…この神によってあなた方は、 私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 |
・2012年6月 616号 内容・もくじ
単純なる信仰
キリストぞわが望み、
栄光とこしえに神にあれ!
キリストは、罪を赦し、復活の力を信じるものに下さり、再び来られていっさいを変えられるという。この単純なる信仰、そこに力が与えられる源がある。この世のいかなる混乱や悪の働きがあろうとも、また謎のように私たちを苦しめるさまざまの力が働こうとも、私たちのよって立つところは、この単純な信仰以外にない。
すべてを良きに変えるその万能の力、完全な愛や清さ、真実といったことの一切…そうした神の栄光こそは、永遠なのだという信仰、こうした信仰はいかに経験や学問を積もうとも生まれるものではない。
ありとあらゆる情報がはんらんする現代にあって、それらに呑み込まれていくとき、私たちは現在生じているいろいろな問題のために、希望が失われ、未来への確信もなくなっていく。
このような時代にあって、真に必要とされているものは、本来誰でもが与えられるものである。
聖書に記されたこの単純な信仰をそのまま真実だと信じる信仰、幼な子のように信じるというただそれだけで、私たちは他の何も与えることのできない希望と力を与えられる。
…よく聞きなさい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」 (ルカ福音書18の17)
未来への確信
聖書が私たちに与えてくれる最大のメッセージの一つは、未来への確信である。
通常の生活において、明日のことは分からない。交通事故に遭った方々は、その直前までまったく予想もしなかったし、周囲の誰一人分からないことである。
コンピュータが発達したら何でもできていくように錯覚させるほどであるが、いくらコンピュータ、科学技術が発達しても、こうしたことはまったく予見できないのである。
そのような個人的なことにとどまらず、私たちの住む大地に発生する地震も毎日のように問題とされているが、いつどこで起きるのかは誰も正確には分からない。
このような、限りない霧に包まれたような未知の領域、それが未来である。
そして、太陽や、月、惑星など一部の天体の動きのようなごく限られた現象以外は、たいていのことは予見はできない。明日すら分からないのであって、10年後、20年後のことはどんな学者であっても正確には分からない。いつ自分はこの命を終えるのか、どんなかたちで終えるのか、どんな病気になるのか、ならないのか、それもはっきりは分からない。
放射線を低線量浴びたとき、その人の体に未来にどのような影響があるのか、これもはっきりしたことはだれも分からない。
このように、ひとたび未来に目を向けると、茫漠とした未知の世界が広がっている。そのなかで、この世界に関して詳しく知ろうとすればするほど、未来の困難がわかってくる。
自然の破壊、人間の荒廃、核兵器の増大、気候変動による環境や生活の変化、原子力発電などから排出される永遠に続く廃棄物の問題…等々、未来に関して科学的、政治的、社会的なことを知れば知るほどに、安心でなく、不安が増大していく。
そうした無限に広がる未知の不安な空間のなかに、未来を確信をもって語るのが、聖書の世界である。
すでにこれは、聖書の最初の部分から見られる。現在や未来にいかなる闇があっても、神の言葉によって光が存在するのだ、と言われている。
これは時間を超えた真理であるゆえに、未来においても確実なことである。そしてこの簡潔な言葉は、今後、いかなる事態が生じようとも、成り立つことである。
人間にとって、死という最終的な闇が襲ってくるときにも、そこにも神は、信じる者に、光あれ!と言って下さり、実際に死の淵に沈む人間の魂を、永遠の光に満ちた世界へと導いて下さる。
そしてこの世界全体においても、未来は、どうなるか。それについても明確な真理が記されている。
…天地は滅びるが、私の言葉は、決して滅びない。(マタイ24の35)
主イエスは、一般の人々の目には、永久的と見える天地すら滅びていく、過ぎゆくものにすぎないということを見抜いておられた。それほどに、この目に見える地上の世界、さらに宇宙は、はかない存在である。しかし、そのような万物が移り行く状態にあり、滅びるものであっても、キリストの言葉は永遠だという。いかなる天変地異があろうとも、滅びない。
キリストの言葉はすなわち神の言葉であり、神の言葉とは神のご意志である。
そして神のご意志とは、愛であり、真実であり、どこまでも清いものである。 そのような、私たちにとっても最も大切なものが、永遠であり、いかなる事態が生じようとも滅びることがないと確言された。
これは、未来は、まったく分からない、希望はない、といった考えと、いかに大きな隔たりがあることだろう。
去年の大震災は間近に繰り返し映像などで見たゆえにいっそう迫真的であったが、人間の歴史には、そうした自然災害や戦争、飢饉、伝染病など、数々の出来事があった。
よきもの、何の罪もないと思われるようなものが、無惨にも殺されたり、死んでいく―こうした不可解なことは、はるかな古代から存在してきた。そしてそのような事態を直視してきたキリストやそのキリストの霊を受けた人たちは、いかに不可解なことがあろうとも、未来への確信を持ち続けてきた。
それは、思考や経験の産物でなく、啓示であり、「聖霊がすべてのことを教える」(ヨハネ14の26)というみ言葉のとおり、聖なる霊によって直接に神から教えられたゆえの確信であった。 現代の私たちも同様に聖霊が与えられることによってそうした確信へと導かれる。
呼ばれること、呼ぶこと
聖書では、呼び出されるということが古くから重要なこととして記されている。
アブラハムは、信仰の父と言われ、ユダヤ人の信仰(ユダヤ教)、イスラム教、そしてキリスト教においてとくに重要な人物とされてきた。
そのアブラハムは、彼の生涯で最も重要なことは、神からの呼び出しを受けたことであった。
…主はアブラハムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
私が示す地に行きなさい。…
私は、あなたを祝福し、祝福の源とする。
地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12の)
このように、アブラハムの生涯のあるとき、突然に呼びかけられた。そして、アブラハムはその時から、神の呼びかけに従う人となり、さらに、アブラハム自身が神を呼ぶ者となった。
…主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(12の8)
このように、神からの何らかの呼びかけを聞き取った者は、そのときから、神を呼ぶ者と変えられていく。
モーセも、預言者たちもみな同様である。
…神は芝の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。(出エジプト記3の4)
この時まではモーセは、自分の考えに従って行動する普通の人間であった。しかし、神からの呼びかけを個人的に受けてからは、神のご意志に従って生きるものへと変えられた。
時には、幼少の子どもにも、その呼びかけはなされることがある。
今から三千年余りも昔、母親の切なる祈りによって生まれた子どもサムエルは、神に捧げられ、神殿にて生活するようになった。そうしたある日、主は彼を呼んだ。
…主は来てそこに立たれ、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」
サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」(サムエル記上3の10)
このように、神は、誰も予想できないときに、人を呼び出される。そしてその静かな細い呼びかけを受けたときから、人はそれまでと大きく異なる道を歩むようになる。
旧約聖書に預言者といわれる人たちがいる。彼等は、ときの政治や社会の腐敗を正しく見抜き、その根本において神に立ち帰らないことが国の滅びに至ることを命がけで宣べ伝え続けた。そのような預言者たちも、また神から呼び出されてそのような使命を与えられたのである。
そのような人のうちには、羊飼いであったアモスという預言者、また祭司の子であったエレミヤやエゼキエルなどもいる。神が呼び出されるには、その職業とか年齢とかも関係がなく、ただ深い神のご意志、その御計画によるのを示している。
そして預言者たちは、一貫して、「神に帰れ、神の言葉に立ち帰れ…」との呼びかけを語り続けたのであった。
新約聖書の時代になり、キリストは福音宣教のために、あらたに人を呼び出された。その人たちは、漁師が多くいた。代表的な弟子であるペテロ、ヨハネ、ヤコブたちはみな漁師であった。そしてユダヤ人から搾取しているとして嫌われ、また汚れているとされて差別されていた徴税人、あるいはローマ帝国の支配に抵抗して武力闘争のようなことをしていたグループに属していたような人、さらにキリストの復活ののちに呼び出されたパウロは、キリスト者たちを迫害して殺すことまで加担していた人であった。このように、キリストが呼びかけられた人たちは、実にさまざまであった。
しかし、そのような多様な人たちに、主イエスは呼びかけられた。彼等は、みな自分がそのようにキリストの福音宣教の使徒になるなど、夢にも思っていなかった。かれらのそれまでの仕事や考えていることは、およそそのようなこととはかけ離れていたからである。
しかし、神が呼び出すにあたって、過去がどうであったか、現在どんな状態であるのか、何をしているのかといったことは問われない。
このことは、キリストの使徒たちだけでなく、キリストを信じるようになった人― キリスト者に共通している。キリスト者とは神から呼び出された人のことである。
自分でそうなったのでなく、神が、あるいは復活のキリストがとくに呼び出してくださったからキリスト者になった。
呼ぶ、呼び出すという言葉は、新約聖書でしばしば現れている。
パウロは、新約聖書におさめられた彼の手紙において、自分が何者であるかを言うとき、まず、「神のご意志によって呼び出された者だ」ということを繰り返し語っている。
新共同訳では、「神の御心によって召されてキリストの使徒となったパウロ…」と表現されているが、現在の日本人の一般的な日常生活で、「召される」などという言葉はまずほとんど使わない。
しかし、召されるという言葉において、パウロのつかっている原語(カレオー)は、英語でいえば、call(呼ぶ) であって、ごく普通に使われている言葉である。
また、神の御心 と訳されているが、心というと日本語では、心がこまやかだ、優しい心、落ちついた心など、情緒的、感情を表す意味で使われることが多い。しかし、新約聖書でよく使われ、重要な意味を持っているこの原語は、そうした情緒的な意味でなく、「意志」を指す言葉である。それゆえ、四十種類を越える英訳聖書も、一つの例外を除いてすべて will と訳している。
このように、使徒パウロの重要な気持ちを表す言葉が、日本語と原語では、意味が必ずしも一致しないものがある。
パウロが言っているのは、神のご意志によって呼ばれた、ということを第一にしているということである。自分の考え、他人や組織の命令や勧めなどによるのでなく、はっきりと神ご自身が私を呼び出されたという意識があった。
さらに、その手紙はコリントにある神の教会へ、と出されている。その神の教会とは、「主イエスの名を呼び求めるすべての人、キリストによって聖徒とされた人、召されて聖徒となった人々」と言い換えており、教会とは、このように主イエスを信じる人たちの集りを指して言われているのがわかる。
