私を強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

(フィリピ書四の十三)


20010 3 589号 内容・もくじ

リストボタン前進と成長

リストボタンみ言葉の力

リストボタン神の心と花 

 リストボタン驚くべき御業への感謝―詩篇第九篇

 リストボタン聖なる火のはたらき

 リストボタン詩人とキリスト者神曲 煉獄篇第二十二歌

リストボタン旧約聖書の続編から

リストボタン感謝あるのみ―上田ヤエ子姉の残したもの

リストボタンことば

リストボタンl#お知らせ



リストボタン 
前進と成長

だれでも前進したい、成長したいという願いがある。子供のころから、勉強や遊び、スポーツ、趣味その他において、また大人になっても仕事や人間関係、あるいは判断力などにおいて前進と成長を願う気持ちはだれでもある。
他方で、私たちはみんな正しい道にはずれたところを本質的にもっている。だれにでも愛をなし、正しいことを言うこともなすこともできない弱さ、自分中心という本性をもっている。自分中心では前進できないし成長もない。
私は、キリスト教の真理を知ってはじめて前進とは何か、成長とはどんなことなのかが知らされた。単に勉強ができても自分中心の考えで誇ったり他者を見下したりすることはかえって後退なのである。
私たちの前進や成長は霊的なものである。それゆえに、年齢や場所、経験などを越えてなされる。たとえ病気になっても、また老年になって動くこともあまりできなくなっても、さらに死を前にしてなお前進と成長は有りうる。それは、聖なる霊が私たちを導くときである。
そしてそのような前進と成長は、御国へと続いている。 小さな前進と成長しかできなかった者も、地上で多く前進したと見えるような者も、到達点の御国においては同じとしてくださるであろう。ただ、キリストを信じ仰ぎ続けていくだけで、復活のときには、キリストと同じ栄光の姿にしてくださると約束されているのであるから。 (フィリピ書三の二一)

御言葉の力

主イエスは、まず神の国と神の義を求めよ、と言われた。
神の言葉を第一に重要なものとして、時間やエネルギー、あるいは必要に応じてお金や物なども使うとき、そこには必ず何かよきことが生じていく。
神の言葉が語られる集会を重んじ、神の言葉を与えられた友人であるキリスト者との交わりを続け、神の言葉を伝えようとして時間やエネルギーを注ぐ。 たとえそれによって見下されても、また職業的に不利なこととなっても、なお神の言葉にすがり心をそこから離さない。
神の言葉を求めつつも、間違った方向に引っ張られることもあるが、それでも神に立ち返ってふたたびみ言葉を求めていく、そのような姿勢を保ち続けるときには必ず予想しなかった何かよきことがその歩みに起こってくる。
思いがけない人が福音を受け取り、神を信じるようになったり、予想もしなかった人との出会い、その人が新たなよきことをもたらし、またよき本や集まり、学びが与えられていく。
これは一年や二年では分からない。十年、二十年と続けていくことでいろいろなことを与えられていく。神の国への門をたたき続ける、そうすれば主イエスの言われたように、何か新たな扉が開かれる。
たしかに神は今も生きて働いておられる。

 


リストボタン神の心と花

春になると野山、花壇にもいっせいに芽吹き、花咲きはじめる。単に種を作るだけならば、あのように多様なかたちや色、模様などの花をつくる必要はない。
そこには、たしかにその千差万別なすがたをもって、創造されたお方が人間に指し示そうとしているものがある。
一つ一つの花、それが道端にある小さなだれも目に留めないような雑草といわれる花であっても、ルーペで見るならばそのつくりの精緻さに驚かされる。
神は、見る人の心によって、魂の成長の度合いによってさまざまのものをそこから読み取ることができるようにされているのである。
地上にある美しきものとして野草の花の美しさにまさるものはない。それはそのままそれらを創造した神のお心の美しさを指し示すものにほかならない。
私たちの心の世界にも、実に多様な花を咲かせることができるということを指し示すものとなっている。
もし、私たちのうちに、神の国からのいのちの水が流れているならば、そこから次々に新たな芽は生じ、花は咲き続けるであろう。
主イエスも、「「野の花」を見よ、と言われた。どこの国であっても、昔から花の美しさに感じた詩はみられる。
内村鑑三も花の美しさにとくに感じた人であった。以下に彼の花に関する小文をあげる。

… 歓喜は天然においてあり、交友においてあり。伝道においてあり。希望は神の無辺の愛においてあり。…
人は誰でも花を好む。花は天然のことばである。花によってわれらは天然の心を解することができる。そうしてわれら人類も天然の一部分であるから、われらの心も花においてあらわれる。
花は無言のことばである。天使の国においてはたぶん花をもって思想の交換をなしておるであろう。言葉は銀であって沈黙は金であると言われるゆえに、花は「沈黙の言語」すなわち「金の言語」であるであろう。
 私も花を愛する。私も花をもって私の心のすべての思念(おもい)を語ることができる。希望の花もあれば失望の花もある。歓喜の花もあれば悲哀の花もある。…(内村鑑三信仰著作全集第五巻一〇五頁)

春を迎えて、私たちもまた神が花に託した言葉を読み取り、それを魂の栄養としたいと願うものである。


 


リストボタン驚くべき御業への感謝― 詩篇第九篇

わたしは心を尽くして主に感謝をささげ *
驚くべき御業を全て語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
御名をほめ歌おう。
御顔を向けられて敵は退き
倒れて、滅び去った。

 この詩は、神に心から感謝をすることから始まっている。 この詩の作者がさまざまの困難や苦しみに直面しているのは、後半の十四節、二〇節などの内容でうかがえる。(「憐れんで下さい。主よ、死の門から私を引き上げて下さる方よ…」)
しかし、それでもなお、詩の最初にこのような心のすべてを注ぎだす感謝を置いているということのなかに、この作者の内面の奥行きの広さと深さを感じさせられる。
このような神との結びつきの心は、はるかのちの時代に使徒パウロが、「常に、感謝せよ、常に喜べ、いつも祈れ」と教えたことに通じる内容をもっている。

*)「心を尽くして」という訳語の原文の直訳は、「私のすべての心によって」であるから、外国語訳もほとんどそのように訳されており、with all my heart; あるいは、with my whole heart となっている。わが心のすべてを用いて感謝を捧げようということなのである。

 つねに、そしてあらゆる状況にあって、神への感謝ができる、ということはキリスト者の目標であり、また義務でもあるし、そのようにできるということは、大いなる恵みの証しともなっている。
「感謝をささげる」は「賛美する」とも訳される。原語(ヘブル語)は「ヤーダー」でこれから「ユダ」という名が作られた。
*
 じっさい、感謝することは、賛美すること(ほめたたえること)と深く結びついていることである。
 神のわざを深く知ってその驚くべきことを賛美すること、その心は自然にそのようなわざを示して下さる神への感謝となる。神のわざに対して感謝なく、無関心や不満があるならば、決してそのような神を賛美することなどはできない。

*)「ユダ」は民族の名前にもなって、今日に及んでいる。イエスもパウロもユダヤ人である。ユダという名前は、ヤコブの子供として初めて現れる。(創世記二十九の三五) ヤコブにはレアとラケルという二人の妻がいて、ユダはレアとの間に生まれた子である。この名は「主をほめたたえる」という意味で名づけられた。このように、「ヤーダー」は「賛美をささげる」という意味でもある。

 神の驚くべき御業にはいろいろあるが、わたしたちはどのようなことをまず思い出すだろうか。ほとんどの日本人は宇宙を創造した唯一の神を信じていないから、美しい光景があっても、それらは自然にできていると思い、背後に愛なる神の御手があるとは考えない。
例えば、複雑極まりない動物の脳や目などの組織も、植物の美しい花なども、そしてそれを構成している細胞の複雑なはたらきなど、長い年月をかけて自然に形成されたというのが、ほとんどの人の考えである。
 しかし、そうした生物の組織や細胞などよりはるかに単純な仕組みを持っているコンピュータなどが長い年月に、さまざまに圧力や温度が変る状態に置かれて、多様な化学物質の集まりのなかで、ひとりでにできると考える人は、まずいない。
 コンピュータのような複雑なものができるには、その製作者の意図がある。
それと同じように、美しい自然も動植物の複雑な仕組みも、背後に製作者のご意志、ご計画、英知があって作られたのでなければ、ひとりでにできた、というのはありえないことなのである。
この詩の作者は、神の驚くべき御業をすべて語り伝えようと、まず書いている。その神のなされる働きがあまりに魂を動かすゆえに、黙ってはいられないということなのである。神を信じる人は自然のさまざまなものにも驚くことができる。
また、非常に困っていたことであっても、後になって良きことにつながっていたことを知らされることがある。
これも驚くべき御業である。 あるいは、予想もしなかった人に出会ってよきことが与えられるとか、身近にいた思いがけない人が、悔い改めて信仰の道に入るなど、神の御業は、身の回りの自然現象や人間的な経験から、また個人的なことから感じることができる。
ここでは数ある驚くべき御業のうちで、特に一つのことについて言っている。それは神の正義の力、悪を滅ぼすその支配の力についてである。この世は悪が支配をふるっているように見えるが、正義とあらゆる良き裁きをなさる神が御座に就いて、そして裁かれる。
この真理についてこの詩の作者は、はっきりとした啓示を与えられた。表面的にみれば、神の支配などどこにも見えないように見える。悪はよき人を滅ぼし、権力をふるっている。しかし、そのような状況にさらされていても、なお、この詩の作者は、神の大いなる力を見ることができた。
…御顔を向けられて敵は退き
倒れて、滅び去った。(四節)

