原子力発電について

(過去の「はこ舟」、「いのちの水」誌より)


  リストボタン原発の汚染水の問題              (2013年9月 第631号)

 

 原発の廃炉には、百年もかかるほどの長い歳月と、膨大な費用がかかるということははやくから知られていたことである。

イギリスの西部ウェールズ地方に、1965年に運転を開始し、91年に停止した原発がある。この原発は、出力23.5万キロワットの小型原発である。

 しかし、その原発の廃炉には、90年を要すると報道されている。原発が稼働していたのは、26年であるから、それよりはるかに長い間、廃炉に要する。

 しかし、その廃炉が終わったら問題は解決したのではない。膨大な放射性廃棄物が生じる。それは10万年は管理を要する。そのような廃棄物をどこに置くのか、それは決まっていない。アメリカのような広大で砂漠地帯を持っている国でも、廃棄物を処理する場所は現在も宙に浮いたままである。

 1987年に、ネバダ州ユッカマウンテンやテキサス州デフスミス(岩塩)などの3か所の処分候補地から、2002年2月にユッカマウンテン(Yucca Mountain)が、最終処分地とされた。そして2009年までに、1兆数千億円にものぼる巨費を投じてきた。しかし、地元住民やネバダ州議会から強い反対が起こり、オバマ大統領はこの計画を中止した。それまでの数十年にわたる最終処分地のための労力や費用は空しく消えていった。

 このような実例を見てもわかるが、原発の最終処分地を決定することがいかに困難であるかを示している。

 脱原発をすみやかに決断したドイツであるが、その放射能処分場については、ここでも見通しの立たない困難に陥っている。

 放射性廃棄物の最終処分場の候補地がまったく決まらないために、『中間貯蔵施設』として、岩塩を採掘していた地下750メートルの坑道に建設した。しかし、そこに、毎日12トンの地下水が流れ込み、すでにそこに貯蔵していた危険な放射性物質を入れた12万6千本もの金属容器を取り出さねばならなくなった。

 そのままでは、腐食した容器と接触した地下水が汚染され、広範な領域の地下水を汚染していくことになる。そうなれば回収は不可能となるからである。

 そのためには、それをくみ出し、より深い地層へと送り込むことだけがさしあたりの対処方法だという。しかも、その金属容器を取り出したとしても、それを持っていく場所がない。さらに、それらの容器を取り出すだけでも、3040年もかかるという。

 現在の日本の汚染水問題と同様、流れを断つことのできない地下水が流れ込み、放射能汚染されていくことは、限りない困難を生み出すことになっている。

 日本の国土は、世界の陸地の 0.25%であるのに、世界で起きる地震の約20%が日本でおきているし、さらに活火山は 、世界の7%が日本で生じている。

 しかも日本はこの狭い国土にさらに人間は平野部に圧倒的に集中している。そのうえ、各地の原発は日本の百万都市からいずれも100~200キロ前後のところにある。(*

 ひとたび、原発の大事故が生じ、その風向きや雨が大都市方面にて放射能をもたらしたとき、チェルノブイリの事故でわかるように、ポーランド,スウェーデン,ノルウェー,フィンランド,ドイツ,ハンガリー,ギリシャ,ブルガリア等々、数千キロも離れた地域にも大きな放射能被害をもたらしたし、八千キロ離れた日本にも影響が及んだほどであるから、日本で原発の大事故が生じて、雨と風向きによっては大都市が壊滅的となることが予測できる。

*)札幌―泊原発 65キロ、仙台―女川原発 56キロ、東京―福島原発 230キロ、 東京―柏崎・刈羽原発 220キロ、東京―浜岡原発 180キロ、名古屋―敦賀原発 100キロ、京都―高浜原発 60キロ、高浜原発―大阪 90キロ、福岡―玄海原発 55キロ   

 福島原発の大事故のときも、もし風が、飯舘村など北西方向に向うのでなく、東京方面に向って雨を伴いつつ吹き続けていたなら、東京を中心とする3500万人もの人々が、飯舘村のように避難しなければならなかったことになる。

 たまたま、そうした風は少ししか吹かなかったから、そうしたことは生じなかったが、その可能性があったのは、柏市や足立区などでかなり強い放射能が計測されていたことからもうかがえる。

 汚染水の問題も、原発から生じるさまざまの難問のうちの一つであるが、そもそも日本では岩塩層もなく、砂漠地帯もなく、そして雨は全国的に多く降る。地下水も到る所で流れている。そして頻発する地震によってその地下水の流れる状況も変えられることもある。

 数十年間、電力を生み出すために、以後の何十万年も管理せねばならない。(*)もし、最終処分場が見いだされたとしても、そのために莫大な費用と多くの処理のために数知れない人たちが被曝していく。

*)プルトニウムの半減期は、2万4000年だから、5万年ほどたってもまだ、4分の1にしかならない。

 

 またもっと長い寿命の放射性物質も含まれている。例えばヨウ素129の半減期は、1570万年もある。

 私は、福島原発事故の発生した年、2011年7月19日に、北海道の瀬棚に行く途中で、日本最大の原子力発電所である、新潟県の柏崎・刈羽原発に立ち寄った。そこで、原発に隣接して建てられている一般向けのサービスホール(他の原発ではPR館などという)にて、詳しくその展示内容を調べたことがあった。そこで、原発の構造や施設に関するさまざまの展示物やその内容に、福島の大事故の現実と向き合っていない内容に接していろいろと疑義が生まれたので、そのことについて直接に館長と話したいと担当者に申し出たところ、個人的に話す機会が与えられた。その林勝彦館長は柏崎・刈羽原原子力発電所の副所長でもあったが、氏は初対面の私にも率直にいろいろと話され、そのとき、廃棄物の問題の話となったとき、私が廃棄物は10万年も管理せねばならないのだから…というと、林氏は直ちに「いや、100万年です」と言われたのが、心に残っている。

 

 そんな途方もない費用と労力を、外国の教育や、植樹、医療、荒野の開拓等々に用いるならば、どれほどよいことができるであろうか。

 百年もかけて廃炉していく、それは測り知れない多額の費用と、おびただしい人々の放射線被曝を生み出すことになる。廃炉するだけで、そんなにも多くの年月をかけていく、それは本来やってはいけない原子力発電ということに人間が手をつけてしまったからである。

 核兵器も原発も核分裂を利用するものであり、そもそもそのような永久的な危険を与えるものに手をつけること自体が根本的に間違っていたのである。 原発の原料となるウラン235は、微量の放射能をだすだけのウラン238と混在していて、自然界の山や原野などから取り出さねば、特別な害を与えることはない状態にとどまっている。

 そしてそのウラン鉱石を産出する場所はごく限られているから、自然状態のままならば、人間に害悪を起こすことは全くといってよいほどなかったのである。(*

*)日本においては、1955年(昭和30年)1219日に原子力基本法が成立し、原子力発電へと踏み出したとき、各地でウランの埋蔵の調査が行なわれ、岡山県と鳥取県境の人形峠もウラン鉱石があるのがわかり、採掘されて少量のウランを取り出したが、研究用などに用いられたにとどまる。その後品質が低く、採算がとれないために、閉鎖されている。

 

 しかし、それを掘り出し、 濃縮しそこに中性子を照射して核分裂を起こしてしまうことで、さまざまの種類のおびただしい放射性廃棄物を生み出してしまう。

 またウラン235やプルトニウムを用いた核兵器を作り出すと、それが使われたら数千万人をも殺害することができるきわめて危険なものとなるし、また原発という形においても、大事故やテロによる破壊の際の恐るべき影響をはらむものとなる。

  通常運転であっても、その廃炉後には、廃棄物が永久的に害悪を与え続けるものになってしまう。

 原発は使えば使うほど、人間にとって永久的な害悪を生み出し、それを処理するためには、巨額の費用が湯水のように必要となってしまうグロテスクなものなのである。

 人間や動植物が作り出す汚れたもの―排泄物や死骸、枯れ葉、朽ちた樹木等々は、何の害悪も生み出さず、逆に肥料となり自然界をうるおしていく。

 これは、原子力発電所の廃棄物といかに異なることであろうか。神の創造された自然の秩序はこのように無駄がなく、万事が驚くべき仕方で循環して不要なものが何もないように作られているのである。

 人間の作った原発の廃棄物は、それに触れるものをみな汚していく、反生命的なはたらきを永久的にし続けていく。

 現実にこの2年半という歳月、この事態に直面してきたにもかかわらず、なおも、このような「怪物」(*)にしがみつこうとしているのが 日本の自民党や経済界の多数を占める人たちである。

*)原発を「怪物」と表現したのは、かつての原子力安全委員会の斑目元委員長である。彼は、原発を推進してきた人物で原発の本質をよく知っている専門家だが、そのような人でも、鎌仲ひとみ監督の映画「六ヶ所村ラプソディー」のなかで原発のことを、人間が制御できない「怪物」、と表現していたのが印象的であった。

 怪物ということに関連して、戦後まもなく1954年に作られた映画「ゴジラ」は、その後いろいろな続編や関連映画を生み出した。 そのゴジラそのものは、アメリカの太平洋における原水爆実験によって太古の昔からの眠りから覚めた怪獣である。アメリカ軍のビキニ島における水爆実験のわずか8カ月後に公開された映画であり、それは、放射能の恐ろしさということのインパクトの強さをも示している。ゴジラが口から吐く炎には放射能があるということ、そして当時のあらゆる科学技術もそのゴジラにはどうすることもできず、そのままでは東京が破滅するという状況となった。

 

 そのとき、最後の手段が特殊な科学技術を使う方法で、それを余りにも危険なために極秘にしてきた一人の特異な研究者が、その薬物をもってゴジラのいる海中に潜水し、みずからもその毒物によって死なねばならないことを覚悟して、ゴジラの近くにそれを置いて殺すという筋書きである。

 一人の特別な能力と、その人間の死によって初めてゴジラの脅威から救われるというのであり、この筋書きは、キリストという一人の死によって人類が救われるということに影響を受けたのではないかと思われる。

 

 原発の放射能による汚れはいかにしても取り除けない。汚染水を処理したといっても、放射能を除去したというが、その除去したという放射能を多量に帯びた物質はどこかにおかねばならない。処理すればそこで新たな高濃度の放射性物質を作り出してしまうので、また新たに保管方法やその場所に悩まされるのである。 そして、どこかで保存するとしても、そこで放射能を出し続け、その保管が不適切ならまたそこから周囲へと汚染は広がっていく。

 フィンランドでは、世界で唯一、じっさいに地下深いところに放射性廃棄物を貯蔵して10万年は管理を続けるという施設がある。

 福島で生じたおびただしい放射性廃棄物―それは、そのように10万年も管理が必要なのであるが、どこへも持っていけないとなれば、福島がそのまま中間処分地からさらに最終処分地となってしまう可能性が高くなっている。しかも、フィンランドのような強固で安全な地下などなく、至るところで地震の危険性や地下水を汚していくという危険性をはらんでいる。

 このような重大問題を本気で取り組もうとせず、オリンピックという本来娯楽であり、それを手段として利益を得ようとする人たちには金儲けのできるイベントとなるが、オリンピックというものは、本質的に人間の生活に不要なものである。そのために莫大な経費と労力を使うということは、あるべき姿から大きく逸脱している。

 政府は汚染水問題が、国際的に注目され、直前に迫ったオリンピックの開催地の決定にも悪影響を与えかねない状況になったとき、突然470億円もの国費を支出すると言い出した。これは財務省にも連絡もしなかったという。

 これは、オリンピック誘致を少しでも有利にしようとの目的だったと言われている。

 福島原発や東北の津波、地震の被災者のためでなく、オリンピックを東京に誘致するために考え出したとは何ということだろう。

 しかも、莫大な費用をかけて開催するオリンピックに対して批判的な考えをもつ人の意見などは、NHKニュースなどでもいっさい報道せず、もっぱら賛成の意見ばかりである。ニュース報道を見ていると、あたかも政治家も経済界も、一般国民もみんながオリンピックに大賛成だなどというように受け止められるようなニュース構成である。このような一種の娯楽を、現在も多くの、苦しみと困難にさいなまれている原発という重大問題以上に考えているのが明らかとなった。

 日夜、放射能に苦しめられ、故郷から追い出され、農業、酪農、水産業などの長く受け継いできた仕事も継続不能となった多くの人たち―あるいは、津波のために肉親を失い、職業やふるさとを捨てねばならなくなった人たち―そうした災害だけでなく、それがなくとも、いつの時代にも数しれぬ存在する闇に苦しむ人たち―こうした苦しみは、オリンピックといった華やかなお祭をテレビでしばらくの間見ているときは、気晴らしになっても、それが終われば、彼等の苦しみや悩みは再び、オリンピックなどまったく関係なく襲ってくる。

 そんなものに巨額の費用とエネルギーを今後開催までの長い間にわたってつぎこむより、はるかに大切なのは、原発に変る自然エネルギーの研究、開発であり、また自衛隊を軍隊にするなど止めて、あくまで憲法9条を守り、自衛隊と切り離した災害救助隊というべき独立の組織をつくって、これからの日本のさまざまの災害―原発災害も含め―に対処するようにすること、あるいは、急増する高齢者や病者といった弱者への適切な施設と人材の要請である。

 汚れの除去、これは環境問題として科学技術の進展とともにつきまとってきた。足尾銅山の公害、四日市の工業地帯での大気汚染公害、水俣病、騒音公害、都市の大気汚染等々絶えず問題となってきた。

 アメリカでは、レーチェル・カーソンが、1962年『沈黙の春』という本を出版したが、その中で、DDTなど農薬の汚染がいかに広がっているか、しかもそれが生物に濃縮されて各地でその被害が生じつつあり、最終的には人間にも及んできつつあるということを膨大な資料を駆使して述べたため、世界的にこの本が読まれ、知られるようになった。

 アメリカのケネディ大統領もこれを読んで環境問題に力を入れるようになったほどである。

 こうした環境汚染の最大のもの、それらと桁違いの広範な領域に及び、しかもほとんど永久的に人間に悪影響を及ぼし、さらに核兵器という人類破滅の兵器の製造にもつながり、対処の方法がないものが、原発による汚染である。

 

 ここで、人間の精神的な世界、霊的世界の汚れのことを対比的に見てみよう。自然界に科学技術の進展からの汚染が生じる以前から人間の魂の汚れは存在してきた。これも生きているかぎりつづく。そして人類はその汚れ―罪に悩まされてきた。

 そのような罪の汚れからいかにして清められるのか、ということが聖書全体の中心的内容となっているのである。そして、その罪の汚れは、キリストが来られたことによって、ただ信じるだけで赦され、清めていただけるという真理が神から与えられた。そして、じっさいにその通りとなり、二千年の間、そうして赦しと清めを受けてきた人たちが無数に全世界に広がってきた。

 原発はさらに世界の各地、とくに発達途上国で増設されていく。それゆえ原発の問題が今後も、世界を悩まし苦しめ続けていくことは確実である。建設のときには多くの反対運動を権力でつぶし、建設後は廃棄物を生み出し続け、テロや戦争による破壊が周囲に壊滅的被害を与えることを恐れつつ運転せねばならない。さらに廃炉となっても果てし無く長い歳月にわたってその地域の人間に害悪を与え続けることになる。

 こうした永遠につづく放射能との戦いにうち勝つ唯一の力は、神の力である。放射能は体を壊し、ガンなどいろいろの病気を起こす。最終的には死へと結びつく。 それゆえに、死にうち勝つ力のみが、放射能の永久的な悪影響から逃れる道である。そしてそれこそは、キリストの復活の力、死にうち勝つ力に他ならない。

 私たちもこのキリストの力を与えられつつ、この現実の問題に対処していかねばならないと思う。 

原発と倫理                      201210月  第620号より

このタイトルのような言葉は、福島原発の大事故以来、新聞、雑誌、週刊誌、テレビなどで、おびただしい記事やコメントがなされていったが、このタイトルのような言葉は聞いたことがないとか、ごくわずかしか見たり聞いたりしただけという人が圧倒的に多いだろう。

倫理という言葉は、大多数の日本人にとってなじみにくい、堅苦しいイメージがあるのではないか。高校の倫理・社会という教科は、私にとってもとても退屈な時間で―それはそれを教えた教師自身が情熱のない単調な教え方であったこともあるが、日本の社会科教育では、太平洋戦争前後のことがほとんど教えられていないことと同様、多数の日本人にとって記憶の乏しい教科となっているように思われる。

倫理とは何か、それは、人間の踏み行うべき道のことで、道徳とも言われる。そして道徳という言葉もまた、たいていの人、ことに若い世代にとって聖書ではすべての日本語訳聖書では、全く用いられていない。それはなぜなのか。

人間のあり方、それは究極的な真理である神に従うこと、それに尽きる。神こそは、正義と真実、しかも愛に満ちている存在であるから、その神に従うことによって愛の神であるから、神の正義や真実、愛を受けることができる。

それが、人間としてあるべき姿に導いてくれるものとなる。

それゆえに、倫理(道徳)というのは、神あるいは神の言葉に従うというごく単純なことになる。

人間が真実で愛や正義にかなう生き方をしていくかぎり、原発はいかなる問題を持っていると考えられるか、ということになる。

ドイツが原発を推進していくという路線から、福島原発の大事故からわずか数カ月ではやくもその方向を転じて、脱原発に大きく舵を切った。そうした決断をなさしめたのは何だったのか。

その大きな原動力の一つとなったのは、ドイツの倫理委員会であった。日本ではこのような委員会は全くない。

この倫理委員会―人間の正しいあり方に合致しているかどうかを研究、議論し合う委員会と言えよう。

その委員会のメンバーとして、キリスト教の牧師など聖職者、哲学者、化学メーカー社長、危機管理専門家、環境学者、経済学者など17人が選ばれた。そして意外なことに、原子力の専門家は加わっておらず、原発の賛成派も反対派も含まれていた。

その17名のうちに、キリスト教の指導者(聖職者)が3 名含まれていた。そうした委員によってなされた委員会の議論はテレビ中継され、100万人以上がそれを見たという。

原発が、将来の人類に対するどのような悪影響をもたらしうるか、そうしたことは、原子力の専門家でなくとも、発言できる。むしろ、原子力の専門家は、自分たちがやっていることを否定的に見ることをしようとしないことが多く、将来技術が進歩すれば解決できる、といった主張をしがちである。

キリスト教信仰、その基盤にある聖書はつねに、広く深い視野を、そして長期にわたる視野を提供する。

それは、聖書そのものが、この宇宙の創造から、現在までの歴史と最終的な未来を記している、しかも長い人類の歴史で無数の証言があるように、それは真理そのものである。

それゆえに、人間の正しいあり方という視点から見るときには、10万年~100万年もの管理が必要とされる原発は、永遠の重荷を将来の世代に課することであって、それは許されないということは自然な結論となる。

過去、現在、そして未来を視野に収めて考えるとき、聖書の視点があるかどうかは実に大きな分かれ道となる。

福島原発の事故のすぐ後に、ドイツのメルケル首相は、2010年の秋に決めたばかりの原発を延長して使用するという法律を3カ月間凍結し、7基の古い原発を停止させた。さらに、原子炉安全委員会が、国内のすべての原発の安全性を検証した。

福島原発事故からわずか2カ月あまりという早い時期、5月17日に、まず原子炉安全委員会が、安全性の再検証の結果を公表した。

そして、すでに述べたキリスト教の牧師や哲学者、会社経営者などからなる倫理委員会も、それから2週間ほどで報告書を提出した。

そして、ドイツは地震がほとんど起こらない国であり、津波も起こらないような国であるにもかかわらず、原発の大事故が現実に起こり得ること、核廃棄物の処理と管理には10万年を超える期間が必要だということ、また、原発に代わる技術があること、さらには、地震や津波が起こらなくとも、テロによる原発の破壊という大事故が起こり得ること―そうしたことから、わずか10年以内に、脱原発を段階的に行っていくことを提言した。

それをメルケル首相は受けいれ、二つの議会も最終的に7月8日には脱原発の法律が成立したのである。

 福島第一原発の事故からわずか4カ月という短期間で、脱原発の政治的決定が行われた。

このように、遠い日本で、しかも巨大地震と大津波という原因で生じた原発事故であるにもかかわらず、このようにドイツが短期間で脱原発を決定したということは、驚くべきことである。

現在の日本は、あれほどの恐るべき被害を受け、現在もその悲劇が進行中であるにもかかわらず、そして巨大地震が近いうちにまた日本を襲うことが想定されているにもかかわらず、原発を再稼働しようとしているばかりか、山口県の上関原発を新たに着工しようとさえしている。

この大きな違いはいったいどうして生じるのであろうか。

これはドイツの多くの人たちが、聖書、キリスト教の教えを精神の基盤として持っているから、そのキリスト教の指導者たちが、原発を単に経済やエネルギー、科学技術の問題としてでなく、神が創造されたこの地球、世界は、人間はどうあるべきか、という神中心の視点を持っていたからだと考えられる。

日本の場合は、まず経済を考え、エネルギー問題を考えていくという姿勢がある。そこから金(カネ)の問題が第一となり、そのために科学技術が万能であるかのような考え方が広められていく。科学技術は、経済問題、エネルギー問題の協力な支えとなるからである。今から40年以上昔に言われた、日本人はエコノミックアニマルだという批判―経済的利益ばかりを求める傾向―が、今回の原発事故にもその背景として存在している。

去年の12月、スイスのリーネマン夫妻―ご夫妻ともに、それぞれベルン大学の倫理学とバーゼル大学のキリスト教関係の学者であったが、大阪府の那須宅での高槻集会でお会いして、話をうかがう機会が与えられた。

そのとき、原発のことに関して、お二人が私に言われたことは、日本ではキリスト教の観点からの考え、意見を政治の場に反映させているか、といことであった。スイスでは、2034年までの「脱原発」を宣言しているが、そうした判断にキリスト教世界からの意見、考えが反映されていると言われたのである。

残念ながら、日本では、そうしたことがほとんどなされない。それはマスコミもキリスト教や聖書からの観点といったものをほとんど取り上げない状況である。

原発だけでなく、日本や世界の前途にかかわる大きな問題については、聖書の広大かつ深遠な視野から見ることが不可欠である。

現在の日本は憲法を変えて、自衛隊を軍隊とするという考えが自民党などを中心としてよく言われるようになった。しかし、武力をもって対処するとき、必ず武力、とくにテロにおびえなければならなくなり、今日のように核兵器や原発という恐るべきものが存在する状況においては、核兵器が使用され、あるいは原発へのテロ攻撃などによって、最終的にはそのような武力ゆえに破滅へと向うであろう。主イエスが、剣をもってするものは、剣で滅びると言われたとおりである。

敵をも愛せよ、迫害するもののために祈れ、という主イエスの精神、そしてその精神によってイエスも使徒のヤコブやペテロ、あるいはパウロやステファノたちも殉教したと伝えられている。それは、自分が攻撃されるから、相手も殺すということとは反対のことである。

キリスト教の純粋な精神が最もよく見られる新約聖書の使徒たちの言行録において、悪いことをされたから、個人的に武力で攻撃仕返すということはまったく見られないし、キリスト者たちが集団でそうした敵対者を攻撃するということも記されていない。

憲法9条の非暴力、非武装は、その淵源は、はるか2700年ほども昔に書かれた、旧約聖書のイザヤ書の2章にある。

このように、旧約聖書というと古いユダヤ人の書物というように考えられがちだが、実はその内容は、随所に驚くべき深さをたたえているのであって、現在に至るまで、その真理は脈々と世界を流れているのである。

このような点からみても、これからいっそう混沌の度合いが深刻になり、だれも予測できない事態が生じると考えられるこの日本や世界において、いかなるそうした状況の変化にも影響されず、大空のかなたの太陽のごとく、また夜空の星のごとくに輝き続けている神の真理―聖書の真理こそ、これからの人類の究極的な精神的な基礎となるであろう。

リストボタンリサイクルと永遠のエネルギー          2012年7月号より

現代社会の大きな問題は、資源を食いつくし、有害な廃棄物が限りなく排出されていくという、科学技術の問題である。本質的に科学技術は、確実に資源を消費していく。例えば、空き缶やビン、紙などをリサイクルすることは重要なので、現在もつづけられているが、その相当部分は回収されずに捨てられていく。鉄などは、建築物や橋、機械、自動車、列車、家庭機器など現代のあらゆる方面で不可欠なものであるが、それらをいかに回収しても、大量の部分はさび*がついて大地に吸収されて消失していく。

*)錆の本質的な化学成分は、鉄と酸素の化合物である。それはもともとこの自然界では、鉄の原料である鉄鉱石は、二酸化鉄のように酸化物として安定して存在していた。それを、その鉱石を石炭などの炭素ともに高温にして炭素を燃焼させると、鉄鉱石のなかの酸素が、炭素と化合し、鉄だけが取り出せる。

紙にしても、大量のものは腐食し、あるいはゴミとして燃やされる。このように、人間のすることのできるリサイクルは大きな限界がある。
原発にかかわる人たちは、核燃料をリサイクルしようと考えた。発電のため、ウランを核分裂させた後の廃棄物からプルトニウムを取り出して、それを再び核分裂させてエネルギーを取り出そうという目的である。
そのために、もんじゅという高速増殖炉を造った。しかし、それは、核分裂によって生じた熱を取り出す物質として、水でなくナトリウムを使う。
ナトリウムは、空気中でも発火し、また水と反応して水素を生じそれが爆発する危険性を持っていること、制御が困難であることなどから、世界の主要国では開発を断念しているし、日本も莫大な費用を投入してきたにもかかわらず、故障続きで断念を迫られている。
しかも、その核燃料をリサイクルした後で生じるのは、おびただしい放射能をもった廃棄物であり、これは100万年も管理が必要となる。
それだけでなく、そのリサイクル過程で生じるプルトニウムは核爆弾用に利用することができるとされている。
このように、科学技術の粋を集めた原子力発電とその廃棄物のリサイクルということは、人類の滅亡にまでかかわる重大な問題となっている。
このように、人間の造ったもののリサイクルは、大きな限界を持っているのがわかる。
これに対して、この自然界は完全リサイクルの仕組みとなっている。
落ち葉が落ちたらそれは微生物の食物となり、一部は大気中に二酸化炭素などの気体となって出て行き、残りのミネラル成分は大地に帰る。
そして別の植物の栄養となって使われる。生じた二酸化炭素はまた、植物によって吸収され、その植物のからだを造っていく。
動物の死体や排泄物も同様で微生物のはたらきによってみな、大気中や大地に帰り、また植物のからだを構成する物質となっていく。
このように、驚くほど無駄がない。腐敗したもの、排泄物、死骸といった目をそむけるようなものであっても、すべてそれらは自然界においては不可欠なリサイクルの一環なのであり、それらを食べて生きている生物がいるからこそ、リサイクルして再び植物の栄養となっている。
太陽の光や熱のエネルギーはどうか。
太陽の光は、数十億年という人間の生活する時間からいえば無限というほどの寿命をもってそのエネルギーを放射し続けている。
それは核融合という反応から生じるエネルギーであって、核エネルギーをすでに人類は神から与えられたものとして使ってきたのである。
太陽エネルギーが核反応だとは多くの人は意識しないで日々を送っている。それがすべての地上の生命体を支えているほど極めて重要なものであり、地上の植物や動物の命を支え、リサイクルさせるもととなっている。
あらゆる良きものを提供しているのが太陽エネルギーである。
しかし、人間がそれと類似の核エネルギーを使おうとすると、とたんに途方もない有害物質が生じてくる。
しかも、先述したように、リサイクルできない永久的な困難をもたらすのである。
このことを見ても、核のエネルギーを取り出そうとすることは、本来人間がするべきことでないということが浮かびあがってくる。
人間が好奇心と物欲にかられ、エデンの園で、十分に満たされていたのに、あえて禁じられているものを取ったために、楽園から追い出されたように、人間が核エネルギーを用いようとするとき、核兵器と原子力発電という双方によって、安全な地球の生活から追放される可能性が現実のものとなりつつある。
このような現実を前にして、私たちは、尽きることのないエネルギーはあるのか、ということである。
このことは、主イエスが暗示された。神の愛は、太陽のように万人に注がれているという。太陽が人間の生活のレベルでいえば、無限のエネルギーを絶えず放射しているように、神もまたその無限のエネルギーを絶えず人間に放射しているのである。
しかも、そのエネルギーというのは、人間を破壊したり、罪に陥れたりする誘惑の力としてでなく、悪しき人、迷える人、苦しむ人にも注がれている愛なのである。
太陽にたとえられる最も大いなる精神的なエネルギー、霊的な力とは神の愛のエネルギーである。これこそは、不滅であり、リサイクルどころか、永遠に注ぎ続けられているのであり、無限のエネルギーを生み出す泉なのである。
しかも、そのエネルギーは、太陽のように、万人に注がれているという。太陽のエネルギーは、どんな人でも受けている。しかし、そのことを知っている人もあるが、全くそのことを知らない人、あるいは知っていても、ほとんど思いだそうとしない人もある。
同様に、神からの目に見えない力や真理をだれでも受けているけれども、それに気付かない場合が、非常に多いと思われる。私たちの日常生活で、食前の祈りをするが食物だけが、神から与えられているのではない。衣食住のすべて、日常につかう車や道具、書籍…等々は、だれかがそれらのもとになる木綿など繊維植物をつくり、あるいは化学繊維なら石油を取り出し、それを運搬し、精製すること、また、住居にしてもその材料は木材ならたくさんの林業関係の人たちのはたらきがあり、さらに建築業者によってなされる。それらすべては、数限りない人たちの共同作業である。
それらの人たちは、神などいないという立場からでは、自分の力で生きていると思っているが、すべてを御支配されている神がおられると信じるときには、そうしたいっさいの衣食住にかかわるものはみな、それらにたずさわる人間を神が支え生かせているからであると思うことができる。
そうしたすべての人たちを生かし、働くエネルギーはみな太陽のエネルギーであり、真実を愛する心や不正を憎む心、忍耐心等々いっさいの心の動きもまた、神のエネルギーによって支えられている。
そのように見ると、次の聖書の言葉がよりはっきりと受け取ることができる。

…雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書551011

このように、神の言葉こそは、天地創造の無限のエネルギーをすら持っているものであり、それがこのように無駄になることはまったくなくて、必ずさまざまのところでご意志にかなったはたらきをして帰って来るという。
ここには、神のなさる良きことへのまったき信頼がある。よいことをしても、受け取ってくれない、誤解される、誰かのためになることもできない、かえって悪く言われたりする…等々、私たちは良きことの力への信頼は弱く、何をしてもよくならないのだ、神は愛でも何でもない…というように思うようになっていく。
ここに、私たちが信仰を働かせる場がはじまる。実際に良きことにつながるのを見ることができなくとも、だからこそ、信じていく必要性が強まる。結果が良いものが出たのがはっきりわかるのなら、信じる必要はない。分からないからこそ、信じるということがはじまる。

神の言葉は、雨のように、天から降ってそれで終わることなく、さらに必要なことをなし続けていく。
神の国に属するものは、みなこのように、いくらでもリサイクルできる本質を持っている。永遠から永遠まで、衰えることはないからである。


リストボタンフクシマの嘘            2012年7月号より

第2ドイツテレビ*というドイツの公共放送テレビがある。今年3月8日にフクシマ関連のドキュメンタリー番組が放映された。それは、日本やアメリカでの取材をもとにしたものである。ここに登場する人物は、福島原発事故の問題に深く関わった、あるいは過去に関わった人たちである。**
これらの人物と直接に会って対話を映像で収録しているもので、ドイツの重要な公共テレビ局の視点がよくわかる。
そのタイトルは、「フクシマの嘘」(Die FukushimaLge)というものであった。

*)第2ドイツテレビ(Zweitesk Deutsches Fernsehen―略してZDF)ドイツには公共放送が二つあり、その一つ。受信料制度を採用しており、徴収された6割がARD(第一ドイツテレビ)に、残りの4割がこの第2ドイツテレビに分配される。なお広告放送も行っているが、1日に20分以内でかつ、午後8時までと厳しい規制が掛けられており、総収入の数%に留まっている。(インターネットの百科事典ウィキペディアによる)
NHK BSでも、そのZDF のニュース番組が放送されている。

**)名嘉幸照(東北エンタープライズ社長)、菅直人(元首相)、ケイ・スガオカ(元GE点検主任)、佐藤栄作久(元福島県知事)、河野太郎(自民党衆議院議員)、松本純一(東電原子力・立地本部長代理)、島村英紀(地球物理学者・武蔵野学院大学特任教授)、白井功(東電福島事務所・福島県災害対策本部技術・広報担当)

まず、この公共放送テレビの番組のタイトルが、フクシマの悲劇、とかフクシマ原発の現状、あるいはフクシマ原発事故の将来、等々のタイトルでなく、「フクシマの嘘」ということをタイトルとしているのに驚かされる。
もう一つのドイツの公共放送である、第1ドイツテレビ(ARD)も、福島原発の事故に関連した特別番組を放送したが、そこでも、冷温停止とか福島原発がコントロールされていて、その状態は安定しているとか、また推進しようとする政府高官や都知事たちが福島の野菜を食べたり、水を飲んで見せたりしていて、新たな安全神話を造り出そうとしている様を放送している。
現在も嘘がこのように国民の前で放送されている、というのである。
このように、ドイツの二つの公共放送のいずれもが、福島原発の問題を「嘘」という観点から放送しているのである。
今日の福島原発の悲劇は、原子力ムラ(原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家・官庁と企業、学者・研究者の集団)といわれる大量の人間たちが造り出したさまざまの嘘によって生じたのである。
もしこのような嘘がなかったら、津波や地震によっても今回のような事故は生じなかったであろうということが示されている。
そもそも、原発に関しては、その出発点から嘘が深く入り込んでいた。アメリカの核戦略を効果的にすすめるために必要であったというのが本当の目的であったにもかかわらず、平和のためのエネルギーとして魔法の技術のように、よいことばかりのように原子力エネルギーのことを宣伝したこと、そして日本でもそれをごく一部の政治家(中曽根康弘)と実業家(正力松太郎)らが先導して原発を導入していった。
原子力の平和利用に関して、アメリカ原子力委員会の名によって、飛行機や列車、商船などを動かすことができるとされた。 日本でも同様なことが宣伝されたし、都会のビルの地下ででも発電できるようになるから、火力発電所とか水力発電のダムのような大規模な土地も要らない―などという現在では、おとぎ話のようなことが言われていた。
このようなことは、事故が起こったら、たちまち飛行機や列車などが放射能を広範な地域に飛散させるし、都心での原発は、大変な放射能が市街地にもまき散らされることになるのは、すぐにわかるはずであるが、そのような見え透いた嘘をつかってでも平和利用と称するものを拡大していったのであった。
こうした出発点を持っていた原発は、その後もたくさんの嘘を重ねて、その嘘を宣伝するために膨大な費用を使って進めてきた。こうしたことの一部は、「原発のウソ」小出裕章著にも詳しいが、日々の新聞や原発関連の書物にもこの一年多くのウソがあるのが報道されてきた。
嘘は個人的にも人間関係を破壊するが、国家的な規模での事業においては、重大な悲劇をもたらす。
原発は嘘で固められたものだ、と言われる。そしてその原発が今も福島だけでなく、世界的に見れば数知れない人たちの安全を脅かし、人間関係を壊し、かけがえのない郷里の土地を汚し苦しみと悲しみを生み出し続けている。
それに対して、真実で固められた世界がある。
それが、聖書の世界である。 聖書の世界、それは真実の神の世界であるからだ。人間は不信実、嘘をついてしまう弱いものである。
そのことは、聖書の最初から、アダムとエバが、神への背信となる行為―食べてはいけないものを誘惑に負けて食べてしまうということにも表されている。
しかし、そのような人間に対していかに神が真実に、そして愛と正義をもってふるまうか、そのことを一貫して書いてある。
神の御性質として、旧約聖書の古い段階から、一貫して記されているのは、その真実である。

…主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと真実に満ち、…(出エジプト記34の6)

ここで、「真実」と訳され、また、「まこと」 とも訳される原語は、エメスであり、アーメンと語源的につながっている。
祈りのときに、アーメンというのは、旧約聖書の時代から、続いている。
初めてキリスト教の集会に出たときには、アーメンなどなぜ言うのかと不可解な思いであった。
説明なしには、日本人には全く意味不明な言葉である。
これは、「真実をこめて」という意味がある。誰かが祈ったあとで、アーメンというのは、その祈りと同じことを、真実をこめて祈りますということなのである。
これは、真実な神への祈りのたびごとになされる応答でもある。
主イエスは、重要なことを語るときには、アーメン、アーメンと繰り返し言われた。
それは、真実を込めて、あるいは真理を言うのだ、という強い決意を感じさせる使い方となっている。
地上に現れた人間のうち、最も真実な、しかもその真実が永遠に変わらないといえるお方はキリストお一人である。
私たちは不正や嘘に満ちた存在であるけれども、そうしたどうすることもできない弱さを、イエスは担って下さり、十字架で死ぬことまでしてその赦しへの道を開いてくださった。
原発の悲劇が起こらないようにするためにも、その根源となった嘘をなくするためにも、私たちはそれと反対の世界―聖書の世界の真実に触れることこそ、求められている。


リストボタン原発再稼働の問題                 2012年6月 第616号より

首相が、みずからかねてより国民の注視の的であった大飯原発の再稼働を宣言した。その理由というのが、国民のために再稼働するのだ、万が一停電となったらどうするのか、と言っていた。この言葉は、そのまま、もし福井の原発が万が一、福島のような大事故を起こしたらどうするのか。何百万という人口を抱えた大都市を控えており、それこそ、日本は破局的な事態となる。
だからこそ、その日本国民のためにこそ、原発は停止し、原発に頼らない方法で生きていくのが日本の使命である。
そもそも、世界でとくに地震が多く、日本全体がどこででも地震が起きるような状態なのであり、そのような危険な場所に、54基もの原発を作ったこと自体が 大きな間違いだったのである。外国の科学者、原子力関係の人たちも、なぜ日本のような地震多発地帯に、しかも人口密集地帯を控えているのに、このように多数の原発をつくってしまったのかと、大いに疑問が持たれている。
間違いは気付いたときには、できるだけ早く直さなければならないのは当然である。
万が一にも大事故は生じないというのが、去年の福島原発の大事故以前の主張であった。しかし、現実にその大事故は起こったのである。
首相は、福島級の地震や津波が生じても事故が起こらないように安全対策をしているなどと言っていた。それは、電力会社、地元の権益を考えるような一部の技術者や科学者たちが安全だといっていることをそのまま信じ、鵜呑みにしているにすぎない。
ドイツやイタリアでは、すでに国民や政治家たちも、困難を見据えたうえで、原発を止めるという決断をした。また、スイスでは、NHKの特別番組で、原発を規制する委員会が、「経済のことは考えない、我々はただ安全かどうかだけを考える」、と明言していたのが印象的であった。
まず第一に徹底した安全を求める、それで原発の運営が経済的にたちゆかないなら、そうした原発ははじめから建設をしない、あるいは、運転途中であっても、求められる安全が確保できないと判明したなら、その原発の会社は撤退するしかないという厳しい姿勢があった。
それに対して、日本の首相、政治、経済界の多くが考えているのが、まず経済のこと、言い換えるとお金の問題である。
しかし、ひとたび福井の原発が大事故を起こしたら、そして風向きが北風あるいは北西風で雨も降る状態のときには、福井の原発から100キロ~130キロ圏には、京阪神がすべて含まれ、名古屋もその圏内に入ることになり、関西が壊滅的になるであろう。さらに、そうした大地震などのときには、今回の福島原発のように、近接している原発にもその影響は及ぶのであり、13基もあるほかの原発にもその事故が波及し、果てしない困難と窮乏が、日本全体を覆うことになる。
福島第一原発の事故においても、以前にも書いたように、もし4号機の1535体が保管されている燃料プールが崩壊したなら、冷却が不能となり、高熱を発する。そのため金属が燃えだす。そのような状態の燃料体に水をかけると、事態は悪化する。というのは水から発生した酸素が燃料棒を覆っているジルコニウムを酸化させ、水素が発生して爆発する。これは最悪の事態であり、こうなると1015年分の核燃料が大気中で燃えるにまかせるという世にも恐ろしい事態となる。4号機の燃料プールには、戦後大気圏内で行われた、原水爆のおびただしい実験から放出された量を合わせたほどの放射線セシウムがある。
それが燃えるがままになった場合には、膨大な量の放射線物質が環境に放出され、日本列島が分断され数千万の人々が避難しなければならなくなるという。

(「福島第一原発―真相と展望」 7078頁 アーニー・ガンダーセン著 集英社新書、著者は、アメリカの原子力技術者。全米で、原子炉の設計、建設、廃炉に関わった。)

なおこの4号機の危険性は、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)も指摘している。(徳島市での、今年2月末の講演)
さらに、イタリアの環境団体は、5月18日、日本政府に、福島第一原発の燃料プールから使用済み燃料を緊急に取り出すことを求める声明を出したという。また、この4号機の危険性を早くから指摘していた元スイス大使の村田光平氏は、次のように述べている。
「世界は自分たちの生活を脅かすリスクとして4号機問題をとらえています。日本が単独で、まして事故を起こした東電に解決をまかせるべき問題ではありません。」(「週刊朝日」6月8日号)
この4号機の燃料体を取り出すことは、その保存プールが高い位置にあり、地震で何らかの損傷―傾いている可能性があること、従来の機械は操作できないほど内部が破壊で混乱していること、高い放射線のもとであり、非常な困難が予想されている。
しかも、この難工事は相当な時間を要するために、その途中に巨大地震が生じると、そのまま崩壊してしまうのである。
万が一というなら、このようなことをこそ考えねばならない。そのためにこそ、日本の一部の会社や文科省関係の人間だけでなく、各国の英知を集めて早く取り出さねばならない。
福島第一原発の大事故は、その本当の収束のためには、そのさまざまの除染、補償、廃炉の困難を含めて今後 数十年~百年とも言われるほどの時間を要するといわれている。
そのような大事故を起こして現在、数知れない悲劇が進行中であるにもかかわらず、どうしてその悲劇の原因ときなった原発を簡単に再起動をしようとするのであろうか。
それは、関係者たちの、目先のことだけにとらわれた判断、経済、お金の問題、あるいは、自分の保身やいままでの利得を継続したいという欲望の結果なのである。
私たちは、原発を止めるために、こうした危険性をいつも覚えて、原発を押し進めようとする勢力に対しての反対の気持ちを持ち続けていきたいと思う。


リストボタン宇宙開発と原子力開発           2012年5月  615号より

宇宙開発というと、一般的には、夢のあるロマンチックなものと受け止められやすい。宇宙からの無重力状態の映像で、空間を泳いでいるような映像を出して不思議さを演出したり、小学校の子どもへのメッセージを託したりと、いかにも平和なはるかな宇宙への思いを駆り立てるようなものとして放送される。
しかし、宇宙開発はそのようなロマンチックなものでもなく、本当に人間に未来への確たる希望を与えるものでもない。

軍事目的からの開発

宇宙開発の出発点となったのは、宇宙に向って打ち上げるロケットの開発であったが、その重要な人物は、ドイツのブラウンであった。
その開発は、ブラウンらによって考えられたが、目的は、第二次世界大戦の末期になって、イギリスへ直接砲弾を打ち込むことのできるロケットが目的であった。航空機に乗って爆弾を投下するのは、敵によって撃墜される危険性が高く、かつ人的、また航空機の損失も大きい。
もし、ドイツから直接に砲弾をイギリスに打ち込むことができるならそうした危険性も損失もないということから、研究されたのであって、明白な軍事目的であった。
戦争末期に、彼等優秀なロケット技術者はアメリカにわたり、戦争が終わったのちも、アメリカでロケットの研究を続けた。
ソ連もドイツのロケット関係の技術者を自国に入れ、またロシア人独自の研究開発を続けた。
このようにして、ロケットの能力は飛躍的に増大し、大陸を超えて爆弾を敵国に命中させるような兵器(大陸間弾道弾)も生み出された。
人工衛星の技術もうまれた。偵察機を使って敵国を調べることは撃墜の危険があり、かつ捕らえられると国家機密が漏れる恐れもあるが、地球を回る衛星から偵察し、情報を集めることができるなら、そうした危険性がない。
このように、宇宙開発は、宇宙旅行とか月着陸などのような空想的なことが実現するなどということでなく、互いに激しい軍事的目的のゆえに発達していったのである。
こうした状況に、日本も影響されていく。
日本では、1956年7月というはやい段階で、防衛庁は、宮城県で最初の軍用ロケット発射に成功しているし、現在では、軍事衛星ともみなされる情報収集衛星を保有している。
そして、2008年に成立した宇宙基本法ではその第一条に次のように記されている。
「この法律は、…日本国憲法の平和主義の理念を踏まえ、…我が国において宇宙開発利用の果たす役割を拡大するため、…世界の平和及び人類の福祉の向上に貢献することを目的とする。」
さらに、第二条にも、「宇宙開発利用は…日本国憲法の平和主義の理念にのっとり…」とあり、いずれも、憲法の平和主義に従ってなされることが記されている。
それほど、宇宙の開発は、容易に軍事と直結するからである。
一般の人々の受け止めでは、宇宙開発と憲法の平和主義とはまるで結びつかないイメージがあるのではないか。宇宙での無重力状態をスペースシャトル機内で泳いで見せたり、何らかの実験をするなど、およそ、憲法9条とは関係のないようなものとしてマスコミなどでは伝えられているからである。
これは、こうした平和的な、文化的なものだという意識を子どもたちや一般の人たちに植えつけるための方策ともなっている。
これはちょうど、原子力発電が、安全だ、平和的利用だ、資源のない日本にふさわしいエネルギーだと、よいことばかりを教育やマスコミで宣伝されたのと共通したことである。

原子力発電と宇宙開発

原子力発電もまた、その出発点は軍事目的であり、原爆でわかるように、相手を徹底的に攻撃、破壊するために考えだされたものであった。
宇宙開発事業団法に対する国会の附帯決議が1969年6月に、参議院科学技術振興対策特別委員会で行われており、その中に、「我が国における宇宙の開発及び利用に関わる諸活動は、平和利用の目的に限りかつ自主、民主、公開、国際協力の原則のもとにこれを行うこと」という条文がある。
これは、それより以前、1955年にできた原子力基本法の考えとも深い共通点がある。
その第2条は次のような内容である。
「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」
このように、この両者が、軍事利用ということから始まったゆえに、常に軍事のために使われる可能性が高いために、平和利用とか憲法9条の精神に沿ったようにということが記されねばならなかったのである。これらはその出発点から同じ問題点を持っていたことを示している。

宇宙は生命あるものにふさわしいか

宇宙そのものは、全く明るい世界でも希望に満ちたところでもない。
宇宙へ出て行くこと、それは、死の世界である真空の中であり、各種の危険な放射線が飛び交うところであり、また、無重力であり、さらに、きわめて低温である。例えば、月の表面では、太陽が当たらないところでは、マイナス170度、さらに2009年に、 アメリカ航空宇宙局 NASAの月探査機が月の南極にあるクレーター内部の永久影の温度を計ったところ、マイナス238度以下にもなることが明らかにされた。
また、無重力状態では多量に人体の骨のカルシウムやリンが溶けだしていくためと、筋肉が退化するために、毎日2~3時間もただそのために、運動を続けなければならないという異常な空間である。宇宙飛行士が地球に帰還すると、立って歩けない状態となり(そういうところは映像ではださないが)、元の生活に戻るには数カ月を要するという。
筋肉は、無重力状態では、5日間でその機能が30%も低下し、18日間の宇宙飛行で地上に帰ったとき立ち上がれない状態になる。
2011年の11月に、国際宇宙ステーションから地球に戻った宇宙飛行士の古川聡氏(東大病院の元医師)は「体はまるで軟体動物のようで立っていられない、歩けない」と地球帰還後の体調について語っている。
骨については、無重力状態では1ヶ月に約1パーセントの割合で骨の質量が減少するので、10ヶ月も過ごせば地上で30歳から75歳まで年を取った分に相当する骨の無機成分が失われるという。
そのようにして弱った筋肉は地上でのリハビリによって比較的短期間で回復していき、普通に生活できるようになるが、骨そのものが元通りになるまでには、数年もかかると言われている。
また、機体の故障で地球に帰れなくなればそのまま死への旅立ちとなる。
宇宙とはまさに徹底した死の世界である。
そのような死の世界であるのに、なにかバラ色のような、よいことばかりを提示して、巨額の費用を使っていく、それは原子力の「平和利用」という名目で推進していったやり方と似通ったものがある。その背後には、軍事目的に転用しようという意図が潜んでいる。
原子力もバラ色の世界が開けるように思わせたが、それはひとたび事故となれば、死の世界、苦しみと悲しみの世界へと導く悪魔的なものなのである。そして事故がなくとも、その廃棄物は数十万年も管理の必要な、途方もない毒物、魔物であり続ける。
宇宙に出て行くことは、かつて、コロンブスが未知の世界をめざして出かけてそこでアメリカ大陸を発見したことのように、人類が未知の世界を開拓するようなイメージで言われることがある。
しかし、コロンブスは地上の世界であり、生命が存在できる世界の範囲内であったのに対して、宇宙は絶対的な死の世界であるという点が決定的に異なっている。
原子力が人間の生存を根本的に脅かすものであることは、原爆、水爆などの核兵器や、チェルノブイリ、福島などの原発―の大事故で明らかになった。
人間は、原子核という本来手を触れるべきものでないものに触れてしまって、途方もない困難を自ら招いてしまった。 徹底した死の世界である宇宙に出て行くということも、本来人間の考えるべきことでない世界に手を触れようとしていることなのである。
それらが原理的に生命と相いれないこと、さらに、たえず軍事的に用いられる危険性を持っているからである。
そのような方向に莫大な費用をかけるのでなく、この神から与えられた地球での福祉のためにこそ、費用をかけるべきなのである
。  (「いのちの水」2012年5月号)


リストボタン偶然と原発事故              2012年4月  614号より

今回の福島第一原発が最悪の場合は、どうなっていたか。それは以前にも「いのちの水」誌で触れてきた。そのようなことを言うことは、煽ることだなどといって政府や科学者たちは意図的に隠してきたが、ようやく1年近く経ってから公表された。
それは全国紙にも掲載された。つぎは朝日新聞に今年2月に掲載されたものである。

… その最悪の事態については、すでに去年の原発の大爆発の2週間ほど後に政府で作成されていた。水素爆発が次々と生じると、原子炉から大量の放射性物質が放出され、原発敷地内での冷却作業ができなくなる。その結果、原子炉の核燃料と使用済み燃料が溶融をはじめ、さらに大量の放射性物質が飛散する。
そうなれば、強制移転の地域が170キロ以上になる。自主的移転を認めるべき地域が250キロ以上に拡大する可能性が生じる。最悪の場合、首都圏の3千万人が避難という事態となる。…。

このような予測を知らされた当時の内閣官房参与の田坂広志(原子力工学の専門家)は、駐車場に出て空を見上げた。そして「自分は映画を見ているのではないのだ…」と現実の深刻な事態を受け止めたという。
このような映画でしかあり得ないと思われていた事態になる可能性が現実にあったのだ。それを回避できたのは、偶然にすぎない。さらなる水素爆発や大地震が生じたり、津波がさらに襲ったりしたら、そのような最悪の状況になり、日本は壊滅的な打撃を受けただろうと考えられている。
当時の首相が、最悪の事態になると、東日本はつぶれる、といったとかいうが、東日本どころでなく、そのような事態になれば、3千万人という膨大な人間が避難しても、日本で住むところがなく、日々の食生活から、はじまって政治や経済も産業も交通も、あらゆるものが大混乱となっていただろう。
田坂は、そうならなかったのは、「事態を把握して事故の拡大を押さえ込んだというより、幸運に救われたのだ」と振り返った。
そして政府の中枢にある一人は、「この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」と証言したという。
科学技術や政府の対応といったものが救ったのでなく、究極的には、人間のわざを超えた偶然、あるいは幸運、さらには「神様の守り」があったからだとまで言わせるほどに、人間を超えた運命の手が働いて、そのような破局へとは至らなかったというのである。
こうした偶然、幸運は、東海第二原発にも見られた。この原発は、日本初の百万kW級の原発であり、これが大事故になると東京の中心部(東京駅)まで、115キロほどしかないから、東京の全域が避難せねばならなくなる。
福島第一原発の4基の大事故があったから、この東海第二原発のことがほとんど報道されなかったが、この東海原発も危機一髪であった。
辛うじて冷温停止がなされたのであって、あとわずか70センチほど津波が高かったら、防潮壁を乗り越えて、福島原発のような炉心溶融に至っていたという。
それまでの防潮壁は高さ4・9メートルであったが、スマトラ沖大地震の後で、その防潮壁の高さを1・2メートル高くした。その結果新しい防潮壁は襲いかかった津波より、わずか70センチ高かったために、全面的に非常用電源が水没しなかった。
さらに、非常用ディーゼル発電機の冷却ポンプ3基のうち2基は、大地震のわずか二日前に、止水工事が完了していたので、浸水を免れたが、まだ終わっていなかった1基は、ケーブル用の穴から海水が侵入して水没し、使えなくなったため、冷温停止までに三日半を要したという。
この記事は、「首都圏を救った70センチ」というタイトルで掲載されたが、わずか70センチが途方もない被害を首都圏に与えるところであったし、止水工事が二日前に終わっていたがそれがもし終わっていなかったら、やはり非常用ディーゼル発電機がみな動かなくなっていた。
このような、綱渡りのようなことで首都圏3千万人の避難というかつてだれも経験したことのない事態が起こらなかった。
さらに、その高めた防潮壁も、石巻や仙台などで多く見られたような船や自動車など漂流物が衝突していたら崩れ落ち、そのために、非常用ディーゼル発電機すべてが水没し、原子炉が冷やされなくなり、炉心溶融という最悪の事態になっていたという。
原子力安全・保安院幹部も言ったように、「薄氷の冷温停止」だったと記されている。(毎日新聞2012年3月1日)
また、東北電力女川(おながわ)原発でも、重大な被害があった。
この女川原発の建設において、当初は現在よりももっと低い位置での設計となっていたが、当時の責任担当者がより安全性を考慮し、当時は 過剰といわれた14.8mの高台での設置となった。
これが福島原発のような致命的な事態とならなかったことにつながった。
しかし、この担当者は、費用をかけすぎたということで後に、左遷されたという。
去年の大津波で2、3号機では、原子炉建屋内のポンプやモーターを冷やす冷却系に海水が浸入した。うち2号機は熱交換器室の設備も浸水。外部電源の給電で運転に支障はなかったが、非常用発電機3台のうち2台が起動しなかった。
福島の大事故がなかったら、これだけでも、相当深刻な事故として報道されたはずの出来事であった。
過剰といわれたほどに高台に設置してもなお、このように非常用発電機の過半が使えなくなったのであり、もし、この特別な担当者がいなくて、最初の予定どおりに建設されていて、地震で福島のように外部電源も断たれていたら、やはりこの女川原発も炉新溶融を起こす事態となっていた。
このように、福島第一原発だけでなく、女川原発も、東海第二原発も、あと少し大きい津波が襲っていたり、地震がもう少し強く揺れていたら全く状況が違っていて、これは三カ所で、取り返しのつかない大事故が発生していたのであった。
これらすべては、一般的には、「偶然」であり「幸運」である、というしかない。
しかし、神を信じる者にとっては、偶然という言葉はない。
そのような最悪の事態にならなかったのは、神の何らかの深い意図によってそうならなかったのだというほかはない。
それは、確かに大いなる警告である。そして待たれているということである。運がよかった、運命が助けてくれた、というようにだけ受け取るのでは不可であって、日本人が本当に真理なる神に立ち返ることを待って下さっていると感じるのである。
このような、薄氷を踏むような事態、それは神の警告が迫っているということを暗示していると思われる。
主イエスが、「目を覚ましていなさい、いつそのとき―主が再び来られるとき―が来るかわからないからである。」(マタイ2444)と言われたとおりである。
主のとき、それは究極的な救いのときであるとともに、さばきのときでもあり、私たちが魂の目を覚まして日々の歩みを続けるべきことを示している。
(「いのちの水」2012年4月号


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.png福島第一原発4号機の危険性と「祈ること」        2012年3月   613号より

日本は現在、地震が多く発生するようになっている。福島にも大きな余震がある可能性があり、その場合には、大事故を起こした原発は、さらなる困難に直面する。場合によっては、現在までの状況よりはるかに重大なことすら生じる可能性をはらんでいる。
そのようなことをいつも私たちは考えておかねばならない。去年の原発大事故は、まさにそのような重大な事故など起こらない、大地震が来ても絶対安全であるように幾重にも安全装置が装備されている、という御用学者たちの宣伝を信じてしまったところにその原因があった。
そうした大変な事態が生じるということを本当に知っているほど、原発を造ってはいけないのだ、という考えにおのずとなっていくであろう。

