原子力発電について (過去の「はこ舟」、「いのちの水」誌より) |
原発の汚染水の問題 (2013年9月 第631号)
原発の廃炉には、百年もかかるほどの長い歳月と、膨大な費用がかかるということははやくから知られていたことである。 イギリスの西部ウェールズ地方に、1965年に運転を開始し、91年に停止した原発がある。この原発は、出力23.5万キロワットの小型原発である。 しかし、その原発の廃炉には、90年を要すると報道されている。原発が稼働していたのは、26年であるから、それよりはるかに長い間、廃炉に要する。 しかし、その廃炉が終わったら問題は解決したのではない。膨大な放射性廃棄物が生じる。それは10万年は管理を要する。そのような廃棄物をどこに置くのか、それは決まっていない。アメリカのような広大で砂漠地帯を持っている国でも、廃棄物を処理する場所は現在も宙に浮いたままである。 1987年に、ネバダ州ユッカマウンテンやテキサス州デフスミス(岩塩)などの3か所の処分候補地から、2002年2月にユッカマウンテン(Yucca Mountain)が、最終処分地とされた。そして2009年までに、1兆数千億円にものぼる巨費を投じてきた。しかし、地元住民やネバダ州議会から強い反対が起こり、オバマ大統領はこの計画を中止した。それまでの数十年にわたる最終処分地のための労力や費用は空しく消えていった。 このような実例を見てもわかるが、原発の最終処分地を決定することがいかに困難であるかを示している。 脱原発をすみやかに決断したドイツであるが、その放射能処分場については、ここでも見通しの立たない困難に陥っている。 放射性廃棄物の最終処分場の候補地がまったく決まらないために、『中間貯蔵施設』として、岩塩を採掘していた地下750メートルの坑道に建設した。しかし、そこに、毎日12トンの地下水が流れ込み、すでにそこに貯蔵していた危険な放射性物質を入れた12万6千本もの金属容器を取り出さねばならなくなった。 そのままでは、腐食した容器と接触した地下水が汚染され、広範な領域の地下水を汚染していくことになる。そうなれば回収は不可能となるからである。 そのためには、それをくみ出し、より深い地層へと送り込むことだけがさしあたりの対処方法だという。しかも、その金属容器を取り出したとしても、それを持っていく場所がない。さらに、それらの容器を取り出すだけでも、30~40年もかかるという。 現在の日本の汚染水問題と同様、流れを断つことのできない地下水が流れ込み、放射能汚染されていくことは、限りない困難を生み出すことになっている。 日本の国土は、世界の陸地の 0.25%であるのに、世界で起きる地震の約20%が日本でおきているし、さらに活火山は 、世界の7%が日本で生じている。 しかも日本はこの狭い国土にさらに人間は平野部に圧倒的に集中している。そのうえ、各地の原発は日本の百万都市からいずれも100~200キロ前後のところにある。(*) ひとたび、原発の大事故が生じ、その風向きや雨が大都市方面にて放射能をもたらしたとき、チェルノブイリの事故でわかるように、ポーランド,スウェーデン,ノルウェー,フィンランド,ドイツ,ハンガリー,ギリシャ,ブルガリア等々、数千キロも離れた地域にも大きな放射能被害をもたらしたし、八千キロ離れた日本にも影響が及んだほどであるから、日本で原発の大事故が生じて、雨と風向きによっては大都市が壊滅的となることが予測できる。 (*)札幌―泊原発 65キロ、仙台―女川原発 56キロ、東京―福島原発 230キロ、 東京―柏崎・刈羽原発 220キロ、東京―浜岡原発 180キロ、名古屋―敦賀原発 100キロ、京都―高浜原発 60キロ、高浜原発―大阪 90キロ、福岡―玄海原発 55キロ 福島原発の大事故のときも、もし風が、飯舘村など北西方向に向うのでなく、東京方面に向って雨を伴いつつ吹き続けていたなら、東京を中心とする3500万人もの人々が、飯舘村のように避難しなければならなかったことになる。 