この教会という言葉の原語は エクレーシア(ekklesia)であり、ek ~から外へ、 そして kaleo (カレオー ・呼ぶ)という言葉から成っている。パウロが、自分が神によって呼び出された、というときに使われているのと同じ言葉である。
エクレーシアとは、神によってこの世の外に呼び出された人たちの集り、という意味をもって使われたのがわかる。
キリスト者とは、主イエスの名を呼び求めるすべての人々であるし、自分は神から呼び出された者であり、また、さらにキリスト者とは、主イエスとの交わりに、呼ばれた人だと言っている。(新共同訳では、「招き入れられた」と訳されている。)
このように、パウロの心のなかには、いつも神、あるいはキリストが呼んで下さっているという実感と、自分自身もまた、神、あるいは主イエスを呼び求めているという、相互に呼び求める生きた関係がうかがわれる。
悔い改めとは、私たちが気付く前から神によって呼ばれているのだが、あるときに、そのことに気づき、自分の方からも神を呼び求めるようになることである。
放蕩息子の場合も同様だった。父は息子が遊びあるいているときも絶えず呼んでいた。しかし、かなりの年月がたって苦しい状況に追いつめられ、ようやく息子は父を呼び求めるようになったのである。
神が、あるいは主イエスが私たちをいつも呼んでいるということ、そのようなことは、以前には考えたこともなかった。しかし、神は愛であり、愛とは主にあって霊的なつながりを絶えず保とうとすることであるゆえに、主イエスはいつも私たちに呼びかけて下さっていると言える。
このように、主が私たちに絶えず、帰れ、帰れと呼びかけてくださっているということは讃美歌にも見られる。
「われに来よ」と主は今
やさしく呼びたもう。
などて愛のひかりを
避けてさまよう。
「かえれや、わが家に
帰れや」と主は今呼びたもう。 (讃美歌517)
かえるに家なく つかれはてて望みもなき身は 死をぞねがう
さやかにちからの 御声きこゆ「帰れや父なる 神のもとに」 (讃美歌244)
私たちひとりひとりの心に呼びかけ、その魂の扉をたたき続けているお方がおられる、それは新約聖書を書いた人の確信であった。
…見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。(黙示録3の20)
主イエスが弟子たちに、目を覚ましておれ、祈れと言われたし、パウロも絶えず祈れと書いたのも、神からの呼びかけを聞き取るためであった。眠っている魂には呼びかけは聞こえない。
目覚めている魂には、日常のちいさな出来事、自然のたたずまい、風や光、あるいは雲などの動きからさえも、神の呼びかけを感じ取ることができるだろう。
日曜日などの礼拝も、二人三人主の名によって集まるときにそこに主がおられると約束されたゆえ、その主からの呼びかけを聞き取るための場でもある。
人間の言葉でなく、まず神の国を求めよと言われたその精神は、まず神からの呼びかけを聞き取るように、といううながしだと言えよう。
私たちにとっての過去、現在、未来
(これは1996年5月5日の横浜市でのキリスト教講演会で話した内容。原発の問題にも触れていて、現在の私たちにも、この主題は変ることなき重要なものなので、ここに掲載しました。)
私たちにとっての過去、現在、未来というとき、そこには最も身近なものとしての自分個人の過去、現在、未来がある。そして、私たちが置かれている日本や世界、さらに宇宙の過去、現在、未来がある。
過去というだけでも、世界の国々、民族で膨大な歴史の内容があるから限りなく広い内容を含む。
ここでは、聖書からの視点をもってそうしたその広大な内容の一部を取り出して考えてみたい。
そこでまず、自分の過去を振り返ってみる。そのとき、まず思いだされるのは自分は正しいことに従うことができていなかったということである。真理に気づかずに罪を犯していたこと。真実なもの、愛ということに背を向けていたこと、そして自分中心に考えていたこと。そのことすら十分にわかってはいなかったことである。
波が打ち寄せるように真理の海から私たちに打ち寄せるものがあるのにそれに気づかなかったことである。
人間の歴史を振り返ってみてもやはり罪、罪の連続である。世界歴史を少しさかのぼっても第二次世界大戦は人類の膨大な罪の行為であった。日本だけをとってもアジアの国々に対して数千万とも言われる人々を殺し、また傷つけた。日本の指導者的な人たちが、国民を欺いて戦争へと引っ張っていった。
また、ヨーロッパやアメリカの人たちがアフリカの人たちを1千万人ほども奴隷として連れてきて、動物のようにこき使ったことも今もなおその裁きがアメリカの社会に影を落としているが、人間が人間を差別するということはそうしたこと以外にもどこの社会でもふつうであった。
例えば、日本の江戸時代を振り返っても、士農工商など身分差別、居住移転や職業選択の自由も、信教の自由もなく、差別や迫害の歴史だった。
聖書の人物における過去の罪
過去を振り返るとき、人間が創造されたときから罪が深く影を落としているのに気づく。アダムとエバという最初の人間の記述もまた罪から始まっている。
その後人間の心がますます汚れてきて自分中心となっていったとき、一人、神に従う人がいた。それがノアであった。しかし、そのノアでさえも、箱船に乗って救い出されてのち、酒を飲んで酔っぱらうという醜態をさらすことになった。
またアブラハムも神に従うという生活を送ったが、神の示す土地から離れて行き、そこで妻を妹と偽るようなこともした。
モーセにおいては、人々の背信との戦いにおいて一人、神とともに立った人であったが、それでもなお、彼がかつて主に背いたことがあったと言われている。
「これはあなたがたがツィンの荒野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々のうちでわたしに背き、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。
それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見ることになる。しかし、その地に、はいることはできない。」 (申命記32の50)
このように数十年の砂漠地帯での筆舌に尽くしがたい困難をへてようやくたどりついた目的地を前にして、しかも地上の命の終わろうとするときにモーセが神から与えられたのは、長い間の苦闘に対するねぎらいの言葉やほめ言葉などでなく、モーセの罪の指摘であった。
その罪はモーセ自身すら気づかなかったようである。神から指摘されて初めて気づいたと思われる。このように、いかに神を信じることが深い人でもなお、その人自身の罪の深さに気づかないことがありうるほどに私たちの本質は罪深いということを知らされる。
また、旧約聖書で重要な預言者、エリヤもイゼベルという王妃の迫害をおそれて、自分の使命を捨ててもう死にたいともらしたことがあった。このことも罪であったが、エリヤは神の直接の助けによってかろうじて立ち直ることができた。
ダビデも若い時から、音楽、武力にも優れていて、当時の王からの迫害にもさらされたが、自分が王となって油断したため、大きい罪を犯した。そして、長い苦しみを通して真の悔い改めとは何であるかを思い知らされた。その後のさまざまの苦しみもみなそれと関連があった。
また新約聖書の人物において、使徒の代表的人物であるペテロにとっても最大のことは、自分がイエスのためにいっさいを捨てて従ったことでなく、主イエスを3度までも否認したことであったろう。
新約聖書において最も重要な働きをしたパウロは自分のことをこう言っている。
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」 (ローマ七・24)
また、パウロはキリストの真理を啓示されるまでは、キリスト教徒を迫害し国外にまで迫いかけていくほどであった。こうしたことから彼は自分を罪人の頭であるとさえ言っている。
罪の赦しと私たちの現在このように私たちは自分自身を振り返っても、また歴史をみても聖書自身の記述をみても過去は罪ということで満ちている。神の方向に背を向けることが罪なのであるから、真実と愛の神を知らなかったらそれに背を向けるのは当然であろう。
しかし、そうした罪の事実だけでなく、パウロにとって過去の最大の出来事は、その罪がキリストによって赦されたことであった。ペテロにとっても、同様であったし他の弟子たちにとっても同様であっただろう。
私自身もキリストの福音、罪の赦しの福音を知らされてからは、その罪の赦しが与えられたということが過去の最も恵まれた出来事となった。 罪の赦しを受けると、過去は一変する。これは聖書の記述にも現れている。
「私たちは天地の造られる前から、私たちを選び、私たちを神の計画に従って愛のうちにあらかじめ定めて下さっていた。」という驚くべきことが書かれている。
それはキリストによる罪の赦しを受けたことによって使徒パウロはこのようなことにも心の目が開かれていったことがわかる。(エペソ書一章5~12節参照)
罪の赦しを受けることによって神の愛を知り、その愛のゆえに自分を永遠の昔から選んで下さっていたということが実感できるようになる。 これほどまでに罪の赦しの信仰は重要なのだとわかる。こうした罪の赦しの世界に導くためにこそ主イエスは「悔い改めて福音を信ぜよ」とその宣教の初めに言ったのである。
パウロも「信仰によって教われる」と繰り返し述べている。 このことに関連してキリストはそもそも何のために来たのだろうか。聖書にはどう記されているか考えてみたい。 マタイ福音書の最初に天使がイエスの誕生をマリアに告げたとき、「この子をイエスと名付けなさい。この子は民を罪から救うからである」と言われている。
キリストは人々を罪から救うために来たということがイエスの名前に託して言われているのである。
また復活したキリストが残した最後の言葉として「罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国に宣べ伝えられる」と記されている。(ルカ福音書二四章)
さらに、ヨハネ福音書においてもその第一章において、主イエスの道を備える人としてバプテスマのヨハネが現れた。彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ!」と言って、ひと言にてキリストの本質を言い表したのであった。 こうした言葉によって、キリストは、単によい教えを述べたり、病気をいやし、その他の奇跡を行うことが本当の使命でなく、人間の罪を取り除くお方なのであるということがわかる。
すでにのべたように、聖書においても人間にとっての過去は罪から始まっている。世界の歴史においても同様である。そうした罪の問題をどうしたらよいのか、それが旧約聖書で提示されている問題であった。
キリストはその罪をぬぐい去るためにこの世に来られたのであった。
キリストを信じる者にとって現在とは罪赦された新しい生活の中にあることだと言えよう。その新しい生活において約束されていること。それが聖霊を与えられるということである。
このことはまた、使徒パウロが繰り返し言ったように「キリストにあって」とか「主にあって」ということと同じことであり、それが新しい生活の根本となっている。
パウロにとっての現在とは何であったかが、こうした言葉ではっきりと表されている。 これは統計的なことを調べてみるとこれがよくわかる。新約聖書に収められたパウロの手紙には「主にあって」(これは「主に結びついて」とも訳されている)という言葉がとりわけたくさん用いられているが、同じ意味である「キリストにあって」と合わせると合計161回ほども用いられている。