2月18日(土)に、京都大学原子炉実験所の小出裕章氏が徳島市で講演をされた。そのなかで、福島原発4号機に関する危険性を次のように語っていた。

…政府によれば、2号機こそは、最大の破壊を受けていて、放射能を環境に放出した最大の原因となっていると言われてきた。
そして、3号機は写真で見てもわかるが、建屋の骨組みすらないほどに破壊されている。
それと比べると、4号機は骨組みは残っている。それなら、 3号機と4号機とどちらが破壊が深刻なのかといえば、3号機と思われるかも知れない。
しかし、そうではなく、4号機なのだ。
3号機は原子炉建屋の最上階の2階の部分が吹き飛んだが、その下はまだ壁がある。
それにくらべると4号機は骨組みは残っている。しかし、4号機は最上階の二階の部分も、その下の部分も壁がなく、その下も穴があいている。3号機も4号機も最上階の2階の部分は体育館のような巨大な空間である。オペレーションフロワと言われる、 クレーンや燃料取り替え装置がある巨大な空間だ。そこで水素が出て爆発した。
4
号機はそこも壊れ、その下も壊れている。使用済み燃料プールに膨大な燃料を入れてある。そこも何らかの破壊があった。そして生じた水素が最上階の二階に相当するオペレーションフロワを吹き飛ばした。
ほかの1号機から3号機までは、破損したとはいえ、なんとか容器は残っているから燃料、廃棄物は大体はその容器にの中にある。
しかし、4号機の使用済み燃料プールの冷却に本当に失敗するなら、そこからは、なんの防壁のないまま放射能が環境に大量に出て来る。
 4号機が大きな余震によって、崩れ落ちる可能性がかなりあり、危険であったから、耐震補強工事して何とか崩れ落ちないようにしたという。しかし、猛烈な放射能で汚染されているから人間は近づくこともできない。
東京電力は補強工事をしたというが遠隔操作か何かでやったのかも知れないが、そういう強い放射能汚染の場所で本当に補強できたのかと思う。
もし、大きい余震があって、この使用済み燃料プールが崩壊でもしたら、もうなすすべはない。もう天に祈ることしかできない。
このプールが崩壊するような大きな余震がこないでくれよと、それを願うしかないのが今の状態だ。この4号炉のなかには、広島原爆がばらまいた放射能生成物の約四千発分もある。…
----------------
このように、4号機の重大な危険性を排除する方法がなくて、巨大地震が起こらないでくれと、祈るだけしかないという。原子炉に関する現役の科学者、40年もの間その方面の研究を専門的にやってきた学者が、「ただ祈るしかない」というほどに、今回の原発の事故は、将来の廃棄物の処理の難問や除染、復興といった以前に、現在も深刻な状況を抱えているのであり、恐ろしい爆弾を抱えているような状況なのである。
このことに関しては、アメリカの原子力技術者、A・ガンダーセン
*が次のように述べている。

*)1949年生まれ。原子力の技術者。アメリカで原子炉の設計、建設、運用、廃炉などに関わり、アメリカエネルギー省の廃炉手引き書の共著者。妻と共に設立した組織で原子力発電に関する調査分析や、訴訟、公聴会における専門家として意見の提供をしている。

…三号機の爆発はたしかに凄絶であったが、一番の懸念材料は4号機であり続けてきた。アメリカの原子力規制委員会 (Nuclear Regulatory CommissionーNRC)が、当時の日本政府の勧告より広い80キロまでの避難を提言した理由でもありました。NRCは、使用済み燃料プールが乾いてしまって、発火することを非常に心配していた。あまりにも熱くなって金属が燃える現象だ。
水では消化できない。そのような状態になると、水をかければ事態は悪化する。水から発生した酸素がジルコニウムを酸化させるうえに、水素が発生して爆発する。
こうなると最悪の事態だ。10~15年分の核燃料が大気中で燃えるという世にも恐ろしい状況となる。 4号機の建屋は構造が弱体化し、傾いている。事故後、東京電力は作業員の健康をリスクにさらしながら、プールを補強した。それだけ損傷が激しかったのである。
 大きな地震に襲われたときに倒壊する可能性が、4つのなかでは最も高いといえる。
 耐震性を高めるために打つ手はあまりない。
 再び、震度7の巨大地震が来ないことを祈るだけだ。
 このような事態は、科学にとって未知の世界である。取り出してまもない完全に近い炉心が入った使用済み核燃料プールでおきる火災を消し止める方法など、だれも研究すらしたことがないのである。 事実上燃えるがままにまかせるしかないとすれば、それは解決策などとはいえない。
 大気圏内で行われた歴代の核実験で放出された量を併せたほどの放射線セシウムが、4号機のプールには眠っている。4号機の使用済み燃料は、今でも日本列島を分断する力を秘めている。…(「福島第一原発―真相と展望」7078頁 集英社新書)

 このように、小出裕章氏も、ガンダーセンもいずれもが、4号機に巨大地震が襲うことになれば、その大量の放射能によって日本全体にとって―否世界にとっても現在よりはるかに重大な事態となることを指摘し、そのようなことを確実に防ぐ方法がないために、「祈る」だけだと言っているのに驚かされる。
 さらに、この4号機を含め、3~4年ほどして、燃料集合体が大気中で保管できるようになったら、核燃料を取り出さねばならない。これは、至難のわざであるが、そうしないと再び地震や津波の襲来のときには、大変な事態となるからである。
 しかし、その取り出しがまた極めて困難だという。4号機の建物自体が傾いているうえに、4号機では、上部のクレーンも破壊された。 その状況で、危険な高い放射能を持つ燃料を持ち上げて、直径3m、厚さ7・5センチもある鋼鉄製の容器(キャスク)に入れて運ばねばならないが、それは100トンにも及ぶ重量となるから、それを操作するときにもし落下でも起こすと、燃料がたくさん入ったプールの底が抜け、東京を壊滅させる火災を引き起こす可能性があるという。それは、そのような事態になるとおびただしい放射能が放出されてしまうからである。
 さきに、もし、4号機の燃料プールが地震で崩壊したなら、世にも恐ろしい火災となるといったのと同様のことである。このような事態となれば、消すことはできず、莫大な放射能が、首都圏に降り注ぐゆえに壊滅させると言っているのである。東京地域がそのようになるなら、ほかの地域も当然たいへんな状況となるのは容易に想像できる。
 最悪の場合には、このような事態まで生み出す、原発というもの、このような本質を知らないゆえに、そして金や自分の地位に執着するものたちがたくさんいるからまだ再稼働させようとする人たちが多いのである。
 こうした事態をはらんでいる原発が何故収束したなどといえるのか、大いなる偽りでしかない。
 私たちは、電気―エネルギーをできるだけ無駄使いをしない、という生活へと転向し、まず贅沢に電気エネルギーをいくらでも使うということでなく、まず安全、安心を生み出すような生活のあり方へと進んでいかねばならないと思う。
 ささやかなもので満足する、その根本的な道は、はるか2500年以上も昔に言われている。
「主はわが牧者、わたしには乏しきことがない。」(詩篇23篇)という道である。
(2012年3月)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.png地震と原発               2012年2月  612号より

福島原発の大事故の原因について、繰り返し津波だと言われてきた。そして、地震が重大な原因となっていることには触れようとしない。政府も同様である。
それは、もし、地震が今回の大事故の大きな原因であれば、日本のすべての原発は、その対策のためには単に、非常用電源を高所に移すとか、防波堤を高くするなどの津波対策だけでなく、地震に対する安全対策を根本的にやりなおさねばならなくなる。
そのためには、相当の時間と経費がかかる。そして、どれだけすれば、今後の地震の対策になるのか、その地震がどのような規模のものが発生するのかが、明確でない以上、そうした巨大地震への万全の対策などは、容易なことではなくなる。
日本での地震は、世界の他の原発を持っている国々と比べると断然多く、地震から来る危険性は、比較にならないほど大きい。
*

*)日本では、地球の全地震の10%が集中する地震列島である。これは、日本の面積が、地球の表面積のわずか、0.073%程度であることから考えると特別に地震が多いのがわかる。

福島第一原発において、実際は、大地震により、原発に電力を供給していた6系統の送電線のうちの鉄塔1基が地震による土砂崩れで倒壊し、5号機と6号機が外部からの電気を受けられなくなった。
さらに、1~4号機もまた、送電線の断線やショート、関連設備故障などにより、外部電源を失っている。
去年の4月13日の東京電力の清水社長(当時)の記者会見という早い段階から、公式見解で事故原因は未曽有の大津波だとしてきたし、政府などもそのように津波だけが原因であるかのように言っている。そしてマスコミもたいていは、それをそのまま報道している。
しかし、すでに去年の4月27日の衆議院経済産業委員会で吉井英勝議員(共産党)は、地震による送電線の鉄塔が倒壊したため、福島第1原発の外部電源が失われ、炉心溶融が引き起こされたことを追及している。
当時の、経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は、倒壊した鉄塔が「津波の及ばない地域にあった」ことを認めており、この送電線の鉄塔が倒壊したことが、まず第一に炉心溶融につながるものとなっていたのである。
この鉄塔が倒壊しなければ、内部電源としての非常用電源が津波で使えなくなっても、電源を融通しあい全電源喪失に至らなかった。従って、炉心溶融にはならなかったのである。
 これに対し原子力安全・保安院の寺坂院長(当時)は、倒壊した受電鉄塔が「津波の及ばない地域にあった」ことを認め、全電源喪失の原因が津波にないことを明らかにしている。
(2011年4月30()「しんぶん赤旗」、インターネットによる衆議院経済産業委員会の録画などによる)

この外部電源の問題とともに、原発の配管がまず、地震によって破壊された可能性が高いことが早い段階から、原子炉設計にたずさわっていた専門家から言われていた。原発の配管は、総延長が80キロメートルにも及び、その溶接箇所は、2万5000箇所もあるのだから、大地震によってそうした配管の破損がどこかで生じるという可能性が高いのである。
九州大学副学長の吉岡斉氏
*は、「地震の揺れのために主要配管が壊れたかどうかは、実際に見てみなければ分からない。…津波対策だけしっかりやれば、大丈夫などということはあるはずがない、というのが、事故調査・検証小委員会での共通認識だと思う」と語っている。(「AERA1212日号 朝日新聞社 )
*)東京大学理学部物理学科卒、九州大学教授。事故調査・検証小委員会のメンバー。

そして、福島第一原発の4号機の圧力容器の圧力容器詳細設計などを手がけた、元原発設計技術者の、田中三彦氏は、「科学」(岩波書店)に掲載した論文には、地震によって配管が破壊されたために、冷却剤の水が、失われるに至ったのでないかと推論している。 そのことは、格納容器の圧力変化や推移変化の記録、運転員のとっさの記録などから、津波が襲ってくる以前に、地震によって主要配管の一部が破損していた可能性が高いと結論付けている。
その配管の破損から、冷却剤(水)が、噴出しはじめ、そのため、原子炉の水位が急速に低下し、その結果、最終的に燃料棒が水面より上に出て、燃料損傷や炉心溶融が生じたのではないか。
(「世界」2012年1月号 岩波書店刊。108~110頁)

この可能性が高いにも関わらず、東京電力や政府は、まったくこのことをはじめから考慮に入れない方針を取っている。去年の12月2日に、東京電力は、福島第一原発の事故調査に関する中間報告を公表した。そのなかで、やはり、地震による機器の損傷はないとしている。(二〇一一年12月の新聞報道)
このように、東京電力や政府は、地震の影響を無視しようと一貫した姿勢がある。それは、地震の影響によって福島第一原発の事故が起こったことを認めると、ほかの原発もみな、地震が起きると事故になる可能性が高いことを示すことになり、全面的に安全性を見直さねばならず、そのための補強などということになると、相当な時間と費用がかかることになる。
それゆえに、原発の事故原因を津波だけと断定されると、非常用電源を置く場所を高くし、防波堤だけを高くすれば再起動できる。再起動を何がなんでもやろうとする勢力にとっては、津波だけが原因だとするのが万事において好都合となる。
先ごろ、首都直下型などマグニチュード(M)7クラスの地震が、南関東で4年以内に発生する確率は70%に高まった可能性があるとの試算を、東京大地震研究所が明らかにした。
南関東でのM3~6の発生頻度は、昨年5月時点で大震災前の約6倍に達し、現在も約5倍と高い。
 同研究所の、平田教授は「大震災でひずみが解放され安全になったと考える人もいるが、地震の危険度は依然高く、防災対策をしっかりやるべきだ」と指摘している。
 このような地震予測は、必ずしもその予測通りに起こるということではない。東北大震災も予測できなかった。
しかし、大地震の後、数年は余震というかたちで大地震が再度起こる可能性が以前から指摘されている。
福島原発に再び大地震が襲うなら、原発にさらなる破壊が起こり、現在行われているいろいろな冷却などの作業ができなくなり、絶えず発熱する大量の燃料を貯えているために、再度大量の放射能が放出たれる危険な状況に陥る可能性もある。
 この地震による損壊は、ほかの日本中の原発に対して言えることであって、それゆえに、電力会社や政府なども地震による原発への影響を語ろうとしないのである。
原子炉、格納容器、配管などの損傷がどの程度あるのかについては、放射能がきわめて高いので、現実にそれらを直接に見て調べることができないゆえに、都合のよい推論だけを取り上げて、津波だけが原因であるかのように言っているのであって、より根本にある、地震によって生じる原発の危険性を忘れてはならないのである。
(「いのちの水」2012年2月号)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.png原発事故が最悪の状態になっていたら            2012年1月  611号より

原発の大事故以来、原発を止めて自然エネルギー、再生エネルギーへと強力に移行すべきだという意見が出されてきたが、それと逆に、従来通り、原発を何とか継続していこうとする人たちがいろいろと画策している。
これは一つには、国民も喉元すぎれば熱さを忘れるということで、とくに直接に被害を受けていない地域は、原発をそのまま何となく継続していくという考えに依存する傾向が強くなっていきつつある。
しかし、原子力発電ということがいかに危険な事態となりうるか、今回の事故よりはるかに深刻な状況になる可能性が高かったということが、最近報道されている。
 
…3月25日に、菅首相の指示で、近藤駿介氏(内閣府原子力委員会の委員長)が、事故の最悪の場合にはどのような事態が起こるかを、報告していた。
 それによれば、1~3号炉でさらなる水素爆発や核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、原発から、半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故の強制移住地域の汚染レベルになるとされていた。
 これはA4で20頁ほどになる詳しいもの。第一原発は、3月11日の地震や津波によって、すべての電源を失い、1、3、4号機で水素爆発が生じ、2号機も炉心溶融で大量の放射性物質が放出されていた。冷却作業は外部の消防ポンプ車など外部からの注水にたよっていて不安定な状態であった。
 とくに懸念されていたのは、1535本の燃料を保管する4号機の使用済み核燃料プールだった。
 最悪の場合は、1~3号機のいずれかでさらなる水素爆発が起きて、原発内の放射線量が上昇。余震も続いて、冷却作業が長期間できなくなり、4号機プールの核燃料がすべて溶解したと仮定した。
 その場合には、宇都宮市、茨城県つくば市など原発から半径170キロ圏内で、土壌中のセシウムが1平方メートルあたり、148万ベクレル以上という、チェルノブイリ事故の強制移住基準に達する。
 東京都、埼玉県のほぼ全域、横浜市まで含めた250キロの範囲が避難が必要なほどに汚染されると推定した。
(毎日新聞12月25日)
4号炉に、原発3基分に相当する核燃料があり、それが溶融して崩れ落ちた場合、一挙に、三つの原子炉のメルトダウンが合わさったような状態になる。その場合には、それらの燃料は圧力容器や格納容器に入っていないのであるから、高濃度の放射能が垂れ流し、空気中へも拡散され続ける状態となり、手がつけられなくなってしまう。
それだけではない。そのような強力な放射能がある状態となると、隣接している1~3号炉にも近づけなくなり、それらもさらに燃料が高温となり、水素爆発、あるいは水蒸気爆発が起こる可能性がたかまる。もしそうした爆発が起これば そこからの莫大な放射能が関東全域を覆うことになって、3500万の膨大な人間が避難するということになれば、それは日本全体の大混乱となってしまうだろう。
そのような恐るべき可能性をはらんでいた4号炉は、電源がなくなって、核燃料を入れてあったプールの水が沸騰し、空だきとなる直前に、4号機内で起きた水素爆発の衝撃で、核燃料プールの横の別のプールの水が流れ込み、そのために、空だきを防ぐことができたという。
これは全くの偶然的出来事のゆえであった。これがなかったら、日本の運命が大きく変わっていたとも言える重大なことなのである。
こうした危険性を内蔵しているのが、原子力発電なのである。ほかのいかなる産業や事故においても、このような膨大な規模での破壊や、数千万人の住む地域が住めなくなるなどということはあり得ない。
このような、恐るべき事態をはらむ原発を止めることなく、さらに巨額の費用を投入して安全にすればいいのだ、などという人がいる。いかに人間が安全に考えようとも、定期的な点検と補修のときに、じっさいに高い放射線を浴びつつ作業を行うのは、下請け工事を請け負っている会社の作業員である。
人間が完全に物事をすることなどあり得ない。交通事故一つ考えてもわかる。だれも、交通事故を起こして怪我しようとは思わないが、それでも人間の弱さゆえに、どうしても運転ミスが生じて事故は起こる。
どんな状況でもそれは変わらない。今までにも繰り返しあったように、じっさいは何らかの異常や事故があっても、それを軽微なものとしたり、隠したりすることが当然考えられる。巨額の費用をつぎ込むほど、何らかの事故になるとまたその修復に恐ろしく費用がかかる。そして、当事者たちは、重い責任を取らされる。
このように、重大な事故が起こると、大変な問題になることゆえに、できるだけなかったことにしようとする。そのために、不正が行われ、職員が真実を話さなくなる。こうしたことが重なっていくと、次第に積み重なり、事故があっても正しく報告もせず、推進の意見ばかりをいうようになる。
やらせメール事件を見てもわかるが、人間はどんなに机上でよいプランを作っても、金や権力に弱く、名誉心の強い人間であるから、自分たちの欲望をとげるためには、どのような裏道をも考えだしてしまうものであり、決して予想通りには行動しないのである。
これがまた新たな事故の温床となる。
福井県の高速増殖炉「もんじゅ」は、莫大な経費をかけて造ったが、もう15年ほども故障で運転できない。しかもその間、毎日なんと、5500万円ほども巨額の費用が、維持するだけに費やされてきた。そうしたなか、ようやく運転を再開したが、まもなく2010年8月に、炉内中継装置という33トンもの機器を落下させた。そのため、10ヶ月ほどもかけて、ようやく落とした機器を引き上げたが、そ引き上げ作業のためだけに、何と17億5000万円という巨額の費用がかかっている。 このようなことのために、引き上げ工事のさなかに、担当の要職にある人間が、自らの命を断ってしまったということがあった。
このように、本質的に危険なものを、巨額を投入して安全なものにしようとしても、当然のことながら次々と難問が生じてくるのである。 このようなことから考えても、これほど危険なものをより安全になどという学者や電力会社、あるいは政治家の言い分を信じることはできない。そうした主張こそが、現在の計り知れない悲劇を生み出したのである。
多くの被災で苦しむ人たちを救うためにも、さらにこれからの日本の前途を考えるなら、直ちに、こうした原発の推進を中止すべきなのである。
(「いのちの水」2012年1月号)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.png原発と核武装                  201111 609号より

原子力発電をなぜやめるべきなのか、それは大事故が生じたら、大規模に、しかも長期にわたってさまざまの意味で人々の生活を破壊していくこと、さらに放射性廃棄物は何十万年も管理が必要だというほかのいかなる産業廃棄物とも異なる問題があるからである。さらに、原発の建設のときから、莫大な金によって原発が建てられる地域の人々の心がむしばまれ、その地域が原発の多額の金によって麻薬を飲むように原発からの金がなければやっていけなくなる病的状況に陥ること、さらには原発関連の巨額の金に関連したさまざまの不正が行われること等々多くの理由がある。
福島原発事故からもうじき8カ月になろうとしているが、新聞やマスコミ、あるいは現在では多数が出版されている原子力発電関係の書籍でもわずかしか取り上げられていない問題がある。
それが、原発と核武装の関連である。
1969年の外務省「内部文書」として、外交政策企画委員会が作成した『わが国の外交政策大綱』というのがある。そこにはつぎのように記されている。

「核兵器については、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘(せいちゅう=妨げ)をうけないよう配慮する。」
この外交政策企画委員会は4回開催され,そのうちの2回は、当時の愛知揆一外務大臣が出席して発言もしたゆえに外務大臣の下でこの大綱が作成されたことが明らかであるという。
この文書で述べていることは、要するに核兵器をいつでも造ることができるような能力を保持しておくということであり、原子力発電の推進はそのためでもあった。
日本で初めて商業用原発が稼働し始めたのは、茨城県東海村に造られた東海発電所で、それは1965年のことであるから、この外務省の文書が作成されたのは、その4年後となる。
このように、はやい段階から、日本では、原発が核兵器を造るための潜在的な準備とも位置づけられていたのである。
もともと、原発が生まれたのは、アメリカの核兵器開発によって原爆が造られたことにその淵源がある。原爆は、広島、長崎において数十万人が命を奪い、さらにその後何十年という間、徐々に体の深刻な異常やガンによる苦しみにさいなまれる人を生みだしていった。
そのような恐るべき核兵器の拡大と維持を目的として原子炉が次々と造られていった。原子力発電は、「原子力の平和利用」という、人々が受けいれやすい発想を取り込み、巨額の費用も投入して、原爆、水爆などの核兵器の増大とともに原子力発電も増えていくことになった。
はじめから、原発は、人々の豊かな生活のためのエネルギーを生み出すためとか、平和のためなどという発想で造られたのではなかった。それは、人類の存亡にかかわるような破壊力をもつ核兵器の増産をかげで支え、維持するために原子力発電というのが生まれたのである。このような原発の起源からして、それは闇の性格を帯びていたということができよう。
日本に原子力発電が導入されることになり、当時としては巨額の予算がいきなりつけられたのは、1954年3月である。
その年のはじめに、日本学術会議のなかに新たに作られた原子力に関する委員会において、原子力に対する学者の態度を確固としたものとする必要性が議論され、そのためのシンポジウムが開かれた。
科学者たちは、まだアメリカとソ連との核兵器開発競争が激しい時代であり、平和利用といってもさまざまの困難があり、戦後の貧困な日本の状況ではそのための学術的な資料も乏しく、原爆の被災を受けた日本は特別に平和利用ということが確立されないかぎり、原子力の研究などにとりかかれないという状況があった。
しかし、そのような科学者たちの真剣な議論がはじまったばかりのとき、突然そうした科学者たちにもまったく何の話もなく、2億3500万円が原子炉を造るための費用として、ほかにウランの調査費や開発のための費用その他で合計3億円という当時としては、驚くべき巨額の予算が国会に提出された。この予算提出のことは、科学者だけでなく、報道機関や関係するさまざまの行政機関にも全く知らされず、公聴会などを通して専門家を含めた国民的議論をすることもなく、抜き打ち的に出された。その予算をつくったのは、中曽根康弘を主とした数名であった。
当時は、戦後10年も経たないころであり、日本は、戦後の荒廃した生活の再建に精一杯の状況であり、原子力に関して国会議員たちもほとんど詳しいことは知らなかった。そのときから、半世紀以上を経た今日でも福島出身の有力政治家が、原発の事故があっても数週間もしたら回復できるなどと思い込んでいたほどであるから当時の状況は推して知るべしである。
中曽根は、それ以前にアメリカに出向いていて、そこでアメリカの核兵器の製造や原子力発電のことなどに接して日本にもそれを取り入れようと考えたのである。
その取り込み方があまりに突然だったので、当時の日本では、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一らとともに代表的物理学者の一人であった武谷三男は、つぎのように語っている。
「何かわけの分からぬ格好で原子炉予算を出すのは非常に奇怪で、茅さん(*)がラジオの座談会で、中曽根氏にそのことをいうのかと思ったら、茅さんは中曽根氏に敬意を表するだけで、一向にその話をしない。…ぼくからみると茅さんは何だか政治家の前に頭を下げるだけがすべてであるという感じを受けた」と語っている。 (「死の灰と戦う科学者」岩波書店1972年)

*)茅誠司は当時の東京大学教授。

原発が日本に取り入れられた最初の段階からこのように「奇怪」なかたちで始まったのであり、その原発にまつわる奇怪さは現在に至るまでずっと続いてきた。
あたかも魔力あるもののように、政治家も、学者もマスコミや文化人、教育関係者も裁判所も圧倒的多数が、原発を認め受けいれる方向へと引き込まれていったのであった。
そしてその魔力が生み出したものは、すでに日本が保有する多量のプルトニウムや放射性廃棄物の膨大な蓄積となって日本人の前に立ちはだかっているのである。
 現在、日本にはプルトニウムは45トンほどあり、長崎原爆は8kg程度のプルトニウムで造られたと想定されているから、日本には約4000発を超えるほどの核兵器を造る能力を持っていることになる。
(保管されているプルトニウムには、核分裂性のものが67%程度としての計算。)
このように、原発を原爆などの核兵器を造るための予備的なものとして考えることは、原子力の平和利用というのが言われだしたころからすでに存在していた。
1956年から16年間ほど
原子力委員となっていた有沢広己(*)が、その委員を辞任する際に、「どういう風にしたら原爆を造れるか、というごく基礎的な研究ならやってもいいのではないか、という話が再々あった。もちろん断固拒否しましたが…」と述べていたというから、原子力平和利用を隠れみのにして、核兵器の開発を考えるということは初期から見られたと考えられる。
*)東京大学教授、経済学者。
そして、現在もなぜ、非常な困難がある高速増殖炉にこだわってきたのか、その理由はすでに述べてきたような軍事目的がその原子力発電の最初の段階からつきまとっているからである。
日本の高速増殖炉である「もんじゅ」は、1983年に設置許可がおりてから30年近い歳月が経っているが、その間1兆円ほどにも達する巨額が投入されてきた。(年平均で三百数十億円にもなる。)
そして、1995年には危険なナトリウムがもれ出て火災を起こすという重大事故が発生し、以後14年半もの長い間、休止していた。そしてその間も、毎日平均して5500万円という巨額の費用が維持費として使われていたのである。
さらに、ようやくその長期の復旧工事を終えて去年再稼働したと思ったらすぐにまた、炉内中継装置の落下事故が起こり、再び停止。その機材を取り出すのに10カ月を要したがその復旧費に9億4000万円という巨額を要するなど、発電もできず何の益ももたらさないまま、長い年月にわたって国民の税金が多量に投入されてきた。
この高速増殖炉というのは、世界で初めて原子力を電力にした最初の原子炉で、それが1951年のことであるから、もう60年も経っている。すでにアメリカは、1983年に高速増殖炉から撤退しているし、イギリス、ドイツ、フランスなども同様である。それほど高速増殖炉を扱うのは危険であり、困難だからである。
このような技術的な困難がともない、かついままですでに莫大な費用が投入されてもなお一向に稼働する見通しが立たないようなものになぜかくも、歴代の自民党政府や現在の民主党などがその維持にこだわるのか、それはすでに述べたような軍事目的という別の隠された目的が背後にずっとあるからなのである。
憲法9条を廃止して自衛隊を正式な軍隊にして、戦争のできる国にする、ということもやはりずっと以前から主張する勢力がある。そうした勢力が原子力の平和利用を隠れみのにして核兵器を持って武装するということを考えている人たちがとくに自民党を中心に相当いる。
2002年、安倍晋三官房副長官(当時)が早稲田大学の講演会で「小型であれば原子爆弾の保有も問題ない」と発言したことがある。そしてこのことについて当時の福田官房長官が「私個人の考え方から言えば持てるだろう」と、日本の核兵器保有は可能としたが、こうした考え方は自民党政権が以前から主張している立場でもある。
元首相だった麻生太郎が外相のとき、2003年におこなわれた新聞のアンケートで「核武装を検討すべきだ」と答えていたり、 今年7月に石原都知事が、「核兵器は持つべきだ」などと発言している。石原も自民党政権のときに環境庁長官や運輸大臣をつとめたが、こうした核武装論は自民党内でずっと以前から存在して現在も続いている。
このように、原発の問題は、日本が憲法9条や非核三原則を堅持していくかどうかの問題と深くつながっているのであって、ここにも、軍事への強い関わりのゆえに、原発が莫大な費用を用いて投入されてきた背景がある。
軍事費に関しては、東北大震災という国家的な大災害が生じて節電だけでなく、国家公務員宿舎の建設を中止したり、公務員の給与の引き下げなどいろいろな無駄をはぶいて、増税もやっていく…というのに、膨大な軍事費の削減をして震災被災者や福島原発で被災した人たちのために用いようという主張は、まったくといってよいほど新聞、ニュースなどに出てこない。
今回の福島原発の大事故の淵源をたどると、こうした軍事との深い関係が浮かびあがってくる。軍事兵器とは要するに人の命を奪うものであり、それを当然のこととして肯定する考え方からは、いかに被害が大きくとも原発を続けようとする考え方に通じるものである。
戦争も核兵器や原発も、弱い立場の人間を顧みないで、強者がそうした弱者を圧迫し、踏みつけていくという本質を持っている。
こうした考え方と対極にあるのが、キリストの真理である。武力や金の力、権力のいかなる力によってもできない人間の魂を変革すること、そうして「傷ついた葦を折ることなく、消えかかっているともしびを消すことなく」(イザヤ書42の3)、それらに新たな力を与えて再生、復興させる本質を持っている。
日本に、大地震、大津波、そして4基もの原発が事故を起こしそのうち3基が炉心溶融という大事故を起こして何十万人という人々に大変な苦しみを与えていること、そのような特別な出来事が生じたのは、この原子力発電と軍事、核兵器の武装といった方向が根本的に誤りであることを示そうとされる神の大いなる警告だと受け取るべきなのである。
目に見える世界においては、エネルギーの浪費を止め、さしあたりは天然ガスや石油などを効果的に併用しつつ、神の創造された太陽光、風の力、地球の熱、太陽エネルギーによって持ち上げられた水によって起こされる水力等、自然エネルギーと言われるものを可能な限り多用し、さらに、私たち人間の本質たる魂の生きるエネルギーのためには、私たちの罪から立ち返り、やはり神のものである、聖なる霊とみ言葉の力を受けつつ生きること、その方向への転換こそ今後の人類の目指すべき道なのである。
(「いのちの水」2011年11月号)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.png燃え移っても気づかない人々― 原発の輸出      201110 608号より