たまたま、そうした風は少ししか吹かなかったから、そうしたことは生じなかったが、その可能性があったのは、柏市や足立区などでかなり強い放射能が計測されていたことからもうかがえる。 汚染水の問題も、原発から生じるさまざまの難問のうちの一つであるが、そもそも日本では岩塩層もなく、砂漠地帯もなく、そして雨は全国的に多く降る。地下水も到る所で流れている。そして頻発する地震によってその地下水の流れる状況も変えられることもある。 数十年間、電力を生み出すために、以後の何十万年も管理せねばならない。(*)もし、最終処分場が見いだされたとしても、そのために莫大な費用と多くの処理のために数知れない人たちが被曝していく。 (*)プルトニウムの半減期は、2万4000年だから、5万年ほどたってもまだ、4分の1にしかならない。
またもっと長い寿命の放射性物質も含まれている。例えばヨウ素129の半減期は、1570万年もある。 私は、福島原発事故の発生した年、2011年7月19日に、北海道の瀬棚に行く途中で、日本最大の原子力発電所である、新潟県の柏崎・刈羽原発に立ち寄った。そこで、原発に隣接して建てられている一般向けのサービスホール(他の原発ではPR館などという)にて、詳しくその展示内容を調べたことがあった。そこで、原発の構造や施設に関するさまざまの展示物やその内容に、福島の大事故の現実と向き合っていない内容に接していろいろと疑義が生まれたので、そのことについて直接に館長と話したいと担当者に申し出たところ、個人的に話す機会が与えられた。その林勝彦館長は柏崎・刈羽原原子力発電所の副所長でもあったが、氏は初対面の私にも率直にいろいろと話され、そのとき、廃棄物の問題の話となったとき、私が廃棄物は10万年も管理せねばならないのだから…というと、林氏は直ちに「いや、100万年です」と言われたのが、心に残っている。
そんな途方もない費用と労力を、外国の教育や、植樹、医療、荒野の開拓等々に用いるならば、どれほどよいことができるであろうか。 百年もかけて廃炉していく、それは測り知れない多額の費用と、おびただしい人々の放射線被曝を生み出すことになる。廃炉するだけで、そんなにも多くの年月をかけていく、それは本来やってはいけない原子力発電ということに人間が手をつけてしまったからである。 核兵器も原発も核分裂を利用するものであり、そもそもそのような永久的な危険を与えるものに手をつけること自体が根本的に間違っていたのである。 原発の原料となるウラン235は、微量の放射能をだすだけのウラン238と混在していて、自然界の山や原野などから取り出さねば、特別な害を与えることはない状態にとどまっている。 そしてそのウラン鉱石を産出する場所はごく限られているから、自然状態のままならば、人間に害悪を起こすことは全くといってよいほどなかったのである。(*) (*)日本においては、1955年(昭和30年)12月19日に原子力基本法が成立し、原子力発電へと踏み出したとき、各地でウランの埋蔵の調査が行なわれ、岡山県と鳥取県境の人形峠もウラン鉱石があるのがわかり、採掘されて少量のウランを取り出したが、研究用などに用いられたにとどまる。その後品質が低く、採算がとれないために、閉鎖されている。
しかし、それを掘り出し、 濃縮しそこに中性子を照射して核分裂を起こしてしまうことで、さまざまの種類のおびただしい放射性廃棄物を生み出してしまう。 またウラン235やプルトニウムを用いた核兵器を作り出すと、それが使われたら数千万人をも殺害することができるきわめて危険なものとなるし、また原発という形においても、大事故やテロによる破壊の際の恐るべき影響をはらむものとなる。 通常運転であっても、その廃炉後には、廃棄物が永久的に害悪を与え続けるものになってしまう。 原発は使えば使うほど、人間にとって永久的な害悪を生み出し、それを処理するためには、巨額の費用が湯水のように必要となってしまうグロテスクなものなのである。 