この簡潔なひと言で現されている真理は深い。神の業、その働きは至るところにある。自然の世界、人間の世界、また過去から現在にいたる歴史の中にある。
しかし、この詩の作者は、神のただ一瞥によって悪の力が滅び去ったということに最大の驚きと感動を与えられたのである。
これは、現代の私たちにも分かりやすい表現に言いかえると、いかなる悪の力が迫ってこようとも、またあたり一面にたちこめているように見えても、神が一度その力を発揮すれば、たちまちそのような悪の力は滅びていく、ということである。
そしてこのような神のはたらきこそ、だれにとっても最も必要なことなのである。なぜかといえば、人間がこの世界で苦しみ、悲しみ、ひどくなれば生きていけなくなるのは、自分や周囲の人たちのなかにある悪の力(罪の力)に立ち行けなくなるからである。
人間同士が憎みあったり、攻撃しあうのは、自分が上にたちたいという自分中心という悪があるからであり、それが大規模となると戦争となる。人を殺してもよいなどと考えるのは悪の力に支配されたからである。
また、死んだら終わりだ、と考えるのは、死の力という最大の人間を損なう力―それゆえに悪の力と言える―に打ち勝つ力を知らないからである。
そうした人間を打ち倒そうとする力に打ち勝つのは、ただ神の一瞥で足りる。それをこの詩の作者は実際に体験し、また啓示を受けたのであった。
そのような内容を持つ詩、それは人間の感動の最も深い源泉から生まれたものである。 そしてそこに深い神の愛を実感するゆえに、この詩の作者は、この詩の後半にみられるように、貧しい人、苦しむ人の願いは必ず聞かれるという確信に至ったのであった。

…あなたは御座に就き、正しく裁き
わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
その名を世々かぎりなく消し去られる。(五~六節)

この詩の作者は、非常に大きな展望を持っている。自分のいる国だけでなく、世界の国々、そして長い歴史上の出来事を通して、神がなさることを知らされたのである。ここには、さまざまなことを全体として見るという視野がある。 こうした見方がなかったら、神のなさる業について驚くことができない。
わたしたち日本人は島国に住んでいるので、どうしても小さな視野になりがちだ。
戦争で多くの人たちが死んだ国は、その人たちを記念することは、多くの国々でなされているだろう。二度と戦争をしないように、また死んでいった人たちのことを記憶に留めるため、よき思い出をいつまでも新鮮に保つためにも、そのような記念施設はある。
しかし、靖国神社のように、恐ろしい犯罪行為をしたような人もそうでなかった人もみんな神として祀るなどということは、世界の他の国々でやっているというのは聞いたことがない。
また日本人が作った歌集は古代から現代に至るまで、男女の愛情のことや身の回りの花、また自分の感情や悩みや恐れなどを書いたものが、古くからの歌の題材であった。
これは、五、七、五、七、七という形式に読み込む必要があったこと、和歌においてもわずか三十一文字におさめるということであれば到底複雑な内容、高度な問題は入ることはできなくなるからであった。
このような短い詩型で人間の心の世界がなんとか収められてきたのは、島国のゆえに他から大きな侵略も受けず、従って滅びるかどうかという深刻な試練にも合わず、また世界的な思想、深淵な宗教の影響を部分的にしか受けなかったゆえであろう。
 ダンテの神曲のような西洋の重要な詩や聖書には星のことが多く歌われているが、日本の万葉集や古今集、その他の文集などには星のことがほとんど現れないということも、そうした視野の狭さのゆえであろう。
 日本人のものの考え方は、世界のどのような民族にも通じるような深さと広がりを今日に至るまで持てなかった。
わが国の文学や芸術、思想、宗教などは世界の歴史に影響を及ぼすことがごく少なかったのはそうした理由が考えられる。
しかし聖書はそうした狭さをはるかに超えている。六節にもあるように「異邦の民」とは世界のさまざまな民を指している。イスラエルは小さな国であったが、その周りに群がるさまざまな国の悪の力や敵すべての上に、神様がいてご支配なさっていることを信じていた。
「逆らう者を滅ぼし、その名を世々かぎりなく消し去られる。」(六節)といった表現は、現代の人々にとって違和感を持たせるものであろう。
なぜ、そのような逆らう者を救わないのか、と。
これは、旧約聖書を読むとき、つねに私たちが心しておかねばならないことである。このような表現があるからと、詩篇や旧約聖書を読まないという人たちもいる。
だが、これは二五〇〇年から三〇〇〇年ほども昔に書かれたものであるということ、キリストが現れる前の時代であることを念頭におくことがまず必要である。
それとともに、旧約聖書のこうした表現の中に、新約聖書にも通じる深い内容が隠されていることを私たちは知らねばならない。
表面的な表現や言葉が受けいれられないからといってその奥に流れている永遠の真理を学ぶことができないなら、それこそ大きな損失である。
こうした「敵に勝利する、敵が滅びる」といった表現は、悪の力に勝利する、悪が滅ぼされる、ということに対応する。主イエスが弟子たちを派遣するにあたって、まず、悪霊を追いだす権威(力)を与えたとある。 (マタイ十章一~八)
悪霊を追いだす、とはまさに悪の力に勝利することである。そして毒麦のたとえで言われているように、世の終わりには悪そのものが焼かれて滅ぼされると主イエスは明言されたのである。
詩篇に折々にみられる、「敵を滅ぼす」といった記述は、新約聖書に至って、敵のうちに宿る悪の力を追いだし、最終的には滅ぼされることをいわば先取りしているのである。
 ある人から、悪の力が追いだされるならば、福音書にあるように、その人は正常な人間に帰ることができる。悪の霊によって滅びへの道をたどっていた人たちから救い出すということなのである。
 また、それは新約聖書にあらわれる世の終わりの悪の受ける裁きを預言的に述べているということができる。
この詩人の感動は、このように非常に大きな範囲で神がご支配なさっていると共に、弱い人に対する配慮を持ってくださっているところにもあった。
それが十、十一、十三、十八節などに表れている。

…主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びを忘れることはない。(十~十三節より)

「御名」を知る人とはどういうことか。御名というのは「神の本質」であるので、神の愛や真実を知る人は、人間や武力ではなく、神に依り頼む。
そして神に依り頼む人は見捨てられることがないし、また、神は苦しむ者、貧しい人の叫びを忘れることがない。

これが十九節にもふたたび言われている。

… 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者
*の希望は決して失われない。

*)「苦しむ者」ここは、新共同訳で「貧しい人」と訳されているが、これらの訳語はしばしば同じような意味で使われる。なお、代表的な英語訳の一つは、やはり「苦しむ者 afflicted 」と訳している。
But the needy will not always be forgotten, nor the hope of the afflicted ever perish.
NIV
また、詩篇注解で知られているドイツのATDの訳も、Elenden(苦しむ人、悲しむ人、窮乏している人)と訳している。

 貧しいというとお金がない人ということになり、意味が限定されてしまうが、ここでは一般的に苦しみ、悩む人のことを指している。
 貧しいだけでなく、病気や敵対する人からの悪意や攻撃に苦しむ人を全体として指していると考えられる。
 現代の日本では貧しさのために苦しんでいる人は、アジア、アフリカなどの貧しい国々と比べるなら、はるかに少ない。しかし、一般的に悩み苦しむ人は豊かな国でも、貧しい国々でも、また子どもでも老人でもいくらでもいるわけである。
 このように八~九節で、「神は全世界を正しく治める」という広大な視野を持っていることを示すと共に、神は、苦しむ人たちの希望や願いを決して忘れられないと述べて、神のこまやかな愛に関しても深い啓示を与えられていたのである。
 このような神のなさることの深さと多様性について、この詩人は驚くべき御業を見、それを本当に知ったゆえに深い驚嘆の念を抱くことになった。
 世界のさまざまなことや周囲の現象だけを見ていると、まちがったことが至るところにみられるから、この詩の作者のように神が全世界を正しく治めていることなどは到底理解できないし、「苦しむ人の希望は決して失われることはない」といった確信も与えられないであろう。
 この詩人自身が、乏しい、貧しい、苦しむ人だったが、神が憐れみ引き上げてくださったという実感があったのである。
 自分自身に生じた事実があり、そこに啓示が与えられることで不動の確信となる。詩篇の比類のない価値は、ここにある。実体験と啓示が深く融合しているのである。
 このように、詩篇は、ほかの聖書の部分と同様に、神からの直接的な啓示が書かれているから永遠の価値がある。
それに対して、雑誌や週刊誌、新聞やテレビなどは、その時々の人間的な考えが言われているにすぎない。それらはすぐに変わってしまってすたれてしまう。
 この詩の作者が置かれていた状況は、神を賛美し感謝を捧げているからといってすべて解決してしまったのではなかった。この詩の最後の部分において、神の正義と憐れみに対する確信と啓示を与えられた上で、現実にこの作者に迫っている危機的状況からの救いに、心を注ぎだして祈り願っている。

… 憐れんでください、主よ
死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。
御覧ください
わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。(十四節)

 毎日洪水のようにあふれている人間の意見や評論のただなかにあって、こうした詩篇は、闇に射している天来の光のようである。
 私たちもこのような聖書の真理に接して、神が持っておられる正義や愛の力を少しでも与えられたいと思う。そのためにこうした詩篇の世界に触れ、そこに記されている神への強い信仰に学ぶことが重要となる。

 


