あなた方の上に 聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。

(使徒言行録1の8)



20124 614号 内容・もくじ

リストボタン復活の神

リストボタンいつでも働かせることのできる信・望・愛

 詩篇24篇―創造の神、生きて働く神、来るべき神  

 リストボタン詩と讃美歌について

 リストボタン偶然と原発事故

リストボタン震災1年の今思うこと後藤 直子(仙台市)

リストボタン関東、中部地方のキリスト教集会を訪ねて

リストボタンことば

リストボタン讃美歌CD「人生の海の嵐に」を聞いて

リストボタン編集だより

リストボタンお知らせ



リストボタン復活の神

4月は、最も周囲の植物たちが、めざましい変化を見せるときである。枯れ木のようであった落葉樹がいっせいに芽吹き、初々しい葉へと変化し、さまざまの野草が花を開く。
それは単なる自然現象でなく、死からよみがえらせる神を信じる者にとっては、それらの自然は、復活への合唱をしているようなものである。
すべての生けるものが死に向っていると考えられる反面―実際に私たちの親しかった人たちが次々と高齢や病気のためにいなくなっていく―神はこのように、私たちの身近に、新たな命が生まれることを見えるかたちをもって示している。
二千年前のハスの種が芽を出して、それが現在では、日本の各地で花を咲かせるようになった。(大賀ハス)(*
これはどんなに絶望的な状態であっても、死んだようなものであっても、神の御手がはたらくときには、生き返ることを象徴的に示している。

*)これは、大賀一郎博士によって、1951年千葉市の東京大学検見川厚生農場の落合遺跡で発掘された、今から二千年以上前の古代のハスの実から芽を出して花を咲かせた古代ハス。
なお、大賀一郎は、内村鑑三の影響による熱心なキリスト者であった。


ふつうの種や球根でも、死んだようになっているが適切な温度や水分を与えると、発芽して、生き生きとした生育をはじめる。
私たちの魂も、適切な水と温度―すなわち神のいのちの水と神の愛という暖かいものを受けると、死んだようなものが新たな力を与えられてよみがえる。

球根の中には 花が秘められ
さなぎの中から 命はばたく
寒い冬の中 春は目覚める。
その日、その時を ただ神が知る (讃美歌21の576)

春は、神からの復活のメッセージに満ちた季節。どんなに枯れ木のように死んだようになっていても、その時が来れば、神が目覚めさせて下さり、新たな命を注いで下さる。
それを信じるようにとの、神からの語りかけが、春の芽吹きや開花によって私たちにあふれるように注がれているのである。
このようなことも、信じて受け取るかどうかによる。たんなる自然現象だとしてみるだけでは、神からのメッセージは受け取れない。
私たちに向けられた神の愛を信じて、植物たちの変化にも復活を込めておられると幼な子のように信じて受け取るときに、たしかにさらなる復活の命が与えられる。
主イエスが、幼な子のような心で見ないと神の国は見えない、入ることができないと言われたことは、このような日常的に出会うことに関しても言える深い意味をたたえたものなのである。

…イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(ルカ 1816



リストボタンいつでもどこでも働かせるものとしての信・望・愛

私たちの日常生活では何かを使っている。衣食住の全体にわたって、常時いろいろなものが必要である。それらはみな当たり前のことだが、費用がいる。
そして使えば使うほど古くなり、使えなくなる。廃棄するとみなゴミとなって全くの不要なもの、有害なものとなる。
しかし、お金も要らない、ゴミも全くでない。しかし、いつでも使えてしかも費用も要らないというものがある。
こんなことは、かつては考えたこともなかった。
しかし、キリスト教に触れ、聖書の世界を耕すにつれて、このようなことは実はきわめて重要なことだとわかるようになってきた。
それは、信・望・愛である。
起きてすぐに使えるものそれは、神への信仰を新たにして、今日も守り、なすことを導いてくださいと祈る。それは神への信仰を使うことであり、神の真実(*)にまかせることである。

*)信仰という原語(ギリシャ語)は、ピスティス pistis で、これは多くは「信仰」と訳されるが、元の意味は「真実」。いくつかの箇所では、そのように訳されている。神を信じるとは、神を真実とするという意味を含んでいる。

だれでも何らかの心の悩みや重荷、問題を抱えているし、人によっては耐えがたいような苦しい病気のさなかで入院中という方々もおられる。そのような時、私たちは、医学、薬学、あるいは家族に頼る。
 しかし、病気や問題が深刻になるほど、どうにもならないことも多い。人間の心を変えたり、死が近い人の心の不安を変えるのは、単なる慰めや介護ではできないことである。
 そのようなときにも、もし信仰をしっかり持ち続けているなら、私たちは、希望を持つことはできるであろう。希望がいよいよもてないようなとき、それでも神の存在に向って叫ぶことができる。
 もし、神の存在をまったく信じていないなら、神に向って、叫ぶなどということはあり得ない。
 だから、旧約聖書のヨブ記において、財産の喪失、家族の突然の死、妻からの侮辱、肉体の激しい病気等々によって追いつめられたヨブは、あまりの苦しみに、死を望んだが、それでもなお、それは神に向っての叫びであった。
「神様、どうか私を打ち砕き、御手を下して滅ぼしてください!」(ヨブ記6の9)
 主イエスの、死の前の十字架の上での叫び、「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」 という叫びも、それは神に向ってであった。
 神への信頼の細い糸すらも切れようとする、そのような危機的状況であっても、なお神という存在を信じてそこに向って叫ぶ、それこそ、究極の信仰である。
 だが、そのような死に近づくほどの苦難にあったら常にそのような叫びになるとはいえない。ステファノという最初の殉教者は、撃ち殺される直前になって、天が開け、神と復活のキリストがありありと見えたと記されている。そして自分に向って悪魔のように襲いかかる人たちへの祈りによって地上の命を終えた。
 このように、苦しみ続けるにせよ、あるいは天が開けるにせよ、そこにはともに神への信仰がある。揺らぎつつ崩れ落ちようとする魂にも、神の存在を信じて叫ぶという信仰が残されることが可能なのである。
 このような恐るべき苦難が、迫害という形でふりかかることも歴史的にはさまざまの国々で見られた。そして無惨にも動物や人間の迫害の餌食となった人たちもいる。しかし、彼らはキリストのように、その死の後には神の国へと導かれ、霊のからだとなって復活したのである。
 このような聖書の記述を知り、神の深い愛と全能を知るほどに、私たちは希望を持つことができる。全能の神ゆえに、私たちは今の困難もきっとその愛と、万能の御手によって解放してくださるであろうという希望に導かれるからである。
 使徒パウロも、すでに信仰の最初から、神への希望を持っていたゆえに、各地へと命がけの宣教へと導かれていった。しかし、それでも、復活させてくださる神に全面的に信じ、その神への希望を持つようになったのは、かれが死の危険に直面してもう助からないと思ったときであった。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント1の8~10
 
 このように、パウロにおいて、以前から持っていた神が万事をよくして下さるという希望は、死が間近に迫るほどの状況において、さらに強められたのがわかる。
 最もよいものとしての信・望・愛、それはこのように、追いつめられた状況になってもさらに、増え広がることが暗示されており、これら三つはいつまでも続く、という言葉に言われているとおりである。
 このような特別な状況でなくとも、日毎の生活で、毎日出会う人にも、信仰と神からの愛によってその人たちに主の平和がありますように、と少しでも祈る心をもって対することはできる。
 また、新聞テレビなどで、さまざまの出来事、事件などを見聞きするにあっても、そこに見られた人々の苦しみや悲しみを見て、少しでもそこに御国がきますように、と神の御手を信じて祈ることはできる。祈らないよりは、わずかでも祈りの心をもって対することがよい。それは、そのような心を持って対することは、隣人を愛せよ、という神の御心にかなったことだからである。
 また、周囲の自然―樹木、野草、あるいは空の雲や青空、夜空の星々―一つ一つを単になにも考えずに見る、一瞥するだけでなく、そこにも神の万能を信じて、神の愛をも信じて、それらが愛をもって創造されていると受け取ること、私たちに向けられた愛によって創造されているのだと信じること、そこに信仰と愛を働かせることができる。
 そしてそのような大空の広大さや星々の永遠を見て、神の大いなる力への信頼を新たにして、希望を持つことへと導かれる。
 このようなことはほんの一例である。
 こうしただれの前にも次々と現れる出来事の一つ一つを無視し、あるいは無関心に通りすぎるか、それとも信・望・愛を少しなりとも働かせるか、それはお金も権力や学歴や経験すらも関係のないことであり、いま私たちがそのように信・望・愛を働かせようとするかどうかにかかっている。
 そしてそのように小さきものを相手にして、神の国にある信・望・愛を働かせることは、さらなる祝福につながる。小さきものに忠実なものには、大きなものを管理させようと、主は約束されたからである。そして、その祝福は他者へと及んでいく。神の国のものは、使えば使うほどに増えていく本性を持っているからである。



リストボタン詩篇24
創造の神、生きて働く神、 来るべき神


 一般的に言って、詩は独特な言葉遣いをするため、分かりづらいことが多々あるが、聖書におさめら詩である「詩篇」の場合もそうである。だから何らかの形での学びと共に読まないと、よく分からないことが多いし、そうした学びがないと、本来の詩篇のメッセージとはまったく異なるものとして受け取ってしまう場合もある。
これらは、2500年から三千年以上も前に作られたものなので、当時の人たちには分かったかもしれないが、今のわたしたちにはその表現や言葉づかいなどにおいて非常に分かりにくいことが当然ある。
ここに記すことによって少しでも、聖書に収録された詩の深さと広さをしる一助になればと思う。
-------------------
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住む者は、主のもの。
主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。

どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。
主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
---------------------------
この第24篇の詩は、はっきり三つに分かれている。まず、最初の段落から見てみよう。そこでは、人間がものごとを考えるときの正しい出発点が置かれている。

地とそこに満ちるもの、
世界とそこに住む者は、主のもの。
主は、大海の上に地の基を置き、
潮(*)の流れの上に世界を築かれた。(1~2節)

*)潮と訳された原語は、ナーハールで、普通の川、あるいはユーフラテスのような大河にも使われる。英語訳は、river waterocean depths などと訳されている。海で川のように流れているものということで、新共同訳は 潮と訳した。

この世界に存在するあらゆるもの、それは主のものである。このことは、それを創造され、いまもそれを支配し、支えているという意味を含んでいる。
ここで、この詩の作者はものを考えるとき、その出発点に、神が万物を創造されたということを置いている。この姿勢は、聖書全体の最初に、神が万物を創造されたと記されているのと共通している。
私たちの考えや思い、あるいは祈りなどの出発点はどのようなところにあるべきか、それは本来は最も重要なことであるはずだ。しかし、人間は、そのように考えずに、自分の欲望や自分の秘かな願いをその出発点とすることがきわめて多い。ことに日本人は唯一の神を知らないゆえに、この出発点を正しく置くことができない状態にある。
だから世界の美しさも、力強さ、あるいは広大無辺であることなども、さらに、この世の災害や苦難なども、それらは主のものだからこそ、主が意味を与えていると受け取ることができる。
そこに満ちるものとは、もちろん人間も含んでいて、私たちは、主の持ち物、神様の御手の中にある存在であるから、一人ひとりの人間も当然深い意味を持っているということが導かれる。
一人ひとり自分勝手に生きているのではなく、本来は主のものである。
しかし、人間はそのことに気付かず、また忘れてしまって、権力や金の力をもって自分のものとしようとすることが後を絶たない。
昔は結婚すれば、妻は自分のものだと持ち物のようにみなされていたから、気に入らなくなると離婚してしまうということが当たり前に行われていた。
また領主はその支配下にいる民衆は自分の持ち物だから、やはり自分に従わないとか、批判的だとか気に入らないことがあれば、追い出すなり処刑するなり、本当に物のように扱っていた。
このように古い時代には、人間が人間を持っていたのがはっきりとわかる。そして現在に至るまで、人間は絶えず別の人間を自分の持ち物であるとして、支配しようとしてきた。今でも、会社はそこに属する人間を自分の持ち物のように、ひどい扱いをすることもあるし、軍隊などは昔から支配者の重要な持ち物であるとして、命令どおりに動くように支配してきた。
しかしキリスト教を信じる人たちの世界では古い時代から、人間は、神様の持ち物だという意識がある。
例えば、イギリスの国歌において、God save the Queen!(神が女王を救われますように)という言葉が繰り返し歌われるが、これは、王や女王であっても、神の救いがなかったら前進できない、勝利できないという信仰的な意味が込められている。(*

*)女王でなく、王であるときには、God save the King! となる。

後になって、そうした聖書に基づく意味が薄れて、単に、「女王様、万歳」というように大した意味のないようなものとしても使われるようになったが、本来は、詩篇にあるように王も女王も神のものであり、神の御手によって滅びもするし、守られて勝利もする。まず神が王、女王を救ってください、という願いがある。
人間はすべて神の持ち物で、神から良きもの―罪の赦しや弱さに耐えて前進する力などを与えられないと、救いはない。
絵画など、世界的に有名な人が描いたものは、特別な価値があるとみなされ、購入には、高額を要する。
このように考えると、神は比較にもならないくらい偉大なお方だから、神が創ったものはみんな深い意味があるということになる。神の御手の広大さ、無限さを知るためにもさまざまなものを、自分の好き嫌いではなく見るということが大事である。

神は、大海の上に、また潮の流れの上に世界を造ったと言われているが、潮も海も同じ事を表す。詩篇では、同じような意味を持つ言葉を表現を変えて、並べて書くことがある。
これは古代人の世界観が表れていて、これはどこまでも広がる海の上に、大地を築かれたんだと、このような雄大な業を神様なされたということを、創造に立ち返って物事を考える出発点にしている。
それとともに、計り知れない海、大きな潮の流れ、大河のような流れという側面をも持っている巨大な力をもったものに対して、それに呑み込まれないように大地を据えたのだということも含まれている。
私たちもまた、そのような偉大な神の力と結びつきとき、この世の海や大きな流れに打ち負かされないように、据えられるのだということを知らされる。
この詩の作者は、このように、まず天地創造という大きな根源的なところから出発し、イスラエルの民は、確かに数々の困難を、海や大きな川の流れのただなかに置かれつつも、それにのみこまれることなく、存続してきた。そのように歴史をも導く神をも、この箇所は暗示しているのである。

次にこの詩は、いかなる人が、神に近づけるのか、ということを指し示す。私たちの根本問題は神から遠ざかってしまうこと、神に逆らって滅びていくことであり、そのようにならずに、神に近づけられることこそ、万人の願うところであるはずだからである。
神とは、まったき正義であり、愛であり、また真実なお方であり、そのような存在に近づくことは、だれでもよきことと思っているはずである。
例えば、嘘つきの人間と親しくしたい人などだれもいない。それは、真実を求めているということに他ならない。また、誰かから見下され、いじめられることを望むものもいない。これは愛を求めているということである。
このように考えればわかるように、神などいない、信じないといっている人でも、聖書にいう神の本質(愛、真実…)を無意識的にも求め、それと逆のものを退けようとしているのである。
神の前に近づける人はどんな人なのか。日本の神社であれば、たくさん寄付した人ほどその神社の神々に近づけるというように受け取られていることが多いから、神社の玉垣や石版に寄付金の多い順に大きさを変化させた石柱が置かれていたりする。
しかし、聖書ではものをたくさん持っている人や、権力のある人が近づけるとは昔から一切言われていない。聖書では「清められる」ということが第一に書かれている。むなしいものに心を奪われないような清い心を持つ人だ。また神様を求める人。このように心の状態を第一にしている。
汚れた心のままなら神様のところへ近づけない。そして神様を求めようともしない。悪いことばかり考えているようであったら、そもそも神様のことが心に浮かばない。
しかし、清い心と言っても、人間の心の奥深くまで見るなら、誰が本当に神の前で清いかということになるだろう。
 そこで6節に「主を求める人」とある。清い心を持つ人という条件をつけられたら、とても私たち主の前に出ることができない。冷静に考えたら、自分は到底そんな清い心など持っていないということになるだろう。
けれどもそこから主を求めるということは誰にもできることである。清い心でないからこそ、主よ、わたしの心を清めてくださいと求める。
このことがいっそう強められ、たとえ清い心でなくても、心から主を求める、汚れた心を赦してくださいと御顔を尋ね求める人が、主の山に登り神様のところへ近づかせていただけるようになった。
このことが、後のキリストの時代になって、贖い、罪の赦しという非常に重要なことにつながっている。自分は清くないけれでも、赦してくださいと求め、キリストがその汚れた部分を担ってくださったと感謝して信じるだけで、主の山に立つ(神の御前に出る)ことができるようになった。
以上のように、はじめの1~2節が、天地創造と歴史を含んだ内容であったが、それに続く第二の段落では(3~6節)現在のことが言われている。
現在の私たちにとって、その究極的な目標であり、日々の土台となること、それは神の御前に立たせていただき、神から力と希望をそして愛をいただいて生きることである。

…城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。(7~10節)

この第三段落は、一読しても現代の私たちには、意味が分かりにくい。なぜ城門という言葉が出てくるのか。現代の私たちにとってこのような表現は意味を持っているのだろうか。
ここで言う王とは神を指し示す。この最後の段落では、神が私たちのところに来られるのだということを言おうとしている。だからそのために備えをしなさい。わたしたちの社会、またわたしたちの心に神様が来られるということである。
栄光に輝く王が来られるというのは、新約聖書にもつながっている。新約聖書でキリストが再び来られることを、預言しているという詩にもなっている。城門よ、頭を上げよ、身を起こして備えをせよというのが、新約聖書では備えをするために洗礼のヨハネという人が遣わされたということでもある。
だから神は天地創造をされて、そのあとは何もしていないのではなくて、神は実際に我々のところに来られるのだということを言おうとしている。
じっとしている神ではない。実際にキリストという形で来られたし、現代のわたしたちにおいてもキリストが再び来られるという信仰がずっと続いている。現代のような世界には、どこに神がいるのかというようなことがたくさんあるが、これはどの時代においても同じである。
そのような不可解な出来事や、悲劇的なこと、苦しみに満ちたことがたくさんあるにもかかわらず、そのような中に不思議なことにずっと長い間人々が心の中に、確かに神は再び来られると信じ続けてきた人たちが少数ながら起こされてきた。
言わば神が来られる未来の足音を聞き取った人たちなのである。霊的に深い人ほど、悪のただ中にあってもその足音を聞いてきた。そして最終的には悪に決着をつけられるという願いと確信を持っていた。 神様は聖霊という形でも来てくださるので、だからわたしたちも扉を閉めておかないで、扉を開いて栄光に輝く王の別の形である、聖なる霊を受け入れましょうという呼びかけにもなっている。
主が再び来られるというのは、主イエスもそのことを預言的に語られた。そして、聖書全体の最後の言葉(黙示録2220)ともなっている。
それゆえ、この詩が古いもの、現代に関係のないものでなく、深く現代の私たちにも関わりを持っていると言えるし、新約聖書の非常に大事な信仰内容の一つ(再臨)をも指し示す内容となっている。

