主は私を緑の野に休ませ、憩いの水際に伴い、 |
2011年2月 600号 内容・もくじ(第600号記念号)
無から有を生じさせる神
このことは聖書が一貫して説いていることである。創世記の冒頭にある記事、それは無から有を生じさせることであった。その時は秩序もなく、まったくの闇とすべてをのみ込む真っ暗な大海があるばかりであった。そのようななかに、神の風が吹きつのり、神の光が、光あれ!とのひと言で生み出された。
このことは、私たち一人一人の心の世界を象徴しているし、この世界をも象徴している。この世界、それは闇と混沌である。そうした世界をすでにパウロは、ローマの信徒への手紙の3章の前半で述べていた。「正しい者は一人もいない。皆、迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。…」
こうした喜びも力も何もない世界に、神は光を生み出した。無から有を生み出された。
同様に、私たちにおいても、いかに混沌としていても、また絶望的な状況であってもその無のなかに、神は光を、そして愛や真実をも産み落とすことができるのである。
アブラハムは、信仰の父とされ、私たちの神に対する信仰の模範でもある。しかし彼はなぜそのように全世界の信仰の父となったのか。彼が何か特別なことをしたからか、そうではなかった。そのようなことは何も記されていない。ただ、無数の人間のなかから、神がとくに引き出され、彼に語りかけ、彼がそれを信じたということであった。神の一方的な恵みによって信仰が与えられ、神からの呼びかけを受けるものとされたのである。
このように、アブラハムの信仰そのものを無のなかに神が造られたのである。私たちの場合も同様である。私自身も、およそ信仰など、聖書とか宗教的なものそれ自体を持っていなかったし、そのような願いもなかった。そうした無のなかに、神は信仰を与えて下さったのである。
そしてこれは実はみな同様なのである。
キリストの12弟子たちも、漁師であったり、税金を集める人、あるいは反体制活動家であったり、みなおよそメシアを信じるというようなしるしはなかった。そのような無のなかに、イエスを信じる信仰が与えられたのである。そして、何の力も無かった彼らの内に悪の霊を追いだす力、病をいやす力が与えられた。
アブラハムが唯一の神を信じたその信仰は、それ自体、無から有を生み出された神のわざであったが、そうして与えられた彼の信仰もまた、無から有を生み出す神を信じる内容をもっていた。
…死者に命を与え、存在していなものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じた。
彼は希望するすべもなかったときに、希望を抱いて信じた。(ローマ信徒への手紙4の17~18)
この信仰、それこそ私たちも共有できるものであり、今日の混乱した世界、これからもますます混沌としていくであろう世界にあって何にもまさる恵みなのである。
まず「学び」だろうか
聖書関係の集まりでは、まず学ぶことの重要性がよくいわれる。学びが大切なことはいうまでものない。
私たちはどこまでいってもごくわずかしか知らない。身近な太陽や星など宇宙や気象の現象、植物、大地、大空…そうした毎日目にするものの一体何ほどを知っているだろうか。だれでもきわめてわずかだ。専門家が詳しいといっても、その専門のごく狭い範囲のことだけに詳しいのにすぎない。
そういうことは聖書についても言える。聖書の最初の言葉、闇と混沌、そうして神の霊(風)が吹きすさんでいたこと、そこにただ神の言葉によって光が存在したこと、その短い言葉にどれほど深くまた広い意味が込められているか、だれでも一部しか分からない。聖書全体についていえば何度人生を生きても、わずかしか分からないということになる。
世界の歴史、政治や社会、音楽や美術などの芸術、さまざまの哲学、戦争や平和、科学や技術のこと、またそれらと人間の関わり、…いかなる領域でも私たちはだれもきわめてわずかしか知らない。道端の石ころ一つとっても、その石の成分、由来等々を学び知るためには、たいへんな作業を要することになる。
目に見えない領域でも同様である。神の愛や、信仰、希望等々、どれほどを本当に知っているといえるだろうか。
それゆえに、学ぶことは無尽蔵にあり、それを学ぶことによって精神は新たな刺激を受け、啓発され、新たな世界を開かれるということがある。精神的なことも含めていえば、学ぶことは不可欠であり、日々の命である。そうした広い意味での学ぶことをしない魂は進まない、枯れていくといえるだろう。
しかし、それでもなお、キリスト者としてまず第一になすべきことは、学ぶことではなく、祈ることである。そうして神ご自身である聖なる霊をいただくことであり、その聖霊に導かれることである。
学ぶことは、聖なる霊の助けがなければ、誇りにつながりやすい。聖書の知識や歴史、あるいは語学…そうしたものを知れば知るほど謙虚になっていく人もいるであろうが、しばしばそれらを持っていることでひそかな、あるいはあからさまな高ぶりや誇りとなっていく。
パウロも、
「知識は人を高ぶらせ、愛は造り上げる。」
(Ⅰコリント 8の1)と言っている。
主イエスの次の言葉は、なにが本当に私たちを導いて真理をさとらせるかについて実にはっきりと指し示すものである。
「聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。」(ヨハネ14の26)
「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」(同16の13)
主イエスはまた、まず神の国と神の義を求めよ、と言われた。このことは、聖霊を求めることと同じである。神の国を求めることはすなわち聖霊を求めることである。聖なる霊を受けることによって、私たちが罪あるにもかかわらず正しいとしていただける十字架の意味が本当にわかる。聖霊によらなかったら、イエスが私たちの主であることがわからないから、イエスが十字架で死んで私たちをあがない出されたということも理解できない。また、神を父と呼ぶこともできない。
…聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない。(Ⅰコリント 12の3)
キリスト教の福音が世界に伝わるようになったのは、まず学びをしたからか、そうではない。大多数の一般の人たちにとっては、学ぶための本も知識もなかった。キリストの12弟子たちも同様である。彼らはイエスに3年間学んだが、復活を信じることも十字架によるあがないを信じることもできなかったし、したがってそれらのキリスト教信仰の中心にあることを宣教するということもできなかった。
彼らは、聖霊を受けてはじめて、あらたな力を受けて、キリスト教の中心を宣教することができるようになったのである。
復活した主が、彼らに命じられたのは、約束のもの(聖霊)を祈って待て、ということであった。祈りは書物とか他人の話しによって学ぶということとは異なる。書物が一つもなくとも可能である。それによってあらゆる真理を知るに至ると主イエスも約束されている。
学ぶこと、それは書物がなかったらできないし、先生がいなかったらできない、ということが多い。英語などの外国語、自然科学、医学、法学、スポーツ等々みな先生に教えてもらって上達していくのである。
しかし、最も重要な「愛」は、教わっても身につくものではない。いくら愛に関する講義を受けても、だからといって愛がその人のうちに育つというものでもない。
しかし、聖霊が注がれるときには、おのずから本をまったく読んでいなくとも、愛は生じる。そして神からの愛を受けるときには、私たちは最も人間にとっての根源的なものを学ぶことができる。
「愛はすべてに勝つ」という言葉は、無知から来るさまざまの弱点にも勝つということをも含んでいるのである。
主イエスは、わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ 11の29)と言われた。
どんな無学な人、書物も読めない人、苦しい状況にあって人の話しを聞いたり本を読んだりすることもできない状況であっても、なお復活して、生きて働いておられるキリスト、聖霊からは学ぶことができる。
今の生きておられる主から直接に学ぼうとすることそのことは、祈りとなる。
聖霊は風のように吹く。それゆえ、私たちが真実に求めるなら、人がどんな状況にあっても風のように吹き込む。 その聖なる霊こそ、私たちを真の学びへと導き、誇りの心などを打ち砕き、愛をもって仕えるようにと導いてくださる。
主こそわれに与えられたものー 詩篇第十六篇
神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを。
わたしは主に言う、
「あなたこそわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。
地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。
主はわたしの分け前、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしは主をたたえる。
主は私の思いを励まし
私の心を夜ごと諭してくださる。 (7節) (*)
(*)最後の行、7節の原文は、「私の内臓(腎臓)が私を教える。」となっているから、原文に忠実な訳は、my reins also instruct me in the night …(KJV)と訳している。しかし、「内臓」は聖書においてはしばしば人間の奥深い心を指すことがある。それゆえに、たいていの英訳は、次のように、心(heart)と訳している。 …even at night my heart instructs me.(NIV) 日本語訳もこの訳を採用している。
さらに、自分の奥深い心とは、神に結びついたこの詩の作者においては、神ご自身がそのように働きかけるのであるから、この新共同訳のように、「主が私の思いを励ます」とも訳されている。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいて下さるゆえ、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。…
「守ってください」という強い祈りからこの詩は始まっている。多くの詩は、自分の身に危険が迫っている、敵が攻撃してくる、だから守ってくださいというようなものが多いが、この詩には特別な苦しみ、あるいは敵対する人、そうしたことは書かれていない。
しかし私たちはこの世にある限り、私たちを正しい道から引き離そうとする悪の力の攻撃にさらされている。そういう意味でどのような状況にある人でも、この守ってくださいという一言は必ず必要である。
元気で何不自由ないときも、傲慢になったり神様のことを忘れたりすることのないように、主の守りが必要となる。
キリストより千年も昔の王であったダビデのことも思いだされる。
彼は、王となる前に仕えていたサウル王にねたまれ、命をねらわれて非常に危険な状況が続いた。しかし、そのようないつ殺されるか分からないといった状況にあっても大きな罪を犯さず、あくまで神により頼んで、殺されそうになりながらも生きた神への信頼を持ち続けていた。
しかし、サウル王が死に、ダビデが王となって周囲の国々を平定し、安楽な生活がはじまって非常に重い罪を犯した。安楽な状態だから神様守ってくださいと言う必要がないわけではないのである。安楽な状態にはまた別の大きな誘惑はある。危険なとき、病気のときにも誘惑はある。豊かなとき、あるいは貧しいときそれぞれに、正しい道から外そうとする力が働くので、「私を守ってください!
