荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。
                                (イザヤ356



20125 615号 内容・もくじ

リストボタン手のひらに刻みつける愛

リストボタン希望の源としての神

リストボタン神こそわが望み、心を高くあげよう―詩篇25―  

リストボタンキリストの一致への熱意と福音伝道―使徒パウロ

リストボタン宇宙開発と原子力開発

リストボタンことば―出かけていく他

 リストボタン編集だより―来信より

 リストボタン休憩室―5月の星

 リストボタンお知らせ



リストボタン手のひらに刻みつける愛

神の言葉こそは、神様のご意志と、万物を創造した力がこめられているゆえに、最も大切なものである。
聖書の最初に書いてあるように、いかなる闇にも神の言葉によって光はもたらされる。 死という最大の闇にも光を与え、復活させる力がある。
それゆえに、最も大切なものである。私たちは人間の言葉でなく、神の言葉を求めることで、祝福される。
それゆえに、次のように言われている。

…あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、
これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、…(申命記 1118

人間の本当の不幸とは、病気や事故、あるいは貧困ですらない。それは神の言葉を知らないことである。それゆえにこのように繰り返し強調して言われている。
けれども、このように刻みつけるということは、人間の側のなすべきことで終わるのでない。
神がその愛のゆえ、信じる者を決して忘れないことをあらわす象徴的なこととして、その手のひらに刻みつけてまでして覚えて下さるという。

…たとえ、女たちが(自分の生んだ子を)忘れようとも、
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。 (イザヤ書491516

現代の人も、何かを忘れないために、手のひらに書いておくという場合がある。
神が愛するものをどうしても忘れることがないようにと、手のひらに刻みつけるという。
大多数の日本人は、残念なことに神の愛どころか唯一の神がおられることすら信じない状態であるが、このイザヤ書の著者は、神がその愛するものを覚えて手のひらに刻むその愛をはっきりと感じ取った。それは特別に神の愛を啓示された体験であったゆえに、このように記したのである。
また、別の箇所では、詩篇の作者が、神につぎのように願っている。

…瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の蔭に隠してください。(詩編 178

からだ全体で最も敏感に反応して守ろうとするのが瞳であるから、神はそのようなお方だということをこの詩の作者は知っていたのである。
神がそのようなお方であると全く信じていなかったらこのように、祈り願うこともあり得ないからである。
さらに、神は私たちの深い悲しみを顧みてくださる。
別の詩篇の作者は、神は私たちの涙を革袋にたくわえてくださるお方であるのを知っていた。

…あなたはわたしの歎きを数えられたはずです。
あなたの記録にそれが載っているではありませんか。
あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。(詩編 56の9)

革袋に涙をたくわえる、この意表をつく表現の背後には、深い悲しみのゆえに、とめどもなく流れる涙があったのがうかがえる。ほかの何ものによってもいやされないその悲しみを神だけは分かってくださる。
そしてその涙の一つ一つを覚えて下さっているという信頼があったゆえに、このように願っているのである。
大国の攻撃によって国が滅びゆくという苦難のときに現れた預言者エレミヤにも、そうした深い悲しみがあった。
…わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、夜も昼もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために。
(エレミヤ書 823
あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。 (同1317
このような箇所は、単にエレミヤ個人の悲しみを書き記しているにとどまらず、その深い悲しみを知ってくださり、そして慰め、励ましてくださる愛の神を、作者ははっきりと知っていたのを表している。
そしてたしかに、エレミヤは、その深い悲しみと敵対するものに取り囲まれた孤独な歩みを神によって励まされ、支えられていたのであった。

それでは、歩けない者、疲れて立ち上がれないような者に対してはどうされるか。

…同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書 464

神は私たちの弱さを深く顧みてくださり、その慈しみによって、私たちを背負って歩いて下さるという。
さらに、砂漠的な土地、草木もほとんど生えないような所を、エジプトから目的の祖国に導かれるとき、つぎのように言われている。
…あなたたちは見た。
わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。
(出エジプト記 194

こうした記述は、今から二五〇〇年から、三〇〇〇年ほども昔に、神から語られたこととして伝えられてきた。
そしてそのようなはるかな昔から現代に至るまで、こうした神の愛に関する記述はそのままあてはまるのである。
私たちも静かに振り返るとき、目には見えない神の大いなる翼に乗せられて今日まで歩んでくることができたのである。
また、さまざまの罪を犯してもなお、私たちを神の手のひらに刻んで下さっていたからこそ、今もなお、神の御手のうちに置いてくださっているのである。



リストボタン希望の源としての神

だれでも、未来への希望がある。子どもに大人がよく何になりたいか、と尋ねると野球の選手とか保母さんとかパン屋さんになりたいという。
幼い子どもの希望だけでなく、生きているかぎり私たちは、何らかの未来への希望を持っている。
○○へ行きたい、もっと○○が欲しい、健康が回復してほしい、よい家庭、心の通う友だち、あるいは、いま何らかの病気や悩みを抱えている人は、その苦しみから解放されること…等々、子どもから大人まで、そして病弱な人から健康な人まで、すべてよりよいものを求め、願う希望を持っている。
しかし、そうした希望は、実現できるという保障はなく、願いであり、夢のようなものであることが多い。
このような希望ではなく、必ずかなえられる希望というのを聖書は約束している。すでに、旧約聖書の古い時代、今から3700年ほども昔に、アブラハムは神から呼び出され、あなたは、郷里を捨て、友人、親族から離れて私が示す地に行きなさいと命じられた。
アブラハムは、その遠いところ、全く未知のところへと神の言葉を信じていくことになった。彼は乳と蜜の流れる地と言われるよき土地を与えられると信じて旅立った。
このように、神から与えられる希望は、強い力で迫ってくる。人間が思い描く希望は、夢のようで、実現に至らせる力はなく、さまざまのこの世の力によって壊されていくことが大部分である。
しかし、人間を超えた力を持っておられる、全能の神に由来する希望は、いかにこの世の出来事が起こって妨げようとも、壊れることがない。
それは信仰から生まれる希望である。全能の神を信じない場合にはそうした強い希望は生まれない。
神は無から有を生み出す、それと同じように神は希望の無いところに、それまで全く考えることもなかった希望をも生み出すのである。
アブラハムには、昔からの土地でずっと生活するということしかなかった。しかし、神はそのような彼に、まったく新たな希望、考えたこともない希望を与え、新たな生活へと導かれたのである。
さらに、アブラハムはその後、神からあなたの子孫は夜空の星のようになる、と言われた。神の全能を完全に信じるところまでいっていなかった彼であったが、その神からの言葉は、未来へのともしびとなって彼の希望となり続けた。
そしてその神の約束は、アブラハムだけでなく、その後の子孫にもずっと希望であり続けた。
このように、聖書における希望は、神から来る。全能の神が、あらゆるこの世の妨げをも超えて実現することを示されるゆえに、その希望は必ず実現するという本質を持っている。
この希望は、聖書全体に見られるが、とくに詩篇や預言書においては、いかなる現実の闇や困難をも超えて、神が希望を与えることが記されている。
そうした不滅の希望をさらに完全にしたのがキリストの到来であった。キリストは私たちが心の弱さのゆえにどうにもならない現実をも見据えて、その弱さや醜さを我が身に担って下さった。そこに、その弱い現実から解放されるという希望が生まれた。これは人間の根源にかかわる希望であった。
そのために、十字架は世界中で希望のシンボルとなった。十字架はキリスト教のシンボルと思われているが、それは単なるキリストの教えを表すのではなく、実は大いなる希望を指し示すものなのである。そこに私たち弱いものへの招きがあり、赦しがある。神の愛がある。神の愛こそは、希望の究極的な源だからである。
そうした愛が、地上の生活においてどうしても回復できない私たちの苦しみや悲しみ―それは愛するものの死であり、また人間関係の分裂、また取り返しのつかない罪、自分の病気の耐えがたい苦しみ等々を最終的に解決してくれるものとしての復活が与えられている。
復活こそは、十字架とならんで人間の究極的な希望となっている。死の力、それはあらゆるものをのみこんでいく。どんなに親しい人、愛で結ばれた人間同士も死によって引き裂かれる。深く結びついているほど、魂には深い空洞が生まれる。その回復しがたい傷をいやすもの、それが復活である。
私たちはただ神とキリストを信じるだけで、復活させていただける。霊のからだ、完全なからだとなって、しかも愛の神の御前にて復活させていただき、いっさいの涙や悲しみから永遠に解放される。これは究極的な希望である。
この希望がなかったら、人間がこの世に生きることは次第に希望が壊れ、消えていくしかない。火が一つ消え、また一つ消えていくようなものでしかない。
復活させていただけるという希望こそは、生きることが絶望的な状況であってもなお闇に輝く星のようにさらに強くよみがえってくるのはつぎのような箇所からもわかる。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント1の8~10