現在福島では多数の人たちが困難をきわめた生活を強いられている。

それにもかかわらず、民主党の幹部は、原発を海外に輸出しようとする方向を変えない。

民主党の前原政調会長は21日、朝日新聞などのインタビューに応じ、「日本の原発の安全性に対する信頼は揺らいでいない。輸出はしっかりやるべきだ」と述べ、野田政権でも原発輸出を引き続き推進する考えを示したという。

福島の原発による災害による苦しみがずっと続いているというのに、そして今後何十年もそうした苦しみが続くと予想されているにもかかわらず、はやばやとその危険な原発を途上国に輸出することを表明したのである。

このようなことは、本来原爆を史上初めて投下されて何十万人という人たちが犠牲となり、その後も何十年という長期にわたって人々を苦しめてきた核の恐ろしさを世界に伝えていくという日本独自の使命を放棄することになる。

それどころか、経済的な利得のためには、相手国がその原発やそこから生みだされる可能性の高い核兵器の拡散につながり、原発と核兵器の双方の危険性をもたらし、大事故の場合には、取返しのつかない悲劇を相手国にもたらすことになるといった危険性を何ら考慮しない態度である。

とくに日本が原発を輸出しようとしているトルコやベトナム、インド、リトアニアなどの途上国には、政情不安定な国々も多く、また原発の恐ろしさや放射能の危険性に対する知識などきわめて乏しいと考えられる。医療もすすんでいない。

そうしたところで原発の大事故が生じるなら、その犠牲になる人たちは適切な医療もほどこされずに、長い間苦しまねばならないことになるだろう。

トルコに対しては、福島原発の事故のあと、菅直人首相の原発輸出戦略の見直し発言があり、トルコは、日本からの原発輸出に関する交渉を打ち切る方向になったことが報じられていた。しかし、最近トルコは、日本との交渉を継続する意向を日本政府に伝えてきた。日本の新しい政権が原発輸出の方針を固めていることで考えを変えたのである。

リトアニアについては、日立製作所が東芝などとの受注競争にうち勝って、7月に、リトアニアの原発建設の優先交渉権を獲得したが、そのために数千億円も出資するという。

これでは、原発を「売る」というより、「買う」のだという批判もでるほどである。こんな巨額の金で、福島の大事故から半年しかならないのに、自らの会社の利益となるならなんでもする、といった態度だと言えよう。それだけの巨費があるのなら、どうして自然エネルギーの開発に注がないのかと思う。

相手国が原発の大事故のとき、どうなろうと、福島の被害者がどんなに苦しんでいようと、そういうことは眼中にないのだろう。

また、中米パナマで、各国の環境保護団体でつくる「気候行動ネットワーク」が、10月はじめに、日本は、福島の原発事故にもかかわらず、地球温暖化対策を理由に原発を輸出しやすい仕組みづくりを求めたとして、日本政府に、交渉で後ろ向きな発言をした国を対象とする「化石賞」という不名誉な賞を贈ることになった。

(「化石賞」という風変わりな名称は化石燃料を指すとともに、化石のような古い考え方との揶揄も入っている。)

このネットワークは、日本に対して、「国民に途方もない苦難をもたらした技術を途上国に輸出し、見返りに排出枠を得ようとしている。不適切かつ無責任で、道徳的に誤っている」と批判したという。

この他、日本企業が受注を目指しているのは、ベトナムやヨルダンも含まれる。

ベトナムについては、8月末に、日本原子力発電は、日本企業の原発建設へとつながる調査契約を結んだ。

インドは、原子炉6基、出力計990万キロワットの大規模な原子力発電所を建設する計画が進行中である。これが完成すると、東京電力の柏崎刈羽原発(821kW)を抜き、世界最大となる。

この建設に対する反対運動は以前からあったが、福島原発の事故を受けて、いっそう反対運動が強まり、今年4月にデモがおこなわれたが、その際、警察が警棒で女性や子供の参加者を殴ったため、デモ隊が暴徒化し、投石などで警察側にもけが人が出たという。デモ隊の数十人が拘束されたという。

その地では漁業に重大な影響があり、原発近くの住民にとっては死活問題となるゆえに、強い関心を持ち、反対運動を続けているが、今回のデモは、4月中旬に地元住民に通告なく重機やセメントなどの資材が予定地に持ち込まれたのがきっかけだったという。

このインドの原発建設についても、日本の日立製作所は、去年の7月に、インドの原発6基もの受注獲得を目指していると表明している。

このように、途上国において原発の増設は次々と計画がされ、日本はそれらと深く関わろうとしている。

このような日本の政治、企業の方向性、その考え方について、思いだされるのは聖書の次のような箇所である。

…その炎に囲まれても、悟る者はなく

火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。(イザヤ書42の25)

これは日本の現在を思い起こさせる。

日本は、大地震、大津波、そして4基もの原発の大事故という世界の歴史でも前例のない災害を受けた。

それは日本全体にいわば火が燃え移っているのに、それに気づかないで、さらに原発を再稼働しようとする多くの政治家や役人、電力会社、原発関係の科学者等々がある。

今回の事態は、まさに、このままの方向を突っ走っていけばどうなるか、ということに対する日本全体、さらには世界の方向性に対する大いなる警告なのである。

それはまさに、今から2500年ほども昔に一人の預言者が神から受けた啓示と重なってくる。これだけ多くの人たちの苦しみを目の当たりにし、現在も続いているにもかかわらず、立ち止まることもせず、大震災以前の考え方をそのままに、まず経済、まず金儲け、まず自分の栄誉、といった発想を、日本の有数の大企業のトップが露骨に表している。

このような考えかたに関して、とくに日立製作所の社長(巨費を投じて外国に原発を輸出しようとしている)に対し、評論家の佐高信*は、「旧式ロボットのような人間」であり、「既得権益にしがみつく後ろ向きの会社の典型のトップらしい発言」と強い言葉で、批判している。

この企業の社長のような考え方は、時代のしるしを見ることもせず、弱者を見つめることもなく、この世での正義とは何であるのかを見る、といった最も必要な視点を持ち合わせていない人の発想だと言えるだろう。

*)佐高は、その著書「原発文化人50人斬り」(毎日新聞社刊)において、原発が安全だという神話を吹聴してきた人物として、中曽根康弘(元首相)、渡部恒三(民主党最高顧問)、与謝野馨(前財務大臣、若い時、中曽根の秘書。)、梅原猛(元国際日本文化研究センター所長)、小宮山宏(元東大総長)、評論家の田原総一郎など、多くを大胆に批判している。

また、自民党は、原発の事故以来、菅直人前首相が、脱原発を前面に出して総選挙をするかも知れないと考え、そのために、これまでの原発を推進していくというエネルギー政策の見直しの委員会を設置して8月末までに新たな政策の中間報告をまとめる予定であった。

しかし、新しい野田政権になって、首相は原発の再稼働や原発の輸出に前向きになっているとみて、結論を来年まで先送りすることになったという。

脱原発の世論もそのうちに弱まって原発容認の方向へと変ると見込んでいるのである。

また、公明党もやはり8月中に原発縮小の新しい方針をまとめる予定であったがこれまた先送りとなっている。(毎日新聞10月5日)

こうした政治家の発想は、まったく選挙対策だけを考えているのであり、要するに自分たちの党がより多くの票を獲得して権力を得たいという低い次元にある。

福島の人たちの苦しみを引き起こした根本の原因が原発であり、その原発を止めることこそ最大の方策であるということを全く考えていない。

日本に、これほどの大災害、大事故が連動して生じているにもかかわらず、その事故で苦しむ人たちへの援助すらほんのわずかしか進んでいないにもかかわらず、なおも、その災害を引き起こした原発を用いて利益を得ようとする政治家、会社経営者、学者たち、そして、なおも原発を続けようとする半数ほどの日本人…、いったいいつになったら目が覚めるのであろうか。

…災いだ、助けを求めてエジプトに下り

馬を支えとする者は。

彼は戦車の数が多く

騎兵の数がおびただしいことを頼りとし

イスラエルの聖なる方を仰がず

主を尋ね求めようとしない。(イザヤ書31の1)

これは、次のように言い換えることができよう。

ああ、災いだ、原発の利益を求めて画策し、あるいは外国に渡り

ただ儲けが多くなることだけを支えとする者は。

彼は、原発の数が多いことを誇りとし

正義の神、聖なるお方を仰がず

主を尋ね求めようとしない。…

また、次のような箇所もある。

…災いだ、偽りの裁きを下す者

彼らは弱い者の訴えを退け

私の民の貧しい者から権利を奪い

夫を失った女を餌食とし、

みなしごから、かすめ取っている。(イザヤ101

数千年も昔のこの時代、社会保障という制度もなかったから、夫を失った女(寡婦・やもめ)は、働く場がなくなり、子供を抱えて著しい困窮に陥るのが常であった。親のなくなった子供もまた、生きることができない状況に置かれることがあった。このため、最も困窮している人たちの例としてしばしばあげられている。

原発は確かにこのイザヤの言葉のように、裁判も安全を繰り返して御用学者側につくように仕向け、原発は絶対安全だという神話を正しいとして偽りの決定をしてきた。

また、農業や漁業でつつましい生活をしていた人たちから農地や漁場を奪い、また多額の金をばらまくことによって人の心を寸断し、弱い立場の人たちを苦しめその労働力を使い、彼らの健康を奪ってきた。

こうした真理に反するやり方は、必ず時が来たら裁かれる。現在も日本全体に、いつまで眠っているのか、という上からの叱責がなされている。

天よ、聞け

地よ、耳を傾けよ、

主が語っておられるからだ。(イザヤ書1の2)

(「いのちの水」2011年10月号)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.png原発推進と地縁、血縁              20118 606号より

渡部恒三氏は民主党最高顧問であり、厚生大臣、衆議院副議長などもつとめた。彼は福島県出身で、次のような原発推進をずっと昔から語っている。
「福島県には日本の原発の30%近くがあるが、そこで育って暮らしているこの私がこの通り元気いっぱいなのだから、原子力発電所を作れば作るほど、国民の健康は増進、長生きし、厚生行政は成功していくのではないかと思う」(198415日)」
これは彼が厚生大臣のときの発言である。原発を作ればつくるほど日本全体、世界全体の危険性が増大していくにもかかわらず、政治の要職にある人がこのような誤った発言をして、人々を惑わしてきたのである。
また、この席で、「日本のエネルギー問題を解決する最大の課題は原発の建設であるというのが私の政治哲学だ」とも言ったという。
原発こそは最大の解決策だということを厚生大臣の立場からも宣伝し、さらに、原発が安全だという主張を通り越して、原発を作るほど健康が増進、長生きすると、いまから見ると笑い話のようなことを語っている。
この渡部氏の甥が現在の佐藤福島県知事であり、前任者の佐藤栄作久元知事(現知事の佐藤氏とは血縁関係はない。)が反対していた、福島第一原発にプルサーマルを導入することを、安全性等に関する議論は県議会でもほとんどしないで、決めたという。
渡部氏がこのように、原発を健康増進、長生きなどといってまで宣伝したのは、なぜか。
大事故をおこした福島第一原発を作ったのは、東京電力の当時の木川田一隆社長(福島出身)であった。
その木川田と、渡部は同じ県の出身でもあり親しい関係があった。そして渡部が代議士になったとき、木川田社長は、彼の後援会長になることを打診したほどだった。
このような地縁、血縁、そして社会的地位や権力のつながりのゆえに、原発というきわめて危険性の高いものが、安全だ、国に絶対必要だ、という主張へとつながっていく。
なお、渡部氏は東北大震災のあとでは、次のように言っている。
「恥ずかしながら、いままで全面的に原発の安全性を信頼してしまっていた。事故があっても一週間くらいで解決するんじゃないかと。
こんな状況が続いていることに責任を感じている。」
原発の地元県出身であり、何十年も原発と向かい合ってきたはずの民主党最高顧問、衆議院副議長、厚生大臣といった肩書を持つ人物が、このような認識であったことにあらためて驚かされる。
原発の爆発という非常事態がおきても、一週間ほどで解決、とは何という認識だろう。
チェルノブイリ事故では、25年経ってもなお、30キロ四方は住むことができず、燃料体にちかづけば即死するほどの放射能がいまも放出されていること、さらに原発の廃棄物は、何十万年、百万年も管理が必要だという実態から、あまりにも無知な状況を知らされる。
この渡部氏は、これほど地元の人たちが原発で苦しんでいるにもかかわらずなおも、原子力発電を推進する立場に立っていて、震災後の5月結成された地下式原子力発電所政策推進議員連盟の顧問となっているのである。
この議員連盟は、主として自民党、民主党の議員らによって今年の531日に初会合がなされている。これは新聞報道でも小さな記事であってほとんどの人は気付いていないと思われる。
この議員連盟の会長 平沼赳夫(たちあがれ日本)顧問は谷垣禎一、安倍晋三、森喜朗、民主党の鳩山由紀夫、渡部恒三、羽田孜、石井一、そして亀井静香(国民新党)といった名前が見られる。
このように、首相経験者が多く、両党の重要な人物がなおも原子力発電所にこだわっているのがはっきりとわかる。
原発があらゆる方面に甚大な害悪を及ぼしつつあり、原発のゆえに、何万、何十万という人たちが苦しみ、悲しみに巻き込まれているにもかかわらず、それに目をふさいで、新たな原子力発電を地下に作ろうとする新たな集まりを作るという彼らの判断には驚かされてしまう。 彼らは眠っているのだ。原発の危険性が見えないのである。
私たちもうっかりしていたら眠ってしまう。こうした社会的、政治的な問題に対してだけでなく、それ以上に、キリストに対していつも目覚めていたい。そして聖霊を受け、日々の力と洞察を与えられていきたいと思う。

低い線量の放射線を受けても害はないのか

放射線を大量に受けると即死、それほどでなくとも多くの放射線を浴びると、それによって骨髄にある造血細胞が異常をきたし、白血球と血小板が作られなくなる。そのために出血し、免疫力も弱くなって、1~2ヶ月で死に至る。また、小腸の細胞が破壊されると養分は吸収されなくなり、下痢や細菌感染といった状況となってひどくなると死に至る。
このようになるほどの大量の被曝は、今回の福島原発では生じていないと考えられている。
しかし、もっと低い放射線量がどのように人間に影響するのか、にいたっては、大きな見解の差がある。
低線量放射線の影響については、先日のNHKテレビでも触れていた。
「生涯に200ミリシーベルト受けると、ガンのリスクが 1%上昇、100ミリシーベルト受けると、0.5%、ガンになるリスクが上昇する。しかし、100ミリシーベルト以下は、統計上明らかでない、影響は明らかでないとして、専門家は安全としている。」
と説明していた。
しかし、女性のキャスターのこの「専門家は安全」と言っているというが、そのように言っていない専門家が多数いるにもかかわらず、そのような学者、国際機関があるのにまったくそれには触れず、安全だという専門家たちの一方的な発言を流していたのである。
 これは当然、そのキャスターの背後にいる番組作成の担当者、そしてその上司たちの意図が反映された報道の仕方だということになる。
なぜ、このように一方的な主張だけを放送するのか。それは、低線量放射線を受けても安全なら、そこに住んでいる人たちもそのまま避難勧告とか補償などせずにすむ。福島県内外のホットスポットといわれるかなり線量の高いところでも、年間100ミリシーベルト以下では何ら問題ない、ということになると、そのまま放置しておいてよいということになる。
だから特別な対策も避難もいらない、原発保障もそのような被曝量の人には必要がない…
これは、東京電力や政府、そして原発を推進したい人たちにはとても好都合な結論なのである。
要するに、政治的あるいは経済的な要因を第一とするために、人間の本当の安全を後回しにするという発想が背後に感じられるのである。
 以前に、NHKテレビでやはり原発特集番組があったが、そこでもそのような原発推進の意図を感じさせる番組作成があった。例えば、原発にかんする海外の状況ということで、出てきたのは、その前に国民投票で95%という圧倒的な賛成で、原発をやめることになったイタリアのことには全く触れようとせず、脱原発としてはドイツだけを取り上げ、原発推進のフランス、アメリカの二カ国を詳しく報道するという内容であった。
 イタリアのように原発反対ということを日本の国民の多数が言い出さないようにという意図、そして安全な原発にして推進するというフランスやアメリカの状況を映像で流すことで、一般の多くの人には、原発は推進するのが世界の大勢なのだという意識を知らず知らずのうちに持たせるという背後の意図を感じさせるものであった。
 今回の、NHKの低線量被曝に関する報道においても、次にあげる国際的な専門家の主張を一部でも見れば、このようなNHKの番組構成の仕方には、はっきりとした意図を感じる。
100
ミリシーベルト以下の被曝でも安全とは言えないという学者・専門家の団体などいろいろある。例えば、今仲哲二・京都大学原子炉実験所助教は、次のように述べている。

「よく基準値異常なら危険で、以下なら大丈夫、と考える人がいる。年間1ミリシーベルトとか、20ミリシーベルトとか、さまざまの基準値が議論されている。
しかし、こうした数値は、科学的根拠に基づいて直接導かれたものではない。
ガンになるリスクのある放射線にどの数値まで我慢するかは、社会的条件との兼ね合いである。」 (6月29日付の朝日新聞)
これは新聞記事なのでごく簡単に書いてあるが、これだけみても放射線にかかわってきた学者であってもまったく異なる見解があるのがすぐにわかる。
発ガンが増えるかどうかのしきい値があるかどうか、ということが以前から問題になっている。100ミリシーベルト以下だと、発ガンのリスクは増加しないというのが、しきい値ありの主張で、そうでなく、わずかな線量を受けてもリスクは増加するという主張が、しきい値なしという主張である。
右に引用した、今仲哲二はしきい値なしの立場である。
放射線の専門家の一人、近藤誠氏(慶応大学病院 放射線科医師)は、この100ミリシーベルト以下の放射線の影響に関して次のように言っている。
「年間100ミリシーベルト以下の低線量被曝で、発ガンが増えるかどうかには、しきい値の有無が論点になっています。…意見が分かれたのは、低線量被曝に関するデータがなかったからです。しかし、データがないから安心、とは一概に言えません。
ICRP(国際放射線防護委員会)は、20年以上前から、100ミリシーベルト以下なら安全というしきい値なしの立場に立っている。
近年、低線量被曝のデータが充実してきました。原爆被爆者調査を続けたところ、1050 ミリシーベルト領域でも、直線比例関係があることが示唆されたのです。」
また、15か国の原発作業従事者40万人の調査で、平均被爆量が 20ミリシーベルトしかないのに、発がん死亡の増加が認められました。
結局、現在では、しきい値なしは、ほぼ事実と考えられます。
ですが、政府は、100ミリシーベルト以下はただちに健康に影響を及ぼす線量ではない、と主張しています。―将来的にはガン死亡がありうる―、という意味ではないでしょうか。」
そして、次のような強い表現で、低線量放射線の害を語っている。
「テレビで、100ミリシーベルト以下は問題ないといまだに言っている科学者は、嘘をついていると言わざるを得ない。100ミリシーベルト以下でも影響はある。100ミリシーベルト以下の低線量で人体に影響を残すのは事実で、アメリカやヨーロッパでは常識になっている。
だから、100ミリシーベルト以下では、何も放射線の影響がない、などといっている人は、おっちょこちょいか、詐欺師ってことになる。」
放射線の専門家、といってもこれほど大きな主張の隔たりがある。
生物学者にも、やはり次のように低線量放射線の危険性をはっきりという人もいる。
「放射線はDNAを確率的に損傷させていくので、被曝量とガンの発症率はほぼパラレルになると思われる。被曝量は、少なければ少ないほど安全だ。
20
ミリシーベルト以内なら安全だなどというのは真っ赤なウソだ。日本政府を信用してはいけない。」(池田清彦・早稲田大学教授。「週刊朝日」4月7日号)
今仲氏と同じ、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏もその著書で次のように述べている。

…たとえ被爆量がそんなに多くなかったとしても、後々に被害が出ることがあります。5年経ってから、20年経ってから、あるいは50年経ってから被曝が原因でガンになってしまう人たちが出てくることを、広島、長崎の原爆者が教えてくれました。…(被爆量が少ないから)全く影響がないなんてことは絶対に言えません。
「人体に影響のない程度の被曝」などというのは完全なウソで、どんなにわずかな被曝でも、放射線がDNAを含めた分子結合を切断・破壊するという現象は起こるのです。
学問上、これは当然のことなのです。これまで、放射線の影響を調べてきた国際的な研究グループはみんなこの事実を認めています。アメリカ科学アカデミーのなかに放射線の影響を検討する委員会「BEIR」 があって、それが2005年に報告をだしました。その結論部分にこう書いてあります。
「利用できる生物学的、生物物理学的データを総合的に検討した結果、委員会は以下の結論に達した。
 被曝のリスクは低線量にいたるまで直線的に存在しつづけ、しきい値はない。最小限の被曝であっても、人類に対して危険を及ぼす可能性がある。」(「原発のウソ」小出裕章著6970頁)
 このような低線量の被曝なら安全どころか、内部被曝の場合、かえって意外にも危険性が増大する、という研究が知られている。
 これは、ペトカウ効果として知られている。1972年、カナダ原子力委員会の研究所で、液体のなかに置かれた細胞は、高い線量の放射線を繰り返し当てたより、低線量放射線を長時間、放射することによって容易に細胞膜を破壊することができる、ことを実験で確かめたというものである。
 このことをさらにすすめて、ピッツバーグ大学放射線科のスターングラス教授は、次のような結論を得た。
・放射線の線量が非常に低い低線量では、生物への影響はかえって大きくなる。
・低線量被曝の健康への危険性はICRPが主張する値より大きく、乳児死亡の倍になる線量は4.5ミリシーベルトである。…
 この研究に対しても反論がいろいろ寄せられた。モデルとした細胞膜に起こった放射線損傷が生体の細胞膜で起こるかどうかは明らかでない…等。
 こうした研究に対して、広島での被曝後 60年にわたって内部被曝の研究を続けてきた医師は次のように述べている。
「広島、長崎で爆発後市内に入った多数の内部被曝者を長年継続して診てきた私は、彼らの経験したいわゆる急性症状と数カ月から数年、10数年後に彼らに発症したぶらぶら病症候群は、内部被曝による低線量放射線による影響と診るのが最もよく説明できるので、私はペトカウ効果と、それをもとにしたスターングラスをはじめとする多くの学者、研究者の低線量放射線有害説」を支持してやまない。(「内部被曝の脅威」肥田舜太郎、鎌中ひとみ共著 筑摩書房刊 9099頁より)
 さらに、次のような研究もある。
 放射線損傷を受けた細胞が、そうした放射線を受けていない近くの細胞にシグナルを発して、近くの細胞をガン化させるというものである。これは、α線やX線について多くの研究がある。この作用は、まだ、低線量のX線、γ線によるリスクとの関連は確立されていない。
 また、少しの放射線を受けるのは、リスクがないか、むしろ、有益であるとする研究もある。これがホルミシス効果といわれるものである。いくつかの動物実験では、低および、中線量の放射線が寿命を延ばすことができるという潜在的なホルミシス効果が示唆されているが、相反する実験結果も得られており、現在のところよくわかっていない。
 また、すでに触れた、アメリカ科学アカデミーは、低線量放射線も有害であるとする主張は、「じっさいの疫学研究結果によって裏付けられた科学的事実である」としている。
(「低線量放射線と健康影響」医療科学社発行、4647頁、106頁)

 以上のように、一般向けに発行されている書籍においても、この100ミリシーベルト以下の低線量放射線が、ガンのリスクを高めるのかどうかについては、さまざまの研究が掲載されている。
 このように個人的な研究や体験だけでなく、国際的な研究組織の結論があるにもかかわらず、低線量放射線を受けても安全であるという主張だけを放送するのは、どう見てもバランスを欠いていると言わざるを得ない。
 原発そのものが、東大の大学院教授といった肩書の人たちだけでなく、たくさんの専門家たちもみな、安全だと言い続けてきたが、現実はまったくそうでなかった。
専門家という人たちもいかに権力や金、または時代の風潮に流されていくかを露呈してきたのである。しかも、その専門という知識を用いて一般の大多数の人たちを欺いてきたのであった。
 そのことからして、特定のテレビ局の言う「専門家」が言うからといって全面的に信頼できないのは当然のことである。
 戦前にしても、政治や軍事、あるいは教育などさまざまの専門家がいたが、あの太平洋戦争を侵略戦争だ、確実に負けるなどと明言した人はきわめて少なかった。
大多数が、あの戦争を聖戦だとか、天皇を現人神であるとか信じこんでいたのである。
 NHKの番組では、原発爆発前の20倍~30倍の内部被曝を受けているが、安全だ、と検査をした専門家が言ったということも放映されていた。
しかし、そもそも放射線の影響は、莫大な数の体内分子に放射線が衝突し、原子をとりまく電子をはねとばし、そこから分子同士の結合を断ち切るというところにある。
遺伝情報を持っているDNAの鎖があちこちで切断されても、それがみんな元通りに修復されているとか、だれが断言できるだろうか。
個々の人に、どこのDNAのどの部分にいかなる破壊が起こったかなど、一人一人調べることなどできるはずもない。
二重のDNAのらせん状の鎖の二つのうちの一本だけが切断されても、もう一つの正常なDNAによって修復されるということがある。しかし、二本のDNAがともに損傷を受けると修復に間違いが生じやすくなり、変異の原因となる。
 このようなことは全く偶然的で、体内に放射性物質が入ったとき、そこから出る放射線によって、いかなる損傷を受けていかに修復されたか、それは決して正確にはわからない。
 例えば、原爆の直後に広島に入った人も全部が同じような症状となったのでない、その発症のときも数年後から50年後までにも広がっているし、その症状も千差万別である。放射線以外の物質の発ガンにおいても、例えばタバコを何十年とすっていても発ガンしない人もあれば、若くして肺ガンになる人もいる。人それぞれに修復能力が異なるということもある。
 生活環境や食生活などすべてがかかわってくる。
 こうしたことを考えると、一般的に、低線量だから安全だ、というようなことを断言できるはずがないのである。
 じっさい、宇宙から注がれる放射線(宇宙線)は微量であるが、それによっても突然変異が生じうるのは広く知られているところである。 
 原発がなくとも、宇宙線や体内に取り入れたカリウム40、大地や建物から放射される放射線を受けていることも最近ではかなり知られている。しかし、そうした放射線は、何十万年と生きてきた地上の生物はそれを乗り越えて増え広がるだけのDNAの修復能力が与えられてきたと考えられる。だからこそそうした放射線を受けても痛くも、熱くも何も感じないようになっている。防護する必要がなかったからだと言えよう。
 しかし、そのような過去何十万年という長期の間、地上の生活にはかつて存在しなかった放射線を、従来のものに加えて今後の長期間浴びるようになったのが、現在の日本の状況である。
 人間を含め、動物は、火のような熱、寒さ、とげなどによる痛み、有毒ガス、渇き、空腹など、生命の危険につながるようなことに対しては、手を引っ込める、体を身震いさせて発熱させる、痛みから逃れる、息がつまりそうになる、空腹感やのどの渇きがひどくなり、必死で水を求め、食べられるものを口にする…といった防御策を本能的にとるように作られている。
 しかし、放射線については、致死量のような強い放射線を浴びても、そのときには何ら痛みも熱い感覚もない。
それは人間や動物が創造されたとき、原発事故や、原爆のような大量の放射線を浴びるような状況を想定されていなかったということになる。
 それほど、放射線は反生命的だと言えよう。
 日本において、すでに膨大な放射性廃棄物を造り出してしまったゆえに、このようなものを出さないようにすることはもはやできなくなっているが、今からでもそのような子孫末代まで害悪を及ぼす原発、核兵器というものをなくするというのが、あらゆる経済や政治的な思惑をはるかに超えてなすべきことなのである。(「いのちの水」20118 606