あなたを避けどころとしていますから…」という祈りはすべての人にとって、人生のあらゆるときに必要なことである。
神の守りなど不要だということは、この世の霊的な危険を知らされるときには、到底言うことのできないことである。
主イエスも誘惑に陥らないように絶えず目を覚まして祈れと言われた。(マルコ14の38)
…私は主に言う、
あなたこそわたしの主(*)、あなたのほかにわたしの幸はない。(2節)
(*)引用聖句の2行目の「主」の原語(ヘブル語)は、アードーンで、「私の主」となると、アドーナーイ、一行目の「私は主に言う」の 「主」は、ヤハウエ。
これがこの作者の魂の原点である。何を自分の「主」とするか、何に自分の全存在を委ね、仕えるのか、である。
現代の私たちにとっても、何を自分という存在の最も根源的なものとみなすかによって、その生涯が変わってくる。
旧約聖書の詩篇の中でも最もひろく愛されている詩篇23篇の冒頭にもやはり「主はわが牧者なり」とある。宇宙を創造し、すべてを愛をもって支え動かされている神を、自分を導くお方とすることに、いっさいがかかっていて、そこからあらゆるよきものが生じるという内容である。
その基本的姿勢はここでも共通している。
わたしの幸い(良きもの)はあなたにある、このように確言できるのは、すでに大きな恵みを受けているしるしである。この世の中がどのような状況になろうとも、神はいかなる影響も受けないゆえに、自分のあらゆるよきものは神にあると心から言えるということは、どのような状況がおとずれても、その人の幸いは壊されないということである。
このような確信に対して、健康、あるいは平和な家庭、安定した収入こそ私の幸福だと感じている人は至るところにいる。というよりそれこそ、一般的な人間の幸福感を支えるものだ。けれども、こうしたよきものは、実にもろい。ふとしたことでなくなってしまう。
しかし神に私の最もよきもの、幸いがあると言うことのできる心は、たとえ家族が失われることがあろうとも、あるいはこの世が戦争に巻き込まれることがあろうとも、そうしたこの世の出来事によって損傷を受けないゆえにその幸いは続いていく。そのような事態がじっさいに生じたときには動揺もあろうし、失望、落胆、悲しみに立ち上がれないほどの痛手を受けることもあるだろう。しかし、そこから真剣に主を見上げていくときには、必ず救いが与えられる。心の平和がよみがえってくる。
地震が起こって家が壊れる。これは大変なことだが、神の存在はそれによっていささかも揺るぐことはないゆえに、そのような時にも神に寄り頼むことを知っている魂は支えを得るであろう。
…地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。(3節)
この詩の作者の心に大きな喜びを感じる人たちとは、単に容貌が美しいとか、能力がある、地位が高いといったことでなく、聖徒、神に従う人たちであった。神にこそ、あらゆる良きものを感じる作者であるからこれは自然にそうなる。また、人間だけでなく、神の直接の被造物である自然のさまざまのものもまた喜びとなっていくだろう。
これに対して他の人たちは、他の神々の後を追うと言っている。そこには苦しみが加わるばかりで祝福がない。
…主はわたしの分け前、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。(5~6節)
この詩の作者の心の中には、神だけが私の幸いというものがあるから、次々と波のように確信がさまざまな表現で押し寄せてくる。
人間にはさまざまなものが分け前として与えられる。ある人には特別な能力、ある人には生まれつき大きな財産、ある人には健康、ある人には貧しさ、ある人には体の障害というように、それぞれに本人が選んだのではないものが与えられる。
しかし一番良いのは、神という無限の大きなものが自分たちに与えられる分け前である。能力や健康や美貌が与えられていなくても、神が私たちに与えられた分け前なのだということを心から思えたら、それは一番の幸いである。
それは神とはあらゆる良きこと、愛、平安、真実、あるいは力や美の源だからである。
子供が親の財産を相続するのはごく自然なことである。聖書には、それと同様に、旧約聖書の古い時代から、神から与えられた財産という考え方がある。それはとくにカナンの地(現在のパレスチナ地方)であった。現代のパレスチナ問題、それは三千年を経てもこのことに固執するユダヤ人たちの考え方と、それに何の意味をも認めないアラブの人たちとの対立なのである。
しかし、この詩に見られるように、旧約聖書の時代から、すでに神から賜った財産(「嗣業」(しぎょう)とも訳されている)というのは、目で見える土地が究極的なものでなく、神ご自身が自分たちに与えられた分け前、嗣業なのだという考え方がはっきりと示されている。
ユダヤ人たちが、もしこの詩篇に見られるような、目には見えない神ご自身を自分たちに与えられた財産なのだ、という啓示にしっかりと結びつけられていたならば、今日のパレスチナ問題という重い問題を抱えることはなかったであろう。
目には見えない神こそ、自分たちに与えられた最大の遺産だと受け取るときには、パレスチナの土地の争いということは生じないからである。
これは、パレスチナ問題といった世界的な問題にかぎらない。私たちが目に見えるものー金や地位や持ち物、人間といったものに執着して、それらを自分の持ち物だと固執し、あるいは自分のものにするために力を注ごうとすればするほど、周囲の人間と対立が生じ、争いとなる。
神こそ、信仰を持った者たちへの分け前なのだ、というこの考え方、信仰は、この詩の作られた時代よりはるか後になって、キリストによって完全なものとされた。そのことは、そのキリストに啓示を受けた使徒たちによって新約聖書のいろいろな箇所に記されている。
…この(神の)霊こそは、私たちが神の子供であることを証しして下さる。もし子供であるなら、相続人でもある。(ローマの信徒への手紙8の16~17より)
ただ神を信じ、キリストを私たちの救い主として受けいれるだけで、私たちは神の長男であるかのように、相続人となるのだという。神あるいは神の国を受け継ぐというのである。途方もない大きなものを与えられるという約束なのである。
…主はわたしの分け前、またわたしの杯に受くべきもの。(5節)
神は私の杯、わが杯の受くべきもの、という表現は日本人にはなじみにくい。この詩が作られた地方は雨量がごく少ない地方であり、4月から10月にかけては全く雨が降らないという日本では考えられないような乾燥地帯である。
そこでは水すら十分にない。そもそも常時流れている川などヨルダン川以外になきに等しいからである。そして現在の私たちなら、各種ジュースやコーヒー類など実に多様な飲み物がはんらんしているが、この詩の作者の生きた時代にはまったくそのような飲料はなかった。わずかにぶどう酒があるだけであったから、器にぶどう酒を入れて飲むというのはとても喜ばしいことであった。
それゆえに、この詩で、それよりも比較にならないよき飲み物、それは、神の持っておられるあらゆるよきものであり、さらには神ご自身をいただくことだと言おうとしているのである。それは霊的な飲み物、人の魂を生かし力付ける比類のない飲み物だと知っていたのである。
このように、現代の私たちの感覚で読むなら全く意味不明となるが、数千年前のしかも日本とは正反対のような乾燥地を思い浮かべるときに、こうした表現が生き生きと当時の人たちの心情を映す鏡となってくる。
このことは、詩篇で最もよく知られている第23篇にも見られる。
…(神は)私を苦しめる者を前にしても
私の杯をあふれさせて下さる。(詩篇23の5)
杣友豊市さん(前の徳島集会の代表者)が、「わが杯は溢れる」と色紙に書かれたのを、知人が額に入れて玄関先に飾っておいたら、来客から、「とても酒が好きなのですか」と言われたと聞いたことがある。
そのように、前後関係や書かれた当時の状況を知らないときには、意味不明な言葉となる。
私を苦しめる者、敵対する人を前にしていても、彼らの攻撃や中傷のなかにあっても、神は信じる者の心を神のよき賜物で満たして下さるという揺るぎない神の祝福を指して言われていることである。
…測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。(6節)
6節もこのままでは分かりにくい。アメリカの現代語訳の中には、測り縄や嗣業という言葉は使わないで、分かりやすく How wonderful your gift to me, how good they are.(あなたの賜物は私にとってなんと驚くべきものであろうか。それらは、なんと良きものだろう)と訳しているのもある。
測り縄、それは、測量するときの道具である。土地を測量して適切な分量を分かち与えるイメージがここにある。神がこの世のさまざまのものを測って、自分に最も適切なものを分け前として下さった。それが神ご自身なのであった。それゆえにこの詩の作者は、私には
何とすばらしいものを神が測りとって下さったのか、と深い感謝を捧げているのである。
神を知るまでは、たいていの人は、自分に測りとられたものに満足していなかったであろう。例えば、病気であったり、あるいは能力不足、またいやな人間関係や家族、不適切な仕事等々、そんなものが運命によって測りとられて自分にあてがわれたと不満な気持ちを多く抱えていたであろう。
しかし、ひとたび深く神を知ったときには、そうした不満が薄れていき、眼前に神ご自身を自分への分け前として下さるという想像もできないような分け前を測りとって下さったのに気付くのである。この詩の作者はそうした深い感動を記している。
… わたしは主をたたえる。
主は私の思いを励まし
私の心を夜ごと諭してくださる。(7節)
神がとくに私のために、測り縄で測って良いものをくださったということを実感したら、確かにこのように賛美の心があふれてくる。
詩篇を少し時間をかけて、当時の作者の心の奥の深いところまで、私たちも努力して入っていこうとすると、作者たちは、本当に豊かな世界を与えられた人たちなのだと分かってくる。
昔は今のように電灯がない。電灯がないということは夜が非常に長いということである。昔はガラス窓などなかったから、ふだんでも室内は暗く、冬であれば、夕方の四時半にもなったら室内はもう暗くなるはずである。長い夜の時間に、本やテレビ、ラジオなども一切ない世界では、明かりがないので仕事もできないので、神との交わりを持とうとする人は、夜ごとに神様からの語りかけや励ましを聞いていたのがうかがえる。
最近朝六時ごろラジオを聴いていたら、アフガニスタンではさまざまな状況から、勉強するのが困難なため、支援を受けて日本で勉強している人の話があった。来日してまだ一年しかたたないのに、すでに日本語を大方話せる。アフガニスタンでは夜でも一、二時間しか電気がつかないので、夜でも電気がついて勉強ができるのがびっくりしたと言っていた。