リストボタン聖なる火のはたらき

火は私たちの生活にとってきわめて重要である。人間と動物とを分ける大きな違いの一つは火を道具として常に使うかどうかということでもある。火を使って食物の消化をよくし、栄養分の吸収も効率的にして、大脳にブドウ糖を効果的に送り込み、高度な大脳の働きができることにつながり、人間の複雑、かつ高度な活動ができるようになっていると考えられる。
火は冬の寒さから身を守るものとなり、暗闇のなかの光ともなった。
しかし、この世には、よいことにも悪いことにもなるいわば両刃の剣のような火もある。それは科学技術が生み出した火である。
二度にわたる世界大戦で、おびただしい人たちが死んだり、重い怪我をして生涯を破壊されてしまうようになったのは、弓や剣の力ではなく、新しい火、爆発的に燃える火のゆえである。それは火薬、砲弾、爆弾の類である。
古代から人間同士の戦いはあったが、せいぜい一つの戦いでの犠牲者は数千、数万といった犠牲者であったであろう。しかし、第一次世界大戦においては、一挙に膨大な犠牲者を生み出した。わずか四年あまりで死者は二千万人を越え、負傷者は二千二百万人に及ぶという。そしてそれから二十数年後にはじまった第二次世界大戦においてはそれよりはるかに多くの人たちの命が失われた。
このようなおびただしい犠牲者は、爆発物という新たな瞬間的な火の力による。これが、さらに、桁違いの火の力へとすすんでいった。それが、第二次世界大戦の終わりころに製造された原爆である。そのすさまじい火は、たった一発で、数十万人をも殺傷し、あらゆるものを焼き尽くし破壊しつくすものであった。
このように、火は人類に不可欠のものとして有用な働きをしてきたのであったが、現在では、各地の戦争、内乱での死者の大多数は、こうした科学技術の産物である砲弾や爆弾という火の一種によって命を失った人たちであり、またさらに多数の人たちは重い傷を負って生涯苦しみにさいなまれることになった。
現代の世界の最大の問題といえるのは、悪魔の火ともいうべき、核兵器を使ったテロや戦争の問題である。もしこのようなことが生じれば、世界は壊滅的打撃を受けるからである。
 このような科学的な意味における火の問題に隠れて、目には見えない火(霊的な火)の重要性が日本ではほとんど忘れられている。
人間に自然にそなわっている愛の心というのは、神の愛の影のようなものだと言われる。それと同様に、この世の火というのは、神の火と比べるとその影のようなものである。
科学でいう火も強いエネルギーを持つ。しかし、それよりはるかに大きいのが神の火である。
聖書において火がもっている光の側面を初めて記しているのは次の箇所である。

…主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エジプト記十三の二十一)

神の力によって奴隷状態のところから解放され、荒れ野を四十年もかかって目的地に旅する生活にあたって、とくに必要なものは導きであった。きわめて多数の人たちをひとつの行動にまとめていくのは大変なことであり、人間の感情や信仰そのものも乱れ、混乱していく危険性があり、また自然の厳しさのゆえに食物もなく、敵に襲われるかもしれないという危険に満ちた旅である。
自分たちの判断ということになると次々といろいろな意見が出て、かえって道を間違うであろうしそのときにはみな滅んでしまうことになる。光は導き手として不可欠である。
さらに、この世に燃え盛る火として、悪の火がある。

…悪は火のように燃え
茨をなめ尽くす。
森の茂みに燃え尽き
煙の柱が巻き上がる。(イザヤ九の十七)

ここには、悪の力もまた燃える火のようにさまざまのものを破壊していくことが記されている。私たちの現代の状況をみても、悪の火といえるようなものが、よきものを燃やして破壊していくのが感じられる。幼い子供は一様に純真であるが、それがどうして人の命を奪ったりするような心へと変容していくのか、驚くべきことである。
これは、純朴な心がこの世の悪の火によって焼かれ、燃やされて消滅していったと言えるだろう。
しかし、火は、旧約聖書では悪に対する神の絶大な力を象徴するものとして多く用いられている。それは次のような例である。

…わたしが継がせた嗣業をお前は失う。また、お前を敵の奴隷とし、お前の知らない国に行かせる。わたしの怒りによって火が点じられ、とこしえに燃え続ける。(エレミヤ書十七の四)

これは、神の道に背き、神の愛を受けいれようとしない民にさばきが行われることを指しているが、このように、火はさばきの力をあらわすものとしてしばしば預言書では現れる。
何か物を打ちたたいても、物は外見では壊されるがそれを作っていた物質そのものはそのまま残る。しかし、火で焼くときには、それは徹底的に破壊されてしまう。ほかの手段とはまったく異なる力を持っているために、神のさばきの力の強さがこのように示されているのである。

…主なる神は、太ったものの中に衰弱を送り、
主の栄光の下に炎を燃え上がらせ、
火のように燃えさせられる。
イスラエルの光である方は火となり、
聖なる方は炎となって、
一日のうちに茨を焼き尽くされる。(イザヤ十の十六~十七より)

これは、神の真実に敵対して不正なことをつづけ、悪によって肥え太る者や民族への裁きをこのようにあらわしている。
あるいは、次のようにも表現されている。

…主は必ず火をもって裁きに臨まれ、剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。(イザヤ六六の十六)

このように旧約聖書においては、世界にみなぎる悪の勢力は時いたれば必ず、神の火でたとえられる強い力によって滅ぼされるということが繰り返し強調されている。
そして、旧約聖書の最後に置かれた書である、マラキ書の最後の部分にやはりこの神の火が現れる。

…見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。(マラキ三の十九)

キリストを待ち望む預言が、このように同時に神のさばきの火を待ち望むことを伴っているのである。それは、人間を苦しめ、世界を混乱させ数々の悲劇を起こしているのは悪の力であり、救い主はその悪を根源から滅ぼすお方であるとして期待されていたからである。
このような待望は、新約聖書になって最初に現れる洗礼のヨハネも持っていた。

…斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。(マタイ三の十~十二より)

このように、イエスのすぐ前に、道をそなえる者として現れた洗礼のヨハネは、メシアを旧約聖書から言われてきた悪の力を焼く火の力をもったお方として人々に指し示したのであった。
それとともに、メシアとは、自分がするような水の洗礼でなく、聖霊を注ぐお方であると予告した。このように洗礼のヨハネが示されたのは、世の救い主として来られるお方は、何よりも、悪の力を滅ぼして新しい世界を来らせるお方だということであった。
火の力を持つお方であり、人々にそのような火の力と、聖霊の力を与えるというのである。
これは決して洗礼のヨハネだけが受けた啓示ではない。ヨハネ福音書にも、それと通じる内容が記されている。

…わたしにつながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
(ヨハネ十五の六)
ここでも、主イエスが示す愛や真実に背を向け、踏みにじろうとする人は必ず裁きを受けるということなのである。その人の内部のよきものが焼かれてしまうということが言われている。
イエスご自身が持っておられる、その裁きの力、悪を滅ぼす力に関しては、次のようにも言われている。

…この石(イエス自身を指す)の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 (マタイ二十一の四十四)

主イエスは、いなくなったただ一匹の羊をどこまでも探し求めるお方であり、だれもが汚れているとして見捨てていたハンセン病や目の見えない人、口のきけない人たちをその愛をもって受けいれ、いやされたような神の愛を完全に持っておられた方であった。
他方では、そのような弱き人たちを苦しめ、清いものや善きものを踏みつけようとする悪の力に対しては、このように明確に滅びがくるということを宣言されたのである。
悪の力を滅ぼす力があるからこそ、その悪にほんろうされ、苦しめられている弱き人たちを救うことができたのである。
愛のお方なら裁くことはないとか、矛盾していると考える人たちがいるが、実はそうでなく、深いところで共通のものが流れているのである。
私たちが罪から救われる、赦されるということは、罪をおかさせる悪の力を除いて下さることにほかならない。主イエスは、十字架にてみずから死ぬことによってその悪の力を滅ぼされたのである。
洗礼のヨハネが予告した、イエスの本質、それは悪を滅ぼす火のような力と、聖なる霊を与える存在であったが、まさにイエスはそのとおりであった。
そして、イエスに従う者にもそのような力を与えると約束したのである。
それは、復活したイエスが弟子たちに四十日間も現れて教えたなかで、唯一残された言葉として聖書に記されている。

…ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。 (使徒言行録一の五)

この聖霊を与えるということは、イエスが復活した後四〇日間に語られた多くの言葉のうちの最も重要な約束であった。それゆえに使徒言行録の最初にこのことだけを記したのであった。
そしてこの聖霊を与えるということこそは、悪をも滅ぼす力をも含んでいた。 聖霊は神ご自身の本質を持っているからである。
また、悪を滅ぼすという面だけでなく、積極的にあらゆるよきものを持っている。聖霊が与えられていることは、私たちがキリストを私たちの救い主であると実感することで分る。何も特別な奇跡のようなこととか、異言のような特別なことがなされる必要はない。私たちが、主イエスを罪の赦しのために十字架にかかって死なれたということを信じることができたなら、それは聖霊を注がれているしるしである。パウロも、人は聖霊によらなければ、神のことを「お父さん」と呼べないといっている。

…あなた方は、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「父よ」と呼ぶのである。
(ガラテヤ書四の六より)
その聖霊こそは、また燃え続ける。旧約聖書では、神の火とは、悪の力を焼き滅ぼし、平和な世界を来らせるという意味で言われてきたが、新約聖書になってからは、それだけでなく、あらゆるよきものを生み出すものとして、聖霊の火というのを信じる者に与えられることになった。
聖霊が初めて多数の人たちに同時に与えられた出来事が使徒言行録に記されている。
それは、多くの人たちがイエスの命じられたように聖霊を注がれることを祈りつつ集まって待ち望んでいたときであった。

…五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(使徒言行録二の一~三より)