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-1617.pngふたつの太陽             20117 605号より

福島原発の大事故以来、自然エネルギーの重要性がますます浮かびあがっている。その中で、最も世界的に今後とも重要なのが、太陽エネルギーだといえよう。
風力は、風の弱い、あるいはほとんど吹かないような地方では使えない。水力発電は、山がない平坦な国や雨量の少ないパレスチナのようなところでは難しい。地熱発電は火山や温泉のない地域では可能性が少ない。波の力を用いる発電は海がない国ではできない。
しかし、太陽のあたらない国はない。
太陽エネルギーの利用というと、太陽電池のように直接に電気に変えることや、太陽熱温水器で直接に熱に変えるようなことをすぐに思い出すことが多い。
また、核反応を用いるエネルギーというと、原発とただちに連想する。
しかし、実は、はるかな遠い昔から、人間は、核反応から生じるエネルギーを用い、また太陽エネルギーを貯えたものによって生きてきた。
それは、今の生活がなされているのは、みな太陽エネルギーによるからである。太陽がなかったら、たちまち冷えて氷点下の世界となる。(月の世界では大気がないから、太陽のあたらない裏側ではマイナス170度という凍りつく世界である。)
その太陽は、核融合(原子力発電は核分裂)という反応によって生じる莫大なエネルギーを放出しているのであって、それゆえに、人間も地上の生物たちもみな太陽の核反応のエネルギーによって生きているということになる。
それだけではない。私たちが日々食べている食物、米や野菜、肉、魚といったあらゆる食物は実は、太陽エネルギーが貯えられたものなのである。
今後、太陽エネルギーの利用が急激に増えていくにつれ、その他の分野も含め、ますます蓄電池の重要性が増大する。
だが、食物こそは太陽エネルギーが、実に効果的に貯えられたものなのである。
光合成ということはきわめて重要な化学反応であり、学校の理科教育で必ず教えられる。光のエネルギーを用いて、大気の二酸化炭素と地中から取り入れた水を結びつけてブドウ糖とする化学反応である。そのブドウ糖を数十万個も結びつけたものがデンプンである。また、そのブドウ糖をもとにして、地中から取り入れたさまざまのミネラルなどをも使い、タンパク質や、脂質などさまざまのからだを構成する物質を作っている。
私たちが米やパン、あるいは肉や脂肪などを食べると元気がでるのは、それらに埋め込まれている太陽エネルギーを用いているからである。
食事をしているとき、太陽エネルギーをからだに取り込んでいるのだ、体を動かしているとき、じっとしているときでも、心臓や肺、血液の流れなど多くのエネルギーを使っているが、それらはすべてもとをただせば、食物からきており、その食物に含まれるエネルギーは太陽エネルギーなのである。
このように、毎日の生活は、じつはあらゆる人間―ほかの生物も含め―太陽のエネルギーによって生きているということになる。
自然エネルギーの利用ということで、従来の大きなダムによる水力発電とは別に山の小さな川に水車を取り付けて発電する小規模な水力発電などもが注目されている。
こうした水力発電もじつは、太陽エネルギーを用いていることになる。なぜかというと、谷川の水が落下するエネルギーを使うのが水力発電である。その水を、何が高いところまで引き上げたかというと、それは太陽エネルギーだからである。
太陽の熱によって地上の水が蒸発し、大空まで引き上げられる。それが冷やされて雨となって降ったのが谷川の水だからである。
このように、原発の大事故によって一段と脚光を浴びるようになったが、太陽エネルギーそのものは、人間の生活と不可分に結びついてきたのである。
こうした科学的な意味での太陽の重要性は、その光がなくなったらたちまち生活できないということは子供でもわかるほどの明白なことであり、その存在はきわめて大きいのは、古代からすでに熟知されていた。それゆえ、世界のたいていの国々で、太陽を神のようにあがめるということが行われてきた。日本も天照大神というのは、太陽を神としたものである。
しかし、聖書ではそれほどに重要な太陽すら、さらに重要なもののしもべのようなものとなっている。
それは聖書の最初の創世記にすでに記されている。

…はじめに神は天と地とを創造された
地は混沌であり、やみが淵のおもてにあり、神の風が水面を吹きつのっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
神はまた言われた、「天に光があって昼と夜とを分け、地を照らす光となれ」。そのようになった。(創世記1の115より)

ここで意外なのは、まず闇と混沌なただなかに、「光そのもの」が創造され、ついで植物がその光によって育つように創造された。そして太陽の創造は、その後なのである。このように、聖書においては、明確に太陽は、神秘的な神々などでなく、植物のような被造物の一つにすぎないとされている。
ここには、目に見える太陽そのものがいかに絶大なはたらきをしているとしても、それにもかかわらず、その大いなる太陽にその光や熱を与える存在こそ、根源なのだ、という明確な認識がある。
言い換えれば、肉眼では見えない霊的な光こそが重要であり、その光を創造した神こそが究極的な存在だということを示している。
太陽は目に見える世界を照らし、熱を与え、あらゆる植物や生物のいのちを支え、成長させている。
それと同様に、目に見えない光、霊的な太陽というべきものがあるのをこの聖書の最初の記述は暗示しているのである。
聖書の重要な内容のなかに、預言書がある。それらの言葉を神から直接に受け取ったのが預言者である。時代の大多数の人たちが混乱し、なにが本当に重要なのかわからなくなって、隣国エジプトという大国の軍事力に頼ったり、近辺の国と同盟したり、真の神ではない、人間の造り上げた神々に頼ったりという混沌と闇にあって、神の光と言葉をはっきりと受け取り、人々に命がけで語り続けた人たちである。
彼らは、通常の人間よりはるかに深く、明確に神の言葉を聞き取った。それゆえに、だれもが不動のもの、永遠のものと思い、周囲の国々もまた神々と思っていた太陽すらも、変質し、限界があることを知らされていた。
目に見える世界の絶大な力の根源である太陽、そのようなはたらきを目に見えない世界に持っている存在こそは、霊的な太陽である神なのだ、ということを預言者は神から示されていた。
…昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、
主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。
あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。
主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。(イザヤ書601920

ちょうど、目に見える太陽が、あらゆるものを支え、生かし成長させていくように、霊的な太陽たる神は、私たちのいっさいを支え、成長させるものなのである。
そしてその霊的な太陽が人間のすがたをとってこの世界にきてくださるということもまた、預言書に記されている。

…しかしわが名を恐れるあなたがたには、正義の太陽がのぼり…その翼には、いやす力がある。(マラキ書 42

主の名(主ご自身)を敬意をもっておそれる者には、正義の太陽たるキリストが来られる。キリストが注ぐ聖なる霊は太陽の光が四方に瞬時に届くように、翼のごとく、自由にあらゆる方面に行き渡る―それゆえにその光を翼と表現している。その光はいやしの力、罪からのいやし、病のいやしの力を持っているという。
光を翼とたとえているのは聖書のなかではこの一カ所である。それほど、この旧約聖書の最後の書の著者である預言者マラキは、キリストからの光がつばさのように世界をかけめぐるのが啓示されたのであろう。
そしてこの預言者から、450年ほど後に、じっさいにキリストが現れた。
そして、主イエスは、「私はいのちの光である」と言われたが、それはまさに霊的な太陽であることを宣言されたということができる。
私たちの体は、太陽エネルギーの貯えられた食物によって支えられ、また霊的な部分、魂といったものは、目に見えない太陽といえる神とキリストによって支えられているのである。
そして、揺れ動く地上のエネルギー政策や原発から生み出される数々の問題に巻き込まれることなく、いかなる動揺も混乱も闘争もない永遠的な存在たる太陽―神とキリストこそ、私たちの究極的な希望と力の源なのである。


買収される学者、中学3年の原発への思い

原発の危険性、その廃棄物の重大な問題点などについて、科学者はごく一部の例外を除いてほとんど触れてこなかった。
有名科学者として断然影響力のある、ノーベル賞学者はどうか。10人あまりの現在も活動している学者たちのうち、明確な原発に関する反対意見を表明しているのは、わずかに化学賞を2010年に受賞した根岸英一氏だけである。
根岸氏は、現在アメリカの大学教授であり、50年以上もアメリカでの生活をしているゆえに、こうした姿勢をとることができているのだと言えよう。
しかし、朝日、毎日など日本の新聞ではこのことは全く報道されていない。ノーベル賞学者のような権威ある科学者が、原発をやめるべきだ、などといわれると、影響力が大きいから報道が抑制されているとしか考えられない。
根岸は次のように述べている。
「…原発に頼ることを、この先はやめるべきです。…放射性物質漏れのようなことがあった場合に、私たちがしなければならない心配事が多すぎます。しかも原発がある限りそれから逃れることができない。それだけ人を悩ませる原発に頼るのはおかしい。…
今より原発をふやすことは絶対に反対します。結果的に何十年かかるかわかりませんが、原発は減らしていくべきでしょう。… 原子力を使うときの一番の問題は、大きなリスクがあるということ。いままでは、これといった産業がない町の住民が言いくるめられて、原発の建設を容認させられてきました…。電力会社は、1回、2回は説得に失敗しても、3回目には認めさせて原発を作ってきたのではないか。…
原発ではどう処理しても高レベル放射性廃棄物が残ってしまう。にもかかわらずそのまま動かし続けていることもおかしい。」
このように、はっきりと原発の問題点を指摘して、原発をやめるべきを明言している。それだけではない。以下のように、東京大学の原子力関係の学者のあり方にも厳しい批判を浴びせている。
「東大の教授は、東京電力に買収されています。そうすると公平にものを言えなくなる。だから、絶対に買収されてはいけません。私は買収されていないから、どこでも何に対しても自由に発言できるのです。」(講談社「週刊現代」5月21日号)
このように、「買収」という言葉までつかって東大の原子力研究者を批判しているのはそれだけ明白な事実をつかんでいるからである。
原発の爆発当時、NHKによく現れていた東大の教授が所属する東大大学院工学系研究科には「寄付講座」名目で約10年間に東電から計5億円の金が渡されていたことが報道されている。
年間平均で、5千万円である。さらに、5760万円が「受託研究費」の名目で日本原子力研究開発機構からも出ていたという。
大学側から本来の研究費が出るのとは別にこのような、巨額の金を受けているとなれば、その発言はまさに、根岸英一氏が言うように、「買収」されたゆえの発言である。
こうした事実がありながら、NHKはいかにも最も信頼できる学者であるかのように、頻繁に解説させていたのである。
このように、原発宣伝の道具として利用されてきた東大などの学者たちとは異なり、科学の知識も原子力の歴史などもおそらくほとんど知らないであろう中学生が、原発を公然と公衆のまえで語ったという意外な事実がある。
ニュース週刊誌「アエラ」(朝日新聞出版)の6月13日号に、中学3年生の女子(グラビアアイドルという)の原発への率直な気持ちが紹介されていた。芸能人・有名人たちが原発の危険性や問題点をはっきりと表明することはタブーとなっているから、福島原発の大事故以来、4カ月になるが、有名俳優や歌手、ピアニスト、野球やサッカー、大相撲などのプロスポーツ選手などが、原発の危険性についてはっきり表明したというのは全国紙でも読んだこともないし、耳にしたこともない。
私はその名も知らなかった山本太郎という俳優が、原発反対デモに加わったことが原因となって、所属事務所をやめることになったという記事は目にしたことがある。
芸能人、有名人たちは原発に反対するどころか、原発の安全を宣伝することに利用されてきたのであった。
そのような実態だからこそ、この中学生の意見を長くなるが、引用しておきたい。
-------------------
… ところで
汚染が広がっているようですね。 折角育ててきた野菜を捨てなければならなくなった農家のみなさん
テレビで見ていて、それぞれ本当に大変な状況だなと思います。 一体汚染はどこまで広がるのでしょうか。そして、いつまで続くのでしょうか。 テレビでは、やたらと「安全性」ばかり強調しています。「風評被害」に惑わされないで、「冷静」に対応してと。
汚染された野菜を食べ続けても安心です。 汚染された水を飲み続けても安心です。
個別の数値は低くても、ただちに健康を害することはない? 量だったとしても、
微量とはいえ空気中の放射性物質を吸い続け、微量とはいえ、汚染された野菜を食べ続け、微量とはいえ、汚染された水を採り続ければ 微量+微量+微量 イコール→ しかも、そういう生活が1週間続くのか、1カ月なのか、1年なのか3年なのか 計算私あまり得意じゃないけど 影響があることくらい、バカな私でも分かるのに!!
テレビは「冷静に対応してください」しか言わない。
挙句の果てには、少量の放射線なら体に良い?(笑)とか、
「想定外」の1000年に一度の大津波に、これだけ原発は耐えたのだから、やはり日本の原発はすばらしい?
とか、意味不明の原発絶賛
訳の分からないコメントを言う専門家とかww 想定外だった、想定外だったって みんな口をそろえて言うけど、原発は、事故った時 甚大な被害がでるから、「想定外」はあってはならないと思うんですケド…
私言ってること間違ってますかね。
しかも、最近は、原発の危険性を言う人は、危険をあおっていると、世の中は叩く傾向にあるようで、これは何かおかしい流れだと思うのは私だけでしょうか??
実際は大したことないのに、大げさに報道する
→風評被害を生む報道
実際は大変深刻なのに、大丈夫なように軽く報道する
→ これは何て言うんですか???
私は冷静ですよ。危険をあおっているわけでもありません。
テレビはこんだけ安全大丈夫って言い続けているのでそのうち、「放射能を跳ね返す!! スーパー健康法」とか
「放射能にも負けない!! 体質改善げんき体力づくり」特集とかやりだすんじゃないでスカ???
そんなの、いくら頑張っても跳ね返したり、勝ったり出来ませんから。なんてったって、相手は放射能ですからね。
今の現状、私が思うのはテレビが言う、安全大丈夫ではなく、やっぱり「危険」なのだとおもいます。
どーんと爆発したり、急に明日何万人何十万人が死ぬということはないかもしれないけど、
5年、10年の歳月を経て、じわじわ私たちを蝕むとおもいます。原発のリスクとリターンを考えたら、あきらかに、リスクが高すぎる。原発のデメリットに比べたら火力や水力のデメリットなんて可愛いもんだと思う。
でも、日本ではいまだに、原発見直しの声はそれほど上がってこない。むしろ、よく聞かれるのは「原発はやっぱり必要」という声。おとなしい国民性なんでしょうか。それとも。
前回の記事で、私が原発について否定的なことを書いたら、コメントメールだけでなく、事務所にまで抗議意見のメールがきました。
どんだけ、原発をかばうんだよぉ。
どんだけ、日本て、平和なんだよぉ。
どんだけ、日本て、良い人(人が良い)が多いんだよぉ。
まだ自分自身が被害に遭ってなくて、直接危険が迫ってないから
そんなことが言えるのかな??
私なんて、こんな現状を見ると、もう、これっぽっちも信用できないけど。
じゃあ、原発廃止したら、足らない分の電力はどうするんだって、言うけど、それの答えは簡単。
今の原子力に頼らない電力の生活に社会全体のシステムを変えればいいのです。
変えれますよ。
電力を絞れば、変わらざる得なくなる。初めは不便でも、やがて人間はそれに順応していく。そんなことで、経済が落ち込んだりしても、生活水準が下がっても、全然OK!! 原子力の事故で世の中がごちゃごちゃになるより はるかに、リーズナブルで経済的。
私の家の近くに、数年前、大きな病院が出来たんです。駐車場少なくて、いつも満車だったので、駐車場の「混雑解消」のために、更に、駐車場増やしたんですよ。そしたら、どうなったとおもいますか???
駐車場不足が解消したのはほんの数カ月だけで、駐車場が増えたら、その分、みんな車で来る人の数が増えた!! 結局、駐車場増やしたのに、駐車場不足は今も、全然解消されていない。 電力もこれと似ていると思う。ただ単に、容量増やせば、良いんじゃない。人間の欲望ははてしないから。
なんで、東京の電源を遠く離れた福島県につくるのか???
東京という大都会の電力を支えるために、犠牲になった福島県。 住み慣れたふるさとを、先祖代々受け継いだ、家や田畑や牧場を、放射能で汚されて、福島県のみなさん本当にかわいそうだと思います。
これだけの状態になって、それでも、原子力が必要だって言ってる人は、失礼かもしれないけど、ある意味もう、麻薬中毒みたいなもんだと思う。 あと、自分の意見だと思い込んでいるだけで、実は、原子力は世の中に必要なんだというだれかのPR 刷り込みだということを気がついてないんじゃない?
よく麻薬中毒だった人が、インタビューとかで、少量の麻薬なら、自分の仕事の効率上げるためには必要悪なんだみたいな風に、自分に言い訳していた。とか言ってたの思い出します。
自分がどんどん蝕まれているのにまったく気がつかない。
いや、気づいているんだけど、やめられない。やり始めた以上、やめたら、禁断症状でて、もう、後には戻れないwwみたいなww しょーもない、B級アイドルの私が偉そうなこと言えた立場ではないことは、よくわかってる。
電力関係原発推進関係に携わっている人も多いから、アイドルとしての立場の私は、賛成か反対かはあまり明確にしない方が、本当は良いのかも知れない。
ラブ&ピース がんばろう日本!
みたいなことだけ言ってた方が、アイドルとしては活動しやすいのかもしれない。
こういうこと書くと、ファン減るかもね。でも、減ってもいいや。私は中途半端なことは言いたくない。
人にどう言われようが、叩かれようが、はっきりと、自分はこう思っているんだって言うことを言いたい。その結果、ファンが減っても、私は仕方ないと思ってます。
原子力、それはまさにパンドラの箱です。檻から解き放たれた 猛獣。 いつ襲いかかるか分からない猛獣と同居出来るほど 私は神経太くない。 あなたはそれでも、便利と引き換えにこれからも、パンドラの箱を開きつづけますか???
今、日本は、色んな面で考え直さないといけない時に来てるんじゃないですか? ( 藤波 心さんのブログより)
(2011年7月)


リストボタン放射性廃棄物の処理の困難            20116 604号より

三月十一日の大震災の発生以来、大地震と津波による建物や道路の破壊を復旧することは、さまざまの困難に直面しつつも、道路は車が通行できるようになり、ガスや水道、電気なども回復し、仮設住宅も建てられる…といった状況にみられるように、確実に前進している。
 しかし、原発はこの事故が、人間生活のあらゆる方面において、いかなる破壊的影響をもたらし続けるのか、ますます深刻さが拡大しつつある。
 あれほど大きな地震が起こったからといってあとは小さな余震で終わるだろうとは言えない。
 2004年の12月26日に発生したスマトラ沖大地震のマグニチュードはM9・1~9・3であり、死者行方不明者は30万人を超えた。この大地震はそれだけで終わらず、3カ月後に、250キロほど離れたところで、マグニチュード8・7の巨大地震が発生していて、多くの死者を出した。さらに、3年ほどのちにもその地域でマグニチュード8・4の大地震が生じている。
 このように、今回の東日本大地震の後も数年は大地震がその付近で発生する可能性があるから、福島原発がさらなる破壊を受ける可能性が残っているのである。
 もし、今後大きな地震が発生して、現在部分的に破損している圧力容器や格納容器、関連機器など、原発のさらなる破壊によって、注ぎ続けている水が大量に漏れることによって冷却ができなくなり、数千度という高温となり、さらなる水素爆発あるいは水蒸気爆発などが起こると、福島原発一帯が濃厚な放射能で汚染される。
 そのような爆発が生じなくとも、地震による原発のさらなる破損によって大量の高濃度の放射能が外部に放出されることになると、作業員も近づけなくなる。もはや何らかの対策を実行することもできず、4基もの原発が制御できなくなって、世界でいかなる国も経験したことのない状況が生じる可能性がある。
 そして大量に大気中に放出された放射性物質は、台風などの強い風雨、その風向きによっては、数千万人が生活する、関東一帯が放射能汚染され、水も飲めなくなり、生活に重大な困難をもたらす可能性をはらんでいる。
 東京、関東一帯に放射能が降り注いだら、数千万人はどうなるのか。日本全体が、かつてない困難な事態となるだろう。
 現在は、全力をあげてメルトダウンしてしまった核燃料を冷却することを続けているし、そのような破局的な事態を生む大地震が生じる可能性は少ないと言えようが、大地震が生じないという保証もない。万一の場合には、このようなかつていかなる国も経験したことのない事態が生じる可能性をはらんでいるのであり、そもそもそのような恐るべき事態をはらむ施設、しかも、解決方法もないのに、何十万年も放射能を出し続ける危険物質を生み出すものを造り続けるということ自体、根本的に誤っているのである。
他のさまざまの事故や災害は―あの太平洋戦争末期の空襲による荒廃のように、いかにひどい破壊状態であっても、確実に少しずつ復興されていくが、原発はきわめて復興が難しい。土壌や水が降り注ぐ放射能によって汚染されたら、いくつもの府県にわたって何十年、いやそれ以上にわたって住めなくなるからである。
 じっさい、チェルノブイリ原発の事故から25年がすぎたが、その地帯一帯は30キロ四方が居住禁止となっている。事故のあった原発そのものを撤去することもできず、その燃料体に近づくと、死んでしまうほどの強い放射能を持った状態である。その原発を覆う巨大なコンクリートもたくさんの穴があいて、そこから放射能は漏れだしているし、それら全体を再度覆うさらに巨大なコンクリートで覆う必要が生じている。
 緑豊かな田園地帯、新緑のしたたるような自然ゆたかな山々のひろがり、そうしたうるわしい大自然は、放射能が降り注ぐことによって一転して、恐ろしい放射能を含んで農業のできない田畑となり、山野、また森となり、樹木草木の一つ一つの葉も放射能が付着し、あるいは根から放射性物質を吸収して放射能を持つようになり、森は放射能のあふれる森となり、野草たちも放射能に満ちた物質と化してしまう。また清い川の流れも汚染され、地下水も汚染され、飲料水も使えなくなっていく。
 上空からの写真では、広大な福島の大地のわずか一点のような原子力発電所、それがひとたびこのように爆発して、放射能の管理ができなくなるとき、途方もない領域を危険と不安に満ちた大地とし、そこの生活を次々と破壊していく。その悲劇的事態はとどまるところがない。
 しかも、原発から出る膨大な放射能を含む廃棄物は、処理の方法がない。何らかの方法で放射性物質を吸着したとしても、その吸着したものから放射能をなくすることはできず、また、捨てることもできず、新たな濃厚な放射能をもった物質が生み出されることにもなっていく。
 何らかの処理をすれば、それで事が済むのでなく、何十年、何百年どころか、何十万年にわたってあらたな問題が次々と果てし無く生じていくのが原発の事故の深刻な事態なのである。
 こんな恐ろしい可能性を持っている原子力発電という仕組みを、このような大事故が起こったにもかかわらず、なおも、推進しようとか、数年先になって浜岡原発も再稼働しようと考えている人たちが相当いる。
 ほかのいかなる科学技術の産物も、この原発の燃料や廃棄物ほど困難な問題はほかにない。
 このような反人間的な施設をこれからも継続、増設などを唱える学者、政治家、一般の人たちが多くいる。そういう人たちは、福島原発の近くに住んで、農地や農業を奪われ、家族関係を破壊され、また自分の家にもいられず、不便とプライバシーのない、かつ、子供や孫が数十年先にガンになることをおびえつつ、いつまで続くか全く分からない避難生活の場所で生活してみたらいいのである。
 放射能は人間の力では消すことができない。消す方法がないのに造ってしまったのである。目に見えない放射能が何十万年と続く。そしてさまざまなものを壊していく。清い大地の中にも地下水にも、空気の中にも、放射能は入っていく。そして、放射能の被害はガンの発生など、何十年も後になっても現れる。このように、原発の大事故となると、水、農地、山野、人間の体など、至る所が放射能のために汚染されていくから復興は著しく困難となる。
チェルノブイリ原発の事故ののち、1週間後の1986年5月までに、30km以内に居住する全ての人間(約11万6000人)が移転させられた。さらに、原発から半径350km以内でも、放射性物質により高濃度に汚染されたホットスポットと呼ばれる地域においては、農業の無期限での停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、結果として更に数十万人がホットスポット外に移転した。(ただし、避難指示に従わないで、そこに住み続ける人たちが、30キロ圏内に200人以上いるとのことである。)
 現在も30キロ以内は居住禁止区域となっている。写真週刊誌の記者がじっさいにチェルノブイリ原発に行って、測定したところ、事故のあった原発に3キロという所まで近づいて、草むらの放射性量を測定すると、東京の平常値の数百倍、また別の場所では、爆発した原子炉関係の破片などが飛び去り、それが草むらに残って、通常値の5000倍もの放射能が測定された。
 そして、爆発した原子炉に残されている、溶けだした燃料が固まった状態のものは、近づくと即死するほどの放射線が、25年経った今も放出されているという。(FOCUS 4月20日号他による)
現在は、原子炉を冷やすということが中心に毎日のようにニュースでも報道されている。冷やさなければ数千度にもなって、水素爆発など何らかの爆発が生じる可能性が高まる。 そして、さまざまの周辺の物質を溶かし、膨大な放射能を出し続ける。そして、原子炉の建物以外に、土や地下水、大気、海、などさまざまのものが放射能で汚染され続けていく。
しかし、他方では、放射能で汚染された物質が絶えず増え続けていくことはどうすることもできない。
福島第一原発で放射能で汚染されたがれきや土砂を処理するのに、70兆円から80兆円、場合によっては100兆円前後もかかるのではないかという結果が出たという。
高濃度に汚染された土砂は1トンにつき1億3500万円もかかり、現在も高い濃度に汚染された水は、増大し続けている。すでに10万トン近い汚染水が福島第一原発内にある。この汚染水を処理するためには、1トンで1億円と言われている。
このような調子であるが、そもそも今後どれだけ汚染された土砂、山林、田畑、原発内で毎日生じている高濃度に汚染された水、また海の汚染…が増大していくか誰にもわからない。
だから、こうした放射性物質の処理にどれだけの費用と年月がかかるのかも、本当のところは誰にもわからない。
現在、増え続けている福島第一原発関係の汚染された水や物質だけでない。今回の事故以前から、放射性廃棄物を処理するとして青森県六ヶ所村に作られた施設がある。それは、全国の原発から送られてくる高濃度に汚染されたおびただしい放射性廃棄物からプルトニウムを分離して再度使うという目的のためであった。しかし、そのプルトニウムを使うはずの高速増殖炉の原型炉もんじゅは、故障して使えなくなっている。
もんじゅは、1968年に 高速増殖炉の実験炉「常陽」の後継として、原型炉の予備設計開始されてから、もう43年にもなるにもかかわらず、まだ全く使える状態にない。燃料には使用済み核燃料にふくまれるプルトニウムと燃え残りのウランからつくられた混合酸化物燃料(MOX燃料)が利用される。
1995年に最初の発電が行われたが、わずか3カ月あまりのちに、きわめて危険なナトリウムが噴出して火災を起こすという重大事故が発生した。それ以来、16年ほども何の発電もできず、それにもかかわらず、修理と維持管理費としてこの長い年月の間、平均すれば、毎日5500万円という巨額を使ってきた。そしてようやく再度発電を始めたが4カ月も経たないうちに、原子炉容器内に重さ3.3トンの機器が落ちてしまい、その回収も不可能と判明し、ふたたび長期の運転休止となっている。その落下した機器を出すには、大がかりな工事が必要となり、そのためにまた巨額が必要とされることになった。
その他いろいろの理由のため、高速増殖炉を使って、燃えないウラン238を使ってプルトニウムを生み出し、それを使って発電するというこの計画はすでに破綻している。
青森県六ヶ所村にある再処理工場もうまく稼働しないために、現在は、容量が3000トン放射性廃棄物を貯蔵できるが、すでに、2800トンも廃棄物がたまった状態にあり、各地の原発もそのために、放射性廃棄物を捨てるところがないために、それぞれの原発内に置いている。それはもう置くことのできる容量の66%にも達しているという。
膨大な放射性廃棄物が刻々と各地の原発でたまりつつある。しかし、それをどこにも持っていくところがない、捨てるところもない。放射能をなくすることもできない。そのような行き場のない、高濃度の放射性物質がこのままたまっていったらどうなるのか、誰もその本当の答えを知らないまま、進行中なのである。
このような、無責任なこと、必ず大量に生じる放射性廃棄物の処理すらできないのに、大量に原発を造り続けてきたのである。
そしてその多量の廃棄物は、ずっと冷却を続けなければ高熱となり、周囲のものを溶かしつつ、放射能を出し続けていくから、ずっと冷却が必要である。これらの膨大な廃棄物の容器や水で冷やすという仕組みが大地震などによって破壊されるとき、それらは原発の事故と同じような大問題となる。
さらに、現場で働く作業員が受ける大量の放射能の問題がある。表面に現れないが、肝心の原子炉の復旧にかかわっているのは、放射能を大量に浴びつつ作業している作業員の被曝がいちじるしく増大しつつあり、それらの人たちは現場から退かねばならない。とくに経験のある人ほど、許容線量を超えていくから現場から離れざるを得ない。残った人たちは作業に詳しくないことが多いであろう。
強い放射能のために、10分とか20分とかわずかの時間しか作業に使えず、別の人に作業をバトンタッチすることになる。原発のことがよく分かっていない人も作業員として集めているという。
この現場の作業員が年間の許容線量を次々とオーバーしていくから、それらの人たちは現場から離れることになる。
作業員の不足こそ、今後の原発処理の大きな問題点として浮かびあがってきた。作業員がいなかったら、どんなに専門家が指図しようとも現実には作業ができなくなる。
そして、作業員は各地の原発からも集めてきたが、福島原発で放射線を規定以上浴びた者は、その年はもはや自分のもといた原発に帰っても働くことができない。というわけで、経験ある作業員を次々と福島に連れてきて働かせるということにも大きな限界がある。それで、日本全国から、ときには一般の建築作業だと欺いて現場に連れてくるといったことまで発覚している。
このように、だれも予想もしなかった事態が次々と生じていくのが、この原発問題なのである。チェルノブイリよりはるかに深刻なのは、日本では世界にほかに例のない、地震の多発地帯であるうえに、数千万という人口が密集している日本の心臓部といえる東京を中心とする大都会が200キロ余りの近くにあるということである。
こうした最悪の場合には、日本全体が破局的事態となる、ということは意識的に隠してきた。日本では、過去何十年という間にわたって、原発の避難訓練はわずか3キロ~10キロの範囲でしかやったことがなかった。それは、もし30キロの範囲で避難訓練するとしたら、そんなに広範囲の大事故が起こるのかという疑問が住民のあいだに生じて、絶対安全といった主張は間違っているのではないかと疑いを生じさせるからだった。
自分たちの権益を守るために、電力会社、国、科学者、行政、教育、そしてごく一部の例外を除いて裁判所に至るまで、何もかもが、真実を覆い隠して、ひたすら安全と唱えてきたのである。
それゆえに、私たちは最悪の場合、いかなる事態が生じうるのかを、いつも確認し、それだからこそ、原発を継続することは決してしてはならない、という強い主張をしなければならないのである。
(「いのちの水」2011年6月号)