私たちにしたら信じられないようなことである。アフガニスタンへ帰ったらどうするのかと聞くと、月の光ででも勉強がしたいと言っていた。私たちとは発想が違う。
アフガニスタンに住んでいたある日のこと、夜中に大きな爆音がしたので外に出てみたら、隣の家が粉砕されて家族みんなが死んでいたと言っていた。そのような状況から日本に来た人であった。貧しさというものは一方で真剣さというものを生み出す。豊かになったら電気がつくのは当たり前になって、私たちの中で夜に電気がついてありがたいと思う人は一体いるだろうか。みんな慣れっこになって、恵みと感じられなくなっている。
このように夜の長い貧しい時代においては、神が夜毎に話してくださるというのは、本当に大きな恵みであった。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいて下さるゆえ、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。(8~9節)
私たちは何を自分の前に置くのか。病気に苦しめられているときには、おのずから日ごとにそのことが思いの中にある。
また、家庭や職場、人間関係や、仕事のこと、将来のことなどの心配ごと、また遊びや飲食などに関することであることが多いであろう。
この詩の作者の時代にも、病気になっても医者にかかることもできないし、仕事の面でも体を使っての力仕事が多く、自然災害に大きな影響を受けるし、戦争などの混乱もしばしば生じていた。いつの時代にも、そうした目先の問題が私たちを悩ませている。
しかし、そのような中にあってもこの詩の作者は、まったく異なるものを見つめつつ、生きていたのがこの詩の言葉からうかがえる。
いつも神が自分のそばにいてくださるので、揺らぐことがない、動かされないという確信。キリスト者であっても、人間はちょっとした一言で動揺する。地震対策は繰り返しマスコミで言われているが、心の動揺の対策はまるっきり言われない。
しかし心の動揺をなくすような強固な拠り所を持つことこそが、地震のあるなしにかかわらず重要なことである。
私たちの心が揺らがないようにするにはどうしたらいいのか。それは主が私たちの右にいてくださることによって可能となる。右というのは、力の象徴であり、私たちの力の根源として主がともにいてくださるということである。
そのときには、魂の動揺のために不安、心配といった気持ちでなく、喜びが湧いてくる。生き生きしたものが生じる。そのような心の世界がこの詩からうかがえる。
この作者は、神様がすぐそばに生きておられるのを実感しつつ、神からの教えや戒めなどを受け取ることができた。神との霊的な交流、会話ができていたゆえに、旧約聖書の時代にいながら、はるか後に実現するような復活の信仰への萌芽というものが早くも啓示されていた。
あなたはわたしを陰府(よみ)に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。(10~11節の一部)
神は、「わたしの魂を陰府に渡すことがない」というのは旧約聖書の世界では画期的なことで、人間は死んだら暗い陰府の世界にみんな行ってしまうのだ、復活などないというのが一般的で、キリストの時代になってもサドカイ派たちは復活などはないと言い張っていたぐらいである。
しかし、この詩の作者は、このように神との近い霊的な交わりを与えられていたために、何百年という時代を飛び越えて、自分は死によっても暗い何の希望もない闇の世界である陰府には行かないのだと知らされていた。
永遠の命、命の道があると啓示されていたのである。
そして永遠の喜びを右の手からいただくとある。この詩の作者は今から2500年も越えるような遠い昔に、神の力を与えられ、神との交わりや喜びやさまざまなものを得ていたのだとわかるが、それは驚くばかりである。
聖書の世界は、日本人の大多数においては閉じられている。しかし、その世界への扉を開いて入っていくと、全く違う世界があるのを知らされる。そこでは、このような神との深い交わりなどを経験された人の精神、魂の世界が待っている。
…あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。(11節)
この作者は、神をいつも自分の前に置いていた。そこから満ちあふれる喜びが与えられた。また神の力を受けるときには、永遠の喜びへと導かれる。
この詩は短いながら、内的世界の豊かさというものが記されている。こんなに豊かな世界に私たちもまた招待されているのである。この豊かさを与えられるために、この詩の冒頭に置かれていた言葉、「神よ、守ってください」という祈りを私たちも絶えず持っていることが必要となる。神の絶えざる守りがなかったらこういう世界を受け続けることができない。うっかりするとわたしたちも別のものへ誘惑される。
この詩の最初にある、「神よ、守って下さい!」という切実な願いは、この詩の最後に記されている喜びに満ちた世界への門なのであり、絶えず目を覚ましてこの祝福された世界を求めていきたいものである。
神曲 煉獄篇第29歌
地上楽園において
煉獄の山を神から遣わされたローマの詩人ウェルギリウスによって導かれ、地上楽園に至ったダンテは、そこに不思議な川が流れているのを知る。すべての悪しきことを忘れさせてくれるーあたかも存在しなかったかのようにしてくれるレーテの川であった。そしてその川のほとりを一人の女性マチルダが歩いてくる。
その時、その女性は愛に動かされている者のように、賛美を歌い始めた。
それは、「ああ幸いだ、その罪を覆われた者は!」という聖書の詩篇第32篇(*)からの賛美であった。
(*)詩篇32篇より。
いかに幸いなことか。罪を赦された者は。
わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに身体が朽ち果てるほどになった。
御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあった者のように衰えた。
わたしは罪をあなたに告白した。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。
あなたは、わが隠れ場。
救いの喜びをもって私を囲んで下さる。
主に信頼する者は慈しみで囲まれる。
この詩篇は、とくにキリスト教信仰の根本にかかわる重要な内容を持っているために、歴史的にも多くの影響力のあった人たちにも深い印象を残してきた。詩篇全体の中でも悔い改めを深く表している七つの詩篇にも含まれ、アウグスチヌスはこの詩を最後の病床の壁に貼ってあったとのことである。
人間は精神的動物であり、その人間の根本は心にある。その心の問題の最終的な解決とはその心の汚れや不正からぬぐわれることである。それが罪の赦しであり、清めである。
この心の改革があってはじめて、人間がなすことも祝福されてすすんでいく。それゆえに、キリストも罪の赦しのために、この世界に来られたのであった。
そのような内容を持つ詩が、この清められた者が到達する地上楽園で歌われた。それは、この32篇の後半に見られる罪からの解放の喜びの世界がこの地上楽園にふさわしいものであったからである。
その賛美を歌っていたとき、マチルダは、突然言った。
…わが兄弟よ、見なさい、耳を傾けなさい!
たちまち、そこには光が大いなる森の四方八方を駆けめぐった。
それは稲妻のようであった。そしてさらにその光は輝きを増した。マチルダの賛美に続いてこの強い光が現れたのである。このことは、暗示的である。私たちにおいても、罪赦され、清められたときには、やはり天よりの光が感じられるようになるからである。主イエスが私はいのちの光、と言われたが、主イエスによって魂の根源が清められたときには、そのイエスの光がそこに与えられるからである。
そして、その光に満ちた大気に、新たなうるわしい(dolce)音楽が響きわたった。(*)
(*)ここに、この箇所の直訳と原文、英訳を掲げる。
一つのうるわしいメロディーが走った
光の大気を通って…。
E una melodia dolce correva
per l'aere luminoso;
And a sweet melody ran
through the shining air;
この響きわたった音楽の性質を表す「うるわしい」と訳された原語は、dolce(ドルチェ)である。ダンテはこの言葉を神曲で多く用いている。煉獄篇だけでもその派生語を合わせて50回余りも用いられている。また天国篇でも40回余り現れる。(「A CONCORDANCE TO THE DIVINE COMEDY」による。)
煉獄や天国での清められた世界、愛に満ちた状況を表す言葉として、この語の持つ多様性がふさわしかったと考えられる。
ドルチェとは、英語のsweet に相当する言葉で、甘い、心地よい、香りよい、蜜のある; 優しい、柔らかい、温和な、穏やかな、物静かな、新鮮な…など多様な意味を含んだ言葉である。
翻訳というのは、こうした多様な意味から一つの訳語を採用することになるから、原語のニュアンスが場合によっては大きく狭められることがある。
日本語の訳を以下に書いておく。
・さらに一のめでたき旋律は、明るき大気をわけて流れぬ。(生田長江訳 一九二九年新潮社刊)
・また一のうるわしき声 明るき空を分けて流れぬ。
(山川丙三郎訳 一九一四年訳 岩波書店が戦後復刊)
・光に満ちた大気をつんざいて喨々の楽の音が走った。
(平川祐弘訳 河出書房)
・やがてうるわしい楽の音が、光り輝く空くまなくとよもす。 (寿岳文章訳 集英社 一九七六年)
・すると甘美なる旋律(メロディア)が 輝く空を貫いて馳せた。 (中山昌樹訳)
・すると一つの美しい声が明るい空を縫って流れてきた。
(野上素一訳 筑摩書房 一九六一年)
このように、さまざまの訳語、表現がなされているのがわかる。ここの情景は、後に続くエバに対する義憤から見て、ダンテのとくに喜ばしい霊的な体験をあらわしていると考えられるので、さまさまの訳語、訳文をあわせて掲載した。
重要な言葉、表現であるほど、一つの訳語や訳文だけで原著者の感じ方、考え方を決めることができないということを示すためである。
これは単なる言葉の問題に終わるのでなく、こうした光や音楽を内に持っているということは、私たちが悪の力に誘惑されないための不可欠な力となるのであって、毎日の生活での実践的な問題につながっていく。
地上楽園においては、このように音楽と光がその世界を象徴的に表している。私たちの魂においても、魂が清められ、神と結びつくほどに、光と清いメロディーが流れるようになるのであろう。詩篇の最後の方では、絶えることなき賛美、ハレルヤ!