ここで、聖霊とは炎のようなものであり、それは舌であらわされているように、神の言葉を語ることにおいては激しい情熱のようなものを与えることを暗示している。
実際、この聖霊が与えられて初めて弟子たちは力を受けてキリストが復活したことを力強く証言するようになった。それまでは、復活したイエスのことを知ってもなお、部屋に扉を閉め、鍵をかけていなければならない状態なのであった。
聖霊が注がれなかったら、彼らの内なるともしびは消えたままであった。聖霊こそは彼らの魂に点火して、聖なる炎を燃やし続けていく力となった。
しかし、その燃え始めた内なる火は、絶えず心して祈りを持って守り続けないと、その人から消えていく。
主イエスが「求めよ、そうすれば与えられる」と約束されたことは、聖霊に関してこそ完全な意味であてはまることであった。
一時的に求めるのでなく、絶えず求め続けること、私たちの生活は聖霊を求めての日々となるべきなのである。
それによって私たちは聖霊の実としての愛、喜び、平安…といった最も大切なものをその実として与えられる。(ガラテヤ書五の二二)
そこから、私たちはよく知られている次の言葉に導かれる。

…いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ
(Ⅰテサロニケ五の十六~十八)
聖霊の火が燃え続けているときには、自然にこれらのことができるようになるということなのである。
それゆえ、この言葉のすぐあとに、「霊の火を消してはならない」と言われているのである。
キリストこそ、永遠に燃える霊の火そのものである。それは私たちの心に住み、魂に点火して私たちの存在を神の国のために燃やし続けてくれる。
そして特に強く燃やされた人たちは、いかなる危険をも越えて、また家庭の喜びや安定した仕事、平和な生活を楽しむことなど一切を捨てて、大西洋やインド洋、あるいは太平洋という幾万キロの波濤を越えて、日本にまで到達し、携えた福音を伝え続けたのであった。
そうした聖霊によって燃える心は、日本人にも燃え移って広がってきた。そして教育や一夫一婦のような社会的な制度、非戦の思想、弱き者への配慮の重要性、障がい者への深い意味など次々と古い考え方を新たにしていった。
単なる一時的な人間の情熱的な火、あるいは人を滅びに向かわせる悪の火はいまも燃え続けている。
 しかしそれらすべての悪の力を究極的に滅ぼす神の聖なる火が燃え続けている。
私たちもその聖霊の火を豊かに受け取り、また他者へと手渡して行きたいと願うものである。
これこそ、ほんとうの聖なる火のリレーであり、キリストからはじまって、二千年無数の人たちに点火されて受け継がれ、世の終わりまで受け継がれていくのである。

 


リストボタン二人の詩人とキリスト者
ダンテ・神曲 煉獄篇第二十二歌


第五の環状の道から、第六の環道に通じる道へと登りはじめるとき、天使は、ダンテの額から、Pの一文字を消した。Pとは、罪を意味するラテン語 Peccatum(ペクカートゥム)の頭文字である。
 それは、一つの環状の道から上部の環状の道へと上っていくときに、天使によって消されていく。
 私たちがこの世で受ける苦しみの数々は、たしかにそうした数知れない間違った思いや言動(罪)への罰であり、同時に清めともなっていることは確かなことである。私たちは苦しみや悩み、いろいろな困難がなかったら神を求めず、キリストによる赦しなども求めない人間となっていくからである。
そういう意味で、たしかに信仰生活における苦しみは、清めともなっていく。私たちの犯した間違いや、あるいは他者からのいわれなき攻撃、また人間関係からの苦しみ、さらには事故や病気といったさまざまな悲しみの涙もまた私たちを清める働きをも持っている。
悲しむひとたちは幸いだ、なぜなら、そのひとたちは神から慰められ、励まされるからだ、と主イエスは教えられた。その悲しみによって神への切実な思いが起こされ、清めを受けるのである。
また、そのような苦しみや悲しみが深く大きいほど、私たちは真剣に神を求める。神の言葉を求める。そして確かに上よりの励ましの言葉を受ける。
「わたしが語った言葉によってあなたがたは既にきよくされている。」(ヨハネ十五の三)
天使は、義に渇く者たちの幸いを告げた。「渇き」それは、この煉獄篇においても、二〇歌から二十一歌にかけても、基本に流れているテーマである。
「知らないということのゆえに、これほどまでに知りたいという激しい願いがわき起こったことはかつてなかった。」(煉獄篇二〇の一四五行~)と書かれている。
この第二〇歌の最初にも、 「…さらに問いただしたかったが、彼の気持ちを汲んで、私はまだ未飽和の海綿を水の中から引き上げた」とある。最初と最後にこのように、より真理を知りたいという強い渇きが置かれている。
人間は光を求める強い渇きを持っている。それこそが、動物とは本質的に異なる点である。この神曲そのものが、そうした光への激しい渇きを持っている作品であり、その渇きが正しくいやされるのは何によってなのか、ということが根本的な内容になっているのである。
そして、これは新約聖書そのものの根本にあることだ。
この煉獄篇第二〇歌の最初に天使が、引用したのも、新約聖書の主イエスの言葉からであった。主イエスは、正しいことをする人は幸いだ、と言われずに、正しいことに飢え渇くひとたちは幸いだ、と言われたのである。
サマリアの女とイエスとの対話の記事も、この「渇き」の問題が人間の最大の問題であることを告げている。
…イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわく。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」。
女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。(ヨハネ四の十三~十五)

それゆえに、ダンテも煉獄篇二十一歌の最初に、このサマリアの女とイエスのことが置かれているのである。
「身も心も貧しいサマリアの女が、イエスに求めた水を飲まないかぎり、永久にいやされることのない自然の渇きが、いま私を悩ませていた。」
渇きを感じて、それをいやすものを求める、そこに与えられる。
求めよ、そうすれば与えられる、という主イエスの約束がある。
また、二十一歌においても、煉獄の山で生じた大いなる地震と賛美の歌声に関する疑問―何ゆえにこのようなことが生じたのか、という強い渇きを覚えたことが記されている。
その説明を聞いたとき、ダンテは、次のように言っている。
「…その説明がどれほどありがたかったか、筆舌に尽くしがたい。
渇きが激しかっただけに、飲み干したときのうれしさもそれだけ激しかった。」(七三~七五行)
 ダンテの渇き、それは、真理への渇きであって煉獄の歩みとともに満たされていくものなのであった。
第二二歌においても、最初にダンテは、「義に渇く者の幸いをわれらに告げ、《渇く》を祈りの結びの言葉としたあの天使を。」と記している。
 こうした真理(神)や永遠的なものへの強い渇きは、すでに旧約聖書から繰り返し記されている。その最も集大成というべきものが詩篇なのである。
 詩篇の一五〇篇の詩が大なり小なりそうした渇きとそれを満たすものについて触れていると言えようが、次ぎのように渇きそれ自体をはっきりと記している詩もよく知られている。
…神よ、鹿が谷川をしたいあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂は渇くようにして神を慕い
生ける神を慕う。…(詩篇四二篇)
 
 これは、詩篇の第二巻の最初に置かれ、編集者がその渇きを重要なものとみなしていたのがうかがえる。
事件に遭遇しても、新聞などでさまざまの災害や事件を見ても、また自分自身の身に生じるさまざまの出来事についても、たえず私たちは渇いている。それをなにが満たしてくれるのか、わからないのが大多数の人々の実感である。
こうした日々の出来事にあっても、それらに接するばかりでは渇くばかりである。そしてその渇きのゆえに何を見てもあまり感じなくなっていく。まず私たちはダンテも言っているように、そうした根源的な渇きをいやしてくれるキリストからの目には見えない水を飲むことによって、まず渇きをいやされる必要がある。

第五の環状の道から第六の道へと登り道を歩むとき、ウェルギリウスは、自分がスタティウスから、特別に敬愛されているのを知らされて、自分自身もまたスタティウスへの敬愛が点火されたことをもとにして、次のように語った。

「徳によって燃えたたせられた愛は、他の愛を次々と燃え立たせていく。その炎が外に現れさえすれば。」(一〇行)

ここで、愛というものは、自分だけで燃えるのでなく、他者へと燃え移っていく本質が言われている。このことはキリスト教の愛とは無関係によく知られていることである。だれかに、あなたを愛しています、と言われたら、その人も相手の人への思いが点火される、ということはよくあるだろう。
逆に、誰かから、はっきりとあなたは嫌いだ、といわれたら自分もその人を嫌いになるか、そうでなくとも、何かいやな気持ちになることが多いだろう。不安や、動揺、怒りや憎しみなども同様である。
このように、何らかの人間の感情は相手に伝わっていく。そのなかでも、取りわけ愛は、それが人間的な愛であってもこのように燃え移っていく。それがそうした人間的なものであったり欲望がからんだ愛であるほどに、それが燃え移ると自分をも相手をも破滅に陥れる。それが、地獄篇の第五歌に見られる。

「愛はやさしい心にはたちまち燃え上がるものですが、彼も私の美しい容姿のゆえに、愛のとりことなりました。
愛された以上愛しかえすのが愛の定め、…その愛は私ども二人を一つの死に導きました。」(地獄篇第五歌百~百六行)