これはいかにパウロの「現在」がキリスト中心であるかを示すものである。
また、「愛にあって」という表現も13回中、12回までパウロが用いている。
最後の晩餐のときにもキリストが残した言葉は「聖霊をあなた方に送る」ということであった。そしてその言葉を裏付けるように、キリストの復活に続く使徒たちの働きにおいては聖霊が中心となっている。
「生きるとはキリストである」という言葉がキリスト者の現在をよく表していると言えるだろう。 現在の私たちに与えられる最もよいものは何か、それは金でも地位でもなく、また健康ですらない。健康であっても、大きい罪を犯す道具となるなら意味がない。
無条件によいものといえば、聖霊である。
私たちの病気のときにも、孤独のときにも、前途がわからなくなったときにも、また、人に受け入れられないときでも、罪を犯した時でも聖霊こそは私たちを励まし、力を与えてくれるものとなる。
「私たちにとって」としたのは、こうした経験が私たちだれにでも本来与えられるものだからである。
ピアノができるとか登山、スポーツなどはだれにでもできることでない。生まれつき病弱で大方ベッドにいなければならない人にとってそうしたことをこなす能力は始めから与えられていない。
しかし、聖霊だけは求める者だれにでも与えられる。
私は、過去の最も大きい出来事といえるのは、自分の罪を知らされたこと、そしてその罪の赦しということがあるのを知ったことなのである。そして現在は罪の赦しを受けつつ、聖霊と生きて働くキリストのことを知らされたということが最大の感謝である。 今からおよそ三十年ちかく前に、突然私は神の言葉とキリストに出会った。「光あれ!」という聖書の最初に記されている言葉が私にも現実となり、たしかに私の魂に光が与えられたのであった。
この創世記の冒頭の言葉ははるかな昔の宇宙創造のときのことをいいながら、実は現代に生きる自分のことをも言っているのだとわかった。暗かった心にそれまで経験したことのなかった光が差し込んできたのを実感したからである。
そしてその光は、私にとっての過去と現在を根本から変えてくれるものとなったのであった。
私たちの未来と科学技術の方向性
二十一世紀最大の問題と言われる環境問題は何が引き起こしたか、それは科学技術である。しかし、科学技術そのものが問題を持っているのかというと、簡単にいうことは難しい。 なぜかというと、もともと科学とは自然哲学であって、哲学とはアリストテレスの代表的な著作の一つである「形而上学」の初めのほうに書いてあるように「驚異から始まる」のである。そして自然のさまざまの現象に驚くことがどうしてよくないことでありえようか。
科学の発端は身近な現象に対しての驚きや疑問であり、科学以外のほかの学問においてもこのことは共通していて、それは人間が自然に持っている衝動、本能のようなものである。
とすれば人間は環境破壊の方向に必然的に進んでいることになる。
また、私たちが誰でも便利と快適を要求することも環境を破壊していくことに結びついている。
例えば、一台の車が走れば、確実に環境は汚染される。いっさいの科学技術の産物がないならば環境は汚染されない。工場が一つできたら、店が一つできたら環境はその分だけ汚れるといえる。
これは科学技術というものが、 自然にあるものを何らかの形で破壊していくという本質を持っているからである。例えば、ここにある鉛筆一本をとってもこれを作るにはどこかの木を切り倒す必要がある。そのためには連絡道路をつくり、工場ができる必要がある。
そこに必ず、自然破壊を伴う。
銅は重要である。それが鉱石として山のなかにある間は無害であるが、それを人間が使おうとすると、安全なものになっている自然の状態を壊して銅だけを取り出す必要がある。そのときに、いろいろな有害物質が出てくるし、銅の精錬の過程でも有害な物質がつぎつぎと出てくる。鉄など他の重要な金属についても同様で、何らかの有害物質が鉱石から取り出す過程で生じる。
これは身近な海水を考えてもわかる。海水の塩分は自然の状態では、何も環境を汚染するものでない。しかし、それを科学技術の産物である電気エネルギーによって電気分解して塩素と水酸化ナトリウム(カセイソーダ)を取り出すととたんにそれらは、有毒物質となり、環境汚染の原因物質となる。しかもそれらの化学物質、カセイソーダとか塩素はきわめて工業的には有用なものなのである。
科学技術が破壊と関わっているということは、最も著しい科学技術の進歩は戦争によってであったという事実をみてもわかる。航空機、染料や医薬品など、また原子力関係の科学、宇宙関係の科学なども戦争によって、あるいは軍備目的のために発達してきたという側面がある。
将来に関して最も重要で困難な問題のうちの一つはエネルギーの問題であり、とりわけ原子力発電の問題である。それはもともと、アメリカとソ連との核兵器開発競争から始まった。そして過剰の核物質を処理するため、また、原水爆実験、核兵器製造に関する人々の強い反対の傾向を和らげるために原子力の平和利用が考え出され原発が作られたのである。
しかし、これは本来自然にある状態では人間に害をなすことはないといえる物質(ウラン)を集めてその原子核に中性子を当てて破壊し、そこから莫大なエネルギーを取り出すのであるが、それとともに多量の放射性物質を生み出すのであった。 五〇億年近くになろうとする地球の歴史において、危険な放射線を多量に出していた元素は、ほとんどが別の安定な元素に変わってしまい、放射線もわずかしか出さなくなっている。
しかし、原子力発電というのは、現在ではわずかしか放射線を出していないし、かつ各地にまばらに存在しているウランを集め、その原子をわざわざ壊して危険な放射線を多量に出す物質に変えていくことを伴うのである。
しかも地球にあるウランは有限である。だから日本は高速増殖炉というものを作ってウランからプルトニウムを造りだし、それを核分裂させてエネルギーを取りだそうとしている。しかしこれにはすでに以前の「はこ舟」でも述べたように非常な危険を伴う。
ここでとくに放射性廃棄物について述べる。
原子力発電の危険性は発電のときだけでなく、その後の廃棄物質もまた危険なのである。
今から四〇年ほど昔、ソ連でプルトニウムを大量に生産していたエ場があった。それは南ウラル地方であり、初めは近くの川に高濃度の核廃棄物をたれながしていたが、六年もの間おびただしい廃棄物を流したあげく、流域の人々への被害がひどくなるとそれをやめて、地下のタンクに貯蔵するようになった。
しかし、その管理がずさんであり、ついに多量の核廃棄物質が大爆発を起こし、百六十トンものコンクリートのタンクが破壊されたために四〇万人が被爆し、四二の村や町が廃虚となった。そして三〇〇キロ先まで放射能で汚染された。そして爆発のあった所では四〇年たった今でも自然界の一千倍の放射能で汚染されているという。
この事実は今から十四年ほど前に日本でも「ウラルの核惨事」という書物が出版されて初めて知らされたが、新聞やテレビでもほとんど報道されなかった。これはソ連の科学者で反体制活動のために研究所をやめさせられ、精神病者という汚名を着せられて強制収容されたが後にイギリスに移住した人が出版したものである。
なおこの科学者が二十年ほど前にこの事実を公表したときにも、ヨーロッパの多くの専門の科学者はそんなことはありえないとか、廃棄物は低い放射能だからそんな大爆発は起こり得ないなどとして「単なる、作り話、たわごと」などと言って嘲笑すらしたという。
しかし、最近NHKによって「地球の核汚染」という特別番組が放映され、このソ連の核廃棄物の大事故のこともくわしく現地取材されて報道されていた事実なのである。
これと同様なことをどれほど繰り返してきたことだろう。科学者・技術者たちはしばしばこのように 「そんな大事故などありえない」というものである。アメリカのスリーマイル島での原子力発電所の大事故の時までは、そうした専門家たちは「炉心溶融のような大事故は宇宙から降ってくる隕石にあたるほどの確率しかない」などといって事実上ありえないなどと言っていた。しかし、その後、アメリカ、ソ連と重大事故が起こったのであった。科学・技術者たちのいうことがいかに信用できないかの一例である。
この実例のように、原子炉から生み出される廃棄物そのものも本来きわめて危険なのである。貯蔵の方法が悪かったら爆発、そうでなくとも大量の放射線物質の拡散等々を起こして、付近一帯が廃虚となってしまうほどなのである。
「そんなことは何十年も昔のソ連の管理が悪かったからだ。現在の日本では起こらない」などという人がいるかも知れない。
しかし、現在のプルトニウムの放射能が半分になるまでに二万四千年もかかるのであって、それが四分の一になるには今から五万年近くかかるということになれば、それは人類にとって永久的とも言えるほどの長期間である。
そうした長期にわたって政治社会的状況が今と同じてあるなどということは誰ひとり断言できないし、そんな長期間にわたって安全に管理できるなどとはいうことはほとんどありえないことであろう。
その間に巨大地震などの天災が起こるかもしれないし、社会的状況がどんなに大きく変わるかもわからない。政治的異変やテロリストなどによる突発的事件が起こるかもしれないし、そうした管理に多額の費用を費やすことがてきないほど、食料や資源不足になるかも知れないのである。
また、エネルギーを原子力以外の石油や石炭から取りだそうとしても必ず二酸化炭素、二酸化イオウ(亜硫酸ガス)などのような有害な物質が生じる。
それでは水力発電はどうか。これは一番、そうした有害なものが出ないと思われるが、巨大なダムを進るときには、大規模な自然破壊を伴うことになる。人間のよりよい生活を目的としたダムすら、エジプトのアスワンダムのように大規模な環境破壊を起こしてしまって取り返しのつかない状態になっている例がある。
医学方面についても、もはや細菌やウィルスによる病気は克服されたと思っている人がいる。しかしじわじわと細菌の逆襲が始まっている。結核の発生はアメリカでは確実に減少していたのに十年ほど前から増加に転じたのである。
また、耐性菌の増加とか、かつてはその恐ろしさが知られていなかったエイズなどの新しい病気の発生もある。
人間は当然のことながらより便利という方向を求める。しかし、この当たり前のことと思われる方向を進めていくと、意外なことだが、より不便なことも次々と増えてくる。
例えば、資源がなくなるという問題や環境汚染の問題である。より便利ということを追求する方向は将来的には行き止まりになっているのである。それゆえ、人間はこの方向とは別の方向へと方向転換するか、あるいはそれとともに、少しでもその方向に進むスピードをゆるめていく必要があるといえる。
この地球は永遠に続くのではない。太陽があのように莫大なエネルギーを放出しているからには、太陽はいつまでも今のようではありえないのは確実である。今日の宇宙物理学の到達している結論によれば、太陽はあと五十億年ほどすれば、赤色巨星となり、火星のところまでも膨張してくるので、それまでに地球は飲み込まれ、消滅してしまうということである。
その途中で地球は暑さと放射線のために灼熱の場所となって、生物は死に絶えるということになる。
赤色巨星となった太陽は、最後は白色矯星となってしまう。そして最終的には輝きを失ってしまう。
ここまで考えると、地球の環境問題ということも存在しえなくなる。
いっさいは焼かれてしまうのである。
