2010 7月号 593
特集 第37回 キリスト教四国集会記録集


わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。

(ヨハネ福音書十の二七)


20107 593号 内容・もくじ

リストボタン真理の波動

リストボタン真理と繰り返し

リストボタン天からの火

リストボタン神からの示し―啓示について

リストボタン善を行う者はいない、その現実と救い―詩篇14篇 10

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタンお知らせ

リストボタン編集だより

リストボタン来信より



リストボタン 
真理の波動

巨大津波は、太平洋を時速七百キロにも及ぶ速さで進んでいくという。水そのものが動いていくのでなく、波の動き、そのエネルギーが伝わっていく。
真理の力もまた波のようである。
キリストは二千年も昔のイスラエルで生まれ、育ってそこで死した。キリストが歩き、住んでいたところはイスラエルで、世界の中ではごく小さな点のような狭いところであった。
しかし、そこを震源として生じた巨大な目に見えない波は、周囲の真理に背く力、闇の力を壊し、愛と真実の力へと変革しつつ、世界へとその波動は伝わっていった。
現在のようにインターネットやテレビ、ラジオといった迅速に伝える手段もなく、かえって厳しい迫害を受けて伝えることに重大な支障があったにもかかわらず、それらすべてを大波のように越えて、地中海全域に波及していった。
ネロ皇帝のキリスト教徒への迫害は、イエスの死後三十年ほどであったが、皇帝が迫害を指揮せねばならないほどに、すでにその頃、ローマ帝国の広大な地域に広がっていたことを示すものである。
二千年の歴史において、世界の各地で、―日本もそうであったが―、キリスト者である人間はしばしば監禁され、あるいは殺されても、なお、神の言葉は巨大な波のように広がっていった。それは聖霊の風が吹きわたったからであった。
神の言葉には地上のさまざまの障害物を越えて、すみやかに伝わるということは、すでに旧約聖書にも預言的に記されている。

「主はその仰せを地に遣わされる。そのみ言葉はすみやかに走る。」(詩篇一四七の十五)

私も四〇年余り前にそのキリストの愛の波を受けた。そしてほかのどんなものにもない神の国のエネルギーを感じた。そしてそれを少しでも伝えたいというのが以後の気持ちになった。
真理は、このように波及する。深くその波を受け取ったときには、そこから新たな波が周囲に向かって生まれていく。私たち一人一人も神の愛を深く受けて、それが新たな波となり、周囲に及んでいくようにと願ってやまない。

 


リストボタン真理と繰り返し

真理は飽きることがない。永遠の意味と力を持っているからだ。同じことの繰り返しであるにもかかわらず、そこから新たな意味をくみ取り、日々の力を与えられる。
真理でなければ、一度読めば二度と読む気がしない。新聞や雑誌、テレビの多数の番組などは、一度見たらほとんどはもう二度と読んだり見たりしたいとは思わないであろう。
真理でないものは、絶えずうつりゆくものを提示して、一時のはかない関心と興味をつなぎ止めておこうとする。
しかし、真理は同じことを祈りをもって読み、味わうことによって生涯を通じても飽きることなく、耐えざるいのちの水の泉となる。
例えば、「ああ、幸いだ、心の貧しい者は。なぜなら、天の国は彼らのものである」というひと言は真理である。それゆえにこの単純な言葉は二千年も無数の人々により、計り知れない回数読まれ、心で反芻(はんすう)されてきた。
主イエスが言われた意味での、「心貧しき」状態になるということは、人間の生涯の目標である。いかに人生を重ねても、もうわかったという気持ちにならないほど、このひと言も奥が深い。
そして 「天の国はかれらのものである」ということも、天の国とはどういうことか、その霊的な意味はなにか、語学的な面からも、またその旧約聖書から受け継がれてきた意味においても、そして天の国が私たちのものであるという体験は限りなく奥がある。
それは神の御支配そのものであり、その御支配が及んでいる目には見えない領域である。それが貧しきものに与えられるということが何を意味するのか、これまた、生涯かかってもなお完全に体得したということはできない。
なぜなら、神の国、神の王としての御支配は、万物に及んでおりそれがすべてわかるということは人間には有り得ないからである。私たちに与えられた聖霊が豊かであるほど、そうした神の国の霊的深みが体得されるであろうが、その聖霊が与えられるということは、たんに学問を積んでも長く生きてもそうしたこととは関係がないのである。
青い空や、星の輝きが私たちに対して持っている意味、それもまた、聖霊が与えられるほどにわかってくるから、「天は神の栄光を表す」という詩篇十九篇のひと言もまた、一生かかっても窮めたということはできないのである。
「悔い改めよ、天の国は近づいた」というイエスのひと言もまた、無限の内容をたたえている。悔い改めとは、魂の神への方向転換である。日々、神への方向転換が完全であるほど、そこに天の国、神の王としての御支配が見えてくる。このイエスの言葉は、たんに一度聞いたら終わりというものでない。
天の国が近づく、というが、天すなわち神は無限であり、国と訳されているがその愛の御支配もまた無限である。私たちがまったき方向転換をするほど、無限なるその神の御支配が少しずつ開かれていく。それゆえに、いくらこのみ言葉を繰り返しても終わったということがない。
青い空も、見飽きることがない。そこにも真理そのものたる神の愛が刻まれているからである。
そして祈りとは、真理そのものに向かってなされる繰り返しの行為である。その祈りが真実なものであればあるほど、祈りに飽きることはなく、繰り返し祈りへと引き寄せられる。
真理はおのずから飽きることのない繰り返しを生み出すのである。

 


リストボタン天からの火

旧約聖書の中に、預言者エリヤが天からの火を呼んだとある。そして真実で慈しみに満ちた神に背を向けて行く者には、天からの火が降って滅ぼされるということが記されている。
すでに聖書の最初の書である創世記にも、腐敗と堕落を重ねたソドムとゴモラの町がやはり天からの火によって滅ぼされたことが記されている。

…主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。(創世記十九の二五)