…以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」
「そのことは真実です。(アーメン)、主イエスよ、来てください。」ここに人間の最終的な希望がある。
この世界全体はだんだんと混乱がひどくなり、悪が勝ってしまうとか、最終的にこの世界は滅びて終わってしまうのではなくて、最終的にはこのように主が来てくださる。そしてすべては新しい天と地となる。
そこでは、「もはや海はない」ということから、この最終的な世界、宇宙は、現代の私たちのあらゆる想像を超えた霊的な世界だというほかはない。
 最初の段落では、天地創造、全てを御手の中におさめ、御支配されている神について書かれていた。
第二段落では、神の御前に出ることができるのはどのような心の人なのかが言われている。清い心を持って、そのためには、罪の清め、赦しを受けることが不可欠になる。そのうえで神の御前に出させていただけるという道を指し示している。そして主を求めるという心のみ、清い心を与えられる。
そして最後の段落では、栄光に輝く主が再び来られること、その主とは悪と戦うお方であり、最終的に悪を一掃されることが指し示されている。
このように、この詩は、過去、現在、未来を包み込んだ広がりのある霊的な内容を持っている。現代は、表面的には、交通機関やインターネットなど情報はいくらでも広く取り入れられるが、霊的には、自分中心、自国中心という変ることなき狭さにとどまっている。それゆえにこそ、この詩篇のような世界がいっそう身近にあるようにと願うものである。

 


リストボタン詩と讃美歌について

およそ、世界の数千年の歴史において、最も深遠な、そして広大な視野をたたえた詩は、旧約聖書のイザヤ書に含まれた詩と詩篇であるといえよう。それは神が直接的に作らせたと言えるからこそ、神の言葉としての聖書に収められているのである。
私は、歴史を超えて伝わってきた詩歌(日本の和歌、俳句なども含め)こそは、人間の精神世界のエッセンスが表現されていると感じてきたので、40年以上前から古代中国のさまざまの詩集―詩経国風、文選、唐の詩、ギリシャのホメロス、さらにダンテ、ゲーテ、シェークスピア、ワーズワース、テニソン、ホイットマン、日本の万葉集や古今集、新古今集、さらに芭蕉などの俳句、そして現代の日本の宮沢賢治や石川啄木、北原白秋等々…そうしたものを買い求めて、少しずつではあるが折々に触れてきた。とくにダンテの神曲には時間をかけて学んできた。
私が実際に触れたのは、そうした世界の詩のうちのごく一部であり、理解するところも一部にすぎないが、それらから伝わって来る世界と、イザヤ書に含まれる詩、そして詩篇の内容とくらべるならば、その内容の真実性、高さ、壮大さや深遠さというのは、比較にならないと感じざるを得ない。
そして、私たちが苦しみや悲しみにあるときに励まし、語りかけてくれること、そこに秘められた大いなる希望、未来への確たる預言、数千年を経ても変ることのない永遠的真理をたたえていること、それゆえに世界のあらゆる人々に浸透していった等々は、ほかの詩集には見られない。
聖書以外の詩は、天才的と称される詩人たちのものであっても、常に人間を感じる。ある種の狭さ、低さ、限界がある。
しかし、聖書の詩にはつねに神を感じさせるものがあり、無限の奥行きと深さをたたえている。
それは、芸術家の作品と、神ご自身の作品たる、大自然の山々の連なりや大海原の波濤や繊細な野草の美しさなどとくらべるときと似たものがある。いかに、天才画家の絵画や音楽がよいといっても、大空全体にくりひろげられる夕焼けや星空、高い山々において接する広大で、厳しく力に満ちていて、かつかぎりなく清い景観、渓谷の純粋さ、海の壮大な広がりや大波や大風の生み出す重々しい音楽は、人間のつくった絵画や造形物とは到底比較にならない。
その内容の高さという点で、ほかの詩と比べて群を抜いていると感じるのはダンテの詩(神曲)であるけれども、それでも、ダンテの詩にしばしば見られる、現代の人間とは関係のない多くの地名や人名、当時の歴史的出来事や宇宙に関する古い記述などが違和感をもたらし、私たちの精神との距離を感じさせることも多い。
詩篇とイザヤ書は、私たちのキリスト集会でも多くの時間をかけて学んできた。日曜日の主日礼拝と各地の家庭集会の双方において、これらの書の学びは繰り返しなされ、この20年ほどをとっても、とくに詩篇は絶えずどこかの家庭集会で学ばれてきた。そしてずっと以前には感じなかった奥ゆきの深さ、内容の広さを感じ取るようになった。
詩篇はもともと祈りであり、神にうながされた感動であり、賛美であった。それが重要であるからメロディーが付けられて歌となった。それは神が背後にあって書かせたと考えられるゆえに霊的であり、時間や場所を超えて伝わっていく風のような本質を持っている。
現代では、通用しない地名、また、敵を滅ぼしてください、といった新約聖書から見ると違和感のある表現もいろいろある。しかし、そうした言葉も新約聖書の精神に照らし、具体的な敵でなく、霊的なもの、サタンを滅ぼしてください、という祈りを指し示すものとして受け取るときに、よりいっそう詩篇を生きたものとして受け取ることができるようになる。
詩と歌とは深く結びついている。詩の内容がよいからそれにメロディーを添えて繰り返しその言葉を心に保とうとする、それが歌である。
メロディーが最初にあってそれに適切な言葉を配するということももちろん見られる。それは、例えばルターの作った讃美歌は、しばしば当時の民衆が歌いついできた民謡をもとにして、そこに聖書の言葉を配したものもあった。
しかし、メロディーを残したいというのでなく、神の言葉、あるいは神から啓示された確信を伝えたい、共有したいがゆえに、それを適切にあらわすメロディーを探し求めた、それは自分に示されたメロディーもあれば、古くから伝わってきたメロディー、誰かが作った場合もある。いずれにしても、まず神の言葉が讃美歌の中心にある。
キリスト教音楽の最高峰とも言われる、バッハのマタイ受難曲を貫く旋律とも言えるのが、讃美歌「血しおしたたる」(136番)(*)として収められている曲である。
この曲は、キリストの受難を象徴的に浮かびあがらせ、私たちの魂に迫ってくるものであるが、作曲者はバッハでなく、彼より百年余り前の作曲家 ハンス・レオ・ハスラー(**)のものであり、しかもそれはキリスト教曲でなく、一般のひとが歌うこの世の歌であった。
しかし、そのメロディーをキリストの受難という深い内容を表すように編曲して、彼の大作マタイ受難曲のテーマ音楽のように取り入れた。(***

*)1、血潮したたる主のみかしら とげに刺されし主のみかしら 悩みと恥にやつれし主の  痛ましきさまだれのためぞ。


2、主の苦しみは わがためなり われこそ罪に 死すべきなり。 かかるわが身に 代わりましし
 主の憐れみは いととうとし。

**15621612年 ドイツの作曲家。一般向けの音楽以外に、詩篇とキリスト教聖歌集なども多く作曲。

***)讃美歌136番で訳されている内容以外にも、次のような箇所にもバッハはこのメロディーを取り入れている。


erkennen mich mein Huter.
Mein Hirte,nimm mich an !
Von dir Quwell aller Guter.
Ist mir viel Gut's getan.

(訳文「私を覚えて下さい。わが守りてよ。わが牧者(キリスト)よ、私を受けいれて下さい!すべての良きことの源であるあなたによって、私は多くの良きものを受けたのです。…」これは、マタイ受難曲のはじめの部分にある「オリーブ山にて」に含まれるコラール。次のは、この少し後に続くもの。)

Ich will hier bei dir
stehn;
Verachte mich nicht!
Von dir will ich nicht gehen,
Wenn dir dein Herze bricht.

(私はここにてあなたの元に留まります。私を退けないで下さい。あなたのもとから私は去ることはしません。あなたの心が傷つき壊れるとき。…)これは、イエスがまもなく捕らえられ弟子たちはみな逃げていくことを予告したときの場面で歌われる。
どんなことがあってもイエスのもとで留まりますと決意を述べた弟子たちの気持ちが表されている。 そして、十字架にかけられてしまうイエスのもとにも留まり続け、イエスの死のからだをも腕を広げて受け取りたい…というマグダラのマリアなどの女性たちの思いもこれに続く部分に込められているコラールである。