こうした外見や欲望のゆえの愛は、死へと導く。それはすでに聖書においても、ソロモンやダビデもそうした愛によって、深い淵にはまり込み、厳しい裁きを受けることになったが、それはどのような時代であってもこの間違った愛や欲望によって破滅していく無数の魂が存在してきた。
ダンテは、そうした感覚的な愛とは全く異なる愛を述べている。
それは、「徳」によって点火された愛、ということである。 徳とは、欲望をおさえることのできる節制、正しい心、忍耐、勇気、なにが価値あるものかを見抜く英知等々である。
こうしたものによって生まれた愛ならば、それは相手にもよき愛を点火し、さらにそれは他者にも伝わっていく。
このダンテの神曲の内容そのものも彼のそうした徳から生まれた神と人への愛が満ちており、、それはさらに多くの人の愛を燃え立たせてきたのである。
だが、神の持っておられるような愛は人間は決して生まれながらには持っておらず、神から、聖なる霊の実として受けるほかはない。
「聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容…」とパウロが記しているとおりであり、また、主イエスが、「私につながっていなければあなた方は何もできない。実を結ぶことはできない。」(自分中心の心からは、真実な愛や正義にかなうことは何もできない)と言われたこともそのようなことを指している。
愛は他者を燃え立たせる、それはキリストの愛について最も完全にあてはまる。キリストが自分を愛して下さっていると実感した者は、その人の魂のうちに、やはりキリストに対する愛が燃え上がるのを感じる。その炎が他者にも伝わっていく。それが伝道ということであり、二千年の間、絶えることなく燃え続けてきたのである。

第五の環状の道から、第六の環道に至る登り道において、ダンテは、 スタティウスとウェルギリウスを前にして従って行った。スタティウスとは、前の煉獄篇二〇歌の後半部に記された煉獄の山が大きく揺れ動き、大いなる賛美がわき起こったそのもとになった人である。一人の人間が煉獄での清めを終えて身を起こし、山の登りをはじめるときにそのような山が動くのであった。
スタティウスは、当時の力ある詩人であった。そしてウェルギリウスの詩によって大きな啓発と導きを与えられたのである。 ウェルギリウスは、スタティウスに問いかけた。
「あなたは、いかなる太陽、またはともしびが、あなたの夜の闇を払って、のちにひたすら帆をあげて、あの漁師(ペテロ)に従うようになったのか」と。
太陽とは、神の啓示をあらわし、ともしびは人間の教えを意味している。漁師に従って、帆をあげる、とは、キリストの第一の弟子であったペテロの信仰に従っていくということで、キリスト者となったことを意味する。
どのような啓示や教えによってキリスト者になったのか、それがとても不思議なことであったゆえにこのように問いかけたのである。
それに答えてスタティウスは次のように言った。
それは、ウェルギリウスがまず、自分をパルナソスの山に送ってくれた。この意味は、ギリシャ神話に現れる重要な山でそこには詩に関する神々が住んでいるとされ、詩の霊感を呼び起こす泉があるとされていた。
詩というのは、神々によって霊感を与えられ、通常の人間が思いつかず、考えることもしないような高い内容をうるわしい言葉で表現するものであるから、人間の生まれつきの才能や努力ではできないという基本的な見方がここにある。
 ホメロスはギリシア古代の重要な詩人であり、それは後世に大きな影響を及ぼした。そのホメロスは、「詩の女神の乳をだれよりも多く授かった」と表現されており、また、ウェルギリウスは、ローマやギリシャの大詩人たちとともに、自分たち詩人の「養いの母(乳母)」が住むパルナソスの山の話しをする…。
 と記されている。ギリシアのパルナソスの山には、詩の女神が住んでいて、詩的霊感を与えるとされていた。
 ここで繰り返し使われている、養いの母とかミルクを飲むといった表現は、スタティウスも使っている。
「…ウェルギリウスの主著である『アエネイス』こそが、詩的情熱の火種であり、炎であった。それこそが、詩作の上での生みの母であり、育ての母(乳母)なのだ。」
 このように、乳母、育ての母(nutrice 英語では nurseで語源的には共通の語)やその関連の言葉を繰り返し用いているのは、詩作という重要な仕事のためには、自分の努力ではできないのであって、より優れた人物や天からの霊感を受けなくてはならないということをダンテ自身が深く実感していたからであろう。
 聖書においても、エジプトから解放された民が導かれていく土地が、「乳と蜜の流れる地」と表現されている。神の豊かな恵みが乳と蜜で表現されている。
 また、次のような箇所もある。

…今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。(Ⅰペテロ二の二)

 キリスト者にとって、聖なる霊こそが、育て成長させる乳の役割をしているゆえにこのように記されている。
 たしかに、私たちが前進していくには、いわばミルクのようなものをたえず飲み続けていかねば進めない。それが主イエスご自身も強調された、いのちの水であり、聖なる霊である。
 
スタティウスは、ウェルギリウスの著作により、詩の世界にまず、導かれたこと、さらにその著作の内容によって、詩の世界からキリスト信仰の世界へと導かれたことを語る。スタティウスをローマの神々の世界から、キリスト信仰へと導いたのは次のような言葉であった。

「新しい世紀は来た。
正義は、人間の最初の時が帰り来た。
天上より新しい子孫が降って来た。」

スタティウスは、これはまさにキリストのことを預言しているものだと知らされたのであった。
彼は、ウェルギリウスに対して言った。
「あなたのゆえに私は詩人となり、あなたのゆえにキリスト者となった。」
*

* Per tepoetafui,pertecristiano.―原文、per ~によって、te あなた、fui ~であるの過去形、poeta 詩人、cristiano キリスト者。 Through you I became a poet through you a Christian.R.M.DURLINGによる英訳。原文の簡潔な表現は日本語に訳すると、二倍ほどの分量になっている。)

このように、スタティウスにとって、ウェルギリウスは、詩の世界とキリスト教の世界という二つの世界へと導く者となったのであった。
ここに、ダンテはこのスタティウスの言葉によって、詩とキリスト教という世界を並べておくことによって、ダンテ自身にとってもこの二つの世界の深さ、広大さの中に生きているのを示そうとしているのがうかがえる。
ダンテにおいては、詩というのは、真理を表現するきわめて重要な手段なのである。真理を乗せて走る船のようなものなのであった。
真理はさまざまの形をとって表現されるが、詩のかたちをとって表現されるときに、大いなる力を発揮するということを知っていたゆえに、彼は、神曲において人間や社会の現実を厳しく見つめてそれを批判し、また神の正義に立って裁き、それを整然としたリズムや韻を含んだ形で表現したのであった。
同じ水の分子でも、一滴の雨粒と、雪の結晶になったのでは大きな違いがあるようなものである。
詩とは真理を表現する手段である、ということはいかなる他の古代の詩にも増して、旧約聖書の預言者
*や詩篇において明確に見られることである。

*) そのような代表的なひとつの詩を次に引用する。

…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。…
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。…
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ…
主御自身がその民に先立って歩まれる。(イザヤ書三五章より)

 この雄大な詩は、人間世界の荒廃や苦しみ、悲しみが最終的に解決される世界を啓示され、いのちの水の流れを見、そこに花咲くうるわしい状況を知らされた人の手による。 これはまさに神の霊にうながされて描き出したものであり、パウロのように霊的な高みに引き上げられて見せられたことを書いたと思わせる内容である。

また、このスタティウスの言葉によって、すぐれた著作は、後に続く人間に大きなよき影響を与えるものだということを示している。
スタティウスは、ウェルギリウスに次のようにも言った。
「夜に灯火を自分の後ろに掲げて歩く人は、
自分自身には益するところがないが、
後から続く人のために道を照らし、啓発する。
あなたはまさにその人だ。」

ウェルギリウスの詩というものの本質は、そのように自分の感情や思いを単にあらわすのでなく、後から来る人、未来の人たちへのともしびとしても書かれているのが示されている。
ここにも、詩の本質が真理を担い、同時代の人たちだけでなく、後世の人たちにも掲げて指し示すものであることが暗示されている。
この点で、聖書の内容を書いた人たち(預言者や使徒あるいは神に召された記述者)は、まさに、自分の後ろに灯火を掲げて歩んだ人たちであった。自分のためでなく、後から歩んでくる人たちに本当の道を指し示すために書いたからである。
スタティウスは、キリスト紀元六〇年頃に生まれた。当時はすでにキリスト教徒への迫害が厳しく行われていた。ウェルギリウスの書物によってキリストへの道が開かれ、さらに自分が成長したころに、キリスト者たちが迫害を受け、それに耐えている状況を知ってキリスト者たちを助けた。
しかし、キリスト者となってからも、迫害を恐れて隠れキリスト者となっていた。そうした生ぬるい生き方のゆえに、第四の環道を四〇〇年以上も歩き続けることになった。
彼は、自分が学んだローマの重要な作家や詩人たちがどこへ行ってしまったのか、地獄に落ちているのかどうかと尋ねる。
自分はキリストによって救われるという保証を得ている。しかし、まだキリストを知らなかった人たちはどうなったのか、この疑問は現代の私たちにおいてもしばしば現れる疑問である。
自分の肉親たち、あるいはキリストの真理に背を向けている人たちは、どうなったのか。また今生きているそうした人たちはどうなるのか、という疑問である。
私たちとしては、ただ神の万能の御手にゆだねるほかはない。しかし、愛の神ゆえに、私たちの予想や生前の言動などを越えて、それぞれの人間の魂の深みを見たうえで、神は最善になされていると信じることができる。

第五の環道からの登り道を終えてたどりついた第六の環道を、ダンテと二人の詩人は進んで行った。

…先に立って進む二人の詩人のあとに、ひとり孤影をひく私は、
二人の詩人の語らいに耳を傾けたが、詩作に関して、啓発されるところが非常に多かった。… (一二七~一二九行)
 偉大な詩作ということは、思想の表現であり、また信仰の表現であり、それを特別なリズムや韻をもったかたちで作り上げるのであり、どこまでも奥行きの深いことであった。それゆえ、ダンテ自身も絶えずこうした先人に学んでいくという姿勢がある。
 私たちにおいても、この地上の歩みにあって、聖書や神曲のようなすぐれた書物に親しむことはその著者たちと神との語らいに耳を澄ませ、目を開かれていくことなのである。 

