わたしは、また、新しい天と新しい地を見た。 |
・2011年1月 599号 内容・もくじ
白く輝く山 | 万物を新しくする主 | 悲しみが終わるとき |
神とともに住む人―詩篇第十五篇 | 岩野梅子さんの最後の来信 | お知らせと報告 |
編集だより |
今年は初めて静岡県伊豆において、キリスト教独立伝道会主催の新年聖書集会に参加してみ言葉を語る機会が与えられた。
一月三日の早朝、宿舎の外に出ると、澄みきった大気の向こうに、富士がその純白の姿を静かに現していた。
今まで、いろいろな場所で、遠くの山から、また山中湖や、新幹線の車中や車の中で、またずっと以前に高校の修学旅行の付き添いのとき等々、富士は何度も見たことがある。
しかし、今回のような富士は初めてであった。まだ朝明けのほんのりと赤みがかった色彩を帯び、ふもとから頂上まで神の雪をいただき、雲一つない夜明けの空に浮かびあがっていた。
その清められた白い山の姿は、主イエスがご自分の最期が近づいたときに、高い山に登り、そこで服が真っ白に輝いたとあるのを思い起こした。
そして見ている間に、東方のわずかにかかっていた雲が晴れたために、中腹より頂上にかけての部分が白く輝きはじめた。
富士山はあまりにも有名な山であるために、従来は私には大した関心も持てなかった。
しかし、このとき見た富士、それは厳粛な思いを呼び覚ますものであり、その背後に崇高な見えざる御手を感じさせるほどのものであった。
それはわずかな時間であった。その少しのちには、雲がかかりはじめたからである。
標高四千メートル近い真白き富士、そしてやや西方に連なる南アルプスの白い連山、青い空と雲…等々、それらの揺るぎない姿と清さに触れて、新年にあたって、私たちが見つめるべきものを直接に示されたような思いであった。
万物を新しくする主
私たちの目にするものはすべて古くなっていく。身のまわりの衣食住、そして自分自身、また周囲の風景なども、時間とともに古びていく。山々ですら、長い年月のうちには、形が丸くなって古びていく。
人間のからだも心も同様である。 こうした周囲の身近なものだけでなく、永遠と思われている天体についても、何十億年という長い歳月を見ると、太陽や地球、そして夜空の星々もまた古びていく。
このように万物は古くなっていく。衰えていく、というのが私たちの周囲を見るときの実感である。
しかし、そうした常識をくつがえすことが聖書には書かれている。聖書とは神から聞き取った言葉であり、神のご意志である。神が、最終的には、万物を新しくする、といわれているのである。
…すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。(黙示録 21の5)
そして、聖書は最初の創世記の巻頭から、万物を新しくする力をもっていることが示されている。
闇の中、無限の深淵に吹いていた神の霊風(創世記一の2)、それは新しいものを生み出そうとする神の力そのものなのである。
そして実際に光が生じた。光こそは、あらゆる古びたものを新しくするものなのである。
身近な石ころを手にとる。そこに神の深い英知と、長い時間をかけて今自分の目の前に さまざまの色や形や固さをもって現れている。それは、何万年、何十万年も前にどこかの岩山にあったときからはてしない旅をしてここにある。そうした一つの石を見つめているだけで、石がふしぎな謎、太古の昔の情報をそこに詰めて存在しているのを感じる。
空の雲、山道にある一つ一つの樹木や野草たちも同様である。神からの光を感じつつ、それらを見つめるときには、なんでもないものが、新たな光をもって感じられてくる。神から受ける光こそは、新しく感じさせる原動力なのである。
聖書も同様である。何十年も読んでもなお飽きることがない、それはそこに神からの光をもって読む時には、あらたな意味が浮かびあがってくるからである。
…主はわたしの光、わたしの救いわたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。(詩篇27の1)
この詩の冒頭の言葉「主はわが光」という言葉は、オックスフォード大学の校章ともなっていてよく知られた言葉である。大学のマークとして使われているというのは、その光が、学問的な探求の光を与えるという観点からであろう。
しかし、この詩の本来の意味は、敵対する者に苦しめられるという状況のなかで、それに耐えて勝利する新たな力が与えられるという意味で述べられているのである。それは、こうした詩が作られたのは、信仰に生きた古代の人間の苦しみからの解放を経験したことによるからであり、研究などとは関わりのないところから生まれたからである。
主の光が与えられるならば、敵対するものがいても、なお、その背後に神がいますことが見えてくる。敵対するものの力はただそれだけがあるのでなく、それをある限界のなかだけにおいておく神の力が見えるのである。
闇のなかに、懐中電灯で光をあてるとき、そこには次々と新たなものが見えてくる。
神の光を受けて、周囲のいろいろなものを見るときにも同様なことが言える。
こうして 周囲に反対者ばかりという状況にも新しいものを感じてそこに耐えていくことができる。
さらには、神のひかりという探照灯を持つときには、敵対する者、自分を苦しめている者にもそこに神の愛を求める無意識的な渇きを照らしだすことができる。そしてそこに神の愛が注がれるようにと祈るように導かれる。
しかし、人間的な判断、考え方というこの世のものは、それをもってしても何ら霊的に新たなものは見えてこない。
…かし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマ 7の6)
生き方も新しくされる。それは聖なる霊による。聖霊こそは、古びたものに新風を吹き込むのであり、風がよどんだ大気を一掃して新たな雰囲気にするようなものである。そして、雨を含んだ強い風は大気の汚れを一掃するように、いのちの水を含んだ霊風は、あらゆるものをうるおし、また古きものを一掃して新たにする。
このような聖なる水のはたらきは、すでに旧約聖書でも言われている。
…川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。
この水が流れる所では、水がきれいになるからである。
この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書 47の9)
この川、それは、エルサレムの神殿から流れだす川である。すなわちこれは神から流れ出る霊的な水の流れを意味している。そのようないのちの水が流れていくならば生き返る。言い換えると、古びたもの、滅びゆくものが新たにされる、ということなのである。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント 5の17)
if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new
has come!