それは、バッハがまずキリストの受難ということ、それに関する神の言葉(福音書に記されている)に惹きつけられ、それを浮かびあがらせ、人々の魂に刻み込むためのメロディーを求めた結果、自分自身が作曲もできたはずであるが、すでに別の讃美歌にも取り入れられていたこのハスラーの曲こそが、ふさわしいと確信したゆえであっただろう。
そして、実際に彼の直感は正しく、今日に至るまでマタイ受難曲と言えば、そのメロディーを思いだすほどであるし、讃美歌としても定着している。
神の言葉、あるいはそれに準じる言葉、さらに神の言葉によって動かされて作られた詩は、その適切な表現をメロディーに求める。それが一致したときには、ずっと人々の心に残っていく。
こうした無数の讃美歌、聖歌を生み出す根源は、神の言葉である。そして詩篇こそはその無数の讃美歌、聖歌の中心にあり、それが歌われて受け継がれていった。そしてその詩篇が、ルターやカルヴァンにも大きな影響を与えて、彼らの讃美歌重視の姿勢につながった。
ルターの代表的な讃美歌の一つ、「深き悩みより」(讃美歌258、讃美歌21の160)は、彼の作詞、作曲になるものであるが、これは詩篇130篇の内容を讃美歌としたものである。
また、プロテスタントのキリスト教讃美歌の代表的なものの一つとされる、「神はわが砦」(讃美歌21の377 讃美歌267)は、詩篇46篇をもとにしたものであって、彼の讃美歌が詩篇にうながされて作られたものだということがわかる。
そして、彼がキリスト教賛美において新たな道を開いてから、たくさんの讃美歌が生まれるようになり、キリスト教音楽が花開き、バッハのようなプロテスタント・キリスト教の大作曲家が生まれることにつながったのである。
もう一人の宗教改革の大いなる人物であるカルヴァンもまた、詩篇を重んじそれから讃美歌を作ることに力を注ぎ、協力者を得て、詩篇全体150篇に曲を付けて歌えるようにしたのである。
讃美歌21には、詩篇歌が60曲ほど収録されているが、これもみ言葉そのものを歌うことの重要性を主張したカルヴァンの影響によると言えよう。
カルヴァンはメロディーの美しさに惹かれて、肝心の神の言葉の真理を歌うということが二義的になることを戒めたが、キリスト教信仰における賛美の重要性、神の言葉を歌うことの深い意義をとらえていたという点では、ルターと共通したものがあった。
このように、宗教改革の代表的人物に賛美の重要性を知るため霊感を与えたのが詩篇という神の言葉であり、そのエネルギーの大きさがうかがえる。
こうした讃美歌の重要性は、現代に至るまで、ずっと続いている。
例えば、水野源三という詩人(19371984年)は、全身が動かず、言葉も出せず、数十年も寝たきりという特別な境遇であったが、そこから生まれた神への信仰による詩は人々の心を動かし、それに曲が付けられて歌われるようになった。
詩集として書かれただけでは、広く伝わらなかったものが、適切なメロディーが付されて歌われるようになって詩がさらに翼を持ち、遠くへとまた詩だけでは心にそれほど入らなかった人たちの魂にも入っていくようになったということがある。
例えば、最近の来信には、次のように書かれている。

…水野源三さんの詩集は2冊ほど持っており、彼の境遇の厳しい中に主が御手をのべられ、救いにあずかった魂の感謝の表現を読んでおりましたが、歌として今回耳にして、改めて心を揺さぶられる思いで拝聴しました。
声で伝わってくる讃美の響きは、文字から伝わるものを超える力があると感じました。
ガリラヤ湖畔の山辺にひびいた主イエス・キリストの御声に、即、神の国に招かれた人々の感謝の応答のように、水野源三さんの声も讃美となってささげられたものと思いおります。(関東地方在住の方)

文字からだけでは伝わらないものを、メロディーが翼に乗せて運ぶからである。
しかし、他方では、一種のメロディーといえるものだけでも、神の言葉を含んでいることもある。それが自然の中で生み出されるメロディー、すなわち、小鳥のさえずり、谷川のせせらぎや滝など大水の音、風の音、海の波音等々である。
それらは、主イエスが野の花を見よ、といわれ、そこに神の深い配慮、ご意志を読みとられたように、自然の音やその姿そのものからも私たちは神の言葉を聞き取ることができる。
それは言葉にならない言葉―パウロは第三の天に引き上げられて語ってはならない言葉を聞いたというが、自然は、私たちが主に結びついているときには、いっそう言葉に表現できない平安や美しさ、あるいは清さや力を語りかけてくることがある。
詩篇の作者のなかには、宇宙に響く神の声を聞き取ったあとが記されている。

…この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩篇19より)

詩篇の最後は、ハレルヤ!という壮大な呼びかけで満ちている。(特に146篇~150篇)
ハレルヤとは、ヤ(ヤハウェの省略形)をハーレル(賛美せよ)ということで、神を信じる人々への呼びかけであるが、あらゆるこの世の混乱や闇、苦難や悲しみが満ちているこの世にあるにもかかわらず、このような世界全体に向けられた神への賛美の呼びかけは、世界のあらゆる詩集にも見られないものとなっている。
ここに聖書の詩と歌の独自性がある。悲しみや闇のただなかにあっても、なお、このように神に感謝し、たたえることのできる世界があることを指し示しているのである。
これは、また聖書全体の最後の書である黙示録にも、ローマ帝国の迫害というサタンの手が真実に生きようとするものたちを踏みつけ、のみこんでしまおうとする中にあって、天上で無数の清められた人たちの賛美が響く状況が示されているのも、共通したメッセージを私たちに与えている。(黙示録5章)
内村鑑三も詩と賛美の重要性を深く知っていた一人であった。

…人は彼の信じる真理と確信を感情に現わそうとする。
美とは真理が 感情に現はれたものであつて感情に包まれて真理は始めて具体的となる。
「歌は魂の声である」という。完全な歌は歌詞(ことば)と音楽とからできている。
歌詞(ことば)だけでは歌にならず、また音楽のみでも歌にならない。
「感ぜられたる真理」、これが歌である。
ゆえに歌とは浅はかなものではない。歌は哲理よりも深いものである。哲理の大部分は頭脳だけでも考えることはできるが、真理が歌となって現れるまでには全心全体の賛同を得なければならない。
歌は実に真理の粋(すい)(*)である。
始めに科学あり次に哲理あり、最後に詩歌があるのである。
ゆえに未来の天国においては、真理はみな歌であるといふのは単に大声をあげて歌をうたうということでなく、理想の国においては真理はすでに思索をめぐらすという状態を超えて、詩歌といふ真理の本質(エッセンス)のみがあるということである。
それゆえに、歌のないところには理想はない。科学ばかりでは歌は出ない。歌とならない哲学は偽りの哲学である。

*)粋(すい)→ すぐれたもの

国民の歌う歌によってその文明の程度はよくわかる。
その国民は、理想の民であるか、あるいは、悪しき欲望を持つ民であるか。これは国家の軍艦、軍隊、貴族や博士、豪商などを見ては分らない。その国民の常に歌う歌がその道徳の指標である。
ああ、我が日本国よ、汝はいかなる歌を歌ひつつあるか。
歌は国民理想の表示である。それと同時に、歌は国民に理想を提供するものである。
この世において、そうした理想ほどに波及していくものはない。哲学者が大部の書を著はして百年かかつてもなすことの出来ない事を詩人は一篇の歌を作つて一瞬になすことができる。…
「私に一つの小さな歌を作らしめよ、そうすれば、私は全国民を動かそう」とは欧米人のことわざである。
実に 国民の理想を表はす一つの小さき歌を作る者は、その国の大恩人であつて、大軍人や大政治家に勝る力を持つ者である。 (「内村鑑三全集」第10巻394頁 1902年11月)
-------------------------
新約聖書によく知られている言葉、「いつも喜べ、絶えず祈れ、どんなことにも感謝せよ」(Ⅰテサロニケ5の16)これは、私たちの魂がどのような方向を目指すべきか、私たちの目標はどのようなところにあるかを指し示す言葉である。
そして、この言葉が示すのは、詩篇の最後に、ハレルヤ! ―主を賛美せよ―という詩が多く配置されていることと同じ意味を持っている。
現実のこの世がいかに困難であろうとも、主によって、主の力、聖なる霊によってこのようなところへと導かれていきたいと願うものである。



リストボタン偶然と原発事故

今回の福島第一原発が最悪の場合は、どうなっていたか。それは以前にも「いのちの水」誌で触れてきた。そのようなことを言うことは、煽ることだなどといって政府や科学者たちは意図的に隠してきたが、ようやく1年近く経ってから公表された。
それは全国紙にも掲載された。つぎは朝日新聞に今年2月に掲載されたものである。

… その最悪の事態については、すでに去年の原発の大爆発の2週間ほど後に政府で作成されていた。水素爆発が次々と生じると、原子炉から大量の放射性物質が放出され、原発敷地内での冷却作業ができなくなる。その結果、原子炉の核燃料と使用済み燃料が溶融をはじめ、さらに大量の放射性物質が飛散する。
そうなれば、強制移転の地域が170キロ以上になる。自主的移転を認めるべき地域が250キロ以上に拡大する可能性が生じる。最悪の場合、首都圏の3千万人が避難という事態となる。…。