天からの火が下る、というとそんなことは有り得ないと考えたり、そんな厳しいことがあるなら神の愛など信じない、などと言う人がいるかも知れない。
しかし、この記事は、今から二八〇〇年以上も昔のことなのである。このような表現をそのまま現代人の中に持ってきても違和感があるのは当然のことである。
しかし、ここで言われていることは、まったく現代では有り得ないようなことであろうか。
新約聖書の時代になっても、イエスのさきがけとして現れた洗礼のヨハネは、イエスのことを次のように表した。

…わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイ福音書三の十一)

主イエスがこの世に来られたのは、水で洗礼することが目的でなく、聖霊と火をもって洗礼をすることだという。どのような意味であろうか。悪しき生活を転じて、神に向き直る人には聖霊が与えられるが、神が送ったイエスに背を向けてよき実を結ぼうとしないものには、神からの裁きがなされる、ということなのである。天からの火をもって悪そのものを滅ぼすということである。
これはイエスのさきがけとして来た洗礼のヨハネだからこのような厳しい表現をする、と思われることもある。しかし、ヨハネ福音書においては、主イエスご自身が、次のように言われた。

…私につながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ十五の六)

この聖句の直前には、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっているならば、その人は豊かに実を結ぶ」という有名な言葉がある。
ぶどうの木にたとえられているから、自然の樹木のやさしいイメージがここにはある。しかし、そのすぐあとには、このように、火で焼かれるという言葉がある。
主イエスにつながることを拒み続け、意図的にイエスをこの世に送った神の愛を受け取ろうとしない場合には、その人の魂は枯れていく。そして最終的には火で焼かれるようになくなってしまう、ということなのである。
これは決して特別に厳しいといったことでなく、私たちの周囲にいくらでもみられることである。
この世に存在する清いものへの真実な愛、そうしたものを有り得ないとして、そのようなものを踏みつけるような意志や行動を続けていれば、必ずそのような人の心は硬化して滅んでいく。
キリストは愛や真実そのものである。そのような愛や真実に背を向けて、憎しみや怒り、ねたみ、あるいは、言うことと心で思っていることとがまったく異なるような不真実な生き方を重ねていけば、必ずそのような人の心は、枯れていく。
柔らかな感受性や美しいもの、清いものに感動する心や真実なものを目指そうとする心はなくなっていく。
それをキリストは、「私につながっていない枝は枯れていく」と言われたのである。
さらに、次のようにも言われた。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(ルカ十二の四九)

ここで言われている火、それは悪への裁きの火である。そして一人一人の中に宿る悪、すなわち罪の本性を焼き尽くす火でもある。それゆえに清めの火でもある。
火というイメージは焼かれるということで、マイナスの内容をもって思い浮かべられることが多い。しかし、私たちの内にあるどうしてもなくならない罪の根源を焼く神の火こそ、私たちが求めるものである。悪とはたんに悪いことをしている人を意味するのではない。悪人のなかに宿って悪行をなさしめている霊的な力を指すのである。それゆえそのような悪の力が焼かれるならば、その人はよき人、清められた人になる。
その積極的なプラスの意味をもった火、それが聖霊の火である。
使徒言行録には、復活のキリストが命じた言葉を守って、みんなが祈って待っていたとき、聖霊が炎のように一人一人に下ったと記されている。そこからキリスト教伝道が出発した。
さばきの火を受けるのか、走っても弱ることなき火のような力を与えられるのかという大きな違いがここにある。
讃美にも、次のように、聖霊の火によって燃やされ、神の力を与えられて歩む姿が歌われている。

御恵みの高嶺に 遂に登りたる身には
見渡す限り ただ 神の御栄えのみ
心は燃ゆ 心は燃ゆ 御霊の火にて燃ゆ 
心は燃ゆ 心は燃ゆ 御霊の火にて燃ゆ(新聖歌四一一番)

天からの火、私たちが主イエスと結びついているときには、それは決して恐れをもたらすものでなく、かえって、私たちの奥に潜む堅い自我や罪を焼き滅ぼして下さるものとして働く。
十字架の主を仰ぐときに、天からの火は下るとも言えよう。
それゆえに、私たちの魂をうるおす天からの水とともに、内なる悪しきものの根源を滅ぼし、御国への燃えるような情熱を持続させてくれる天からの火もまた、私たちにとって不可欠なものなのである。

 


リストボタン神からの示し
―啓示について


自然界には、さわやかな風もあれば、台風のような暴風もある。谷川の心地よいせせらぎもあれば、豪雨のときの破壊的な濁流もある。
また、山の美しさは、誰にとっても心を静め清めるものであろうが、火山などは噴火するとすさまじい火柱や、おびただしい溶岩や、さまざまのガス、微粒子など噴出物によってその地域では住めなくなることもある。
海にしても、静かな大海原は心を広くし、地球の広大さを知らされ、砂浜の海岸、打ち寄せる波などの美しさは、たとえようがない。
しかし、ここでも台風のときの大波や津波などのときには恐ろしい破壊力を現す。
このように、自然の世界は、じつにうるわしい側面と荒々しい側面を持っている。
また、火は人間の生活に不可欠のものであって、火を使うかどうかは、人間と動物とを分ける重要な違いの一つとなっている。火はそのような人間を支えるものであり、恵みの力を与えてくれるが、一度、家が燃えたり、森林火災となると、命や財産をも奪い取る強力な力となる。
このような多種多様な、しばしば全く相容れない様相を呈する自然の姿は、それゆえにこそ、そこに別々の神々がいるのだと大多数の民族で考えるように仕向けることになった。山の神、火の神、海の神、風の神、あるいは稲妻を生じさせる天にいる神、さらにはその氏神というように地域それぞれにいる神々等々、限りなく「神」といわれるものの数は広がっていく。
そうした世界のなかで、いかに荒々しい暴風や、静かなそよ風であっても、また、破壊的な豪雨も恵みの雨も、みな、唯一の神、しかも愛と真実な神が背後で御支配なさっているのだと、いうようなことは、いかに考えても出てこない結論である。
だからこそ、ギリシャのソクラテスやプラトン、アリストテレスといった天才たちの深遠な思索にもかかわらず、唯一の生きた神、人間に愛をもって語りかける神という存在は分からなかった。
この点では、仏教においても多数の教派があるが、いずれも多神教が根底にある。唯一の神がすべてを愛をもって支配されているという考えは生まれなかった。
聖書においては、いかに自然界の無数の変化があっても、なおそこには唯一の神が支配している、ということが最初から記されている。
それは、思索や経験、知識からは生まれなかった。直接に人間を超えた存在からの啓示であった。
どんなに外見上で不可解なことが生じてもそれでも、背後に愛の神、真実な神がおられるというのは、思索や議論、研究からは得ることができない確信である。だからこそ、いかに学問をしても、だからといってそのような愛の神を信じるようにはならず、かえってそのような神への信頼などを失っていく傾向が強い。
この世のさまざまの苦難や悲劇、謎のような事件も同様で、数千万というおびただしい人たちが殺傷される世界戦争など、深い闇のような、悪魔が支配しているかのような状況も生じてきた。
個々の人の周辺でも事故や犯罪、あるいはよき働きをしている人が、ガンで若く死ぬとか、悪い人がかえってはびこるといったようなことはいくらでもある。
そうしたことを表面的に見ているなら、そこから真実で正義の神、愛の神などという存在が結論できるということはない。
ここにも、神からの直接の教え、啓示(*)が必要である。