科学的に考えると、このように個人的な将来も、世界的な将来も、そしてまた地球や太陽を含めた将来を考えても、みな消えていく。今目に見えるものは決して永遠ではありえないのがわかる。
こうした事実を総合的に考えるとき、人間には袋小路に入ったような感を受ける。
もしこのような未来像を真剣に考えたら、私たち人類の努力というのはいったいどんな実を結ぶというのだろう。みな地球とともに蒸発して宇宙空間に飛び去ってしまうのだから。
聖書と私たちの未来
こうしたことを考えるとなんとも生きるということは空しくなるのではないだろうか。 しかし、驚くべきことには、この空しさを打ち砕く道が聖書に記されている。
今から二千数百年も昔に、この広大な天地すら消滅するという壮大な預言がなされていた。それは今日のような宇宙についての知識も全くなかった時代である。しかし、その時代は天というのは大地とは全く異なる物質でできているとされていたはずである。それは不変のものとされ、ストア哲学などでは「見える神々」とみなされていた。
にもかかわらずそうした天地も一時的なのものであるという啓示を受けていたのだから驚かされる。
重大な事故を起こした原子力発電所チエルノブイリのその名前がロシア語では黙示録8章にあるニガヨモギを意味するという不思議な一致などとともに聖書の驚くべき洞察を感じさせる例である。
「天の万象は衰え、もろもろの天は巻物のように巻かれ、その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。」 (イザヤ三四・4)
「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」 (イザヤ書51の6)
万象とは星である。永遠不動のものと考えられていた星すらも、落ちると言われている。
黙示録にこういう箇所がある。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。
この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」(黙示録21章より)
ここで言われている「新しい天と地」というのは私たちが現在見ている天地とは本質的に異なったものだと言えよう。というのは、そこには地球の過半を占める海がないといわれ、さらに太陽も月もないと言われているからである。
太陽のかわりに「神とキリストが輝いている」というのである。
さらに新約聖書のⅠペテロ書には次のようなことが記されている。
「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。
その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」(Ⅱペテロ3の11~13)
数十億年の遠い将来、この地球も消えてしまうということなど、あまりにはるかな未来のことであるから、そんなことを問題にするなど、ばかばかしいという人もいるだろう。
しかし、それは我々一人一人がそのうちすべて死んで焼かれてしまうということとどこか似ている問題なのである。私たちも焼かれてしまう、もっと強烈に熱すれば骨もみな灰になってしまう。それだから空しくなるのでなく、逆に死を越えた復活の信仰がますます不可欠なのだと思い知らされる。そして私たちはこの肉体あるうちにできる仕事をしておかねばという気持ちになる。
私たちの体が焼かれても、復活することが約束されているということはなんとすばらしいことであろうか。私たちは主イエスと神のもとに帰ることが約束されているのである。(ヨハネ福音書14章など)
同様にこの宇宙において、太陽が地球を飲み込んでしまい、地球のいっさいを焼き尽くしてしまおうとも、焼き尽くすことができないものがある。人類がいなくなるということが滅んでしまったということではない。ちょうどある人が死んで焼かれて消えてしまったからといってその人が滅んでしまったのではないのと同様である。
「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」 (マタイ福音書10の28)と主イエスは教えた。見える形では消滅しても、消滅しないものがある。
消え去ることのない世界がある。例えば、キリストは十字架に釘つけられて殺されてしまった。しかし、キリストは滅んでしまったのではない。滅ぶとは消滅してしまったことである。しかし、キリストの影響力は二千年閲読いている。いまもその力は世界にあふれている。
そうした見えない世界があることを信じない者にとっては、みんななくなってしまうことになる。
今の努力も苦しみも後世への遺産などもみな最終的には消えてしまうと考えられている。
しかし、神の国の存在を信じるならば、人間が死んでもそれで終わることがないように、単に、場所が移されたということになるように、地球が滅んでも神の国は存在している。
以上述べたようなことを考えるとき、聖書で言われている「キリストの再臨」への信仰がなかったら、私たちの心の深い要求は満たされないのがわかる。
私たちにとっての未来とは何か。それはキリストの再臨である。その後に約束された神の国である。
パウロたちはローマ帝国による激しい迫害の状況に直面して、再臨は確実に近い将来に生じると確信していた。黙示録の著者も同様だった。
しかし、現代の私たちは科学技術の進展ということに直面して、とくにそのことを信じて受けいれるかどうかが迫られている。
パウロのような大使徒ですら、自分の生前に再臨があると考えていたようであり、いつ再臨があるかということについては十分には啓示されなかったようである。再臨がいつあるのかについては主イエスは、だれも知らない、自分も知らないと言われたのであった。
私たち自身の身体が朽ち果てていくのは人間の努力ではどうにもならない、神の力によって復活のみが希望である。それと同様にこの世界も人間の努力によってはよくならず、ただ再臨によってのみよくなる。
この根源的な真理へと否応なく我々は導かれているといえよう。今日の現状を見るとき、私たちは神の力がすべてを成すということを単純素朴に信じて、そこから未来に向かう力を得るように仕向けられているのである。神の言葉は未来についてどう約束しているかこの世の将来はどうなるのか、そのことについて聖書の記述をみてみよう。
「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださった。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのである。」
(工ペソ書1の8~10)
聖書のこの言葉によれば、神は究極的にはいっさいをキリストのもとに一つにまとめられるというのであり、歴史とはキリストに向かうものであると言われている。
現実を見るといっさいがその逆でバラバラになっていくように見えるのに、霊の世界、神の国を見つめるとき、すべては真実と愛のキリストヘと流れていくというのである。
つぎの聖書の言葉はそのことをわずかひと言で言い表している。 「万物は神から出て、神によって保たれ、神に帰する。」 (*)
これはパウロのローマの信徒への手紙の十一章の最後の部分に記されている言葉である。
(*)原文のギリシャ語では、次のような簡潔な表現で、万物の過去、現在、そして未来をすべて含んでいる内容となっている。宇宙、人類など悠久の過去からはるかな未来まですべてを包み込む膨大な内容に関する真理をかくも簡潔に表現できることに驚かされるし、まさに啓示によってこうした表現を得たのであろう。
エク アウツー カイ ディ アウツー カイ エイス アウトン タ パンタ ek autou kai di' autou kai eis auton ta panta であり、逐語的に訳すると、「彼(神)から、そして彼によって、そして彼に向って、 全てのものは」 ek(~から) autou、 autonは、いずれも 、それぞれ autos(彼)の属格、対格。ta(中性複数冠詞) panta(すべてのもの) (ローマの信徒への手紙11の36)
「天地は滅びる。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」 (マタイ福音書二四・35)
この主イエスの言葉を信じることができるのは大いなる幸いである。 私たちがもし、神とキリストを信じることがなかったら、どんなにあがいてもこの地球は最終的に太陽の滅びとともに消滅してしまうということになる。
しかし、もし愛と真実の神、万能の神を信じ、キリストを受け入れるときには、過去はいかに大きい罪であってもその赦しを与えられ、現在はその赦しを受けつつ、生きて働くキリストとともにあり、聖霊を受けて導かれ、そして未来は個人的には復活して霊のからだを与えられ、キリストとともに神のいのちを与えられることを信じ、全世界や宇宙については、最終的には霊的な新しい天と地(神の国)が与えられること信じることができる。
「いつまでも続くものは信仰と希望と愛である。」(Iコリント十三章)ということも私たちの過去、現在、未来ということを指し示している言葉でもある。
過去の罪の赦しを与えられるというのはキリストの十字架の死による罪のあがないを信じる信仰であり、未来の神の国を待ち望むのは希望であり、これは確かにどんなことがあっても続くものである。そして神の愛によって現在を導かれること、そして最終的には神の愛だけがある神の国にすべてが導かれること、それが私たちに与えられた道なのだということがわかる。
…ここも神の御国なれば、
邪(よこしま)暫しは 時を得とも
主の御旨の ややに成り
天地(あめつち) ついには
一つとならん」 (讃美歌九〇より)
神の慈しみを前に―詩篇26篇
主よ、あなたの裁きを待ち望みます。(*)(1)
わたしは誠実に道を歩んできたからです。(**)
主に信頼して、迷うことはなかったのです。
主よ、わたしを調べ、試み、
私の思いと私の心をためしてください。(***)(2)
この詩の作者は、9節でうかがえるように、神に背き不正なことをする悪い人に訴えられているという状況にある。だからこそ正しい裁きを待ち望んでいる。詩人は彼らが言うような間違った道を歩いてきたのではないという気持ちである。
不当なこと、してもいないのに悪事をしたと言われることは耐えがたいことであろう。この作者は、そうしたときに、人間が正しい裁きをすることができないのを深く知っていたゆえに、すべてを見通して真の正義に従って裁きをして下さる神にのみ、訴えている。
私たちにおいても、日常の人間関係や仕事などのことで、不当なこと、してもいないのに悪いことをしたと言われるようなとき、そして周囲の人たちがみなそれを信じてしまっているとき、この孤独で耐えがたい思いを神に対してのみ訴えるのと同じである。
(*)「裁き」と訳された原語(ヘブル語)は、シャーファトで、「裁く」という意味を持っている。その派生語であるミシュパット は、裁き、正義、公正、公平
などと訳されることからわかるように、正義に従って裁く、という意味。
神が私の歩みを覚えてくださって正しく裁いて下さるように、私の日々を見て、弁護してくださいますように、という意味なので、新改訳では、「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」
と訳されている。
(**)「誠実に道を」これは、口語訳、新改訳が用いている訳語。 これは新共同訳では、「完全な道を」となっている。だが、完全な道を歩むなど、あり得ないではないかというのがおそらく多数の人の感覚である。それゆえ、この訳語のままでは、この詩は私たちの実感とはかけ離れていると感じて、この詩全体が現代の私たちとは無縁のものと受け取られかねない。
