主こそ王  (詩編九十三編)  1999年9

主こそ王。

威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。

世界は固く据えられ、決して揺らぐことない。

御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます。

主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。

潮は打ち寄せる響きをあげる。

大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。

さらに力強く、高くいます主。

主よ、あなたの定めは確かであり、あなたの神殿に尊厳はふさわしい。

日の続く限り。

 主こそ王!

 この詩は、神こそ王であるということを中心とした、実に明確な詩です。

私たちがふつう、神のことを思うとき、神を王として思い描くことがあるでしょうか。

 神は愛である、神は真実である、神は正義である、神は万能である・・といった言葉は私たちもつねに見るし、耳にします。

 しかし、神は王であるということを自然に思い出す人がどれほどいるだろうかと思います。

 聖書では神こそ本当の王であるということがしばしば現れます。どうして、このような表現が出てくるのかと不思議に思う人もいるはずです。

 これは、聖書において最初から現れます。

 神というとき、支配ということを抜きにしては考えることもできません。支配のない神など考えられないのです。

 天地を支配しているからこそ、万物を創造することもできるはずです。また、人間の世界にどんなに悪が栄えるよう見えても、必ずそうした悪の繁栄はくつがえされるのです。 これは旧約聖書のいろいろの箇所において見られます。例えば、つぎのような箇所です。

その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。
(イザヤ書二七・1

 レビヤタンとは、古代の神話的な怪物で、神に敵対する国や力を象徴として用いられています。

 このような表現だけを見ればなんのことかわかりませんが、これは、「神の定めた時には、神に敵対する力、サタン的な力を完全に滅ぼされる」という意味なのです。

 これに対して、多神教の世界では、さまざまの神々がいるとされ、それらの神々が互いに自らが王であるとして、力を競い合い、争っているということになります。

 しかし、聖書に示された神は、そうしたあらゆる神々やいろいろの霊的な力のいっさいの上に立つ力を持ったお方がいるということを明確に言っています。

 それが、この詩の冒頭に宣言されていること、「主こそ王」なのです。

 私たちは神のことを王というイメージで思い浮かべることは、ほとんどないと思われます。それは、王というと、古代の専制的な、人権を無視するような支配者を思い出すからです。家来を従え、立派なお城に住み、人民から搾取しているというような王が、愛と真実の神とはどうしても相入れないという気がするからです。

 また、支配という言葉も、冷たい、不正なイメージがつきまとっています。江戸時代の徳川幕府の支配は、多数をしめていた農民を「生かさぬように、殺さぬような」といった方針で支配していたほどですし、士農工商という厳しい身分差別をし、また、職業や住所も変えられないように支配していました。また、外国でもヒトラーの支配とか、日本でも明治時代になっも、天皇制の支配によって、あのようなまちがった戦争を始め、数千万といわれる多くの自国人や、外国人を殺傷してしまったといういまわしいイメージがあります。

 しかしそうした言葉の固有のイメージとらわれて、神が王であるということに心を向けないなら、この詩が持っている重要な意味をつかむことができなくなります。

 神が王であるという宣言は、要するに、いったい何がこの世界を、人間を、歴史を支配しているのかという、重要な疑問への解答になっているのです。

 現実の世界では、強力な外国が次々と現れ、それらの国は、容赦なく弱い国々に襲いかかってきて、征服していきます。イスラエルの国も、古くはエジプトやアッシリアの勢力に脅かされ、紀元前七二一年には、アッシリアに滅ぼされ、そして百数十年の後には、バビロンによってユダの国は滅ぼされています。そしてその後もペルシア、マケドニア、ローマ帝国とつぎつぎと周囲の大国に支配されていきました。

 聖書が書かれた地域は、アジア、アフリカ、ヨーロッパなどの国々の接点にあり、それらの国で現れた大国の支配にほんろうされることになりました。

 このような状況をみると、世界の支配は武力や権力の強いものが握っていると考えられるのが当たり前と思われるのに、かえってこのイスラエルの民が、この世の支配は、そうした国々や権力でなく、神にあるという信仰がこの詩にはよく表されています。

 何がこの宇宙を、世界を支配しているのか、という問題は、そのような古代から現在の私たちにいたるまで、最も重要な問題であり続けています。

 この世を支配しているものはいったい何であるのか、善でも悪でもない得体の知れない神々(いろいろの霊的な存在)か、それとも偶然か運命か。それとも、科学的な法則なのか、現代のような科学技術の発達した時代にあっては、科学の法則が宇宙を支配していると思っている人も多くいます。たしかに太陽や地球の動き、また地上のさまざまの運動は、万有引力や、運動の法則、作用・反作用の法則などというごくわずかの法則によって支配されているからです。

