遣わされる者への言葉 2000/2
聖書には、神がとくに選んだ人を遣わすということが、重要な内容となっている。使徒という言葉自体が、アポストロス(apostlos)
であって、それは、アポステロー(apostello)「遣わす」という語から作られた言葉なのである。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。・・
あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。・・
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。・・
弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人(イエスのこと)がベルゼブル(悪魔)と言われるのなら、その家族の者(主イエスを信じる者)はもっとひどく言われることだろう。」
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ福音書十・16〜39より)
現在の日本では、私たちはキリスト者となることを命にかかわるような危険なことだとは誰も思わない。また、周囲の人たちから見下され、敵視され、迫害されるとはほとんど考えない。せいぜい、世間とうまくやっていけないのではないか、出世できないとか、享楽できなくなるだろうとかいった程度だと思われる。
しかし、聖書を見ると、主イエスが十二人の弟子たちをとくに呼び出して遣わすとき、私たちの現在の状況からすると、考えられないほど厳しい言葉が言われている。
まず、主イエスから呼び出された者とは、言い換えると「遣わされた者」なのだとされている。
神が人間をとくに呼び出すのははっきりとした目的がある。それは旧約聖書のはるか昔から示されている。アブラハム、モーセといった人々は、旧約聖書の最も重要な人物たちである。
アブラハムについては、
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。・・」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。・・アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。(創世記十二・1〜4より)
未知の所、途中でなにが生じるか分からない、そこへ行くまでにどんな困難や危険があるかもわからない。親しかった親族や知人たちから遠く離れて行くことには、当然いろいろの恐れがあっただろう。
しかし、アブラハムはそうした恐れを越えて出発した。それは、踏みとどまろうとする力にまさって、神の遣わす力が強く、アブラハムのうちに力を注いで彼が住み慣れた場所を離れることができるようにしたのであった。
主がアブラハムを遣わして、アブラハムがそれに従って行ったところから、神の民としての歴史が始まったのである。
モーセについてみれば、彼はエジプトから遠い国まで逃げてきてそこで結婚して子供も生まれて平和な生活をしていた。
そのときに、神はモーセに呼び掛け、そのときから彼の人生は根本から違ったものになっていった。それは、神がモーセを敵のただなかへ、エジプトへと遣わすという命令であった。
イスラエルの人々の叫び声が、今わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
今、行きなさい。
わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト記三・9〜12より)
モーセは自分の弱さを訴え、語るべき言葉を持っていないといって、神からの命令を拒もうとしたが、結局、神の言葉に従って、遣わされることになった。これは、神の民にとって、決定的に重要な出来事へとつながっていったし、それは、世界の歴史においても、きわめて重要なことへと発展していった。
モーセが遣わされなければ、イスラエルの人々は、エジプトにおいて、滅ぼされてしまったであろうし、そうすれば、後の時代に現れたダビデ王や、多くの預言者もなく、キリストも現れることなく、キリスト教の精神も世界に示されることもなかったということになる。
このような、「遣わす」ということの重要性が、初めにあげた主イエスの十二人の弟子たちにも見られる。そしてモーセが遣わされたときに伴っていたのは、命に関わるような危険であった。モーセが命がけでイスラエルの人々を救いだしたあとも、人々は、砂漠の旅の困難を極める生活に苦しみ、モーセに向かって反抗し、殺そうとまでしたのであった。
このような遣わされることに伴う困難と危険は、この十二人の弟子たちの派遣においてもつよく示されている。
主イエスによって遣わされるときには、私たちは安易な気持ちではついていけない。それは、鞭打たれ、死においやられることすらあると予告されている。それは、狼の群れのなかに、羊を送り込むようなものだと言われている。狼は牙をむいて待ちかまえている。しかし、遣わされるものは、その牙に立ち向かうための武力とか権力、多数の人間などいっさいを持っていない。にもかかわらず、主イエスはそうした危険のなかへと遣わすといわれる。
それは、その危険に耐えられる力を与えるからであった。アブラハムやモーセにおいても、未知の砂漠を越えていくための力、勇気が与えられ、モーセには、語るべき言葉を与えると約束され、さらに神の力を発揮する杖をも同時に与えられて出発することになった。