*)啓示という言葉の原語は、聖書には名詞、動詞を含めると50数回出てくる。 その原語(ギリシャ語)は、アポカリュプシス apokalupsis である。アポ とは接頭語で「分離、引き離す」という意味がある。カリュプトー とは「隠す」という意味であり、それゆえ、アポカリュプシス とは、「隠しているもの(ベール)を 取り除く」 という意味となる。 英語の「啓示」は、revelation であり、これは、やはり reveler で、取り外すという意味の接頭語 re と ラテン語の velum (ベール) に由来する言葉から成っていてやはり、ベール(覆っているもの)を取り外す、という意味なのである。
聖書の最後の書物は、黙示録というが、これは原語では、すでに述べた アポカリュプシス、英語では、revelation である。だから、黙示録という訳語より、啓示録 というのが本来の原語の意味にふさわしい訳語である。
この点では、日本語訳聖書の重要な参考とした中国の聖書では、手許にある五種類ほどの、台湾や中国で訳された中国語の聖書でも、すべて、啓示録 という書名を採用している。 現在の書名となっている、「黙示録」という訳語では、「黙して示された」という意味になるが、原語には 黙するという意味はない。
中国語をそのまま日本語として用いている「啓示」 という語にふくまれる 「啓」とは、開いて示すという意味を持っている。


人間には、みなベールがかかっている。それを神が取り除き、真のものが見えるようにする、それを啓示というのである。このことは、例えば、聖書の最初の記事を見ても、天地創造など誰も見たことはない、しかし、この創世記を書いた人物は、神から直接にほかの人間がみなベールで閉ざされて見えなかった世界を開かれて、天地創造の状況を示されたのであり、それを神に導かれて書き記したと言えるのである。
聖書のほかの書も、ふつうの人間には考えたこともなかったこと、見たことも聞いたこともなかったような内容を直接に示された人たちがいてそれが書き記され、あとに続く人たちも、それに接してこれは人間がその考えを書いたのではない、神からの示しによって書いたのだということを示されて書き写し後世に受け継がれていった。
詩篇のような人間の感情―苦しみや悲しみ、讃美、喜びといったものが重要な内容となっているのがどうして神からの啓示として聖書に収められているのか、それは誰しも疑問に思うところであろう。
しかし、これもやはり苦難の深い意味を神より直接に啓示され、その苦難を通って救いの喜び、感謝、そして神からの恵みによる満足がいかに深く大きいものであるかが啓示された記録なのである。
旧約聖書の後半部に収められている預言書はとくにはっきりと神からの啓示だと記されている。

…主の言葉がわたしに臨んだ。 (エレミヤ書一の四)
…イザヤがユダとイスラエルについて見た啓示。
(イザヤ一の一、関根正雄訳)(*
…ヨエルに臨んだ主の言葉。 (ヨエル書一の一)

*)新共同訳では、「イザヤが…見た幻」と訳されている。原語は、ハーゾーン で、見るという動詞「ハーザー」の名詞形であるから、見たもの といった意味である。英語訳聖書では、三十種ほどの英訳もすべて vision と訳している。

聖書は全体として啓示の書だと言われてきた。それは人間の考えたこと、思想や哲学、あるいは経験的な事実を言っているのでなく、それらをいかに重ねても明らかにならなかった真理が神から直接に一部の人に示されて(啓示されて)記された書だからである。
このことは、また考えてもわかることではない。聖書が神からの啓示を書いた書であるということもまた、それを本当に実感するには啓示が必要なのである。
聖書の中心にある、神、あるいはキリストのこと、生きてはたらいて私たちを見守り、導かれること、そうしたこともすべて学問や経験、知識では分からない。みな啓示による。
主イエスは目を覚ましていなさい、と強調されたが、神は常に天の国の真理を人間に啓示しようとされている。それを受け取るには心の目を開いていなければならない。
主イエスは、とくに世の終わりが近づいているゆえに、その大きな変化に巻き込まれて正しい道からはずれないように、目を覚ましていなさいと強くうながされた。(マタイ二四の四四、同二五の十三など)
そしてこの主イエスの強い警告は、弟子たちも受け取り、その警告は私たちの毎日の生活のなかでいつも覚えているべきこととして、記されている。

…目を覚ましていなさい。
信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
雄々しく強く生きなさい。
何事も愛をもって行いなさい。(Ⅰコリント十六の十三~十四)