普通、希望という言葉の内容は、よい生活、楽しく幸いな生活であろう。地位や経済的豊さ、人間関係のよさなどもみなそれである。だから、そうしたものがすべてなくなる死というものは一切の希望がなくなることだと思われている。
しかし、聖書においては、その死ということに直面して最も強い希望が芽を出してくる。それがここに引用した復活への希望である。ただ、神の全能とキリストの愛を信じているだけで、私たちは必ず復活させていただける。キリストの栄光のような姿として。 (フィリピ書3の21
さらに、希望がまったく消えたと思われるようなとき―主イエスも十字架上で、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!との深い叫びを出された。
しかし、それでもなおこのように神に向って叫ぶというところに、希望の光が残されていたのがわかる。
人間は肉体を持っているゆえに、そのからだが途方もない苦しみにあったときには耐えられない。考えることもできない。ただ叫び祈るだけとなる。それでも、神は、見放したのでなく、たしかに側におられたゆえに、キリストは復活された。
人間の側でどんなに希望がないように見えても、なお神は求めるものの近くにいてくださるのだという希望がここにある。
こうしたすべての希望は神に由来する。希望の神、と言われているとおりである。

…希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、
聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (ローマ 1513

愛の神、真実な神、正義の神であり、慰めと励ましの神であり、そして希望の神なのである。
信仰こそは、それらの出発点にあるからこそ、喜びも魂の平和も信仰から来る。そして、その信仰によって与えられる聖霊が、望みなきところであっても、希望でみちあふれさせてくださるということを使徒パウロは知っていた。
これは、単なる学問や思索によるのでなく、直接に主からの啓示と聖霊が与えられたことによって、このような確信が与えられていたのである。



リストボタン私たちが今あるのは

私たちが今あるのは、何者のおかげによってであるか。日本でよく言われるのは、ご先祖様のおかげという言葉である。先祖がいたから私たちはあるのだ、だからご先祖さまを大切にまつらないといけない、というように言われることを多く耳にする。
しかし、私たちが存在するのは、先祖が単にいただけでない。その先祖が生きていけたのは、その人たちの周囲のいろいろな人たちの衣食住全般にわたる働きによってである。
例えば、主食となる米や麦、それは農業の人によって生産される。そうした仕事にかかわる人がいなかったら生きていけないし、その農業のためには、水路を造り維持しる人がいなければ農業はできない。
また現代なら、農産物を運搬して購入できるようにするためには、車やそれを作っている会社、そして車一台を製造するには、鉄鋼メーカー、塗料会社、ゴム会社、電気関係の会社…等々実に多数のさまざまの会社が関係している。
そして販売する店も必要である。農業だけでなく、衣服、住居、農機具、耕作のための道具等々があって初めて生きることができる。
病気になったり大きな怪我のとき、医者や薬により、また誰か他人の助けがなかったら生きていけない。
先祖だけを大切にということが、無意味であることはこのようなことを考えても直ちにわかることである。
さらに、先祖というと何か自分の血筋につながっている人ということで、何となく祖父母やそのまた祖父母といったものを思っている場合が多い。しかし、そうした先祖は実はきわめて多数存在するのである。
自分の両親は二人、そのまた両親は二人だから、二代さかのぼるだけで、4名の先祖がいる。さらに3代前になると、4名のそれぞれに両親がいるから、8名、さらにさかのぼると、16名となる。これを、30代さかのぼるとどれほどになるだろうか。
10
億7千万人ほどになる。
4
代さかのぼっても16人にしかならないのに、どうして30代で10億人もの先祖の数になるのか、といぶかしく思うなら、じっさいに計算すればわかることである。(*

*)なお、高校の数学でならう対数の知識があれば、簡単に概略の数字は出てくる。
1世代さかのぼると2人の親がいることになる=2の1乗
2世代 4人=2の2乗
3世代 8人=2の3乗
----------------------
30世代 X人=2の30
logx
30log230×0.39 (概略)
これを解いて x=約10の9乗=約 10億人 。この方法を使うと50代さかのぼったときの先祖の概略の数もすぐに計算できる。


私たち一人一人は 30代ほど歴史をさかのぼるだけで、10億人以上の人間が先祖にいたことになる。これは、だれであっても、みなつながりあっているということで、自分の先祖などという家系図などで見るような単純なものではない。
言い換えると、私たちは無数の人たちがいて、現在がある。
しかし、そのような過去の人間だけいたら私たちがあったのでない。
そもそも、太陽がなかったら、生命は存在しないし、空気がなかったらやはり私たちは存在できない。また、緑色植物がなかったら、バクテリアから人間までその生きるためのエネルギー源としているブドウ糖がつくられず、生きていけない。
さらに、その植物を生み出す大地、土の存在があればこそ、植物は育つ。
そして、その植物が大地からさまざまの栄養分を吸収して育つが、それらは地中の細菌、カビなど微生物や昆虫類の働きによっている。それらの微少生物がなかったら、やはり植物は育たず、人間も生きられない。
このように考えると、私たちが存在するのは、単に両親や先祖、あるいはお世話になった若干の人たちとかいう問題でなく、ありとあらゆるものがあっていまの私たちが存在しているのである。
そして、そのような昔生きた人間を創造したのも神であり、太陽や緑色植物、微生物などを作ったのもまた、人間でなく、神である。
それゆえ、私たちは、無数の網の目のようなかたちで神の創造されたものによって守られ、生かされてきたと言える。 そのことは今も同様であり、、結局いっさいは神のおかげなのだと言える。
このような周囲の人間や自然のすべてによって今の私たちが存在しているのであり、神を信じ、神を愛するものには、そうしたすべてのものが互いに働いて益となるというのが、使徒パウロが受けた啓示であった。

…神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っている。(ロマの信徒への手紙8の28

このことを信じることができるとき、さまざまの不可解なこと、悪意や事故、自分の罪、弱さなど、心を滅入らせる出来事が次々に生じてきてもなお、やはりパウロが書いているように、つねに喜び、感謝することができるようになるのだと言えよう。
そして、このことは、すでに今から2500年以上も昔に、次ぎのように言われていることであった。
…主に感謝せよ。恵み深いゆえに。
その慈しみは永遠であるゆえに。(詩篇136の1)*

Give thanks to the LORD, for he is good. His love endures forever.

*)新共同訳は、恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
と訳されているが、原文では、「感謝せよ、主に、というのは、恵み深いから、慈しみは永遠だから」というように、まず、感謝せよ が冒頭にあり、主に、と並び、さらに、理由を表す接続詞(ki)がある。英訳は、それをfor(というのは、なぜなら)で訳している。


そして、この詩篇だけでなく、詩篇の最後の 部分に、繰り返し、神への感謝と賛美へのすすめが壮大なコーラスのように記されている。これは、人々への勧めであり、同時に、神にあらゆるものが賛美することが最終的目標であることを詩篇の作者が啓示されていたことを示すものである。
ハレルヤ! 天において主を賛美せよ
日よ、月よ、輝く星よ 主を賛美せよ
主を賛美せよ
山々よ、川よ、すべての丘、木々よ…
若者よ、老人、幼な子よ… (詩篇148より)

不安や動揺に満ちたこの世界、それは数千年前から変ることがない。それにもかかわらず、このような賛美の世界がすでに知られていたことに驚かされる。
それは、幼な子のような心で、神の愛とその万物の創造と支配を信じる魂に与えられた啓示であった。
現代の私たちも、主イエスが言われたように、その幼な子のような心で、まっすぐに神とキリストを仰ぎ、その愛を信じるときに、こうした豊かな賛美の世界へと導かれていくのを信じることができる。



リストボタン神こそわが望み、心を高くあげよう―詩篇25篇―

主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。
あなたに望みをおく者はだれも (3節) 
決して恥を受けることはありません。
主よ、あなたの道をわたしに示し
あなたに従う道を教えてください。(4)
あなたのまことにわたしを導いてください。
教えてください
あなたはわたしを救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みをおいています。(5)

この詩ははっきりとした特徴を持っている。それは1節にある「あなたを仰ぎ望む」という言葉である。この言葉を言い換えて3、5、1521節にあるように、「あなたに望みをおいている」「主に目を注いでいます」と、いくつかの言葉でそのことを表していて、初めから終わりまで、神に望みをおくという基調がある。
この世のあらゆるもの―特定の人間や自分の能力、考え、あるいはお金や健康など目に見えるもの、あるいは社会の組織等々は、必ず壊れる。そこに希望を置いているなら、そのような希望も必ず壊れる。
この作者は、人間の本当の希望はただ神にあることを深く知っていた。

1節の原文は「わたしはわたしの魂を引き上げる。」英語訳は原文とほぼ同じように訳されている。
I lift up my soul.

