主は彼らのために岩から水を流れださせる。 |
・2013年8月 630号 内容・もくじ
真理の種まき(その2)―岩波茂雄と内村鑑三― |
||
目に見えない神を信じ、祈り求め続ける、それは心に傷や重荷、また何らかの悲しみや苦しみを持っているからである。
それがあるから私たちは、いやおうなく神を仰ぎ、祈らずにはいられない。人間の力がいかに乏しいか、思い知らされているからである。
自分の弱さ、またそのゆえにおかす罪、他者を傷つけてしまうこと、かつては罪とは気付かなかったことを後になってそれは間違っていたと思うようなこともいろいろある。
そうしたすべては自分でいかにそれらと決別しようとしても難しいし、そのようなことばかり見つめていたら何をしても力が入らなくなるだろう。
しかし、そこから、その弱さや罪のなかから神を仰ぐとき、山の岩間から水がしみ出るように、神の愛と慰めが小さな流れとなって心に入ってくる。
「ああ、幸いだ、悲しむ者は! なぜなら、その人は(祈り求めることによって)神からの慰めを与えられるからである。」と主イエスは言われた。
生活のなかで、静かにその真理性を実感させていただけるのは大きな幸いである。
預言者のこころ
聖書における預言者、それは世の現状を鋭く見つめ、その腐敗の根源を見抜いてそれを明確に指摘する人であった。このことは、何が本当の正義なのか、あるべき姿なのかを深く正確に知っていなければ、現実もまた正確には見抜くことができない。そういう意味で、永遠の正義と真理の神を知ってはじめて、正義に反することが何であるかが浮かびあがってくる。
真っ白な背景でなければ本当の汚れは見抜けないのと同様である。
そして預言者のさらなる本質は、彼等が、この世の分析や批判に終わることなく、一貫して神に立ち返ることを提示しつづけていることである。
神に立ち返れ、そこに真の幸いがある。罪の赦しがある。いかに混乱と腐敗をしていても、そこから主を仰げ、そうすれば救われる! ということを繰り返し述べていることである。
…地の果てのすべての人々よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
わたしは神であって、ほかに神はないからだ。
こうした情熱的な語りかけ、それは自分の意見とか思いでない。永遠の存在たる生ける神からの直接のメッセージを受けたゆえに、そのままに語る。それゆえに、世相によって移り変わらない真理がある。力がある。2500年を経てもなおその力を失われない。
評論家、コメンテーターの言説はそうでない。人々に指し示すべきものを持っていない。それゆえに、いかに社会評論の記事をたくさん読み、講演を聞いたからといって、知識は増えても力は与えられない。場合によってはこの世の悪の力の大きさや混乱の深さを知らされるほどかえって力は失せていくようになることもある。 また、力が与えられたように思っても一時的である。予想したようにならないことが続くと、必ず精神的に打撃を受け、弱気になっていく。
現代の憲法の改悪の状況、原発にかかわる真理に反する動き、沖縄に犠牲を押しつけることを続けていこうとする状況など、ずっと以前から続いている。そして太平洋戦争の悲劇、原爆の恐ろしさを思い知らされ、そのために二度と戦争を起こさないという気持ちで受けいれた平和憲法をなくしてしまおうとする動き、原発の大事故によって今なお幾万の方々が苦しみ、悩まされていて、今後数千年、否何万年たっても放射性廃棄物の問題は解決できない重大な害悪であるにもかかわらず、原発を止めようとしないこと、また、沖縄を踏み台にして、戦争のできる体制を維持しようとすること、等々、いくら反対してもかなえられない状況が続いてきた。
現状だけ見ているときには、もう政治などいくら言っても無駄だ、どうにもならないという挫折感、あきらめが心に入り込んでくる。
しかし、そのような弱気な心を一掃するのが、キリストの力であり、神の力である。事実数千年にわたって旧約聖書の預言者からずっと今日まで、この世のそうした悪に引き込もうとする力に抗して、真理を語り続ける人は起こされてきた。
それは単に、現状をみて言うのでなく、その背後に神が語りかけ、神の力を与えられているからである。
キリストは周りの人たちが真理を受けいれないからといって挫折感を持たれることもなかった。自分は宗教や政治の指導者たちから憎まれ、捕らえられ、処刑されることまで見抜いていた。
それでも一貫して、真理を語り、その道をまっすぐ進んでいかれた。それはただ神の力が与えられ、神の声を聞き続けていたからであった。
私たちも小さく弱い者だからこそ、神の力を与えられ、導かれて、現在の大きな曲がり角にあって、世の流れに抗して立ち続けたいと思う。
聖書の巻頭に置かれた創世記や多くの書は誰が書いたのか不明である。神が特定の人を選び、真理の種をその人の魂に蒔いた。それが芽を出して、その言葉を語り、生きた。それを別のやはり神の霊に導かれた人が書き留めて聖書となった。
イザヤ、エレミヤなどの預言者、彼等もまた、歴史上できわめて重要な種まき人であった。しかし、いくら彼等が天来の種を蒔いても蒔いても、大多数は芽も出ることなく、また多くは少しは芽生えてもほとんど枯れていった。
それでもごく一部の人たちの心の内には、預言者の蒔いた種が実り、深い信仰として成長し、かれらの預言の言葉を書き留めて後世への種とした。そして数千年を経てもその種の力は衰えず、さまざまの人の心に入って芽をだし、その時代に大きな影響を及ぼしたのである。
み言葉は、種(実)であるとともにまた、花でもある。それはあたかも美しい花が、昆虫などを呼び集めるように、み言葉は、無数の人をその真理という香りと味わい、霊的な美しい色合いによって引きつけるのである。
主イエスは、種まきのたとえを話された。
…種を蒔く人が、種まきに出ていった。ある種は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけの土の少ないところに落ち、すぐ芽をだしたが、日が昇ると枯れてしまった。
…ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、…あるものは100倍にもなった。…種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。(マルコ4の14)
人類の歴史上、最大の種まき人は、キリストであった。今から2000年ほど前に、わずか12人の弟子たちの心に種をまき、イスラエルの地のさまざまの地に歩いて出かけ、そこで種を蒔いた。
そして一部は、成長したが多くは枯れていった。そしてその枯れさせた闇の力が、キリストにも働きかけ、キリストをも枯らそうとしてキリストを捕らえ、処刑された。
しかし、キリストは復活した。そして聖霊という新たな種を人々の魂の畑に蒔きはじめた。そしてその聖霊とは、神からの聖なる風という意味をも持っており、その神の国からの風は、イエスのさまざまの言葉をも新たな種として当時の人々のなかに吹き込み、種を蒔いていった。
種は芽生えるに適切なところが必ずあって、そこから成長し、イエスの言葉どおりに、何十倍という実をつけるようなものも各地でみられるようになった。
この神の言葉という種は、いくら蒔いても蒔いてもなくなることがない。またどんなに蒔いた畑が荒れることがあり、洪水で流されるようなことがあっても、再びそこに新たな土地が生まれ、そこに蒔かれていく。そうして歴史を越えて、その種と実りは受け継がれてきた。