啓示ということは、特別な預言者のような人、指導者だけが受けるのでなく、ふつうのキリスト者すべてが受けることであるからこのように信徒に対して言われているのである。
悪の力やさまざまの誘惑に負けないで生きる、それは日々神の導きや愛を啓示され、生きて働いている神を示されるからこそ可能となる。
まったくそうしたものが見えないなら、まわりの人間や自分自身の弱さや、みにくさばかりが見えてしまう。人間の欠点などを見るには何の啓示も要らない。子供でも、教師がみせかけのやさしそうな言葉をかけたりしてもそれを見破ることができるであろう。
使徒ペテロも次のように書いている。

…目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食いつくそうと探し回っている。(Ⅰペテロ四の八)
ペテロも啓示によって、悪魔の働きが見えたのである。そしてこのような警告を聞いたキリスト者たちは、心の目が開かれ、悪魔のはたらきが見え、さらにそのような悪の力に打ち勝つ神の守りと御手があるのだということもまた神から示されて見えていたと考えられる。
それゆえにこそ、苦しく長い迫害の時代にあってそれに打ち勝って生きることができた人たちが多数いたのであった。
苦難や悲しみ、この世の混乱、周囲からのいわれなき中傷等々を受けても、そこに神の啓示があれば、それらを超えた神の御手が見え、愛の神のまなざしが実感できるであろう。
旧約聖書の詩篇においては、そうした苦難や悲しみに打ち倒されそうになりつつも、そこに神の愛の御手が示され、それにすがって深い淵から救い出されたという人たちの魂の記録が数多くみられる。
ヨブ記もまた、そのような記録である。信仰あつく、正しい生き方をしていたにもかかわらず、突然にして財産も奪われ、息子たちの命も失われ、自分も恐ろしい病気となる。そして日夜苦しみうめく中にあって、懸命に耐えていた。
神のことについてさまざまの知識を持っていた友人たちがきて慰めようとした。しかしヨブの苦しみを 見て声もなかったほどであった。
そうして、さらに妻すらも 神をのろって死んだらいいのだ、というような暴言を吐くようになった。 ヨブは、なぜ自分は生まれたのか、と激しい言葉で呻き続けた。長い友人たちとの信仰や神にかかわる議論が繰り返されたが、進展はなかった。
人間の知識や議論で言い含めても啓示にはつながらないどころか、かえって真理から遠ざけることになることも多い。
神がそうした人間たちの長い議論(*)のあとに、また神ご自身の長い沈黙ののちに言われる言葉、それはどんなことが予想されるであろうか。
病気の意味、苦難の意味であっただろうか。あるいは、ヨブや友人たちの考え方のどこがまちがっているのか、ヨブの罪がどのようなものであったかなどであろうか。
意外なことにそれらについては、神はひと言も触れなかった。

*)旧約聖書に、四十五頁ほどにもわたって友人たちとヨブの宗教的な議論が、私たちには不思議に思われるほどに延々と記されている。 (四~三七章)
神は自然界の無限の深い意味をヨブに直接に啓示された。そして、彼が受けてきた苦難の意味もそこから啓示されていくようにと導いた。 このヨブ記の記述によって、自然のさまざまの姿に深く接することがいかに重要であるかがわかる。
神がヨブにまず語り始めたのは、この世界の広がりを誰が定めたのか、広大な海、その何ものも呑み込む巨大な力をだれが創造し、また制御しているのか、毎日の夜明けをいったいだれが起こしているのか、海の深淵な世界を知っているのか、死後の世界はわかるのか、光はいかにして生まれ、雪や風、雷などの現象がいかにしておきるのか、…といった自然の世界の無限の神秘について、ヨブに問いかけたのである。
ヨブ記ではこれは七頁にもわたってていねいに記されている。 (ヨブ記三八~四一章)
これは、まったく意外な答え方である。いったいだれが、病気や家庭の不幸に打ちひしがれている人にむかってこのような語りかけをするだろうか。
ここに、聖書は、自然のあらゆる現象というのは、私たちの精神世界を開くために存在しているのだということを指し示しているのである。
私たちが神に引き寄せられるほど、自然というものが私たちに対して持っている意味も深く分かってくる。
ヨブのような、生きるか死ぬかというほどの苦難にあってもそうであった。それほどの深刻な状況でなくとも、日常のさまざまの生活のなかで、私たちは周囲の自然の姿によって啓示を受ける道が開かれているのである。

啓示と聖霊
覆いがかかっていて見えない、分からない、その状態が一般の人間である。そこから特別に覆いをはずしてもらって神の国の世界をはっきりと見た人たち、それが聖書に現れるアブラハムやモーセ、ヤコブ、ヨシュア等々、さらにイザヤ、エレミヤなどの預言者たち、さらにはダビデなど詩篇の作者たちである。
旧約聖書の時代には、こうしたごく一部の人たちが啓示を受けた。他の人たちには啓示されなかった。モーセがシナイ半島の高山であるシナイ山(標高二二八五メートル)に登って、神の啓示を受けるとき、ほかの人々は登ってはならなかった。(*

*)ただモーセとアロンだけが登ってくるように、と命令された。(出エジプト記十九の) しかし、そのあとで、アロンは、長老たちとともに留まっているようにと命じられたことが記されていて(同二四の十四)、実際にモーセが神の言葉を受けるときには、一人だけで受けたのがうかがえる。

このように、啓示はきわめて少数者が受けるものであった。
こうした状況を根本的に変革したのが、主イエスであった。「求めよ、そうすれば与えられる」と約束されたが、その与えられるものの最もよきものが聖霊なのである。(ルカ十一の九~十三)そしてその聖霊こそは、啓示を与える霊なのである。

…真理の霊がくると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ十六の十三)