がこだましているが、それはこうした魂の到達点を暗示するものとなっている。
ダンテはこの霊的な音楽と光に満ちた体験をしたとき、人間をこのような清い喜びから妨げた罪の力への強い憤りが生じてきた。それは聖書ではエバがまずサタンの誘惑に負けたゆえに、こうした霊的楽園の世界から放逐されたと記されてている。
そのエバの罪で象徴されている深い罪が人間のなかに入り込んでいる。それゆえに、私たちは清い喜び、魂の平安を味わうことができなくなっている。しかし、キリストを信じてその力によって私たちはそのもとの幸いな世界へと導かれるのである。ダンテの罪への憤りがここに強く表されている。
このとき、私は義憤にかられ、エバの浅はかなわざを責めた。
彼女が、甘んじて御旨のままに従っていたならば、
私はすでに、またもっと長くこのような言葉で言い尽くせない
喜びを味わったことであろう。(22~28行より)
エバの罪を指摘することによって、罪の力、人間を真の幸いから引き離そうとする悪の力そのものへの強い憤りをここに記したのである。
その麗しい音楽が次第に歌となっていった。そしてダンテはこれから先の記述にあたって、詩の女神に助けを求めている。これは、女神というものを信じていたということでなく、本来言葉で表せないような状況を表そうとしていることであり、ダンテが霊的に示されたことを少しでも適切に表現したい、そのためには自分の力を超えた神の力を与えられねばできないゆえに、天来の力を待ち望むという切実な願いを、このような詩的表現を用いて表しているのである。
このような詩作でなくとも、他者に真理を伝えたいと願って書く文章、音楽や絵画、あるいは具体的なよき決断、正しいことに向けた行動、霊的な向上など何にしても、私たちが現状からより高く、より前進していくためには、すでに与えられている力ではとても不足であり、新たな力を願い求め、与えられねばならない。
ダンテが聖なるメロディーと光に接したのちに、見えてきたのは、聖なる行進であった。先頭には、七本に分かれた燭台があり、そこにともしびが燃えていた。そこでも新たな賛美が響いてきた。
それは、ホサナの歌声であった。その賛美は、主イエスが小さなロバに乗って十字架にかけられることを覚悟して、エルサレムに入ったときに、人々が上着を脱ぎ、ナツメヤシの葉をもって、イエスを迎えたことが引用されている。
… なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12の13)(*)
(*)ホサナ の本来の意味で用いられているのは、詩篇118の25「救ってください!」。ホサナとは、ヘブル語の本来の発音では、ホーシーアー・ナー となる。ホーシーアーとは、ヤーシャー(救う)という動詞の命令形、ナーとは、「今、さあ」といった意味であるから、本来は「今、救ってください!」という意味である。ホサナの原意から次第に、歓迎や喜びを表す間投詞のような意味で用いられるようになった。
ダンテが見たこの燭台の輝きは、ふつうのろうそくのような弱々しい光とは全く異なっていた。それは、澄み渡った夜半の満月よりもはるかに明るく輝いていた。
その強く輝く7本の燃え輝く炎に続いて、一続きの真っ白い衣を着た人たちの列が続いているのが見えてきた。そして燃える炎はこれまたふつうのろうそくのようなものでなく、その炎が後ろの大気をおどろくべき美しさで彩りつつ長く後ろに尾をひいていた。それは大気のなかを七色の光のすじが流れているようであり、動く絵筆のようであった。
神のいのちの光はこうした性質を持っている。燃えるともしびはそれだけで終わらず、さまざまの色調を後に残し、はるか遠方の見えないあたりまで続いていたのである。
…これらの光の旗のごときもの、
わが眼の及ぶかなたはるかへと流れたなびいていた。(79~80行)
このことは、キリストの命の光を受けたのは、はるか千二百年も昔のキリストのともしびが、歴史の中をこのようにさまざまの色合いをもって流れていくのを思わせる。
私たちもまた、キリストのともしびから生じたさまざまの色合いの光を受け、それぞれが個性を発揮しつつ新たな光として受け止め、力を受けて歩み始めたのだと言えよう。そして私たちが主から受けた光もまた、そのように自分だけで終わらず、後にさまざまの色調を持ちつつ周囲の空気の色を染めつつ後方へ、後の時代へと流れていく。
さらに、美しく彩られた大空の下を、次には24人の真白き服をまとった長老たちが続いてきた。彼らは、完全に清められたシンボルである百合の花を冠にしていた。
さらにそのあとには、緑の冠をいただいた四つの生き物が続いた。そして彼らは それぞれ六つの翼を持っていたが、その羽の一つ一つには眼がたくさんついていた。
緑の冠、その緑という色は希望の象徴である。そして、翼は、自由を表し、この四つの生き物は神とともにある自由を持っていたのだということである。
そして、この四つの生き物とは、四福音書を表していると受け取られている。福音書とはキリストが何を行い、何を教えられたか、が記されている。キリストを写し取ったものとも言える。それゆえ、キリストが完全な自由を持っていたゆえに、それを翼で表しているのである。さらに、キリストご自身は神と等しい存在であったから、神の万能をそのまま持っておられる。それはすなわち、あらゆるものをすべて見抜くことであり、距離や時間を越えて見ることのできる力を持っておられることを意味する。
それが、翼の羽に一面に目がついていたということの象徴的意味であると考えられる。
こうした一見不可解な記述は、黙示録やエゼキエル書の強い影響を受けてなされている。その黙示録には、エゼキエル書からのはっきりした影響が認められる記述がある。(*)
これは、預言者エゼキエルが受けた啓示が重要であるからこそ、神は黙示録の著者にもかさねて似た啓示を与えて、それらを読む人たちに強いメッセージを送っておられるのだと受け取ることができる。
(*)エゼキエル書には次のように記されている。
…北の方から激しい風が火を発し、周囲に光を放ちながら、吹いてくる。…その中には四つの生き物の姿があった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。…また、その生き物の傍らに一つの車輪が見えた。その車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目が付けられていた。(エゼキエル書1の4~18より)
また、黙示録には、次のようである。
…私が見ていると、開かれた門が天にあった。天に玉座が設けられていてその玉座に座っているお方がおられた。…その玉座の中央とそのまわりに四つの生き物がいた。前にも後ろにも一面に目があった。…この四つの生き物にはそれぞれ六つの翼があり、そのまわりにも内側にも、一面に目があった。…(黙示録4の1~6より)
ダンテにもエゼキエルや黙示録の著者と同様な啓示が示された。これは強く印象に残っていることが重要であればそれを神が用いて、さらにその印象を強めるために、似た内容の啓示を見させたのだと受け取ることができる。
こうした四つの生き物に囲まれ、一頭の特別な動物の姿(胴はライオン、頭部と羽はワシ)をしたグリフィンといわれる生き物にひかれて二輪の車が進んできた。
この生き物とは、キリストを表している。ワシは王のシンボルであり、胴もライオンでやはり王を表している。そしてその胴体は赤と白であったが、それはキリストの流した血と、完全に清い存在であるのを示すものであった。
さらにその翼は、まっすぐ上空に向け、目に見えない空のかなたへと伸ばしていた。これは天の神のもとへと復活したことを表している。
このように見えてくるものがすべて、キリストとそれにかかわることを意味しているのであった。十分な清めを受けたものに見えてくるのは、キリストにかかわる奥深い象徴的なものが次々と開かれていくということなのである。
そして、そのような驚くべきもので満ちた列が進んでいるとき、また新たな光景が開けてきた。
それは、三人の天女たちが腕を組んで舞いながら進んできたのである。
一人は、火の中にいれば見分けがつかないほどに赤く、もう一人は、緑の宝石のような深い緑色、残る一人は、降ってきた新しい雪かと思われるほどの純白であった。
これらは信仰、希望、愛という三つのいつまでも続くもの、最も大切なものを象徴的にあらわすものであった。愛は赤い色、それは燃えるような情熱であり、また火のような力であるゆえである。
緑はすでに出てきた四つの生き物の冠の色と同じであり、命に満ちた色、希望をあらわす色である。そして、雪のごとき白は、いかなる汚れもない完全な清めを表している。
そして、あるときには、白があるときには、赤の天女が音頭をとって他の二人がその歌に合わせて歩みをはやめ、あるいは遅くするのであった。それは、私たちの人生の歩みにおいては、ときには信仰が土台となって、希望をうみ、またその信仰に従って愛が与えられ。そしてまたあるときには、神の愛がもとになって信仰を強め、また希望も新たにするといったことを暗示している。
この一連の行列に続いて、二人の老人が従っていた。そのうちの一人は医者であり、使徒言行録の著者であるルカを意味し、またもう一人は、鋭い刃先をもった剣を持っていた。それは、使徒パウロであった。
パウロがなぜ、そのような剣を持っていたのか。これは、パウロ書簡のなかに記されている言葉に由来する。
…霊の剣、すなわち神の言葉を取れ。(エペソ書6の17)
神の言葉を最も深くかつ多く聞き取ったのは、パウロであった。それゆえに、彼が受けたみ言葉が書簡という形で最も多く新約聖書に含まれているのである。
そのために彼は、神の言葉たる霊の剣を持った者として描かれている。それはまた、二輪の車で表されている教会が霊の剣をもった戦う教会、すなわち、この世の悪の力と霊的に戦う集まりであることをも暗示している。
さらに、その後には、つつましい身なりをした四人が続きーこれは、新約聖書で分量の少ない書であるヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダの書の著者たちを示すー、さらに最後には、表情の鋭い一人の老人が従っていた。それこそは、黙示録の著者であった。
このように、地上楽園において次々と現れたのは、キリストであり、また福音書の著者であり、さらには最も重要な信仰、希望、愛であり、残りの新約聖書の書簡の著者などであった。
これによって神の言葉がいかに重要であるかが示されている。
なぜこのようなわかりにくい記述かあるのか。それはエゼキエル書や黙示録にあったように、現実の世の中は混乱と悪がはびこり、どこに神などいるのか、神の清さや力、その愛などあるのか、という疑いを持たせるようなことが至るところにある。
そして良きものが悪によって滅ぼされたり、苦しめられたりすることがいつの時代にもたくさんある。
そのような闇と混沌のただなかにあって、私たちの霊的な目が開かれることによって、荘厳な神の世界、清くうるわしい世界が厳然として存在するのだということを示すことにあった。
そうした確信を提示することによって、その世界に触れる者は確かに新たな力と確信を与えられていく。悪の支配でなく、この世を超えたところで、キリストがあらゆる力をもって御支配され、その啓示である聖書、すなわち神の言葉はいまもなお力強く世界を支配しているのだということを世界に向かって発信しているのである。
「いのちの水」誌 第六〇〇号の感謝」