…御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与える。(詩篇一一九の一三〇)

 


リストボタン旧約聖書の続編から

新共同訳には、旧約聖書続編が付いているのもある。新約聖書の著者たちが用いた旧約聖書はヘブル語の旧約聖書でなく、ギリシャ語に訳された聖書(七〇人訳)であり、それには続編が含まれていた。
多くのキリスト者が、続編を全く知らないか、読んだことがない。それは、続編の価値を知らないままで過ぎていくことになり、大きな損失だと思われる。
続編だから読まないという人であっても、テレビ、新聞やいろいろな本には多大の時間を毎日費やしている人は多いはずである。
それならば、そうした現代の情報に時間をかけるそのわずかの部分でも、続編に注ぐことで真理がより大きくふくらんでくると言えよう。
ここではその続編の一部を私の簡単なコメントを付けて紹介したい。

①…神に従う人に、全宇宙が味方するからだ。(知恵の書十六の十七)

神に従う者は神が守られる。そして全宇宙とは神の創造物であり、神のご意志になるものゆえ、そのような人を全宇宙が味方する、といわれている。神がしばしば聖書において「恐れるな!」と呼びかけているのもこのためである。

②感謝を知らない者の希望は、冬の霜のように解け、
無用な水のように流れさってしまう。(知恵の書十六の二十九)

・パウロは常に感謝せよ、喜べ、祈れと言った。神と結びついているほどこのことが可能となる。それゆえ感謝を知らないとは神と結びついていない言葉であり、それゆえに、そのような者の希望はいとも簡単に消え去っていく。
感謝する心が生きてはたらいているほど、私たちの希望は揺るがない。

③人を養うのはもろもろの収穫物ではなく、
信じる人を守るあなたの言葉であることを。(知恵の書十六の二六)

・み言葉の力が明確に言われている。さまざまの作物や肉、ミルクなどはからだを養うことはできる。しかし、真に私たちの本質である魂を養うことはできず、それができるのは神の言葉である。主イエスも、「私は天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」と言われた。

④全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは、存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
命を愛される主よ、
すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。(知恵の書十一の二三~二六より)

・神は愛であるゆえに、すべての人の魂を方向転換させて神に向かわせようとされる。それゆえに、罪を赦されるという。
また、神が万物を創造されたゆえに、神は万物を愛される。
主イエスも、神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる、と言われた。このことから、主イエスは敵をも愛せよ、迫害するもののために祈れと言われた。
⑤神は人の思いを知り、
心を正しく見抜き、
人の言葉をすべて聞いておられる。
主の霊は全地に満ち、
あらゆる言葉を知っておられる。(知恵の書一の六~七より)

・私たちは人には、自分の思いや考えを隠すことができる。しかし、神は私たちのあらゆる考えや思い、内なる言葉、祈りなどすべてを知っておられる。それゆえ、私たちは真実な祈りの言葉は決して無駄になることはないと分るのである。
主の霊が全地に満ちているからこそ、ルカ福音書に記されてているように、私たちは求めるならその主の霊を与えられるのである。

⑥主よ、あなたはすべてにおいて民を
大いなる者とし、栄光を与えられた。
あなたは、彼らを見捨てず、いつでもどこでも
彼らの傍(かたわ)らに立っておられた。(同十九の二二)

・これが知恵の書と題される続編の最後の締めくくりの言葉である。それはこの言葉の重要性が読む人に受けいれられるためであっただろう。
これは私たちにとっても喜ばしい真理である。
いつでも、どこでも、主が私たちのそばに立っていて下さる、それさえあればほかのものは不要となるであろう。

 


リストボタン感謝あるのみ― 上田ヤエ子姉の残したもの

上田さんとは、不思議なことですが召される前日にお会いすることができました。
私は徳島に住んでいるので、神戸市におられた上田さんのところにはなかなかお訪ねできないままになっていましたが、今回はどうしてもという気持ちがあり、月曜日の夕方にお訪ねしました。そのとき、はっきりと感じたのは、上田さんの平和な表情と、態度でした。死が近づいているというときであったし、数日前からからだの具合がだいぶ悪い状態となり、その日の夕方は食事も食べられない、という状態で、寝返りするのもやっとで苦しそうに見えました。
今回の訪問については誰にも告げてなかったのですが、その日に私が来てくれるかもしれないと思っていたと繰り返し言われたことが心に残っています。
そして今までの生涯を振り返り、いろいろ話されたなかで、「二年ほど前に召された主人が、私を神の道に引き入れることができたことが、一番嬉しかったことのようだった」と言われました。
 またご夫君の最期のときまで、自宅でみてあげられなかったことや、夫君が召された後も続けていた自宅での聖書集会(偶数月の第二土曜日に私が出向いて聖書講話をしていた集会)をヤエ子さんの具合がかなり悪くなったため、別の場所でするようになったことについて、「私の家ですることを主人は望んでいたと思う」とご自分の容態が相当悪くなった状態に至ってもなお、ご夫君の願っていたことが一部できなくなったことを残念そうに言われたのでした。
 自分の病気が相当重くなってもなお、そのようにキリスト者であった夫君の立場にたって、考えておられるのがよくわかりました。
そして、自分は「主人を通して信仰の道に入ることができた。主人が信仰の道を付けてくれたので、最後まで信仰を持って生きていくことができた。
最近は毎晩お祈りしていました。
つたない祈りでしかないけれど、感謝して、祈れました。ほんとに感謝あるのみです。
ひょっとしたら今日は先生が来てくださるかもしれない、と思っていた。
そして祈ってくれると思っていた。」と言われました。
自分の生涯を振り返って残された最後の言葉は、「感謝あるのみ」ということであったのが私にはとくに印象的でした。苦しいなかにも、主の平安を与えられている姿を目の当たりにしたのです。そしてご自分の葬儀のこともこうして欲しいという希望を淡々と言われ、どこか近くに移ることのような語り方でした。
上田さんにおいては、病気の苦しみがあり、次第に体が弱ってくるなかで、迫っている死の恐れというのは全く感じられませんでした。そこには、死に打ち勝つ主の平和、平安があったのです。その表情は話しているにつれて平和な表情となり、祈って下さいと言われ、ともに祈りました。
上田さんは祈りの力を知っておられました。ともに祈ることは、一人で祈る以上に平安と力を与えることを知っておられました。それは、主イエスが、「二人、三人わたしの名によって集まるところに私はいる」と約束されたことでもあります。
二人で主に祈る、そこに目には見えないけれど主がいてくださって、新たな力をそして平安を与えて下さることを体験していたのです。
その日は、ベッドで起き上がることもやっとという状態で、死の迫る苦しさのなかでも、そのように平安をもって、語ることができるということ、そこに人間の力、医学などを超えた力があることを示していました。それは主イエスが言われたように、神の愛にとどまっておられたことを示すものでした。私はそのことをまのあたりにして、深い印象を与えられました。
二年ほど前に召されたご夫君も、召される二週間ほど前に自宅の病床に、私たち夫婦がお訪ねしたとき、私の祈りの後で、「私も祈ります」と言われて祈ったとき、繰り返し、生涯を感謝と言われていました。
 お二人がこのように、死を目前にして、いろいろな不安や心配、死への恐れなどでもなく、すべてを愛の神の御手にゆだね、感謝です、と繰り返し言われたこと、そこに私は主の大きな見えざる御手のわざを感じました。
死という最大のものを前にして感謝ができるということ、それは、死を前にして、漠然とした不満や死への恐れ、無気力を生じるのとは全く違ったことです。
感謝とは、直面しているさまざまのことを良きことと実感すればこそできることです。迫りつつある死すらもよきことであると実感していなかったら、そのような時には感謝の心が湧いてくることは有り得ないことです。上田さんには、敬愛する夫や神様のところに行けるという安心と静かな喜びが感じられました。
「私の内にとどまっていなさい、そうすれば私はあなた方の内に留まっている。わが愛におれ」といわれた主イエスの言葉がそのまま成就しているのをみさせていただいたのでした。
私は、わが家に咲いていた梅の花を思いだしました。それは冬の厳しい寒さのただなかで花を咲かせるものです。上田さんの死の前日の表情や言葉は、死が迫るという厳しい現実のただなかで、よき信仰の花を咲かせているのが分かりました。
私を信じる者は、死なない、永遠の命を得ていると主イエスは約束されました。上田さんはすでに主のみもとにあって永遠の命を与えられていることを信じます。
私たちに対しても、ただ信じるだけでこうした平安の世界、死に打ち勝つ力を与えられ、希望を最期までもち続けることができることを証ししてくださいました。
死に打ち勝つことができるということは、この世のいかなる苦難や悲しみ、孤独にも耐える力を与えて下さることを意味します。私たちはみな死に向かって日々近づいています。それまでにどんな苦しみに遭遇するかもしれません。
 しかし、上田さんが示して下さったように、死に打ち勝つ力、最期まで希望と神の愛につつまれて生きる確かな世界、愛の力があることを覚え、希望をもって歩みたいと願っています。それが、上田さんが私たちに残した遺産なのです。
(これは、今年二月十六日に召された神戸市の上田ヤエ子姉の葬儀で式辞として述べたことです。)