この原語は、トーム(名詞)であり、その形容詞形であるタームも同様の意味であり、ヘブル語辞書では次のようにいろいろな意味を記してある。 complete(完全な), right(正しい), sound(健全な), orderly(規則正しい), normal; peaceful, quiet(静かな、穏やかな→これは、創世記25の27において、ヤコブは「穏やかな」性格だったという箇所でこのように訳されている), pure(清い), blameless(欠点のない)
(***)この箇所は、新共同訳では「はらわたと心を火をもって試してください。」と訳されているが、この訳文では、初めて読む人、あるいは何らかの説明なければ読んですぐに意味がはっきりとわかる人はほとんどいないであろう。原文のヘブル語には、「火」という語はなく、精製する、試みるといった意味を持つ原語が用いられ、「はらわた」と訳されている原語は、キルヤー
で、内臓、腎臓などを表すとともに、「思い、心」 という意味でもしばしば用いられている。例えば、次の「思い」と訳されている原語がこの キルヤーである。「あなたは人の心と思いとを調べられます。」
(詩篇7の9)。内臓をあらわす言葉が、心の働きという意味で用いられるのは、次のように「深く憐れむ」と訳されて、新約聖書にもみられる。
…イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。 (マタイ20の34) この場合は、スプランクノン(内臓)を表す名詞の動詞形スプランクニゾマイが、「深く憐れむ」と訳されている。
…あなたの慈しみは、わたしの目の前にあり
あなたの真実に従って 歩き続けています。(3)
この詩の作者は、神に信頼して、神の示す道を歩いてきたということを一貫して言っている。1~3節にそれがよく表れている。3節にある神の「慈しみ」はヘブライ語で「ヘセッド」、「真実」は「エメス」(*)であり、これらは神の御性質を表す重要な言葉としてさまざまなところで出てくる。
(*)「エメス」と「アーメン」は、語源的には共通していて、「アーメン」は「真実に、真実を込めて」という意味である。神の慈しみや真実をいつも感じていたからこそ、4,5節にあるようなことが可能であった。
聖書にある神とはどういう神かと言うと、万能の神、天地を創造した神などがある。わたしたちが神に従って歩むということは、いつも神の慈しみを目の前におき、どんなことがあっても神の愛がそこにあるといつもそれを見つめ、思い浮かべながら生きていくことである。
目の前に何を置いて生きるかということは非常に大事なことである。
聖書とは、神を目の前において生きることがいかに祝福を生み出すか、それはいかに人間にとって根本的に重要なことであるかを一貫して語り続けている書物である。
神を知らなかったら、その場合には尊敬する人、あるいは有名人などの人間とか、この世の人からの評価(これは、人間を前に置くのと同じ)、あるいは、自分の能力、財産やお金などをいつも自分の前に置いている。その場合には、永続的な祝福にはつながらない。
例えば、自分が好意を持つ人を自分の前に、置いて生きるとしても、その人が、ほかの人と親密であれば、ねたみの気持ちが起こったりする。また他人の評価を第一として勉強や仕事の結果を出すことを目標にすると、いくら努力しても自分では不足感を感じ、満たされない。
そして体力的にも時間的にも限界が来る。
しかし、この詩人のように神の慈しみと真実を前におくことができたら、今までに挙げたさまざまな問題は消えていく。人に悪いことを言われても、神を慈しみを前においていたら、ひとりでにその悪意などは、消されていく。
むしろ神の慈しみが前にあればあるほど、悪いことを言う人を憎んだりしないで、その人にも良きもの、神の恵みがありますようにと祈りの気持ちになることができる。
私たちの周囲の目に見えるもののうち、神の慈しみや真実、あるいは完全な清さを何らかの形で反映しているものはあるだろうか。それは「自然」である。それゆえに、主イエスも、神の愛を反映しているものとして、太陽や雨をあげ、それらは悪人にも善人にも同じように与えられていることを教えられた。
…しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5の44~45)
また、自然のうち、野草などの花の美しさや清らかさを見ると、そこには悪意や下心がないのはだれにもすぐにわかる。だから自然を目の前に置くことは、神を目の前に置く助けとなる。
旧約聖書の古い時代から、神の御性質について、「慈しみ」と「真実」の二つが、中心となって出てくる。出エジプト記34章6には、聖書において初めて、明確にこの神の御性質について並べて書かれている。
…主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。(出エジプト記34の6~7)
…主よ、わたしは手を洗って潔白を示し
あなたの祭壇を廻り
感謝の歌声を響かせ
驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
主よ、私は愛します。あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところを。(6~8節)
この詩の作者は、手を洗って―すなわち、罪が清められていることを示す。現在の私たちには、手を洗うことはもっぱら衛生上のことであるが、当時は、異邦人と関わったりハンセン病や婦人の出血の汚れ、食事の内容による汚れなどいろいろと規定されていたので、そうした汚れに染まっていない、あるいは清めを受けているというしるしとして手を洗っていた。
イエスの時代になっても、食事の前に宗教的な汚れから清めるための一種の儀式として手を洗うということがなされていた。しかし、それに関して、イエスは、次のように言われた。
…口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、盗み…、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(マタイ15の19~20)
それゆえに、現在の私たちにはこれに変わって、信仰によって清められ、さらに日々受けるみ言葉により、聖霊によって清められる。そうした上で、祭壇を廻る、すなわち神への礼拝を行う。
さらに、神のなされたことを、告げ知らせる。このように、旧約聖書の詩篇にはしばしば自分の救いだけに終わることなく、他者に語り伝えるということが記されていて、これが新約聖書では主イエスに従う者たちの基本的な使命となった。
そして当時の信仰深い人たちにとって、エルサレムの神殿はじっさいに主がやどり、そこから祝福を与えて下さると信じられていた。しかし、現代の私たちには、そのような特定の場所や建物でなく、主ご自身を愛するということが最も大切なこととされるようになった。神の国は特定の国や建物のなかにあるのでなく、「あなた方のただ中にある」と主イエスは言われた。そして二人三人、主の名によって集まるところには私もいる、と約束してくださったように、たとえ小さな集りであってもそこに集まる人たちのなかにいて下さる。
このように、主ご自身を愛し、主を信じて集まる人たちのその集りを愛するというのが、この詩を現代の私たちに置き換えたときの意味となる。
… わたしの魂を 罪ある者の魂と共に
わたしの命を流血を犯す者の命と共に 取り上げないでください。…(9節)
わたしは誠実に歩みます。
わたしを憐れみ、贖ってください。
私の足は平らな所に立っています。(*)(11)
私は、集まりの中で、主を讃美します。
(*)平らな所→原語は、ミーショール。口語訳、新改訳では「平らな所」と訳され、新共同訳では、「まっすぐな道」と訳しているが、その新共同訳は、この語をすぐあとの詩篇27の11節では、「平ら(な道)」と訳している。
神の道を歩き続けていたら、神の業をいろいろ経験させてくださるので、7節にあるように感謝の賛美、驚くべき神の働きを自分だけにとどめるのではなく、他者にも伝えたいという気持ちが自然と生まれてくる。これはとくに新約聖書の時代となって、聖なる霊が注がれると、伝えたいという気持ちが溢れるようになり、歴史的にも、命をかけても伝えようとする人たちが起こされてきた。
このようにしてあなたのまことを実際に受けて生きてきたのだから、どうか罪あるものと一緒にしてしまわないでくださいということである。
そしてまた11節以降に、最初と同じ内容のことが書かれている。この詩人が今置かれている状況で、悪意、中傷をする人たちから守り、憐れんで、贖ってくださいとあるが、贖うという言葉は現代の日本人にはとてもわかりにくい言葉だと言えよう。
一般的な新聞やテレビなどのマスコミや雑誌などでも、この贖うという言葉はほとんど見かけることはない。
贖うという漢字は、貝という漢字が二つある。貝は古代においては―比較的最近でも一部の熱帯の島では―お金の代用として使われてきたところがある。本来「贖う」の意味は代価を払って買い戻すということである。
悪の力が迫りそこからどうしても出られないから、そこから悪の力にとらわれている状態から買い戻してください、救ってくださいと言っている。
現在の私たちにとって、悪の力とは、人間の魂を深いところでとらえて真理に背かせる。言い換えると罪の力である。そこからの贖いこそが、私たちにとっての最大の問題となっている。
それゆえに、キリストはわたしたちの贖いとして死なれたことを信じることがキリスト教信仰の中心になっている。どんなに誠実に歩もうとしても、また正しく歩んだつもりであっても、あとになって、それがとても不十分であり、ときには大きな罪を犯していたことに気がつくことがある。
そのことを考えるとき、この詩の作者の言っているように、真実に正しく歩んだと思っても、絶えず神から憐れんでいただき、罪の力から贖い出され、救い出だされることが不可欠になる。
自分の力で歩けると思っている人は、神に、「憐れんでください」とは祈れない。
「私の足は、広いところに立っている」とこの作者は最後の節で言っている。
広い所、あるいは真っ直ぐな道とも訳されている。敵対する人たちからの悪意、中傷をいつも受けているときには、人は、狭いところに押しやられるような気持ちになる。自分が犯した罪や他者の人間の罪ばかり思っているときにも、人の心は狭く、動きのとれない状態になる。
このようなとき、神への信仰によって神との結びつきが新たに与えられると、自分がいままでのさまざまのことから解放され、狭く、圧迫されていた心が、広いところへと導き出されるのを実感する。
それゆえに、この詩の最後には、自分を導いてくださり、悪意や中傷からも守ってくださる神をたたえますという言葉で終わっている。
原発再稼働の問題
首相が、みずからかねてより国民の注視の的であった大飯原発の再稼働を宣言した。その理由というのが、国民のために再稼働するのだ、万が一停電となったらどうするのか、と言っていた。この言葉は、そのまま、もし福井の原発が万が一、福島のような大事故を起こしたらどうするのか。何百万という人口を抱えた大都市を控えており、それこそ、日本は破局的な事態となる。
だからこそ、その日本国民のためにこそ、原発は停止し、原発に頼らない方法で生きていくのが日本の使命である。
そもそも、世界でとくに地震が多く、日本全体がどこででも地震が起きるような状態なのであり、そのような危険な場所に、54基もの原発を作ったこと自体が