私たちも以前は荒れた畑であり、よい実を結ぶこともないものだった。そこにキリストの福音の種が蒔かれた。 それによって私たちの魂の内なるものが成長し、それぞれに小さな実であっても実りをつけるようになった。
主イエスが言われたように、私たちがイエスの内にとどまろうとする心があれば、ただそれだけで、イエスが私たちの内にとどまってくださり、そのイエスが実を結ばせてくださるのである。(ヨハネによる福音書15章)
神は愛であり、万人の心に真理の種を蒔こうとされている。自然のさまざまの風物も、日々目にする青い空や雲の変化に富んだ形や色、動き、あるいは夕焼けやたくましく成長する夏の雲、また周囲の樹木や野草の一つ一つの葉やその姿、花々の繊細なつくりや美…それらすべては、神が私たちの魂に神の国の種を蒔こうとされている姿でもある。
あらゆることを通して、罪深い人間の魂に御国の福音の種を蒔こうとされている神の御心を私たちも日々受け取って、新たな芽を出していきたいと思うし、周囲の多くの方々の心にもそうした芽生えができるようにと願っている。
私たちは何かをしている、働いている。そのとき、自分の努力の結果だとか、自分の能力のゆえだ、と秘かに誇ることもある。あるいは両親や友人たち、協力者のおかげだ、ということもあり、ときにはご先祖様のおかげだなどと言う人たちもいる。それらに共通しているのは、みな、人間の力によってできたのだという思いである。
しかし、聖書の世界においては、人間は自分の力では、何一つ(本当に良いことは)できない、とさえ言われている。
…私の内にとどまれ。私から離れては、あなた方は何もできないからである。(ヨハネ福音書15の5)
このような言葉は、あまりにも極端だと一般的には受け取られるかも知れない。いくらでもキリストに無関係の人でも立派にやっている人はいるではないか…と。しかし、神の前に本当に清いこと、愛あることは人間の自然のままの心では何一つできないと言われたのである。これは私たちが心静めて自分の心や行いを見つめてみるとき、このイエスの言葉の真実性がだんだん感じられてくる。
パウロも、福音のために命がけで各地で働いてきた。しかし、「働いたのは、私ではなく、私とともにある神の恵みである」(Ⅰコリント15の10)とはっきりと言い切っている。
いろいろな活動の表面だけをみれば、パウロという人が特別に働いたと見える。しかし、そのパウロを動かし、導き、支え、力を与えていたのは、神であり、主イエスであった。彼自身の力とこの世の学問や経験の力では、キリストを知ることもできず、かえって迫害するだけであった。
神の恵み―深い罪をも赦され、そこに新たな命と愛を注いでくださる恵みこそは、いっさいのものをなさしめる力である。その恵みの根源にあるものとは聖霊である。
その聖霊が、死ぬはずのからだをも生かし、神のわざをなさしめたのであった。(ローマ8の11)
また、神を愛し信じるものには、万事がともに働いてよきとなる。それをなすのも聖霊である。パウロも罪深いものだったが、その罪をも用いて神は、よきへと導いた。み子とともにすべてのものを私たちにくださる。(同8の32)
パウロもそのように、あらゆる良きものを主イエスから受けた。それゆえに、いかに困難が多くとも、働くことができた。
神の恵みが与えられてなかったら、何をもって働くか。それは自分のためである。神などいないと思う魂には、神の恵みも与えられない。したがって、その恵みが働くということもない。人間の力や意志、努力で働こうとする。 それは必ず挫折する。
私たちのはたらきも、自分がやっているのでなく、神の恵みによってなすことができていると受け取り、日々のさまざまの出来事も、神がなさっている、と神のはたらきを常に思うこと、そのような心こそ、山上の教えに言われている「心貧しき者」であり、そこに神の国が与えられる。
自分にとって苦しいことであっても、そこにも神の目的があってそのようなことが起こっているのだと受け取ること、いつも人間がやっている―自分も含めて―という思いから離れて、神の御手をいつも見ようとする姿勢が祝福される。
パウロはフィリピ書において、「各自の救いの達成に努めよ」と述べたが、それは、そのための力は、内にはたらく神からいただけると述べている。救いの達成という良き志を起こすことも神であり、またそのことを行なわせるのもまた神だから、救いの達成に努めるということは、神との共同のはたらきになるというのである。
…神はあなた方の内に働いておられる。そして、あなた方に神のご意志にかなったことを求め、それをなす力を与えてくださる。(フィリピ書2の13)
God is working in you, giving you the desire and the power to do what pleases him.
パウロは、常に自分の内には、神の力が働いているのを知っていたし、それと同じ力が信徒たちの心にも働いており、集会にも働いているのを実感していた。それは、自分の内にもキリストが住んでいたのを感じていたし、信徒たちの心にも住んでいたし、集会にも主が住んでおられることを実感していたのと同様である。
しかし、信徒たちは、そのことに気づかないでいる者が多くいた。それゆえに、パウロは、「あなた方の内にキリストが住んでいるのを知らないのか…」と霊的な目覚めを願って書いている。(Ⅰコリント3の16)
一般の人々は、身近な植物の一つ一つの葉や風や雲、太陽の光に神の力を感じていないように、自分の内なるキリストにも、心の目を向けてない人が多く、まだ実感をもっていない人たちが多かった。
私たちが意識してそのように植物や周囲の自然をみないと神の力は感じない、それと同様に私たちの内に住むキリストや私たちの一人一人の内に、そして集会に働いている神の力も同様に意識してそのようにみなければ分からないままになる。
私たちの内に、そして信じる人たちの集りに、さらに周囲の社会にも、そして日々私たちのちかくにてその姿を示す空や風、雲、星などのたたずまい、山野の野草の花々等々、これらはみな神の恵みのゆえだと信じて受け取ることができる。
さらには、苦難や苦しいことさえも、そのように受け止めていくことも、やはり主の恵みによって可能となる。
科学技術の産物―それらは人間が成し遂げた最大のことのように思われている。飛行機や高速鉄道、高層ビル、精密なコンピュータ、あるいはテレビやインターネットなど遠隔地のことが手にとるように分るような仕組み等々何をとっても、その仕組みを少しでも知るとその複雑さに驚くとともにそのようなことを成し遂げた人間の力に驚かされる。
しかし、それらの科学技術の元になっているものは何なのか。
飛行機や自動車に用いている鉄、銅、アルミ等々金属のさまざまの種類、プラスチック類、また建造物に使われる砂、セメント、鉄等々、それらすべては人間の現れるはるか前から存在していたものであり、人間がその元を作り出したのでない。元からあった材料(鉄鉱石など)に熱を加え、薬品を用いて純粋な金属を取り出し、また石油を用いて造ったものであるが、そうした元の鉱石や石油などもみな人間が造ったものではない。
さらに、それらを薬品や熱で処理したり、高速走行、飛行させるためにはさまざまの化学的、物理的法則を用いているが、それらの法則もまた人間が造ったものでなく、人間の存在以前から存在していたもの―すなわち神の創造による。
また人間がそうした材料を使って加工する能力もまた、人間が作り出したのでなく、神から与えられたものである。
