力な爪や牙や早く走る能力や翼を持っておらず、冬場では裸で外に放り出されたら死んでしまうような弱い者なのに、羊も牛もライオンのような猛獣をも支配することができる。
人間に与えられた支配の力の不思議さや人間の創造の神秘に作者は深い驚きをもって見ている。神が与えるならば、力のないものでも全て強い力を持つようになる。
これは新約聖書にもつながって、ペテロやヨハネは権力も学力もないただの漁師だった。しかし、神が力を与えられたゆえに、千年、二千年も強力な影響を与える存在となり、聖書におさめられたペテロの手紙やヨハネの福音書などを通してたくさんの人たちを、精神の世界で神の愛と真実によって支配してきた(導いてきた)と言える。
ここで、この詩と新約聖書とのつながりを考えてみよう。
 新約聖書の最初の部分に、主イエスの教えがある。そこに天の国(神の国)のことが記されている。

「ああ、幸いだ、心の貧しい人々は!
なぜなら、天の国はその人たちのものであるからだ。
ああ幸いだ悲しむ人たちは!
なぜなら、その人たちは神によって慰められる(励まされる)からである。」(マタイによる福音書五の三~四)

日本語の天の国とか神の国というのは、支配というニュアンスを感じられないが、「国」と訳されている原語は、「バシレイア」で、王の支配、権威という意味である。それゆえ、この箇所においては、天の国というのは、「神の王としての支配、権威」という意味で、神が持っておられる権威や力が、幼子のような心の貧しき者に与えられるという意味なのである。
悲しむ者にも天の国が与えられるとは、神の悪に勝利する御支配の力が与えられるゆえに、慰められ、励まされるということなのである。
このように有名な山上の説教の最初は、内的には詩篇の八編と共通したものがある。わたしたちは、罪深く肉体的にもとても弱い存在であるのに、神を信じ、仰ぐだけで不思議な力を与えられて、悪に打ち倒されないで生きていける。
いつの時代にも戦争や病気、あるいは飢饉や天災など様々な暗い出来事や神の存在を疑わせるような出来事が生じてきたのに、そうしたあらゆる疑問や謎のようなこの世の世界に曇らされることなく、この詩の作者は神の無限の力と光を知らされ、人間の弱さも深く知り、それにもかかわらずに与えられてきた大いなる恵みを深く感じてきたのである。
暗いもので満ちているところを通り抜けるならば、青い空が広がっているが、この詩にはそうした澄みきった空の広がりを啓示された一人の人間の精神の世界が記されている。
そして弱き人間に与えられた、支配の力は、その究極的な姿としてキリストに見られる。キリストも弱い人間のかたちをもって地上に来られた。水がなければ渇きも感じ、人々の状況に接して悲しみ、祖国の滅亡を知って涙を流す人間でありながら、永遠の神の本質たる力を与えられていたのである。それゆえに、すべての人が打ち勝てなかった死の力にも打ち勝ち、復活され、聖霊というかたちで世界の人々を救い、現在も導いておられる。
私たちが、地上の出来事にばかり目を奪われるのでなく、聖なる霊によって導かれつつ、周囲の自然や世界を見つめ、そして今の生きて働いておられるキリストを仰ぐとき、この詩の作者のように、「主よ、あなたの御名はいかに力強く全地に満ちていることか!」という神への賛美の心へと導かれる。

 