大きな間違いだったのである。外国の科学者、原子力関係の人たちも、なぜ日本のような地震多発地帯に、しかも人口密集地帯を控えているのに、このように多数の原発をつくってしまったのかと、大いに疑問が持たれている。
間違いは気付いたときには、できるだけ早く直さなければならないのは当然である。
万が一にも大事故は生じないというのが、去年の福島原発の大事故以前の主張であった。しかし、現実にその大事故は起こったのである。
首相は、福島級の地震や津波が生じても事故が起こらないように安全対策をしているなどと言っていた。それは、電力会社、地元の権益を考えるような一部の技術者や科学者たちが安全だといっていることをそのまま信じ、鵜呑みにしているにすぎない。
ドイツやイタリアでは、すでに国民や政治家たちも、困難を見据えたうえで、原発を止めるという決断をした。また、スイスでは、NHKの特別番組で、原発を規制する委員会が、「経済のことは考えない、我々はただ安全かどうかだけを考える」、と明言していたのが印象的であった。
まず第一に徹底した安全を求める、それで原発の運営が経済的にたちゆかないなら、そうした原発ははじめから建設をしない、あるいは、運転途中であっても、求められる安全が確保できないと判明したなら、その原発の会社は撤退するしかないという厳しい姿勢があった。
それに対して、日本の首相、政治、経済界の多くが考えているのが、まず経済のこと、言い換えるとお金の問題である。
しかし、ひとたび福井の原発が大事故を起こしたら、そして風向きが北風あるいは北西風で雨も降る状態のときには、福井の原発から100キロ~130キロ圏には、京阪神がすべて含まれ、名古屋もその圏内に入ることになり、関西が壊滅的になるであろう。さらに、そうした大地震などのときには、今回の福島原発のように、近接している原発にもその影響は及ぶのであり、13基もあるほかの原発にもその事故が波及し、果てしない困難と窮乏が、日本全体を覆うことになる。
福島第一原発の事故においても、以前にも書いたように、もし4号機の1535体が保管されている燃料プールが崩壊したなら、冷却が不能となり、高熱を発する。そのため金属が燃えだす。そのような状態の燃料体に水をかけると、事態は悪化する。というのは水から発生した酸素が燃料棒を覆っているジルコニウムを酸化させ、水素が発生して爆発する。これは最悪の事態であり、こうなると10~15年分の核燃料が大気中で燃えるにまかせるという世にも恐ろしい事態となる。4号機の燃料プールには、戦後大気圏内で行われた、原水爆のおびただしい実験から放出された量を合わせたほどの放射線セシウムがある。
それが燃えるがままになった場合には、膨大な量の放射線物質が環境に放出され、日本列島が分断され数千万の人々が避難しなければならなくなるという。
(「福島第一原発―真相と展望」 70~78頁 アーニー・ガンダーセン著 集英社新書、著者は、アメリカの原子力技術者。全米で、原子炉の設計、建設、廃炉に関わった。)
なおこの4号機の危険性は、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)も指摘している。(徳島市での、今年2月末の講演)
さらに、イタリアの環境団体は、5月18日、日本政府に、福島第一原発の燃料プールから使用済み燃料を緊急に取り出すことを求める声明を出したという。また、この4号機の危険性を早くから指摘していた元スイス大使の村田光平氏は、次のように述べている。
「世界は自分たちの生活を脅かすリスクとして4号機問題をとらえています。日本が単独で、まして事故を起こした東電に解決をまかせるべき問題ではありません。」(「週刊朝日」6月8日号)
この4号機の燃料体を取り出すことは、その保存プールが高い位置にあり、地震で何らかの損傷―傾いている可能性があること、従来の機械は操作できないほど内部が破壊で混乱していること、高い放射線のもとであり、非常な困難が予想されている。
しかも、この難工事は相当な時間を要するために、その途中に巨大地震が生じると、そのまま崩壊してしまうのである。
万が一というなら、このようなことをこそ考えねばならない。そのためにこそ、日本の一部の会社や文科省関係の人間だけでなく、各国の英知を集めて早く取り出さねばならない。
福島第一原発の大事故は、その本当の収束のためには、そのさまざまの除染、補償、廃炉の困難を含めて今後 数十年~百年とも言われるほどの時間を要するといわれている。
そのような大事故を起こして現在、数知れない悲劇が進行中であるにもかかわらず、どうしてその悲劇の原因ときなった原発を簡単に再起動をしようとするのであろうか。
それは、関係者たちの、目先のことだけにとらわれた判断、経済、お金の問題、あるいは、自分の保身やいままでの利得を継続したいという欲望の結果なのである。
私たちは、原発を止めるために、こうした危険性をいつも覚えて、原発を押し進めようとする勢力に対しての反対の気持ちを持ち続けていきたいと思う。
「讃美歌」(1955年発行)における問題点
従来多くの教会で使われてきた「讃美歌」には、いろいろな問題点がある。
①その曲目の選択の幅が狭いこと→19世紀のもの、米英中心であって、アジア、ラテンアメリカ、アフリカなどのものが、きわめて少ない。グローバルな時代にあっては大きく偏っている。
②天皇制や神道、あるいは古語でもはや一般に使われていないため、国語の教養が豊かな人とか戦前の老人以外には、意味不明あるいは意味がわかりにくい用語、さらに、不快語などが多い。
③言葉の問題…現代で全く使われていない古語、表現が多すぎる。
④曲自身の問題→若い世代向けのしたしみやすいメロディーが少ない。
⑤その他
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これらを少し詳しく検討してみよう。
①賛美の幅が狭いことの問題
・時代の狭さ
「讃美歌」は、圧倒的に、1800年代の米英の作品が多く収録されている。これは明治時代に作られたものがそのもとをなしているから、当時としては、精一杯新しいものを取り入れたのであったろうが、それから100年も経ったのであり、それ以降次々と作られている優れた賛美は全く含まれていない。
それに対して讃美歌21には、1900年代に作られた新しい賛美が多数収録されている。
例えば、400番台のはじめの部分に限ってみても、次のような賛美が、作詞、作曲ともに、1900年台の作品である。
406「聖霊ゆたかに」、409「すくいの道を」、413「キリストの腕は」、414「せかいの友と」 416「神の民は」(曲オランダ民謡)、417「聖霊によりて」、419「さあともに生きよう」、420「女と男と知性と愛」、421「ウリエイウッソン」(となり人)、423「人がこの世界に」 424「美しい大地」、425「こスズメも、くじらも」、 426「私たちを生かす」、427「ああ美しい自然」、428「神はごらんになった」、429「世界のどこかで」
444「気付かせてください」、439「くらい夜」、446「主が手をとって起こせば」
・作詞、作曲した人は、欧米が圧倒的に多いこと
賛美は、キリスト者の魂からあふれるものであり、また神の言葉を伝えるための重要な働きを持っている。救われたという喜びは何にも代えることができない。天において最も大なる喜びは、一人の魂が悔い改めたときであるとも言われているほどで、救われたという真の体験は自ずから賛美となる。
例えば、聖書における最初の賛美は、神の大いなる助けによって、紅海(葦の海)を前にして、エジプト軍から救われたときであった。そのとき、モーセやミリアムは、踊って、また太鼓やタンブリンを使って賛美した。(出エジプト記15の1-21)
賛美とは、民族や地域にかかわりなく、神のわざへの感謝と賛美、祈りが本質なのであるから、世界の各地の賛美を広く採用するのが、より主の御旨にかなったことである。
讃美歌21では、欧米以外のものもいろいろ採用されている。
例えば、508番の「救い主イエスこそは」は、パキスタン民謡。468番「神をたたえよ」は、ユダヤ教の讃美歌であり、161番はイスラエル民謡。
また、韓国の現代讃美歌126番「感謝して新しい歌で賛美せよ」、さらに、421番や369番、398番なども韓国の讃美歌である。
また、375番「賜物と歌を」は、ジャマイカの民謡。
従来の讃美歌では、日本人の作詞作曲のものはごく少ないが、讃美歌21では、増加している。 例えば、409番「すくいの道を」は、日本人の讃美歌作者、作曲者として有名な由木康と高田三郎による作品、 385番「花彩る春を」や、399番「さすらいの民よ」などは、現代に生きる日本人の作詞作曲の作品。
同様に、548番「私たちを造られた神よ」や、547番、549番なども現代の日本人による作品。
・社会的問題に関する賛美の欠如
従来の讃美歌では、社会的な問題に対する歌というのがほとんどなかった。
讃美歌21では、そうした内容をもった賛美も入っている。
例えば、373番「戦い疲れた民に」は、 戦争などで疲弊した人々や世界に主の平和を願う賛美。372番「幾千万の母たち」も、この世界に数限りなくなされてきた戦争がやんで、平和が来るようにとの内容。
・新年の賛美の曲の欠如
以前からの讃美歌では、新年を迎えての讃美歌など、まったくふさわしいものがなかった。讃美歌21では、368番「新しい年を迎えて」のように、わかりやすい言葉で、現代の日本人が作詞 作曲したふさわしい賛美が収録された。
②天皇にとくに用いられる言葉の例
○御稜威 みいつ
「いつ」の尊敬語。天皇・神などの威光。強い御威勢 (広辞苑)
(1)讃美歌 8番
2節 神にたよる民 罪と死に勝ち 共に喜びて 代々にたたえよ みいつたぐいなく
(2)讃美歌9番2節 救いの主を ほめたたえまつれ 御言葉もて わが身を励まし 悩みに勝たしめ給う みいつたぐいなし
(3)14番 わがたまさめて
1・わがたまさめて ほめたたえよ 世をすべしらず 大御神を たかきにいます 主のみいつを 地にあるわれは あがめまつる
(4)15番2節 みいつの光は 世界をてらせり 大地はかしこみ み前にふるえり
(5)62番1節 主イエスのみいつと み恵みとを 言葉のかぎりに 称えまほし
(6)68番 父なる御神に
1・父なる御神に み栄えあれかし よろずを造りて 永久(とわ)に統(す)べます 上なきみいつと またなき御恵み かしこみたたえよ
(*)なお、御稜威 という言葉は、日清戦争から太平洋戦争に至る間、天皇にのみ用いられてきており、天皇と深く結びつけられてきた言葉である。
○おおみよ【大御代】天皇の治世。聖代。
1)537番 こころをあわせて わが主の大御代(おおみよ) ことほぎまつれや
○大君(おおきみ)・【大君】{文章語}天皇の尊称。(学習研究社 現代国語辞典)
・おお‐きみ【大君】天皇の尊称。万三「―は神にしませば」 親王および諸王の尊称。皇女・王女にもいう(広辞苑)
・214番 大君イエスの御代をしらす
○大前 おおまえ
・310番 父のおおまえに すべてのもとめを たずさえいたりて
→讃美歌21では、大君とか おおまえ などの言葉は排除され、310番では「父のおおまえに」→「み神のもとへと」と変えられた。
(*)「畏れ多くも、天皇陛下の大前に…」 と戦時下では、 大御稜威(おおみいつ)とともに多く使われてきた。
③神道でよく使われる用語
○さきわう
・28番3節 ただしきわざをば さきわいたまえや この日も 罪よりきよめて あらわしたまえや みさかえを
○おくつき 【奥つ城】墓所。おきつき。 (神道では「墓」を使わずこれを使う)