このように考えれば明らかであるが、あらゆる科学技術の驚異的と思われるような産物もその根源はすべて人間が造ったものでなく、人間の存在以前から神によって与えられていたものなのである。
そのように、この世での科学技術の産物もその根源をたどっていくと、みな神の恵みの結果に他ならない。
そもそも私たちが生きているのも、食物をとっているからであるが、その魚や肉、野菜、果物などの食物も太陽の光、水、二酸化炭素などで植物が合成したものをもとにして造られている。その光や水、大気の二酸化炭素などもみな、人間が造ったのでなく、神の創造によるし、それらの食物を食べると、さまざまの酵素がはたらき、体内で消化、分解されて血液に入り、体中に運ばれて体を造りだすのも、みな人間が作り出した仕組みではない。これもはじめから神の創造のおかげなのである。
聖書のはじめに、「神が天地を創造された」とあるのは、こうしたこと一切を含めた無限に深く広い内容をもった言葉なのである。
このように、静まって考えるときには、私たちのいっさいは、もともとをたどると人間の力でなく、神の力によって創造されたものをみな用いているだけなのであり、神の恵みによっていっさいは創造され、現状の世界、宇宙があり、動植物も、私たちも生きているのである。
私たちはこの表題に掲げた言葉をどのように受け取るであろうか。
「地は慈しみで満ちている」(詩篇33の5)―一体そんなことがどうして言えるのか。それどころか、地上は、悪や混乱、闇で満ちているではないか。新聞やテレビその他のニュースなど、いつも国内や外国のさまざまの犯罪や内乱、戦争のような記述で満ちているではないか。
こんな言葉は、現実を知らないものの空想とか単なる理想ではないか…等々、この聖書の言葉は真剣に受け取るということは、すでに神を信じている人たちでも、容易には受け止めることができないかも知れない。
この言葉に含まれた神のことも、神の愛(慈しみ)のことも一般のテレビや新聞等々では全く誰も口にしない。その神とは、神社に祀られている正体不明の神々と本質的に異なる存在であり、宇宙を創造し、いまも生きて働いておられる愛の神である。
膨大な言葉が毎日発せられ、電波、インターネットなどによって送られ続けているが、それらはみな人間の言葉である。次々と新たな言葉が発せられ、それまでの主張や意見、考えなどの言葉は次々と列車に乗ったときの車窓の風景のように、後へ後へと過ぎ去っていく。
こうしたなかで、聖書の言葉は、いかに私たちが混乱し、闇が多くとも、また私たち自身が忘れていても、闇夜に輝く星のように光続けている。その真理性を失わない。
走っても走っても夜空の月がついてくる、そのように、聖書の真理も私たちがどんな世界に変化しようとも、私たち自身がいかに変化しようとも、なお、変わらず、私たちを見守る存在としてついてくる。
この冒頭にあげた詩篇の言葉も同様である。
一見、到底受けいれがたい言葉と見えるが、実はこの言葉は、キリストを指し示しているのである。旧約聖書は、みなキリストを指し示すとよく言われる。
地はたしかに、悪で満ちている。これは創世記の最初から、そのように言われている。
アダムとエバは、せっかく神が最善の環境を造り、そこにおいて完全な生活ができるようになっていたにもかかわらず、悪の力(蛇で象徴されている)によってそこから追い出された。
また、聖書の最初の家庭における兄弟であったカインとアベルについても、カインは自分の捧げ物が神に受けいれられないと勝手に決めつけてただそれだけで弟を殺害するという驚くべき悪事を行なった。
こんなことは聖書になぜ書いてあるのか、と以前はいぶかったものである。
そして、ノアの時には、「神は、地上に人の悪が増し、つねに悪いことばかりを心に思っているのを見られた…」とあるように、ここでもこの地上では悪と混乱が満ちていることが示されている。
また、イスラエル民族は、エジプトで増え広がり、そこでエジプト王によって絶滅の危機に直面することになる。
このように、聖書も最初からこの地には悪が満ちていることを記している。
それにも、かかわらず、この詩篇の言葉がある。そして、これと同じ言葉は、ほかの箇所にもある。
…主よ、この地はあなたの慈しみに満ちている。
(詩篇119の64)
これと関連して次の言葉もともに合わせて考えて見たい。
…主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。(詩編 36の6)
これらの言葉を合わせるとき、これらの詩篇の作者には、神の慈しみや真実が、天地に満ちているという実感をもっていたのが分る。
なぜそのような実感を持てたのだろうか。それは現実をいかに観察、研究してもこのような結論は生まれない。それは、天からの啓示である。
すでにアブラハムは、ある時、神からの言葉を聞いた。それは「住み慣れたふるさとから出て、私の示す土地に行け」というものであった。
それは、人間的な考えや研究、会議でそのように決められたのでなかった。アブラハム自身もその言葉が聞こえるまでは全くそんなことは考えたかともなかった。
しかし、神の言葉は、突然時間や空間を越えて語りかける。
この詩の作者は、そのように神から示されたのである。そして闇と混乱のただ中にあって、それにもかかわらず、この地は神の慈しみで満ちていると語りかけられた。そしてこの詩の作者は、とくにそのようなことを感じ取ることが与えられたと考えられる。
そしてこのことは、はるか後の時代にあらわれたキリストを指し示すものとなった。
キリストは、ただ信じるだけで救われることを繰り返しじっさいに示された。12人の弟子たちも、この世の慣れ親しんだ仕事を捨てて、主イエスに従ったのは、そこに経験や人間の考えをはるかに越える神の声を聞いたからであった。そしてそれを信じたのである。
イエスが来られ、十字架にかけられ、さらにその後復活されて、聖霊として世界の至るところにて働かれるようになった。
キリストの霊を受けた弟子たちが、ただ信じるだけで救われる―言い換えると地のよごれた世界から取り出されて神の愛の世界に入れられるということである。それはただ信じるだけで、地上のどこにいても、ただちにそのようになるのであり、それゆえに、地には神の愛―慈しみは満ちているということが言えるのである。
もし、全地にそうした慈しみがなく、エルサレムのような特定の場所だけにしか神の慈しみが注がれないのであれば、私たちは信じて救われるのでなく、特定の場所に行かなければ救われないということになる。それは神の慈しみが地の特定のところにしかない、ということである。
だが、キリストが来られて以降、どんな荒れ地であっても、また迫害されて牢獄にあってもさらに、苦しい処刑のただなかにあっても―使徒言行録のステファノが激しい敵意と石打ちにあって死ぬ直前に天が開けて復活したキリストが神とともにおられるのが見えたとあるように、どのような状況であってもそこに救いがある新しい時代となった。
それはまさに、地には神の慈しみが満ちているということなのである。
罪を犯し、あるいは償うことのできない罪のゆえに他者に取り返しのつかない悲劇を生んでしまった―それでもなお、そこから本当に神に赦しを乞い、立ち返るときには、神の慈しみが注がれて赦されて、新たな力を与えられる。人間がだれも信じてくれなくて、すべての人から見捨てられてもなお、そこに神はいてくださり、慈しみを注いでくださって御国へと最期のときには連れていってくださる…これは、地に神の慈しみが満ちていることを示すものであり、また天に神の愛や真実が満ちているというしるしとなっている。