十二弟子たちも、病人をいやし、死人を生き返らせるほどの力、ライ病すら清める力を与えられた上で、遣わされたのであった。
また、捕らえられて、尋問されるときでも神の霊が与えられて、語るべきことが与えられると約束されていた。
イエスを信じるというただそれだけのために、「すべての人に憎まれる」とまで言われている。これは、文字どおりの意味ではないことはわかる。パウロにしても多くの迫害を受けた一方では、必ず少数ながら受け入れる人も現れ、そうした人々によって支えられて前進していったからである。
しかし、これはすべての社会の人々、地位が高い人、無学な人、親族、家族、権力者、庶民などなどあらゆる階層や状況にある人々から憎まれるというと預言しているのだと思われる。事実、主イエスもそのように、当時の支配階級や庶民たちからも憎まれた。それは裁判のときに、あらゆる階層の人々が集まっていた群衆たちから、処刑せよ、処刑せよとの叫びがあがったという事実からもわかる。また、家族からすら受け入れられず、取り押さえられそうになったこともあった。
主イエスすら、悪魔の頭だというような激しい憎しみを受けた。(25節)それなら、主イエスに従う者たちも、そうした憎しみを受ける覚悟を持っている必要があるのだと言われている。また、イエスと同様に家族からも敵対され、家庭的な平和をも失ってしまうことも預言されている。
このような、厳しい状況を知らされたらだれが、従っていけるだろうか。
しかし、長いキリスト教の歴史において、こうした厳しいことが現実に世界中で生じていったのにそれでもなお、遣わされていく人たちは絶えることがなかった。
それは、26節以降にある、主イエスの励ましの言葉と力をゆたかにその魂に受け取っていたからであった。
人々をおそれてはならない。(26節)
体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れるな。(28節)
雀一羽さえ、父なる神の許しがなかったら、地に落ちることはない。あなた方の髪の毛すらも一本残らず数えられている。だから恐れるな。(30ー31節)
神から遣わされた者であっても、人間であるから恐れは生じる。
「恐れるな」という言葉は、つねに神をすでに信じている人に向かって言われている。神を信じないなら、恐れは決してなくなることはない。愛の神が存在しないなら、そしてそのかわりに冷たい偶然と人間の悪意のようなものだけがあるのなら、恐れるのは当然である。
ここで、主イエスが「恐れてはならない」と繰り返し語りかけているのは、単に○○してはならないという戒めではない。雀一羽ですら神は見守っているし、数十万本もある髪の毛の一つ一つをも知っておられるほどに、地上世界のものをすべて見つめているのであって、そのことを本当に私たちが知っているなら、人間への恐れは自ずからなくなっていくと言われているのである。
「恐れは、なにか正しくないことのしるしである。その正しくないものを探し出して徹底的に克服しなさい。そうすれば、おそれは苦しいものではなく、むしろ正しい生活への道しるべとなる。」(ヒルティ・眠れぬ夜のために上・一月二五日)
ここで、ヒルティが指摘している「正しくないもの」とは、一言で言えば、神への不信である。自分の欲望とか、人間に頼る気持ち自体が正しくないものであって、それが神への信頼よりも強いときに私たちは恐れを感じるようになる。
キリストが私たちを招いて信じる者として下さったのは、単に私たち個人の平安のためでなく、主からの平安を受けて、それを他者にも伝えるために遣わされた者となるためであった。そして、どんな人でもその人でなければできない主の証しのために、それぞれの場へと遣わされているのである。
家庭であれ、職場であれどんなところであっても、私たちは主を信じるときには、同時にその場へと遣わされた者となる。たとえ病気で入院していても、その病院のなかに遣わされた者となる。
キリストのように、生きているときだけでなく、十字架にかかって殺される時においてもなお、神の力を証言するために遣わされた存在であったし、さらに、復活をして、死を越える力があることを人類に示すために遣わされたお方であった。
キリスト教の最初の歴史から、人々はつぎつぎと遣わされていった。ピリポという人はユダヤの国に隣接したサマリアへ、そしてエチオピアから来た未知の人へ、さらに、名をあげられていない数知れぬ人たちは、それぞれに遣わされて行った。迫害をされ、エルサレムから追放されたのであったが、その行く先々が遣わされた場として彼らは、キリストの福音を宣べ伝えていった。
人間の心臓が全身につぎつぎととどまるところなくその人が死ぬまで血液を送り続けているように、キリストはこの世のいわば心臓のように、世のおわりまで、呼びだした人をつぎつぎと必要なところへと遣わし続けているのである。
ちょうど、空から降った雨が、山々や大地に注がれ、それは見えなくなって消えたかと思われるけれども、地中深く浸透して、草木をうるおし、また川となって海に注がれていく。同様に、遣わされた者は、その働きがどんなに小さくとも、み言葉を持っている限り、そのみ言葉はどこかの他者の魂のなかに注がれ、うるおし、見えない流れとなってこの世を流れていくのである。
|
|
|
|