人間の心は自然のままでは狭く、低いところへと落ちていく。そういうことから、この詩人はまず心を高く上げようということから始めた。
私たちは、うっかりすると日常生活の中で心がだんだん低く、汚れてくることが多いので、主日礼拝のような礼拝集会は、霊性を高く引き上げようとするのが目的である。みんなが集まることによって、またその集まりの中にいてくださる主イエスによって、共同で高くあげていただくためにある。
このように心をあげることは礼拝の基本の精神を表すので、讃美歌第2編では、最初に「心を高く上げよう」と題した讃美歌が置かれている。

こころを高くあげよう。
主のみ声に従い、
ただ主のみを見あげて、
こころを高くあげよぅ。
霧のようなうれいも、
闇のような恐れも、
みなうしろに投げすて、
こころを高くあげよぅ。
主から受けたすべてを、
ふたたび主にささげて、
清きみ名をほめつつ、
こころを高くあげよぅ。 
(讃美歌第2編1番より)

このようにまず心を高くすることは、わたしたちがいろいろな人間的なものから目をそらして、神を見つめようとすることにある。
そうすると神が助けてくださって、よりいっそう高く上げてくださる。自分で自分の心を高く上げることは、なかなかできないことだが、神に向って心の目を上げる、主をみつめようとするその心が神によって喜ばれ、そうしなかったよりも引き上げられることは確かなことである。
ときにはそのように引き上げられずに、泥沼にあえいでいるような気持ちが続くことがあっても、なおも、あきらめないで、主を仰ぎ続けるときには、時が来て確かにそのような霊的な泥沼から引き上げられる。
そして3節にあるように、神をいつも見つめて希望を持っている者は、決して恥を受けることがない。これは、単に恥ずかしくなることがないということではなく、見下され踏みつけられてしまうことがない、人の悪意によって滅ぼされることがないということである。
このすぐあと5節に「あなたは私を救ってくださる神」と言われているように、神を信じ、神に希望をかけているかぎり、滅びることなく、救われるのだという確信である。
どんなに追い詰められて苦しい中にあっても、その中で神のことを忘れなかったらまた道が開けていくということは、信仰を続けたきた人は、誰もが経験していることであろう。

 4節「あなたの道を…」には、この詩人がわたしたちの歩むべき具体的な道についても、深く思っていたことが分かる。多くの英訳ではこの後のほうの「道」は「小道」path とも訳されている。(*

*Make me to know your ways, O LORD; teach me your paths. (NRS)
主よ。あなたの道を私に知らせ、 あなたの小道を私に教えてください。 (新改訳)


道という原語にもいくつかあり、詩では同じ言葉を繰り返さないことが多いので、別の言葉が用いられているということもあろう。
しかし、たしかに神に従う道は狭い。主イエスが言われたように、「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。」(マタイ7の14
わたしたちは神を見つめなかったら、神の道など、まるで関心がないし、教えてくださいという気持ちにもなれない。
この詩人が神の道と共に思い起こしたのが、神の真実である。人間はなかなか真実ではありえない。言うことも行うことも、間違ったり、嘘を言ったり、言い過ぎたりする。
ヨハネの福音書にある次の有名な言葉は、私たちの歩むべき「道」について完全な形で表している。

…私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14章6)

主イエスご自身が道であり、真理であり、命である。これは主イエスが道を教える以上に、主イエス自身が真理そのものだというのである。主イエスご自身が命であるから、主イエスと結びつけば、わたしたちもその道をひとりでに歩ける。
歴史上の有名な思想家や宗教家たちは、彼等が真理とすることを教えたり説明するだけであるが、主イエスは、イエスご自身が命であり、真理である。それゆえに哲学やいろいろな思想に関する難しい本を読んで勉強しなくても、主イエスを信じて受け入れるだけで道そのものを歩んで行ける。

主よ思い起こしてください
あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。(6節)
わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず (7)
慈しみ深く、御恵みのために
主よ、わたしを御心に留めてください。
主は恵み深く正しくいまし
罪人に道を示して下さいます。
裁きをして貧しい人を導き (9)
主の道を貧しい人に教えてくださいます。(10
その契約と定めを守る人にとって
主の道はすべて、慈しみとまこと。
主よ、あなたの御名のために
罪深い私をお赦しください。

この第二段において、作者は、一貫して自分の罪深きことを神に告白し、その罪の赦しを求めている。罪とは人間のあるべき姿、神様が人間に求めておられるあり方からはずれる心の動きや行動をすべて含んでいる。
自分の心に生じる思い、過去に犯してきた数々の間違った思いや行動、それらすべてをはっきりと見つめ、その赦しを乞うている。
こうした心の汚れ、罪というのは、神からの赦しを受けないかぎり、清くならないし本当の魂の平安がないからである。
人間の本当の心の叫びとは、健康や家族、人間同士のよい関係、長寿、経済的な豊かさ、人から認められること等々ではなく、この心のなかの不純さ、罪が清められたいということなのである。
 しかし、それは私たちの意識の奥深いところにあるために、通常は気付かない。罪ということすら分からなくなっているのが現実の人間である。
それは、神という愛や真実、正しさという永遠の基準が見えないときには、汚れも、利己的な心も、また不正も全体に感じなくなるからである。純白の布を背景におくと、わずかの汚れもわかる。しかし、汚れがひどいほどそこにいろいろな汚れがついても気付かないのと同じである。
私たちの心は実にさまざまのもので汚れているから、気付かない。
そうした状態にあって少しでも神様のことがわかるようになると、自分のそれまで気付かなかった汚れ(罪)に気付いてくる。
この詩の作者は、神に向うまっすぐな心を与えられたゆえに、そうした自らの心の奥深いところまで過去から現在にいたるまでわかるようになった。それがこの詩のこの第二の段落にはっきりと現れている。
そして、自分の罪深いことと共に、そのような者をも見捨てないで赦して導いて下さる愛の神を知らされていた。
作者は、自分自身の罪―それも7節にあるように、若いときの罪をもはっきり思い起こしている。若いときには誰でも罪の重さが分からない。言葉によってどれほど相手を傷つけるかということがわからない。後になって、自分が深く傷ついてから思い知らされる。
この詩人は若いころに犯した罪を持ち出されて、罰せられるなら耐えられないという気持ちであり、それらを罰するということで思い起こすのでなく、慈しみと愛のゆえにわたしを思い出してください、赦してくださいと赦しを願っている。
この気持ちは、おそらくだれでも自分をふりかえってみれば思い当たることであろう。
8節、作者は、そのような罪を若いときから重ねてきた罪ふかい者にも道を示してくださる愛の神であるのを知っていた。罪人を罰して捨て去るのではなく、かえってそのような罪人にも道を示してくださる。
「貧しい人」(9節)と訳されている箇所は、原文では、アナーウィーム (*)で、これは、単に経済的に貧しいという意味にとどまらず、苦しめられている、(それを耐え忍んでいるゆえの)柔和さ、謙遜などをも意味している。
日本語訳でも、そのような多様な訳語があてられている。

*)これは、アーナーの複数形、これと同語源のアーニィなどの元の意味について、ヘブル語の辞書では、be bowed down,afflicted (曲げられた、苦しめられている)と説明されている。(BRWONDRIVERBRIGGSのヘブル語辞書による。これは、オックスフォード大学出版局・1907年刊。ヘブル語の辞書として代表的なものとされてきた。)

また11節には「主よ、あなたの御名のために 罪深いわたしをお赦しください。」他の訳では「…わたしの罪は大きいのです。」とあるように、この詩人は自分の罪の大きさを深く知っていたことが分かる。御名のため、私が赦されるにふさわしいというのでなく、神様ご自身の愛と真実ゆえに赦してくださいという願いである。
今から二千五百年から三千年ほども古い時代に、すでにこのように、自分自身を厳しく見つめ、また神の愛を深く知っていた人間がいることに驚かされるのである。
そして、こうした罪の赦しとその赦しをされる神の深い愛は、ずっと啓示として受け継がれて、キリストの十字架による万人の赦しへとつながっていくのである。

…わたしはいつも主に目を注いでいます。
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは苦しく、孤独です。(*)(16節)
見てください。わたしの苦しみを。どうかわたしの罪を取り除いてください。
敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、悪しきことを仕掛けます。(19
御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出してください。
誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。
わたしはあなたを待ち望んでいるのです。
神よ、すべての苦難から贖ってください。(1522節より)

*19節は、新共同訳では「貧しく、孤独…」とあるが、原語は、アーニィで、すでに説明したアナーウィームと同語源。圧迫されている、苦しむ、悩むという意味。口語訳では「苦しんでいる」、新改訳「悩んでいる」と訳されている。