モーセは神から声をかけられたときに、新しくされた。荒れ野にて、のどかではあってもだんだん古びていく人生をたどりつつあった。しかし、神からの呼びかけによってまったく新しくされたのである。
キリストの12弟子たちも、やはりそのまま老齢化していく、ふつうの古びていく人生を歩んでいた。しかし、イエスから私に従え、との呼びかけを聞いたときから、彼らは朽ちていく道から脱却して、新たにされ、新しい道を歩むようになった。
それはさらに、イエスの十字架の死ののち、聖なる霊が注がれて さらに完全な意味で新しくされてこの世に福音を伝えるためにと送りだされて行った。
旧約聖書にある有名な「十戒」、それは数千年も昔の特別な民族の宗教的な遺物ではない。それは、万物を新しくする道を世界の歴史において初めて明確に指し示したものである。
神でないもの―財産、金や身体、地位、食物、交際などなど―を一番大切にする、そのときに 人間は古びていく。神だけをたよりにするとき、人は根本的な意味で新しくされる。神こそは永遠に新しいものを生み出す根源であるからだ。
そのことを、十戒の最初に告げているのである。
…あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20の3)
この世界を創造し、しかも慈しみと真実で満ちた神を第一としない、ということは、愛や真実に反するものを第一とするということである。そのようなときには、真実なものや純粋な愛が与えられないのであるから、決して本当の喜びを経験することができない。真の愛からくる喜び、それは人間の魂を新しくうるおいに満ちたものにする。
新しさの根源は実に神の愛を受けることにある。
十戒とは冷たい、あるいは古びた化石のようなものでなく、現代も生きた人間のあり方の根源を示したものであり、ここにこそ真の新しさを感じて生きる道があると、指し示しているのであって、そうした道を知らなかった世界に輝かしいともしびとして掲げられたものなのである。
このように、一見 古びた古代のいましめのように見えるものが、実は新しさの根源を指し示すものであって、じつに聖書は、私たちが深く読みとるならば、創世記の最初からずっと新しいものを提示する内容で満ちているのである。
こうした聖書の内容は、キリストによってさらにその新しさが決定的となった。
…新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
(ルカ 5の38)
私たちの魂そのものが、聖なる霊によって新しく生まれ変わる。それが新しい皮袋であり、そしてそこに新しい神の国のメッセージがとどき、聖なる風たる聖霊が吹き込み、いのちの水が湧き出る。それが「あたらしいぶどう酒」というたとえで言われていることである。
私たちの存在そのものも、死を越えてその新しさは続いていく―神のみもとにて復活し、新しい霊的な身体とされていく。
そして聖書の最後も、究極的な新しさ、すなわち新しい天と地とされる、という壮大な預言(黙示録21章、22章)―これ以上に大規模な新しさは有り得ない―で終わっている。
このように、聖書は最初から最後まで、この世のものがすべて古びていくただなかにあって、永遠の新しさを示した書となっているのである。
悲しみが終わるとき
私たちの生きていく過程では、それぞれに他者にはまったく分からないような問題があって、悲しみや苦しみがある。
そしてこの世における悲しみは、突然襲いかかることもある。
そのことは、旧約聖書のヨブ記において最も劇的に、そして長大な内容をもって記されている。
神を信じ敬いつつ生活し、大きな祝福が注がれて豊かな生活となっても、なお、子供がことによったら罪を犯したかもしれないと、つねにその家族のことをも祈りに覚えて生きるどこから見ても、神からの罰、裁きなど受けることは考えられないような人であった。
しかし、そのような人においても、突然理由の分からない悲劇が生じることがあるのだと、このヨブ記は提示している。そして悲しみと苦しみの深い意味がこのヨブ記という長い書物によって解きあかされているのである。
主イエスの悲しみ、とくに山上の教えにおいて、まず、その魂の内奥において砕かれたもの、何も誇るものを持っていないと自覚したものの幸いを告げ(心の貧しい者は幸いである)、それに次いで、悲しむ者は幸いだ、といわれたことの理由は何であろうか。
私たちが普通に思い浮かべる幸いとは、信仰あつい者、忍耐するもの、望みを持つもの、愛するもの、正義を行う者等々であるはずなのに、ここでは、それらを言わず、心貧しき者、そして悲しむ者の幸いを第一に書いている。それは、他者に誇る能力も自信もなく、地位もない、そして大切なものを奪われた…それが貧しきものであり、また悲しむ者たちである。
怒りでも、憎しみでも、また落胆でもなく、絶望でもなく、自分のことにせよ、他人のことにせよ、望んでいる状況や期待していること、あるいはあるべき姿と大きく異なるのを実感するとき、私たちは怒りや憎しみを大きく越えた心を抱く。それが悲しみである。それゆえに、人間に本当のあるべき姿を指し示す愛の神やキリストのことを知らないときには本当の悲しみはなく、それは怒りや絶望、憎しみなどと入り交じった悲しみとなる。