リストボタン理想と現実

私たちの生活のなかで、理想と現実とは違うとか、理想的な人、理想的な状態…とよく使われる。そして実現はできない、ということと理想ということとがよく結びつけられる。
このように、理想という言葉は、よく耳にしたり、見かけたりするなじみの深い言葉である。
しかし、意外なことに、聖書においては「理想」という訳語は一度も使われていない。これは、日本で最も広く用いられている、新共同訳、新改訳、口語訳の三種の日本語訳聖書においても共通して、一度も使われていないのである。
心や精神的な問題にかかわるとき、または思想的問題を議論するときなど、理想と現実といったことは古くからしばしば議論になった。理想という言葉は、そのように重要な言葉であるのに、なぜ、聖書は精神や思想にかかわる最も重要な書物であるのに、理想という言葉が一度も現れないのだろうか。
それは、聖書、キリスト教においては、完全な理想とは神であり、キリストだからである。そして、現実とは、この世であり、罪である。
このように、使われている用語が異なるだけで、理想(神、キリスト)と現実(罪)はきわめてしばしば現れるのである。
このことから、一般的な考え方から大きく異なってくる。
普通の日本人の考え方は、理想と現実とは違う。完全な理想など現実にないし、実現不可能なことだ、と思っている。
しかし、聖書においては、完全な理想はないどころか、永遠の昔からずっと存在しつづけ、現在も存在しているのである。
そこから、理想は現実のただなかにおいて働くと言えるのである。神ははるか昔から、完全な正義と真実、そして慈しみの満ちた存在であり、それこそは人間の究極的理想である。その神が二千年前に人間の姿をしたキリストにすべての力を与えて地上へと現れさせた。、完全な神性を受けているお方が、人間の姿をもって現れた。それは罪深く、弱くてもろい人間の現実のなかに、理想が溶け込んだ歴史上で初めての例となった。
私たちの心が汚れのない清い状態であること、愛に満ちた、真実なものであることは理想である。しかし、現実はそれとはほど遠いものでしかないことは、だれでもわかる。
そして現実の心の状態がいつまで年齢を重ねても理想とははるかに遠いのがわかってくる。それは、理想というものは、私たちの精神が少しでもよくなると、一層より高いあり方が見えてくるからであって、ちょうど、山を登っているとき、登るほどより高い嶺が見えてくるのと似ている。山の場合は三千メートルの山であっても、何時間も登っているとそのうちに頂上が見えてくるし、そこに達することができる。
しかし、精神的な世界においては、地上の人間が、高く登ったといってもその向こうにはどこまでも高い世界が存在している。
例えば、完全な愛とは、無差別的に、だれにも広がるものであるから、それはキリスト者の集まりに加わっている人たちからその家族、さらに職場や近所の人、そして道路や通勤で出会う人たちもすべて含むことになる。それで終わることなく、その地域全体の目に入る建物にいる人々、ほかの府県、さらには日本以外の人たちへの愛…とはてしなく広がっていく。そのような無数の人たちへの愛というようなことは、人間には事実上不可能なことである。言いかえると愛の世界は無限に高く広い。
それゆえに、愛を完全に持っているという理想の状態は有り得ないことになる。
人が心に思ったり考えたりすることを、他人の前では出せないようなことがたくさんあるだろう。人間の心には、さまざまの不純な考え、不正な思いなどが生じてくるものだからである。他人への憎しみ、敵対心、ねたみ、自分中心の思い、欺き、物への執着等々…そうした現実を思うとき、あまりにも理想のあるべき姿とはかけ離れている。
けれども、その無限の隔たりがあるところに橋をかけて、理想と現実の罪深い本質を結びつけて下さったのが、キリストであった。汚れた罪深いものであるにもかかわらず、その罪や汚れを清めて下さるなら、それは理想のあるべき姿になったことになる。それは自分の考えや努力といったことではどうにもならないことはだれもが思い知らされていることである。
そこに無限に隔たりのあるはずの理想のあるべき姿に達することができるという、思いもよらない道がある。それが、キリストが十字架によって私たちの罪を身代わりに背負って死んで下さった、ということである。
永久に達することのできない理想が、ただ信じるだけで、与えられて実現する、ということは、驚くべきことである。
新約聖書には、「キリストを信じる信仰によって義とされる」という表現になっている。これは、旧約聖書における表現をそのまま用いている。旧約聖書に、「アブラハムは主(神)を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五の六)とある。そのことから、パウロは「キリストを信じる信仰によって義とされる」ということを強調している。(新約聖書 ローマの信徒への手紙三~五章)
義とされる、という表現は、キリスト教しか使わない用語であって、一般の日本人にとってはその意味が分からないであろう。こういう表現は新聞や雑誌、テレビなどでも聞いたことがないのであって、日本語としてはまず使わないからである。
しかし、本来達成できない理想が、ただ信じるだけで与えられる、現実になる、ということなのである。
キリスト教は、理想と現実の間の限りないギャップをただ信じるだけで一挙に埋めるはたらきをしてきたと言えよう。
実際の生活では、愛もなく、正義や勇気もなく、信仰を持つ前とあまり変わらないという事実がある。だから、信仰を持っても変わらないではないか、と反論する人も多いであろう。しかし、信じる人が真実に信じているほど、その人の心の中においては、その罪深い現実のただなかに、主の御声があって、あなたは赦された、きよくしたのだ、と語りかけて下さる声のようなものを感じる。
すなわち、信じる人の魂の内において清められた状態という理想が実現したことであり、理想が現実になったことと言えるのである。これは、その赦しの実感を与えられていない人にはどうしても分からないことである。それがわかった人はキリスト者になったということになる。
こうした、理想と現実が一つになる、という不思議なこと驚くべきことは、新約聖書に多く記されている。
死なないということ、永遠の命を持つことは、究極的な理想である。いや、死んでしまうことが自分の願いだ、という人もいるかもしれない。しかし、そのように死にたいと思うのは、病気や老年のさまざまの苦しみや貧しさ、孤独、人間関係の苦しさ、いじめ等々のゆえであって、そうしたものがなかったら、だれでも死にたいとは思わない。
この究極的な、命が永遠に続くという理想は、ふつうの意味では、もちろん不可能である。しかし、この理想は、実現している、誰にでもただ信じるだけで与えられるというのが新約聖書の示すところである。
…はっきり言っておく。
*
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ五の二四~二五)