 この段落では、作者の苦しむ現状について言っている。今のこの詩人は敵対する者から受ける苦しみの中から、敵への攻撃的な心を燃やすのでなく、そこから、自分自身の罪をも深く知りつつ、神が自分の罪を赦し、そして迫りくる悪の力に勝利してくださるようにと待ち望んでいるのである。
この詩人は過去だけではなく、今も罪が深くあることを知っていた。安全な生活の中から詩を作っているのではなく、反対者、敵のただ中で生活していたことが分かる。だからこそ切実に神を仰ぎ望み、神に希望をおき続けようとしているのである。
 このようにこの詩は二つのことが特徴となって、両方が織り成されている。
自分の罪の深さと、それにもかかわらず、赦し導いてくださる神の愛である。
若いときから今に至るまでのさまざまな罪の深さを知ったときには、心が暗くなる、そこで忘れようと思って飲食や遊びで紛らわすのではなくて、この詩人は罪を知れば知るほど神をまっすぐ仰いだ。
そうして罪を赦し清めてくださる神のことを思って、そこに希望があることを繰り返し言っている。現在は敵対する力の前で苦しみが続くが決して神への信頼を失わない。
 敵の力に、本当にうち勝つには、自分の内なる悪の力―罪の力に勝利していなければならない。そしてそれこそ、神の力による。であるからこそ、作者は神を待ち望むということを一貫して言っているのである。
今日のわたしたちもいつも主に目を注ぐことによって、さまざまな過去、現在の罪を全て清めていただけるということがキリスト信仰の根本であるということを思わされる。この詩人は苦しみや悩みなど、いろいろ抱えていたことがわかるが、そういう中で道が示されて歩んでいったのであり、今のわたしたちにも深い励まし、慰めを与えてくれる詩となっている。



リストボタンキリスト者の一致への熱意と福音伝道 ―使徒パウロ

新約聖書のなかで、ローマの信徒へ宛てた手紙は、キリスト教信仰の中心になる内容が記されている重要なものである。それを書いた使徒パウロは、彼が受けた啓示を詳しく、かつ綿密に書き綴っている。そのローマの信徒への手紙のなかで、いかに共同体の一致を重んじていたかをうかがわせる内容がある。(1522~)
キリスト教伝道の出発地点は、エルサレムであった。弟子たちはキリストが捕らわれたときに、皆逃げてしまった弱い者たちであったが、そのエルサレムで聖なる霊が注がれ、それによって新たな力を得てキリストの福音伝道に命をかけるように変えられたのであった。
しかし、その後、エルサレムのキリスト者に対して大迫害が起こり、多くのキリスト者たちは、各地へと逃げていった。(使徒言行録8の1
エルサレムに残ったキリスト者たちは、そのような状況のなかで、生活にも困難をきたす状態にあったのがうかがえる。

キリスト者の一致に向けた情熱とその源泉としての愛
そのようなエルサレムのユダヤ人キリスト者に対して、パウロは、みずからが福音を伝えることによってキリスト者となっていたギリシャの人たちからの献金をもって、エルサレムの信徒たちに手渡そうという強い気持ちがあった。
他方、ユダヤにいたキリスト者たちには、ユダヤ教から抜け出せず、キリストよりもモーセが偉大であり、モーセが受けた律法を守らねば救われないと強く主張する人たちも多かった。(*

*)それゆえに、ヘブライ人(ユダヤ人)に宛てた手紙では、イエスがモーセよりはるかに偉大な存在であることが、その最初から強調されている。(ヘブル書123、、316

とくに割礼を受けないと救われないという人たちは、パウロがそのようなものは不要であり、キリストを信じるだけで救われるとしたために、強い反発が生じていた。
パウロはそうした自分に反対している人たちの多いエルサレムに向けてあえて行こうとしたのである。
それは、ユダヤ教、律法に固執して本当のキリストの福音を受け付けようとしないユダヤ人キリスト者たちとひとつになるためのパウロの主にある愛からであった。
エルサレムのユダヤ人たちは、キリストを信じるようになったユダヤ人に敵対していた。
また、へロデ王も、キリストの12弟子の一人のヤコブを殺し、さらにはペテロをも捕らえて牢に入れた。
パウロ自身も、ユダヤ教の指導的人物であったのに、キリスト者に転向したというので、ユダヤ教の熱心な人たちからは強い憎しみを受けていた。
パウロが、ギリシャのキリスト者からの献金をもって行こうとしていたエルサレムとは、そのような状況であり、パウロにとって、命の危険があることは明白であった。
しかし、 敵を愛せよ、という主イエスの教え、神の愛が指し示すその方向をパウロは、みずから多大の犠牲と危険をはらって実行したのである。

私たちの礼拝とは、私たちの全身全霊を捧げることであり、日曜日の礼拝だけに参加するというようなことで終わるのではない。
そこから、具体的に互いに支えあうということが浮かびあがってくる。
パウロの、そして新約聖書のとくに重要なものは、ローマの信徒への手紙である。そこに人間にとって最も重要な、人間の本質はどのようなものか、救いとはいかにして与えられるのか、救われた者はいかに生きることができるのか、この世界はどのような歩みをするのかといったいつの時代にもだれにとっても最も重要なことが書かれているからである。
その重要な文書に、献金という具体的な問題についても、それがどのようなはたらきをするのかがパウロの行動を通して簡潔に記されており、この問題が持っている大きな意味をさし示している。

はるかな未知の地を目指して
彼は、ローマの信徒への手紙の終わりに近い部分で、今後の伝道の方針に触れている。
それは、当時の世界を支配していたローマ帝国の中心地であるローマを訪問したいと何度もねがっていたが、それは果たすことができなかった。しかし、今度はようやく行くことができるだろうという見通しを語る。
しかし、それも二つの理由で、意外な内容となっている。
ひとつは、ローマに行くのは、目的でなく、さらに遠いスペインに行くのがその目的であり、その途中の立ち寄り地としてローマを訪れる予定だった。
それはなぜか、この記述の直前で、彼は、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、熱心に努めてきた。」(ローマの信徒への手紙1520
彼は、まだ唯一の神のことやキリストのことを全く知らない人たち(ユダヤ以外の国の人たち―異邦人)に告げ知らせることをその使命としてきた。
遠い国々に出かけたのは、聖霊のうながしによってであった。
彼らが主を礼拝しているとき、聖霊が告げた「さあ、バルナバとサウロ(パウロ)を、私のために選び出せ。私が前もって二人に決めておいた仕事(異邦人伝道)に当たらせるためだ。」とある。(使徒言行録13の2)
そして、「聖霊によって送り出されたパウロ…」(同4節)とあって、パウロは直接に聖霊によって神をまったく知らない人たちに伝えることを第一の使命としたのがわかる。

ユダヤ人からの敵意
そして、神がそのような使命を与えたパウロであるから、彼は、ユダヤ人が救いのためには不可欠としていた律法を守ることでなく、ただキリストを信じることの重要性を語った。
律法の数々の規定―動物の捧げ物や汚れや清めに関する数々の規定などとともに、割礼という特殊なユダヤ教の習慣もあり、とくに割礼は神の祝福を受けるには不可欠だとして非常に重要なものとされていた。
しかし、パウロは、それらの律法は救いのために不要であるということ、ただ十字架につけられたキリストだけを信じて救われるということを強調したので、熱心なユダヤ教の人々から激しい敵意を受けることになった。
ユダヤ人たちは、パウロが、人々と律法に逆らい、神殿を無視するとして、エルサレムに着いたパウロを神殿の境内から引きずり出し、殺そうとした。
そのような危機的状況から、ローマ兵によって助け出されたほどであった。
このような危険は、エルサレムに行く前から、一部の神の霊を受けた人たちによって知られていた。パウロが長いコリントからの陸路や海の旅を経て、ようやく地中海沿岸の港に着いたとき、そこで、神の霊によってパウロの危険を知らされていた人たちは、パウロに対して、エルサレムに行かないようにと繰り返し懇願した。
さらに、別の預言者がきて、聖霊から知らされたとしてパウロが捕らえられることを予言した。
このように、ユダヤ人自体のパウロへの敵意、ユダヤ人キリスト者たちすら、パウロのキリストへの信仰のみによって救われるという信仰に反対している状況はまさに周囲は敵対者、反対者ばかりという状況であった。そのうえ、さまざまの人たちからその危険性が知らされ、どのような観点からも、特別な危険性があるところに、なぜ、パウロは行こうとしたのか。
しかも、ローマの信徒への手紙を書いたギリシャの都市コリントからは、エルサレムまで2千キロほどもあり、彼の目的とするスペインや途中の立ち寄り先のローマとはちょうど反対方向にある。