リストボタン原発の限界             20115 603号より

福島原発が大事故を起こしたが、その原因が想定外の大地震とそれによる大津波で、電源装置が水につかってしまったからだと言われる。だから、電源装置を十分に高いところに設置しすること、高い防波堤を築くことによって防ぐことができるとしている。
中部電力は、高さ12mの防波堤を築く決定をしているという。
首相は、浜岡原発の危険性のゆえに、停止を勧告した。数年かけて点検し、防波堤を築き、電源装置などの安全化などの対策を十分にしたうえでの再開を目指している。
まず今回の福島原発の大事故の原因は、津波で非常用電源が水につかったと言われるが、実はそうでなかったことが専門家によって指摘されている。(*) 津波が襲ってくる前に、原子炉の配管が地震の強い振動によって激しく揺れて破損し、その破損した箇所から高温高圧で大量の放射能を帯びている熱湯が、激しく吹き出した。
それゆえに、原子炉内の燃料棒が大きく露出し、高温となり、放射線の作用やジルコニウムが水と反応して生じた水素によって、水素爆発を起こしたと想定されている。
このように、耐震設計が十分に安全になされていると主張してきた原発が地震によって深刻な打撃を受けていたということなのであり、従来の原発が地震に耐えるとしてきた主張も全面的に成り立たなくなる可能性が高い。

*)田中三彦による、このことに関する詳細な記述が「世界」(岩波書店)今年の5月号134頁~143頁に掲載されている。
田中は、元原子炉製造技術者。福島第一原発の圧力容器設計を担当。著書に「原発はなぜ危険か」(岩波書店)。最近は原発の解説記事やインターネットのYOUTUBEなどでよく見られる。

津波の前に、原子炉が地震によって深刻なダメージを受けていたと考えられるにもかかわらず、産業界ははやくも、「津波対策さえ十分にすれば、日本の原発は安全だ」と主張して、はやくも原発路線の継続を考えている。(毎日新聞53日)
しかし、津波対策をいくら十分にしたとしても、原発そのものが地震に弱いという致命的な問題がある。
これは、次の二つの問題が重要である。
一つは、原発は一般に想像されているよりはるかに配管、パイプが多いということである。強度の振動でそれらが損傷をうけやすい状況なのである。
しかも、配管内の冷却水は、300度ほどの高温、約70気圧もの高圧というきわめて特種な状況で循環しているから、パイプが地震で損傷すれば、そこから激しい勢いでその高温の熱湯が吹き出すということになる。(また、定期点検のときには温度が下がり、そのときの温度差があるからパイプが収縮するため、床に配管を固定することもできない部分がある。)
すでに述べた田中三彦が、今回の事故においてそのような状況が生じたと言っているのである。
しかし、このようになることは、すでに以前から、知られていたのであって、手許にある5年前に発行された書物にも書かれている。
この本には東海大地震で浜岡原発に大事故が発生すると、その放射能で首都圏が壊滅的な打撃を受けるということを記したものである。
原発の配管の長さの総計はどれほどになるのか、そんなことはほとんどの人は考えたこともないであろう。
これは総延長では、80キロほどにもおよび、その溶接箇所は、2万5000箇所にも及ぶという。そのような長大な配管はそこを通る高圧の熱水の高い放射能によって徐々に変質しもろくなっていく。 原発には、そのような構造上の欠陥がある。
さらにそれと関連しているが、そのための定期点検は強い放射能を帯びているその配管のひび割れや消耗を調べるのであるから、作業員たちはわずかの時間、ナットを締めるにも、何人もが交代で走るように現場に行って、少しずつ作業を進めるというほどに、危険な作業なのである。
そのような作業ゆえに、当然その担当者が手抜きをすることが十分に有りうるし、破損の点検なども手抜きすることが有りうるのはだれが考えても分ることだ。
人間とは弱いものであって、疲れていたり、すぐ次の作業員に作業を引き継ぐなら、自分の担当の作業を急いだり、簡単にすませたりすることがあるだろう。
ほかの自動車とかの機械と根本的に異なるのは、数分とか10分とかいったわずかの時間しか持続して使えないような危険な場所がいろいろとあるという点である。
いかに設計上は優れた技術者が作成して安全だと少なくとも理論的にはなされても、実際に原発を支えているのは、現場の作業員である。疲れ、弱さもあり、またその報酬のためだけにその危険な作業に加わっているのであるから、当然間違いもミスも手抜きもある。それを監督する人も、そのような膨大な長さの配管や溶接作業を一つ一つ確認できるはずもない。
ビルや橋の建築においても、手抜きということがよくあり、以前にも耐震設計を偽っていたことが大問題となったことがある。どんなことにもそれは起こりうる。
このように、いかに津波対策をしようと、またどんなに耐震設計をしようとも、なおそこに関わる人間の弱さというものはいかにしても克服ができない。また、機械化していくといっても機械にも必然的にミスが生じうる。長く使っているうちに故障、誤作動のない機械などはあり得ない。
このように、機械そのものも壊れることがあるし、人間も絶えず疲労し、また精神的に疲れたりしていると、これぐらいのことは…と小さな破損なども放置しておくという可能性がある。人間そのものがいわばつねに一種の「壊れる」という状況を持っているのである。
その上に、検査、点検を人間がするのであるから、当然一部の箇所しか見ない、ということも起こりうるし、意図的に簡略化したり、生じた事故を起こっていないとする人間も生まれる可能性がある。
このように、さまざまの点で大きな限界を持っている人間が最終的に関わるゆえに、必ずミスや情報隠し、また金や地位への欲望などによって不正をする等々があちこちで生じることが予想される。じっさい今までにもそのようなことは数多く生じてきた。
例えば、報告を義務づけられた事故だけでも、2007年に23件、翌年08年にも23件、08年に15件もの事故が報告されている。
また、1995年以降だけをとっても、レベル1からレベル4の事故は、11件、さらに内部告発によって発覚した事故も過去35年ほどで、15件ほど生じている。内部告発ということは、よほどのことがないとなされないのであって、まだまだ隠された事故が相当あったと考えられる。 (「原子力市民年間2010 216217頁」七つ森書館発行)
こうした事故もその大多数は一般にはほとんど知られることもなく、テレビなどで繰り返し放映される「絶対安全だ」という宣伝だけが、人々のなかに刻み込まれてきたのであった。
このように、原発は大きな限界を持っている。それは人間が、限界を持っているからなのである。
その人間の限界を深く知るほどに、途方もない大事故が起こったら取返しのつかないような原発はつかうべきでないのがわかる。
人間の限界を知ればしるほど、そのような人間を支え、力を与え、自分の利害を考えないで真実な洞察をする力を与えるお方ー神へとまなざしは向けられる。 神こそは、限界のないお方なのであるから。


原発を許容するに至らせたもの

今回の福島原発の大事故によって、おそらくほとんどの人たちにとって予想もしなかった状況が襲いかかっている。静かな自然や清い大気、水、そしてふるさとや農業、水産業という大事な仕事を追いだされた人たちは、原発のためにこんな状態になって「腹が煮えくり返るようだ」と悲しみと怒りをぶちまける人もいた。
しかし、このような重大な事態が起こりうることは、実は何十年も昔の早い段階から言われてきたー想定されていたのであって、決して想定外でなく、たんに電力会社や自民党、通産省(現在は経産省)、科学・技術者、そしてマスコミ等々が無視してきたにすぎない。
さらに国民の大多数も、そのようなものに安全を信じ込まされてきたのであった。
それなら、どのような過程でこうした「絶対安全」という虚構が形成されてきたのか、その一つの過程を書いてみたいと思う。

次は、一人の学者の書いた記事からの引用である。(「時代の風」毎日新聞 2011年326日)
加藤陽子氏(*)が、自分は原発を必要なもの、安全なものとして認めてきたと、次のように書いている。

*)日本の歴史学者。東京大学教授。専門は、日本近代史。文学博士

…戦争や軍隊について自分が書く時には、自分がそれらを「許容していた」という、率直な感慨を前提として書かねばならない、と大岡(昇平)は理解する。その成果が「レイテ戦記」にほかならない。この大岡の自戒は、同時代の歴史を「引き受ける」感覚、軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察だろう。
 以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発電という言葉に読み替えていただければ、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。
 原発を地球温暖化対策の切り札とする考えは、説得的に響いた。また、鉄道等と共に原発は、パッケージ型インフラの海外展開戦略の柱であり、政府の策定にかかる新成長戦略の一環でもあった。生活面でも「オール電化」は、火事とは無縁の安全なものとして語られていた。これらの事実を忘れてはならない。
私は(原発を)「許容していた」。…

学者が、このようにはっきりと、自分の間違いを告白するということは珍しいことである。この加藤陽子氏は、今年はじめの毎日新聞紙上に次のような内容を書いている。
ここでも、比較的よく読まれていると思われるその著書のなかで書いた記述の間違いを正直に告白し、それまで全く関心のなかったと思われる聖書や内村鑑三に関心を持つようになったことを記している。

… 神や仏は私をよけて通られているに違いない。そう確信できるほど、祈りや宗数的体験とは縁のない暮らしをしてきた。だが、ある一件をきっかけに考えが変わった。神が私に近づいてきたなどと言えば、今度は人が私をよけて通りそうだが・……いやまじめな話、聖書への理解が日本近代史を考えるうえで必須だと悟ったということだ。
きっかけは経済学者のケインズ。第一次大戦後のパリ講和会議にイギリス大蔵省代表として出席したケインズは、ドイツの賠償案の策定にあたっていた。欧州の再興を期すには、報復的賠償を科してはならず、アメリカからの対独援助も不可欠だとケインズは説いた。だが、ウィルソン米大統領はこの提案を拒絶した。憤慨したケインズは「あなたたちアメリカ人は折れた葦だ」とのシブイ言葉を残し、会議半ばでパリを去ったのである。
 このエピソードを「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社)で紹介した私は、[折れた葦]とはパスカルの「人間は考える葦」のもじりで、「考えるのをやめた人」との意味でアメリカを批判したものだと書いた。
これに対し、牧師の方から次のようなご教示をいただいた。 
「折れた葦」とはイザヤ書 36章6節「見よ、今、お前はエジプトという、あの折れた葦の杖を頼みにしているが、それは寄りかかる者の手を刺し通すだけだ」に由来するのではないだろうか、と。 
ここで「折れた葦」は、頼りがいのないもの、との意味で使われている。よって、ケインズのアメリカ批判は、考えるのをやめた人ではなく「まったく役に立たない人」と読むべきなのではないかとご教示くださった。
これは本当にヒヤリとする経験で、無知の怖さを思い知らされた。
悔い改めた私は、昨年から、本当に遅ればせながらではあるが、明治を代表するキリスト者、内村鑑三の全集を読むことにした。
内村といえば、教科書的には、日清戦争に際しては「日清戦争の義」をキリスト教国の欧米列強に向けて書き、戦争を支持するが、日露戦争に際しては非戦論に転じた、との説明で済まされてしまう。
 だが、内村の言葉を実際に読めば、非戦論も人間の言葉のぬくもりとともに迫ってくる。日清戦争の翌年、1896年のクリスマスに書かれた「寡婦の除夜」という詩を目にすれば、内村の変化がいかなる点で起こったのかがよくわかる。冒頭の1連を引く。
  月清し、星白し
  霜深し、夜寒し I
  家貧し、友少なし
  歳尽て人帰らず(後略)

 寡婦とは夫を亡くした女性を指すが、2連以下を読めば、清国艦隊との海戦で名高い威海南や台湾攻略戦で夫を亡くした妻たちだとわかる。家庭の幸福が破壊されるさまを見て、非戦への転換が早くから起こっていたのだった。…(毎日新聞 2011年1月16日)

およそ、名の知られた学者がこのように自分の聖書の理解が乏しかったことを全国紙で述べたということはかつて見たことがない。一般的に日本人は文化人も含めて、聖書の理解が著しく浅いといえる。新聞、テレビなどのマスコミにおいても聖書そのものの真理について語られたりすることはほとんどない。聖書そのものはよく売れても、大多数の人はその意味が分からないままに書棚に積まれてしまうだけのようだ。
それだけに、このようにあからさまに自分の無知を書いているのには、意外な思いを抱いた。 また、そのように書くことができたのは、一つには日本の他の学者たちも、このような誤りには気付かず、ケインズの言った言葉が、聖書のどこから引用されているか、など、まず分からなかったはずで、その意味も理解できていなかっただろうと感じていたからではないか。
他の学者たちならみんな知っているようなことなら、さすがに知らなかったとは言えないであろう。
しかし、そこからそれまで祈りや宗教的なことにはまったく無縁であったのに、「聖書への理解が日本近代史を考えるうえで必須だと悟った」と言われ、さらに遅ればせながら昨年から内村鑑三全集を読むことにしたという。
自分の間違いや洞察の不足などを正直に語ること、そこには真実がある。こうした真実性こそは、学者の命であり、一般の私たちにとっても同様である。
しかし、原発に関わる科学者・技術者たちはそのような真実への軽視があり、逆に金や利得にからめ捕られるという傾向が長く続いてきた。
一般の人々は、政治家、官僚、電力会社や、原発を推進する側の利益に沿って国民を欺いてきた科学者、マスコミ…そうした巨大な力によってだまされてきたのである。
日本のノーベル賞科学者たちは、過去40年ほどをみると、10数名いるが、彼らが、今まで原発の危険性について発言したのはー私の知るかぎりでは、ほとんど目にしたことがないし、今回の大事故という国家的大事件が発生しても同じ科学者として、しかも日本の代表的科学者であるはずの彼らの発言はどこにも見たことがない。
ノーベル賞を受賞するほどの科学者ならば、原子力の専門でなくとも、核分裂などに関する基礎知識があるし、少し学べばすぐにその途方もない危険性は明らかになったはずで、それにもかかわらずなぜそうした科学者の原発に関する発言がないのか不思議である。
彼らも、また自分の研究をするためには多額の費用が必要であり、その獲得のためには担当教授とか文科省とかから嫌われるとそうした費用がもらえず研究に差し支える。それゆえに、このような科学と技術の問題であるとともに政治問題でもある原発のことには触れようとしなかったのではないかと考えられる。
今まで黙っていた者が、事故があったからと当然にその問題性を発言したら、今までなぜ黙っていたのか、という反論が生じるゆえに沈黙を守っているのかもしれない。
その中で、科学者(天文学者)として著名な池内了(さとる)
*が、原発問題について次のように書いている。

…原子力関係の科学者・技術者がネットワークを組み、原発に反対する論調があれば、直ちに回報がまわされる。そして、微に入り、細をうがってその論調を検討し、少しでも間違いがあれば、抗議のメールを集中させるというわけである。
数年前、NHKの教育テレビで、「禁断の科学」という番組に出演したとき、私は愚かにもそのテキストで少し間違ったことを書いた。
彼らは、それをあげつらってNHKに番組を中止せよ、と圧力をかけてきた。(私自身への直接の抗議はなかった)
今後NHKが原子力問題に及び腰になるという効果をねらってのことだと推測される。
公明正大な討論こそ、科学者・技術者が遵守すべきことであって、反対の意見を持つ者やジャーナリズムを萎縮させる科学者・技術者の集団って何なのだろうか。(「世界」岩波書店2011年5月号 5657頁)

*)池内了は、1944年生。京都大学理学部物理学科卒。天文学者。宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授・学長補佐。名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)世界平和アピール七人委員会の委員。大佛次郎賞、講談社科学出版賞選考委員

経済学者、文学者、政治家、芸能界はもちろん、どの分野の人であっても、明確に原発の危険性を語った有名人というのが思いだせない。
原発関係の裁判ですら、そのほとんどは原発推進の人たちの主張を採用してきたのであった。
それほどに、この原発の安全という根拠のない主張が国民に広く浸透してきたのである。
ビートたけし の次のような発言がごく当たり前のように浸透していたのである。

「…原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。…
でも、新しい技術に対しては、『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい。」

(「週刊金曜日」
*426日号 42頁、これは、佐高信(まこと)が、「新潮45」の201010月号での、ビートたけしと、原子力委員長・近藤駿介との対談の引用をして批判している記事のなかにある。この週刊誌は、一般の書店では置いていない。直接にインターネットなどで講読を注文する。
「スポンサーや広告主におもねらずに市民の立場から主張できるジャーナリズム、権力を監視し物申せるジャーナリズム」を目指し、また、休刊した『朝日ジャーナル』の思潮を受け継ぐものとして創刊。「日本で唯一の、タブーなき硬派な総合週刊誌」を標榜しており、反戦・人権・環境問題など市民運動・市民活動の支援、体制批判を主に扱っている。(ウィキペディアによる)

原発は地震によって安全だということを信じきっているこんな発言が堂々とまかり通り、原発の危険性という事実を述べる者を、オオカミ少年呼ばわりをするほどに、見下してきたのであった。
彼は、「原発反対を言えば、マスコミに受けがいい」などと放言しているが、そんなことはない、逆である。
過去何十年という長い間にわたり、原発反対を明確に主張したら、マスコミからも相手にされなくなる事実は、後に述べる高木仁三郎や小出裕章氏などの件を見ても明らかなことである。
ここに引用した内容は、「週刊金曜日」誌の、佐高信(まこと)が書いている「電力会社に群がった原発文化人」と題する記事のなかにある。
そこには、 アントニオ猪木、荻野アンナ、それから脳科学者の茂木健一郎や養老孟司らもあげられ、勝間和代、大前研一、堺屋太一といったよくマスコミで出てくる人物も含まれる。森山良子のような歌手、星野仙一のような野球監督、北村晴男、木場弘子、漫画家の弘兼憲司(ひろかねけんし)等々も含まれている。
星野は、「僕も時には熱くなる男だけど、地球がこれ以上熱くなったらかなわんね」というセリフを関西電力の宣伝で語り、温暖化を口実として原発を増大させるという宣伝に一役買っていたという。
このように、とくにテレビなどでよく出てくる人物を原発推進の強力な担い手として絡(から)めとって、原発は安全だ、原発に反対などするのは、まともな人間でないのだ、といった雰囲気を形成するのに利用してきたのである。
今から35年以上も昔であったろうか、私が高校の理科教員であったころ、徳島県教育委員会主催の、高校理科教育研究会の講師として、四国電力の者が講演して原発の安全性を強調したことがあった。この研究会は県下の高校の理科教師全体の会であって、そこにて原発の宣伝をさせるほど、教育委員会というのもすでに原発宣伝の一環をになっていたのである。
私は教員になった頃に、福島原発の一号機が運転をはじめ、まもなくその原発の危険性を知るようになっていたから、そのような一方的なやり方にとても驚いたので今も記憶に残っている。
このようにして、政治家や官庁(通産省)、電力会社、科学者、技術者、そして教育から産業全体、マスコミ、そしてさまざまの文化人…といって多方面に手を伸ばして、原発の安全性をアピールしてきたのであった。
そして実にさまざまの人たちがそうした宣伝に乗せられて原発は安全だ、として何ら疑問を持たずにきたのである。
このことに関して、高木仁三郎(*)の最後の著書から見てみよう。
高木は、原発科学者としては貴重な存在であり続けた。圧倒的多数が原発賛成の流れに組み込まれていくなかで一貫して原発の危険性、その本質を明らかにして、原発の非人間的な現実を説き続けたからである。

*)高木仁三郎(1938-2000)は、日本の物理学者、理学博士(東京大学)。東京大学理学部化学科卒業。理学博士(東京大学)。 専門は核化学。東京都立大学助教授、マックスプランク核物理研究所客員研究員などを経て都立大学を退職し、 原子力資料情報室を設立、代表を務めた。
原子力業界から独立、自由な立場で、原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性について、専門家の立場から警告を発し続けた。特に、「地震」の際の原発の危険性を予見し、安全対策の強化を訴えたほか、脱原発を唱え、脱原子力運動の中心的人物でもあった。


その著書とは、「市民科学者として生きる」(岩波書店)であり、 この書は、彼がガンで次々と転移し、死が近いとも覚悟するほどの苦しみも経験していくなかでベッドの上で書かれた最後の著書で、書き終えた翌年死去した。この本から少し引用する。

「…私自身がしばしば経験したことだが、反対派には、東京電力や東北電力などの監視体制が存在して、例えば、私の講演会に誰々が出席したか、街頭で演説すれば、家の前に出てそれを聞いたのは誰々か、すべてチェックされてしまう。反対派の講演会には、公民館を貸さないし、ときには旅館も拒絶されたことがある。」(「市民科学者として生きる」202頁)

また、スリーマイル島の原発事故があり、原子力資料情報室の活動が多少注目されてきた頃、ある原子力の業界誌の編集長にあたる人が訪ねてきた。彼は高木をほめ上げて、将来の日本のエネルギー政策を検討する政策研究会をやりたいといい、高木をその研究会の責任者になって欲しいと言ってきた。
そして、その人物は、「とりあえず3億円をすぐにでも使える金として用意している、それはあなたが自由に使える金だ」と告げた。
高木は、当時の資料情報室は30万円ですら、飛びつきたいほどの資金不足の状況だったから、3億円あったら、ずっとこの資料情報室は金に困らないのでないか、という思いが1分ほど頭にはあったと書いている。
しかし、すぐにそれは、彼らが自分を取り込むための誘惑だと直感して断った。「それにしても一時金が3億円とは!現在だったら、百億円くらいに相当しようか」(211212頁)
このように金をもって取り込むという手法は、いろいろなところで使われたと考えられる。
例えば、アントニオ猪木(元プロレスラー、元参議院議員)はかつて青森県知事選挙応援のとき、原発一時凍結派の候補から一五〇万円で来てほしいと頼まれて、その候補の応援に行くつもりであったが、推進派のバックにいた電気事業連合会(日本全国の10の電力会社の連合会)から、1億円を提示されて、あわててその一五〇万円を返して、そちらに乗り換えたという。(「週刊金曜日」426日臨時増刊号 40頁)
こうした金の攻勢に加えて、社会的に抹殺しようとする働きかけもなされた。前述の高木仁三郎は次のように書いている。

「科学技術庁に地域の住民団体に随行して行ったとき、たまたまある大学のA教授に出会った。そこで玄関口で少しだけ立ち話をした。彼は、かつての核化学の研究仲間で、原発推進論者となり、政府の委員会の委員をしたり、原発の推進の討議に登場したりしていた。
その後、1年ほど後に別の地域での原発賛否討論会で再びA教授に出会った。そのとき、彼は『あのとき、科学技術庁のところで高木君と親しそうに話していたと言って、後から庁の役人たちに相当の懐疑心で見られたよ。
彼らにとって、高木君は、ウジ虫のような存在で、ー昔一緒に学問をやっていたよーとと言ったら、自分まで何かけがらわしい存在に見られてしまったよ。近寄るとバイ菌に感染すると思ってるんだ。ほんと。』
原発反対派は、そんな風に扱われた。虫ケラ同然の扱い…」と高木は書いている。(「市民科学者として生きる」209頁)

このように、社会的にも徹底的に排除しようとしていったのである。大金が動き、大規模なもの、マスコミによく登場するようなものは、オリンピックや大相撲、プロ野球など、しばしばこうした闇の状況がついてまわる。
東京電力だけとっても、年間の宣伝費は二五〇億円~三〇〇億円にも達するという。これは、毎日平均して七千万~八千万円という膨大な費用を、政治家や地域対策だけでなく、このような学者、文化人、有名人への対策にもつぎ込んでいったと考えられる。
こうした闇の力によって原発が絶対安全だという宣伝が広く流布し、高木仁三郎のような良心的な科学者を排除し、また、京都大学原子炉実験所の科学者たちのうち、原発の危険性に警告し続ける6名ほども、せいぜいが助教授で多くが定年まで助手(助教)という、ひどい待遇を受けねばならなかったのである。
現在この原子炉実験所に残っているのは、今仲哲二、小出裕章の二人だけであるがいずれも、定年が近づいている現在も助手(助教)のままである。
冒頭に記した、東大の加藤陽子教授のように、大多数の人々が「原発を許容していた私」という状況になってしまったのは、原発推進側があらゆる方法を駆使して真実を覆い隠そうとした結果なのであった。
この点において、戦前に、日本は神国だ、絶対に外国との戦争には負けないのだという宣伝を繰り返し聞かされ、大多数の日本人が実際にそのように信じ込んでいったことや、ただの人間にすぎない天皇を現人神だと言われ続けてそのように信じていったのと似た状況がある。
以上述べてきたように、原発というものが巨大な偽りを包み込んだ複合体であり、大多数の日本人を呑み込んできた存在であり、その危険な本質さえ知らされないままとなり、国民もその本質を記した著書などもごく一部の者しか顧みることをしなかった。その結果、現在のような悲劇が生まれているのである。
原発の大事故による災害は、ほかのどんな環境破壊をもはるかに越えるものである。そして数知れない人々の暮らしを破壊し、人間生活の根源となる産業である農業をも破壊してしまう。
それゆえに、原発からできるだけ早期に脱却し、清い水や大気、そして安心して農業、畜産業、水産業やその他の仕事にいそしむことのできる社会のために、原発の実体を学んでいきたいと願うものである。
毎日新聞の投書欄に次のような記事があった。(5月8日付)

…「原発と共存していくしかない」との意見には全く同感できません。投稿者は長崎県に住み、第三者的に福島原発事故を見ているから気楽なことが言えるのです 。
私は政府や東京電力の「絶対安全」を信じて、東電主催の見学会に参加し、わが国の技術力の高さに誇りさえ感じました。
しかし、すべてうそでした。「想定外」「未曽有」を繰り返しますが、識者の警告を無視した結果なのです。私の住む郡山市は、原発から60キロはなれていますが、子供たちは野外に出ることを制限されています。
一般市民は、毎日発表される放射線量の数値を血圧記録のように記録し、不安な生活を続けているのです。
原発による電力は、30%近くを占めるといいますが、全国の温水洗浄便座の保温をやめるだけで、原発一基分の電力が節約できるといいます。
原発は全部廃炉にし、電力の供給範囲内で安心して生活するのが、真の幸せというものです。(福島県郡山市・須藤貴美男)