「いのちの水」誌がこの二月号で、六〇〇号となった。
この小冊子の創刊号は、太平洋戦争後十年余りを経た、一九五六年四月であった。それから、五十五年という歳月、「はこ舟」そして、二〇〇五年の一月号から「いのちの水」と改称した後も続いてきたのは、ひとえに神の助けと導き、そして多くの方々による祈りや協力費(献金)であり、またこの小冊子を福音伝道のためにと用いて下さる方々の支えによるものである。
最初の編集者は、太田米穂(編集期間 一九五六~一九六五年)、次の編集者は、杣友豊市(編集期間一九六五年~一九九三年四月号)、そして現在の吉村孝雄は、一九九三年四月号から著者・編集者となっている。(編集交代時の四月号のみ共同編集)
私は、一九六八年に京都の大学を卒業して、理科教育をしながらキリストの福音を伝えるという目標を与えられ、そのために高校教員となり、半年後に徳島に無教会のキリスト教集会があるのを知らされて加わった。
初めて参加した徳島のキリスト教集会は、五人前後の人が集まっており、月に一度の集会をしていた。そしてその次に参加したときに杣友さんがひとり言のように言われていたのを思いだす。
…「はこ舟」をもう止めようと思うことが何度かあったが、神様から、止めるな、と言われて続けている…。
自分で自分に言い聞かせるような静かな口調で言われたことが今も記憶に残っている。
私が初めて「はこ舟」誌に投稿したのは、その二年後、24歳のときで、1970年6~7月号 (第159号)「社会的平和と心の平和」その次の号には「ストア哲学とキリスト教の相違について」などを書いた。
1972年、 転勤した二つ目の勤務高校では、すでに決定していた教務係から強く希望して図書課に変更してもらい、そこで図書紹介というかたちで校内の教職員と私が教えている生徒たちに印刷物を配布し始めた。
その月刊の図書紹介がキリスト教書に偏っているとの批判を受けたために(キリスト教以外の親鸞の書や宮沢賢治、論語、プラトンなどの書も紹介していたにもかかわらず)、自費で輪転機や用紙を購入し、教職員や生徒たちに贈呈するということにした。
そのような定期的な印刷物の重要性をますます強く感じるようになり、1975年5月に杣友さんと話し合って、それまでの「はこ舟」が隔月発行であったのを、毎月発行とし、原稿と費用を杣友さんと私とで半分ずつ負担しあって発行していくことになった。
その時の書いた原稿のタイトルは、「未信仰の友への手紙から」、「憲法および教育基本法の宗教観への疑問」などで、その次の号には、「科学と信仰」、「定時制高校での勤務の中から」などを書いている。
その後、杣友豊市さんと、18年ほど、ともに「はこ舟」にかかわることになる。杣友さんは「はこ舟」誌8頁のうちの半分弱の原稿を書くのに力を注いでおられた。
書いては消しを繰り返し、不要な部分をはさみで切り取ったり、別のところに貼り付けたり、苦心して原稿を書いておられた。 私は原稿を書いてそのまま原稿用紙で杣友さんに渡しておいたら、それを杣友さんが取捨選択して掲載されるという方式だった。編集の苦心は杣友さんが一人でなさっていた。私は一度だけ、杣友さんから「もう少し文章は練って書いたほうがよい」と言われたことがある。私は次々と書いてそのまま大して推敲もせず、文章表現などもあまり考えないでいたので、そのひと言が心に残った。しかし、20年近く「はこ舟」に共に原稿を書き続けて、注意されたのはただその一度だけであった。
「はこ舟」の創刊号には、次の聖句が巻頭に置かれている。
…人われに向かいて、いざ主の家に行かんと言えるとき、我 よろこべり。
エルサレムよ、われらの足はなんじの門のうちに立てり。(詩篇122の1~2)
とくにこの聖句が選ばれたのは、創刊した「はこ舟」誌が、ともに主の家に行こうとする呼びかけをその使命とするという方針であることを暗示するものと思われる。
キリスト教はつねに共同体として歩むという特質を持っている。互いに愛し合え、互いに祈り合え、互いに足を洗い合え、互いに励まし、教え合え…等々の言葉が聖書に見られる。
ともに遠くからエルサレムに向かって、その神殿にて神と出会うことを願ってはるばる旅をしてきた。そしてようやく到着した、という喜びがこの詩から感じられる。
それと同様に、「はこ舟」誌によって、ともに御国へと歩み、ともに御国の門へと到達できることを願っての刊行だという願いがここに感じられる。
それは言い換えると、救いの船にともに乗り込もうという呼びかけである。そしてこの願いは600号を迎えた現在においても変ることはない。
人間は弱くて力なきものであるが、ひとたび神とキリストに結びつくときには、驚くべき力を発揮する。パウロもキリスト教の真理が分からなかったときにはそれを滅ぼそうと無益な努力をしていたのであるが、ひとたびキリストに受けいれられたときには、世界の歴史に大いなる変動をもたらすほどの力を彼の書いた手紙が発揮したのであった。
神の国とは何かが全く分からなくて人生の荒海で沈もうとしている人、あるいは暗黒の森で迷い込み力なくし、疲れ果ててもう歩けないといった状況の人、あるいは突然の事故、重い病気などのためにそのまま滅びていこうとする人たち、そのような人たちにキリストを指し示し、ともに御国に向かって行きましょうと呼びかけること、それはとても大切なことと思う。
じっさい、当時の主筆であった太田米穂は次のように刊行の目的を最初に書いている。
…私どもは、今 ノアの時代にも劣らぬような堕落した世界の中で生活し、この世の人と同じく悪の道を歩いている以上、私どもはどうしても自滅する他に道がありませんが、ただ一つ幸いなことは、イエス・キリストを信じることによってのみ、神さまの前に正しい人であると認められ、その救いのはこ舟に助けあげられることが約束され、この世の終わりの滅亡のときがきても、キリストの恵みによって新天地に住まう資格が与えられるので、私どもはノアのように正しい人でなくとも、ただ、キリストの名を信じるだけで、正しい者と認められる。
これがすなわち、真の福音というのであります。
それゆえ、この救いの「はこ舟」に早く乗り込んで、まさに来たらんとする恐ろしい滅びの世界から救いだされるように、みなさんにお知らせする手紙代わりのプリントの名と致しました。
わたし共はこの新天地に住まうべき望みを確信し、まだ見ぬその事実を確認して、一歩一歩それがまことであることを聖書と日々の生活から体験しつつ、前へ前へと進むのであります。(「はこ舟」創刊号
1956年4月8日発行)
「はこ舟」誌の発刊と関わりのあるのは、矢内原忠雄である。「はこ舟」創刊は1956年4月であるが、その4月の20日に矢内原忠雄が、大学関係の会に参加のため初めて徳島を訪れ(最初で最後の訪問であった)、徳島の無教会集会主催の集会で講話をされた。
「はこ舟」のレイアウトは、矢内原の出していた「嘉信」という月刊の冊子にならって作成されている。そしてその矢内原忠雄の講演を聞いてまず心に浮かんできたことを、書き綴ったと、「はこ舟」の編集者であった太田は、次のように記している。
…はこ舟を造ろう、はこ舟を造ろう!! 一日も早く、一人でも多くのノアが出現すべきだ。そしてこのはこ舟に乗り込むべき人々を探して行こう。…
滅亡から救われねばならぬ時は今である。その救われるべきはこ舟はどこにあるか?
イエス・キリストのエクレシアに、その家族として乗り込む以外に道はない。
もちろん我々は、そのエクレシアのはこ舟に乗り込むことだけで終われりとする者ではない。
この世の滅亡から救われるためには、神に祈ると同時にその十字架を負い、いのちをかけて働かねばならない。(「はこ舟」第2号6頁)
また、この第2号には、杣友さんも短文を書いている。
それは、つぎのような内容である。
…敗戦後4、5年ほど経ったころ、徳島の結核療養所に折々訪ねていた。そのときに数人が病室の一室で聖書の会をしていた。それに加わっていた人が郷里の病院に転院した。その地では信仰の友もなく、また家族も老母を残して次々と失われていたが、とうとうその老母さえもなくなった。
その後、なんとか病気はいやされて仕事につくことができたが、信仰のみちびきがなかった。それで矢内原忠雄が発行していた「嘉信」を何カ月分かを送った。それによって支えられたという。その感謝のしるしとして、はこ舟協力費を送ってきた。
「嘉信」は、8頁の身軽さで社会のすみずみまで入り込んで友なき者の友となり、導く者のない信者をも導いて、一人立ちの地を養ってくれるので有り難く思っている。…
このように、太田さんも杣友さんも福音を何とかして伝えて、初めての人が救いを得るようにと心を砕き、またすでに信仰を与えられている人がその信仰を失わないようにとの主にある配慮をつねになしていたのがうかがえる。
はこ舟はこのように、創刊のはじめから、み言葉を伝える福音伝道ということを主眼としている人たちによって支えられてきた。
それは自分がいろいろな書物を読んで研究したから、それを発表するとか、自分の知的探求を他者に知ってもらいたい、という姿勢とは大きく異なっている。
キリスト教の福音が世界に伝わっていくようになったのは、人間の研究心とか学識によるものではなかったし、単なる人間的決意でもなかった。
そうしたものはしばしば誇りとか、そうしたことができない人たちを見下すといったひそかな心情が伴いやすい。
福音伝道の出発点は、すべての人間的なものが打ち砕かれたときに注がれた聖なる霊にあった。キリストの弟子たちが、主イエスを見捨てて逃げ去り、ペテロは三度も主を知らないといって否定したという大きな挫折から、待ち望んでいた聖霊が注がれることによって初めて福音を伝える力が湧いてきた。
そしてその福音とは、キリストは私たちの罪のために死なれた、そして復活した、という単純なものであり(*)、学識や研究、あるいは人生経験といったものとは関係なく語ることができるものなのである。
(*)使徒言行録2章24~33、3の15、4の10、33、5の30、32、10の40~43 、13の30~39 他。
この「はこ舟」の創刊に重要な刺激を与えたと考えられるのは、その創刊より6年前の一九五〇年一月に、堤 道雄が徳島にて「真理」というキリスト教の伝道冊子を創刊したことである。それは、堤が徳島学院に赴任して二年がすぎたころであった。彼は、三年近くの間徳島に住んでいたから、一九五〇年十二月までは、徳島の地で「真理」が発行されていたのである。
この「真理」誌が、「はこ舟」創刊のためのさきがけとなったと言えよう。
そして、現在の徳島聖書キリスト集会の原型である「徳島聖書研究会」が、その堤道雄によって一九四九年六月に創立されている。(「真理」創刊号 一九五〇年四月刊による)
この徳島聖書研究会が、堤が3年後に徳島を去ってからも継続され、そこから「はこ舟」も生まれ、「いのちの水」誌となっていったことを思うとき、堤の果たした役割は大きなものがあったのがわかる。それは彼もそのようにして、徳島の地で発刊した聖書冊子が、別の形で生まれ、以後半世紀を越えて継続されていくということは予想していなかったであろう。
神は人間の想定を越えてその御計画を実現されていくのを感じている。
「いのちの水」誌 六百号に寄せて
垣塚 千代子
「はこ舟」(現在は、改称して「いのちの水」)の創刊から、六百号を迎えるという。編集責任の方は三氏にわたるが、一貫して信仰(のみ)による救い、福音宣教の営みが、今日まで半世紀を越えて祝福されてきたことに、驚くとともに大きな喜びを覚えている。感謝一杯!