真理を悟るとは、すなわち啓示されるということである。真理とは、イエスが神と同質であること、神の国とはなにか、永遠の命、生ける水とはどういうものなのか、光とは、闇とは、そして裁きとは…といったことを啓示するのが聖霊なのである。
啓示を受けるとか聖霊を受けるなどというと、きわめて特別な人だけが受けるように思っているキリスト者も多いようである。しかし、そのような受け止め方は旧約的である。
使徒パウロも、キリスト者が目には見えない神を、最も親しい者であるかのように、「お父様」と呼ぶことができるのは、聖霊による、と書いている。(ローマ八の十五)
言いかえると、神様を、心のうちで、自分をあらたに生まれ変わるようにして下さった最も親しい存在、しかも畏るべきお方として、神様に対して、「お父様」と実感することができる、それは聖霊を受けて、神の本質を啓示されたからである。無限に遠く、峻厳な存在だとしか思われなかった神が、じつに深い愛のお方で、また魂の最も近いところにいて下さる。私たちの魂の父なのだという実感を与えてくださるということ、これもまた、議論や研究でなく、神の直接の示しによる。
旧約聖書では、民族の父という表現はごく一部にはあっても、個人的に一般の人が、神に、お父様、といって呼びかけるということは、全くみられない。それは、最も個人的な情感を込めて書かれているはずの詩篇ですら、一度もそのような表現はみられない。
天地万物の創造者であり、現在も宇宙とそのすべてを支え、かつすべての人間の魂や動向を見守っている、そして必要な導きや警告、あるいは裁きを与える、そしてその御計画に従ってこの世界全体を導いておられる…そのような人間の想像をはるかに越えるお方を、家族関係の呼称である、お父さん、といった身近な呼び方で言う、それはまさに主イエスが啓示を受けたからであった。
そしてイエスを主として信じる者たちは、やはり同じように示されて、神を父として感じるようになったのである。
イエスは、人間の姿をした存在として、歴史上で最高の啓示を受けた方であった。そのイエスが、旧約聖書のなかにはたくさんの律法が書いてあるなかで、わずかに二つを取り出して、最も重要な内容を持っているとされた。
旧約聖書には、出エジプト記の二十章から、レビ記の全体、そして民数記、申命記にわたってその大多数の内容が律法であり、罪の赦しのための捧げ物や、汚れと清めに関する律法、安息日やさまざまの儀式に関する律法、財産や結婚関係などなど、およそ二〇〇頁もの多くの分量となっている。
その中から何が最も重要なのか、それは常識的には、十戒をあげるであろう。十戒とは、最も基本的な十の律法(戒め)だからである。その第一は、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」、第二には、「あなたはいかなる偶像も造ってはならない」、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」、「父母を敬え」等々である。
しかし、主イエスは意外なことにこれら十戒を最も重要な戒めとはあげなかった。そして、それら数知れないような律法の記述のなかに埋もれていたような次のことを第一として取り上げられた。

…あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。 (申命記六の五)
…。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。 (レビ記 十九の十八)
これが最も重要な戒めであり、ほかのいっさいの律法はすべてこの二つに含まれる、と言われた。
確かに、イエスの言葉のように魂のすべてをもって神を愛する人は、決して偶像を造ってそれを拝むなどはしない。
このような驚くべき単純化は、イスラエルの人たち、いかなる宗教指導者や学者たちも考えてもみないことであった。
このような千年以上も当然の真理として続いてきたようなことについても、さらに深く、より完全なものを簡潔に表す、これもイエスが完全な啓示を受けたからであった。
啓示はこのように時代や同時代の無数の人々の考えや経験すらも、越えて真理を示す。
イエスこそは、万人に真理が啓示される道をこの世界に開いたお方であった。
私たちも、職場、学校、近所、あるいは時には家族のような最も身近に接する人でありながら、敵対してくる人たちの背後に、神の御手を見ることができるならば、そうした状況に直面しても揺るがされずに、主とともに留まることができるであろう。
主イエスは三年間もともにいた家族以上の親密な関係にあった一人の弟子に裏切られ、金で売り渡されるという状況に陥ったが、そこでもそうした事態の背後に神の御計画をしっかりと見つめ続けたゆえに十字架刑をあまんじて受けたのであった。
しかし、そのようなきわめて苦しい状況においては、悪意の人間の背後に神の御計画を見つめ、すでに啓示されていた十字架への道に従おうとすることは、きわめて困難であり、イエスも徹夜の必死の祈りを捧げることによってその大きな戦いに勝利されたのであった。(ゲツセマネの祈り―マタイ二六の三十六~)
啓示は、学問や通常の学び、あるいは教養の多さや能力といったことに関係していない。ステファノは、彼がうけた最も深い啓示は、彼の死のときであった。しかも多数の憎しみをもった人たちに取り囲まれ、石で打たれて息を引き取ろうとするときに、彼の人生の最高の啓示を受けた。まさに、啓示という言葉、ベールが除かれる、という言葉どおり、それまでかかっていた天の国のベールが除かれ、神とイエスがともにおられる姿をはっきりと見たと記されている。
すでに述べたように、神のことをお父様、と呼んで祈ることができるということがすなわち、啓示を受けているしるしなのであるから、日々、神をお父様と呼びつつ歩んでいくこと、それは日々啓示を受けつつ歩むことに他ならない。
そして、聖書や周囲の自然の姿、そして人間との関わり、仕事、周囲の出来事等々、あらゆることからも啓示を受けて、日々新しくされていきたいと願うものである。

 


リストボタン善を行う者はいない、その現実と救い― 詩篇十四編

愚かな者は(*)は心に言う、「神などいない」と。
人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる。
どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう。

*)新共同訳では「神を知らぬ者」と訳されているが、原文は、ナーバール「愚かな者」で、例えば、神を信じて正しく生きていたヨブが突然、思いがけぬ苦難に遭遇してなおも神を信じていようとしているのを見て、妻が、「神をのろって、死んだほうがましだ!」と暴言を吐いたことがあった。その妻に対してヨブが、「お前は、愚かな女と同じように言う。神からよきものを受けたのだから、悪しきものも受けようではないか。」(ヨブ二の九-一〇) あるいは、兄からひどい辱めを受けたタマルが、相手に「…わたしは、このような恥をどこへもって行けようか。あなたも、イスラエルでは愚か者の一人になってしまう。」(サムエル記下十三の十三)と深い嘆きを訴えているといった箇所で用いられている。
また、英訳聖書も ほとんどが、fool と訳している