主にあって一つになることを目指して―敵対者への愛
パウロがエルサレムに命をかけて行きたいと願ったのは、現在のギリシャ地方のキリスト者からの献金を手渡しに行くためであった。
このことを知って、私たちは驚かされる。福音伝道のため、しかもユダヤ人以外の国々の神を知らない人たちに福音を伝えることがその使命であったにもかかわらず、このような危険をあえてしてまで、ユダヤ人キリスト者の中心地であるエルサレムに行ったからである。
それはエルサレムにいる貧しいキリスト者たちを支えるためであった。それにしても、ユダヤ以外の国々においても、ユダヤ人のいる会堂でキリストの復活や悔い改めを語ったとき、ユダヤ人から激しい憎しみを受けて、撃ち殺されようとしたこともあったから、そのユダヤ人たちの中心地、エルサレムに行けばどれほど危険であるかは彼もよく分かっていた。
じっさい、ステファノという最も初期のキリスト者は、ユダヤ人から憎まれて石で撃ち殺されてしまったほどである。そしてパウロはこの出来事にかかわっていたのであるから、ユダヤ人がキリスト者にどれほど敵意をもっているかは、自分自身もかつてはキリスト者たちを迫害して国外まで捕らえようとして出て行くほどだったから熟知していた。
このような状況を考えると、いっそうパウロがエルサレムに遠く離れたところから、危険を犯してまで献金を届けに行ったということの行動は謎のように見える。
そして、ここにこそ、パウロらしいところ、神の聖霊を受けた人にふさわしい行動が浮かびあがってくる。
それは、いかに危険であっても神の示すところに従うこと、キリスト者の一致を達成すること、敵を愛せよ、ということである。彼自身、その手紙において、次ぎのように書いている。

…あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。(ローマの信徒への手紙121420より)

敵対するもの、悪意をもって私たちを攻撃してくる者に対しては、悪意と敵意を返すのではかえって双方の中に働くサタンの力を増大させるのみである。そのときには、神から受けた愛をもって対することこそ、敵の根源にあるサタンの力を失わせることになる。
パウロが命がけで、ギリシャ地方の人たちからの献金を携えて二千キロにも及ぶ距離を出かけて行ったのは、ひとえに聖霊がうながすこの愛のゆえであったし、それによって民族宗教の枠内におさまってしまおうとするユダヤ人キリスト者の狭い信仰から、全人類に及ぶ真理であるキリストへの信仰に脱皮するようにという目的があった。
主イエスご自身が、繰り返し信じるものがひとつになることの重要性を説いたが、パウロの行動もそうした方向に沿ったものであった。
ヨハネによる福音書において、キリストが「互いに愛し合え」という戒めを特に強調された。

…わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。
互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(ヨハネ 1334

また、次ぎのような表現も同じことを別の表現でいわれたのであった。

…主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。(同14節)
(足の汚れ、それは罪の汚れと同じであり、足を毎日使って歩くことでさまざまに汚れる、それを洗い合うとは、互いの罪をゆるしあうこと、愛をもって互いに生きることを意味する。)

このような主にある愛こそが、同じキリストを信じるにもかかわらず、教義上で深刻な対立をしていた人たちの和解をもたらし、キリストにある一致へとうながす力となるのをパウロは知っていた。
その愛をパウロは、各地の異邦の国々の信徒のエルサレムの信徒たちへの目に見えるかたちの愛と敬意の表現としての献金をもちいて、表そうとしたのである。

キリストの平和による一致を目指して
ユダヤ人キリスト者たちの、律法に固執するその強さは、非常なものであった。ペテロは、特別に聖霊を受けて伝道の出発点で「神の霊はすべての人に注がれる」(使徒2の17)ことを示された。すべての人ということは、異邦人にも同じように聖霊が与えられるということであったはずである。
そのように示された人ですら、後になって、ユダヤ人キリスト者からの圧力によって、ユダヤ人以外の国の人たち(異邦人)と食事すると汚れるという考えに影響されてともに食事しなくなった。
そのことを、パウロから面と向って叱責されたことが記されている。(ガラテヤ書2の14
また、ペテロがそれ以前に、聖霊による新出発のあとも、割礼を受けていない異邦人は汚れていると思っていたが、夢のなかでその間違いが指摘されて、どんな人をも汚れているなどと言ってはいけない、と諭したことがあった。(使徒言行録10の9~28
これほど、明確にユダヤ人でなくともだれでも信仰によって救われるということが示されたにもかかわらず、なおも、ユダヤ人のように割礼を受けないと救われない、汚れているという観念から解放されなかったのがわかる。
それほどまでに、ユダヤ人は、キリストを信じるようになってもなお、モーセ律法に縛られていたのがうかがえる。
この状態にあるかぎり、キリスト者たちは、分裂した状態が続いていくことをパウロは見抜いていた。
この問題に関して、このようにユダヤ人のパリサイ派からキリストを信じるようになった人たちは、あくまでモーセの律法に固執して、外国の人でもキリストを信じるだけでは救われない。律法にある割礼を受けさせるべきだと強く主張して激しい対立と論争が生じた。この解決のために、パウロは、第一回目の小アジア(現在のトルコ地方)への伝道から帰った後、エルサレムまで、出向いたのであった。
そこで、パウロはじっさいに異邦人がキリストを信じるようになり、聖霊が注がれたことを証しし、それによって、ペテロたちも異邦人が割礼とかモーセ律法と無関係に救われることを認めたのである。
そのようなことがあったにもかかわらず、ユダヤ人たちは、長いユダヤ教の慣習に生きてきたゆえに、そこからキリストを信じるようになったといえ、彼らは、律法なしに救われるという単純な真理をなかなか受けいれられなかった。
こうした大きな壁を打ち砕くためにも、パウロは異邦人のキリスト者たちの彼等への愛と信仰を目に見えるかたちで届けようとしたのであった。
すでに述べたように、エルサレム会議において、言葉によってパウロは熱心に信仰による救いのことを語った。
しかし、じっさいに目で見える形で、ユダヤ人キリスト者たちに、異邦人の信仰の実を届けることによって、大きな壁を砕くことに用いられることを信じていたのである。
このことは、パウロの大きな願い、切実な祈りであったのはつぎの言葉からもうかがえる。

…あなたがた(異邦のエペソの人)は、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなった。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意を取り除き、律法を廃棄した。
彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった。
というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。(エペソ2の1318

こうしたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との和解に向けてのパウロの熱心がいかに大きなものであったか、それがこのギリシャ地方の異邦人キリスト者からの献金を遠いエルサレムの貧しい信徒のために持っていくという行動となったのである。
もちろん、彼のさまざまの福音にかかわる行動は自分の考えではなかった。
「…私は御霊にうながされてエルサレムに行く。」(使徒言行録2022)と言っているとおりである。

人間は、ひとつになれない。ひとつになったとしてもそれは単に、一時的なものであり、その多くは一時的に好き嫌いといった感情が一致したときでしかない。何かが起こればいとも簡単に分裂し、敵対するようにもなる。そうでなくとも無関心となり、そのまま離れてしまう。
信仰が与えられてもなお、このひとつになるということはとても困難なことであり、聖霊によって十分に浸されないかぎり、人間的な感情によって対立、分裂が生じてしまう。
カトリックとプロテスタントの対立あるいは、カトリックやプロテスタントの内部、さらにひとつの教会や集会のうちにおいても、なかなか一致が難しいのは、みな人間の持つ深い罪のゆえであり、聖なる霊を受ける度合いが少ないために生じる。
パウロはそこから、このような異邦人からの信仰と愛のあらわれである献金をもって和解のため、さらにただ信じるだけで救われるというキリスト教信仰の本質を彼のそうした行動によってもたしかなものとするという大きな目的があった。
ユダヤ人はキリスト者となってもなおも、モーセ律法に従うこと、とくにユダヤ教の必須のものである割礼をしないと救われないという主張を変えることのできない人たちが多かったからである。

信徒からの慰めと励ましによって
こうした愛ゆえの行動は、またキリスト者からの愛をも受けることで安らぎと励ましを与えられることを彼は深く知っていた。
それゆえに、スペイン伝道が目的であるが、途中のローマを訪問して、キリスト者たちからの励ましと安らぎを与えられたうえで、未知の遠い地であるスペインへの福音伝道へと出発しようとしていたのである。
彼のような勇敢な信仰的な巨人というべき人であっても、なお、このように信徒からの祈りと励ましが大きな支えとなる。

…(私が福音伝道のために)イスパニアに行くとき、ローマを訪ねたいと思います。
あなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。(ローマ 1524
…こうして、神の御心によって喜びのうちにローマへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。(*)(同32

*)「憩う」と訳されている原語は、シュン-アナパウオー syn-anapauo で、シュン syn とは、「共に」を表す接頭語で、(sym も同じ)、sym-phony 共に 音を出す→交響曲などのように数多くの語に用いられている。
アナパウオーは、主イエスが、疲れている者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。マタイ1128 の「休ませる」の原語であり、それに 「共に」という接頭語がついた形。


それゆえに、ローマの信徒に対して、祈りにおいてともに戦ってほしいとの切実な願いを書いているのであった。

…どうか私のために、私と共に神に熱心に祈ってください。(*)私がユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムの信徒への奉仕(献金を持っていくこと)が、そこのキリスト者たちに喜びをもって受けいれられるように…(ローマ1531

*)共に 熱心に(祈る) という原語は、 シュナゴーニゾマイ で、syn-agonizomai、この語にも、syn(共に)という接頭語があり、 共に 戦う がその原意。直訳は、「祈りにおいて共に戦ってください」となる。パウロはこのように、しばしば「共に…する」ことを望んでいたが、それはこのように使う言葉にも現れている