このような予測を知らされた当時の内閣官房参与の田坂広志(原子力工学の専門家)は、駐車場に出て空を見上げた。そして「自分は映画を見ているのではないのだ…」と現実の深刻な事態を受け止めたという。
このような映画でしかあり得ないと思われていた事態になる可能性が現実にあったのだ。それを回避できたのは、偶然にすぎない。さらなる水素爆発や大地震が生じたり、津波がさらに襲ったりしたら、そのような最悪の状況になり、日本は壊滅的な打撃を受けただろうと考えられている。
当時の首相が、最悪の事態になると、東日本はつぶれる、といったとかいうが、東日本どころでなく、そのような事態になれば、3千万人という膨大な人間が避難しても、日本で住むところがなく、日々の食生活から、はじまって政治や経済も産業も交通も、あらゆるものが大混乱となっていただろう。
田坂は、そうならなかったのは、「事態を把握して事故の拡大を押さえ込んだというより、幸運に救われたのだ」と振り返った。
そして政府の中枢にある一人は、「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」と証言したという。
科学技術や政府の対応といったものが救ったのでなく、究極的には、人間のわざを超えた偶然、あるいは幸運、さらには「神様の守り」があったからだとまで言わせるほどに、人間を超えた運命の手が働いて、そのような破局へとは至らなかったというのである。
こうした偶然、幸運は、東海第二原発にも見られた。この原発は、日本初の百万kW級の原発であり、これが大事故になると東京の中心部(東京駅)まで、115キロほどしかないから、東京の全域が避難せねばならなくなる。
福島第一原発の4基の大事故があったから、この東海第二原発のことがほとんど報道されなかったが、この東海原発も危機一髪であった。
辛うじて冷温停止がなされたのであって、あとわずか70センチほど津波が高かったら、防潮壁を乗り越えて、福島原発のような炉心溶融に至っていたという。
それまでの防潮壁は高さ4・9メートルであったが、スマトラ沖大地震の後で、その防潮壁の高さを1・2メートル高くした。その結果新しい防潮壁は襲いかかった津波より、わずか70センチ高かったために、全面的に非常用電源が水没しなかった。
さらに、非常用ディーゼル発電機の冷却ポンプ3基のうち2基は、大地震のわずか二日前に、止水工事が完了していたので、浸水を免れたが、まだ終わっていなかった1基は、ケーブル用の穴から海水が侵入して水没し、使えなくなったため、冷温停止までに三日半を要したという。
この記事は、「首都圏を救った70センチ」というタイトルで掲載されたが、わずか70センチが途方もない被害を首都圏に与えるところであったし、止水工事が二日前に終わっていたがそれがもし終わっていなかったら、やはり非常用ディーゼル発電機がみな動かなくなっていた。
このような、綱渡りのようなことで首都圏3千万人の避難というかつてだれも経験したことのない事態が起こらなかった。
さらに、その高めた防潮壁も、石巻や仙台などで多く見られたような船や自動車など漂流物が衝突していたら崩れ落ち、そのために、非常用ディーゼル発電機すべてが水没し、原子炉が冷やされなくなり、炉心溶融という最悪の事態になっていたという。
原子力安全・保安院幹部も言ったように、「薄氷の冷温停止」だったと記されている。(毎日新聞2012年3月1日)
また、東北電力女川(おながわ)原発でも、重大な被害があった。
この女川原発の建設において、当初は現在よりももっと低い位置での設計となっていたが、当時の責任担当者がより安全性を考慮し、当時は 過剰といわれた14.8mの高台での設置となった。
これが福島原発のような致命的な事態とならなかったことにつながった。
しかし、この担当者は、費用をかけすぎたということで後に、左遷されたという。
去年の大津波で2、3号機では、原子炉建屋内のポンプやモーターを冷やす冷却系に海水が浸入した。うち2号機は熱交換器室の設備も浸水。外部電源の給電で運転に支障はなかったが、非常用発電機3台のうち2台が起動しなかった。
福島の大事故がなかったら、これだけでも、相当深刻な事故として報道されたはずの出来事であった。
過剰といわれたほどに高台に設置してもなお、このように非常用発電機の過半が使えなくなったのであり、もし、この特別な担当者がいなくて、最初の予定どおりに建設されていて、地震で福島のように外部電源も断たれていたら、やはりこの女川原発も炉新溶融を起こす事態となっていた。
このように、福島第一原発だけでなく、女川原発も、東海第二原発も、あと少し大きい津波が襲っていたり、地震がもう少し強く揺れていたら全く状況が違っていて、これは三カ所で、取り返しのつかない大事故が発生していたのであった。
これらすべては、一般的には、「偶然」であり「幸運」である、というしかない。
しかし、神を信じる者にとっては、偶然という言葉はない。
そのような最悪の事態にならなかったのは、神の何らかの深い意図によってそうならなかったのだというほかはない。
それは、確かに大いなる警告である。そして待たれているということである。運がよかった、運命が助けてくれた、というようにだけ受け取るのでは不可であって、日本人が本当に真理なる神に立ち返ることを待って下さっていると感じるのである。
このような、薄氷を踏むような事態、それは神の警告が迫っているということを暗示していると思われる。
主イエスが、「目を覚ましていなさい、いつそのとき―主が再び来られるとき―が来るかわからないからである。」(マタイ2444)と言われたとおりである。
主のとき、それは究極的な救いのときであるとともに、さばきのときでもあり、私たちが魂の目を覚まして日々の歩みを続けるべきことを示している。



リストボタン震災1年の今思うこと 後藤 直子(仙台市)

 1年前の3月11日、ワックスがけをするため、机や椅子など教室のものを運び終え、さあ床ふきをしようかというときに地震が起こりました。通常なら、机の下に隠れなさいというところです。それが何もないことのぞっとするおそろしさ。泣き叫ぶ子どもたちにとにかく姿勢を落として教室の中央に集まるようにいい、揺れがおさまるのを待ちました。横揺れもひどかったですが、下から突き上げてくるようにも感じ立っていられませんでした。途方もなく長く感じました。ようやく揺れがおさまったのを見計らって、子どもたちをグランドに出しました。人数確認をし、保護者が迎えにきた児童は次々と帰しました。雪の降る寒い日で、余震もおさまらず、子どもも保護者もまっ青な顔で緊張した面持ちでした。雪が降り続き寒いので迎えに来ない子どもたちを校舎に入れました。しばらくすると校舎のすぐ下まで津波がきていることがわかり、校舎の3階に避難しました。私が勤務する学校は海岸からはかなり遠かったので目を疑いました。何かとんでもないことが起こったのだけは感じました。姉からのメールに気づき、とにかく無事とだけ伝え、いろいろ調べるうちに切れて使えなくなってしまいました。停電だったので充電できず、夜はろうそくのあかりだけで真っ暗でした。あちこち浸水して道路が普通になり、親がなかなか迎えにこれず、真夜中にいらした父兄もいました。何人かの児童は学校で一晩過ごしました。体育館からマットを運び、保健室の布団などを使ってできるだけ寒くないように気をつけました。夜になると近くの新日本石油工場が爆発炎上しているようで、時折ボーンボーンと爆発音が聞こえ、空が赤黒くなりました。子どもには見せられないのでカーテンをしめ、ゲームをしたり、おしゃべりをして気を紛らわせ、子どもたちを早い時間に寝かせました。幸い次に日には全員家族が迎えにきたのでよかったです。
 次の日の朝、仙台の自宅に帰りましたが、あちこち浸水して不通になっており、迂回して迂回してなんとか仙台にたどり着きました。ドアを開けたら、食器戸棚が倒れており、部屋はぐちゃぐちゃに散乱していました。カセットコンロや毛布など役に立ちそうなものを持ってまた学校に引き返しました。いつもの道路は通れないので迂回しながら行ったのでどこをどう通っていったかわかりませんが、とにかくなんとか学校に着いたら、学校は危険なので役場に移動とのことで役場に行きました。持ってきたものを渡し、女子職員は帰っていいとのことだったので、また仙台に引き返しました。それから何日も電気、水道がとまり、幸いプロパンガスだったのでガスは使えましたが、今のガスがなくなったら、次はいつ入るかわからないから、大事に使ってくださいと言われました。暗い部屋の中でろうそくをたくさん灯して、これからどうなるんだろうとぼんやり考えていたように思います。
 その後は、給水に半日かかり、食料を買うために何時間も並び、最悪だった給油のためには7時前には並び、帰ったのはお昼という日々でした。生きるための日々でした。“生きてる!”。それがどれだけ大事か実感しました。電気がついて明るくなったとき、涙が出るほどうれしかったし、水が出たとき、水がどんなに大事か身にしみました。当たり前のことがどれだけ大事かしみじみ感じました。震災後は生きるためだけに過ごしていたような気がします。独立学園の創設者の鈴木弼美先生が「平凡が一番だよ」とよくおっしゃっていたことを思い出し、若い時はそうかなあ・・・などと思ったものでしたが、やっぱり校長先生の言うことは本当だったと実感しました。平凡な当たり前のことが、どれだけ大事でどれだけありがたいことか。その大切なことをいかに見逃してきたことか。日常をもっと大事にしようとつくづく思いました。生活に追われた日々でしたが、いつだったか覚えていませんが、明るい陽のさす午後、無性に聖書が読みたくなりました。聖書をパラパラめくり目に入った聖句を次々に読んでいきました。砂地に水がしみ込むように心の奥底にすうっと入っていくようでした。泣きそうになりながら読んでいました。読んでいるだけでよかったです。聖書の言葉ってこんなにも温かかったのかと改めて実感しました。そうして元気と勇気をいただいて、震災後の日々を過ごしたように思います。
 4月には同じ七ヶ浜町でもっとも被害が大きい小学校に移動になりました。町の半分は瓦礫の山でした。田んぼの中に車や家の屋根が流されていたり、建物がすっかり流されて土台しか残っていない家がたくさんありました。胸が痛む光景でした。昨日まであったそれこそ平凡で幸せな毎日があっという間になくなってしまったことに言葉がありませんでした。通常の学校業務の他に、震災関連の雑多な仕事が山ほどありましたが、被災した方々のことを思えば黙々とやるだけでした。子どもたちのやさしさや明るさが元気の源でした。
 あっという間の1年でした。私自身の生活はすっかり通常に戻りましたが、被災した方々の生活はこれからが本格的な再建だと思います。何もできない者ですが、被災した方々の幸せを祈らずにはいられません。3月20日に台湾のオーケストラとマーラーの『復活』を歌います。祈りを込めて歌いたいと思います。
(この文は、今年1月発行の「野の花」文集に掲載されるものであったのですが、送付が遅れたのでここに掲載しました。大震災から1年余りを経ましたがつねにその記憶を新たにしておきたいと願います。)