愛の神を知らずして、愛児が事故に巻き込まれて失われるとか、自分がしてもいないことをしたと言われる、またひどい差別や侮辱を受けるなど、それは相手に対して怒り、憎しみ、またそこから生きる力を失わせるほどのショックを与えられつつ悲しむ。そうした悲しみは、聖書にもあるように、死に至る悲しみである。
神への信仰を持たず、神の愛を受けていないときには、苦しいときには、そのようになった原因にかかわる人に対して怒り、憎む。しかし、愛を神から受けているほど、他者のために悲しむ。
神も旧約聖書では、その感情が、しばしば怒りという言葉で表現されていて、「神が怒る」という表現は90回ほどもある。しかし、新約聖書においては、主イエスご自身が深い悲しみをもって民を見つめられたこと、神が遣わされたにもかかわらず、ユダヤの人々が自分を受けいれないこと、そのゆえにまもなく国は滅び多くの人たちが殺されていくのをまざまざと神の啓示によって示されていたゆえの悲しみであった。
この世界に現れるべき救い主が悲しみの人であるということは、すでに旧約聖書のイザヤ書において驚くべき洞察をもって預言されている。
…彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、我々の悲しみをになった。
だが、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ書53の3~5)
このイザヤ書によって、悲しみに深い積極的な意味があることが示されている。
そして、驚くべきことだが、この預言のとおりにイエスが現れ、私たちの罪をになって死なれたのであった。イエスが持たれた悲しみや苦しみこそは、最も大いなる出来事を生むものとなっていった。
このように悲しみの持つ深い意味をイエスがご自身のいのちをとおして世界に示されたゆえに、私たちにとってもそのような本来避けたいものが深い意味を持つようになったのである。
…神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。(Ⅱコリント 7の10~11)
悲しむ者が幸いだ、などということは、旧約聖書ではまったくみられない。この世の文書にも見られない。
それは主イエスが来られたことによって初めて、このような誰も考えたことのない心の世界が開かれたからである。
それは画期的なことであった。モーセ五書と言われる聖書の最初の部分、創世記から出エジプト記、そして申命記に至る三四〇頁にわたる大量の内容の部分にも、「悲しみ」が祝福とつながっているなどということはどこにも書かれていないし、その後の歴史における神のはたらき、詩篇、預言者など全体をとおしても、
わずかに、預言書の一つにおいて、人々の道からはずれた生き方を悲しみ嘆く人たちには特別なしるしが付けられて、大いなるさばきのときにも救われるということが記されているだけである。
…(主は)彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。(エゼキエル書9の4)
そして積み重なる悪行のために神からの厳しいさばきを受けるときに至っても、「身にしるしのある者には触れるな。」として、とくにそのさばきから免れて救い出されることが記されている。
エレミヤは悲しみの預言者であった。彼が書いたとされる哀しみの歌(エレミヤ哀歌とも言われる)が聖書におさめられているほどである。そこにはほかのいかなる箇所よりも深い悲しみ、そして涙がある。そしてその涙は、自分自身の病気や家庭の問題、あるいは悲しみがあったということではない。同胞が滅びゆくこと、背信を重ねて神のさばきの中に落ち込んでいくこと、彼らのかたくなさ、神のことばに聞き従おうとしないことへの深い悲しみであった。
しかし、エレミヤに深い悲しみをもたらした民族の苦難は、後に捕囚の民の奇蹟のような帰還ということによって喜びに変えられた。そのことがイザヤ書の40章以降に現れている。
、それはエルサレムの崩壊、バビロン捕囚という歴史的な苦難を受けた悲しみから、再生、復活への喜びである。
…荒野よ、荒れ地よ、喜び踊れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ、大いに喜べ…
荒野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。…
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれる…(イザヤ書35章より)
これはまたキリストの霊、聖霊によるあふれる流れをも指し示すものであるし、黙示録にあるように最終的な祝福をも暗示する。煉獄篇の28歌にある、地上楽園、創世記にあるエデンの園の祝福に満ちた情景をも意味している。
そして、聖なる霊による喜びは、主イエスと再び会うことによって与えられると最後の夕食において、はっきりと知らされている。そしてこの再び会うことのできるキリストとは、復活したキリスト、聖なる霊となったキリストである。
…ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ 16の22)
この世には、それぞれの人たちにおいてさまざまの悲しみがあり、苦しみがある。それを根本的に乗り越える道はあるのだろうか。
それがこの短い聖書の言葉によって示されている。この言葉が言われたのは、最後の夕食のときであった。そのとき、まもなく自分が捕らわれ、苦しめられて十字架で処刑されることを知っていた。弟子たちはこのお方こそ、長い間預言されていた救い主だと信じてすべてを捨てて従ってきたのに、わずか三年の伝道で殺されてしまう、そのことに強い衝撃を受けて悲しみに沈む。
しかし、その悲しみは必ずいやされる。それは、死んだイエスが復活し、聖霊というかたちで弟子たちのところに再び来るからである。
このようにすべてをかけて信じ、愛してきたものが無惨にも悪の手によって滅ぼされたと見えるような、最大の悲劇であってもそれをいやすものが与えられる。そしてそのときに与えられる喜びはいかなる人間も奪いさることはないと約束された。
再びイエスと会うことによって与えられる喜び、それこそは永遠的な喜びだという。
この世にはさまざまの悪があり、私たちの心の中にも入り込んで、罪を犯させ、苦しめ、悲しませる。そうした悪の力、罪の力に打ち勝つために主イエスは十字架で死んで下さった。そればかりか、悲しみを生み出す死ということについても、みずから復活され、死に打ち勝つ力が存在すること、それが私たちにも信じるだけで与えられることを示された。
そしてさらに、喪失の悲しみ、友人や愛するもの、そして健康や家庭、仕事等々、失われていくゆえに生じる悲しみを完全に埋め合わせ、たんに悲しみを忘れさせるのでなく、積極的な喜びで満たすという約束なのである。
その喜びを奪い去る者はいない、それは死すらも奪うことができない。そのような聖なる霊がもたらす喜びは、死を越えて続き、私たちが死ののちに、神とキリストのもとに復活し、そこで永遠の喜びの世界に迎えられるからである。
神とともに住む人
―詩篇第十五篇
主よ、どのような人が、あなたの幕屋(*)に宿り
聖なる山(**)に住むことができるのでしょうか。
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり
舌には中傷をもたない人。
友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
主の目にかなわないものは退け
主を畏れる人を尊び
悪事をしないとの誓いを守る人。
金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。
これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。(詩篇15篇)
(*)幕屋とは、神の言葉である十戒が刻まれた石版が置かれている大型のテント。特別に分かたれた場所ということで、聖所とも言われ、後の神殿のもとになった。最近の代表的な英語訳である、New International Version(NIV)、New Jerusalem Bible (NJB)、New Revised Standard Version(NRS)などは、すべて、 古い英訳が採用していた tabanacle に代えて テント tent と訳している。
(**)シオンとは、ソロモンが建てたエルサレムの神殿のある丘を言う。後にエルサレム全体、あるいはそこに住む人々をも指すようになった。
この詩では、人間の究極的な幸いは何かということが言われている。
それは神の幕屋に宿ることで、言い換えれば聖なる山に住むことである。しかし、幕屋や聖なる山といった言葉は一般の人、初めてこの詩を読む人たちには何のことか分からない。現代の私たちの生活で、幕を張ってある場などは大多数の人にとっては思い浮かばないからである。
このような点が詩篇がなじみにくいひとつの理由となっている。当時の幕屋や聖なる山がどういう意味を持っていたかを知らない限り、この詩の中心がわからない。
幕屋というのはエジプトから解放されたイスラエルの民が、目的のカナンへ行くまで仮の神殿として、移動式の聖所として神の箱を収めていた大型のテントである。テントといえばイメージがわきやすいが、体育祭で用いるようなものを思い出し、世俗的なものを思いだすこともあって幕屋という訳にしている。
幕屋はそこに神が臨んで、人々の罪を赦される最も大事なところである。また人と神を仲立ちする祭司が神と出会うところである。
その幕屋に宿るということは神のもとに宿る、神の内にとどまるということである。
人間とは、汚れた存在、不安定なもの、愛や正義、真実といったものとはほど遠いような存在でしかない。
そのような人間が、いかにして完全な清さとすべてを見抜く目を持っておられる神に近づけるのか、そしてその神がおられるところに住むことができるのだろうか。
旧約聖書では、出エジプト記においては、モーセだけが神に近づくことを許された。他の人が神が降られる山に近づくと必ず死ぬ、と言われた。(出エジプト記19の17)