・36番4節 おくつき寒きを 臥床(ふしど)のごとくに やすけく迎(むか)うる 心をばたまえ
・171番1節 なおしばしの ときを経(へ)なば おくつきしずかに われも眠らん 主よけがれし 身をきよめて み国のそなえを なさせたまえ
・296番 3・ゆくてはまくらき おくつきにも こえてはかえらぬ 死出(しで)の山も 春日(はるび)のごとくに げにのどけし わがためみちびく 主ましませば
・480番1節 おくつき所(どころ)よ ふところ静かに 貴(とう)ときなきがら 今うけおさめて やすけき眠りの 臥床(ふしど)につかせよ
○ことほぐ(寿ぐ、言祝ぐ) (奈良時代)ことばで祝福する。
537番 こころをあわせて わが主の大御代(おおみよ) ことほぎまつれや
○神道の意味をもっているものを歌詞に取り込んでいること
・414番 1節 家ごとに 松竹たてて 新年を いわうめでたさ
正月に、松と竹などを門松は、神道の信仰から来ているのであって、先祖神の依り代(よりしろ)として立てるのである。神道では、人間が死んだあと適切に祀ることによって、だんだん祟ったりしないものになり、長い期間を経て先祖神(祖霊)に合流するという信仰がある。その祖霊が正月や盆に戻ってくるとき、松や竹があると家に入ってくるのを助けるという意味がある。
このような門松の意味を知るなら、それを讃美歌で歌うなどということは本来考えられないことである。
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④現代の若い人々にはまるで分からないような、古語、表現が多い。
賛美とは、聖書の最初の賛美(モーセやミリアム、人々が救われた喜びに踊ったり、小太鼓で讃美した)や、讃美歌の源流である詩篇を見てもわかるが、意味不明の言葉で賛美するなどということはあり得ない。
心から自然にあふれる祈り、感謝、喜びの表現なのであるから、わけの分からない表現で祈るはずがないからである。
ところが、従来の讃美歌には、現代の普通の人、否、長くキリスト者であってもわかりにくいのがある。ある教会の役員の方(何十年も前からのキリスト者)が、私に讃美歌の歌詞の意味がよく分からないのがあるけれど、いまさら聞けない、と言われた方もあったように、およそ、自然に口からあふれる表現とは言い難いのが多い。
従来の讃美歌は、すべて文語である。これだけ考えても、文語で祈る人などいない現状であり、聖書そのものも、文語から口語に変わっているのであるから、だれでもがすぐわかる表現で賛美すべきなのである。
歌詞の文学性、表現の簡潔、ひきしまった文体、それは当然文語のほうが豊かである。それらを讃美歌として保存することにもそれなりの意義はある。しかし、そうした意義より、聖書に基づいて考えるなら、だれもがすぐわかる言葉で賛美する、ということのほうがはるかに重要である。
そのため、長くキリスト者であった人にとっても、しばしば意味不明であったり、あいまいな理解となる。
意味がわかりにくく、現代のごくふつうの人たちが理解できないような言葉が実に多い。
賛美とは、その言葉を祈りつつ歌うのであり、み言葉に準じる歌詞も多く、み言葉を伝えるという、伝道的意味も深い。
しかし、意味不明な歌詞では、そのような宣教のためには不適当だといえる。
○あらたまの、におえり
・414番 1・あらたまの 年たちかえり うらうらと
初日におえり 家ごとに 松竹たてて …
この讃美歌は、すでに述べたように、門松という先祖神の依り代という神道そのものの飾り付けを歌うという誤りがある上に、新年のはつらつとした雰囲気などまるでないような古語で、これではとても歌う気持ちになれない。
あらたまの(新玉の)とは、「年・月・日・春」にかかる枕詞(まくらことば)であるが、そのようなことを知っている人がどれほどいるだろうか。
このような、およそ現代にふさわしくない、だれも使わない言葉が冒頭にあれば、新しい年を迎える歌として好んで歌われるとは到底思えない。じっさい、私は過去40年以上も新年を迎えてきたが、その際、一度もこの賛美を歌ったことも、聞いたこともない。
「初日 におえり」この歌詞がただちに意味がわかるという人はごく少ないだろう。
初日が、匂うといっても、太陽から何らかの匂いが感じられるなどという意味ではない。
ここでは、「におう」とは、嗅覚の問題でなく、「丹(に)」とは、古来の日本語で、「赤い色」を意味する。徳島県にも、丹生谷(にうだに)という地名がある。これは、「丹」を生じる谷ということで、赤色顔料である、硫化水銀(HgS)が採れたからであった。
「におう」とは、この赤色のように目立つ、というのが原義であり、「色が美しく生える」という意味に用いられるようになった。
「卯の花のにおう垣根に…」 という有名な歌は、卯の花(ウツギ)がよい香りがするということでなく、その鮮やかな白い花が、よく目立つ垣根、という意味である。(ウツギには香りはない)
クリスマス賛美歌として有名な、「ああ、ベツレヘムよ、」(讃美歌115番)にも、「星のみ において 深く眠る」とあるが、これも、星のにおいがする、というのでなく、星だけが、美しく輝いている という意味である。(なお、この言葉はさらに、嗅覚にも用いられるようになり、現在ではそのほうが主となっている)
○はらから【同胞】同じ母親から生れた血縁。転じて、兄弟姉妹。万三「親族同胞…」
同国民。どうほう。(学研パーソナル現代国語辞典)
・537番3節 わが主をおのれの かしらとあがめて ひとつとなりにし 友よ、はらからよ いよいよしたしみ こころをあわせて わが主の大御代(おおみよ) ことほぎまつれや
○320番 かよう梯の うえより →梯とは何か、たいていの若者は不可解だろう。また、これは、梯子(ハシゴ)の意味だが、天使が大工の使うハシゴを上下するというイメージは合わないので、階段と訳されている。
○267番 神はわがやぐら →現代のほとんどの人にとって、やぐらとは、やぐらごたつ,やぐら太鼓、火の見やぐらを連想するであろう。 それで神の私たちへの強固な守りや見張りというイメージがつながるだろうか。
3節には、「陰府の長よ、ほえたけりて…」とある。
このような表現も、そもそも「陰府の長」が読めない人が非常に多いし、その意味に至っては、若い世代だけでなく、多数の日本人は、何のことかわからないだろう。
4節には、「よしおどすとも」、「わが命も宝も とらばとりね」とあるが、この「よし」とか「ね」の意味も現代の人にとっては、まったく耳慣れないことであり、はるかな古代に使われていていまは使われていない言葉を連ねていては、賛美に心がこもらないのは当然だろう。
「ね」とは、完了の助動詞「ぬ」の命令形で、普通の命令よりは意味がやや強く、…してしまえ。ここでは、私の命も大切なものも取ろうというなら取ってしまえ…。それでもなお神の国は私から奪うことはできないのだ。という確信を歌っているのだが、そもそも意味不明では確信も何も伝わらない。
○214番→これは、よく歌われた讃美歌だが、歌詞そのものが、たいていの人にとってわかりにくいと言えよう。
「北の果てなるこおりの山 てる日にやくる まさごの原 →このような文を初めて聞いて何が言いたいのか 分るであろうか。
この歌詞は、この讃美歌の最初の部分であるが、私が40数年前、大学4年のとき、初めてこの讃美歌を聞いたとき、? ?と 不可解な思いをした。
「北の果てなるこおりの山」とは どこを指しているのか、なぜこんな私たちの生活と関係ない言葉を歌うのか、…と思ったものである。(これは、原詩では、グリーンランドの山を指している。)
「叫びもとむる 声ぞひびく 」と続くので、ようやく神に救いを求めて叫ぶ人が、世界中にいるのだということだろうと、後まで読んで分ったというのを思いだす。
次は、讃美歌260番「千歳の岩よ わが身を囲め 裂かれし脇の 血しおと水に…」
このよく賛美される讃美歌の第一行、これはその意味がわかって歌っているだろうか。キリスト者となって何十年の人も、繰り返しこの讃美歌を歌ってきたが、この意味がどうもよく分からないと言われたことがある。
「千歳の岩よ」 神はわが岩、という表現は詩篇に多いが、新約聖書では、「この岩こそキリストだった」(Ⅰコリント10の4)という表現はあるが、「キリストが千歳(ちとせ)の岩」という表現、そしてその「岩が自分を囲む」 という表現は理解しがたい人が多いはずである。
その上、現代では「千歳」などという言葉は全く使わないから、この讃美歌のメッセージが伝わらないのである。
さらに、岩は不動のものであり、それが自分を天使のように囲むというイメージも分かりにくい。
日本キリスト教団出版局発行の「讃美歌21略解」にも、この讃美歌の歌詞は、「象徴的表現が多く使われ、もともとかなり難解な歌」とされているほど。
・原詩 Rock of Ages, cleft for me,
let me hide myself in thee; …(Toplady 作詞 1776年) (Ⅰコリント10の4と詩篇94などを組み合わせているが、原詩もだれでもすぐにこの歌詞がよくわかるという内容ではない。)
○90番 「ここも神の御国なれば」この讃美歌もよく歌われてきた。
この3節にある歌詞「よこしま暫しは ときを得とも」ある若い牧師が、この意味を中学生に問われて答えられなかったことがある。よこしま(邪)も、ときを得る
ということもわからなかったからである。
大多数の若い世代の人は、これが「悪が、しばらくの間は、その支配の力を振るっていることがあろうとも…」といった意味だとはわからないであろう。
○112番「もろびと こぞりて」クリスマスの賛美で広く歌われてきた讃美歌。
この2節にある、「悪魔のひとやを うちくだきて」であるが、これも多くの人にとって意味不明である。
「悪魔の火と矢」、とか 「一つの矢」 などと誤って受け取られていることが多い。
私は、この歌を歌う前に、いろいろな人たちに この意味が分かっているかどうか聞いて調べてきたが、多数の人たちが意味不明なまま、あるいは上記のような間違った解釈で歌っているのが判明した。
「ひとや」とは、人屋・獄・囚獄というように表記され、罪人を捕えて押しこめておく牢屋、獄舎のことであるが、現代では全く使わないからせっかくの有名なクリスマスソングであっても、この部分は何かわからないままに歌ってきた人が多い。
このように、歌詞が現代の一般的な日本人、とくに若い世代にわかりにくいものはたくさんあるが、あといくつかをあげておく。
○518番 「いのちのきずなの」これも比較的多く賛美されてきたものだが、この讃美歌の折り返しの部分に「つげまつらまほし」というのがある。
これも、古い言葉であり、現在の多くの若い人たちには、わからないと思われる表現である。
賛美は祈りであり、宣教的意味を持っているが、このような言葉で、そうした役割が果たせるだろうか。
主に向かって告げたい、というのを、告げまつらまほし と言ったり、御国に行かまほし などと語り、祈る人がいるだろうか。
2節の、つつしみ またばや という表現も同様に 今日ではだれも使わない古い言葉である。
○讃美歌270番 いかで迷うべき などて疲るべき
○讃美歌489番 友もうからも われをまつらん 、あるいは、妹背あいあう なども、万葉時代を思いだすような表現である。このような化石になったような言葉を、生き生きとした心で、自分の心を委ねて歌えるだろうか。
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⑤メロディーの問題