「はこ舟」創刊は一九五六年であるが、すでにその七年ほど前から「徳島聖書研究会」の名において、小さな群れながら月に一~二度の集まりを重ねていた。この会の代表は、太田米穂さんで、その補佐は杣友豊市さんー常に二人は一体となって私どもをリードして下さった。
横浜から堤道雄さんの徳島学院長着任と、彼の紹介で政池仁先生や、黒崎先生の来徳などもあり、無教会という名称や、その信仰が徐々に浸透していくスタート間もない小さな群れであった。
そこには、教会員であった人、内村の信仰によって確固たる救いに預かった人、五里霧中の若者たち、といった方々が加わっていたが、リーダーの方々は伝道に並々ならぬ力の入れようで、私どもを手引きしてくださった。
太田さんはそういう中で、十字架の福音の種をもっと積極的に蒔き、伝道の充実とひろがりをずっとあたためておられたのであろう。その年の二月ごろ、「文書による伝道」をある日の集会の後で提案された。
この時、同席していた杣友豊市さんから、穏やかではあったが、次のような応答があった。
「近頃いろいろと信仰の小冊子が出ているのだが、じっさいに読まれているかどうか、大方はごみ箱に捨てられている、それほどに人は読まないもんです。反故になる心配がありますからなあ…」と。
杣友豊市さんが、そうした月刊の印刷物の創刊に対して反対意見を表明されたのが意外であったことを覚えている。
杣友さんは、大工という職業にたずさわりつつ、休日には徳島市から二十キロ余りの遠い徳島療養所に足を運んで重症の方の枕もとに寄り添い、永生を語り、讃美歌を歌い、病床にある方々に安らぎをもたらそうとする働きを続けていた。
他方、太田さんは、神学を学び公務員を経て英語の塾で青少年に接して福音を述べていた。それゆえ、杣友さんにとっては、太田さんの提案される文書による伝道に馴染み難いとのお気持ちだったのかもしれない。
しかしお二人は伝道に生涯をかけておられ、一人でも多くの人にイエスの救いをのべ伝えたい、骨身を削ってもという熱意は共通しており、太く堅い結束があり、一致があった。
そして次の集会では、発行に向かって実際上のいろいろなことが話し合われた。誌名は、「はこ舟」に落ち着いた。(創世記3~9章)
この「はこ舟」のなかに入る者が皆滅びから命へ、祝福にあずかるように、「はこ舟」が多くの人々の救いに役だつようにという願いを託して決定された。
しかし、発行していく予算のメドが立たないうちにスタート、その時杣友さんは「神様が何とかしてくださいます。」と確信をもって発言されたのが印象的だった。
「何とかなります」の言葉は信仰の入口に立ったばかりの私にはその意味がのみこめず、「ガリ版でよければ…」と発言したもので、それで第一号はわら半紙二枚のガリ版印刷の質素な第一号が世に出たのであった。
ガリ版印刷の「はこ舟」は一度きりで、二号からは活版印刷となった。
計らずも東京から徳島県の地方課に出向されて来られた横山正夫さん(矢内原忠雄に信仰を学んだ)が、集会に出席されるようになり、その直後の二号からは横山兄によって担われ、印刷刊行となった。「はこ舟」誌のレイアウトは、矢内原忠雄主筆の「嘉信」に準じるものとなった。
杣友さんは一度は「はこ舟」の発行の中止を決意した時機があった。しかし、東京の政池仁からの「はこ舟」の継続発行をするようにとの励ましなどを受けて継続されることになった。そして、その後は、二十八年も「はこ舟」誌の編集に心身を捧げ宣教の役割を遂行し、その後、吉村さんに事後を託されている。器に応じて神は用い給うた。
ハレルヤ!
祝されて六〇〇号を記録するー「いのちの水」誌は奇跡的である。
はからずもその創刊に関わっていたとは何という恵みか…。
神様は、私のようなこの愚かな者をも赦して下さり、主のもと、魂の隠れ場において頂いたことを感謝せずにはいられない。
「パウロは蒔き、アポロは水を注いだ。しかし育ててくださるのは神である。」
今、「いのちの水」誌は、主と聖霊の光の中にきらめいて全国津々浦々に清らかに流れていく。これにいろいろな形で関っていられる方々の、ご愛労、主にあってひたすらなる吉村氏の上にそして「いのちの水」の上に限りない恵がありますように。
「いのちの水」六〇〇号に寄せて
杣友博子
主の御名を賛美いたします。
「いのちの水」誌が六〇〇号を迎えたこと、今、静かに感謝の湧き上がってくるのを覚えます。
誌は福音の使新として、私の身近に、常に新しい力を届けて下さいました。半世紀に亘る御恩恵の中で、私にとって幸いに思うことは、届くメッセージが私の心に具体的に語りかけてくれたことです。難解な書物のようでなく、それは神様の導きの実感でありました。
今ひとつは、神の福音は何処にいても、如何なる状況に置かれている者の処にも、いのちの水となって、訪れて下さるという恩恵の実感。近年の私はそのことをしみじみ思うのです。
どうか神様、
「いのちの水」誌を守り祝福して下さり、今後ともに御用いくださいますように。またその労を共に担っておられる恵美子様はじめ兄弟姉妹を覚えて下さるように。お祈りいたしております。(京都市)
「はこ舟」(「いのちの水」誌の旧名)山梨へ
加茂昌子
私の手許に、一冊の古びた手帳に記された1966年9月22日付のメモがあります。甲府における、三講師によるキリスト教講演会の内容です。最初の講師は、徳島から山梨県警本部長として転勤されたばかりの横山氏でした。
この手帳のメモには、「人を愛することが出来ない」、「生きていることも許されない人間」、「希望を求めていた」などと書かれています。そんな状態だった若き日の横山氏は終戦直後の1946年秋、矢内原先生の今井館へ通うようになりました。
氏は翌年1月26日に先生から、「罪人の救い主」の御話(ルカ福音書7章の罪深い女)を聞かれました。「イエス様は、みんな知っていて下さる。」そして「太陽の光に、氷が溶ける気持」で横山氏は涙を流して己の罪の赦しを体験した、という御話をされました。私は、とても感動しました。
その今井館で1956年のクリスマスに、罪に悩んでいた私にイエス様の愛と、矢内原先生の愛が一つとなって注がれ、あふれる涙と共に赦しを与えられました。私はこの共通の体験を、その講演会で横山氏にお話しました。
そのとき氏は私に、一冊の信仰誌を渡して下さいました。それが、徳島の「はこ舟」だったのです。同誌はこのような経緯で、遠く徳島から山梨の地へはるばる運ばれたのでした。同誌は杣友さん主筆の聖霊にあふれた内容で、難しい信仰誌と違って子育てに忙しい私も毎月楽しみに読ませて頂いていました。
そのうち、母(加藤美代)も友人たちに送りたいと、まとめて送って頂く様になりました。母が召された後も私はその遺志を継ぎ、その方々や更に私の友人ら、集会の方たちにもと、吉村さんに送って頂くようになりました。
横山氏から伺った杣友さんの印象は、握手して大きな手だったという事でした。その大きな手で、皆さまに愛を配られたのでしょう。杣友さんとは、生前遂にお会い出来ないままお別れしました。
しかし1999年に、初めて徳島で開催されたキリスト教(無教会)四国集会に参加しました。その折、杣友さんの三男誠三氏の奥様(杣友博子姉)にお会いして、「ここに父がいましたら、さぞ喜んだでしょう」と言われた御言葉に胸が詰まりました。
吉村さんに受け継がれた「いのちの水」は毎月絶える事なく、わき出る新鮮な水を届けて下さいます。「はこ舟」以来、なんと44年間も、愛のメッセージを毎月送り続けて頂いている事に驚きました。
全国各地の乾ける魂を潤し、慰め励まして下さいます。吉村さん初め集会の方々の御愛労を、心から感謝しています。こんこんと湧き出る「いのちの水」に、祝福をお祈りして!
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「はこ舟」の思い出 藤井文明
私は一九五七年(昭和三十二年)の秋に徳島療養所で肺結核の手術失敗の後、キリスト教のお話を無教会の服部治先生からお聞きし、心の重荷が軽くなったことを、今でも鮮明に思い出します。
服部先生は当時の療養所の無教会の方たちがお招きした先生とおもいます。
私が集会に出席しなかったために、杣友さんには、直接お会いしてお話しを聞いたことはありませんでしたが、療養所内で柔和なお姿をお見かけしたがあります。
元気になって社会復帰してからは、キリスト教に教派があることも知らず近くの教会で五十年余り過ごし、この度、事情があって教会から退会し、徳島聖書キリスト集会に参加させていただくようになりました。
このように導かれてきたのも、一九五七年にキリスト信仰へとお導きを頂いた後、服部先生からは「聖書とキリスト」誌、杣友さんからは「はこ舟」、吉村さんからは「はこ舟」、「いのちの水」誌を、長い期間にわたってお送り下さり、キリスト・イエスの十字架の恵みを力強く、鮮明に解き明かしていただいたゆえと感謝しております。
「はこ舟」~「いのちの水」の愛読者として
中川 春美
私の手元には、「はこ舟」の一九七四年四月の一八〇号からが保存されています。
私は最初から「はこ舟」の愛読者でした。特に吉村孝雄さんが書かれている内容は、目に見えない信仰の世界がよく分かる言葉で説明されていて、もやもやした疑問が氷解していくのを覚えました。
そして、えもいわれぬ魂の世界の美しさ、清さ、高さが目の前に展開され、その世界の元である神様、イエス様に対する憧れで胸が張り裂けそうにいっぱいになった事もあります。
深い深い感動でした。それを共有する事のできる信仰の友も与えられました。「はこ舟」に触発されてたくさんの信仰書も読みました。
最初の頃書いて下さった「科学と信仰」「科学者と信仰」(一九七五年七月・八月・十月・一九七七年四月・十二月など、)という内容も私の心を揺さぶりました。
科学者が信仰をもってどのように現代社会に貢献したかという内容で、科学と信仰は表裏一体のものである事も深く理解する事ができました。そして、信仰は迷信でなく科学と対をなすもので、数学的法則も人間の魂の中で起こる法則も星の軌道の法則もすべて信仰の世界と合致するものであり、この世は神が創造されたので、その法則から外れるものは何もない事を理解する事ができました。何を見ても何を感じてもイエス様と矛盾なく結びつくようになりました。
また、ベートーベンやバッハなど音楽家の事やミレーなど画家の事、賀川豊彦など信仰を持った社会事業家の事も書かれていたり、植物の事、星の事、宇宙の事、また、君が代や日の丸や憲法問題など、ありとあらゆる分野にわたって教示されていて、興味をもって学べる大学のような読み物でした。
より内容と目的に合った誌名として「いのちの水」に名前が変わりましたが、「いのちの水」誌は「はこ舟」という名称の時から、こんこんと尽きぬ事なく私の元に三七年間流れて来て、魂と知性を潤し力を与えてくれました。
この「いのちの水」誌は宝の山だと思います。
私は以前、癌を宣告されて打ちひしがれている人に是非、復活の命、この世だけの命でない永遠のいのちがある事を知ってもらいたかったのですが、自分ではうまく説明できない事に悩んでいました。そこでこの「いのちの水」誌を持参した事があります。このように自分でうまく言えない大事な事を、相手に伝えるという用い方もできました。
これからも、この「いのちの水」誌を主が祝福して下さいますようにと祈ります。
尽きないいのちの流れに 宮田咲子
「はこ舟」から「いのちの水」へ、そのいのちの流れは絶えることなく、2月には六〇〇号になるという。この機会にと一九七五年頃のものを読み返していると、そこを流れているいのちにふれてこの私もまた、まことのいのちの喜びを知らされたのだと感謝があふれる。