「献金」の多様な意味とその原語
この献金へのパウロの重視は、ギリシャ地方にある都市コリントの信徒に宛てた手紙にもはっきりと見られる。
パウロは、このエルサレムのキリスト者たちへの献金を、驚くほどさまざまの言葉で言い表している。
それは、何のためか、献金というのが持つ深い意味―パウロが神から示されていたその多様な内容をそうした言葉で表現するためであった。
それはパウロの弟子としてともに伝道に同行した医者のルカが書いた使徒言行録にも、出ている。

…私は同胞(エルサレムのユダヤ人キリスト者)に救援金を渡すため、何年ぶりかで帰って来た。(使徒言行録2417

ここでは、献金のことが、「救援金」と訳され、エレエーシュモネー というギリシャ語が用いられている。この語は、エレオス(憐れみ) から生じた言葉である。
ローマの信徒への手紙では、エルサレムのキリスト者たちの貧しい人々への献金を手渡すことが「援助する」と訳されているが、この原語は、コイノーニア koinonia である。このコイノーニアという語は、交わり、共有 (*)と訳される語である。

*)…私たちの交わりは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1の3)

このように、献金というものは、与える人と受ける人の交流でもあるゆえにこの語が用いられている。
次に、ギリシャの都市であるコリントの信徒に宛てた第二の手紙にも、このエルサレムの信徒への献金のことが、詳しく記されている。
次ぎのようにいろいろな訳語が用いられているが、この箇所の原語は、カリス charis であり、多くは、「恵み」と訳されている言葉である。
…この慈善の業(新共同訳) (Ⅱコリント8の19
・贈り物(口語訳、塚本訳)
・恵みのわざ(新改訳)

この第二のコリント信徒への手紙の9章でもこの献金のことが続けて述べられている。ここでも、いろいろな言葉(*
が用いられている。

*)聖徒―キリスト者たちへの「奉仕」(1節)、これは、ディアコニアであり、「援助」とも訳されている。
その少し後の箇所では、「贈り物」と訳されている言葉 ユウロギア eulogia が用いられているが、この言葉は「祝福」と訳される言葉である。
(祝福を持っていく ローマ1529、アブラハムの祝福を ガラテヤ3の14…など。)


パウロは、以上のように献金ということに対して、多くの種類の言葉を使っている。それらは、日本語では、恵み、祝福、援助、奉仕のわざ、交わり、義援金、贈り物…といった訳語になっている。
なぜ、これほどの多様な言葉を使い、しかも、使徒言行録やローマの信徒への手紙、さらにコロサイの信徒への手紙と、さまざまの新約聖書の文書にこのように、繰り返し書いているのか、意外に思われることである。
これは、使徒パウロが、聖霊という目に見えない神と同質の存在を最も重要視しているとともに、その目に見えないものが、献金という目に見えるものに働いて多くのよき働きをなすことを知っていたのである。
ちょうどそれは、人間も、それ自体は罪深いもの、弱いものであっても、神が清めて用いるときには、大いなる働きをするのと同様である。
お金も、金を愛することは、堕落のはじまりだと言われているように、自分の快楽や自分の友だちをふやすためといった自分中心のためでなく、神の国のため、神の御心にかなったことゆえに、用いようとすることは、捧げる人も、受ける人もともに祝福されるということをパウロは深く知っていた。

…この奉仕の業が、じっさいに行われた結果として、エルサレムの信徒たちは、あなた方がキリストの福音をしっかりと信じて公に告白していること、そこから自分たちにその恵みを分かち与えてくれることを知って、神を賛美するようになる。
そして彼らは、あなた方に与えられた分かちあう心というすばらしい恵みを知って、遠くにいる会ったこともないあなたがたを主にあって愛し、あなた方のために祈るようになる。―このように使徒パウロは書いている。
(Ⅱコリント9の1214より)

このように、パウロは、遠くに離れているキリスト者同士、しかもキリスト教信仰の出発点にあったユダヤ人キリスト者たちの貧しさを助けることによって相互が神の賜物で満たされ、祝福を豊かに受けていくことを見抜いていた。
ここに、信仰によって救われる、復活、十字架による罪の赦し、再臨といったキリスト教信仰の中心となる内容を伝えるという働きの背後に、目に見える献金というものを御心に従って有効に用いることの重要性が記されている。
しかも、パウロは、この献金をエルサレムの信徒に携えていくために、わざわざ以前から訪れようと思っていたローマへの訪問も後回しにし、かつ最終的な目標としていた当時の世界の果てであったスペインへの伝道もその後にまわしたのである。

パウロの生活を支えた信徒たち
そしてまた、パウロ自身も可能なときには自らテントを作って働いたが、もとより、あちこちに移動しつつ、しかも迫害されることがしばしばであったから、安定した仕事などはできなかった。テントの材料などどこにでもあるわけでなく、また、以前からテント造りをしていた人たちが すでにいたはずであるからだ。
それゆえ、彼も、生活に困窮したこともあった。

…わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れた。
あなた方のもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけなかった。
(Ⅱコリント 11の8)

「かすめ取る」とは、奪い取るということで、このような驚かされるような表現をしているが、コリントという町の人たちに福音を伝えるための生活費は、まだ信仰を持つようになったばかりのコリントの人たちからはあえて受けず、ギリシャ地方(マケドニア)の教会の信徒たちがパウロを支えるために提供した献金によって生活したのであった。
しかし、それをパウロの働きを妬みを持って見る人たち(偽りの宗教教師たち)は、ほかの教会から「奪って」きたのだ、とまでいう人たちがいた。その言葉をパウロはここであえて用いたのであった。
生活にも困ったパウロを助けたのは、マケドニア(現在のギリシアの北部からアルバニア地方にかけての地域)のフィリピという町に住んでいる信徒たちであった。

…フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもなかった。
また、テサロニケ(マケドニアのフィリピよりも西にある町)にいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた。(フィリピ 41516


キリストの愛による福音伝道への情熱
このように、みずからはしばしば生活にも困窮するような状況にあっても、なお、彼は、エルサレムのユダヤ人キリスト者の貧しい人たちへの献金を、命がけで二千キロにも及ぶ遠いところへと届けようとした。
現代のように、車とか列車、飛行機などいっさいなかった時代、ただ歩くこと、いつ嵐などに見舞われたり風がなくなったりするかわからず、その場合には方向を誤ったり前進できなくなる可能性のある危険な船旅、そして盗賊などに出会うやはり危ない陸路を通って行くのであった。
パウロにおいては、福音を伝えるということは、実に大胆であり、また行動的、危険を常に犯してなされたということが浮かびあがってくる。
そして、そのことも、パウロ自身が述べているように、自分の人間的な決心でなく、「御霊にうながされてエルサレムに行く」(使徒言行録2023)と言っているように、聖なる霊によって命じられたことであった。
聖なる霊がうながしたのは、キリストの福音が、それを知らないで魂の暗夜に苦しむ人たちに伝わるようにすることであった。そしてその福音とは、キリストの復活、十字架の死によって成し遂げられた死の力への勝利、罪という死に至る力に対する勝利がその本質である。
そして、そうした福音伝道にたずさわる人たちを支えるのが、多くの各地のキリスト者たちであり、互いにキリストの愛をもって愛し合うことこそが、そうした神のご意志にかなうことであるからこそ、彼は、献金を持っていくということにも驚くべき情熱をもってしたのである。
このことは、ヨハネによる福音書において、主イエスがその最後の夕食において繰り返し教えたこと、「互いに愛し合え」という精神に通じることである。

…あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
(ヨハネ133435

パウロが目指したように、キリスト者同士が主にある愛をもってすることによって、キリストの弟子であることが証しされ、キリストへと人々がいっそう心を向けるようになるというのである。
互いに愛し合うのは、人間的な感情にひたるためではない。それは愛し合う当事者も、その人たちの周囲にいるまだキリストのことを信じられない人たちにも、キリストを仰ぐようになり、キリストへの方向転換をうながすためなのである。
さらに、ヨハネの手紙には次ぎのように記されている。

…わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされる。(Ⅰヨハネ 4の12

キリストの愛をもって愛し合うときには、神が私たちの交流のうちに、さらに一人一人のうちにも留まって下さるゆえに、その神が私たちに敵対する闇の勢力にも勝利して下さる。
そしてさらに、福音が前進していき、苦しみにある人たちの魂に届いていくのである。
分かち合う、神からいただいたものを、主にある愛によって分かち合うということ―それはここで述べられている様な献金であったり、それを命がけで持っていこうとする行動であったり、あるいはパウロの書いた手紙が聖書となって強い力を発揮するようになったが、こうしたキリストに関する文書、現代ならば、賛美の録音(CD、テープ)、絵画、写真、手紙…そして目に見えないものとしての祈り…こうしたものを絶えず分かち合おうとする心こそが、福音を希望のない魂に届けることのために、神が用いて下さるのである。
私自身も、矢内原忠雄(*)という一人の人物が、みずからを決定的に変えた福音の力を何とかして分かとうとして書いた一冊の本によって、私はキリストの福音を知った。