それはなぜなのか。人々が汚れているからである。神が降るシナイの山に登ることはできないので、ふもとにて神の現れるのを待った。その準備のために、人々は衣服も洗い、聖別され、三日目にようやく人々は山に現れる神と出会うことができると記されている。
それほど神と出会うためには、清められねばならなかったのである。
…民は遠く離れて立ち、モーセだけが、神のおられる密雲に近づいて行った。(出エジプト記20の21)
聖なる山、これはエルサレムが山の上の町であり、そこにある一つの丘に神殿を建てたゆえに、とくにその丘をシオンの山といい、神がきてくださる山だとして特別に重要視するようになった。
どのような人が神様の一番近くに住むことができるのか。どのような人が神様の近くに引き寄せられるのかということである。神というのは一番の力であり、幸いの源である。そのそばに一体誰が行くことができるのか。このことは、誰にとっても重要な問題になる。
本来は、人間は汚れているゆえに神には近づけず、神とともに住むなどとは到底考えられないことであった。
しかし、この詩の作者は、当時の長い間続いてきたそのような観念を打ち砕く深い内容を神から啓示されたのである。
神のおられる幕屋、その聖なる山に住むことができるのは、どのような人であるだろうか。
…完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり(*)… (2節)
(*)ここで使われている三つの動詞、歩く、行う、語る という言葉は、いずれも分子形であり、原文のニュアンスを生かすと、「歩き続ける、行い続ける」と訳される。「真実の言葉」というのも原文の表現では「真実を語り続ける」と動詞形が使われている。それゆえ、英語訳では speak the truth from their heart.といった表現になっている。
この詩の作者が啓示されたことは、たえず良き道を歩み続ける人、言い換えると、正義を行い続け、真実を語り続ける人こそ、それである。
完全な道を歩むとか、正しいことを行う人、といわれるが、完全な道とは何を意味しているだろうか。ここで使われている「完全な」と訳されている原語(*)は、「直く」とか「正しく」とも訳される言葉である。
(*)ターミーム。この語は、この箇所では、次のように訳によってさまざまの表現に訳される。こうした意味を合わせもっていると考えることができる。 直く歩み(口語訳)、正しく歩み
(新改訳)、責められるところがなく(現代語訳)、とがなく(フランシスコ会訳)、完全に(岩波訳)、申し分なく(バルバロ訳)
また、他の箇所ではこの同じ原語が、新共同訳では「無垢な」とも訳されている。旧約聖書のヨブ記に出ているヨブは
「全き人」だったと言うが、その語もまた、このターミームという語である。
この箇所で「完全な道を歩む」と訳されているが、これは、「まっすぐ神を見つめつつ歩む」という意味である。完全な、というのは、「歩む」にかかる副詞的な意味を持っているから、ほかの日本語訳ではみなそのように訳されている。神のように完全に歩むというのは不可能だが、まっすぐ神のほうを見つめつつ歩むことは、人間でも相当程度まで可能で、間違ってもまた神の方に立ち返り、再び神を見つめて歩くことを意味している。
このように、神のおられるところで住む、ということがすでに地上の生活においても可能であることが、この詩篇で暗示されているのがわかる。こういうことは、本来、旧約聖書の世界では有り得なかったことなのである。
詩篇はこのようにしばしば、だれも経験したことのない世界への扉を開くような真理が述べられている。
しかし、この神の道を真っ直ぐに歩む、ということは、至難のわざである。愛や真実、正義といったものを豊かに持ちつつ歩むことこそ、直く歩むことであり、正しく歩むことであるが、このようなことを誰が持続的に行えようか。
この詩篇で言われていることは、新約聖書のキリストによって初めてこの「直く歩む、完全な道を歩む」ことが誰にでも可能となる道が開かれることになった。
…イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ 14の6)
「正しいことを行う人」が神のおられるところに住むことができるというのはわかるが、問題は、正しいことを行い続けるなどということが可能であるかどうかということである。
キリスト教の二千年の歴史で最も大きなはたらきをした使徒パウロも、次のように書いている。
…わたしは、自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしてしまうからだ。(ローマ 7の15)
それゆえに、主イエスが言われたように、イエスを道として歩む、主イエスを信じ、イエスの力をいただき、主に導かれていくということがなかったら到底私たちは完全な道を歩むことなどできない。イエスを信じてイエスに導かれるとき、初めて私たちは、この詩篇で言われている正しく歩む、完全な道を歩むということが可能となる。まちがった道へと迷い出てもそこから立ち返ることによって、それまでの間違いが許されて、神の正しい道を歩んでいるとみなしてくださるからである。
