この石ころをも 1999/7
キリストのさきがけとして現れた洗礼のヨハネは、当時のユダヤ人が自分たちは神の民だとして安住しているのを見て、こう言った。
「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことができる。(マタイ福音書三・9)
私たちはたとえ石ころのようなものであっても、神がひとたびその御手を触れるときには、有用なものとされる。そして神の国のために小さいながらも働くことができる。その働きとは、目に見えるようなことを社会のなかですることもあろう。
しかし、たとえ病身であり、外に出られない者であっても、また年老いてふつうの仕事などできない状態となったとしても、神を仰いでその苦しみを堪え忍び、あるいは、神への祈りを深めることによって、神の国のために働くことができる。
祈りは神の国のための働きの基となり原動力となるが、神の国の働きそのものでもありうる。
この世では、病気で身体をこわすと、たちまち雇ってくれない状態となり、じゃま者扱いされるだろう。
しかし、神の国のためには、いかなる状態となっても神は働き人としてやとって下さるのである。