いかに荒れ地、渇いたところであっても、そこに目に見えない泉が湧いている。だれでもそこでそのいのちの水を汲み取って飲むことができる。
悲しむものは幸いだ、と言われた。この驚くべき言葉は、詩篇33のタイトルにあげた言葉と通い合うものがある。いかなる悲しみであっても、そこから神を真剣に持続的に仰ぐとき、その苦しみをいやされ、あるいはその苦しみでさえも何とか耐える力を与えられる。
それは、神の慈しみがこの地上のどこにでもあって、それゆえに求めるならば与えられるからである。
主イエスも言われた。
…私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。…
私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ福音書6の35~37より)
この地のどこにあっても、キリストはおられる。聖霊としてのキリストだからである。その聖霊なるキリストのもとに行くときには、必ず迎えられ、決して飢えることも渇くこともないという確固とした約束をされた。
そしてそのキリストは、聖霊というかたちで、全地のどこにでもおられる。5月の四国集会のときに、石巻で被災され、命も危ないという状況のときに、キリストに祈りゆだねることができた方の証しを聞くことができたが、
そのような生死の危機的状況にあったときでも、たしかにそこにキリストがおられて平安を与えられていた。
「光は闇の中に輝いている」(ヨハネによる福音書1の5)これは、人間の想像でもそうあってほしいという願いでもない。二千年前から、現在に至るまで片時も変ることなき真理なのである。
この地上は闇が至るところにある。しかし、主を信じる者、さらに啓示を受けた者にとっては、その至るところにある闇のただ中に、光が輝いているのであり、それゆえに、地は神の慈しみで満ちているということができるのである。
真理の種まき―
さまざまのことは種まきからはじまる。
自然のさまざまの植物、それも動物や小鳥、雨や風、あるいは水や土砂の流れ等々によってどこかから来た種がまかれ、それが生育したものである。
農作物は農業者たちにより人為的に種蒔かれる。
また、この世で最も大切な真理もまた、だれかによって種まかれて広がっていった。
今年で創業百年を迎えた岩波書店の出版社のマークは、ミレーの「種まく人」であるのは、広く知られている。そのことに関して岩波茂雄(*)が書いたことは次のようなものである。
(*)岩波茂雄(1881~1946年) 1881年、現在の長野県諏訪市の農家に生まれた。19歳のとき、内村鑑三の講演に初めて接した。キリスト者とはならなかったが生涯にわたる影響を受ける。 第一高等学校に入学するも、同じ一高生の藤村操態となったが、母の切なる求めにより、思いとどまるが、学校は中退となる。が華厳滝で投身自殺したこともあり、山にこもって40日も悩み苦しみ、死を思う状だが、2年後、東京帝大哲学選科に入学。1913年、岩波書店創業。
「私は元来百姓であって、労働は神聖なりという感じを特に豊富に持っており、したがって晴耕雨読の田園生活が好きであるという関係もあり、詩聖ワーズワースの「低く暮らし、高く思う」を店の精神としたいためです。
なお、文化の種を蒔くというようなことに思い及んでくれる人があれば、一層ありがたい。」
(「岩波茂雄伝」193~194頁 安倍能成著 岩波書店 1957年刊 )
このように述べて、岩波は、みずからの農業への愛と、文化的な種を蒔くという二つを、このマークにかけていたのがうかがえるが、本心は、やはり後者の、文化(思想、文学、科学等々)の種まきを主たる目的と考えていたであろう。そして、それから100年が経ったが、たしかに岩波の願ったごとくに、岩波書店は日本において代表的な文化の種まきの源となり、高いレベルの種まきがなされ続けてきたのであった。
そして、その岩波茂雄がそのような文化の種まき人となったのは、いかなる人物が彼の魂に種を蒔いたのであっただろうか。
それは、もちろん多くの人たちが何らかの種を蒔いたのであろうが、特筆すべきは、内村鑑三である。
岩波茂雄は、中学を終えたころ(1900年)、長野県飯田で、内村鑑三の講演に初めて接した。その同じ年の年末にも再度伊豆において講演を聞いた。それによって深い感動を受けた。
そのころから内村鑑三の日曜日の聖書講演に参加することを許可された。当時その講演に参加していた人たちのなかに、小山内薫、志賀直哉といった後に文学者として知られるようになった人たちもいた。
岩波は、次のように書いている。(『追想集 内村鑑三先生』より)
「…どのくらいの期間、内村の日曜講演に行つたかは覚えていないが、行かなくなった後も『聖書之研究』だけは毎月読むことを楽しみとし最後の巻まで怠らなかつた。「聖書之研究」誌は三十一号から購読し始めたことを覚えているが一号より三十号までは先輩のものを借りて通読し、又内村先生の著書も一通りは読んだ。
私は定った聖書の講義などよりも先生の感想などに興味を持ちその中には暗記したものも多くあつた。自分が本屋をやるようになってからも、卑俗な雑誌などは売れるといつても店に陳列することをさけ、『聖書之研究』は毎月出版されるごとに、その看板を立てる事にしていた。又先生の著書はまとめて陳列した事もあつた。
私は先生が、力を入れられたキリストの再臨を始めとして純福音なるものを遂に体得する事が出来ず、トルストイの「信仰なきところ 人生なし」の境地はわずかに想像するに止まり、ついに信仰生活には入ることが出来なかつた。
私は、先生を悲しませた者の一人であつたであろう。信仰なき私に先生の偉大性が分るはずがない。
だが私は先生の人間的感化を受けたことは事実である。
神の国の福(さいわ)ひは、ついに分からなかつたとしても、この世の栄光のつまらない事はしみじみ教えられた。永遠なるものと泡沫(ほうまつ)のごとく消え行くものとの区別も教えられた。
真理や正義や真実は何ものにもまして尊重すべきものたる事を教えてくれた。
人々をまどわす外面的な事柄よりも密室における一人の祈りが、はるかに大事業である事を力強く教えられた。
社交がつまらないものであり、自然を友とする事と古典に親しむ事の楽しさを教えられた。
今日私が宴会などにあまり出席せず交際を極度に縮小しようと心掛けているのも先生の影響であろう。
先生にとつて私は憐れむべき迷児に過ぎなかつたであろうが、私にとつて先生は非常なる感化を及ぼして下さつた恩師であつた。
複雑な社会に於て商売を営むに頑固なまでに愚直で押通し、懸引(かけひき)を商売の生命とする時代において断然これを排撃し、出版をするやうになつてからは出来る限り低廉の定価を付け、習俗に媚(こ)びず世間に阿(おもね)らず、自分の主義を持ち続け、信じるところにしたがって生きて来た事は、先生の感化、特にその独立の精神に負う所少くないであろうと考えられる。
私は、国賊と言はれ、非国民と罵られ、偽善者と侮られた先生を想ふの情、特に切なるものがある。
先生に人間的弱点がなかつたとは思はない。誤解される素質を多分に有つて居られたかのやうにも思はれる。されど鹿の渓水を慕ふ如く真理を愛慕すること先生の如き人が何処にかある。
正義を尊重し、日本を熱愛し、真実に生きたる先生の如き人が何処にかある。
あの恐ろしい鋭い風貌の中に先生は極めて正直な心と限りなき情愛とを包蔵せられた。信仰人としての先生は暴風怒涛の如く強烈無比の戦士であると共に、日常人としての先生は臆病と思はれるほど弱く、一片の花片を手にしても涙ぐむほど優しい人であつた。