上田ヤエ子さんの思い出

①貝出 久美子
 ヤエ子さんを思うとき、一番思い出すのが、小柄なヤエ子さんが、腰の痛みに耐えながらご主人の介護をされていた姿です。
 肝臓癌の治療中でありながら、ヤエ子さんは、ご主人を自宅で介護されていました。そんな中で、腰椎の圧迫骨折をされ、それでも、痛みをこらえて、必死で介護されていた姿を思い出します。
小柄なヤエ子さんが、動きのとれなくなったご主人を一日中、どれほどの苦痛の中で介護されたことでしょうか。
そのような厳しい状況の中でヤエ子さんが言われました。
 「今は聖書も読めない。祈りもなかなかできない。でも、『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい』この言葉だけが心に残っている。いつか、集会の時にこの箇所だけが、浮かび上がって見えたことがあるのよ。そのときからずっと心にのこっている。今は、このみ言葉はわたしには難しい。でも心に何回も浮かんでくるの。」と。
 神様の言葉は生きて働く、と言うことを思いました。苦しみの中で、たとえ祈れなくなっても、神様は決して離れることなく、心の中に働きかけてくださり、共にいて下さるのだと思わされました。
 ヤエ子さんは、ご自分の苦しみを他者に語るときでも、優しいまなざしで笑顔でした。いつも、まわりを気遣い、心をかけてくださる方でした。そこにヤエ子さんを支えておられた神様の愛を思わされました。お見舞いに行ったこともありましたが、励まされたのはこちらでした。ありがとうございました、ヤエ子さん。

② 川上 ミドリ(神戸市)
 上田さんとの出会いは六、七年前のことになります。ご自宅を開放されて、キリスト教夢野聖書集会をされていることを知り参加させていただくようになってからのことです。
礼拝を共にさせていただく中で上田さんの信仰に触れ、お人柄に触れさせていただきました。聖書講話の後の感話でよく御言葉に促され幼子のように悔い改められながら「私は難しいことはわからないけれど」もっともっと信仰を深めていきたいとの強い願いを語られていたのが印象的でした。
 御主人を尊敬し、よく支えられていました。上田さんは、いつもご自分の信仰の弱さを思われ、ご自身を低きに置かれ謙遜に歩まれていました。ご夫妻の穏やかな笑顔を絶やさない信仰の歩みは、私の娘のあこがれの的でした。
 ガンにかかり、その痛み、お腹の張る不快感等、病との闘いは経験したものにしかわからないご苦労があったことと思います。なぜこんな辛さを体験せねばならないのかと何度思われたことでしょう。
 しかし、上田さんは、神様を深く知るためと、神様の御旨をしっかりと受け止められ、天国に希望をおき,信仰の生涯を全うされました。これこそ私たちの希望の生涯です。
 一月に神戸中央市民病院に救急で入院された時、同じ団地で親しくお交わりされていた高橋姉が教えてくださったと川端姉が声をかけてくださり、川端姉とお見舞いすることができ感謝でした。入退院を繰り返されていたのをお聞きしていながらお尋ねもせずきたことを申し訳なく思っていたところでした。
 そのときも上田さんはご自分の信仰の弱さを口にされ、「難しいことはわからないけれど」と繰り返し言われながら、「しかし、主の祈りだけは欠かさないんです。」とおっしゃいました。川端姉が、わかっていない、弱いといった上田さんの謙遜な姿勢や心こそ神様が喜ばれ、良しとされるのではないでしょうか、とお話されると、「本当ですか、よかった」とほっとしたお顔をされ子どものようにうれしそうに喜ばれたのが印象的でした。笑顔がとても輝いて見えました。
 また、突然の救急入院で聖書もなにも用意できなかったんです、と残念そうに言われたので手もとに持っていた吉村孝雄兄が書いておられる「いのちの水」誌をお渡しするとうれしそうに「家に帰ればあるけどお借りします」と痛み苦しみの中にありながらも最後まで御言葉を求めようとされていました。
私も何もしてあげられなかったけれど、一つだけいいことをしたような気になったものでした。川端姉と3人でお祈りししっかりと握手し、再会できることを当然のように信じお別れしたのですが、それが地上でのお交わりの最後となってしまいました。幼子のような信仰こそ大切であることを身をもって示してくださり、天国への希望をしっかりつないでくださったことは本当に感謝です。
 また会う日まで、わたしたちも上田さんの幼子の如き信仰を継承していかねばとの思いを新たにさせられています。ご主人と天国で再会され、今、喜びのうちにあることを信じます。ご遺族の上に慰めと平安が豊かにありますようにお祈り申し上げます。(阪神エクレシア所属)

③ 綱野 悦子
上田ヤエ子さんとの出会いはまずご主人の上田 末春さんとの四国集会での主にあるお交わりをいただき、ご自宅での家庭集会に参加してからです。
その頃の聖書のメッセージの後のヤエ子さんの感話で「私は主人の信仰に引っ張られているようなもので、私にまかれていた福音の種がずっと土のなかで長いこと眠っていたような状態でした。それがようやくそこから芽をだし双葉になりました。神様はこんなものをもずっと忍耐して待っていてくださったのです。」
とお話しされ、幼子のようなすなおな信仰を証されたのが印象に残っています。
 私は目が見えないので徳島の信仰の友に連れていってもらってご自宅での集会に参加したり、お二人が体調を悪くされてからはお見舞いに伺ったり、時折お電話で近況を聞かせてもらったりしました。
ヤエ子さんは見えない私へのさりげないもてなしと心づかいでそっとやさしく包んでくれる愛の人でした。
 一昨年6月にご主人が召されて、一年後にお訪ねしたとき、ご自分の体調が次第に悪くなり、苦しみがましていくにつれ、「早くお父さん(ご主人のこと)のいる御国へと召してほしい。耐えられない苦しみを与えないでください、と神様に祈っています。でも、こう祈れることも感謝です。」と言われました。
今年の一月中頃にヤエ子さんから電話をいただき入院のいきさつを知らされました。急に呼吸が苦しくなって緊急入院されて胸にたまった水を抜いてもらったらずいぶん楽になったので退院されたそうです。
その時は息ができないほど苦しくてもう駄目かなと思ったけど、こうしてまた自分の家に帰ってこれたのは、御国に行くまでまだ置かれた場で何か神様の御用をしなさいということなのねと明るく言われました。
まだきっと苦しいだろうと思うのに、死を覚悟するほどの苦しみを通して天の御国への希望を持って、神様から生かされた命を精一杯いきようとされていて、信仰がずっと深くされたことを思いました。
突然に天に召されて驚きましたが、前日に吉村さんがお見舞いに行かれともに祈りをあわせて、主にあるお交わりをされたことを伺い、これはすべて神様の備えとお導きだったのだと思いました。
今は「お父さん」と言って先に召されたご主人と会っておられるでしょう。
そして、天にあってお二人が蒔かれた福音の種がいつか芽をだし豊に実を結ぶようにと祈ってくださると思います。残されたご遺族の皆様の悲しみを主がなぐさめ励ましてくださいますようにと願っています。

④ 内藤 静代
去る二月十六日心から敬愛申し上げていた上田ヤエ子姉が天に召されました。
ヤエ子姉はC型肝炎の苦しい半生を送られましたが、いつも明るく暖かく一度お目にかかると一生忘れられないような お人柄の方でした。私はヤエ子姉の晩年に二,三度お会いしただけですが、その第一回目のお出会いが私にとって
大きな恵みのチャンスとなりました。
それは二〇〇四年九月に「祈の友」の四国集会が徳島で開催されたとき、ご夫妻で遠路神戸から参加してくださいました。そして集会が終ったときに長年ご主人の三時の祈りを見ておられたヤエ子姉が、入会の決心をされ偶然横に座っていた私に一緒に入りましょうと熱心に勧めてくださいました。その御親切に動かされて私も入会させていただくことになりました。
そして大変ささやかな貧しい祈りですが老年の大きな生きがいを与えられました。
このような大きな恵みを残してくださった、ヤエ子姉のご愛に深く感謝しております。命のある限り上田様ご夫妻の 真実なお祈りを学びつつ後に続きたいと思います。ヤエ子さん本当に有難うございました。
最後になりましたがヤエ子姉が最も愛されたご遺族様の上に、上からの御恵みとご祝福がますます豊かに賜りますようにお祈り申し上げます。