原発の放射線はこのように、数知れない人々の平和な生活を破壊し、混乱と不安と悲しみに陥れるのである。

聖書の最後の書である黙示録のその終章にあるつぎの言葉は、福島原発を追われた人たちーとくにキリスト者である人たちにとって、はるかな理想的状況となって浮かんでくるであろう。

…天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。
そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
もはや、のろわれるものは何一つない。(黙示録2213より)

現実の世界ではこのような状況、うるわしい大地、流れる水は清く、農作物がゆたかに実を結び、そのゆたかな作物によって人々の健康が支えられ、のろわれた放射能はなにもない…それはまだまだ先のことであろう。
しかし、唯一の愛の神をあくまで信じ、主を仰ぎみるものには、その人の魂のうちに、いのちの水の川が流れ、そこから溢れるまでになると約束されている。(ヨハネ福音書738
そのような命の水によって、被災を受けた現在の苦しい状況が支えられるようにと願ってやまない。 そのような霊的な水は、世界のいずこにあっても、またどんな状況にある人をも、求める者をうるおしてきたのであるゆえに。
(「いのちの水」2011年5月号)


リストボタン原発問題と憲法9条                    20114 602号より

この二つの問題は、共通したところがある。
ともに、非現実的だとして、多くの政治家たち、評論家、マスコミ、学校教育などでも、とくにこの近年は真剣に扱ってこなかった。
何十年という長い間、政権政党であった自民党と政府は、その間、原発の危険性と憲法9条の重要性について真剣に検討することもなく、葬り去ろうとしてきた。そしてそうした政治的圧力のもと、社会的にもこの二つの問題はごく一部の人が考えるだけという状況になっていった。
自民党が今度政権を取り返したら、まずやろうとしていることの一つは、憲法9条を変えるということである。
「…原発反対というと、左翼だとか、反体制だというレッテルを貼り、原発の安全性を問うということすら、非現実的だとして、社会の片隅に追いやられてきた。それが、原発の安全論争自体を萎縮させてきた。…」(毎日新聞4月10日)とあるが、憲法9条に対しても、それを守ろうとする考え方に対しては似た状況がみられてきた。
しかし、莫大な経費を使って武力を装備していくという現実的な考え方、それこそが、二度にわたる世界大戦を生み出したのである。
そして、増大するエネルギーをいかに危険があっても確保し、人間の贅沢な浪費は現実だとして認めていく考え方が、長大な地震帯のすぐ近くに、原発を50基を越えて林立させるという事態を生み出し、今回のような大きな悲劇と不安をもたらしたのである。
これに対して、キリスト教の根本の考え方は、まず神の国と神の義を求める、というものであり、目先の現実的な要求を第一にするというこの世の考え方と真っ向から対立する。
それゆえに、憲法9条の平和主義を守り、また、原発がある国だけでなく周辺の国々という広大な領域に大きな害悪を与え、さらに永遠に、子孫に重大な危険を残すようなエネルギー生産の仕方そのものに反対するのである。
そしてこの、まず聖書の真理にしたがって神の国を求めるということこそが、永続的な幸いを与えるという本当の意味での現実的なあり方なのである。


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-22451.png安全だという虚構              20114 602号より

原発の報道において、絶えず繰り返し言われているのが、「安全だ」ということである。「ただちに」影響はない、などという言葉も同様である。大気中に拡散され続けている放射線物質、水道水、農作物などの摂取の報道にも常にこの言葉がついてまわる。
許容基準の100倍の放射性物質を含んだ水を大量に放出し始めたときにも同様である。
魚介類、海草などについての報道でもやはりこの言葉が使われている。
いたずらに不安をあおってはいけない。原子力や放射性のことについて科学的な知識をほとんど持たない一般の人たちを不安に陥れるだけだ、ということもよく言われる。
しかし、原発の事故で最も恐るべきことを、事故以来一カ月になろうかとしているのに、NHKなどのテレビなどの放送では全くといってよいほど触れてこなかった。
先ごろようやく最悪の事態として、さらなる水素爆発と言っていたが、しかし、その水素爆発または、水蒸気爆発を起こしたらどうなるのか、ということには触れない。
しかも、それは原発に関してずっと以前から今回のような事故の生じる可能性を一貫して、その職業的な地位も犠牲にして主張してきた原発の専門家たちなどもはっきりと言っていることである。
それは、冷却がうまくいかない場合、高温のために燃料が溶けて圧力容器の底にたまり(すでにかなりが溶けてそのような状態になっているとみられている)、その容器をも、またそれを包む格納容器をも溶かして、おびただしい放射能をもった物質が外部に放出しつづけていくことであり、それを止めることができなくなってしまうことである。
さらに、そこに水があればその水と水蒸気爆発を起こして、格納容器ごと吹き飛ばしてしまう。そうなると、燃料のなかにある膨大な量の放射性物質、しかもきわめて高い放射能を持つ物質が広範囲に拡散されるということである。
ことにその中に含まれるプルトニウムは、大気に微粒子となって拡散されると、きわめて微量でも、それを吸入すると強いα線を出すためにガンになる可能性が大きくなる。そしてそのプルトニウムの半減期は2万4千年であり、5万年ほども経過してもなお、4分の1にしかならない。人間の生きる時間の長さを考えるとこれは永久に残るといえる長期間である。
そのようなことが生じるなら、数千万の人たちがいる東京を中心とした関東一帯はもちろん、中部地方からさらに、直線距離で福島原発から580キロほどの大阪を中心とした関西もその放射能の影響を大きく受けることになる。
チェルノブイリの事故のときには、放射性物質は、決して同心円状でなく、風向きと雨の降り方によって非常に偏った分布となった。500キロ離れても高い放射線量を示すところもあったが、150キロ程度の距離でもそれほど多くの放射線を受けていないところもあった。
8000キロ離れた日本でもその放射線の影響を受けた。
こうした、アメリカやソ連の原発の大事故があり、それ以前にも、イギリスの原子炉事故(1957年ウィンズケール炉)、ソ連の放射性廃棄物の管理がずさんであったために生じた大爆発事故(1957年)、また、1999年に起こった東海村JCO臨界事故では、死者2名と667名の被曝者を出した。(JCOとは、茨城県東海村にある住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設。)それ以外に、さまざまの事故が発生してきた。
それでもなお、推進する経済産業省、政治家、電力会社、原子力にかかわる学者たちは自分たちの利益を第一として、「安全」だ、を繰り返してきた。
このような発言は、次の聖書の記事を思いださせる。

…皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、あざむいて言う。
彼らは、手軽にわが民の傷をいやし、平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ書6の1314、同 811

預言者とか祭司を、政治家、御用学者、役人、電力会社などに置き換え、彼らは、手軽に、原発の安全を説いて、心配はなにもないと言い続けた。平和を「安全」と置き換えて読むことができる。
このエレミヤの言葉は、今から2500年以上も昔に言われたのだが、現代の問題でもある。
私たちは、本当の安全、平和というものは目に見えるもの、この世の地位の高い人間たち、肩書の立派な人たちの言うことでなく、数千年前から、いかなる時代の変化にも変ることなく流れてきた永遠の真理、聖書の真理にこそ聞き従いたいと思う。


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-27567.png二つの目に見えない力 ー原子力と聖霊      20114 602号より

3月11日の大地震、大津波の被害も甚大で、現在もなお、15万人以上の方々が、不自由で苦しい避難所で生活しておられる。家族の一部またはその多くが波に呑み込まれ、家は失われ、職場もなくなり、茫然とした状態で生きておられる方々がたくさんおられる。
それだけでも、日本の歴史で最大級の大被害であるのだが、それに加えて、福島原発の問題が発生した。これもまた、チェルノブイリに次ぐ、歴史的な大事故となった。
 国連放射線影響科学委員会のワイス委員長は4月6日、ウィーンで記者会見し、福島第1原発の事故について、「スリーマイル島原発事故よりはるかに大規模なのは間違いない」と述べ、さらに、同委員長はスリーマイル島原発事故では放射性物質はあまり放出されなかったが、「今は世界中の大気に放射性ヨウ素の痕跡がある」と説明したという。
原発の問題は、つきつめれば、目に見えない巨大なエネルギーの暴発というだけでない、その根本問題は、人間に有害な、目には見えない莫大な放射能の問題なのである。 放射能がなければ、阪神大震災の復興のように、数年で目ざましく復興し、次々と新たなビルは建てられ、被災地での生活も回復していく。
 東北地方の多大なる被災を受けた地域も着実に道路から瓦礫は取り除かれ、水道、ガス、電気も復旧しつつあり、食料はより改善され、仮設住宅は建設がはじまっているし、政府からの支援のほか、一千億円を越える一般からの巨額の義援金の配分もそのうちになされるであろう。
 さまざまの大切なものを一度に奪われた人たちが受けた心の傷、深い孤独、悲しみはいやされることがないと思われるが、少なくとも設備や生活面での復旧は着実になされていきつつある。
 それに対して、原発の被害とその危険性は日増しに増大していく一方である。避難勧告も最初は10キロ、ついで20キロ、さらに30キロの範囲へと避難範囲は広がろうとしている。
放射能汚染も大気から、水、土、そして海と広がり、外国への影響すらも生じている状況となっている。韓国では、雨が降ったのでそれに含まれる放射能から子供たちを守るために、130校ほども臨時休校になったという。
 原発が生み出す莫大な放射能は、数年程度ではなくなることもないし、撤去することもできない。
 東京電力の榎本聡明顧問が毎日新聞のインタビューで答えた内容が、一面トップで掲載されていた。それによれば、原発の使用期限を超えたときには、原発を廃棄する(廃炉)必要があるが、そのためには、20年~30年という長い年月を要する。
今回の福島原発では、損傷した核燃料を取り出す専用の装置を開発してそれを作ることから始めなければならないから、廃炉を終えるには、それ以上かかることは確実だという。
 つまり福島原発の最終的決着は2、30年以上かかる見通しだ、と報道されていた。(毎日新聞4月8日朝刊、榎本氏は、今回の事故のあった原発の試運転など、勤務経験ある技術者。)
 さらに、これらの廃炉にしたその後の膨大な廃棄物はどうなるのか、20年~30年先の廃炉のあとがまた解決方法がいまだに決められない状況なのである。 
それら廃棄物の最終的な処理というのも、莫大な量の放射性物質をどこかに持っていくしかない。しかし、どこかに持っていっても、そこで放射能をなくすることもできないのである。
地中深く埋めるということしかできない。しかし、その場所も狭い日本で受けいれるところはどこがあるだろうか。ドイツやスイスなど地下660メートルから1200メートルなどの岩塩や堆積岩などの深いところに処分する計画がある。
 日本でも、地下300メートルほどに埋める候補地を募った際、高知県と徳島県の境界に近い高知県東洋町の町長がその話しを受けいれようとした。それは、2006年のことであったが、住民の強い反対でそれは中止となったことがあった。
 しかし、そのような地下に広大な処分場所を作るというが、そんなところを数十万年も管理しなければならないのであり、そんなことが可能なのか、そのような途方もない長い年月に何が起こり得るのか、だれも分からない。
何万年をも越えて、いわば永久的に未来の子孫にそのような重い負担をかけつづけること事態が、自分と関係のない人間に対してはどうなってもいいという姿勢であり、未来の人間に対する犯罪行為だと言わねばならない。
 アメリカのスリーマイル島の原発事故では、事故の16時間後に冷却がはじまったし、チェルノブイリ事故でも、事故発生から10日後には、冷却がはじまった。
しかし、福島原発では、一カ月経っても冷却機能は回復していない。このまま冷やし続けなければならない。
大気中に放出された放射性物質は、風で遠くまで運ばれる。雨が降れば、その地点に高濃度の放射性物質が地上に落ちていく。チェルノブイリでも800キロ離れたところでも強い放射能が計測された。
決して同心円のようにいつも薄まるわけではない。
原発の事故によって、たくさんの人々の生活が破壊されつつある。田園地帯や平和な市街地も広い領域で住むことができなくなった。農業も酪農などもできなくなり、漁業も、そしてそこでの平和な一つ一つの家庭の生活も破壊されていった。
さらに、もし原発の冷却がうまくいかないときには、燃料棒が溶けて原子炉圧力容器の下部にたまり、それが高温になっていくときには、溶けだしてその圧力容器をも溶かし、その外側の原子炉格納容器へ落ちていく。そしてそこに水があれば、水蒸気爆発を起こして、膨大な量の放射能ープルトニウム239のような半減期が2万4千年という人類の生活の時間からいえば、永久的に消えないともいえる危険物質が外部に拡散されることになる。このプルトニウムや、半減期30年ほどのセシウム137、半減期約29年のストロンチウム90などの大量飛散こそが、最も重大な事態である。
 プルトニウムは、呼吸によって体内に入ると、発ガン性が非常に強く、400万分の1グラムという極微量が許容量だという。(「元素の小事典」高木仁三郎著 岩波書店)
プルトニウムは、25万分の1とか、50万分の1グラムといった極微量でも、ガンを引き起こす。プルトニウムを静脈注射したとき、その毒性はサリンを上回り、青酸カリに匹敵する。犬の動物実験では、プルトニウムの致死量は、0.3ミリグラム/Kgであるから、犬と人間とは違うが、おおまかにいえば、体重50Kgなら、0.02グラムほどで急性の重金属中毒を起こすという。そして、プルトニウムは肺に留まり続け、非常にゆっくりとしたはやさで血管へと移行し、最終的には骨ガンや肝臓ガンをも引き起こす可能性があるという。
(神奈川大学教授 常石敬一教授、京大の原子炉実験所元講師の小林圭二氏などによる。これらの記述は、「プルトニウム」56頁 講談社刊、「週刊現代」412日号などによる。)

これに関して、NHKニュースの解説者が、プルトニウムは重くて遠くに飛散しにくい、そしてまた決まり文句のように「安全だ」を繰り返していた。
しかし、このような解説の仕方は、一面的である。
プルトニウムは重いことはたしかだが、それが微粒子になると、1000分の1ミリ~1万分の3ミリ程度となり、これはインフルエンザウイルス(1万分の1ミリ)よりも少し大きい程度の微少なものであるから、遠くまで運ばれる可能性は十分にある。セシウムはさらに遠くまで飛散するから それらによって、関東の広大な地域が汚染されることとなるだろう。
例えば、もし冷やすことができなくなったら―例えば、いまのような作業している近くで大地震が起こったようなときである―そのときには、いまの冷やす作業もできず、最悪の事態が生じる可能性が高くなる。
こんな、危険なものを、しかも世界で最も大地震が生じる頻度が高いような地域で、54基も造り続けてきた。
破壊された4つもの原発は廃炉が確定し、さらに5号機、6号機も廃炉とする可能性があるとのことであるから、それらを合わせると、これまた歴史上で初めての膨大な量の高濃度汚染物質の廃棄という大問題が生じる。
これもまた解決の方法がない。 最終処分した放射性物質を埋めておく場所も、方法もないからである。青森の六ヶ所村での再処理工場でも、そこで再処理した廃棄物をどこに埋めるのか、その場所すら決められていない。どこの県も何十万年も厳重に保管せねばならないような恐るべき廃棄物を自分の県に持ち込もうとするところはない。
沖縄の基地を引き受けるという県は、何十年たってもどこにもない。放射性廃棄物は、米軍基地よりはるかに危険性が大きいのであるから、そのような場所を引き受ける県など簡単に現れるはずはない。
これからも、終わることのないように見えるほどの難問が原発にはつきまとう。
これらすべては、原子力発電というものが目に見えない放射線を出すこと、しかもきわめて多量で、しかも永遠的といえるほどの長期間出し続けるからである。
原子とはもともと、英語の ATOM という言葉は、「分けられないもの」という意味からきている。
*
 人類の何十万年という長い歴史で、この原子を破壊して莫大なエネルギーを取り出すということは、ごく最近のことである。ずっとそれは強固な原子核のなかに秘められたエネルギーとして取り出すことはできなかった。それを人間が、中性子を用いて原子を壊して破片としたり、別の原子に変える方法を見いだした。そしてそれがかつてない大きなエネルギーを取り出すことにつながった。

*)原子とは、英語でアトム atom というが、これは、ギリシャ語でatomos(アトモス)に由来する。a は否定を表す接頭語。tom は テムノー temno(切る)あるいはトメー tome(切ること)に由来する。

 物質の究極的な粒子であり、それ以上分けることができないと考えられていたのでこのような名前がつけられた。しかし、原子は、さらに原子核と電子によって成っていることが明らかになり、さらにその原子核も陽子や中性子から成っていることも判明した。
 そして、その原子核が壊れるときに莫大なエネルギー、通常の物を燃やしたりする化学反応のおよそ百万倍ものエネルギーを放出することも明らかになった。
 そしてそのような巨大なエネルギーを取り出すということも、ヒトラーの率いるドイツに勝利するためという目的のゆえに、アメリカに亡命した優秀なユダヤ人物理学者たち(*)を中心として何十年もかかると言われていたことがわずか数年で可能となった。

*)1939年、アメリカに亡命したユダヤ人物理学者のシラードは、同じくユダヤ人であったアインシュタインの署名した信書をルーズベルト大統領に送った。その信書のなかで、非常に強大な新型の爆弾が作られることをのべている。その後イギリスからもユダヤ系の物理学者フリッシュたちの考えによって核兵器が造りうることが明らかになっていき、それによりアメリカが、原爆をつくることへとつながった。

 このように、ヒトラーのユダヤ人への大迫害があったため、アインシュタインやほかの優れたユダヤ人科学者がアメリカに渡り、彼らが中心となって原爆がつくられるようになった。
 もし、ヒトラーがあのようにユダヤ人を迫害しなかったら、このようにドイツにいたユダヤ人の優秀な科学者も原爆をつくることにはならなかっただろう。 また、原発も、当時はエネルギーが足りないということではなくて、原爆の材料を製造するために原子炉がつくられ、その機能を維持しておくために、平和利用という聞こえのよいかたちにして原発に転用したのであった。原発がこのようにできてしまったのは、軍事目的を後方支援するためだったのである。
 現在の原発の問題をさかのぼっていくと、このように意外なことにつながっていく。
原爆や水爆などの核兵器、それは、軍事兵器としてだけでなく、このように、その時だけで終わらず、はるか後の世代にまで、重い影を残していくことになった。
 こうした原発、放射能に関することは、知れば知るほど、その困難な事態がわかってくる。それらを単に知るだけでは、私たちは希望の道が見えてこない。
 原子力そのものが、エデンの園で言われていた「禁断の木の実」であったと感じている人は多い。
「その実を食べる者は必ず死ぬ」 (創世記2の17
 これは、単に科学や技術にかかわる知識だけでは、死に至るという深い意味をたたえた言葉である。
 このような状況にあって、私たちにはエデンの園に植えられていたと記されてしいる、もう一つの木の重要性が浮かびあがってくる。
 それが「命の木」である。 (創世記2の9)
 この命の木のことは、その後の聖書では不思議なほど現れてこない。
*

*)旧約聖書の格言集に「正しい者の結ぶ実は命の木である。」(箴言1130)のように、創世記の記す意味とは違ったように使われている箇所が若干ある。

 旧約聖書は1400頁もあるにもかかわらずである。
 それがようやく現れるのは、聖書の最後の書、黙示録である。

…耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞け。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
(黙示録 27
…川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 (黙示録 222
 この世の目には見えない悪の力に、信仰により神の力によって勝利する者には、命の木の実が与えられるという。言い換えるとそれは神の命、永遠の命が与えられるということである。
 そして、その木の葉があらゆる国の人々の病をいやすという。木の葉にこのような象徴的な意味が与えられているのは、聖書ではこの箇所だけである。人間は、単なる知識や技術だけでは死に至るのを防ぐことができない。死からの勝利、それは命の木の実を食べ、その木の葉によってあらゆる病ーからだの病を持たない人も何らかの心の病、罪を持っている―がいやされるという。
 これはまた、主イエスが言われた、「私が与える水を飲む者は、永遠のいのちが与えられる。イエスを信じるだけで、命の水がその魂のうちからあふれ出る」(ヨハネ福音書4の14、7の38)ことを言い換えたものである。
 このような永遠の命あるいは、いのちの水と言われているものこそ、この世界に存在する、もう一つの目には見えないが巨大な力を指し示している。
それは神であり、聖なる霊である。
 この目に見えない力こそは、過去数千年にわたって人類をその根底において変革し、歴史を動かしていくという強力な力なのである。


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-19731.png放射線の見いだされた過程                20114 602号より

3月11日以降、世界の歴史上で前例のない事態が発生した。歴史上でも最大級の大地震、そして大津波、さらに史上二番目といえる、原発の大事故という三重の苦難が襲ってきた。
そのうち、最も今後も長い間影響を及ぼすと考えられるのが、福島原発の大事故である。
この目には見えないが、人間の命にとって破壊的な力を持つ放射能は、どのような過程を経て見いだされれるようになったのか、簡単にその過程をふりかえってみたい。

この目に見えない放射線という現象に最初に気付かれたのは、1895年のX線の発見である。レントゲンは、真空放電管に高い電圧をかけ、黒い板紙で覆ったガラス管を放電させると、暗室内の白金シアン化バリウムが蛍光を発しているのに気づいた。それまで知られていない何かが放電管から出ているに違いないと考え、それをX線と名づけた。
それはからだをも透過して、写真に映すことができる、ということを見いだした。
ついで、ベクレルは、その翌年、蛍光を発生する物質に太陽光を当てれば放射線も発生するのではないかと考え、写真乾板を黒い紙で包み、その上に蛍光物質であるウラン化合物を付着させた。ところが、悪天候で太陽の出ない日が続いたため引き出しにしまい、数日後に取り出してみると、写真乾板が黒く感光していた。
 このことからベクレルは、ウランは他からエネルギーを与えられなくても放射線を発生する能力(放射能)があることを、発見した。
フランスのキュリー夫人は、ウラン以外のトリウムからも放射線が出ていること、さらに、それらとも異なる物質からも放射線を出すものがあることを突き止め、それがポロニウムであり、さらに、ラジウムという物質であることを発見した。1898年のことである。
そして、イギリスのラザフォードは、ウランから出ている放射線に二種類あることを発見した。それらは、α線、β線と名付けられた。 さらにガンマ線も見いだされた。その後、キュリー夫妻の娘のイレーヌとジョリオ夫妻は さらに別の放射線があることを見いだした。
そして1932年にチャドウィックは、その放射線をいろいろな物質に当てると、陽子が飛び出すこと、その放射線は陽子と同じ質量を持っていて電気的には中性であることから中性子と名付けた。
1938年、オットー・ハーンは、中性子をウランに当てるとバリウムができることを見いだし、それは、ウランがほぼ半分に割れたためであることを、女性科学者リーゼ・マイトナーが明らかにした。
これによって中性子がウランを分裂させて別の原子を生み出すことが判明した。
さらに、イレーヌとジョリオ夫妻は、その分裂のときに、中性子が新たに、23個生み出されることも見いだした。
このことが、連鎖反応を起こすことの発見であった。
ここから、原爆や水爆、そして原発という道がはじまったのである。
このように、はじめは単なる科学的好奇心から生まれたものが、今日世界を揺るがす核兵器や原発という悪魔のようなものを生み出したのであった。
福島原発の大事故により、日本人は現在だけでなく、これから数十年という長い間、放射能のもたらす害毒を受けることになり、きめわて多数の人たちが、苦しみ、また悩まされ、あるいは農地から追われ、長い歳月の経験から造り出した農産物や、魚などが売れなくなり、また家族の分断が起きるという悲劇的な事態をもたらすようになってしまったのである。
こうした歴史的な過程を振り返るとき、人間の学問や知的探求心だけでは、決して本当の幸い、魂の平安は訪れないのがよく分る。
聖書に示された、愛と真実が無限に含まれている神の言葉の世界こそ、私たちの魂の探求の根源となり、究極的な目標とならなければならないということを指し示しているのである。


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-21842.png原発について
ー以前に書いた記事からー
            20114 602号より

原発がいかに危険であるか、今回の原発の歴史上二番目といえる大事故によって日本人、そして世界の多くの人々もあらためてその厳しい現実に思い知らされつつある。
私自身は、理学部化学科の出身であり、高校の物理や化学の教師として生徒たちにもしばしば原子力の危険性を語ってきた。そして、「いのちの水」誌(旧名の「はこ舟」時代をも含めて)にも、原発に関してその危険性を記してきた。
それらの記述は、今日のような切迫した状況のもとではなかったが、今日のこの状況にあって、日本全体、さらに世界の大きな関心事となっているので、参考にしていただいたらと、再度掲載することにした。
以下、3タイトル、3項目は該当項目またはタイトルをご覧ください。


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-27133.png原子力の危険性について(1999年10月 「はこ舟」誌第465号)
http://pistis.jp/image/wps_clip_image-27133.png人間の力の過信(原子力発電のこと)(2004年8月 「はこ舟」第523号
http://pistis.jp/image/wps_clip_image-27133.png原発の危険性について (「いのちの水」2007年7~8月号 題558号)
                                                  
(
2011年4月)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-27133.png核廃絶と憲法九条                   20108月 第594号より

八月になって、広島、長崎に原爆が落とされた日が近づくと、毎年核廃絶ということが新聞やテレビのニュースなどで言われる。
政府関係者もまた、同様に核廃絶という言葉をよく使う。 核兵器を廃絶すれば問題はなくなるかのような響きさえそこに感じられることがある。
核兵器で多数の人が死ぬ、そして何十年も苦しむ人が大量に出てくる。そのような兵器を廃絶することは当然、人類の願いである。
しかし、もし核兵器を廃絶したらそれで問題は解決するのだろうか。核兵器がなくとも、高性能の爆弾を用いれば、多量の人間の命を奪い、一生を破壊するような身体の重い傷害を受けることも多数生じる。そしてそれらの人たちの家族もともに取返しのつかないような苦しみと痛みを負わされて長い人生を歩まねばならない。
核兵器を使わずとも、東京大空襲では十万人もが、一夜にして命を失ったし、生き残った人たちも重度のやけどや身体に大怪我をしたり、家族の多くが死んだり重い病人や障がい者となった人たちも多い。
そうした数知れない人たちの死や苦しみや悲しみは、原爆とは関係なく生じている。
また、東京大空襲に続く日本の大都市の空襲によって、おびただしい人たちの命が失われて行った。
これは、日本がそれより何年か前に中国本土の上海、南京、重慶などの大都市に対して行った無差別爆撃という悪行の報いを日本が受けたという形になった。
 重慶への空爆は、一九三九年から五年半にもわたって二百回以上行われ、激しいときには、二日間で四〇〇〇人ほども犠牲者が出たという。
ベトナム戦争やイラク戦争、あるいはアメリカで高層ビルが破壊された同時多発テロなどでも核兵器は使われなかったが、膨大な死者や大怪我をした人たちが生まれた。ベトナム戦争だけでも、数百万人もの犠牲者が出たと言われる。
また、そういう戦争以前に行われた、日中戦争、太平洋戦争などで、日本軍が中国やアジアの国々に対して千万から一五〇〇万人にも及ぶとも言われるおびただしい人命を奪い、また身体の損傷を受けたのはさらに多く、人々の家庭や人生を破壊していったのも、核兵器による殺傷ではなかった。
ヨーロッパで行われた第二次世界大戦も核兵器は使われなかった。そこでも二〇〇〇万人に及ぶ大量の命が失われ、それ以上の人たちが負傷者となっている。
これらはみな核兵器を使わずに生じた犠牲者である。
このようなおびただしい犠牲者を生み出したもの、それは戦争である。
このように、核廃絶ということをいくら言っても、そしてもしも核廃絶がなされたとしても、戦争というものがある限り多くの人たちの命は奪われ、生活を破壊される人たちが生まれるということである。
NHKやその他新聞のニュースや報道記事で、核廃絶をしようとか、原爆被災者の話しを聞くとかがいつも繰り返しなされている。それはそれで必要なことである。
しかし、核兵器を使わなくとも、戦争が起こったらその状況によってはすでに述べたように、数千万という人たちが殺され、その死んだり重い怪我をした人たちの関係者もまた、長期にわたる苦しみを受けるのである。
それゆえに、戦争そのものを否定するのでなかったら、戦争の悲劇は生まれる。そしてその戦争を否定するためにこそ、日本には憲法九条が生まれた。
けれども、毎年の八月の各種の報道や記事では、核廃絶、戦争があってはならない、というような記事と戦争でどんなに悲惨な目にあったかという老人の体験談を語らせて終わるというのが通常である。
戦争を起こさせないために、いまの平和憲法を守らねばならない、といった主張はほとんどそうした紙面や報道では出てこない。
平和を守るため、自国を守るためと称して、戦前も戦力増強の道を歩み、それが第二次世界大戦、太平洋戦争などとなった。現在も同様な理由で、核兵器を持つべきだという国々があるし、日本でもそういう主張をする政治家や学者たちがいる。
しかし、そうした考え方や主張こそが、今日の核兵器のはんらんと世界的危機を生み出したのである。
 また、八月には核廃絶という言葉と共に、平和への願いとかいった言葉が繰り返し使われる。だが単に平和というだけでは、戦争の大きな口実にさえなってきたのである。
 太平洋戦争を始めたときの天皇の開戦の詔勅(*)の最後には何と言われていたか、それはまさに、平和のためということであった。