この十四編と五十三編は内容がほぼ同じであり、詩篇のなかに二回も繰り返し掲載されているのはなぜであろうか。
 書くための羊皮紙やパピルスなど材料が非常に貴重であるにもかかわらず、この詩篇は繰り返し掲載されている。それはこの詩篇の編纂者が、神からの示しを受けてあえて重複をいとわず二つを載せたと考えられる。

「人々は腐敗している。善を行うものはいない。」(一節)

現代の私たちは人間には、清い人あるいはよい人と、悪い人がある、というように考える。この詩編では誰も彼も汚れている、という驚くべき表現がされている。
このような表現は、あまりにも私たちの通常の考え方や感じ方と異なっているために、多くの人はこのような詩を好んで読むことはないであろう。
しかし、この詩は人間のふつうの感じ方で書いているのではない。
「主は天から人の子らを見渡し…」とあるように、神が人間全体を天から見る、という状況なのである。
ここには、人間はすべて神がその心の奥まで見通すならば、みな不純なところ、愛や真実にそぐわないもの、正しいことのできないものでしかない、ということがはっきりと言われている。
旧約聖書の詩篇では、敵対する人が滅ぼされるようにという願いも時々みられる。それはキリストの時代になって、そのような悪意をもって向かってくる人の悪意そのものが、追いだされ、かわりに聖霊が注がれ、生きてはたらくキリストが住むように、という願いこそが人間の持つべき姿である、というように大きく変化した。
このように、敵と神につく者たち、といったはっきりした分け方をしているように見える箇所がある一方では、この詩のように、「だれもかれも背いている。皆ともに汚れている。善を行う人は一人もいない。」(六節)と記され、人間はみな正しいあり方からはずれている(罪を持っている)という見方もまた、記されている。
世の中を見ても政治、経済、様々な事件や犯罪など社会全般がさまざまの悪いことで満ちている。その一方で黙々と人のために動く人もいる。
近所の住人、家族や身近にいる人間同士でも比べるとよい人、悪い人と非常に差が出てくるものなのに、どうしてこのように詩篇十四、五十三では、「正しいものは一人もいない。」などと言えるのか。
これは、私たちは人間と人間を比較しているから差があるように思えるが、もし私たちがこの詩人のように神様を見つめ、神様を通して人を見るなら、皆、同じように汚れていることになる。
 人間はだれでも、完全に清い人などだれもいない、みんな大なり小なり真実に反することを言ったり、不純な欲を持ったり、言うべきでないことを言ったり行ったりしてしまう。 あるいは自分が上に立とうとしたり、弱いものを見下したり、無視したり…そのようなことはきりがない。このように見てくれば 純粋な愛とか清い心の人などどこにもいないということになる。
パスカル(*)も、「無限大と比較するならば、いかなる有限の量も厳密にゼロとなる」と言っているが、愛や正義、万能といった神の無限の本質と比べるときには、あらゆる人間の愛や真実など、みな汚れたものにすぎない、ゼロに等しいものになってしまう。
 普通はこういうことを言わないのは、そのような完全な本質をもった神を判断の基準としていないからである。

*)パスカル(16231662)は、フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家。

 この世で最も正しく清らかな愛のお方である神を他所に置いて、人間だけをみて比較をしてしまうから世の中の差が目に付くようになってしまう。聖書の基本的な物事の見方はいつも神が一番の基本であり、見つめるべきお方であるということである。そうすれば人間的に正しく見えていた世界が一時的で自己中心的な事柄の多い世界であると分かる。
ある時は清く、ある時は汚れる、人間とはそういう不完全なものだ。愛をもって相手に接して、次回には面倒になったり、施した愛が報われない場合は心くじけたりするような人にでも、一時的な側面だけ見て人はその人に愛があると判断する場合がある。
善人と呼ばれるような人でも、もしその人の心をすべて見えるような状態におくとすれば、それは一時的な愛や善でしかないのが分かる。
このような罪深い本性を持っているという点において、人間は同じような存在だといえる。聖書という書物はこのように、一貫して人間の最も深い本質を描き出している。それは聖書の巻頭の書である創世記に、最初の人間であるアダムやエバもそのように、不信実な存在であって、せっかくあらゆる必要なものを整えて下さっていた神への背信行為を犯してしまうのであった。
一般には選民意識といって、ユダヤ人だけが神を知らされた、異邦人は汚れているから滅ぼされるのだ、といった考えを持っている人も多かった。
そのような中に、この詩の作者は、人間はみな同じだ、ということをはっきり啓示されたのであった。真実なあり方からはずれている、という点においては…。
そして、そこから救いが必要になる。生まれつきよい人とわるい人だけがあるのなら、悪い人だけが救われるとよいのだ、ということになる。しかし、本来生まれつきよい人などいない、ということが事実ならば、救いというのは万人に必要なものとなってくる。
罪などない、という人がいるがそのような人は、自分に敵対する人を家族と同様に、あるいは愛する人と同様によき心をもって対することができるだろうか。自分を中傷する人がいたらその人に反発を感じないだろうか。会社、役所など勤務先で不正なことをしているのを知って、職をかけ、勇気をもって正しただろうか…。
そのようなことは、正しいとかまじめだ、と言われているような人であっても、きわめてわずかしかなすべきことはできていないのである。それこそが、人間が罪を持っているということに他ならない。
この詩は、まず前半でこのように、神が天から見るという視点で人間を見つめ、みな真実なあり方から背いているという事実を述べた。
そして後半においては、人間全体の罪深さにもかかわらず、神はイスラエルの人を選び、神に従おうとする人たちと共にいて下さる。悪しき人たちが力をふるおうとも、必ず神は助けてくださる。また、遠い異国に捕虜となって連行され、そのままでは民族も滅びるという状況にあっても、神は時が来たら必ずそのような絶望的状態をも知って下さって連れ帰って下さる。そして、喜びと讃美が生まれるようにして下さる。
自分たちがとくにすぐれているからでなく、神の一方的な選びのゆえにイスラエルの民族の内に神は住んで下さり、困難の折りにも助け導かれる驚くべき神の御性質を述べているのである。
要するに、この詩は人間すべてに行き渡っている罪深い状況と、それにもかかわらず、その御計画によって一部の人たちを選んで神を知らせ、神の愛によって導かれることを証ししているのである。
それだけでなく、この詩の前半は、新約聖書において重要な箇所に用いられることになった。
使徒パウロは、この詩篇十四篇がとくに人間の現状をしめす神の言葉だと知らされ、それゆえに万人が救われなければならない、その万人のための救いに来られたのが、キリストであるということを明確に啓示されたのであった。
彼は、ローマの信徒への手紙において、この詩を引用している。