*)「はっきり言っておく」という原文は、アーメン、アーメン レゴー(言う) ヒューミン(あなた方に) であって、これから言うことは真実なことだ、ということを強調して二度繰り返しているのである。それゆえ、文語訳は、「誠にまことに汝(なんじ)らに告ぐ」と訳され、新改訳も「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」、塚本訳、岩波書店の訳も「アーメン、アーメン」と原語のままにしている。
新共同訳だけが、「はっきり言っておく」という訳語を採用しているが、これは、ニュアンスが異なってくる。例えば、学校などで、生徒が、小さな声であいまいに言っていたら教師は「はっきり言いなさい」と言うであろう。これは、重要性とはかかわりないことである。(外国語訳でも、clearly I say to you のように訳しているものは皆無である。)
このアーメンという言葉は、それと語源的に共通の言葉に、旧約聖書でとくに重要な言葉の一つである、「エメス」(真実)という言葉があり、「真実」というニュアンスを持っている。それゆえ、英語訳でも、次ぎのように 真実という意味を持たせ、さらにその強調表現で訳しているのが多い。その英訳のニュアンスをとって和訳したものを付けてある。
Very truly, I tell you, NRS)(非常に真実なこととして、私はあなた方に言う)
In all truth I tell youNJB)(ゆるがぬ真実として 私はあなた方に言う)
Truly, truly, I say to you, NAS)(確かなこととして、真実に私はあなた方に言う)
I tell you the solemn truth,NET)(私は厳粛な真理をあなた方に告げる)
このように、死なないというのは単なる実現不可能な理想であったにもかかわらず、ヨハネ福音書ではとくにただ、イエスを信じるだけで死なない者、永遠の命を持った者とならせていただけること、死んでいるに等しい者が、神の子たるキリストの声を聞くだけで、命を与えられて生きるようになる、ということが強調されているのである。
この箇所には、短い二節の中に「真理(真実)を言っておく」という意味の言葉が二度も繰り返されている。これはいかに、このことが重要であるかを示すものである。
これは、単なる理想であり、夢であった永遠の命ということが、現実のものとなって、だれでもがそれを与えられるという革命的な新しい時代になったのだ、ということを強く神より示されたからこのように表現されているのである。
また、次の箇所も同様である。
…わたしは命のパンである。
これは、天から降って来たパンであり、これを食べるものは死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ福音書六の四八~五一より)
どんな食べ物を食べてもみな、死んでいく。死ぬということは苦しみと闇を思い起こさせる上に、空しさを生み出す。死に対しては、いかなる権力者もどうすることもできないことを知らされるから、権力にしがみついていたい者は、不死を求め、仙人(高い山の上などに住んで、不老不死とされる)伝説のようなものに中国の古代の人もあこがれたことが歴史書に記されている。(*
*)中国古代の秦の始皇帝は、家来たちに仙人の不死の薬を求めさせた。どうしても見出せないので、家来たちは、人間は悪気が去れば天地とともに永遠になる、と言い、そのために自分がいるところを知らせないようにして、悪気を追いだせば不死の薬が得られると進言して、皇帝もそのようにして得ようとした…等々のことが記されている。(「史記・始皇本紀第六」筑摩書房版五二~五四頁)
死ぬことなく、健康で、祝福された状態で永遠にいられるのなら、誰しもそのような状態を求めるであろう。私たちが地上で経験する最も喜ばしいとき、清い心でいられるとき、新鮮な力に満ちた状態が続くのなら、それこそが究極的な理想である。そんなことが有り得ないと思うからこそ、はじめからそれは単なる夢だとみなしてしまう。
その夢のようなことが、事実だれでもに与えられるということを、先ほどあげたヨハネ福音書の箇所は告げているのである。
キリストこそ、このような理想と現実が完全に一つになった存在であった。現実の人間世界の汚れ、悪に覆われた状態にあって、そのただなかにキリストは光として来られた。そしてご自身も現実の人間としての苦しみや悲しみを深く持っておられた。それは十字架で殺されてしまうということこそ、何よりも厳しいこの世の現実を我が身において体験されたのであった。そしてその十字架で釘付けられた恐ろしい苦しみのゆえに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という血を吐くような叫びをあげられたのもこの世の現実を全身でになわれたためであった。
しかし、他方で、そのキリストが、「すべては全うされた」と言われて息を引き取られたのである。そして、死に打ち勝ってよみがえられた。このことは、正義の力に満ちていたこと、永遠の命を持っておられたことをはっきりと証しすることになった。
このように、キリストこそ、理想と現実を一つに溶け合わせた存在であった。
私たちも、このキリストに従っていき、キリストなるぶどうの樹につながっているときには、理想と現実が一つになった状態を実感できるようにしてくださっている。
そして、私たちの周囲の自然の世界は、理想と現実がうるわしい形で一つになった姿そのものである。美しさとか清いこと―人間には到底有り得ないようなものが、現実に見られるのが自然の世界である。
自然の例えば野草の花の美しさに接するとき、それぞれが独自の繊細さ、美しさを持っているゆえに、それは理想的なものである。野草の花に接して見つめていると、それから何一つ取り除くものもなく、付け加えるものもないのに気付く。人間が描いた絵は、いくらでもあとから付け加えたり、除いたりしなければならない。
小鳥の鳴き声も同様で、コマドリやウグイスのような美しいさえずり、またホトトギスやイカル、サンコウチョウ(三光鳥)などは別な印象的な鳴き声を持っているなど、その個性的な鳴き声は比類のないもので、これもまた付け加えたりカットする必要がない。
私たちも、理想には無限に遠いような者にすぎないが、ただ神の愛を信じ、キリストが私たちのために死んで下さったと信じるだけで、本来は達成不可能な理想でしかなかった清めを受けることができる。
現実の醜さやはかなさ、また混乱した状況ばかり見ているとき、私たちの力は失せていく。そしていつのまにかそうした汚れたものが入り込んでくる。私たちが神の国への道を歩むためには、理想そのものを見つめ、さらにその理想的実体を私たちの内に取り込むことが不可欠である。
主イエスが、私を信じる者には、私は彼らの内に留まるし、彼らは私の内に留まる、と約束して下さっている。私たちは、理想である星を見つめるだけでなく、その星を私たちの内にもつねに留めていることが与えられているのである。