 


リストボタン関東、中部地方のキリスト教集会を訪ねて

今回、キリスト教横浜集会にてみ言葉を語る機会が与えられ、その前後を用いて、横浜以外の各地にても、み言葉の集会や訪問をする機会が与えられた。期間は、3月24日~30日であった。
3月24日(土)は、 静岡では、石川昌治さん宅の家庭集会。高齢かつご病気を持たれている石川兄も1時間程度ならとのことで、集会に参加され、以前からの人たちとともに、春休みであったので、石川さんの長女の恵子さんが、仙台から二人の子どもさんたち(独立学園高校生と中学生)をつれての帰省中で、その方々も参加された。老年の方々には、いっそうの主の支えを、そして若い方々は、主イエスへの信仰が強められるようにと願った。
そのあと、「祈の友」の足立夫妻宅。足立姉は、ご病気をかかえての参加で、主によって支えられているのを感じた。少し遅れて、前の「祈の友」主幹の稲場満さんの娘さんである浅野姉も加わり、祈りと賛美をまじえての交流が与えられた。稲場 満さんは現在は天に帰られているが、その信仰と「祈の友」へのご奉仕は今も形をかえて生きていることを思って感謝であった。
次の清水聖書集会では、西澤さん宅での静かな集会が与えられた。北田康広さんの讃美歌CDの一部をも聞いてもらって、多くの賛美をともにすることができた。聖書はエペソ書からパウロの祈り―キリストの愛を知るということを学んだ。そして「キリストの愛に触れたその時に」という水野源三の賛美もともに歌った。
25
日(日)の主日礼拝は、何年ぶりかのキリスト教横浜集会。聖書における信・望・愛ということで聖書からのメッセージの一端を語らせていただいた。
キリスト教の集会や礼拝において、信仰、希望、愛という三つが語られるときは、ほとんどⅠコリント1313節に関してであるが、今回は、聖書全体から見てこの三つがいかに記されているのか、中心にあることを取り上げて語った。神とキリストへの信仰、そこから生まれる希望そして、神の愛という三つのものこそは、いつでもどこでも、だれでもがその意志さえあれば、それを求めて、使うことができるようにと神は備えて下さっている。
今回の集会で、友人と共に、あるいは息子から、また人からすすめられてこのようなキリスト教集会に初参加という方は、3人ほどおられた。また学生5人が参加されたのも感謝であった。参加者は30数名。
また、遠い鹿児島からの参加者もあった。参加者がそれぞれに今後とも、主イエスによって導かれ、この日本で最も欠けている唯一の神とキリストへの信仰が広まり、多くの人たちが本当の平安を与えられますようにと祈った。
25
日(日)の午後は、昼食と交流会。
その日の横浜集会のあと、4キロほど離れたホーリネスの教会で、原発とキリスト教の関連の話を依頼されていたので、そこで二時間ほどの話し、その後の質問などを受けた。去年の8月に出版した「原子力発電と平和」(吉村孝雄著)の読書会をその教会の婦人会ですることになったので、横浜での集会場から近いので、立ち寄ってほしいとの依頼によったもの。
その教会の牧師夫妻や婦人会ではあったが、とくにその日は、原発とキリスト教の話だということで、男性の参加者も数人見られた。依頼された方は、かつて小松島女学校(現在の小松島高校)に徳島市から通学していたとのことで、原発の本で吉村孝雄の住所が小松島市となっているので、その本にも関心を強めたようで、いろいろと不思議な導きだった。

26日(月)八王子市の多摩集会。(永井宅)ふだんは多摩集会に参加していない人も参加、そのなかには、ネパールから大分前に日本に来て、いろいろ苦しい目にあってきた女性も見えていた。集会のあとの懇談では、その人も今までの日本での生活の困難さを語られた。
またある方は、将来の日本は年金など少なくなり、原発の廃棄物の難題もあり、どうなるのかとその不安を出された。 それに対して、主はあらゆる時代に、「明日のことを思い煩うな。ただ神の国と神の義を求めよ。そうすれば必要なものは添えて与えられる」と約束された。日本に本当に必要なのは、こうした神への素朴な信仰で、将来に不安を思うより以上に、キリスト者は、唯一の神への信仰が日本人に広がることこそを願い祈っていくことの重要性をお話しさせていただいた。

27日(火)山梨県南アルプス聖書集会。(加茂宅)主題は、「勝利を与える主」。
この集会には、もう6回ほど訪問させていただいた。去年は加茂さん宅の都合が悪く、30キロあまり北にある山口さん宅での集会であったが、そのときに初めて参加された野辺山の青野さんご一家が今回は、自宅から片道50キロ以上ある加茂宅の集会にも参加された。そして、その青野さん宅に農業実習に来ている学生さん、青野さんの二人の子どもさんも参加されて主の導きに感謝であった。
み言葉がなかったらこのように集まることはなく、神の言葉が持っている引き寄せる力に感謝した。

28日(水)長野県の上伊那聖書集会。(有賀宅)この集会にも初参加のご夫妻が二組参加されていた。老齢のご夫妻は百キロあまり離れた遠くからの来会であった。また、若い母と子で参加された方も、ふだんの日曜日の礼拝には参加されないが、私が出向くときの集会には参加されるとのことだった。そして都合で終わり頃に参加されたご夫妻もあったが、それぞれに健康の問題その他を重荷として持っておられる方々も多く、主がそうした重荷を持つ者は私のところに来れ、休みを与えようといって下さっている呼びかけを思い起こしたことであった。
さらに、そのあとは、そこから40キロ近く南の松下宅・家庭集会。そこにも初参加の方々がおられて、そして130キロもの遠くから、家族三人で参加された方もあった。20歳未満だと思われる娘さんは初めての参加であったが、片道でも何時間もかかるところに聖書の集りのためにご両親と参加されることは、その背後での主の御手のわざを感じたことだった。また、いろいろと苦しい問題をかかえていて自分が一番ふしあわせだと思っていたが、そうではなくいろいろな方々がさらに苦しい状況にあって神を信じて耐えて進んでおられることを知って、励まされたと言われる方もあった。そうした高年齢の方や年若い方、それぞれが主によってその心の孤独や苦しみをいやされ、またこれから大人となって数々の誘惑にも直面するにあたって、神とキリストへの信仰へと導かれるようにと願った。
29日(木)岐阜、愛知の「祈の友」の方を訪ねた。高齢となって生活の困難が押し寄せてくるとき、とくに親族も遠い場合の困難さを知らされる。また他方では、高齢となりつつも、パソコンを使って、文を書いて投稿したり、メールを用いたりと可能な方法で動く範囲が次第に狭まってくる状況にあって努力されている方もあった。
30
日(金)岐阜県内の「いのちの水」誌の読者の方や、さらに 京都在住の複数の教友を訪問する機会が与えられ、夜無事に帰宅できた。訪問先の各地の方々や徳島聖書キリスト集会員の絶えざる祈りと支えによって、さらに主の守りと導きによって今回の旅を終えることができたので、そうした方々に深い感謝を捧げたい。
今回の、横浜での主日礼拝の特別集会を中心とした県外の集会での聖書講話や「いのちの水」や「祈の友」にかかわる方々への訪問によって、み言葉の持つ力を改めて知らされた思いだった。私の目的は神の言葉の無限の豊さ、その力を伝えること、そして集まった方々も、何らかのかたちで、人間的な話し合いや思い出話でなく、それらを超えたもの―神の言葉を求めて参加されたのだと思われた。
主が、うつろいゆく人間の意見や議論を超えた永遠の真理であり続ける神の言葉を今後とも、各地のキリスト教集会の方々に注ぎ、そこからまた周囲の世界へと流れ出ていきますようにと願ってやまない。

 


リストボタンことば

355)あなたは、暗い部屋を明るくするために、暗さをポンプで追い出すようなことをしますか。
部屋を明るくする方法はただひとつ、それは電灯をともせばよいのです。(スパージョン)

まさにこのために、キリストは来て下さった。闇の中の光として。
私たちもただ自分や他人、あるいはこの世の闇や混乱を見つめ、それを言葉や強制で追い出そうとするなら、ますます闇は深まる。
ただ心の窓を開いて神の光を受けいれるだけで明るくされる。私に従うものは命の光を持つ、と主イエスは約束してくださった。私たちもただ信じてキリストを仰ぐだけで、光を受ける。そして、この闇の世界に、ともしびをともすことができる。
主イエスが、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい。」と言われた。
それは、私たちの心の窓というべき魂の目が澄んで、まっすぐに神に向けられているなら、神の光を豊かに受けることができ、私たちの存在が明るくなる、ともしびとなることを意味している。

356)神は私たちが神の御前では、無にひとしい者であり、何も持っていないという貧しさの思いだけを求めておられる。
そして、それは信仰によって生まれる。(「悩める魂への慰め」ブルームハルト著 69p 新教出版社)

このような思いを強めるためには、イエスの山上の教えは役だつと、著者はこの後で書いている。
主イエスは、貧しき者は幸いだ、悲しむ者は幸いだ、正しさに飢え渇いているものは幸いだと言われた。また圧迫された者(柔和な者と訳されたもとの詩篇の原意)の幸いも添えられた。
これらはみな、無い者へのメッセージである。私たちはいつもたくさん物質的なものや人間的なものを求めている。そしてそれが満たされなくて苦しんでいる。
しかし、神はその豊かな神の国の賜物を、その貧しさのただなかから求めることを望んでおられる。自らに関する貧しさの意識が深いほど、神はゆたかに神の国の賜物を注いで下さる。