・七重八重愛の香りを漂わせ 笑みつつ逝きし感謝のヤエ子姉

④ 中川 春美
 上田ヤエ子さんが天に召された事を聞いた時は「そんなに早く召されるとは思っていなかった。近々信仰の姉妹とお見舞いに行く約束をしていたのに。」という気持ちでした。
 ヤエ子さんは長い闘病生活で入退院を繰り返していました。ご主人の上田 末春さんがご存命の一昨年の六月までは、二ヶ月に一回の吉村さんが行かれるご自宅での夢野集会に合わせて退院される事もあり、私も時たま参加させていただいたので夢野集会でお会いできました。ヤエ子さんは集会の時も耐えられないほどの痛みに襲われる事がありましたがよく我慢されていました。
 お元気な頃、御夫妻で徳島での「祈の友」の会の時参加され、「主人が毎日名前をあげて祈っているが耳を澄ませて聞いていてもどうも私の名前がない。私も主人に祈って貰いたいと思いましたが、その為には祈の友に入る事だと分かったので今日入会します。」と入会された事もヤエ子さんの思い出です。
 ヤエ子さんは、とても若々しく、明るく愛に溢れた雰囲気の方で、始めてお会いした時から、何て素敵な方なんでしょうと思っていました。その雰囲気の通り、出会いから最後まで、ずっと一貫して、病気で苦しい時も痛みの時も変わらず、笑顔と愛が溢れていました。
ヤエ子さんは、若いとき看護師として働かれていて、ご自分が末期のガンで、最期に近い時という認識がおありだったと思いますが、その痛みに対する忍耐にも接して、苦しみをも越えている姿に感動しました。人間は信仰によって最後までこのように生きていけるのだと思った事でした。ご主人より少しでも長く生きて自分の役を果たしたいと願われていましたが、その通り、ご主人を天に送って、一年半後にご主人の居る天に召されました。
ご主人が召された後、信仰の姉妹と独り暮らしのヤエ子さんを訪問した事がありますが、その時短い聖書の箇所を読み、祈りを共にできました。痛みに襲われつつ、ご自宅でヘルパーさんに助けて貰っての生活で、息子さんもその日は来られていました。
ヤエ子さんのご葬儀の時の吉村さんのお話しでは、二月一五日、月曜日に吉村さんが訪問した時、「今日は来てくれると思っていた。」と三度も言われ、そして、ご自分の葬儀の事などを話されたとの事。その前後、息子さんにも病院のチャペルで葬儀を行って欲しいと依頼されたそうですが、チャペルに依頼も済んだ一六日火曜日にすべての事を果たして、天に帰られたとの事。奇跡のようにそのお話を聞きました。主のご計画の中で、すべて持ち運ばれヤエ子さんは天に帰られたのだと思います。
「信仰と希望と愛この三つは永遠に続く。」ヤエ子さんのお姿とこのみ言葉が重なり、ヤエ子さんの生き方すべてに主の栄光が現れているのを思います。
「母はただただ愛の人だった」と葬儀の挨拶で息子さんが言われていましたが、その愛の人を失って悲しみも深いご親族にどうか主の愛が注がれますように。上田末春さんヤエ子さんが遺された信仰が伝わりますように。祝福が豊かに豊かにありますようにとお祈り致します。
(編者注、川上、綱野の二人の文は、二月一八日の葬儀当日に語られたもの。他の貝出、内藤、中川の三人の文は「祈の友」誌に掲載のために書かれた文をここにも掲載した。)


 


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331)聖書と聖霊
 聖書の知識だけでは、人を救うことはない。聖書の智識に加えて聖霊の力によって人の魂は救われるのである。聖書そのものは死せる文字である。しかし、聖霊は聖書によらずには働いてくださらない。
聖書を学ぶのは、聖書によりて救われるためではない。聖霊を受けるためである。聖霊が、聖書の智識に点火して、死せる魂を活きかえらせるのである。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年三月)

・書かれた文字だけでは力がない。イエスが生きておられたとき、旧約聖書を詳しく研究し、指導している聖書学者や祭司長などの人たちがいた。しかし、彼らはかえってイエスを受けいれず、迫害して十字架にかけるほどにイエスを理解できなかった。使徒パウロも特別にそうしたユダヤ教の宗教教育を受けていた人であった。それでもキリストのことが分からなかった。 書かれた文字そのものが人を救うなら、文字が読めない人は救われないことになるし、聖書をもっていない人たちもまた救われないことになる。古代ローマの時代には、現代のような聖書もなかった。ごく少数の人たちが聖書を書き写した写本の一部を持っているだけであったし、文字も読めない人も多かった。それでも、現代よりはるかに短期間でしかも命をかけるほどの真剣な信仰を持つ人たちが広範囲に続出していった。
それは、たしかに、聖書の文字が救うというのでないことを証明している。彼らの救いは、聖霊によるのであった。文字が読めずとも、聖書を持っていなくとも、指導者や友人たちのわずかの言葉や祈り、賛美により、また集会に集うことによって聖霊を受け、信じることを得て救われたのである。
その後、一四五五年に初めて旧約・新約聖書(ラテン語版)がグーテンベルクによって印刷され、宗教改革以降、ドイツ語や英語の聖書が広く人々に読まれるようになっていったが、それまでは長い歴史のなかで、聖書を持っているというのはごく一部でしかなかったが、救いに至る人たちはずっと聖霊のはたらきによって生み出されていった。
現代の私たちにおいても、この点では本質的に変わらない。書かれた聖書を読むこと、礼拝集会や特別集会などに参加すること、ともに祈り、賛美しあうことなどによって、あるいは自然の風物などに接して、聖なる霊を受けるというのが私たちの願いである。

332)肝心なこと
どういう話にしても、一番肝心なことは、内面に確信があるということ、話し手と、その語ることばとが、完全に内面的に一致しているということである。

(「悩みと光」ヒルティ著作集第八巻七九頁。この言葉を含む論文の原題は、「Offene Geheimnisse Der Redekunst」弁論の秘密)

・ここでヒルティが言っていることは、漢字の「信」という語の意味と似ている。この漢字は、人偏と言から成っていて、言うこととその人とが一致しているというニュアンスを持っている。信実(真実)ということである。多くの人の前で話す場合だけでなく、日常的にもつねにその人が言うことは、心にあることと一致しているということが大切だと言えよう。

333)教と力
 キリスト教ならばそれほど貴いものではない、キリストの力なるがゆえに貴いのである。キリスト教ならば神学者もよくこれを知ることができる。
しかし、キリストの力であるからこそ、神に直接に接しなければ得られないのである。私は必ずしもキリスト教を学ぼうとはしない。しかし自分の身にキリストの力を与えられて自己を救うと同時に世を救いたいと願う。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年二月)

・いくら、隣人を愛せよ、というキリスト教の教えを聞いても、それだけでは何も変わらない。それを実行する力を与えられる必要がある。十字架のあがないということを信じたといっても、そこから赦しの力を実感せねば意味がないし、復活についても同様である。復活を信じてそのキリストの生きた力を与えられて初めて、その力は私たちにとって限りない価値を持ってくる。


 


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○四国集会のプログラムなどの追加、修正など
①会場
センチュリープラザホテル
770-0944 徳島市南昭和町1-46-1
電話 088-655-3333

②申込締切りは、四月二四日(土)
なお、体調や仕事、家庭の事情などで、この日までに決定できない方は、連絡先の吉村 孝雄まで、電話していただいたら、この締切りを過ぎても参加可能とできると思いますが、その場合には、宿泊が別のホテルになって、そのホテルに別に予約をとっていただくということになるかも知れませんのであらかじめ御了承下さい。
③健康状態、その他の事情で保留していた方の決定。証しをされる方の変更、追加。
・証しの追加の方は、次のとおりです。
大塚 寿雄(北海道、札幌聖書集会・中途失明者)
那須 容平(大阪府高槻市・高校教員。高槻聖書キリスト集会)
(なお、鈴木 益美さんは都合で今回は証しはされないことになりました。)

○三月二十八日(日)の主日礼拝に、福音歌手として知られている森 祐理さんが参加されることになりました。いつもの礼拝の後で、森さんの証しがなされる予定です。
私たちの集会員の石川 正晴さんが責任者である、いのちのさと作業所が他の作業所などにも呼びかけ、三月二七日(土)に地域交流イベントを開くことになり、森祐理さんを呼ぶことになったとのことです。そのため、その翌日に私たちの主日礼拝に参加されることになりました。

*森 祐理さんについて
ミッションスクール付属の幼稚園に通っていた。小四の時、母親が自宅で経営していた英会話教室にやって来たアメリカ人宣教師に出会い、小学六年生の時に日本メノナイト・ブレザレン教団に属する教会の日曜学校に通い始める。最初は森祐理本人のみが教会に通っていたが、やがて家族全員で教会に通う様になった。
その後、京都市立芸術大学音楽学部声楽専修に進学し、大学卒業後、NHK教育テレビ『ゆかいなコンサート』の歌のお姉さんなど、テレビ、ラジオや数多くのミュージカルにも出演。
 NHK京都放送局『くらしのチャンネル』リポーター、キリスト教系テレビ『ハーベスト・タイム』でもレギュラー出演していた。
また、阪神・淡路大震災で、当時神戸大学法学部四年生の弟が亡くなった事で失望の中にあったが、「失望を希望に変えたい」と約二年間『希望の翼コンサート』が神戸市他約三十箇所で開催され出演した。また、新潟県中越沖地震やスマトラ島沖地震では現地で被災者を励ますコンサートを行った。教会・福祉施設・刑務所等で年間一〇〇回以上のコンサートを行っている。(ウィキペディア― インターネット上の百科事典―による)

○ダンテの神曲・煉獄篇の録音CD
毎月一度第三日曜日の午後に、ダンテの神曲の煉獄篇の読書会をしています。現在第二三歌まで学んできました。行事があったり、私が県外に出ていたりするので、時々休会となることもあり、一年で十回程度しかできていないと思います。
もう二年あまり続いています。
この内容の録音を希望する方は、吉村(孝)まで申し出てください。大体一回 四十分~五十分程度です。CDは、ふつうのCDのプレーヤ(CDラジカセなど)で聞くことができる形式にしてあります。費用は、県内手渡しの人は一回分(一か月)百円、県外は、送料共で二百円です。何カ月かまとめて切手で送付してくださって結構です。

○「いのちの水」誌の部数
時々、「いのちの水」誌を知り合いの方や集会の友人たちに回して読んでいると言われる方がおりおりにあります。そのような場合、その必要な数だけお送りすることができます。(そのための費用とかはとくに必要はありません。)

○今まで希望者に販売してきた、MP3のファイルで録音した聖書講話のCDで、再生が不良なものは取り替えますので、お手数ですが左記までお送り下さい。パソコンでの書き込みの際に時折ミスが生じることがあるからです。対象のCDは、ヨハネ福音書、創世記、ルカ福音書です。

○高知での四国集会
去年の松山での四国集会のときの時点では、高知での四国集会の開催は困難ということでしたが、来年度の四国集会は、高知で開催されることになりました。