 


リストボタン元号の問題性について

現在は、グローバルな時代である。どこかの国で大きな事件が生じたら、ただちに全世界に伝わる。インターネットを用いれば、世界の現在の状況についての情報はいくらでも手に入る。こうした国際的な時代にあるにもかかわらず、日本しか通用しない、そして日本しかやっていないようなことがある。
それが、一世一元制度である。天皇一代の間にただ一つの元号を用いて改めないことである。この制度は、一八六八年九月八日の改元の詔(しょう・天皇の言葉)によって制度化された。江戸時代の徳川の支配から、明治政府になってただちに手がけるということは、新政府の指導者がとくに重要視していたことを示すものである。なぜ、一世一元制というのがそれほどまでに重んじられたのであろうか。
それまでは、元号はあったが、それは天皇が死んだら変えるというのでなく、一人の天皇の在世中でも地震、暴風、火災、飢饉、戦乱などの特別な出来事が生じたとき、あるいは逆にめでたいことがあれば変えるということがしばしば行われた。
例えば、一八四六年から一八六七年の二〇年間に、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応などと七回も変えている。これは、アメリカからペリーが来て動揺しているので、政治が安泰となるようにということで、安政と変えた。しかし安泰とならないので、万延とした。さらに井伊直弼が殺害されたので、すぐに一年で文久と変えた。それでもまた動揺が続くので元治と変えさらに、喜びが応じるようにと、慶応とするなどと、実に気まぐれで、迷信的であった。
このように明治より前の元号は天皇の時間支配と迷信との合体したものであった。しかし、明治時代になって、最初に制度化したことの一つが、この一世一元制度なのであった。
このようなことをなぜ、考え出したのか、それはふつうの人間にすぎない天皇を現人神としてまつりあげ、その天皇への忠誠を強制していくために、時間を考える際にいつも天皇の名前を用いるように仕向けて、天皇の支配を人々の心にしみ込ませ、その天皇の権威によって自分たちの支配を安定化するという目的のためであった。
そのような意味では、靖国神社が、天皇が戦死者を神として拝んでくれるのだと称して、天皇と関連させて戦争への反対を封じ込め、政治支配がやりやすいようにする道具として用いたというのと本質は同じなのである。
徳川幕府を倒したのは、かつては身分の低い武士、しかも年齢も若い人たちが中心となったが、彼等だけの力ではかつての自分たちの主君である大名に命じたりすることは到底できない。しかし、天皇を現人神としてしまえば、自分たちの意見をも、天皇の名によって布告することで、大きな力を持たせることができるというわけである。
こうした全く政治的な発想から一世一元制度も取り入れられたのである。
このような一世一元制度は、世界では、中国では明・清両朝で行なわれていただけで、ほかにはどこにもなく、今日では世界で唯一なのである。(*
このようなことは、世界の常識から考えても、まちがったことであるにもかかわらず日本ではそれが官公庁、学校、病院などではあたかも正式であるかのように用いられているという奇妙な状況となっている。歴史のなかの悪名高いヒトラーのような独裁者でも、年を数えるのに、自分の名をもって年を数える基準にしようなどとはしなかったのである。