さらに3節でどのような人が神のもとに宿ることができるかが付け加えられている。友と訳されているように、人間関係の中で身近な人、近くにいる人のことを指す。「親しい」というのは「近い」という原語から作られた言葉で「隣人」とも訳される。身近な人に対することを特に取り上げている。
私は遠くの国の人を愛しています。と言っても本当は心でどう思っているか分からない。身近な職場や家族、たまたま行きずりの人、あるいはキリスト教の集まりで会う人などを悪く思ったり中傷することもある。
だからここであえて近い人に対する態度が言われている。心に真実があればそんなことはしない。やはりそれは遠くの人に対してよりも近くの人に現れるのだ。
いくら国際平和とかきれいごとを言っていても、身近にあるものに対して悪いことを言ったりすると神様から遠ざけられる。それは不真実だからで神をまっすぐ見ていないからである。これは当たり前のことでこれらのことをして神様が喜ばれるはずがない。
主イエスも遠くの人よりもまず隣人を愛しなさいといったのはこのようなことからである。サマリア人の譬えでも、たまたま通りかかって出会った人のことを隣人だと言っている。
隣人とは誰が近くに来るか分からない。行きずりでも職場でも意外な人が隣人となる。隣人というのは、とにかく近くにいる人誰でもという意味である。親しい人や愛する人を愛することは罪人でもしているではないかと主イエスは言われたが、それはこの精神と共通している。わたしたちの真実性はごく日常的に出会う、関わりの深い人にあらわれるということなのである。
完全な道、まっすぐ前途をみつめ、神様の光を受けていると、他者を悪く言うのではなく逆にその人のために祈ることができる。
これは主イエスが言われた敵対する人も隣人になる。ここでは「中傷しない、友に災いをもたらさない、親しい人をあざけらない」と否定的に言われているが、主イエスはこれらの表現をさらに推し進めて、単に中傷しないのではなく、他者のため、敵対するような人に対しても祈れと言われたのである。
敵のために愛し、迫害する者のために祈れ。これは言い換えただけで愛するとは祈ることである。
この主イエスの言葉は、この詩篇の言葉の延長上にある。
このような心で神様を見つめ、神様に力をもらって隣人に対して絶えず神様の愛を持ってしようとするときには、確かに神様に近づけられる。
次にお金の問題で、昔も貧富の差があったので、今のように社会保障制度や銀行の預金制度がなかった時代には、気候の変動があって作物ができなければたちまち非常な貧困に陥っていた。だから豊かな人から食物やお金を借りなければいけないということは当然のことで、昔はこれらの制度がなかったから、お金の貸し借りはどうしても必要なことであったけれども、お金を貸しても利息を取らないということがわざわざ書かれている。こういう形で、困った立場にある、貧しい立場にある人に対して利息を取って、その人を言わば材料として金儲けをすることはしてはいけないことだということである。
これらの事を守るときには最後に揺らぐことがないという表現している。揺らぐということは悪の中に入り込む、道を間違って滅びの中に入り込むことで、それが起こらなくなる。だから救いということの別の表現である。人間は絶えず大きく揺らいで正しい道からはるかに遠いところへとさまよい、放り出されるのでここで「揺らがない」と表現されている。
少々の揺れは当然私たちもあるわけだが、時計の振り子がいくら揺れても元へ戻ってくるように、神様の道をまっすぐ見つめて歩むときには揺すぶられても元に戻ってくる。そういう意味で、揺るがされないということである。ところが守らない場合には本当に揺さぶられて、全く違うところに飛び出してしまう。救われた状態というのは確かに揺らがない。神ご自身は山であり岩であるとたとえられているが、そのような堅固な存在と結びつくゆえに揺らがなくなってていく。
この詩の次にある詩篇でもここの箇所を補うような感じで書かれている。
…私はたえず主に向かっている。
主は右におられ、
私は揺らぐことがない。
(詩篇十六の8)
私たちのすぐそばに、不変であり動じることのない神が、共にいて下さるならば揺らがない。こういう状態が確かに救われているという状態と言える。
このことはその次の詩篇にも現れる。
…あなたの道をたどり
一歩一歩、揺らぐことなく進みます。(詩篇十七の5)
このように、魂が揺らがないという状態は、救われた魂のすがたとして記されている。
日本において、戦前には、ただの人間にすぎない天皇を生きた神だとか言って、全くの偽りを堂々と教育した。敗戦となると今度は、国民主権ということで、天皇は神でないとなった。そして、敗戦後に生まれた憲法は、聖書的な精神を持っていて、決して戦争をしない(非戦)という立場をとったが、またそこから大きく振れて、別の方向へ振り出そうとしている。
基本的な柱になるものがなかったら、全然違うほうへ振れだし、どんどん離れていくということが人間にもいえる。人間というのは信じがたいような大きな罪を犯したりする。それは、魂がどこまで揺らいでいったのか分からない、振り切れてしまったような感じさえする状態だと言えよう。