人間や動植物が作り出す汚れたもの―排泄物や死骸、枯れ葉、朽ちた樹木等々は、何の害悪も生み出さず、逆に肥料となり自然界をうるおしていく。 これは、原子力発電所の廃棄物といかに異なることであろうか。神の創造された自然の秩序はこのように無駄がなく、万事が驚くべき仕方で循環して不要なものが何もないように作られているのである。 人間の作った原発の廃棄物は、それに触れるものをみな汚していく、反生命的なはたらきを永久的にし続けていく。 現実にこの2年半という歳月、この事態に直面してきたにもかかわらず、なおも、このような「怪物」(*)にしがみつこうとしているのが 日本の自民党や経済界の多数を占める人たちである。 (*)原発を「怪物」と表現したのは、かつての原子力安全委員会の斑目元委員長である。彼は、原発を推進してきた人物で原発の本質をよく知っている専門家だが、そのような人でも、鎌仲ひとみ監督の映画「六ヶ所村ラプソディー」のなかで原発のことを、人間が制御できない「怪物」、と表現していたのが印象的であった。 怪物ということに関連して、戦後まもなく1954年に作られた映画「ゴジラ」は、その後いろいろな続編や関連映画を生み出した。 そのゴジラそのものは、アメリカの太平洋における原水爆実験によって太古の昔からの眠りから覚めた怪獣である。アメリカ軍のビキニ島における水爆実験のわずか8カ月後に公開された映画であり、それは、放射能の恐ろしさということのインパクトの強さをも示している。ゴジラが口から吐く炎には放射能があるということ、そして当時のあらゆる科学技術もそのゴジラにはどうすることもできず、そのままでは東京が破滅するという状況となった。
そのとき、最後の手段が特殊な科学技術を使う方法で、それを余りにも危険なために極秘にしてきた一人の特異な研究者が、その薬物をもってゴジラのいる海中に潜水し、みずからもその毒物によって死なねばならないことを覚悟して、ゴジラの近くにそれを置いて殺すという筋書きである。 一人の特別な能力と、その人間の死によって初めてゴジラの脅威から救われるというのであり、この筋書きは、キリストという一人の死によって人類が救われるということに影響を受けたのではないかと思われる。
原発の放射能による汚れはいかにしても取り除けない。汚染水を処理したといっても、放射能を除去したというが、その除去したという放射能を多量に帯びた物質はどこかにおかねばならない。処理すればそこで新たな高濃度の放射性物質を作り出してしまうので、また新たに保管方法やその場所に悩まされるのである。 そして、どこかで保存するとしても、そこで放射能を出し続け、その保管が不適切ならまたそこから周囲へと汚染は広がっていく。 フィンランドでは、世界で唯一、じっさいに地下深いところに放射性廃棄物を貯蔵して10万年は管理を続けるという施設がある。 福島で生じたおびただしい放射性廃棄物―それは、そのように10万年も管理が必要なのであるが、どこへも持っていけないとなれば、福島がそのまま中間処分地からさらに最終処分地となってしまう可能性が高くなっている。しかも、フィンランドのような強固で安全な地下などなく、至るところで地震の危険性や地下水を汚していくという危険性をはらんでいる。 このような重大問題を本気で取り組もうとせず、オリンピックという本来娯楽であり、それを手段として利益を得ようとする人たちには金儲けのできるイベントとなるが、オリンピックというものは、本質的に人間の生活に不要なものである。そのために莫大な経費と労力を使うということは、あるべき姿から大きく逸脱している。 政府は汚染水問題が、国際的に注目され、直前に迫ったオリンピックの開催地の決定にも悪影響を与えかねない状況になったとき、突然470億円もの国費を支出すると言い出した。これは財務省にも連絡もしなかったという。 これは、オリンピック誘致を少しでも有利にしようとの目的だったと言われている。 