 


リストボタン讃美歌CD「人生の海の嵐に」を聞いて

(前号に紹介した北田 康広さんの讃美歌CDについての感想を多くの方々が寄せて下さったので、北田さんにお送りして今後の参考にしていただきたいと思っています。
讃美歌に関しての感想といったことは、余り語り合うことはないので、私たちがいつも歌っている賛美について、いっそう心からの賛美が捧げられるため、そしてその賛美がみ言葉を伝えることにつながるようにと願ってここに掲載しました。―編集者)

・北田さんの讃美歌を聞いての感想
 私どもは北田さんの讃美歌を聞き、主にある平安と喜びに包まれます。北田さんの讃美歌の世界に入れていただくとき、内なる霊に神への信仰を高めていただくのを覚えて感謝をしております。特に印象に残った曲目は 3.主のうしろ姿 7.人生の海の嵐に 8.紫の衣 13.ガリラヤの風かおる丘 15.勝利をのぞみ です。 

・「救い主は待っておられる」
家族や友達、愛する人達がまだイエス様を信じていないことの、悲しみはいつも胸の中に深く悔い改めをいつもしながらも、伝道できない歯がゆさや無力さを感じています。
特に一番身近な家族が救われていない事は、いつも祈りながらも、その時はまだですかと神様に問いながらもまだまだ祈りや愛が足りないことを痛感しています。
そんな私を強く捕らえて慰めてくださったのは、この「救い主は待っておられる」の賛美です。
おぼつかないピアノを弾きながら、遠くにいる息子や近くにいる夫の救いを祈ってこの賛美を何度泣きながら歌ったかしれません。
そして今北田さんのCDのこの力強い賛美を聴かせていただいて、改めて主がどんなに忍耐して待ってくださっているか、主の深い愛を感じました。
そして身近な隣人だけでなく特に昨年の大震災、津波の被災者の方々を救えるのは イエス様だけ今こそすべてを受けて下さる方に心の扉を開くのを主が待って下さっているこの希望を強く感じます。
この曲が最後に編集されていることに素晴らしい意味を感じます。

・歌の歌詞はどの曲も、そのままみ言葉につながっており、メロディーと歌とともに、み言葉が私たちの魂に入って来ると感じます。

・私は、「朝静かに」、「二匹の魚と」が特に心の深くに入り込んできました。力強い歌声、優しい歌声、演奏を聴いていたら、やさしい気持ちになりました。自分の心がきよめられていくようです。

・CD全体で:北田さんの深いゆったりとした歌声が心地よいCDでした。バックの演奏もとても美しかったです。CD全体に「イエス様からの愛」「イエス様への愛」「兄弟への愛」「十字架への思い」などが満ちあふれていました。一つ一つの曲にトーンなどの歌い方の特徴があって、その曲をどのように歌い、表現するかということを、単なる音楽的な美しさだけではなく、信仰の中から深く汲み取って決めておられることが伝わってきました。このように讃美を歌うためには、ご自分の中のイエス様への思いを深く深く掘り下げるという体験があることを思いました。そのため、聴いている私達は自然とその歌詞の世界を受けることができるのだと思いました。
 また、CDを聴く前に曲目の解説を読んでいましたが、曲の背景や作詞作曲者の紹介だけではなく、一つ一つの曲に込められた信仰的な深い意味が解説されていて、その深さに心から感動しました。1曲1曲の解説が講話のように深く、胸に響いてきました。歌声・演奏・解説のコラボレーションが霊的に素晴らしいCDだと思いました。
「ちいさなかごに」:軽やかな歌声で優しい気持ちになれました。
「朝静かに」:「わが心にあふれくる」という所の歌声が深く、広くて、水野さんの身体は不自由でも、心が聖霊によって自由に羽ばたいているようなところが伝わってきました。
「主のうしろ姿」:これまでの明るい曲調とは違って、十字架のイエス様を思わせられる切々とした歌声で、歌詞もとてもいいと思いました。
「とびらの外に」:ハープの音が優しくて好きです。イエス様の招きを思いました。
「人生の海の嵐に」:すでに嵐が過ぎ去って、私たちは今は主によって平安なのだということが明るい歌声から伝わってきました。
「紫の衣」:「主のうしろ姿」と共に、十字架の情景が深く胸に迫ってきました。
「2ひきのさかなと」:ゆったりとしたテンポにコントラバス?の音と鐘の音。いつもと違った2ひきの魚を味わえました。解説に書かれていた深い意味が理解できました。
「天の神、祈ります」:伴奏や歌われ方がすごく好きです。
「あさかぜしずかにふきて」:伴奏・歌声から朝の爽やかさが感じられ、普段歌っているこの讃美がもっと好きになりました。
「みどりもふかき」:イエス様の若々しさやナザレの村の明るさなどが感じられました。
「われ聞けりかなたには」:天の御国への道を明るく歌っておられて、天国に行くのは凱旋なのだなぁということを思わされました。
「勝利をのぞみ」:大好きな曲で心が元気にされます。小太鼓の音が、行進を思わされていいです。キング牧師や他の霊的な素晴らしい信仰者の方々も、この曲を歌いながら一緒に歩いている所が目に浮かんできました。
「救い主は待っておられる」:最後に招きの曲でいいなぁと思いました。優しく手を広げておられるイエス様が浮かんでくるような歌声でした。(四国の方)

・今回の「人生の海の嵐」のCDを聞かせていただき、多くの讃美からよりすぐられた選曲で、どの曲もとてもよかったです。
主の平安とよろこびを感じておられる北田さんご自身の霊的なものを受け、聞くものの心を癒してくださいます。
その中で「主の後ろ姿」と「紫の衣」の二曲は以前にコンサートで聞かせてもらった時に、とても心に残っていました。
もう一度聞かせてもらいたいなという願いがあったので、今回このようにCDの中に入れてくださってとてもうれしかったです。
特に「主の後ろ姿」は歌詞も深く心に受けつつ聞かせていただき、北田さんの讃美を通して改めてイエス様の痛みと苦しみ、そして十字架の愛を受け、罪赦されたものの新たな一歩をとのメッセージが伝わって感動しました。
また、「人生の海の嵐に」と「勝利をのぞみ」この2曲も東北の大震災のただなかに今も苦しんでいる方達の心に届きますように、そして多くの試練のなかにある人たちの平安と勝利を歌われているのがこちらに伝わってきて私自身も力を与えられます。
どうか、この讃美のCDを通して一人でも多くの人がイエス様の愛にふれ、闇から光に変えてくださる主の恵みに入れられますようにと願い祈っています。
それから曲の解説のことですが、詳しく書かれていて、私にもその背景がよくわかるし、キリスト教のことをあまり知らない人にもわかりやすく伝道のメッセージになっていると思いました。

・CDを聴かせていただいて、 一番に思ったことは、信仰をもって歌うことの深い意味をよく知らされたことでした。
「主の後ろ姿」という歌に、北田さんの信仰が、特に滲み出していると思い、引き込まれました。
哀愁を帯びた旋律、そこからでなければ伝わって来ないイエス様の、ありし日の真のすがた、ありありと思わされました。またあわれなわたしたち人間の姿も映し出されて…。
でも、いつでも悲しみとよろこびは背中合わせ。そこに愛と救いを感じる不思議さがあり、何度も何度も聴いています。
澄んだ声の、のびやかな歌いかた。「朝しずかに」は信仰の広がりや、感謝、希望またよろこびに、しずかに満されていくような気がします。
「人生の海の嵐に」など、淡々と歌っているような中に、すごい真理があることを、歌を通して感じています。
「天の神祈ります」。歌を聴きながらわたしも祈ります。今のわたしたち個人の状態に、日本の状態に、世界の状態に、主よ、いま直ぐ来てくださいと。 伴奏も、素的です。
他の曲も、いろいろ、聴くたびにちがうことを思わされています。
真っ直ぐな、清い声。
淡々と、余計な抑揚をできるだけ取去って歌っておられるのが心地よいです。それでも、深い心は充分に伝わってくるのだと思わされました。ありがとうございました。

・全体で感じたこと、2曲目の朝静かにから始まり、もしも私が苦しまなかったら、二ひきのさかな、天の神祈ります、われ聞けりかなたには、勝利をのぞみ、救い主は待っておられるで終わり、歌っている順番がまさに人生の海の嵐にのようです。
昨年の震災で家族や友人、知人を失い、孤独な人生を送っている人々に届き、神様のことが伝わり、救われるようにと選ばれた賛美と思いました。
知らなかった賛美もありましたが、詩をゆっくりと読んでみると、心に残る詩ばかりです。私はガリヤラの風かおる丘でのメロディーを携帯電話の着信にしています。
これからも、歩む中で み言葉として、心に深く入って来るような賛美を歌ってほしいです。

・今回のCDの全体としての感想は、オーケストラの演奏で神様の大きさを感じつつ、ゆっくりとしたテンポで心地よく16曲とも聞くことができました。しかし同じ曲調の曲だけだったら変化がない讃美CDになっていたかと思いますが、従来の讃美とともに若い人や子供にも歌われる幅広い曲が収録されていて、しかも親しみのある曲がたくさん入り繰り返し聞けるものとなっていてよかったと思います。
CDタイトルの「人生の海の嵐に」は、震災や原発事故で被蓋を受けた人を初め、先の見えない時代にあって一人ひとりが感じている不安に対して、この時に神様の導きを知ることのできるふさわしい歌だと思いました。
2匹の魚と5つのパン」は、子供向け讃美なのに、北田さんのような本格的な歌を歌う人が歌いそうでないところが、異色で耳に残りました。
「勝利を望み」は、私たちが歌っても、神様へ歩む力を得ることができる歌なのに、北田さんの歌で、さらに力強さをもらえました。
北田さんが、深く考えて選曲して作られたもので、神様への讃美となっているCDであると思いました。