先生は人々と共に平和協調の世界に安住するを楽しむといふより、迫害の中にあって孤高の戦を続けて益々その本質を発揮する闘士であつた。
敬虔なるもの、荘厳なるもの、高貴なるもの、謙虚なるもの、熱切なるものとして、先生の祈りの如きを私は外に知らない。
砕けたる魂、悔いたる心をもち、ひざまずいて、神の前に先生が祈られる時、懐疑不信の私のような者にすら、宇宙には万古にわたりて滅びることのない、あるものの厳存を感得せしむるものがあつた。…」
このように述べて、岩波は、ついにキリスト者となることはできなかったが、内村から真理の厳然と存在すること、その真理によって内村が生きていることなどを直感的に汲み取っていたのを示している。(*)
(*)もし岩波がキリスト者となっていたら、後の岩波書店のような、さまざまの哲学、思想、文学、科学等々広範な領域の出版社とはならなかっただろう。キリスト者となれば、やはりキリスト教に関わりあり、福音伝道のための出版社となるであろうからである。そういう意味で 内村鑑三の深い影響を受けつつもキリスト者とならなかったがゆえに、岩波書店はとその精神性を高く保ちつつ、キリスト教以外の多様な出版にも多大の貢献をすることになったと言えよう。ここにも神の不思議な用い方が感じられる。
岩波は、内村が真理の人であったとの深い認識と感謝の念を持っていた。それは、内村の没後二年で、「内村鑑三全集」を岩波書店から刊行していることにも現れている。
さらに、岩波は「自分の神は、自由、正義、博愛、純潔を、絶対的に渇望する思いを与えてくださるものだ、そのような神が私の心のどこにあるのか、また心の外にあるのかは分からない。だが、こうした存在が有るのを知っている。そしてこの存在のために、私は喜んで死におもむくことができる。」と言う。
そしてキリスト教について、自分の好むのは、つぎのようであるという。
1、積極的、進歩的、活動的であること。
2、聖書に含まれる道徳の高く熱烈であること。
3、正義の観念の特に鋭いこと。
4、仏教のように世を脱して超然とするのでなく、世と戦い、世を救うこと。
5、宗教として醇乎なること。(すなわち、哲学的理屈を多く言わず、ただちに人の心の奥底へと向うこと)
6、失望的ならずして、希望的であること。
これらは、キリスト教の特質として現在の私たちもそのままに受け取ることができる。
そして、岩波は、人類の存在して以来 最も完全偉大なものをキリストに見て、人類の犠牲となって十字架上に流した血を、世に最も尊いものと見ているという。
(前掲書「岩波茂雄伝」74~75頁)
神はまことに不思議ななさり方をする。岩波茂雄は、人生の若き日に内村鑑三と出会い、彼からキリスト教の種を蒔かれる。そして真理の重さ、深さ、その高さの一端を知らされた。
岩波は後になってさまざまの出版を志すようになったが、その志の深いところで、若き日に受けた内村鑑三からの種まきを受けたことがもとになっている。
そしてその会社のマークに採用したように、哲学、宗教、文学、科学等々、広範な領域にわたって、種まきを続けていく日本の代表的出版社となった。
現在、書店の書棚にあふれる数々の文庫本の最初の形は、1927年刊行の岩波文庫にあり、それが現在のように多方面の文庫本へと波及していったのである。
彼はキリスト者とはならなかったが、神は彼を用いて、キリスト教の―とくに内村鑑三やその流れを汲む多くのキリスト教著作家の全集(*)を発行した。
それによってどれほどかこの日本にキリスト教のあるべき姿が知らされていったであろうか。測り知れないものがある。
(*)内村鑑三全集(1932年に刊行、1980年からも完全版というべき「内村鑑三全集」40巻が刊行された。)、矢内原忠雄全集、南原繁全集、高木八尺全集、江原万里全集、三谷隆正全集、藤井武全集等々、内村鑑三に学んだキリスト者たちの学者、伝道者たちの全集が数多く岩波書店から刊行された。
このように、真理の種まきは、次々と継続されていくものである。たとえとぎれてしまったように見えても、真理は神のものであるゆえに、思いがけないときに、誰も予想しない人物を神ご自身が起こして、真理の種まきを継続されていくのである。
神は今後とも、その御心にかなった人を起こし、その人に福音の種を蒔き、そしてその人がまた新たに周囲の人々にその福音の種まきをしていく―このことをずっと世の終りまで続けていかれる。
その福音の種とは、いかなる社会的変動や科学技術の進展にも影響を受けずに、その本質を変えることなく続いていく永遠の真理であり、それこそは、私たちが後世に残すべき最大の遺産と言えるものである。
7月9日に徳島を出発、その夜に舞鶴市の、県道から4キロほど山の樹林帯を登った山村での集会が最初の集会で、愛農高校の卒業生である、農業に従事している青年たち、霜尾共造(ともぞう)さんや添田さんとその家族の方々ほか、そこに農業実習に来ている一部の人たちも参加された。共造さんには今年5月の四国集会にて、農業者としての証しをしていただいたがそれが可能となったのもこの舞鶴での集会のゆえだった。
幼い子供たちの声も混じり、その子たちにも集会の雰囲気や賛美などで知らず知らずのうちに、キリスト教の真理が伝わっていくようにと願われた。こうした山村でキリスト教信仰をもった方々が小さいながらもその集りを継続して、若い方々も新たに加わって農業をされていることに、信仰の力と祝福を感じた集会だった。
北海道の南西部の日本海側にある、瀬棚では、この地に夏の聖書集会がはじまって40回となるとのこと、今回は、「聖霊の風に吹かれて生きる」という主題が、瀬棚の青年たちによって決められ、現実のさまざまの問題に直面し、苦しみや悩みもあり、それを解決、あるいは乗り越えるにはどうしたらよいのか、ということから、それは究極的には、聖霊を与えられることによるということからこの主題になったとのことであった。
このことは、たしかに重要なことで、主イエスもこの世では苦難がある、と言われ、しかし私の平安を与える、私はすでに勝利している、と言われた。
そして、そうした平安や勝利の根源に聖霊がある。イエスが地上から去ったあとは、聖霊がつかわされることを最後の夕食のときに約束された。それゆえに、私たちも、この世のいっさいの問題―そこからくる苦しみや悲しみにうち勝つためには、いかなる闇にも吹いてくる神からの風―聖霊を与えられることが根本的に重要になる。
そのことを、創世記、詩篇、イザヤ書などと、新約聖書のローマの信徒への手紙、福音書などから語らせていただいた。
長くこの瀬棚聖書集会のお世話をしてくださってきた生出(おいで)正実、真知子ご夫妻が高齢のために今後はいままでのような関わりは難しくなることが示唆された。また放射能が子供に将来影響することを危惧して、ニュージーランドの北島に移住される方もあり、年月とともに変化はあるが、今後とも神が瀬棚の地でのキリスト教信仰の集りが保たれ、前進していくことを願った。
最後の四日目は、瀬棚聖書集会でも聖書講話を一回分担当された相良牧師の牧会されている、日本キリスト教団の利別教会(瀬棚から20キロ近く離れた今金という地にある)での合同の礼拝であり、そこで「義の太陽が昇る」という主題で、旧約聖書の預言者や福音書などから語らせていただいた。
瀬棚聖書集会がこの教会やキリスト教独立伝道会の協賛によって続けられてきたので、この教会の方々との交流も与えられてきたこと、また今回は、神奈川県在住の青年、浅井慎也兄も参加されて、感謝であった。