福島原発や東北の津波、地震の被災者のためでなく、オリンピックを東京に誘致するために考え出したとは何ということだろう。 しかも、莫大な費用をかけて開催するオリンピックに対して批判的な考えをもつ人の意見などは、NHKニュースなどでもいっさい報道せず、もっぱら賛成の意見ばかりである。ニュース報道を見ていると、あたかも政治家も経済界も、一般国民もみんながオリンピックに大賛成だなどというように受け止められるようなニュース構成である。このような一種の娯楽を、現在も多くの、苦しみと困難にさいなまれている原発という重大問題以上に考えているのが明らかとなった。 日夜、放射能に苦しめられ、故郷から追い出され、農業、酪農、水産業などの長く受け継いできた仕事も継続不能となった多くの人たち―あるいは、津波のために肉親を失い、職業やふるさとを捨てねばならなくなった人たち―そうした災害だけでなく、それがなくとも、いつの時代にも数しれぬ存在する闇に苦しむ人たち―こうした苦しみは、オリンピックといった華やかなお祭をテレビでしばらくの間見ているときは、気晴らしになっても、それが終われば、彼等の苦しみや悩みは再び、オリンピックなどまったく関係なく襲ってくる。 そんなものに巨額の費用とエネルギーを今後開催までの長い間にわたってつぎこむより、はるかに大切なのは、原発に変る自然エネルギーの研究、開発であり、また自衛隊を軍隊にするなど止めて、あくまで憲法9条を守り、自衛隊と切り離した災害救助隊というべき独立の組織をつくって、これからの日本のさまざまの災害―原発災害も含め―に対処するようにすること、あるいは、急増する高齢者や病者といった弱者への適切な施設と人材の要請である。 汚れの除去、これは環境問題として科学技術の進展とともにつきまとってきた。足尾銅山の公害、四日市の工業地帯での大気汚染公害、水俣病、騒音公害、都市の大気汚染等々絶えず問題となってきた。 アメリカでは、レーチェル・カーソンが、1962年『沈黙の春』という本を出版したが、その中で、DDTなど農薬の汚染がいかに広がっているか、しかもそれが生物に濃縮されて各地でその被害が生じつつあり、最終的には人間にも及んできつつあるということを膨大な資料を駆使して述べたため、世界的にこの本が読まれ、知られるようになった。 アメリカのケネディ大統領もこれを読んで環境問題に力を入れるようになったほどである。 こうした環境汚染の最大のもの、それらと桁違いの広範な領域に及び、しかもほとんど永久的に人間に悪影響を及ぼし、さらに核兵器という人類破滅の兵器の製造にもつながり、対処の方法がないものが、原発による汚染である。
ここで、人間の精神的な世界、霊的世界の汚れのことを対比的に見てみよう。自然界に科学技術の進展からの汚染が生じる以前から人間の魂の汚れは存在してきた。これも生きているかぎりつづく。そして人類はその汚れ―罪に悩まされてきた。 そのような罪の汚れからいかにして清められるのか、ということが聖書全体の中心的内容となっているのである。そして、その罪の汚れは、キリストが来られたことによって、ただ信じるだけで赦され、清めていただけるという真理が神から与えられた。そして、じっさいにその通りとなり、二千年の間、そうして赦しと清めを受けてきた人たちが無数に全世界に広がってきた。 原発はさらに世界の各地、とくに発達途上国で増設されていく。それゆえ原発の問題が今後も、世界を悩まし苦しめ続けていくことは確実である。建設のときには多くの反対運動を権力でつぶし、建設後は廃棄物を生み出し続け、テロや戦争による破壊が周囲に壊滅的被害を与えることを恐れつつ運転せねばならない。さらに廃炉となっても果てし無く長い歳月にわたってその地域の人間に害悪を与え続けることになる。 こうした永遠につづく放射能との戦いにうち勝つ唯一の力は、神の力である。放射能は体を壊し、ガンなどいろいろの病気を起こす。最終的には死へと結びつく。 それゆえに、死にうち勝つ力のみが、放射能の永久的な悪影響から逃れる道である。そしてそれこそは、キリストの復活の力、死にうち勝つ力に他ならない。 私たちもこのキリストの力を与えられつつ、この現実の問題に対処していかねばならないと思う。 |