*)1893~1961年。愛媛県今治市生まれ。旧制高校時代に、新渡戸稲造、内村鑑三の深い影響を受けてキリスト者となる。後、東京帝大教授。1937年、雑誌や講演で戦争批判をしたために、大学を追われる。戦後復帰し、東大総長となる。

たしかに、矢内原のその主にある愛によって私は福音を知らされたといえる。未知の人、暗闇にある人への彼の愛を神が用いられたのであった。
このようにして、キリストの福音は二千年間、伝えられてきた。
今日の不安定な世界に本当の平安と力を与えるものは、やはりこのキリストの福音であり、私たちの小さき働きを、主が用いて下さって福音の前進につながるようにと願わずにはいられない。



リストボタン宇宙開発と原子力開発

宇宙開発というと、一般的には、夢のあるロマンチックなものと受け止められやすい。宇宙からの無重力状態の映像で、空間を泳いでいるような映像を出して不思議さを演出したり、小学校の子どもへのメッセージを託したりと、いかにも平和なはるかな宇宙への思いを駆り立てるようなものとして放送される。
しかし、宇宙開発はそのようなロマンチックなものでもなく、本当に人間に未来への確たる希望を与えるものでもない。

軍事目的からの開発
宇宙開発の出発点となったのは、宇宙に向って打ち上げるロケットの開発であったが、その重要な人物は、ドイツのブラウンであった。
その開発は、ブラウンらによって考えられたが、目的は、第二次世界大戦の末期になって、イギリスへ直接砲弾を打ち込むことのできるロケットが目的であった。航空機に乗って爆弾を投下するのは、敵によって撃墜される危険性が高く、かつ人的、また航空機の損失も大きい。
もし、ドイツから直接に砲弾をイギリスに打ち込むことができるならそうした危険性も損失もないということから、研究されたのであって、明白な軍事目的であった。
戦争末期に、彼等優秀なロケット技術者はアメリカにわたり、戦争が終わったのちも、アメリカでロケットの研究を続けた。
ソ連もドイツのロケット関係の技術者を自国に入れ、またロシア人独自の研究開発を続けた。
このようにして、ロケットの能力は飛躍的に増大し、大陸を超えて爆弾を敵国に命中させるような兵器(大陸間弾道弾)も生み出された。
人工衛星の技術もうまれた。偵察機を使って敵国を調べることは撃墜の危険があり、かつ捕らえられると国家機密が漏れる恐れもあるが、地球を回る衛星から偵察し、情報を集めることができるなら、そうした危険性がない。
このように、宇宙開発は、宇宙旅行とか月着陸などのような空想的なことが実現するなどということでなく、互いに激しい軍事的目的のゆえに発達していったのである。
こうした状況に、日本も影響されていく。
日本では、1956年7月というはやい段階で、防衛庁は、宮城県で最初の軍用ロケット発射に成功しているし、現在では、軍事衛星ともみなされる情報収集衛星を保有している。
そして、2008年に成立した宇宙基本法ではその第一条に次のように記されている。
「この法律は、…日本国憲法の平和主義の理念を踏まえ、…我が国において宇宙開発利用の果たす役割を拡大するため、…世界の平和及び人類の福祉の向上に貢献することを目的とする。」
さらに、第二条にも、「宇宙開発利用は…日本国憲法の平和主義の理念にのっとり…」とあり、いずれも、憲法の平和主義に従ってなされることが記されている。
それほど、宇宙の開発は、容易に軍事と直結するからである。
一般の人々の受け止めでは、宇宙開発と憲法の平和主義とはまるで結びつかないイメージがあるのではないか。宇宙での無重力状態をスペースシャトル機内で泳いで見せたり、何らかの実験をするなど、およそ、憲法9条とは関係のないようなものとしてマスコミなどでは伝えられているからである。
これは、こうした平和的な、文化的なものだという意識を子どもたちや一般の人たちに植えつけるための方策ともなっている。
これはちょうど、原子力発電が、安全だ、平和的利用だ、資源のない日本にふさわしいエネルギーだと、よいことばかりを教育やマスコミで宣伝されたのと共通したことである。

原子力発電と宇宙開発
原子力発電もまた、その出発点は軍事目的であり、原爆でわかるように、相手を徹底的に攻撃、破壊するために考えだされたものであった。
宇宙開発事業団法に対する国会の附帯決議が1969年6月に、参議院科学技術振興対策特別委員会で行われており、その中に、「我が国における宇宙の開発及び利用に関わる諸活動は、平和利用の目的に限りかつ自主、民主、公開、国際協力の原則のもとにこれを行うこと」という条文がある。
これは、それより以前、1955年にできた原子力基本法の考えとも深い共通点がある。
その第2条は次のような内容である。
「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」
このように、この両者が、軍事利用ということから始まったゆえに、常に軍事のために使われる可能性が高いために、平和利用とか憲法9条の精神に沿ったようにということが記されねばならなかったのである。これらはその出発点から同じ問題点を持っていたことを示している。

宇宙は生命あるものにふさわしいか
宇宙そのものは、全く明るい世界でも希望に満ちたところでもない。
宇宙へ出て行くこと、それは、死の世界である真空の中であり、各種の危険な放射線が飛び交うところであり、また、無重力であり、さらに、きわめて低温である。例えば、月の表面では、太陽が当たらないところでは、マイナス170度、さらに2009年に、 アメリカ航空宇宙局 NASAの月探査機が月の南極にあるクレーター内部の永久影の温度を計ったところ、マイナス238度以下にもなることが明らかにされた。
また、無重力状態では多量に人体の骨のカルシウムやリンが溶けだしていくためと、筋肉が退化するために、毎日2~3時間もただそのために、運動を続けなければならないという異常な空間である。宇宙飛行士が地球に帰還すると、立って歩けない状態となり(そういうところは映像ではださないが)、元の生活に戻るには数カ月を要するという。
筋肉は、無重力状態では、5日間でその機能が30%も低下し、18日間の宇宙飛行で地上に帰ったとき立ち上がれない状態になる。
2011年の11月に、国際宇宙ステーションから地球に戻った宇宙飛行士の古川聡氏(東大病院の元医師)は「体はまるで軟体動物のようで立っていられない、歩けない」と地球帰還後の体調について語っている。
骨については、無重力状態では1ヶ月に約1パーセントの割合で骨の質量が減少するので、10ヶ月も過ごせば地上で30歳から75歳まで年を取った分に相当する骨の無機成分が失われるという。
そのようにして弱った筋肉は地上でのリハビリによって比較的短期間で回復していき、普通に生活できるようになるが、骨そのものが元通りになるまでには、数年もかかると言われている。
また、機体の故障で地球に帰れなくなればそのまま死への旅立ちとなる。
宇宙とはまさに徹底した死の世界である。
そのような死の世界であるのに、なにかバラ色のような、よいことばかりを提示して、巨額の費用を使っていく、それは原子力の「平和利用」という名目で推進していったやり方と似通ったものがある。その背後には、軍事目的に転用しようという意図が潜んでいる。
原子力もバラ色の世界が開けるように思わせたが、それはひとたび事故となれば、死の世界、苦しみと悲しみの世界へと導く悪魔的なものなのである。そして事故がなくとも、その廃棄物は数十万年も管理の必要な、途方もない毒物、魔物であり続ける。
宇宙に出て行くことは、かつて、コロンブスが未知の世界をめざして出かけてそこでアメリカ大陸を発見したことのように、人類が未知の世界を開拓するようなイメージで言われることがある。
しかし、コロンブスは地上の世界であり、生命が存在できる世界の範囲内であったのに対して、宇宙は絶対的な死の世界であるという点が決定的に異なっている。
原子力が人間の生存を根本的に脅かすものであることは、原爆、水爆などの核兵器や、チェルノブイリ、福島などの原発―の大事故で明らかになった。
人間は、原子核という本来手を触れるべきものでないものに触れてしまって、途方もない困難を自ら招いてしまった。 徹底した死の世界である宇宙に出て行くということも、本来人間の考えるべきことでない世界に手を触れようとしていることなのである。
それらが原理的に生命と相いれないこと、さらに、たえず軍事的に用いられる危険性を持っているからである。
そのような方向に莫大な費用をかけるのでなく、この神から与えられた地球での福祉のためにこそ、費用をかけるべきなのである。



リストボタンことば

(356)出かけていく
私たちは、人々と出会うために、自分から出かけて行かねばなりません。
出会いなさい。遠くに住む人にも、すぐ近くにいる人にも。物質的に貧しい人にも、精神的に貧しい人のところにも。 (マザー・テレサ)

We should go out to meet people.
Meet the people who live afar and those who live very close by.
Meet the materially poor or the spiritually poor.
MOTHER TERESA IN MY OWN WORDSGramercy Books 3P