*) 皇祖皇宗の神霊、上に在り、朕は、…速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し…。

それゆえに、核廃絶すべきだとか、平和は大切だ、いう言葉を使って終わるのでなく、戦争廃絶をいうべきである。そのためには日本は特別にその戦争廃絶をうたった憲法九条があるのだからその精神を世界に高く掲げることこそ、日本の特別な使命がある。
そしてこの精神の根源は聖書にある。それは二五〇〇年ほども昔に書かれたと考えられる旧約聖書のイザヤ書の一部にすでに見られ、新約聖書に完全な形で現れる。キリストやその代表的弟子であったパウロやヨハネ、ペテロといった人たちの受けた啓示は、悪を倒すために、武力を使え、というような教えはまったく含まれていない。
このように、二〇〇〇年を越える昔から一貫して人類の心を流れてきた聖書の真理こそは、現代の混沌とした状況や、将来の何が起こるか分からない状況にあっても、つねに私たちを導くともしびなのである。
(「いのちの水」2010年8月号)


http://pistis.jp/image/wps_clip_image-27133.png原発の危険性について             20077/8月号 558号より

七月には、予期できないことが政治や自然現象、科学技術の方面で生じた。しかし、その中で、とくに将来的にも重大な問題をはらんでいるのが原発と地震の関係である。
今回の新潟県中越沖地震において、新潟柏崎原発では、現在までに変圧器の火災や放射能漏れなど重要度の高いトラブルが六十件余り発生したが、その後、さらに、床の変形や蛍光灯の落下など比較的軽微なケースも含めると、トラブルの総数が一二六三件にものぼったという。
とくに注目すべきは、原子炉の真上にある重さ三一〇トンというクレーンの部品が破断していたことで、この原子炉はたまたま定期点検中で稼働していなかったから、大事故に至らなかったが、もし稼働中であったなら、そしてクレーンで核燃料の交換などのときに破断していたら、はるかに重大な事態が生じていたかも知れないのである。
また、事故への対応が遅れたのは、停電があったからだというが、このことについても、専門家は次のように言っている。
「今回、柏崎はチェルノブイリに匹敵する事故が起きてもおかしくない、危機一髪の状況にありました。火災がおきたこと自体も世界で初めてのケースで、世界中に打電されましたが、さらに危ないことが起きていたのです。原発内での停電はたいへん危険なのです。
停電のせいで、冷却水を動かすポンプに何らかの支障が発生した場合、冷却水は一気に高温になり、放射能はあふれ、大事故が起きることになります。」(京都大学原子炉実験所・小出裕章氏 、「週刊現代八月四日号」)
この小出氏は、毎日新聞でも、次のように今回の事故のうち、とくにクレーンの部品が破断していた事故について次のように述べている。
「使用中に地震が来ていたら、大事故につながった可能性がある。燃料が落下すれば、破損して放射能もれにつながるし、使用済み核燃料プールに重いものが落下すれば、燃料を収めたラックが破損して、臨界事故
*になる可能性もある。」(毎日新聞七月二五日)

*)臨界事故とは、核分裂が制御できなくなって、放射線や熱が外部に放出され人体や機器の損傷がおきる事故をいうが、それが大規模となるとチェルノブイリ事故のような大惨事となり、広大な地域が汚染されて人間が住むこともできなくなり、とくに日本のような狭い国土であれば壊滅的な打撃を与えることになる。

また、この柏崎地域の原発は、一〇〇万キロワット級の大型のものが七基も並んでいるという世界で最大級の原発地域であるのに、地震対策が最初から不十分であったことが指摘されている。東京電力はこの原発を建設する前の調査で、今回の地震を起こしたと考えられる断層の一部を見出していながら、耐震評価の対象からはずしていたという。
そして、実際にこの原発の地下二〇kmには、今回の地震を引き起こした活断層が走っていた。また、耐震強度をマグニチュード六・五としていたが、それは今回の地震の強度の六・八以下であった。
また、地震の揺れの強さを示す加速度についても、柏崎原発は八三四ガルを想定して設計されていたが、今回の地震は二〇五八ガルという驚くべき高い数値であり、想定をはるかに上回っていたという。(毎日新聞七月三一日)
このように、科学技術とか、それによる人間の予想などというものはしばしば自然の広大無辺の現象を予見することはできないのである。にもかかわらず、科学技術者は、こうした実際の事件や事故が生じないかぎり、絶対に大丈夫だとか、大事故はあり得ない、それは科学技術を知らないからだ、などといって本来自分たちが決して予見できないものをあたかも予見できるかのように説明してきた。
もし今回も、原子炉の運転中にもっと大きい地震に見舞われていたら、クレーンの破断事故は、どうであっただろうか。燃料が落下したりして、放射能を持った物質が大量に外部に拡散し、あるいは臨界事故となり前述の小出氏が述べているようなチェルノブイリ級の大事故につながっていたかも知れないのである。
そんなことはあり得ない、などとよく原発推進派の学者や政治家は言うが、今回の事実でもはっきりしたように、そうした学者や政治家たちの言うことはまるで信頼がおけないのである。
前述の小出氏たちが作成した京都大学原子炉実験所が作成した「日本の原発事故 災害予想」」という文書には、大事故となった場合には、今回のケースなら、柏崎市では人口の99%までが死亡し、近隣の市街地でも放射能の強い影響のために、半数が死亡する、さらに、関東、東海、近畿という日本の中心部全体にわたって数十万という人たちがガンで犠牲になり、放射能の影響は東北にまで及ぶといった予想がたてられているという。
たしかに、チェルノブイリ原発事故がいかに国を超え、世界的に広大な被害をもたらしたかを考えると、チェルノブイリとは比較にならない大人口が密集した日本であるから、これは決して誇張したものでないことがうかがえるのである。
チェルノブイリ事故では原発から三百kmも離れた地域にまで高度に汚染された地域が広がり、事故原発のすぐとなりにあるベラルーシ共和国では、高濃度に汚染された地域に住む人々は四百万人にも及んでいた。
柏崎原発から東京まで直線距離では二百数十キロほどしかない。原発の大事故という事態になれば、一つの市や町が被害を受ける、といったこととは比較にならない状況となって日本中が大混乱となるであろう。
そんなことは起きない、地震にも万全の対策をしてあるのだ、などとよく言われてきた。原子炉本体を入れてある建物は、大事故が絶対に生じないように最も強固に安全に設計してあるはずである。しかし、その重要な建物のなかのクレーンに破断事故が生じていたということは、人間のすることがいかに現実に対応できないかを証明したものとなった。
しかも、今回の地震がもっと大規模であって、原子炉の破壊などが生じていたら、このような恐るべき予想が現実に生じたかも知れないのである。
環境問題で二酸化炭素の排出を抑えるために、原発が再び建設を増大させようとする機運がある。しかし、今回は地震に対するもろさに限って書いたが、原発から大量に出てくる放射性廃棄物の処理という困難な問題や、原発の増大によって核兵器が作られる危険性が同時に増えていくという難しい問題などを考えると、原発には本質的危険性を深く内在させているのである。
そして人間の科学技術や政治の力などをはるかに超える自然の災害の前に謙虚になるなら、人間がどんなに科学技術で安全だと保証しようとも、そういう保証は到底信頼できるものではない。科学技術そのものが大いなる限界を持っているうえ、そうした機器類を扱うのは人間であって、その人間はどんな過ちを犯すか分からない弱いものであるからである。
アメリカのスリーマイル島の原発の大事故、チェルノブイリの原発事故なども、機器類の問題とともに、人間の操作ミス、判断のミスが深くかかわっていたのである。
原子力発電においては、一度大事故が生じたら、取り返しのつかないことになるのであり、いかに困難であっても原発を次第に減らしていく方向へと向かうのが、この問題に対するとるべき道なのである。
(「いのちの水」2007年7・8月号)


リストボタン人間の力の過信(原子力発電のこと)          20048月 第523号より

関西電力の原発、美浜三号機の配管破断事故で、死者四人、負傷者七人という日本の原発史上最大の事故が生じた。そうした事故はアメリカで、一九八六年にすでに生じており、美浜三号機と同様に、配管が破断して高温の蒸気が噴出し、四人が死亡、八人がやけどをしたことがあった。
しかし、その後関西電力は報告書で、「日本の原発では徹底した管理が行なわれており、そのような事故は生じないと考えられる。また、配管が磨耗して薄くなってしまっているかどうか膨大な箇所の検査をした」という内容の報告書を国に提出していたという。
かつて、阪神大震災のときにも、その一年程前にアメリカのロサンゼルスでの大地震で高速道路の橋桁が崩壊したとき、日本の技術者は、日本ではあのようなことは決して起きないと自信にみちた調子で語っていた。しかし、現実にはそれよりはるかに大規模に高速道路の橋脚が倒壊し、橋桁が落下して甚大な被害が発生したのであった。
今回の原発の事故に、アメリカのスリーマイル島原発の事故のように、さらに別の安全システム上の事故が重なったなら、重大事故である炉心溶融(*)ということにまでつながりかねない重要な事故であった。
このように、科学技術への過信は場合によっては取り返しのつかない事態を招くことになる。
多くの科学技術者や、それを用いる政治に関わる人間たちは、人間のすることはすべてきわめて不完全であるという基本的な認識ができていないことがしばしばある。今回の破断事故も、破断したところが点検リストに入っていなかったということであり、ほかにもそうした点検リストからもれている箇所が多数見つかっている。
厳密に正しく検査をしようとすれば、膨大な数の点検をしなければいけないのであって、それらを完全にするかどうかは、下請けの会社の誠実さにもかかわっている。いくら電力会社の首脳部や技術者が命令したところで、最終的に保守点検をするのは人間であり、その人を動かすのも人間であり、その人間は疲れも生じるし、勘違いもある。またときには嘘もつくし、安楽を求め、楽に収益を得ることを考える傾向がある。
それゆえ、どんな精密な科学技術であっても、個々の人間のなかに宿るそうした不真実な本性があるかぎり、今後もいかに検査などを徹底すると言ってみても、絶対安全などということはあり得ないのである。
このようなことはごく当たり前のことであり、だれでもわかっているはずのことであるが、いつのまにか、「絶対安全」だとかいう言葉が発せられるようになっていく。そして事故が起こってからいろいろの間違いや手抜き、嘘などが発覚する。
もしも、日本の原発でチェルノブイリのような重大事故が生じたら、日本では人が狭い国土に集中しているために、死者や病人がおびただしく発生し、国土は放射能で汚染され、大混乱に陥って農業などの産業、経済や交通などにも致命的な打撃が生じることが予想されている。
また、日本ではロシアのように別のところに大挙して移住するところもなく、住むところもなくなる人が多数生じるという異常事態になるであろう。
だが、日本ではそんなことは生じないなどと、何の根拠もないのに、断言するような電力会社や科学技術者、政治家もいる。しかし、過去の原発事故の歴史や、今回の事故を見てもそのような断言は虚言に等しいといえる。
そうした綱渡りのような危険な原発を止めることを真剣に取り上げ、そのためにはどうすればよいのかということを真剣に考えていくべき時なのである。
人間の弱さがこうした社会的な問題にもその根底にあり、その弱さや不真実、利益、金第一主義といった本性をいかに克服できるのか、それが根本問題である。
このような人間の奥深い性質に関わることは、どんなに科学技術が発達しても少しも変えることはできない。
社会的な汚れと混乱を声高(こわだか)に非難してもそれを言う人自身のなかにも同様な汚れ、罪がある。
現代の科学技術は、はるか数千年の昔に書かれた創世記にある、バベルの塔を思い起こさせる。

彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。」(創世記十一・4より)

この素朴な言葉を表面的に読むだけでは、単なる神話か、昔の空想的物語にすぎないと思う人が多いだろう。
しかし、創世記は随所に以後数千年にわたって真理であり続けるような内容が、それとなく秘められている。
ここでも、数千年前のメソポタミア地方で最も貴重な技術的産物が、大きな塔であった。それがバベルというところにあったために、バベルの塔というように言われるようになった。
当時の技術がすすんで、石の代わりに、自然にある土を用いて建築材料とするレンガを造り出し、アスファルトをも得て、高い塔を作り、天にまで届かせようと考えたという。
現代でこれにあたるのは、科学技術のさまざまの産物であり、それらは、人類を破滅に導くような核兵器や、クローン人間を造るとか、自然界にない動植物を造り出すことなど、危険なものも今日では数多く現れている。人間の精神まで、科学技術が進んだら左右できるのではないかなどということすら言われている。
しかし、そうした科学技術とその産物はいかにもろいものであるか、また人間がそうした科学技術の産物に頼り、それらは絶対安全だなどと言い出したとき、人間がみずからの醜さ、弱さや無力を忘れて、何となく神の座に座っているのと同様である。

私たちはつねにまず第一の出発点は私たち自身にあることを知り、私たちの内部のそうした不純、罪を赦され、清められ、そこから新しい力を受けるという原点に立ち返ることこそが、基本になければならないと思う。 キリストが来られたのは、まさにこの最も困難な問題の解決のためなのであった。
自分自身がまず、そのようにして内部の罪から解放され、神の国のために生きるようになっていくこと、それが私たちのなすべきことであり、また信仰によってなすことができることである。
この世の全体としての状況は、最終的には神ご自身が導かれるのであってそれを私たちは信じて生きることが求められている。
キリストが人間の罪の赦しため、罪の力から引き出すために地上に来られたという意味は、現代の世にあってますますその意義を深めているのである。

*)炉心の核燃料が融点を超えて溶融する原子炉の重大事故。一九七九年三月に米国スリーマイル島2号機で起きた事故では、原子炉炉心の約半分が溶融した。さらに一九八六年にソ連のチェルノブイリ原発で起こった原子炉の炉心溶融(メルトダウン)は、全ヨーロッパに放射能をまき散らした。この事故以降、この原発周辺の広大な地域で、数万人が放射能に関係のある病気で死亡している。この事故によって生じた甲状腺ガン患者は二千人近いと言われている。またこの原発事故により広島原爆の六〇〇倍ともいわれる放射能が北半球全体にばらまかれ、日本の国土でいえば五〇%にも及ぶ広大な地域が汚染され、数多くの人が放射線を受けることになった。被災三国(ベラルーシ、ウクライナ、ロシア)だけでも九〇〇万人以上が被災し、四〇万人が移住。六五〇万人以上が汚染地に住み続けている。
福井県の原発で炉心溶融のような大事故が生じると、京阪神の大都会をすぐ近くに控えていることから、ロシアのチェルノブイリ事故をはるかに上回る死者と、一〇〇万人を越えるガン患者が生じるとも想定されており、その場合の被害の甚大さは、阪神大震災などとは比較にならない。
(「いのちの水」2004年8月号)


リストボタン0.001グラムが引き起こした危険と不安        1999年12月 第467号より

 今回のウラン加工施設で生じた、臨界事故では、火災が生じたわけでも、爆発があったわけでも、建物が壊れたのでも、また工場内で作っている物質が大量に漏れだしたのでもない。
 現実に変化があったのは、わずか、一ミリグラム(一グラムの千分の一)という、極微量のウラン二三五という原子が核分裂しただけだ。にもかかわらず、数人の被爆した人は、取り返しのつかない損傷を体内に受けたし、三〇万人という人々が避難するという事態になり、内閣改造すら一時延期するほどの国家的災害となった。三十万人の避難ということも、じつは、事故現場から半径十キロメートル以内の人に屋内待避要請が出されたが、十キロメートルを越えたら安全だという保障はもちろん全くなかった。なぜ十キロメートル以内としたかといえば、半径十五キロメートル以内とすると、茨城県庁や、水戸市の中心部まで含まれてしまい、三十万人よりはるかに膨大な人間が含まれパニックになってしまうからであったという。
 そしてこの一千分の一グラムという微量の核分裂は、現在も多くの人々に、将来何らかの病気になるのではないか、乳児や胎児への悪影響はどうか、農産物への不安など、毎日の生活や、将来の生活にも暗いかげを落とし続けている。
 こんなに極微量で何十万人という人たちに甚大な影響をあたえ、国際的にも大きいニュースとなって世界をかけめぐったのであり、今さらながら、核物質の持っている想像を絶する力に驚かされる。
 石油であれば、例えば十キログラムも燃えたとしても、それが人家などのないところなら、燃やしている現場で熱くなるだけで、燃えたあとも二酸化炭素と、水蒸気になって空気中に飛散し、後には危険なものは何も残らない。
 このように、今回の事故は、いままでの日本の歴史において、最も微量の物質によって多数の人々が大きな混乱に巻き込まれた事件であったと言えよう。
 放射線の危険は、外部からも、内部からも受けるのであって、この点においても、他の有毒物質とはまったく違っている。例えば、青酸カリは猛毒物質だとして広く知られている。しかし、その致死量は人間では百五十ミリグラムであって、その量で一人が死ぬという毒性であるから、今回の一ミリグラムのウランの核分裂であれほどの大きい被害と混乱が将来にもわたって持続するというのと比べると、色あせるほどの毒性だとわかる。
 しかも青酸カリがいくら多量にあっても、そのそばにいても、体内に取り入れない限りなんら毒性はない。 
 しかし、今回のような核分裂では、その分裂の結果生じる物質(放射性物質のことで、死の灰とも言われる)を体内に取り入れていないのに、臨界になったウランの近くにいるだけでも、そこから出される放射線によって作業員が受けたような重篤な被害を受けることになるし、数百メートル離れていても年間線量限度を何倍も越えていた。
 今回は少量ですんだが、ウランの核分裂で生じる放射性ヨウ素が空気中に放出されて、それを人間が吸入すると、体内の甲状腺に取り込まれ、そこからベータ線やガンマ線を放出して、周囲の細胞に害を与え、ガンを引き起こす。こうした被爆は内部被爆といわれる。ストロンチウム九十などは、骨に入ると出るまでに何十年もかかる。その間中、体内にあって、放射線を出し続けて細胞に害を与えていくのである。
 それらよりはるかに強力な毒性を持っているのが、原子炉を運転していると生じるプルトニウムである。これは、人間が肺の中に取り込む限度は、四千万分の一グラムという極微量である。言い換えれば、わずか一グラムが、四千万人もの許容量に匹敵してしまう。
 なぜこんなに異常に強い毒性を持つかといえば、プルトニウムが呼吸とかで体内に入ると、そこでアルファ線を出して付近の細胞の核のなかにある遺伝子が攻撃され、肺ガンや白血病を引き起こすからである。
 このように、放射性物質は、体の外にあっても、また内に取り入れても危険を持つという、他の有毒物質ではありえない性質を持っているのである。
 今回に問題となったような、中性子を出すような状況であれば、コンクリートで閉じこめてあってもそれを突き抜けて外に出てくるという特殊な性質を持っているし、プルトニウムなどは、何万年もその放射線を出し続ける点では、他の有毒物質とはまるで状況が違うのである。
 また、原子力発電所は強い放射線にさらされるから、その寿命は三十年程度とされている。寿命のきた、原子力発電所は、普通の工場のように機械で破壊したらすむものでは決してなく、その発電所自身がぼう大な放射性廃棄物となってしまうのである。こうした点も、取扱いがきわめて困難であるという点で、他の工場とは本質的に異なっている。
 核物質は、極微量でもその取扱いを誤ると今回のような国家的重大事態を引き起こす。原子力発電所は、このような危険物質を大量に扱い、またさらにそこからは、毎日莫大な放射性物質が生み出されている。例えば、通常の百万キロワット級の原発を運転すると、広島型原爆の一千倍もの放射性廃棄物を生み出してしまうのである。そのなかに、今回のウランよりはるかに危険で毒性の高い、プルトニウムも含まれている。
 こうした危険性は、ほかの薬物とか廃棄物とかのいずれと比較しても、段違いの危険性を本来持っているものである。
 今回の事故も、起こることはありえないと想定されていた。しかし、現実には起こったのである。その理由は、人間とは弱い存在であるからだ。どんなに機械でチェックしても、その機械や器具を設置し、動かしているのは人間であって、その人間は、金や権力、欲望には弱く、また体の病気や、疲労もあり、機械などの操作に間違いもある。
 そしてどんなに安全装置を施しても例えば、原子力発電所の上から、ミサイルが打ち込まれたり、ハイジャックされた飛行機が落ちてくれば安全装置などで守ることは到底できないから、原子炉が破壊されてしまう。そうなれば、原発が制御できなくなり、チェルノブイリの事故のような状態となって、莫大な放射能がまき散らされることになり、核戦争並の事態となり、日本中が大混乱に陥るだろう。
 しかし、やはり「そんなことはきわめてありそうにない」という理由で、そのことはだれもが避けて通る。けれども、今回の事故を見ても、誰一人予想もしないようなことが現実には起こるのである。罪深い人間、弱い人間であるから、ハイジャックとか戦争とかを起こさないとは断定できないのである。
 私たちは、こうした人間の存在にとって、現在および未来にわたって重大な危険をもたらす可能性を持っている施設を廃止していくという前提に立って、そこからそれではどうしたらよいのかと一人一人が考えていかねばならない状況に置かれている。(「いのちの水」1999年12月号)


リストボタン原子力の危険性について              199910月 第465号より

 今回の東海村の核燃料加工会社で生じた大事故において、初めて原発関係施設からの放射線の危険が一般市民にも体験されることになった。
 原子力を利用しようとするとき、必ず生じるのが放射線である。そしてこれが特に問題となるのは、人間にはそれを知覚したり、守るための感覚が備えられていないということである。
 ほかの危険なものに対しては、人間(動物)にその危険を知覚し、それから身を守るようにできている。例えば、熱さについてはただちに熱さを知覚して、そこからからだを移動させたり、そうした熱いところに近づかないようにして身を守ることができる。
 また、刺のようなものに対してもそれが皮膚を刺す痛みによってその危険をただちに感じとって、わずかの痛みによって、その刺に刺される危険から身を守ろうとする。
 あるいは、寒さに対してもそれを感じて暖かくしようとするし、寒さの中に置かれると、ふるえるがそれは筋肉を収縮させて熱を発生させ、寒さから身を守ろうとするための現象である。
 また、毒虫の毒についても、刺されるとただちに痛みが生じてそれ以上刺されることから身を守ろうとする。有毒物質についても、苦さ、しびれ、痛みを感じて吐きだそうとするし、有毒ガスなら強い刺激臭などを感じて息を止めようとするなどして反射的に身を守ろうとすることが多い。
 このようにさまざまの感覚によって危険なものに出会ってもそれを感知し、それを取り入れることを避けるとか、そこから逃げることができるように人間(動物)は創造されている。
 しかし、放射線はこうしたものと全く違っていて、人間は防御する仕組みを持っていない。放射線を浴びても痛くもかゆくもない。これは、だれでも放射線の一種であるエックス線を病院で照射されてもなんら熱くも寒くもないし、痛みもないことでだれでも想像できる。
 もし、放射線を受けて吐き気がしたら、もはや相当の放射線を浴びてしまっているという状態である。だから、チェルノブイリ原発事故のときも、今回の東海村の事故の場合も駆けつけた消防隊員たちは、放射線事故だと知らされない限り痛くも熱くもないので大量の放射線を浴びて一部の者は取り返しのつかないことになったのである。
 人間の五感で、放射線を感じることができないということは、神が人間や動物を創造されたときに、放射線から身を守るような能力を与えていなかったということになる。それほど原子力を人間が用いるということは自然に反していることだと言えよう。
 しかも、ひとたび原子力を用いて発電をするということになると、そこから生じる廃棄物はプルトニウムのように、二万四千三六〇年も経ってもやっと、そこから発せられる放射線の量が半分になるにすぎないような物質もある。だから、放射線を出す量が初めの四分の一になるまでには、その倍であるから、五万年ちかくもかかることになる。これは、人間の生活の長さからいうと、ほとんど永久的といってよいほどに長い寿命をもっていることになる。
 今回のような事故が生じて、原子力を用いるということがいかに危険を伴うかを庶民も実感したにもかかわらず、政府は一向に従来の原子力政策を変えようとしていない。
 他方、ヨーロッパの状況はどうであろうか。
 スウェーデンでは、二十年ほども前にすでに「脱原発」の方針に転じている。一九八〇年に原発の国民投票で「二〇一〇年までに、全部の原発を段階的に停止する」と決議された。そのために、使用済み燃料の施設の建設や、最終処分のための研究などに八千億円もの巨額の費用を投じる予定になっているという。
 ドイツでは、昨年誕生したシュレーダー政権によって、原発を徐々に減らすという脱原発の方針が打ち出されている。そして、期限は明示しないが、原発を廃止するという方向に進むことになっている。
 また、昨年末までに三百万キロワット近い風力発電機が設置され、世界最大の風車大国となっているという。こうした姿勢は第二次世界大戦で敗戦となった日本とドイツが原子力に対する姿勢では大きく異なっているのがはっきりとしている。
 日本では、原子力発電に向かって、突き進むばかりであって、こうした風力や太陽エネルギーを本格的に用いる研究とかに力をわずかしか注ごうとしていない。風力発電の分野では、ドイツの百分の一にも達していないという。
 また、イタリアでは、チェルノブイリ事故の翌年に、国民投票で、八〇%が反対の意志表示をし、政府も原発推進を止め、計画中の二基も白紙に戻すことに議会でも承認されたのであった。フィンランドでも新規の五基の原発の計画は凍結となった。
 そしてスイスでも新規原発を十年間凍結することになった。そのほか、ベルギー、オランダ、ギリシャ、デンマークなどでもそろって、新規の原発建設計画は凍結された。
 フランスでも、「放射性廃棄物の健康と環境への害は数十万年、あるいは数百万年にわたって継続する」このような人間にとっては、永久的とも言える害をもたらす原発への依存度を少なくしていく方向へと向かっている。その一つの現れは、高速増殖炉の開発を中止することにし、世界最大の高速増殖炉である、「スーパーフェニックス」を廃止する作業が今年から始まっている。フランス政府は、これ以上原発を建設しないで、エネルギーを別の手段でまかなう計画を出したが、これは、それまでの原発は不可欠だとする大前提が初めて破られた例だという。
 高速増殖炉にしても、アメリカやロシア、ヨーロッパなど欧米の国々がみな中止、または廃止の方向に向かっていたのに、日本だけが、強力に推進という立場を崩さなかった。それが、「もんじゅ」のナトリウム漏れの大事故が生じてやっと、高速増殖炉に向かっていた方向を転換することになった。しかし、今度は、危険なプルトニウムをウランと混ぜて発電に用いる方法にかえて無理に使っていこうとしている。
 何度事故が生じても、今回もまた政府は原発推進の方向は変えないと断言している。こんなことでは、ある外国の研究者が、アメリカのスリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発のような大事故が生じなかったら日本の政府は原発の危険性に目を開こうとしないと言っていたが、本当にそんなことになりかねない様相を呈している。
 なぜ、日本人はこのように、現在および、将来の人間に対して永久的ともいえるほどの危険を持つ原発に対して鈍感なのであろうか。ひとたび大事故が生じると、はかりしれない放射能汚染や、犠牲者をつくることへの重大な罪の重さ、あるいは何万年もの歳月にわたって危険な放射線を出し続ける廃棄物を子孫にのこすことの罪の深さを認識できないのである。
 こうした人間の弱さともろさ、醜さなど、人間の罪そのものに対する認識の低さは、太平洋戦争というアジア全体に多大の悲劇を起こした大事件に対して、最高責任者であった天皇の罪を明らかにせず、太平洋戦争の時の商工大臣であった岸信介が戦後(一九五七年)に、首相にさえなったことなどと共通している傾向である。彼は、太平洋戦争の際に戦時経済体制の実質的な最高指導者であって、あの戦争においては、多大の責任があった人物であり、それゆえにA級戦犯となっていたのである。
 こうした問題は、やはりキリスト教を受け入れる人が日本ではごく少ないという事実と深く関係がある。私たちに目先のことだけでなく、将来のことを見据えるまなざしを与えてくれるのがキリスト教信仰であり、聖書なのである。(「いのちの水」1999年10月号)