*)中国では漢の武帝が元号制度を始めた。その後、十六世紀になって明の洪武帝のとき、一世一元制が作られて、次の清朝においても続けられた。しかし、辛亥(しんがい)革命で一九一二年に中華民国が成立して、清朝が倒れると元号制度は、皇帝の支配の象徴であったから当然廃止された。それに対して日本では天皇の支配が一九四五年に終わったにもかかわらず、今もなお一世一元制が続いている。
世界には数々の特別な制度を持つ国があるが、なぜ、このような一世一元制度は日本だけなのであろうか。
それは、一人の人間が生きているか、死んだのかということをもとに全国民の時間を考えるということは、だれが考えても不合理なことであるからである。例えば、徳島県で飯泉(いいずみ)という人物が知事になったとたんに、それ以後の全文書の日付を飯泉元年とか二年とかに変えるというようなことをだれが考えるであろうか。そんなことを命じたら、そのようなことを言い出した人間の常識が疑われるだろうし、たちまち猛反対を受けるであろう。
あるいは、アメリカのオバマが大統領になったら、すべての公文書などを、多大な経費やエネルギーを使って、オバマ元年、来年はオバマ二年などというように変更する、などということが考えられるだろうか。そんなことは、誰一人思いつくこともないであろう。それほど、個人名を時間という基本的なものの呼称に使うということの無意味さは自明のことだからである。
ところが、日本国全体が、そのようなことをしているのである。天皇が変った途端に、それ以後は全文書の年号の記述を変えているのだ。これは実に無意味で間違ったことなのに、天皇というのが結びつくと、途端に事の善し悪しが見えなくなるのは不思議なことである。
これは例えば病院に長期入院している人がいつからそういう状況かを知ろうとするときとか、何かの有効期間とか、過去からの時間の経過、歴史とかを考えるときには極めて不便となる。例えば、昭和六二年から、平成一五年までといっても、ほとんどの人にとっては、何年間なのか直ちには分からない。
また、平成二〇年などといって、インタ-ネットで世界に発信しても外国人は何のことか分からない。世界には全く通用しないからである。
年齢にしても、大正十二年生まれだといわれても、大正、昭和、平成と数えねばならないので、一体何歳なのか、たいていの人にとってはすぐには答えられない。しかし、一九二三年生まれだと言えば、直ちに年齢は分かる。
現在の天皇も当然死が訪れるときが来る。その時には元号が代わり、一切の公文書、印鑑などもすべて変更され、そのために要する費用や事務的なエネルギーは非常に大きいものとなる。
そして、全世界で通用しないし、どこにもなされていないこの一世一元制度を事実上学校教育でも強制しているが、そのようにして一体何の利益があるのであろうか。
それは何もないのである。時々、昭和時代というと一つのイメージが浮かぶから便利だという人がいる。しかし、昭和時代といっても、昭和二〇年の敗戦までと、敗戦以後とは、主権者も天皇から国民に移り、戦争を聖戦として重要視したのに対して、戦後はいっさいの戦争はしない、ということになった。戦争が悪であるからだ。そのように、まったく価値観が変化しているのであって、昭和時代というのが、統一的な内容を持つものではない。
また、大正時代はわずか十五年であって、人間の個人の生きている期間を一つの元号でいうのであるから、ある人はこのように短命、別の人は、一〇〇歳まで生きるかも知れない。そのような偶然的な時代区分は到底歴史的な意味を持たないと言えよう。
だからこそ、敗戦後まもなく日本学術会議(*)が創立された一九四九年の翌年五月の総会で、「元号廃止、西暦採用について」という決議を採択しているのである。その理由としてはつぎのことがあげられていた。
1)科学や文化の立場からみて元号は不合理である。…西暦は何年前、何年後ということが一目してわかるうえに、現世界のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは日本だけにすぎない。歴史上の事実でも、今から何年前にあるかを容易に知ることができず、世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつごろに当たるのかをほとんど知ることができない。… 天文、気象などは外国との連携が緊密で世界的な暦によらなくてはならない。
したがって、元号は、非合理的、非科学的、非文化的である。能率のうえからいっても、文化交流のうえからいっても、すみやかに西暦を採用することが適当である。
2)新しい民主国家の立場から言っても、元号は適当ではない。元号は天皇主権のひとつの現れであり、天皇の統治を端的に表したものである。…
新憲法の元で、天皇主権から国民主権に代わった現在では、元号を維持することは、意味がなく、民主国家の概念にふさわしくない。
*)日本の科学者,研究者の内外に対する代表機関として1949年に設立された。学術会議は,その第1回総会で「これまでわが国の科学者がとってきた態度について強く反省し,今後は,科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に,わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献することを誓うものである」との声明を採択した(一九四九年一月二二日)
このように、純粋に学術的に考えても、元号を用いることが何の長所もなく、間違ったことであるのは明らかにされていたのである。
それにもかかわらず、官公庁や学校で元号を事実上強制のようにしているのは、何の目的か。それは単に人々を天皇と結びつけようとしているのにすぎない。
このような考え方は、教育基本法を変え、さらに平和憲法を変えようとする人たちがよく持ち出すこと、つまり日本の伝統、文化を重んじるということにつながっているのである。
こんな不可解なことはない。日本人にも、外国人にも一世一元制度を使って何の益もないことを、日本の伝統などというのなら、そんな伝統は無意味な伝統だと言わねばならない。
平成二〇年とかいう言い方は、(平成)天皇の支配(統治)の二〇年目という意味なのであって、天皇が絶対的な権力者であった戦前においては、支配者にとっては、天皇の名をしみ込ませる都合のよい表現であった。平成というのは、現在の天皇の死後の贈り名(諡)であるから、時間を言うのに、事実上、天皇の名によって言っているということになる。
自分の生れた年などを昭和○○年と言わねば、ぴんとこないという人が多数を占めているのは、この一世一元制度が目的としたことが達成されているということである。すなわち、天皇の名前が日本人にしみ込まされた結果このように、自分の生れた年や出来事を言うにも、天皇の名前を言わないではおれないようにされてしまったのである。
最近の教育現場で、「君が代」を国歌だからとして歌うことを当然として、強制する考えが浸透しているが、この考えと、一世一元制度を強制する考えとは、天皇という存在を、日本人の心に植えつけようとすることにおいて共通であり、同じ土壌の上にある。
現在の「君が代」については、その歌詞の内容が、新しい激動の時代にふさわしいと言えるのか、はなはだ疑問である。なぜ、このような天皇の賛美の歌の歌詞を根本的に変えて、曲も刷新して、若い世代もだれもが歌えるような国歌を制定すべきだということにならないのか、とても不可解なことである。
本来あるべき姿は、天皇のような単なる人間に若い生徒たちの心を結びつけるのでなく、二〇〇六年に改訂される以前の教育基本法が述べているように(*)、真理と正義を愛する人間、真理そのものに心が結びつく人間の育成こそ重要なのである。
*)教育基本法(一九四七年~二〇〇六年) 第一条 真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
新しく改訂された教育基本法の第一条では、従来の基本法にあった、「…平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた…」国民の育成、ということであったが、《真理と正義を愛し》が削除され、「平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた…」国民の育成を、ということになった。
元号制を日本の伝統だといって守るべきだ、という人たちがいる。しかし、伝統というのであれば、日本では和服は伝統の衣服であるが、会社や学校で日常の勤務を和服でしようなどというところはあるだろうか。それは考えられないことである。また、住居を畳や障子というのが一般の伝統であったが、いまさら、障子をつかって、ガラス窓やサッシ、ドアなど洋式のものを廃棄しようとする人がいるであろうか。
伝統の象徴的存在である天皇家の人たちも、日本の伝統の和服でなく、洋服で公的行事をやっているのである。
また、現代の日本や世界的に常識となっている一夫一婦制度も、まったく日本の伝統ではなかったのであって、これもまたキリスト教によって世界的な標準となったものである。天皇家にこどもが生まれない場合、二人目の女性を妻として迎えるということは以前では当たり前であったが、キリスト教の影響のゆえに、そのようなことをしないのであり、現在の皇太子夫妻にも、男子が生まれないからといって、第二の妻(側室)を入れたりしないのは、まったく日本の伝統でなく、キリスト教の伝統からきているのであって、日本の伝統の象徴的存在である天皇家自身が、みずから一夫多妻の伝統を捨てて、キリスト教の伝統を取り入れているのである。
音楽や美術、女子教育、盲、ろう、養護などの障がい者教育や、福祉一般、病院、看護師、さらに、今日の電気関係のさまざまの技術、医学、薬学、車や飛行機、列車など交通機関全般などの科学技術などもそのもとは、ほとんど外国から入っていたものであって、日本の伝統にはなかったものである。
日本を含めて世界がつかっている暦も、これまた日本の伝統の暦ではない。明治になってから、外国で使われていた太陽暦を取り入れたのである。
これは、グレゴリオ暦といって、一五八二年にローマ教皇グレゴリウス十三世が、復活祭の季節を一定の範囲におさめることを目的にしてそれまでのユリウス暦を改良した暦であって、キリスト教と深い関わりがある暦なのである。
現在日本人が当たり前とみなしている外国からきたものやキリスト教からきたものを排除するなら、生活は全面的に止まってしまうであろう。
天皇家すら、キリスト教の伝統たる一夫一婦制度を入れているのは、それがより人間のあり方として優れているからにほかならない。
日本の精神的な伝統を言うのなら、キリスト教が入ってくるまでは、人間はみな平等だといった考え方などは有り得なかったのであり、身分差別は当然のことなのであった。
だからといってこのような差別を復活しようという人はだれもいない。それはなぜか、真理に反するからであり、真理の力は間違った伝統を打ち壊していくものだからである。
このように考えてくれば自明であるが、元号という制度は、あらゆる面―社会的にも政治的にも、あるいは経済的な観点からも、また宗教的に考えても何一つ利点はないのである。だからこそ、世界のあらゆる国でこのような制度は存在していないのである。
キリスト者でありながら、キリスト教紀元の西暦を使わずに、元号をつかっている人もいるが、それは以上のような理由を知らないからだと思われる。
かつて私が教員をしていたとき、同僚に元号を学校で教えることの不合理を職員会議で主張し、生徒たちにもその不合理をていねいに説明して西暦を使うように指導していた。
そのときどこの学校に転勤しても最初は同僚の教員たちが、「吉村さんはキリスト教だからそのように言うのだ。個人的な問題を持ち込むな」と反対されたが、これまで書いてきたような理由を詳しく文書に書いて配布し、読んでもらって説明するとどこの学校でも反対する人はなくなっていった。それはだれが考えても元号の起源から見ても、また世界的な常識から見ても、その不合理性はあまりにも明らかなことだからである。
元号の問題は、日常的な問題である。こうした小さなことに見える問題のなかに、日本の持っている問題点が象徴的に現れている。それは未だに精神的なバックボーンをもてず、ふつうの人間にすぎない天皇などにそれを求めようとしていることである。
これからの日本は国民の老齢化、資源がないこと、中国やインドの発展など、かつてない厳しい状況へとだんだん押しやられていくであろう。 取りわけ、精神的な脊椎骨を持たないことは、国家の根源においてきわめてもろいと言わねばならない。
単なる伝統を守るのではなく、それが永遠的価値があるのか、普遍的に通用するものなのか、要するに真理にかなっているのかどうかという観点から考えねばならないことである。単なる伝統には、よいものも悪いものもあり、多くはすでに述べたように、身分差別や弱者、障がい者をたたっているとして見下すなど、よくない内容を持っているからこそ、すたれ、廃止されてきたのである。
伝統というならば、最も永続的な、しかもあらゆる民族や国にも通用する世界的な伝統こそ、真理にかなったものであり、人間の最も奥深い根源にかかわるものと言えるものであり、そうした伝統こそ守るべきである。
そしてそうした観点から最も価値あるのは、聖書に示された伝統なのである。