この詩の作者は永遠に揺らぐことがないという世界を知っていたのである。この詩の最初と最後で人間は最終的には恵みとして聖なる山、神様のおるところに共に宿らせていただく、それはまた永遠に揺らぐことがない状態が与えられる、という救いの世界を深く体験していたのがわかる。
それこそが、わたしたちの目標点である。旧約聖書の世界、その時代にはいろいろな儀式があったにもかかわらず、それらのことは一切言わないで心の問題を非常に簡潔に言って、そういうことこそが聖所―神のおられる所に留まることにつながると述べているのである。
この詩の最初に掲げられたこと、神と共に宿り(留まり)、神のおられるところに住むということ、それは新約聖書の福音書のなかでは最後に書かれたヨハネ福音書で繰り返し強調されている。
私の内に留まれ、そうすれば私もあなた方の内に留まる。そしてよき実を結ぶ、と。
キリストがこの世に来られてから、私たちは私たちの罪を赦してくださるお方としてキリストを信じ、仰ぐだけで、キリストのうちに留まることができるような新しい世界へと導かれたのである。
岩野梅子さんの最後の来信から
ここに引用する手紙は、去年(二〇一〇年)12月17日に頂いたものですが、その後10日あまりで召されました。岩野さんのこの世での最後の魂の状況がうかがえる文となっています。煉獄篇に現れるすべての悪しきこと、いやなことなどが消え去り、忘れ去ることのできるレーテの川が見えたとのこと。これは、岩野さんにとって大きな恵みであったのがうかがわれます。
そして地上最後のときを、天の国を思わせる夢を与えられ、感謝や喜び、主にある平安を持ちつつ過ごし、突然召されて行ったのを思います。
………
御名を崇めます。
いつもお導きを下さいましてありがとうございます。
最近は、大きい聖書は重たくて開く気になれませんでしたが、集会だよりや「いのちの水」誌の中に出てくる聖書箇所、とくに神曲の煉獄篇にでてくるる聖書箇所を開いて読んでいます。
難しい神曲を一応読みましたが、分からないところも多く、「いのちの水」誌の解説が有りがたく、大阪にいる垣塚姉からも、「いのちの水」誌に掲載された煉獄篇28歌の解説よかったね」とお便り頂きました。
たいへんお忙しい吉村様…あと少し どうかよろしくお願いします。
私は今、初めから聖書も開きながらゆっくり再読しています。
24人の長老さん(黙示録四章)が夢に現れたり、煉獄篇28歌の淑女や、レーテの流れも現れます。
そのような楽しい夢を夫に話しますと、うらやましがります。
90歳になって、こんな安らぎをいただけますことを本当に感謝いっぱいで過ごしております。
多くの主にある兄弟姉妹、よい導者に恵まれ、満たされた感謝いっぱいの日々です。…
どうか、良いクリスマスを、多くの方々がイエス様と一つになって、喜びをともにできますようにお祈り申し上げます。
お知らせと報告
○岩野 梅子姉、召される。岩野さんは12月29日の昼前に、主のみもとへ行かれました。90歳でした。30日に前夜式、31日のおおみそかの日にキリスト教式で葬儀が行われました。(徳島聖書キリスト集会主催、式辞 吉村孝雄)
召される5日前に、私たちの集会員約20名がキャロリングで、岩野さん宅を訪問して、寒い風の吹きつける中を、ご夫妻で喜んで迎えられたのでした。
なお、眉山におけるキリスト教霊園での納骨式は、一月二三日(日)の午後一時三〇分から行うことになっています。参加希望者は、一月二〇日(木)までに吉村(孝)まで申し出て下さい。
○一月十六日(日)午後、読書会。煉獄篇29歌。
○一月三十日(日)には、例年のように、ギデオン協会の方が主日礼拝にも参加され、礼拝が終わってからギデオン協会の活動についてお話しされます。
○今月の移動夕拝は、一月二十五日(火)午後七時三十分~九時すぎまで、板野郡藍住町の奥住邦昭、芙美子ご夫妻宅にて。
○「野の花」文集の発行
「野の花」ができました。94頁。投稿者は徳島県内が多いですが、北海道から沖縄までさまざまの地域からの方々百名ほどです。「いのちの水」誌に同封されてない方、あるいはさらに余分を希望する方は、吉村
孝雄まで申込してください。一部二百円(送料は何部でも百円とします。)代金は、「いのちの水」誌奥付の郵便振替でお願いします。少額のときは、八十円~二百円ほどまでの切手でも結構です。
○北田 康広さん、来徳。
12月11日(土)の午後、北田康広・陽子夫妻がアスティ徳島において開催された、第10回全国障害者芸術・文化祭とくしま大会にて、 「北田康広トークコンサート」がありました。北田さんは徳島出身なので、時々このような県の行事にも呼ばれてそのピアノや歌が用いられています。一昨年の東京・青山学院大学での無教会全国集会の夜の音楽のプログラムにおいても、北田夫妻が歌とピアノ演奏をされています。
いまから三十年ほども昔、私が高校教員から盲学校教員に転じたときの担任のクラスにいたのが、北田さんでした。盲学校在学中、校内で私が開いていた聖書の学びの会に、数度勝茂さん(徳島聖書キリスト集会のホームページの作成を担当)と二人で参加していたこと、また短期間ですが私たちの徳島聖書キリスト集会にも参加していたことを思いだし、私たちのキリスト集会に視覚障がい者が多いのは、3年しか勤務しなかったその盲学校勤務を祝福してくださったことを思います。