7月15日の札幌での交流集会は、札幌聖書集会の方々が中心であるが、ほかに釧路からの画家岡田利彦さんご夫妻、さらに札幌独立教会、小樽からの日本キリスト教団の教会員のMさんなどの参加があった。Mさんは、「祈りの友」に属していたことから関わりが与えられ、近年は札幌での交流集会にもされるようになった。この交流集会では、「イザヤ書における信・望・愛」という主題で語らせていただいた。
この交流集会は、以前から私たちの視覚障がい者と札幌聖書集会の大塚寿雄さん(中途失明)との交流があり、そのために私が瀬棚聖書集会に行くようになって、同行した視覚障がい者の方々と大塚さんとの交流が計画され、そこから、輪が広がって旭川や釧路、苫小牧の方々も加わるようになった。最近は旭川の集会も代表者が高齢で難しくなったが、代わって札幌独立教会の方々が加わるようになっていた。この10年間ほどの交流会でいろいろな方々との交わりも与えられて、主の導きを感謝したことである。
その後、徳島での無教会全国集会にも参加され、札幌での交流集会にも参加されていたが、現在では高齢で自宅での生活も難しくなり、施設におられる荒川巌さんを旭川に訪ねた。大分記憶などはうすれている部分もあったが、私が聖書のことで話を始めると、キリスト教や荒川さんの昔勤務していたハンセン病治療院でのことなどもいろいろと話された。(荒川さんは若いとき、四国愛媛県に在住。晩年に青森県のハンセン病療養所である松丘保養園の園長をされていた。)終りに賛美を二つほど歌い、私が、何かご希望の賛美歌はありますか、というと、即座に「534番」と言われたのには意外だった。老年で記憶がいろいろと喪失していくなかにあって、愛好する讃美歌は深く魂に残っていたのがうかがわれた。
その讃美歌とは次のような内容である。
1・ほむべきかな 主の み恵み 今日まで旅路を 守りたまえり
(折り返し)よろずの民よ たたえまつれ 「あがないぬしに み栄えあれ」と
2・ほむべきかな 御名によりて 受くれば物みな よからざるなし
3・ほむべきかな 主の御名こそ いまわの時にも 慰めとなれ
主の恵みによって、今日までの人生の歩みを守ってくださった。御名によって―神の愛を信じて受けるとき、すべては良きものとなる。神を愛するものには、万事が益となるように働く。主の御名―主イエスこそは、私たちの地上の最期のときにも、そばにいて慰めとなってくださる。
これは、高齢となった荒川さんの思いをそのまま代弁しているようであった。
次は、苫小牧の集会で、そこでは初参加の方もあり、またその集会を何十年も昔から導いてこられた船澤澄子姉のおられる施設にも伺い、交流のときが与えられた。
苫小牧から青森にわたって、そこで岩谷さん宅での家庭集会がなされた。岩谷さんは若き日に、濃硫酸を顔面にかけられて多大の損傷を受け、耐えがたい苦しみに出会われたが、長い苦闘の後にキリスト信仰を与えられた方で、近畿無教会集会でもその証しをされ、多くの方々の心に深い印象が残されたことであった。
(なお、この岩谷さんの証しを録音したCDがありますのでご希望あればお送りできます。―吉村まで)
そこで、22年前に徳島で開催された、無教会の全国集会のときに青森から参加されたT兄が来ておられ、主による不思議な導きで、22年ぶりの再会が与えられたことは感謝であった。
次には、山形県鶴岡市での佐藤さん宅での集会で、ここでも初めての方が二人参加された。ともにキリスト教独立学園の卒業生とのことであった。また、二年前に奥さんが召された方が、去年初めて、その奥さんに代わって参加されたが、今年も集会が終わるころに参加された。後で昼食をとりつつ、ともに賛美や交流の機会も与えられた。 参加者のうちに難聴の方がおられ、以前に集音器を紹介したことがあった。そのIさんは、それによって聞こえが以前より良くなって、それだけでも集会に参加してよかったと言われた。そして知人でやはり聞こえが悪くなっている方に、別の集音器を紹介することができてよかったとのことであった。
聴覚障がい者の苦しみや孤独感は健聴者にはなかなか分からない。私も聴覚障がい者の教育にたずさわるまで、ろうあ者、聴覚障がい者たちの苦しみがどんなものか、ほとんど考えたこともなかったほど無知だった。耳が聞こえないということは、人間関係でしばしば決定的な打撃となり、排斥され孤立し、さらに見下されるということが生じてしまう。中途失聴の場合は言葉そのものは文字で書かれるなら、健聴者と同じように理解できるが、生まれつき耳が聞こえない場合には、もし適切な教育が与えられなかったら動物のように言葉がほとんどわからず、したがって思考もできないほどになり、人間の姿をした動物のような存在になるほどに深刻な打撃を受けてしまう。
それは有名なヘレン・ケラーも言葉というものが分からなかったとき、いかに動物的であったか、その映画によっても推察できよう。
しかし、いかに聴覚障がいがあろうとも、神との交わりや、神のみ声を聞くための障害にはならない。そこにキリストの力の深さとその愛を思う。
次の山形市での夜の集会は,代表者の白崎良二さんが会場の予約や準備、呼びかけをしてくださっていて、東京在住だが、選挙のために山形にかえってきた方が、初めて参加された。またここでも独立学園の卒業生の方が参加しておられた。
去年召された黄木 定さんの奥さんと息子さんがともに参加されたことも感謝だった。黄木さんは、だいぶ以前に初めて私が山形集会を訪れたときに、白崎さん、赤間さん、小関さん、後藤さんなどいろいろな方々のところに案内してくださった方であった。
また、103歳という高齢の方も参加され、み言葉のために、いろいろな方々が集められたことが感謝であった。
翌日、日曜日の仙台での集会は日曜日の午後であった。日曜日の礼拝場所とは異なる会場の予約など田嶋さんご夫妻がいろいろと準備してくださった。いつもは別々に集会をされている方々が参加され、いろいろな方々とともにみ言葉を学び、交流の機会が与えられたことであった。石巻に隣接する東松島市にて津波被災を受けた高崎さんご夫妻も見えて、二年前に私が訪ねたときには全壊状態となっていたお家も回復された写真もいただいた。
5月に徳島での四国集会で、石巻での津波被災のとき、信仰によって支えられた証しをしていただいた原さんは、高崎さんのお宅での集会にて導かれた方であった。
じっさいに、各地を訪れることによって、関わりが与えられ、それがまた私自身にも新たな学びや霊的な収穫となされているのを感じた。
仙台の次には、福島県の本宮市(もとみやし)の湯浅鉄郎さん宅での集会が与えられた。木造の集会室で、ピアノの先生である奥様によって奏楽がなされ、無教会では得難いピアノ伴奏での讃美を歌うことができた。ここでも初めての方々が参加しておられた。責任者の湯浅鉄郎さんは、ほかの方々とともに、黒崎幸吉の新約聖書注解が、インターネットでも参照できるように御愛労された。私も折々にそれをネットで参照させていただいている。 福島市から、妹さんを同伴して参加された渡辺リツさんは、その日はその妹さん宅で泊まって翌日帰宅されるとのことだった。こうした主にある熱心を感じて感謝だった。
そこから、福島県南部の教友宅を訪ねたが、途中で激しい雨となって、高速道路でもあまり進めない状況となって一時はどうなるかと思われた。その教友ご夫妻は教会員でいろいろと夜遅くまで交流のときが与えられた。
こうした福島の方々との交流は、何年か前に、福島県郡山市の富永国比古さんのクリニックで集会が与えられたことがきっかけとなった。