従来の「讃美歌」は、四分音符の連なるメロディーを主とするのも愛唱される歌にはかなりある。例えば、「聖なる聖なる」(66番)、「あまつましみず(217番)」、「かみはわがやぐら」(267番)、「ガリラヤの風」(228番)、「主よこころみうくるおり」(316番)等々。
これは多くの人が斉唱するとき、厳粛、荘重な雰囲気を生み出すことがができるし、伝統的な讃美歌らしい特質を持っている。
賛美は礼拝であり、メロディーの美しさにひっぱられてはならない、という考え方もあるだろう。
しかし、聖書における最初の賛美が、喜びにあふれ、モーセやミリアム、人々が小太鼓をたたき、踊って賛美した、という内容であることから推定できるように、賛美は、喜びにあふれる心を現す明るいメロディー、あるいは美しいメロディーで歌われるものなど、多様なものがあるほうが望ましいと言えよう。
神の創造された野草の花など、実に美しいもの、力強いもの、繊細なものなどいろいろある。メロディーにもそうしたさまざまのものがあるのが、より神のお心を表していると言えよう。
荘重さ、厳粛さといったものを重んじるのは、讃美歌21も 似たところがある。
それと対照的なのが、新聖歌である。以前の聖歌のときから、メロディーの豊かさ、明るい曲など、讃美歌とは異なる雰囲気をもった歌も多い。それゆえ、讃美歌や讃美歌21を補う利点がある。
⑥その他
・従来の讃美歌には、曲名がない。そのため、讃美歌を歌う場合、どの教会でも番号で言うのが習わしとなっている。
しかし、このことは考えてみれば、あまり望ましいことではない。人間でも、あるいは家で飼っている動物や花壇の植物でも、名前を呼ばずに、番号で呼ぶなどということをしている人がいるだろうか。
また、私たちが幼いときから学校で学び、またCDやラジオ、テレビなどで聞こえてくる歌に題名のない歌があるだろうか。歌というからには、その歌には何らかの内容、メッセージがある。それを簡潔に表現したのが歌の名であるから、それが ない、というのは考えられないことである。
「春の小川」とか、「四季の歌」を歌おうというのであって、春の歌の3番目の歌を歌おうなどという人はどこにもいない。
ところが、讃美歌だけは、そのようなタイトルなくして、番号で歌ってきた。それはいったいどういう理由があるのかと言えば、単に、最初に讃美歌を編纂した人たちが、
アメリカなどの賛美集にこのような形の編集がなされていたこと、そして番号でいうとページの代わりになっていて便利だというだけのことである。
讃美歌312番を歌おう、などというより、「慈しみ深き」、讃美歌312番を歌います、とタイトルを付けて表現したほうが、初めての人にもよく分かるし、新たな賛美を歌うにしても、その讃美歌のイメージをつかむヒントにもなる。
また、この讃美歌では、491番~531番までの40曲近い多数の曲が、「雑」という項目のもとに集められている。しかし、一般的には、「雑」という言葉のイメージはよくない。雑多、雑然、雑木、雑巾…等々である。
だから、このタイトルのように書かれている「雑」というのを見れば、初めて見る人はまず不可解な思いになり、さらに、これらは、雑然とした歌、あまり大切でない歌なのだと間違った印象を持つであろう。
アメリカなどの讃美歌にこのような、伝道、クリスマス、復活、悔い改めなどの分類にも入らないような内容の賛美を miscellaneousとして分類して最後に置いた、ということを踏襲しただけのことである。
(miscellaneousとは、「種々の;多方面にわたる」といった意味、主要項目に入らないものを集めた項目を表す)
以上のように、従来の讃美歌にはいろいろな問題点があるのであって、それしかないなのなら、仕方がないが、「讃美歌21」がつくられ、「新聖歌」(教文館発行)という讃美歌と聖歌、その他のさまざまの歌集から選んだ新しい賛美集もあり、その他、リビングプレイズ、友よ歌おう、プレイズ&ワーシップなど多数の新しい賛美集もあるのであって、そうしたものからよい賛美を選んで賛美できるのが望ましいのはいうまでもない。
それらの多様な賛美によって、いろいろな世代の人たちが、より適切な賛美を歌うことができ、それが結果として、神の言葉が一人一人の魂に深く留まり、また初めての人たちの信仰の伝達にもよりよく働くことはたしかなことである。
………
以上のような理由のために、従来の「讃美歌」にはいろいろなよい曲、文語の含蓄多く、引き締まった歌詞、たくさんのキリスト者が慣れ親しんできた愛唱歌がいろいろあるということを考えてもなお、「讃美歌」を礼拝や各種のキリスト教集会で、メインとして採用することは、これからの時代には不適当と思われる。
そして、もともと、「讃美歌」はこうした難点を持っているゆえに、21世紀にはそぐわないということで、21世紀に向けたキリスト教賛美集という意味で、讃美歌21と名付け、従来の「讃美歌」は 絶版にする予定だった。
しかし、中高年のキリスト者たちから従来の愛唱歌が削られた、歌詞がなじめない、歌いなれたメロディーがより原典にちかづくという理由で、歌いにくいものに置き換えられているのがある、等々の反対があって、さしあたり「讃美歌」も並行して出版を続けるということになった。
いまの高齢者(65歳以上)のキリスト者の多くが地上の命を終えたあとは、従来の「讃美歌」の寿命も終える可能性が高い。
キリスト者は常に時代を先取りする先進的な発想がなされるべきであり、過去を向いてばかりいたのでは受けるべき聖なる霊も受け取れないことになる。
かつて、口語訳聖書があらわれたとき、多数の反対意見があったし、訳文に力がない、文学的によくないなどあったが、すべて口語訳に置き換わった。いまでは、文語訳聖書を礼拝に使っているなどという教会は皆無に等しい。
数十年前に、讃美歌第2編で、初めて口語訳の賛美である「みことばを下さい」という賛美が採用されている。この賛美が作られて2年後にこの第2編の讃美歌が作られたこともあって、このような口語の賛美を入れることに対して、讃美歌を検討する委員会では反対が多かったという。しかし、実際に讃美歌第2編に含まれると、この歌は全国的に歓迎され、愛唱されるようになった。
これからの賛美は、口語の賛美が主体となるべきだし、そのようになるのは確実だと考えられる。
さらに、教派によって、例えば「讃美歌」だけ、讃美歌21だけしか使わない教会があるし、他方、新聖歌だけ、あるいは聖歌(総合版)だけしか使わないという教会もある。 賛美の歌詞も曲も、信仰によって神から与えられたものであり、人間的な発想である教派にとらわれるのは、本来望ましいことではないと言えるだろう。
自然にある、美しい野草の花、夕焼けや白い雲等々、その美しさや清らかさは教派とは何の関係もない。賛美の歌詞も聖書をもとにしているのであれば、その多くは教派を問わず用いることができるはずのものであるし、メロディーも同様である。
「讃美歌」や讃美歌21は、長調の曲だけでなく、短調の曲も含めているが、四分音符の多い、どちらかといえば変化の少ないメロディーが多いのに対して、聖歌、新聖歌、リビングプレイズ、プレイズ&ワーシップなどは、メロディーにも変化のあるのがどちらかというと多い。
また、聖歌には、長調のものばかりで、短調のものは含まれていないという違いもある。
賛美集の種類によってこうしたさまざまの違いがあるが、たいていの教会では、一種類の賛美集しか使わないことが多く、こうした賛美集による相当な違いを知らないままで、限られた賛美ばかりを歌っていることが多いと言えよう。
今後は、そうした教派をこえて、いろいろなよい賛美を自由に選び、賛美するのがより御心にかなったことだと言えよう。
お知らせ
○6月に、吉村孝雄が聖書講話予定の、阪神エクレシア、高槻聖書キリスト集会の日が都合によって変更になりましたのでお知らせしておきます。
6月10日→ 6月24日(日)となりました。開始時刻は、変わりません。阪神エクレシア(元町駅前の私学会館)は、午前10時から、高槻の集会(那須宅)は午後2時からです。
○講演会のお知らせ
・日時 6月23日(土)午後2時~4時
・場所 京都市山科区勧修寺東出町75 「からしだね館」
・講師 吉村孝雄
・演題「原発・平和・福祉」
・主催 社会福祉法人 ミッションからしだね
・責任者 坂岡 隆司
電話 075-574-2800
・定員は、先着40名、5月1日から参加申し込み受付がなされています。参加希望者は、申し込みの確認、または問い合わせをされたほうがよいと思います。参加費500円。
○北海道瀬棚聖書集会
・日時 7月12日(木)~15日(日)
・テーマ 『希望を見出す力』
・講師 相良展子(日本基督教団利別教会牧師)、吉村孝雄
・問い合わせ先 野中 信成 (nobunari@mac.com)
○札幌での交流集会
・日時 7月16日(月・海の日―休日)午前10時~
○苫小牧市での集会
・7月17日(火)午前10時~12時
○詩集の刊行
「星になって」伊丹 悦子著。 A5版、36頁です。 希望の方は、吉村孝雄まで、電話、E-mail、郵便などで申込ください。(一冊200円、5冊700円、10冊1300円、いずれも送料共 代金は末尾の郵便振替または、300円以下の切手でも可。)
○近畿地区 無教会 キリスト集会
・テーマ 「再臨」
・主日礼拝講師 吉村孝雄
・日時 8月26日(土)午後1時~27日(日)12時
・場所…ふれあい会館
京都市西京区大枝北沓掛町1の3の1
・会費 9000円。
・申込先 〒589ー0004 大阪狭山市東池尻 1の2147の1 ・1の114 宮田 咲子
電話 072-367-1624
徳島聖書キリスト集会案内
・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47 徳島市バス東田宮下車徒歩四分。
(一)主日礼拝 毎日曜午前10時30分~(二)夕拝 第一火曜~第3火曜。夜7時30分から。 毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅)です。
☆その他、ダンテの神曲(煉獄篇)の読書会が毎月第三日曜日午後一時半より、第二、第四土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、第二、第四水曜日午後一時からの集会が集会場にて。また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(第2~第4の月曜日午後一時よりと第二水曜日夜七時三十分より)
・海陽集会、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、
・いのちのさと集会…徳島市国府町(毎月第一、第三木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、・藍住集会…第二、第四月曜日の午前十時より板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂での集会(綱野宅)…毎月第2金曜日午後8時~。、徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会…毎月第一月曜午後3時~などで行われています。また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは左記へ。
著者・発行人 吉村孝雄 〒七七三ー〇〇一五 小松島市中田町字西山九一の一四 電話 050-1163-4962 「いのちの水」協力費 一年 五百円(但し負担随意)
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