原発と倫理 2012年10月 第620号より |
リサイクルと永遠のエネルギー 2012年7月号より |
フクシマの嘘 2012年7月号より 原発再稼働の問題 2012年6月 第616号より 宇宙開発と原子力開発 2012年5月 615号より |
偶然と原発事故 2012年4月 614号より |
福島第一原発4号機の危険性と「祈ること」 2012年3月 613号より |
地震と原発 2012年2月 612号より |
原発事故が最悪の状態になっていたら 2012年1月 611号より |
原発と核武装 2011年11月 609号より |
燃え移っても気づかない人々― 原発の輸出 2011年10月 608号より それにもかかわらず、民主党の幹部は、原発を海外に輸出しようとする方向を変えない。 民主党の前原政調会長は21日、朝日新聞などのインタビューに応じ、「日本の原発の安全性に対する信頼は揺らいでいない。輸出はしっかりやるべきだ」と述べ、野田政権でも原発輸出を引き続き推進する考えを示したという。 福島の原発による災害による苦しみがずっと続いているというのに、そして今後何十年もそうした苦しみが続くと予想されているにもかかわらず、はやばやとその危険な原発を途上国に輸出することを表明したのである。 このようなことは、本来原爆を史上初めて投下されて何十万人という人たちが犠牲となり、その後も何十年という長期にわたって人々を苦しめてきた核の恐ろしさを世界に伝えていくという日本独自の使命を放棄することになる。 それどころか、経済的な利得のためには、相手国がその原発やそこから生みだされる可能性の高い核兵器の拡散につながり、原発と核兵器の双方の危険性をもたらし、大事故の場合には、取返しのつかない悲劇を相手国にもたらすことになるといった危険性を何ら考慮しない態度である。 とくに日本が原発を輸出しようとしているトルコやベトナム、インド、リトアニアなどの途上国には、政情不安定な国々も多く、また原発の恐ろしさや放射能の危険性に対する知識などきわめて乏しいと考えられる。医療もすすんでいない。 そうしたところで原発の大事故が生じるなら、その犠牲になる人たちは適切な医療もほどこされずに、長い間苦しまねばならないことになるだろう。 トルコに対しては、福島原発の事故のあと、菅直人首相の原発輸出戦略の見直し発言があり、トルコは、日本からの原発輸出に関する交渉を打ち切る方向になったことが報じられていた。しかし、最近トルコは、日本との交渉を継続する意向を日本政府に伝えてきた。日本の新しい政権が原発輸出の方針を固めていることで考えを変えたのである。 リトアニアについては、日立製作所が東芝などとの受注競争にうち勝って、7月に、リトアニアの原発建設の優先交渉権を獲得したが、そのために数千億円も出資するという。 これでは、原発を「売る」というより、「買う」のだという批判もでるほどである。こんな巨額の金で、福島の大事故から半年しかならないのに、自らの会社の利益となるならなんでもする、といった態度だと言えよう。それだけの巨費があるのなら、どうして自然エネルギーの開発に注がないのかと思う。 相手国が原発の大事故のとき、どうなろうと、福島の被害者がどんなに苦しんでいようと、そういうことは眼中にないのだろう。 また、中米パナマで、各国の環境保護団体でつくる「気候行動ネットワーク」が、10月はじめに、日本は、福島の原発事故にもかかわらず、地球温暖化対策を理由に原発を輸出しやすい仕組みづくりを求めたとして、日本政府に、交渉で後ろ向きな発言をした国を対象とする「化石賞」という不名誉な賞を贈ることになった。 (「化石賞」という風変わりな名称は化石燃料を指すとともに、化石のような古い考え方との揶揄も入っている。) このネットワークは、日本に対して、「国民に途方もない苦難をもたらした技術を途上国に輸出し、見返りに排出枠を得ようとしている。