翌日は、浦和駅前の埼玉会館での集会で、浦和キリスト集会の代表者である関根義夫さんご夫妻がいろいろと準備をしてくださった。平日の午後の集会で、仕事をしている方々は参加できない時間であったが、浦和キリスト集会の方々だけでなく、待晨(たいしん)集会の方々や教会員、また流山集会の方も参加され、私たちのスカイプによる集会に折々にご夫妻で参加されているので声だけを知っている教会員の方も参加されていて初めてじっさいにお会いすることができた。
その翌日は、房総半島の東岸の太平洋まで10キロほどのところにある足立哲郎さん宅での集会で、ここでは三回目の集りとなった。お世話してくださった深山政治さんは、徳島での無教会の全国集会に来ていただいて話をしていただいたこともあり、「九十九の風」という印刷物を発行されている。ここでの集会は午前の涼しい時間であり、集会のときにはすぐそばでウグイスが大きく澄んだ声で歌い続けていて、集会が終わるころにはいなくなっていた。小鳥の賛美の参加が与えられた集会だった。ここでも、二時間の予定が、昼食とか交流など与えられて、四時間にも及んだが、主にある交流を感謝したことだった。
その夜は、やはり千葉県の東京湾側の土屋聡さん宅での家庭集会で、そこには土屋さんのお母様(百合子さん)が参加されており、22年前の徳島での全国集会にご夫妻で参加されていたので、それ以来の出会いが与えられ感謝だった。またこうした集会には初めての方も参加されていた。その方は、どこの教会や集会にも行っているわけではないが、神様のことをいつでも思っていて、寝るとき いつも神様ありがとうございますという気持ち。 そういう気持ちがあることがありがたいと言われていた。 また百合子さんは、聖書を読むことは、神様の言葉を食べるのだと言われ、母は仏教だったが、涙を流しながらお経読んでいたのでそうした真剣さが子供の心にも印象付けられていたと話された。母親の信仰の熱心は子供にも自然に伝わっていくのだと思わされた。
東京湾をわたって八王子の永井宅では、ご夫妻のご準備のもと、ふだんは別々に集会をされている方々が集り、感謝であった。まだ信仰を持つには至っていないといわれる永井さんのお姉様も初めて参加されたが、その方は、5月に徳島で開催された四国集会にも、永井ご夫妻とともに参加され、四国集会への参加が今回の永井宅での初めての参加につながったことも感謝であった。
翌日は、山梨県の山口清三さん宅での集会で、20キロ近く離れた野辺山から青野梅四郎さんと息子さん夫妻も参加され、また阪神エクレシアに二カ月に一度私が訪れるときに参加している方も夏期を含む半年ほどは山口さん宅の近くに住んでいるので参加され、窓からは緑の田園、樹木などの風景が広がり、緑の風が吹いているという感じであった。そして軒下のツバメたちが雛を育てているようで繰り返し飛びかけり、喜ばしいさえずりのなかでの集会だった。
いつもは、南アルプス市にて加茂悦爾・昌子ご夫妻宅での集会なのだけれども、今回は加茂さんのほうのご都合がつかずにその集会員の山口さん宅となった。加茂昌子さんのお母様が、数十年前に、現在の「いのちの水」誌の前身であった「はこ舟」誌を大分余分に申込され、それをさらに知人に送付されるということを続けておられたことからのつながりが与えられていた。昌子さんがそれを受け継がれ、「いのちの水」誌も多く申込され、それをさらにいろいろな方々に送付してくださっている。
そのことがもとにあって、10数年前の徳島での四国集会やその後徳島で開催された全国集会にも参加してくださり、また加茂さん宅での集会が与えられるようになった。
翌日は、長野県の上伊那の有賀(あるが)進・芳子ご夫妻宅での集会で、ここでも、初めての参加者も与えられ、午後の3時から5時という時間帯での集会は初めてとのことであった。樹林帯にある有賀宅なので、夕方が近づくとともに、多くのヒグラシが涼しげな鳴き声をもって集会を包んでくれた。このような自然のやさしい雰囲気のなかでの集会は得難いことであった。
集会の責任者の有賀さんやその親族の方々の信仰は、いまは天に召された有賀慶治さんにはじまるが、その有賀慶治さんに信仰を伝えたのが、北海道に仕事を求めるために行っていて帰って来た那須野金吾さんという方であり、その方は、有賀さんが信仰の求めをされたときには雪の道を4キロも歩いて来られ、夜を徹してヨハネによる福音書の9章を語られ、その弟も便箋10枚にキリスト教のことを書いて送ってこられたという。
それによって有賀慶治さんが信仰を与えられ、さらに、奥さんや親族にも伝わり今日に至っている。那須野さんの息子さんご夫妻もキリスト者であり、奥さんのほうが今回の有賀宅の集会にも参加されていたことも感謝であった。
その翌日は、長野県下伊那郡の松下宅での集会で、そこには、近くの方々以外には、松下さんの娘さんご夫妻が、135キロ離れた千曲市から参加されていた。5月の四国集会にもご夫妻で参加され、数年前の松下宅での集会がこうしたつながりのきっかけとして主によって用いられたことが感謝であった。
先に述べた有賀宅の集会にも、70数キロ離れたところからご夫妻で参加された方もあり、神の言葉に引き寄せられたのだと、み言葉の持つ力を感じさせられたことであった。
その翌日の日曜日は、岐阜県の山中にあるハム工房ゴーバルを経営されている石原潔さん宅での主日礼拝があり、ここでも、未信仰の方、聖書も持っておられない方が参加しておられたり、名古屋市から2時間もかけて参加された方もあった。とくに未信仰の方、初参加の方が来られている場合には、そうした方々にも分るような平易な言葉、語り方を心がけているが、そうしたことをいかにしても主の祝福がなかったらその人の魂に福音の種は芽をださないので、とくに主の祝福、御手が置かれることを祈りつつ語らせていただいた。
石原さんとは、大分以前の静岡県清水市での集会での出会いが与えられていたので、以前にも名古屋市から立ち寄らせていただいたことがあった。そのときは平日で仕事中だったので、昼食をともにいただき、職員の方々との短い出会いと作業場を説明を受けただけだったが今回は、礼拝集会が与えられて、その後もいろいろとお話しを参加者の方々とも交わすことが与えられ、2時間の予定が、4時間半にもなった。
そこには、山形のキリスト教独立学園で長く音楽の教師を努められた桝本華子さんの息子さんである進さんも参加しておられ、その息子さん夫妻も生まれて間もない赤ちゃんも同伴して来られた。若い命がこうしたキリスト教信仰、み言葉のある世界で育てられることの重要性を思った。
その後、名古屋市の木村尚文・ハンネローレご夫妻宅を訪ね、いろいろと、とくに無教会に関してお話しをする機会が与えられた。木村さんとの関わりが与えられたのはもう30年ほども昔になる。奥様のハンネローレさんが日本の無教会に強い関心を持たれ、無教会を研究する資料として、各地の無教会集会の刊行物、冊子を集められたがそのなかに、徳島聖書キリスト集会の「はこ舟」(「いのちの水」誌の前身)もあった。
そのときからのつながりがずっと続き、私の前の代表者であった杣友(そまとも)豊市さんが、「はこ舟」を送り続けておられた。私が20年ほど前に代表者となったときからも「いのちの水」誌をお送りしていたが、2008年の徳島の全国集会にご夫妻が参加され、初めて直接にお会いする機会が与えられたのだった。
「はこ舟」というのがなかったらこうした関わりもまったく与えられていなかった。「はこ舟」も現在の「いのちの水」誌と同様に、人間の思いや意見、考えでなく神の言葉を伝えるという目的で発行されていたが、神の言葉こそがこのようにさまざまの人々を結びつけてくださることを改めて感じさせられた。