・出かけて行くためには、持っていなければならない。自分がまず祈りとキリストの力を少しでも与えられていなかったら本当の意味で他者の魂のもとへ行くことはできない。
でも私たちが持っているものはわずかであっても、それが神と結びついた愛や言葉であるなら、神はたしかにそれらを用いてくださる。
何らかの貧しさ、お金がない貧しさ、それは食物も医療も受けられない貧しさ、そしてそれらがあっても、魂が荒れて痛んでいる状態、精神的な貧しさ、欠乏がある。そこにキリストの豊かさを持って行くようにと言われている。
 マザー・テレサのいたインドでは、この両者が到る所にいる。しかし、日本では、圧倒的に後者の精神的な貧困のゆえに、平安がなく、自分の罪に気付かず、赦されない罪こそがあらゆる問題の根本原因だと気付かない人々がいる。 そこに何かを届けたいという願い、それが起こるためにも、日曜日ごとの、あるいはそれを補う各地での平日の集会がある。
 病気や高齢、あるいは交通機関がない、時間がないなどのためにじっさいに出かけていくことができない人も多い。
 そのような場合、本や印刷物、冊子、メールや手紙などを送って、それらを出かけさせることもできる。さらに、それらすらなくとも、その心さえあれば他者のところに出かけていくことができる手段、それが祈りである。さまざまの人が、その真実な祈りのなかでいろいろな人のところに行き、霊的に出会いますように。
 
(357)結果と忠実さ
神を前にするとき、大切なのは、結果ではありません。忠実さこそ大切なのです。

When facing God,result are not important.Faithfulness is important.
(同右40P)

・この世では、結果を見、神は真実さを見られる。結果は不正でも金でも策略でも出てくることがある。真理への忠実、神への真実な姿勢は、ただ神と結びついてのみ生まれる。



リストボタン編集だより

○来信より
・こちらでは、なかなか、春らしいお天気に恵まれず、梅雨のような毎日ですが、桜がようやく満開になってきています。春らしい、暖かい青空の広がる日が、待ち遠しいです。山の黄緑色の新芽が こちらでも、見る時に、神様の摂理を感じて、慰められます。感謝です。
『球根のなかには』(讃美歌21-575)の詩の中に、
「沈黙はやがて 歌に変えられ 深い闇の中 夜明け近づく…♪」といつも歌いつつ、仕事をしています。
罪人の一人がたちかえったら、神様はとても喜んでくださる。そのことをいつも覚えて、この人生の歩みを正しく導いてくださるように神様に祈って生活させていただいてます。(東北の方)

・原発事故による放射能汚染で苦しんでいるのは、福島だけでなく、ここ宮城県南部でも同じなのですが、県知事が事故後、はやい段階で、「宮城県に放射能被害はない」と言ったために、(補償などにおいても)福島よりひどい状況が多々あるのが現実です。
そんな中、子どもたちを放射能被害から守ろうと活動しています。
そんな中、先日ある方に紹介され、「原子力発電と平和」を読みました。すばらしい内容で、手許に置いておきたいので、注文させていただきます。 …(宮城県の方)

☆去年8月に出版した「原子力発電と平和」という本ですが、このように、現在も折々に注文が届いています。原発関係の本は、おびただしく出版されていますが、キリスト教の真理との関わりという点からの本はごく少ないからだと思われます。
キリスト者としては、この世のさまざまの問題を、神の言葉の見地からはどのようにとらえるべきか、という視点をいつも持っていたいと願っています。
・詩篇の真珠… 第二十三篇は昔より特愛の詩であり、私どもの集会でも学んだことがあります。感謝を新たにしました。今回深い意味を教えていただき、心より神様に御礼申上げます。
「君が代と元号」…大阪では卒業式での君が代を巡っての「信じられないようなことが起っています。「愛国心は卑怯者の最後の隠れ家」というS・ジョンソンの言葉を思います。
 元号も以前から矛盾、合理性に欠ける点を痛感してきましたが、右傾化しているように思われる現代の日本の社会で、政治のトップも真剣に考えるべき、と思います。
「君が代と内村鑑三」… 知らなかったことばかりを教えていただき有難うございます。      (関西の方) 
・北田 康広さんのCD「人生の海の嵐に」を聞いて、その深い賛美の歌声に、神様の愛と慈しみが私のうちに溢れてくるようで、魂の平安に満たされるのを覚えます。このような喜びを悩みにある友にも届けたいと願います。   (関東地方の方)
・(「いのちの水」誌に紹介されていた)原発関係のCD・DVDを聞いて、その中で小出裕章氏が、「40年前には、誰も私の話しを聞いてくれませんでしたが、今日はこんなに大勢の人が聞きに来てくださいました」と話しておられます。
 私もそのひとりであり、結果的に原発を推進してきたのだと気づきました。なるべく多くの人に聞いてもらいたいと思います。(同右)



リストボタン休憩室

○5月の夜空
5月中旬には、夕方、西の低い空をみますと、金星がその明るい光を見せています。何カ月か私たちの目を楽しませてくれましたが、もうじき見えなくなります。
夜の8時ころに、南の空を見上げると、やや西よりに赤くて明るい火星が見えます。火星の右下には、しし座の一等星レグルスが見えています。
その左(東)のほうへとゆっくり目を向けると、やはり瞬きをしない明るい星が見えます。これが土星です。そして、土星のすぐ下に、乙女座の一等星スピカが見えていますので、ぜひこの二つの惑星とともにスピカを見つけておくとよいと思います。
さらに、土星の上の方、頭上へと視線を移すと、明るい橙赤色のアークトゥルスが見えます。これは、恒星のうちでは、おお犬座のシリウス、冬に南の下方に見える龍骨座のカノプスに次いで3番目に明るいのですぐにわかります。とはいえ、カノプスは、関東付近ではほとんど見えないと思われます。徳島では、晴れて大気の澄んだ冬空に南の低い山のすぐ上にかろうじて見える星ですから、大多数の日本人にとっては、このアークトゥルスは、シリウスについで明るい恒星として見えます。
去年から、木星と金星が夕方にずっと見えていましたが、そのうち木星がだんだん光が弱くなり、見えなくなっていくとともに、火星が東から見えるようになりました。さらに、金星が低い空にだんだん見えなくなろうとするとき、今度は、土星が東から姿を現してきました。
夜空の星に関心を持つと、とくにそれがよく見える地方においては、心を広くかつ高くし、また清めてくれるはたらきをしてくれます。



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第8回 からしだね公開講座
・日時… 2012年6月23日(土) 午後2時~4時
・テーマ… 「原発・平和・福祉~キリスト者の視点から」
・講師… 吉村孝雄
・場所… 京都市山科区勧修寺東出町75「からしだね館」
地下鉄 東西線 小野駅下車 南へ徒歩1分
・主催…社会福祉法人 ミッションからしだね(京都で精神障害者福祉施設を運営する社会福祉法人)
・先着順 40名。会費500円。
・責任者…坂岡 隆司
・電話 075-574-2800
○6月の阪神エクレシア、高槻聖書キリスト集会
・阪神エクレシア…6月10日 午前10時~12時 神戸元町駅前 神戸私学会館
・高槻聖書キリスト集会…同日 午後2時~4時

○5月の移動夕拝
5月22日(火)板野郡藍住町の奥住夫妻宅。スカイプでの集会参加もできます。申込は、吉村まで。

○北田 康広の讃美歌CD「人生の海の嵐に」は、多くの方々から好評で、4月号、そして今月号にも寄せられた感想を掲載しました。私どものキリスト集会にて補助をしますので、「いのちの水」誌の奥付にある吉村宛て直接にE-mail、電話などで申込していただくと、特別価格にて提供できます。
なお、以前の北田 康広のCD「藍色の旋律」も在庫あります。この讃美歌CDで、北田さんに関心を持たれた方で、このCDもご希望の方には、定価2500円ですが、これも特別価格でお送りできます。
申し込みは、奥付の吉村までメール、FAX、電話などで。

○スカイプ集会のことも、毎号紹介していますが、4月24日(火)の中川宅での移動夕拝には、80歳を超える方が、スカイプで初めて参加されています。最初はこうしたかたちの集会は初めてのことなので、できないと思われる方もいますが、パソコンでインターネットをしている方なら慣れるとだれでもできるようになります。

○5月の移動夕拝(火)は、板野郡藍住町の奥住宅。午後7時半~9時。スカイプでも参加できます。

○手話讃美のDVD
私どもの徳島聖書キリスト集会で、私(吉村)や集会員の一部の人が手話讃美しているものをDVDに録画したものがいくつかありますので、不十分なものですが、手話讃美に関心のある方々、希望者の方にはお送りできます。 左記奥付の吉村までメール、電話などで申込してください。
送料共で、1枚300円でお送りできます。(代金は300円以下の切手でも可)
曲目は、新聖歌248「人生の海の嵐に」、讃美歌312「慈しみ深き」、新聖歌508「神ともにいまして」、新聖歌135「御霊は天より」、新聖歌416「聖霊来たれり」他