主は「人もしかわかば、我に来たりて飲め」と言われた。泉のようにわきでる御霊は、川の流れのようにゆたかになるとのことである。これを信じようとしない者は、浅い水たまりのようなものを飲んで魂のかわきをいやそうとしている。
「主よ私たち及びわが愛する同胞を導いて、尽きないいのちの流れに汲ましめたまえ」
一九七八年四月 二二二号 杣友豊市「かわく者は来たれ」より
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流れるようでありたい、あなたは生命の水が流れているといわれました。心からのことばがそのままに流れ出るようでありたい、いのちのあふれるままに語り、行動して、それがそのまま、あなたの生命の水の流れの中にあるようでありたい。
今もいる。どこかに必ずいる。生きる苦しさに打ちひしがれ孤独と絶望の波にまきこまれ、まさに沈んでしまおうとしている魂が。主よどうかそうした魂のもとへ「はこ舟」が流れていきますように、主の手がのぞみますように。
一九九七年三月 二〇九号 吉村孝雄「器」より
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こんなにも一すじの道がある。一すじの流れがある。よどむことなく絶えることなく歩み続け、流れ続けて、その祈りは六〇〇の実を結んだ。これこそ主の御業に違いない。
○はこ舟を運ぶいのちの真清水の わきて絶えざるとわの祝福
(ささやかな感謝の印に)
徳島市 内藤静代
「はこ舟」に乗せられて 貝出 久美子
わたしが徳島聖書キリスト集会場をはじめて訪れたのは、手話の学びのためでした。信仰の話を聞きたいとか、聖書の学びがしたいといのではなく、ただ手話だけが学びたくて、土曜日にある手話の学びの会に参加していたのでした。
そのころ、ある教会に通っていましたが、心は神様から遠く離れていました。そしてまたそのことに気づいていませんでしたから、聖書を学びたいとは思っていませんでした。でも心は闇で毎日は空虚でした。
手話の学びの時に「火曜日にある夕拝にいらっしゃい」と、そのころ徳島でおられた杣友博子さんが誘ってくださっていましたが「別の教会に通っているので十分だ」と思っていました。
また吉村さんから「はこ舟」誌を何度かいただきましたが、それもわたしは「別の教会に通っているので十分だ」と思い読む気持ちにはなれませんでした。家に持ち帰り、気にとめずポンとどこかにおいていました。
そんなある日、ふとしたことから、「はこ舟」が読みたい、という気持ちになりました。でも、どこに置いたかわかりません。探しました。そして見つけました。マザーテレサのことを書いていました。何となく読んでいくうちに、心が引きつけられました。「ここには本当のことが書かれている」と感じました。そして、この真実が実際にメッセージとして聞けるなら聞きたい。もしかしたら、闇のような心が救われるかもしれない、と思いました。「夕拝にいらっしゃい」杣友博子さんの優しい呼びかけを思い出しました。そして、夕拝に出てみたい、と思いました。
緊張しながら夕拝に行きました。夕拝のメッセージの中で引用されたみことばで、罪の赦しと救いを得ました。一九九七年の十二月。寒い夜のことでした。
「はこ舟」が、手話の学びしか関心のなかったわたしを、夕拝への参加へと導いてくれました。小さな冊子は本当に舟になって、わたしの心を主イエスへと運んでくれたのだと感じます。(徳島大学病院
看護師)
「はこ舟」誌との関わり 那須 容平
今私の手元には、はこ舟(現 いのちの水)誌 第525号(2004年10月号)があります。 私はこの号から、はこ舟の読者となりました。私にとって記念すべき号です。
私が初めてキリスト教とはなんであるかを本当の意味で知ることのできた号です。
(以下、抜粋)
…神を見るとは神の心を見ることである。人を見るとはその人の心を見ることである。…
神を見ることができるのはどのような人と言われているか、それは心に何も誇ったり、頼るもののない人、聖書の用語で言えば、心貧しき人である。
自分の心にすがる気持ちがあれば神への心が育たない。主イエスが「山上の教え」で、言われた、「幸いだ」という一連の言葉は、後のほうに書かれている神を見るということとつながっている。
ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。神の国はその人たちのものである。
ああ、幸いだ、悲しむ人たち。その人たちは神によって慰められるから。…
ああ幸いだ、心の清い人たちは。その人たちは神を見る。
(マタイ福音書五・3~8より)
悲しみを深く抱く者、そしてそこから神を仰ぐ者は、それによって神からの慰めを受ける、神の心がみえてくる、神からの励ましの言葉が聞こえてくるのである。…
この文章を読んで、私の心は高く上げられました。その時の私の心は一番低いところにあったのではないかと思います。私は同時期に、2つの致命的な事柄で、希望の無い状態にありました。1つ目は、環境問題の解決は人間が地球からいなくなることであるという事実です。
ヒルティは「偉大な事柄に生涯を捧げても良いと思える覚悟を持つこと」の重要性を教育の秘訣にあげました。
しかし環境問題(主にエネルギーの問題)に純粋に取り組もうとすればするほど、生涯を捧げても良いと思えば思うほど、いかに自分が無力であるか、人類の抵抗がむなしいことかを痛感させられてしまいました。
これは、生涯をかけようとしていた21歳の私にとって深刻な痛手でした。この時の私はヒルティの言葉は知りませんでしたが、偉大な事柄ということを履き違えていたに違いありません。
2つ目は自分の心の汚さです。いくら道徳的に正しくあろうとしても、心の底ではまったく正反対のことを考え、またその考えから抜け出すことができませんでした。だいぶ長く悩まされていました。
もしこの2つの側面の苦しみが同時に起こらなければ私は、なおも自分の力や努力などに頼りすがっていたかもしれません。
そんな時に、私の思いを知らない母が、カナダのオタワにいた私に送ってくれた荷物の中にあったのが、はこ舟525号でした。
「ああ、幸いだ。心の貧しい人たちは。神の国はその人たちのものである。」
感嘆して、幸いだ!という言われている人は、心の貧しい人たちでした。
私は瞬間的に、「心の貧しい人とは『自分の心には良いと言われるものは何も持っていない』と心底知る人のことだ」と直観しました。そしてその人たちが幸いであると、感嘆している。
その人たちは神の国におり、神の国はその人たちのものだと言われている。神の国とは、なんと、自分が考えていたところと違うところなのだろう。
神の国にまで心が高く上げられた思いでした。
はこ舟では、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(新共同訳)という訳し方ではありませんでした。
もっと力強く、あるいは深く感動して、「ああ、幸いだ。」と原語に忠実に、イエスの心のままに表現されていました。
聖書の言葉がはこ舟を通して生きて迫ってきたからこそ、私の心の底に届いてくださったのだと思います。
堤道雄と「はこ舟」、徳島聖書キリスト集会との関わり
「いのちの水」600号を記念して、ここでは、徳島聖書キリスト集会の出発点となった集会の創立をされた堤道雄のことについて述べ、そのように一人の人間を導き、さまざまのことをなされる神の栄光をたたえたいと思う。
堤道雄は、別稿で記したように、若き日に徳島に来て、わずか3年間であったが後の徳島の無教会のキリスト教伝道において重要な影響を与えることになった。
敗戦後、横浜に帰った堤は、浜松市の戦災孤児収容所などで働いたあと、一九四八年に遠い徳島に渡り、「徳島学院」(*)の院長として赴任し、キリスト教の真理に基づく教育方針で指導を行った。
(*)非行少年(少女)や親が何らかの事情で養育できなくなった子供たちを養育する県立の施設。このような施設は、感化院、救護院などの名称を経て現在は、児童自立支援施設という名称となっている。
堤は、彼のかかわっていた児童救護施設での経験から次のような確信を得るに至った。
…私は救護事業に従事しているものであります。
救護事業とはいわゆる感化院の仕事のことでありまして、不良少年をいかにして善導するかということが毎日の仕事であります。非常に困難で非常に尊い仕事であります。
私の経験はわずかでありますが、社会事業の一端を担って私の得た感想は、信仰をその根本に置かずしては社会事業はあり得ないことであります。
しかし、驚くべし、わが国の社会事業の大半は無信仰、無宗教であります。 これは社会事業に限らず、政治も教育も経済も科学も信仰なくして成長することができないことが解りました。
信仰こそ、すべての根本であること、神の植えたまわないものは皆抜かれること、これは歴史で日々教えるところであります。
ですから、この世において最も根本的なる事業は福音の伝道である、ということができます。
ここに至って、私が学生時代、内村先生の影響を受けて強い回心を経験し、そのとき深く福音の伝道者たらんと決意したことが決して誤りでなかったことを確信しました。
私は社会事業は伝道なりと思って働いています。
けれども、何とかして直接福音の伝道の方法が現在の私にないものかと考えていました。幸い昨年(1949年)6月、徳島無教会主義聖書研究会を作ることができました。…
今度、この小冊子を出すことをふと思いついて始めることにしました。
私は直感を愛し、直感に従って行動することを尊しとします。直ちにわら半紙と原紙を買い、私は原稿を書き、妻は原紙を切って発行することにしました。
ヘブル書には、「信仰によりて、アブラハムは召されしとき、嗣業として受くべき地に出て行けとの命に従い、その行くところを知らずして出で行けり。」(11の8) とあります。
キリスト者の人生は、これだと思っています。
この小冊子の目的は、聖書の真理をいかに純粋に、大胆に、明白に伝えるかであります。世はまさに神の言の飢饉であります。ただ、神の導きのみを祈ります。
(「真理」創刊号の創刊のことば。1950年4月)
堤は、1949年に徳島の地に、無教会のキリスト教集会を創立した。そのとき彼は30歳、ついで翌年の1950年に、伝道誌「真理」を発刊した。その後、勤務先の徳島学院にて、こどもたちの指導に関しての方針がキリスト教だということで、県の教育関係者との意見の対立が生じた。
堤が院長として赴任したのは県立の施設であったが、彼は、キリスト教によって子供たちの心が変えられ育てられることを願って、施設の子供たちと毎朝礼拝をしていた。子供たちは大きな声で讃美歌を歌い、お祈りをしていた。日曜学校もその子供たちとともにやっていたという。
(「真理に導かれて-堤道雄先生追悼文集」166頁などによる。)
このことが、県の当局の知るところとなり、堤は事実上その職を追われることとなって、彼はその年の12月に横浜に帰った。
しかし、彼は落胆失望することなく、翌年、はやくも横浜の父の自宅において、「横浜聖書研究会」を創立した。こうした彼の行動をたどるとき、福音伝道ということを第一に置いていたのが浮かびあがってくる。