不適切かつ無責任で、道徳的に誤っている」と批判したという。 この他、日本企業が受注を目指しているのは、ベトナムやヨルダンも含まれる。 ベトナムについては、8月末に、日本原子力発電は、日本企業の原発建設へとつながる調査契約を結んだ。 インドは、原子炉6基、出力計990万キロワットの大規模な原子力発電所を建設する計画が進行中である。これが完成すると、東京電力の柏崎刈羽原発(821万kW)を抜き、世界最大となる。 この建設に対する反対運動は以前からあったが、福島原発の事故を受けて、いっそう反対運動が強まり、今年4月にデモがおこなわれたが、その際、警察が警棒で女性や子供の参加者を殴ったため、デモ隊が暴徒化し、投石などで警察側にもけが人が出たという。デモ隊の数十人が拘束されたという。 その地では漁業に重大な影響があり、原発近くの住民にとっては死活問題となるゆえに、強い関心を持ち、反対運動を続けているが、今回のデモは、4月中旬に地元住民に通告なく重機やセメントなどの資材が予定地に持ち込まれたのがきっかけだったという。 このインドの原発建設についても、日本の日立製作所は、去年の7月に、インドの原発6基もの受注獲得を目指していると表明している。 このように、途上国において原発の増設は次々と計画がされ、日本はそれらと深く関わろうとしている。 このような日本の政治、企業の方向性、その考え方について、思いだされるのは聖書の次のような箇所である。 …その炎に囲まれても、悟る者はなく 火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。(イザヤ書42の25) これは日本の現在を思い起こさせる。 日本は、大地震、大津波、そして4基もの原発の大事故という世界の歴史でも前例のない災害を受けた。 それは日本全体にいわば火が燃え移っているのに、それに気づかないで、さらに原発を再稼働しようとする多くの政治家や役人、電力会社、原発関係の科学者等々がある。 今回の事態は、まさに、このままの方向を突っ走っていけばどうなるか、ということに対する日本全体、さらには世界の方向性に対する大いなる警告なのである。 それはまさに、今から2500年ほども昔に一人の預言者が神から受けた啓示と重なってくる。これだけ多くの人たちの苦しみを目の当たりにし、現在も続いているにもかかわらず、立ち止まることもせず、大震災以前の考え方をそのままに、まず経済、まず金儲け、まず自分の栄誉、といった発想を、日本の有数の大企業のトップが露骨に表している。 このような考えかたに関して、とくに日立製作所の社長(巨費を投じて外国に原発を輸出しようとしている)に対し、評論家の佐高信(*)は、「旧式ロボットのような人間」であり、「既得権益にしがみつく後ろ向きの会社の典型のトップらしい発言」と強い言葉で、批判している。 この企業の社長のような考え方は、時代のしるしを見ることもせず、弱者を見つめることもなく、この世での正義とは何であるのかを見る、といった最も必要な視点を持ち合わせていない人の発想だと言えるだろう。 (*)佐高は、その著書「原発文化人50人斬り」(毎日新聞社刊)において、原発が安全だという神話を吹聴してきた人物として、中曽根康弘(元首相)、渡部恒三(民主党最高顧問)、与謝野馨(前財務大臣、若い時、中曽根の秘書。)、梅原猛(元国際日本文化研究センター所長)、小宮山宏(元東大総長)、評論家の田原総一郎など、多くを大胆に批判している。 また、自民党は、原発の事故以来、菅直人前首相が、脱原発を前面に出して総選挙をするかも知れないと考え、そのために、これまでの原発を推進していくというエネルギー政策の見直しの委員会を設置して8月末までに新たな政策の中間報告をまとめる予定であった。 しかし、新しい野田政権になって、首相は原発の再稼働や原発の輸出に前向きになっているとみて、結論を来年まで先送りすることになったという。 