 …私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しいものはいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、誰も彼も役に立たない者となった。善を行うものはいない。ただの一人もいない。…」(ローマ三の九~十二)

このローマ書三章のこの箇所を元にキリストの教義として一番重要な「救いとは何か」を二十一節から書いている。
「隣人を愛せよ」というのは、キリスト教の教えとして有名であるが、この内容自体は、聖書にかぎらず、一般の道徳でも言われることであり、このことを否定するようなことは仏教でもほかの宗教でも言われていないであろう。それは、ごく当たり前のことである。
隣人、それは人を選ばない。どんな人であっても、自分の近くにいる人、それが能力があろうと、年齢がどうであっても、また友人、悪人を問わずだれでも、という意味である。
それは大切な教えとわかっても、実行する力がない。それは人間にはそのようなあり方を妨げる力が働いているからである。それを罪といっている。
それゆえに、罪を除くのでなかったら、隣人愛などといっても単に言葉だけで終わる。
キリストは罪を除いて新たな力を与え、隣人を愛することができるようにする道を開いたのであった。
それが、「イエスを主として信じるだけで救われる。」ということである。そのことにより主と結びつき、罪を赦され、永遠の命を与えられるということにある。そこには財力、地位のある無しなど何の差別も無く、ただ信じるだけで神に義とされる驚くべき教えがキリスト教の中心である。
 
…人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマ書三の二十三)

三章はこれら一番重要なキリスト・イエスを信じることによって義とされ、神と結びつくことができるという教えの準備として、詩篇十四篇が引用されている。
 人類全体の本当の幸い(救い)ということは、現実を見据えてそこから与えられるということがローマの信徒への手紙によく表れている。 
 キリストによる救いということがないなら、このように、人間はみな腐敗している、真実な人はだれもない、ということを知れば知るほどこの世に生きることに力が入らなくなる。いくら正しいことや良いことを目指して努力しても、結局それらは不純なものでしかない、ということなら、どうして生き生きした日々を送ることができようか。
 また、そのような人間の満ちたこの世でいかにして清い喜びを感じることができるだろうか。自分自身がそもそもそのような清い者でも真実なものでも有り得ないし、他人も同様ならば、そして最終的に人間はみな死んでいなくなる、というのがこの世の実体ならば、すべては空しくなる。
 使徒パウロは、こうした人間世界の闇に永遠に消えることのない光が射し込んだことをはっきりと知っていた。創世記に最初に記されている闇と混沌が広がるばかりであったが、そこに神が光あれ!と言われたら、その闇のただなかに光が存在した。
 それがまさに、人間の精神世界、心の世界を表しているのである。
 いかに罪深い現実があっても、なおそこに神はキリストを光として送って、そのキリストを受けいれるときには、私たちも自分や周囲が闇であっても、光を受けることができる。
 この詩篇十四篇は、神の目をもって現実を見抜き、さらにキリストの新しい時代をはるかに見つめていると感じられるような詩である。
 最後の部分に、つぎのように記されている。

神は従う人の群れにいます。
貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても
主は必ず、避けどころとなって下さる。
主が自分の民、捕らわれ人を連れ帰るとき
ヤコブは喜び踊り
イスラエルは喜び祝うであろう。(五~七節)

 これらの言葉は、いかにこの世の現実が闇におおわれていても、神は、求める人と、共にいて下さること、そして遠い異国に捕らわれている人たちをも、決して忘れることなく、連れかえって下さる。そして神を信じる人たちの大きな喜びがある、という未来への、そして闇のなかの光としての神への信頼で終わっている。
 私たちも、この詩の最後の部分にあるように、弱く苦しんでいたときでも主が顧みて、罪という力に捕らわれた状態から、神の国、主がともにいてくださる霊的な国へと連れ帰って下さった者だと言える。そして大いなる感謝と喜びが与えられるようになったのである。

 


リストボタン休憩室

○金星、火星、土星
夜七時半ころから、西の空から南西にかけて、金星、火星、土星の順に並んで輝いているのが見えます。このように、並んで見えることは、珍しいことです。現在は、この順に並んで見えますが、だんだんこの三つが近寄ってきます。
これらの内で特別に明るいのは、もちろん金星で、夕方に見えるときには、宵の明星として古くから知られています。これから、九月下旬まで見られるので、晴れたときにはその強い輝きをもって、そして火星や土星たちの光とともに、私たちに語りかけてくれると思います。

○わが家のある山は、昔からマムシが多く、毎年何匹か現れます。今年もすでに、わが家のすぐ裏で草刈りのときと、わが家への山道での二回、至近距離で出会い、危ないところでした。その二匹とも仕留めたのですが、しっかり目を開いていないと、その毒牙の被害に遭う可能性が大きいのです。
こうした恐ろしい毒蛇、しかしそれは杖一本あれば、撃退することができます。
目にみえるものと同様、目に見えない毒牙をもったもの― サタンもまた、私たちのすぐ側にまで来て、すきあらば噛みつこうとしているのです。
そのような見えない敵に対しては、私たちは、神の言葉さえしっかり持っていれば、撃退できるわけです。み言葉こそ、サタンと戦う剣であるからです。
「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エペソ 六の十七)
主イエスの警告のように、たえず目覚めていることの重要性を思いだしました。