 聖書によって初めて、そうしたあらゆる支配の問題に最終的な解答が与えられということができます。神は、その選んだ民に、まず唯一の神が存在していて、その神こそがあらゆるものを支配していること、しかもその神は冷たい法則とか、人間を苦しめる支配をするのでなく、真実と慈しみをその本質としているお方であるということです。

 この問題は、新約聖書になっても、当然のことながら大きい問題でした。

 主イエスが生まれたとき、マタイ福音書によれば、そのことを初めて知らされたのは、東方の賢者たちでしたが、その賢者が光輝く不思議な星によって教えられたのは、「ユダヤ人の王として生まれた方」ということでした。ここにも、イエスは、最初から王として生まれたのだということが示されています。

 主イエスが初めて福音を宣べ伝えはじめた時にも、「神の国(御支配)は近づいた」と言われました。これは、日本語の訳語には現れていませんが、「国」とは、「王の支配」という意味がもとにある言葉ですから、「神の王としての支配が近づいた」という意味になります。長い間、人々が待ち望んでいたのは、神を信じる王が現れ、そのような王の支配が確立されることでした。

 神が王であるから、その神の性質をそのまま備えたお方が、人間のもとに来るなら、当然そのお方もまた、王であるという本質を持っていることが考えられます。ユダヤ人は、ダビデのような地上的な権力をもった王を救い主として待望していましたが、神はそうした王でなく、まったくだれも考えたことなないような、王のあり方をした王を地上に送られたのです。

 しかし、この二つの王のあり方は鋭い対立を持っていて、そのことがヨハネ福音書に記されています。

 主イエスがめざましい奇跡を行ったあと、人々はイエスを王にしようという動きが見られました。しかし、イエスはそうした人々の考え方が根本からまちがっていることを深く知っておられたのでそこを逃れて、一人山に入って祈りに入られたということです。

イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
(ヨハネ六・15

 また、このことは、主イエスが最後に捕らえられ、ローマ総督から尋問されたときにも、主イエスは次のような含みのある答え方をしています。

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
 このようなイエスの言葉はたしかに自分は王である、しかし、自分の王としてのあり方は真理そのものである、という意味が込められています。

真理に属する者は、自ずからイエスを王として認めるのです。

 さらに、十字架にはりつけになったときに、その十字架にかけられた罪状書きに、ローマ総督ピラトが書かせたのは、つぎのようなものでした。

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。
(ヨハネ福音書十九・1920

 ここにも、この三つの言語は当時の全世界を代表する言語とみなされていたのであり、これら三つの言語は今日まできわめて大きい影響を及ぼしてきたし、いまもそうでありつづけています。ヘブル語は聖書の原語(旧約聖書)として、ギリシャ語は哲学(科学も含め)の世界を、またラテン語は、ローマ帝国の言語であって、それから現代のフランス語、イタリア語、スペイン、ポルトガル語などが生じてきたからです。

 このことは、このピラトの罪状書きは本人自身はその深い意味がわかってはいなかったが、その後二千年のキリスト教の歴史を預言するものともなったのです。

 たしかにキリストは目に見えない世界の王として、全世界でほかの何よりも尊重され、崇拝されてきたからです。

主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。

潮は打ち寄せる響きをあげる。

大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。

さらに力強く、高くいます主。

 これらの言葉で何を言おうとしているのか、必ずしもはっきりしないが、これは詩編の他の箇所にあるつぎのような言葉と関連していると考えられています。

あなた(神)はラハブを砕き、刺し殺し、御腕の力を振るって敵を散らされた。
(詩編八九・11

 これは、神に向かって敵対しようとする、この世の力が存在すること、そしてそのような力はサタンの力ともみなすことができますが、それが神に対して絶えず攻撃してくる、打ち倒そうとしてくる。それがこの潮(大水)のとどろきであり、そうした力に対してもそれに決して倒されない力を神が持っていて、いっさいのそうした力の上に存在しているということが、これらの言葉の意味するところです。

 長い歴史において、また現代の私たちにおいても、たえずこうした潮が打ち寄せています。しかし、いかにそのような悪の力が真理を打ち倒そうとしても、真理という堅い岩は決して倒されることなく、永遠に続いていくことをこの詩編は告げているのです。

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