 


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328)神への賛美
(われわれに)理性があれば、どうだろう。われわれは人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を賛美したり、ほめたたえたり、その恵みを数え上げるべきではないだろうか。畑を耕しているときも、鋤を使っているときも、食事しているときも、神の讃美歌をうたうべきではないだろうか。
「偉大なる神! 神はわれらに土地を耕すこれらの道具を与えて下さった。偉大な神! 神は手を与え、喉を与え、胃を与え、知らない間に成長させ、眠りながら呼吸をさせて下さる。」と。
また、神はわれわれにそれらを理解する能力や、使う能力をも与えて下さった。それゆえに、最も大切で最も神的な讃美歌を歌うべきである。
…多くの人々は、盲目になっているのだから、だれかがその埋め合わせをして、みんなのために、神への讃美歌をうたうべきではないだろうか。足の不自由な老人である私は、神を賛美するのでなければ、ほかの何ができるだろうか。
…私は理性的存在である。それゆえに、私は神を賛美するべきなのである。これが、私のなすべき働きである。私はそれをする。そして私に与えられているかぎり、この地位を捨てないだろうし、またあなた方にも、この歌をうたうようにすすめるのである。
(エピクテートスの談話集「人生談義」上巻 七〇~七一頁 岩波文庫 )
*

*)エピクテートス(紀元五五~一三五年頃)は、ギリシアにおける足の不自由な奴隷。解放された後、哲学を教え、ストア哲学者として著名。その談話集(語録)は、今日まで多くの人によって愛読されてきた。ヒルティも幸福論(全三巻)の第一巻の冒頭で、エピクテートスの思想のエッセンスが含まれている内容を取り入れている。

・ここで言われていることは、哲学といっても、何も難しい議論、難解な思索を要求するものではない。それは本来は、だれでもができることであり、キリスト教的主張であることに驚かされる。使徒パウロが、常に喜べ、祈れ、感謝せよ と教えているのと似たものを感じる。
また体にハンディがあったり、年老いても、神を賛美することにおいては、何ら妨げとはならない。そして、自分だけが賛美するのでなく、神から受けたものが分からない人たちに代わって賛美するのだ、そして、ほかの人たちにも神への賛美の重要性を勧めるのだと言っている。
これは、本当によいことは、自分だけで納めておかないという姿勢がある。これも、互いに分かち合うことを重視するキリスト者の考え方にとても近いものがある。
329)神と悪魔
 神は助け、悪魔は挫折させる。神は善をみるのが敏感であり、悪魔はたくみに悪を探し出す。
善を残して悪を覆うことを思うのは神である。悪を明るみに出して善を駆逐しようとするは悪魔である。
神の前に出でて小さき善も幼い芽が、日光を受けたように成長する。しかし、悪魔の息に触れて小さな悪も大きい悪となって現れてくる。
神は奨励するお方であるが、悪魔は失望させる者である。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇三年二月)
・私たちが神からの愛を受けるとき、私たちの知人友人たちの悪や欠点をさらすことなく、そのことのために祈る道を選ぶであろう。しかし、そうした神の愛なきとき、私たちは、そうした人たちの悪を人前にさらしてしまう悪魔の道に陥ることがある。
主よ、私たちを導いて、そうした道でなく、神の愛の道を歩ませて下さい。
330)天のとびらが開かれるために(敵を愛するの結果)
私を憎む人を愛するのは極めてむつかしいことである。しかしこれは、主キリストが命じられることであるゆえに、私が努めてこのことをするとき、見よ、天の扉はわが心の中に開けて、われはそこにありありと主をその栄光においてみることができる。
辛いことの背後には最もよろこばしいことが隠れている。
私たちは何事にかかわらず勇んで主の命に従うべきである。(同右)
・私たちを害する人に対しては、だれでも不快感、嫌悪やときに相手がひどい悪をしてきたときには、憎しみも生じるであろう。しかし、そこから主イエスの言葉に立ち返り、そのような悪しき人のを愛する(祈る)とき、私たちは新たな心の世界へと導き入れられる。
このことは、経験しないかぎり、分からないことである。不快なこと、自分への理由なき中傷や攻撃、誤解などを主のためにと耐えて受けるとき、そこから、確かに何か新たな門が開ける。
逆に、相手を憎しみや攻撃でもって対すれば、開いていた扉まで閉じていく。
神の国のあらたな扉が絶えずつぎつぎと開かれていくために、私たちだれもがここに言われている道へと導かれたいと思う。

 