・このCDを聞いていると、北田さんの祈りを込めた歌声が心に響いてきて自分の罪が清められていくようで、涙が溢れてきました。
賛美と共に解説、歌詞が書かれていてとてもよく解りました。
どの賛美も良かったのですが、三番の「主のうしろ姿」の、「新たな命 与えるため十字架さえも 忍ばれた 主の愛と祈りに 何をもって応えよう」というところが心に残りました。本当に何をもって応えようと思います。
8番の「紫の衣」という歌も、「なぜに主よ あなたは 十字架にかかるほど この私を愛されたのです」と言うところが解説文と共に心に残りました。
11番の「あさかぜしずかにふきて」の解説文で、この讃美歌が、どのようにしてできたかがわかり良かったです。
6番の歌詞「もしも私が 苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった」
私もまた苦しいことや悲しいことがなかったら、そして神様が憐れんでくださらなかったら、神様を信じることもなかったと思わされました。
7番の歌詞「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ」
今までいろんなことがあり、もうだめかと思う時もありましたが、不思議とそこから助け出されことを思い感謝でした。
15番「勝利をのぞみ」
本当に勝利を信じて その日を信じて進んで行きたいと思いました。北田さんの賛美と共に解説文も感謝です。どうかこのCDが祝福され多くの人が聞いてくださいますように祈ります。
北田さん清らかな歌声有難うございました。心が慰められました。
             
・③「主のうしろ姿」はじめて聞いた曲でした。北田さんの歌い方がゆっくりと心を込めて歌っておられるので、初めて聞いても、心に歌詞がすっとはいってきました。
④とびらの外に これもはじめて聞きましたが、メロディと歌詞が、しずかに心に入ってくるような気がしました。
⑦人生の海の嵐に 伴奏が寄せてくる波のようで、重い深いテーマですが、そのなかに希望がもてる明るさを感じました。歌とともに、伴奏もいいと感じました。
⑧紫の衣 これも、③④と同じで、はじめて聞きました。歌詞が聴き取りやすく、深いところから響いてくる声に、初めて聴いてもその思いが伝わってくると感じました。
このCDは伴奏のアレンジもとてもいいと感じました。

・どれも、好きですが、初めて聞いた詩と曲が魂に沁み入りました。
③「主のうしろ姿」   
「主の愛と祈りに 何をもって応えよう」はわたしの好きな新聖歌102「主は命を」の「我何をなして主に報いし」に似ています。
でも「これは主のうしろ姿」という十字架を背負った主の後ろ姿を、思い起こさせるのです。血の滴る汗を流し、「彼らの罪を許したまえ。彼らは何をなしているのかわからないからです。」とわたしの罪のために(全人類のためなどと大きなことは言わない)祈られた主イエスの愛と祈りがあったことを思うと「何をもって応えよう」と、思わずにはいられない作者の祈りの詩です。
自ら苦しみを体験した作詞作曲者の賛美、それを自分のものにして歌い上げた北田さんの歌声が、いつまでも心に残ります。(新聖歌102の方「ただ身と魂とをささげまつらん」と、そこに行き着く賛美となっています。)
⑧ 紫の衣 
 前後に「血しおしたたる」の曲が効果音となって静かに流れています。全体的にオーケストラの伴奏が、わたしには落ち着いて、北田さんの歌を聞けています。
この歌は、最初聞いた時、ジーンときました。苦しみにあった時、慰められる歌の一つになること必至です。その他、「人生の海の嵐に」「われ聞けり」希望を与えられる曲も好きです。感謝、感謝。

・今回は「大震災以来、自分に何ができるかと問い続けて」出されたアルバムとのことで、北田さんの思いに主が応えられたのだと思います。
今までにない、声の響きに霊的な力強さを感じさせられております。「人生の海の嵐に」のタイトルが引きつけられるし、加藤常昭氏や、教会牧師らのことばなどがあるので、紹介するにも効果的に思えます。

 


リストボタンお知らせ

○四国集会 愛媛県での開催。
・テーマ…「キリストの十字架」
・日時…2012年5月12日(土)午後~13日(日)午前。
・会場…スカイホテル(松山市3番町8ー9ー1)
・内容についてわかっている範囲で書いておきます。
12
日 聖書講話、全員による一言感話、自己紹介、夕食後の自由参加プログラムとして「原発と信仰」についての話し合い。
13
日 主日礼拝 聖書講話 (吉村孝雄)、主にある賛美(徳島聖書キリスト集会による)、数人の感話(証し)など。
・今回の四国集会の責任者である、小笠原 明兄のコメント。「集会は、聖霊が降り賜うところ、全員参加のもと、聖霊をいただき、主の呼びによって会の運営をはかりたい。」

○徳島聖書キリスト集会から購入できるCDその他
・讃美歌CD「人生の海の嵐に」定価3千円ですが、徳島聖書キリスト集会に申込まれると、特別割引価格でお届けできます。今月号にこのCDを聞いた感想を多く掲載したように、多くの方々から好評です。
・原発関連のDVD、CD
①小出裕章 徳島での講演の録音。MP3。
②NHKのETV特集「高木仁三郎が伝えたこと」DVD。
③毎日放送TV 原発に反対してきた京都大学原子炉実験所の研究所たち。(1枚百円、送料百円。)
④まばたきの詩人コンサート録音。(水野源三の詩を歌う)2010年徳島での録音。2枚セット 200円送料百円。

○4月~5月のスカイプで参加できる集会
以下の集会には、スカイプで参加できます。参加希望の方で初めて加わりたいと希望される方は、吉村孝雄まで、メールで連絡ください。そうすれば、各集会で実際にパソコンでスカイプの操作を担当する方のスカイプ名、メールアドレスをお知らせしますので、スカイプで検索し、その担当者宛てにコンタクト要求をして、実際にスカイプで会話をするテストをしておいてください。
すでに参加したことのある方々は、これらの集会にスカイプで参加希望される場合には、その担当者宛てにメールで連絡しておいてください。
なお、日曜日の主日礼拝、集会場にはインターネットの回線がADSL、光ともに設備がなく、そのために無線でインターネットできる契約をしている集会員によってインターネットができるようになっており、それを用いてスカイプでも参加できます。
しかし、日によっては接続が十分でなかったり、音声が聞き取れないなど不都合が生じることがあります。
4月
19
日(木)午後7時半~9時 いのちのさと作業所での集会
22
日(日)午後2時~4時 高槻聖書キリスト集会(大阪府高槻市 那須宅)
24
日(火)午後7時半~9時 移動夕拝(吉野川市 中川宅)
27
日(金)午後8時~9時半 スカイプ集会(これは参加者はすべて自宅でスカイプで集会に加わります。)
28
日(日)午後1時半~3時 つゆ草集会(病院個室での集会)

5月
3日(木)、17日(木)午後7時半~9時頃 いのちのさと作業所での集会
7日(月)小羊集会 午後3時~5時頃
8日(火) 午前10時~12時 海陽集会(徳島県海部郡 数度宅)
9日(水)午後7時半~8時半 北島夕拝
11
日(金)午後8時~10時 天宝堂集会(徳島市 綱野宅)
14
日(月)、28日(月)午前10時~11時 藍住集会 (板野郡藍住町 笠原宅)
14
日(月)、28日(月)午後1時~2時半 北島集会(板野郡北島町 戸川宅)
22
日(火)午後7時半~9時 移動夕拝(奥住宅)
27
日(日)午後1時半~3時 つゆ草集会



リストボタン編集だより

○前月号で紹介していた、原子力発電に関するDVDなど購入された方からの来信の一部を載せておきます。

・高木仁三郎氏の「あきらめから希望へ」は予想していたようにとても関心があり、私の現況にもよく似ているので、夢中で3回拝見しました。DVDが、残されていてよかったです。ありがとうございました。
 彼は無責任な原子力利用の危険性と対応啓蒙、世のため人類のために行動しているのに、世の中から妨害され無視され、死んでからで無いと人々が安心して相手にしてくれないのかなと思いました。
高木さんの倫理観、正義感には本当に敬服の至りです。高木さんはクリスチャンではなかったが、聖書の知識は深かったと聞いています。彼が執筆した文章からはそのことが伺えます。(九州の方)

○去年から長期にわたって、夜空にその強い光をみせてくれていた木星が現在では、夕方に西の空低いところにあって、光も弱く見えます。
そのかわりに、火星がその赤い輝きを、夕方の南の空に、しし座のなかに見えています。もし火星を見たことがないという方がおられましたら、いまは暗くなってから、ぜひ南の空を見上げてください。ひときわ明るい赤い星、それが火星です。
金星はなお宵の明星として輝き続けて私たちに光のメッセージを送ってくれています。

この「いのちの水」誌という小さきものも、神を知らないで魂の闇に苦しむ人のところにみ言葉の光が届くように、そしてすでに信仰を与えられている方々には、み言葉の深い意味の一端をすこしでも明らかにでき、そこから神の言葉の持つ力をさらに与えられて欲しいとねがっています。

○3月号の訂正
13頁 4段目左9行 一酸化炭素→二酸化炭素(スキャナでの読取ミスが修正されていませんでした。)
25頁 2段目右11行 文字も→ロシア文字も