また、彼はキリスト教独立学園とも深い関わりを持っている。1970年のクリスマス講演会の講師として参加し、次いで二年後の1972年の建国記念の日の講師として、「建国記念」という休日制定の背後にあるまちがった考え方の本質を知らせ、平和憲法の重要性を学ばせるために信仰のこと、平和、憲法問題などを語ることになり、以後2000年の2月まで28年間にわたって、講師を続けた。
また、北海道の南西部の日本海岸の瀬棚地方においては、1973年から、2000年まで、の27年間にわたって、数日間にわたる瀬棚聖書講習会の講師として奉仕された。
キリスト教独立学園と北海道の瀬棚地方での聖書講話の時期がほぼ同時期であり、体力の続くかぎり、遠距離であっても訪れて、福音と平和を説き続けたのであった。
また、年若い人たちへの伝道にも力を注ぎ、毎年夏の各地での聖書学校(現在のバイブルキャンプ)での講師も続けた。その聖書学校に静岡から参加していた子供たちの父母たちを母胎として、1979年に、石川昌治氏が責任者である静岡聖書集会が開始された。
その石川氏の息子さんが徳島大学に入学されたために、徳島聖書集会との関わりが生まれた。そして、そのこともあって、石川さんが毎年行かれていた熊本の集会に、2000年の12月から、私(吉村孝雄)が代りに行くようになった。
その熊本の集会とは、1985年4月の熊本での集まりのとき、堤が、「熊本でも集会をやりませんか」と勧められて、数人で始めたことに由来するという。(「真理に導かれて」88頁の右田末人氏の文による。右田氏は熊本聖書集会の責任者。)
また、堤が、27年間にわたって夏期の数日間、北海道の瀬棚地方に聖書講話のために赴いていたが、私はその後を継ぐかたちで、2003年から現在まで、8年にわたって瀬棚の聖書集会にてみ言葉を語るように導かれた。
熊本訪問から、大分や福岡、あるいは広島、島根、鳥取、岡山など各地での集会との関わりがひろがり、また北海道瀬棚からの帰途、各地に立ち寄る機会が与えられて、東北、関東、中部、などのさまざまの集会についてもみ言葉を中心としたつながりが与えられていった。
またさかのぼってみるとき、1991年に、地方としては最初の無教会の全国集会が徳島で開催されたが、その無教会全国集会というのは、堤道雄が、無教会の集会に横のつながりが希薄であって、転勤などで各地に赴任した人たちがどこに無教会の集会があるかも分からないといった状況となり、集会に行けないために信仰が衰えたり失ったりすることにつながることを憂慮され、そこからみ言葉の学びとともに全国の無教会のキリスト者たちの交流を強め、そこから福音伝道が強められることを期して、全国集会を提唱された。
その提唱を、無教会で重要な役割を果たしておられた高橋三郎、関根正雄両氏たちも賛同されて、全国集会が始められ今日に至っている。
そのような伝道的視点から始められた全国集会であるが、第4回まで東京で開催、次は大阪で開催という方向であったが、京阪神地域の無教会の信徒の方々は開催する気持ちがなく、私たちの徳島の無教会集会に阪神の一部の方々が参加して全国集会開催は可能だと判断されたことがもとになって、徳島で無教会の第5回の全国集会が開催されることになった。
このように、神が堤道雄をその若き日に、敗戦後の困難な時期においてとくに呼び出し、いろいろな困難を通って、福音を伝えるための僕として立てられた。
それによって、徳島の無教会の集会、「真理」誌の発刊、それに続いてすでに述べたようなさまざまのことが新しく生まれることにつながっていった。
そして、現在もそれらは続けられ、彼の伝道を支えていた「真理の会」は、現在の「キリスト教独立伝道会」となっているし、無教会の全国集会も継続されている。
これらの一つ一つは、だれも予測できたものではなかっただろう。その時そのときにおいて、神が新たな人や集まり、集会を起こし、予想しなかった人が福音のために働くようになって、次々と波及していったのである。
彼は、戦前の若き日、大学の学生時代に内村鑑三を知り、無教会のキリスト者として歩むことになった。
その内村を最初にキリストに導いたのは、札幌農学校に赴任したクラーク博士(*)であり、また彼をキリストの十字架の福音の本当の喜びに導いたのは、アメリカに渡った後に出会った、アマースト大学のシーリー学長であった。
(*)クラーク(1826~1886年)アメリカのマサチューセッツ農科大学長。新島襄の紹介により、日本政府が、来日を強く要請した。
一八七六年に札幌農学校教頭に赴任。わずか八カ月の在任ではあったが、その残した影響は大きかった。
彼が別れるときに告げたという「少年よ、大志を抱け」の言葉は有名である。神とキリストを信じて「大志を抱いた」人たちが輩出した。
内村鑑三や新渡戸稲造たちが最初にキリスト教に触れたのはこのクラーク博士による。公立の教育施設において最初にキリスト教が公然と語られたということにおいても異例のことであった。
しかも、それはキリシタンが明治政府が厳しく禁じていた命令が除かれてからまだ三年しか経っていない時期であった。
これらの人たちがいなかったら、内村もキリスト者にはなっていなかったであろう。そして、これらのアメリカの人たちもまた彼らの信仰をその先人から受け取ったのである。
このように、さかのぼっていくと、ついにキリストの弟子たちに達する。
この二千年という歳月、このようにして、神は次々と必要な人間をその御計画に従って呼び出し、未知の場所へと導き、そして新たな人物をキリストに出会わせ、その生涯をキリストに奉仕させてきたのであった。
私たちは単に過去の人の歩んだあとを調べたり知ったりするだけでは単にその人の知識欲を満たすだけで、大した意味はない。
そこから、過去を導き、今も生きて働いておられる神とキリスト、そして聖なる霊のはたらきを深く知り、さらにそのような神の霊を受けることこそが重要となる。
それによって、私たちが土の器であってもそこに生けるキリストが宿り、聖霊の力に満たされ、福音をこの世に提供するための器としていただいて、少しなりとも、この世に福音を伝えていくことができるようになる。
偉大なのは人ではなく、弱き小さな人間を滅びから引き出して大いなるわざをなさしめる神である。
新たな働き人となる人よ、出よ! 主よ、どうかそのような働き人を起こしたまえ!
ことば
(341)待ち望む
いましばらくの間、祈りと心の目覚めをもって、耐え忍ぶがよい。
あなたの家族や親しい人々のためにも。そうすれば、きっとあなたの最良のときが来る。
「主よ、私はあなたの救いを待ち望む」
(「眠られぬ夜のために」下 七月二五日の項 カール・ヒルティ著 )
・いつまでこの苦しい状態は続くのか、と日々悩み続けることがだれしもその人生の歩みのなかで生じるだろう。そうしたとき、このヒルティの言う、祈りと魂の目覚めを維持することを覚えたい。
祈りによって直面している困難を乗り越えるための霊的な力が与えられ、目覚めた心に主の御声が聞こえてくるまで。
(342)
…「愛はすべてにうち勝つ」
(Amor omnia vincit アモル オムニア ウィンキト)
これは、母の生涯について学ぶ最大の遺訓ーいや、彼女の性格の本質を形作ったところのものである。
(「ふるさと」175頁 南原繁著 東京大学出版会 一九五八年刊)
・私たちは一人一人いろいろな問題を抱えている。その最たるものは私たちの心の内なる罪である。しかしそれも神の愛が勝利してくださり、その罪は赦され、罪からの解放を与えられた。
また、その他、それぞれの人は、どうすることもできないような困難な問題を抱えている人たちも多いと思われる。それゆえに苦しみや悩みも深くなる。 そうした個人的な問題だけでなく、この世界には、過去、現在、そして前途にはさまざまの難問があり、解決不能のようにも見える。
しかし、神は万能であり、その神は愛であるゆえに、神の愛はすべてにうち勝つ。私たちがもしこのような神の愛を受けるならば、あらゆる問題にうち勝つ道が与えられたということである。
なお、ここにあげた言葉(Amor omnia vincit)は、ヒルティがその墓碑銘に刻ませている。 南原繁は、香川県出身、政治学者。若き日に内村鑑三に出会ってキリスト者となった。東京大学総長を戦後の六年間勤めた。この言葉は自分の母の思い出の一文より。
編集だより
○今月号は、「いのちの水」(旧名「はこ舟」)が、六百号の記念号となりました。ここまで継続させて下さった主に感謝です。
長く「はこ舟」、「いのちの水」と読んでこられた方々も次々と天に召されて、最初の頃からの「はこ舟」などを知っている方はごく少なくなっています。そのため、初期の頃のことを記録に残して、神の導きを具体的に記しておくことの必要を感じて、今回初めて「いのちの水」誌に書いたこともあります。堤道雄と「はこ舟」、徳島聖書キリスト集会の関わりなどがそれです。
私たちもまた、私たちの気付かないところで用いてくださっていることを信じて、各自が与えられた場で主を仰ぎつつ進んでいきたいと願っています。
今までの長い年月にわたっての主の導き、そして多くの方々から寄せられた祈りと協力費、そしてまたそれらを福音のために用いてくださったことに深く感謝を捧げます。
来信より
・…岡田利彦さんの絵(去年十月号で紹介した「黎明」)は、あんな小さな絵のコピー(写真)を見ただけでも感動し、霊的な世界を実感させられるのですから、実物がはどんなでしょうか。絵の大好きな私は、本物を見たくてたまりません。
徳島集会に「黎明」の絵があることを知って、この絵を見るためにだけでも飛んでいきたいような気持ちです。
絵の持つ力はやはり、生ける神イエス・キリストから来るのだと思います。
末の息子にこの絵を贈りましたら、すごく感動して、イエス様が私だけを見てついて来なさい、と言って導いて下さるのを感じたと言ってくれました。… (九州の方)
報告とお知らせ
○前月号で紹介した岩野梅子さんの納骨式には、ご遺族の方の他、私たちの集会からは20数名が参加して、徳島市眉山にある、キリスト教霊園にて納骨式がありました。 その霊園の建物の壁に記されている言葉「キリストぞ わが望み、栄光とこしえに神にあれ」これは私たち地上にある者の共通した思いです。
○詩篇のMP3版CD
前月号に紹介したところ、多くの方々から申込がありましたが、まだ完成にはしばらく時間がかかりますので、お待ち下さい。
○2月26日(土)~28日(月)にかけて、東京の登戸学寮の男子学生3名と小舘知子さんが、徳島聖書キリスト集会に来訪することになっています。観光とか遊びのための旅行でなく、キリスト教信仰にかかわることを少しでも得たいとの目的で来徳されるようなので、主がその方々に特別な導きと祝福を注いでくださいますようにと祈っています。
○聖書講話の録音CD(MP3) 現在も時折、問い合わせや申込がありますので、入手できる聖書講話の録音CD(MP3版)を次に書いておきます。代金はいずれも送料込みです。申込は、吉村孝雄まで、メール、ハガキ、電話などでお願いします。
なお、かつて販売されていたMP3対応 CDラジカセは、製造元(サンヨー、ビクター)ではもう生産終了していますが、私がインターネットショップを調べ、何台かを購入したので、私のところに申込あれば、ビクター製品をお送りすることができます。価格一万円(送料共)
操作はふつうのCDラジカセと全く同じですから誰でもすぐに使えます。
①ヨハネ福音書 全5巻
2000円
②創世記 全3巻 2000円
③ルカ福音書 全8巻
2500円
④詩篇(現在試作版が完成、準備中) 2500円
○2月22日(火)の移動夕拝は熊井夫妻宅です。
○2月のスカイプのみの集会は25日(金)の午後8時から。担当は中川陽子姉。