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○冬の寒さのさなかにわが家でも梅が咲き始めています。
イスラエル地方には、アメンドウの樹というのがあって、ちょうど今頃咲き始めます。これは梅の花に似た花で、色も純白ので、私が十五年ほど前に、イスラエルに二月に行ったときには、シナイ山のふもとの修道院の庭にて、ちょうどその真っ白な花がさいていたのが印象的でした。
野生のアメンドウは、白い花ですが、現在各地で果樹として栽培されているのは、うすい紅色です。
旧約聖書の預言者エレミヤは、祖国が重なる罪のために崩壊しようとするときに神から召されたのですが、そのとき、アメンドウの白い花を示され、ほかの花がまだ咲いていない時期にひとり目覚めて咲いているこの花のように、神はその言葉を実行しようと国の動向を見張っていると言われたと記されています。このように二千五百年以上も昔に、神の姿の一端を象徴する花とされていたのです。
現代の私たちも、植物のすがたや花の色などの中に、清さや多様性、あるいは、風雨や厳しい寒さ、風雪に抗して立つ大木の力強さなど、神が私たちに向けたご意志の一端を読み取ることができます。
なお、アメンドウというのは、アーモンドのことですが、ポルトガル語のamendoa からできた言葉です。
○ビリーブ(Believe
私たちのキリスト集会で、十二月のクリスマス特別集会で、ビリーブという歌を中学二年の福原 愛さんのピアノ伴奏で途中を少し替え歌にしてみんなで歌いました。
この歌は、NHKの「生き物地球紀行」という番組で放送された音楽です。学校の卒業のときなどに愛唱されている曲ですが、大人の人にも愛好する人が多いようです。
私たちが歌っている歌詞を次にあげておきます。(傍点部分が替え歌にした箇所)

たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は かならず主イエスが 側にいて
ささえて下さる その肩を
世界中の 希望のせて
この地球は まわっている
いま未来の扉を開けるとき
悲しみや 苦しみが
いつの日か喜びに変るだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー
信じてる

もしも誰かが 君のそばで
泣きだしそうに なった時は
だまって腕を とりながら
いっしょに歩いて くれるよね
世界中の やさしさで
この地球を つつみたい
いま素直な 気持ちになれるなら
あこがれや いとしさが
大空に はじけてひかるだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー
信じてる…
いま未来の扉を開けるとき
アイ ビリーブ イン フューチャー
信じてる…

この歌についての感想を引用しておきます。(YOUTUBEから)
北田 康広さんのCDにも収録されており、このような感想をみると、大人になってもどこか心惹かれる歌だということがわかります。
--------------------
○当時、長男は誕生したばかりで、車いすに乗った父があやしながら この番組を見ていたことをよく覚えています。
 長男が歩き始めた時、他界したのですが、今でもこの歌を聴く度、 当時を思い出してなりません。
 そして9年後、長男は成長し、早や小学3年生。今でも父がこの歌 を聞きながら、可愛い孫を見守り続けているような気がします。
○これさがしてました。ありがとうございます。涙がでますよ、もっと多くのひとにいい歌を聞いてほしい。
○この番組も欠かさずに見ていましたが、その時には何となく聞いて いましたが、孫が幼稚園の発表会で歌ったときにものすごく感動を 覚えました。
この歌に込められている詩は今の時代にもっとも大事 なメッセージ込められていると思います。幼稚園の三年間この歌を 歌い続けてもらいたいとおもいます
○年長の娘が最後の幼稚園の発表会で歌うようで毎日家で口ずさんで いるので、どんな雰囲気の曲なのか知りたくてこちらで聴かせてい ただきましたが、あまりにも素敵な曲で泣けてきました。
○大人になって忘れてしまった大切な心がいっぱい詰まった歌だと思います。
○懐かしく聴かせていただきました。心が穏やかになる曲ですね。
○大人になったから忘れてしまったんじゃなくて、本当は自分が汚れてしまったから忘れてしまったんだと思います。
この歌を聴いて、子供のころの心を少し取り戻したような気がしま す。
I
 believe in future!
○この曲は友情やほかの生き物と共存していくことを望んでいるのか な。
みんなロック大好きだけど、自分はこういう曲が断然好き。
○今二十歳だけど、あらためて見ると自然界の命はそれぞれがしがらみなく、太陽や月に
見守られながら生まれ持った習性で生きているのが曲と重なってすごくいい!
○生きもの地球紀行、毎週見てました。歴代の曲はどれも良い曲ですが、その中でもダントツで好きな曲で 、聞く度に涙が出ます。
○子供のピアノの発表会で、生徒さんやご父兄が手話&合奏&合唱してました。幼稚園児から大人まで歌のメッセージを各々が伝えてるようで素敵でした。

 