○金星などの強く輝く星は、神の永遠の光を思いださせ、黙示録ではキリストの象徴としても現れますが、毒蛇には、闇の力をじます。
それらのほかにも、自然界のさまざまのもの、青い空、真っ赤に染まった夕空や燃えるような雲、さまざまの植物や動物たち、それらはみな、私たちに対して何らかの神の国にかかわる真理を指し示し、暗示しているのです。

 


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339)愛の奇蹟
神は愛なり。愛であるからこそ、神は奇蹟を行われる。愛であるゆえにゆえに神はこの驚くべき宇宙を創造されたのである。愛なるがゆえに神は死者を復活させられたのである。
愛がなすことができないものはない。神を愛と解して神について信じがたきことは、一つもなくなる。
愛は超自然である。愛なる神に関する記事と知りて聖書は何も難しいことなく、理解できるようになる。(「聖書之研究」内村鑑三著 一九一〇年七月)

・神の愛こそは、万事を解きあかし、体得する鍵のようなものだ。 主と滅びから救い出す愛ゆえに神は、復活を、永遠の命を与えて下さった。
私たちの日常出会う自然の姿にも神の愛が込められている。 それゆえに使徒パウロも、「信仰、希望、愛はいつまでも続く。そのなかで最も大いなるものは愛である」と言ったのである。

 


リストボタンお知らせ

○無教会全国集会2010大阪
日時9月25日(土)1330分~21時、26日(日)午前9時~1630
・主題 「福音に生かされて」
・会場 大阪府吹田市
サニーストンホテル
・会費 一泊2食 約8700円
・講演 日本の行方、日米安保50年の光と影 友寄隆静
・発題 平和の実践(本田圭)
裁判員制度と良心(熊野勝之)
貧困問題 (入佐明美)、日韓問題とキリスト教(内坂晃)
聖書講義 万人に注がれる神の愛(堀井滋)
発題(二日目)繊細な世代に伝える (小舘 美彦)、集会の高齢化(幸野道雄)、生けるキリストに帰ること―無教会精神の本質(吉村孝雄)
・分科会は発題の7つの内容。
・申込締切 8月24
・問い合せ先 朝川 博之 電話06-6876-2899

○前月号にも書きましたが再度掲載しておきます。
(一)近畿無教会集会 日時:2010年8月7日(土)午後1時~8日(日)午後1時まで
会場:ふれあい会館(075-333-4655)京都市洛西ふれあいの里保養センター
講師 小舘美彦(登戸学寮長)、吉村孝雄

(二)祈の友・四国グループ集会 日時:9月23日 午前11時~午後四時。坂出市大浜教会。聖書のメッセージ 上野清次郎(大浜教会牧師)、冨永尚(松山聖書集会)、吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会)

○北海道からの帰途の集会
前月号集会だよりには掲載できなかった集会の追加です。
北海道瀬棚での聖書集会からの帰途に吉村孝雄が、個人的に立ち寄ったり、また集会が与えられるところもあり、以下は集会の場所、日時などの追加です。主がそうした訪問や集会を祝福し、守り導いて下さいますように。
問い合わせは、吉村孝雄まで。

・7月31日(土)仙台での集会 13時30分~16時30分 パルシティ仙台(仙台駅前)
・8月1日(日)主日礼拝 福島県郡山市 ロマリンダクリニック(富永国比古氏)にて。午前10時30分~12時30分頃。
・8月4日(水)山梨県北杜市長坂町 山口清三氏宅にての集会 午後1時30分~4時ころ。

 


リストボタン編集だより

○今月号は、五月に徳島市で開催された、第三十七回 キリスト教四国集会(無教会)の記録を掲載しましたので、いままでで最も頁の多い号となりました。
この記録集に掲載された聖書講話やキリスト者の証言その他から、参加できなかった方々が、少しでも、当日の四国集会において吹いていた聖なる風を受け取ることができますように、そして、参加していた方々においても、再度あのときの内容に触れることによって、あらたなみ言葉と力を受けることができますようにと願っています。
録音や記録を書いて下さった方々の御愛労を感謝です。
なお、これらの内容を読んで、実際の録音や映像(DVD)を希望される方は、吉村孝雄まで申し込みしてください。音声録音に関しては、MP3形式では、二日間の全内容がCD一枚に収録されています。(価格は送料込で五百円)
なお、MP3形式で録音されたCDを再生する機器は、パソコン、MP3プレーヤなどがありますが、それらを使えない方は、一般のCDプレーヤでも聞ける形式に作ってお送りすることはできます。ただしその場合は、四人の聖書講話と六人のキリスト者の証言のみとなります。それらは、聖書講話、証言各々CD二枚ずつとなりますので合計四枚のCDをお送りすることになります。
なお、DVDは六枚となります。(価格は、一般のCDプレーヤで聞ける形式の四枚のCD、あるいはDVD六枚もいずれも送料込で千円)

 


リストボタン来信より


○「いのちの水」五九二号の「結果を出せなくとも」を読み、深い賛同の思いに満たされました。まことに今の日本の状況に対して重要な発言と思いました。
主よ、来たり給えと心より祈りました。
たとえ結果は出なくても、高い理想は常に掲げて理想に向かって努力していかねばならないと思います。(中国地方のOさん)

○「いのちの水」誌五月号を十冊送っていただきたく、お願いします。小さな集まりの人たちや、知人、地方にいる娘に読んでもらいたいと思いました。      (関東地方のYさん)
○主にある交わり、聖霊が人と人を一層強く結びつけ、この世のさまざまの困難にもかかわらず前進していくことができるよう導いて下さる、この箇所を繰り返し読み、実感しております。
    (中部地方のKさん)