脱原発の世論もそのうちに弱まって原発容認の方向へと変ると見込んでいるのである。 また、公明党もやはり8月中に原発縮小の新しい方針をまとめる予定であったがこれまた先送りとなっている。(毎日新聞10月5日) こうした政治家の発想は、まったく選挙対策だけを考えているのであり、要するに自分たちの党がより多くの票を獲得して権力を得たいという低い次元にある。 福島の人たちの苦しみを引き起こした根本の原因が原発であり、その原発を止めることこそ最大の方策であるということを全く考えていない。 日本に、これほどの大災害、大事故が連動して生じているにもかかわらず、その事故で苦しむ人たちへの援助すらほんのわずかしか進んでいないにもかかわらず、なおも、その災害を引き起こした原発を用いて利益を得ようとする政治家、会社経営者、学者たち、そして、なおも原発を続けようとする半数ほどの日本人…、いったいいつになったら目が覚めるのであろうか。 …災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。 彼は戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない。(イザヤ書31の1) これは、次のように言い換えることができよう。 ああ、災いだ、原発の利益を求めて画策し、あるいは外国に渡り ただ儲けが多くなることだけを支えとする者は。 彼は、原発の数が多いことを誇りとし 正義の神、聖なるお方を仰がず 主を尋ね求めようとしない。… また、次のような箇所もある。 …災いだ、偽りの裁きを下す者 彼らは弱い者の訴えを退け 私の民の貧しい者から権利を奪い 夫を失った女を餌食とし、 みなしごから、かすめ取っている。(イザヤ10の1) 数千年も昔のこの時代、社会保障という制度もなかったから、夫を失った女(寡婦・やもめ)は、働く場がなくなり、子供を抱えて著しい困窮に陥るのが常であった。親のなくなった子供もまた、生きることができない状況に置かれることがあった。このため、最も困窮している人たちの例としてしばしばあげられている。 原発は確かにこのイザヤの言葉のように、裁判も安全を繰り返して御用学者側につくように仕向け、原発は絶対安全だという神話を正しいとして偽りの決定をしてきた。 また、農業や漁業でつつましい生活をしていた人たちから農地や漁場を奪い、また多額の金をばらまくことによって人の心を寸断し、弱い立場の人たちを苦しめその労働力を使い、彼らの健康を奪ってきた。 こうした真理に反するやり方は、必ず時が来たら裁かれる。現在も日本全体に、いつまで眠っているのか、という上からの叱責がなされている。 天よ、聞け 地よ、耳を傾けよ、 主が語っておられるからだ。(イザヤ書1の2) (「いのちの水」2011年10月号) |
原発推進と地縁、血縁 2011年8月 606号より |
ふたつの太陽 2011年7月 605号より 買収される学者、中学3年の原発への思い |
放射性廃棄物の処理の困難 2011年6月 604号より |
原発の限界 2011年5月 603号より 原発を許容するに至らせたもの |
原発問題と憲法9条 2011年4月 602号より 安全だという虚構 2011年4月 602号より 二つの目に見えない力 ー原子力と聖霊 2011年4月 602号より 放射線の見いだされた過程 2011年4月 602号より 原発について 原子力の危険性について(1999年10月 「はこ舟」誌第465号) |
核廃絶と憲法九条 2010年8月 第594号より |
原発の危険性について 2007年7/8月号 558号より |
人間の力の過信(原子力発電のこと) 2004年8月 第523号より |
0.001グラムが引き起こした危険と不安 1999年12月 第467号より |
原子力の危険性について 1999年10月 第465号より |