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第三十七回 キリスト教四国集会(無教会)
今年二〇一〇年五月十五日(土)~一六日(日)の二日間、三七回目を迎えるキリスト教四国集会が徳島で開催されます。ふだんからもたれている日曜日の主日礼拝とは別に、こうした特別集会には、長い期間祈りを合わせて行われることもあり、ふだんの集会には見られない出会いや学び、体験が与えられ、聖霊やみ言葉をより深く受けることが与えられてきました。
また、いつもの礼拝集会には参加されない方々にも不思議な力が働いて参加されることも、過去の四国集会にいつも見られました。
日本の前途がさまざまの方面で暗雲がかかっているように見られる現代において、キリストの福音こそは、あらゆる困難においても備えの道を開くものです。それゆえに神が今回の四国集会をも用いて下さって、さまざまの地域から、ともに主の御前に集められ、ともにみ言葉を学び、讃美し、祈りを捧げ、聖霊を注がれ、み言葉を新たに受けること、そして主にある交流をも深めることができますようにと願っています。
四国集会という名称ですが、従来から、京阪神あるいは、中国地方、関東、北海道、九州地方からの参加者もあり、どなたでも自由に参加できます。部分参加も可能です。
今回のテーマは「主を仰ぐキリスト者の交わり」です。
キリスト者としては、たえず十字架の主を仰ぐことが、生活の原点と言えます。そこから自ずから他者との交わりをも重んじるようになります。私たちが仰ぐ神は愛であり、その神から受けた愛は他者とのかかわりにおいて働くからです。
このテーマに沿って、聖書講話もなされることになっていますし、グループ集会なども同様で、二日間で講師から学んだこと、その聖書箇所についての受けた恵みをたがいに分かち合い、いっそうみ言葉の力をともに受けたいと願っています。
そしてそこから互いの交流もはじめられ、深められることを期しています。
主イエスは「互いに足を洗いあいなさい」(相手の間違ったところ、罪を赦しあいなさい)、「互いに愛しあえ」と教えられ、またパウロも「互いに裁きあわないように、…互いに同じ思いを抱き…互いに相手を受けいれよ」(ローマ十四~十五章)と繰り返し語っています。
こうした神の御心にかなうように生きるためには、まず互いに主にあって知り合うことが必要です。それによってはじめてこのような主にある兄弟姉妹としての生活を少しずつでも前進させていくことができるからです。
参加希望者は、申込書に必要事項を書いて郵送するとともに、会費 一万二千円(一泊三食付き)を郵便振替で送金して申し込んで下さい。申込書がない場合は、下記まで電話、FAXE-mailなどで連絡くださればお送りします。
なお、遠隔地からの参加の場合に、前日や15日(日)などの前後泊が必要な方は、直接に会場のホテルに、四国集会の参加者だと告げて申し込んで下さい。(その場合には、インターネットからの申込のほうが宿泊料金は安くなります。)
・申込先 〒773-0015 小松島市中田町字西山91の14 吉村 孝雄
・電話 050-1376-3017
FAX 08853-2-3017
E-mail
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・郵便振替番号
〇一六七〇ー六ー五六五九〇
・開催場所 徳島市南昭和町1-46-1 センチュリープラザホテル 電話 088-655-3333

37回 キリスト教四国集会 プログラムの概要
主題 「主を仰ぐキリスト者の交わり」

5月15日(土)
12
00  受付  
12
501300 (参加者は全員 会場に入室。諸注意、印刷物確認)
13
00~ 開会
 主題「主を仰ぐキリスト者の交わり」について 吉村 孝雄(徳島) 
13151425   聖書講話
・「深き淵よりの救いの喜びと集会の恵み」詩篇130篇、133篇より  冨永 尚 (愛媛)
・「主にある共同体のはたらきとその重要性」(ローマ信徒への手紙15章~16章)渡辺 信雄(大分)
14
301450 特別賛美  デュエット、コーラス、手話賛美15001540  キリスト者の証言(1)
・山村における農業と信仰の歩み  宇田川 光好(島根)
・主による導きと集会の重要性 石原 つや子(沖縄・西表島)15451615  会場準備(写真撮影)
16
201830  自己紹介・近況報告
18
401950 夕食・自由時間 
20
002035  キリスト者の証言(2)
・聴覚障がい者として生きる  桜井 保子(徳島)
 ・他一人
20
402100 賛美のひととき(自由参加)
21
102300 青年・若者の会

5月16日(日)
6
40700 早朝祈祷会
7
30850  朝食、自由時間。
9
00920 賛美の時間  ギター賛美、コーラス、手話賛美
9
301010 キリスト者の証言(3)
・視覚障がい者として生きる 鈴木 益美15分 ・他一人
10301140  主日礼拝 「主を仰ぎのぞめ」 (イザヤ書4522他) 吉村 孝雄(徳島)
 「キリストとの交わり、人との交わり」 (ヨハネの手紙第一の1章、ヨハネ福音書13135節より) 関根 義夫(埼玉)
12
001330  昼食と自由な交流タイム(*
13
351455 グループ別集会 (**
15
101600 閉会集会  ・・各地方からの感想
・次回開催県より
********************
*)この時間を多くとっているのは、今回のテーマがより生かされるためです。地元徳島と他県の方々と食事を共にしつつ、6人~10人前後で自由な交流をするためです。
**)グループ集会は、今回のテーマに沿った聖書講話や聖書箇所についての話し合う時間です。
○聖書講話の講師について
・冨永 尚(松山聖書集会代表)
・渡辺 信雄(前キリスト教愛真高校長、別府聖書集会代表)
・関根 義夫(精神科医師、浦和キリスト集会代表)
○キリスト者の証言をされる方
・宇田川光好(島根県、加藤歓一郎に信仰を学ぶ。養鶏業)
・石原 つや子(沖縄・西表島にて、友和村をつくり、農業などを通じて若者を受けいれる働き)
・桜井 保子(徳島・中途失聴者)
・鈴木 益美(徳島・中途失明者、はり治療院)ほか。
○四国集会のプログラムの前後交流会  14日(金)夜と16日(日)夜
 遠隔地からの参加者は、会期の前後の宿泊が必要になる方々もおられますので、その方々と徳島聖書キリスト集会の希望者との交流会が予定されています。
 これらの交流会の二つとも、あるいはいずれかに参加希望の方は、申込書にそのことを明記しておいて下さい。 
 なお、この交流会参加の方々は、夕食は7時までに、各自でとっておいて下さい。
514日(金)
 場所は、会場のセンチュリープラザホテル、または、集会場。時間は午後7時から9時まで。
516日(日)
日程二日目の日曜日も会場のホテルで宿泊され、翌日の月曜日に帰途につく方のうち希望者は、徳島聖書キリスト集会場にて、交流会を開きます。
(なお、会場のセンチュリープラザホテルから、徳島聖書キリスト集会場までの往復は、車で送迎の予定です。)
・場所… 徳島聖書キリスト集会場(会場のセンチュリープラザホテルから約四キロ余)
・時間… 午後7時~9時頃
☆健康などの都合で、まだ参加が確定できない方もいて、証言のところに名前が入っていない方もいます。また、以上の日程などは、状況によって変更がある場合があります。