最後に立ち寄らせていただいたのは、愛知県北部の「祈りの友」の高齢の方であり、80歳を越えておられるが、パソコンを操作し、折々に徳島聖書キリスト集会のスカイプ集会にも参加されている。「祈りの友」でなかったら全く知らないままであった。
長野県の先に書いた有賀慶治さんとの関わりも、彼が「祈りの友」会員であり、またそれほど遠くない所にやはり「祈りの友」会員の白鳥すま子さんがおられ、白鳥さんは22年前の徳島での無教会全国集会にご夫妻で参加されて以来の交流が与えられていたので、そのお二人を訪問することが最初の目的だった。しかし、徳島を出発する直前に有賀慶治さんが召されたことを知らされ、有賀宅訪問は止め、代わりに白鳥さん宅での集会がなされることになり、そこで慶治さんの奥様やその地域のいろいろな方々が集まっての集会が与えられた。
このように、キリスト教にかかわる印刷物や録音、あるいは全国集会や四国集会、そして「祈りの友」やスカイプ集会その他のいろいろなキリスト教に関する関わりから今回の各地での集会へとつながっていて、それらの背後にはずっと以前からの数々の信仰に生きた方々の祈りと信仰があり、脈々とその霊的ないのちは流れ続けているのだと知らされた。
そうした先人の真剣な祈りに裏打ちされた歩みをずっとたどっていくと、結局初代の使徒たちが聖霊を注がれて世界への伝道を始めたことまでさかのぼり、さらにはそれはキリストに行き着く。
キリストの御手の導きと聖霊のはたらきはこうした日本というキリスト教信仰の希薄な地域においても、二千年という歳月を越えて及んで働いているのだと感じさせられた。
そして、今回、去年に続いて、徳島聖書キリスト集会の方々が時間を各自が決めて祈ってくださって、私が各地を訪ねている期間中、ずっと背後で支えてくださっていた。
そして各地の集会の開催を受けてくださった当事者の方々やその関係の方々もまた集会のために祈りをもって備えてくださった。それは本当に感謝であった。
神は目に見えず、どこにそのはたらきがあるかと思われるような事件など数々あるが、それにもかかわらず厳然として存在されている。それが確かであるのと同様、目に見えない祈りはやはり確かな力をもって働きかける。
各地の訪問の途中や集会場の近辺にある山で、車でかなり高いところまで登って行ける山にも数カ所行って、歩くことができた。私にとって山は、10代の終り頃、初めて精神世界の深さを直感的に示されたこともあって、それ以来、山々の清澄な大気や植物、花々、渓流、静けさ等々は、祈りの場でもあり、いつも心身の活力を与えてくれるものとなっている。山とそこにある自然のさまざまの風物は、まさに神ご自身の直筆の神の言葉ともいえる。
頂上に行くことが目的でないので、時間や体力が許す範囲で数時間以内の範囲で登り、歩くのであるが、こうすると体の具合も良くなり、安眠につながることも分った。毎日長距離の自動車運転と集会が続くと、緊張が続くことと、体を動かさないために夜の安眠がとれなくなる傾向が生じて、そうなると運転も危険であり、聖書の講話も妨げになるので、その対策として始めたことであった。
それは、またそこで出会った高山植物の写真を撮影してそれを「今日のみ言葉」というメール通信(メールない方には印刷したもの)を作成して伝道の一環として用いるためにもなっている。
私自身は乏しくまちがい多いものに過ぎないが、そのようなものであっても多くの方々の真実な祈りによって各地の集会や出会いが用いられ、この日本にキリストの福音という永遠の真理、そしてあらゆる問題の究極的解決の道が伝えられていくようにと願ってやまない。
〇「祈りの友」集会
・日時…9月23日(休日) 午前11時開会~午後4時。
・場所…徳島聖書キリスト集会場(徳島市南田宮一丁目1の47)
・申込先…吉村孝雄。電話など「いのちの水」誌の奥付にあります。
・会費…500円(弁当代)
今回の「祈りの友」の集会は、従来の四国グループ集会と、新しい「祈りの友」の集会を兼ねて予定していますので、従来のような四国グループだけでなく、ほかの県、地域の方でも参加希望の方は御参加ください。
新「祈りの友」の名簿も近日中には作成して、申込者に送付予定です。
〇8月の偶数月の第二日曜日は、いつもは阪神エクレシアと高槻聖書キリスト集会にて私が聖書講話を担当させていただいていますが、次の近畿無教会集会が8月にあるので、可能な方は、この近畿無教会集会に参加していただくことに代えたいと思います。
〇第13回 近畿無教会集会 8月24日午後1時~25日(日)1時
・主題 「キリストのからだ」
・場所 ふれあい会館 京都市西京区大枝北沓掛町1の3の1
・土曜日講話と証し・ 伊東良和、大嶋紗綾子
・日曜日 聖書講話 吉村孝雄
・申込先 宮田 咲子 電話072-367-1624 E-mail
〇なお、これも前月号で紹介したものですが、その後も申込がありますので、書いておきます。5月の徳島で開催された、四国集会関係のCD、賛美CD(いずれも200円)、DVD(4枚セットで800円)など希望の方は、申込を受け付けています。価格は送料共です。
また、参加者全員に贈呈した徳島聖書キリスト集会作成の賛美集「綱野 悦子・貝出久美子他 集会賛美集」、「鈴木益美、中川陽子他 集会賛美集」の各CD。これは、 それぞれ30曲ほど収録しています。古い「讃美歌」の他に讃美歌21、新聖歌、リビングプレイズ、友よ歌おうなど多様な賛美集から、それぞれ30曲余、合計60曲ほどが入っています。 これはふつうのCDラジカセでも聞くことができます。
価格は、送料共で2枚セットで五〇〇円です。
〇CDラジオ…前月号に紹介した、ソニーが昨秋発売したCDラジオは、MP3対応のものがあり、カセットテープの機能がないだけ、スリムになり、軽くて薄型で持ち運びしやすくなっています。価格も、一か月前よりネットでは少し安価となり、五千円未満で購入できます。 先ごろの四国集会の録音や私たちの集会の毎週の主日礼拝や夕拝の録音CDもMP3型式の録音です。また日本聖書協会から発行されている聖書全巻の朗読もMP3版ではわずか6枚、1万円ほどです。
・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47 徳島市バス東田宮下車徒歩四分。
(一)主日礼拝 毎日曜午前10時30分~(二)夕拝 第一、第3火曜。夜7時30分から。 毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅を毎月移動)です。
☆その他、第四土曜日の午後二時からの手話と植物、聖書の会、第二水曜日午後一時からの集会が集会場にて。また家庭集会は、板野郡北島町の戸川宅(第2、第4の月曜日午後一時よりと第二水曜日夜七時三十分より)
・海陽集会、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、
・いのちのさと集会…徳島市国府町(毎月第一木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、・藍住集会…第二月曜日の午前十時より板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、徳島市応神町の天宝堂での集会(綱野宅)…毎月第2金曜日午後8時~、徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会…毎月第一月曜午後3時~などで行われています。
また祈祷会が月二回あり、毎月一度、徳島大学病院8階個室での集まりもあります。問い合わせは左記へ。