○一月二日(日)~四日(火)まで、静岡県の伊豆で、キリスト教独立伝道会主催の新年聖書集会が開催され、聖書講話を依頼されましたので、吉村(孝)は、三回にわたってみ言葉からのメッセージを語る機会が与えられました。「喜びと力のおとずれとしての聖書」というタイトルで、旧約聖書の創世記と出エジプト記、そして二回目は、詩篇から、三回目は新約聖書からの喜びと力がいかに記されていて、その背後から神が熱い心をもって私たちに喜びと力を与えようとされているか、ということについて語らせていただきました。
実際に、こうした三日間にわたる共同の生活において、み言葉を中心としてともに祈り、賛美することの大いなる祝福を感じたことでした。
○キリスト教独立伝道会
今回の静岡県伊豆での新年聖書集会は、キリスト教独立伝道会主催です。前月号にこの伝道会のことを紹介しました。毎月の会費は二百五十円(年間では三千円)で会員となれますし、その他に何ら特別な義務があるわけではありません。
この会費納入と祈りをもって覚えるということだけです。また、退会もいつでもできます。
年に四回ほどの伝道会通信が送付され、伝道会の活動に加わることができますので、伝道などできないと思っている方々でも、このような会に加わることで福音伝道にかかわることができるのでお勧めしています。
私自身も以前に伝道会に加入したことで、会員にならなかったら得られなかったであろう新たな学びや主にある交流が与えられて感謝しています。
○詩篇の聖書講話CD
詩篇を学びたい、表面的な言葉を越えて、もっと深い意味を知りたいと願う方々が多くいます。徳島聖書キリスト集会では、主日礼拝や夕拝以外でも各地にある家庭集会で、過去二十年ほどをとっても絶えずどこかの集会で詩篇を学んできました。現在も、複数の家庭集会で異なる箇所の詩篇を学んでいます。
私自身そうした長期にわたる多くの時間とエネルギーを注いだこともあって、詩篇というのが、かつて初めて読み始めたときに思ったような、ふつうの詩のような、単に人間の苦しみや祈り、あるいは賛美を書いたという個人的なものでなく、そうしたどこの古代の詩集などよりはるかに深い内容に満ちており、時間を越え、特定の地域を越えて、永遠的、かつ全世界的な内容をたたえているのを知らされてきました。
それで、そうした真理の一端を知っていただきたいと、近いうちに、それらの以前からの詩篇全編(百五十篇)の講話をMP3形式のCDとして発行の予定です。
現在 試作版が第一篇~九十篇までできています。一回の講話は大体三十分前後で、一篇~九十篇までの詩篇の講話が、MP3版CDでは、四枚に収録されていますから、詩篇全体(百五十篇)では、MP3版CDでは七枚程度になるかと思われます。録音時間は、90篇までで、およそ約45時間分が収録されています。予定価格は、送料込みで二千五百円。
なお、ふつうのCDラジカセでも聞ける形式で作成しますと、CDは八十枚近くとなりますので、制作にも相当時間を要するため、価格も一万円ほどになると思われます。
そのため、この詩篇講話を使いたい方は、MP3対応のCDラジカセ、またはパソコンなどを購入されたらよいと思います。このようなMP3対応のCDラジカセは、一般の電器店でもほとんど置いてないので、インターネットで検索しての購入となります。このMP3対応の機器、CDラジカセなどのことがよく分からない方は、吉村(孝)まで問い合わせてください。
この詩篇CDの購入を希望される方は、吉村孝雄まで申込してください。申込先のメールアドレス、電話、FAX番号、住所などは奥付に書いてあるのを用いてください。
今回、まず発行するのは、MP3版ですが、一般のCDラジカセで聞ける形式のCDは、制作に時間がかかるので、例えば、1篇~10篇、11篇~20篇などと、部分的な希望なら、希望に応じることができると思います。
編集だより
来信より
○…忙しさから解放されて「いのちの水」誌十一月号を読み始めました。目次の順に、 晩秋ー神との出会い・人との出会いー本当の新しさを求めてー神への信頼と信仰ー主は待っていて下さる
という内容まで、まるで一つの文を読むような気持ちで、一気に読みました。
季節も世界も、アブラハムも詩篇もイエスも黙示録も、一つにつながっていると思いました。
書いてあることが、何の無理もなく入ってきました。
こんな経験はめずらしいです。
昨年の「いのちの水」誌八月号を友人から送られてきて「聖霊ー生きた水」について読んだときから、私の中に生きた水が流れだしたような気がします。この感動を伝えたくて思わずペンをとりました。…(関西の方)
○…岡田利彦画伯の「黎明」を見ました。 "奇蹟をどう理解するか"という問いに、"神の全能を信じること"、吉村先生の明解な答え。
本当に、神を信じること、イエス・キリストの十字架の愛を信じること、信仰と愛と希望を与えられ、いかされて、祈ることをゆるされ、喜びと感謝が与えられていることを、深く実感しております。…(東北の方)