休憩室 2000/3

北斗七星
 春になると、夜空になじみ深い星は北斗七星です。「斗」というのは、「柄杓(ひしゃく)」のことで、水をくむのに使っていた用具です。だから、北斗七星とは、北に見えるひしゃくの形をした七つの星という意味になります。
 これは、三月下旬の午後七時頃なら、東の空から七つのひしゃくの形をした星が立ち上がってくるようにして昇ってくるのが見られます。柄杓の先端を五倍にのばしたところに北極星があるので、中学の理科で必ずといってよいほど学習することです。
 しかし、実際に星を見るのは、夜でないと見えないこと、生徒たちを夜にわざわざ学校に来させることが困難なことから、ほとんどの大多数の生徒たちは、北斗七星を実際に見たもないままで卒業してしまい、もう二度と星の配置などのことは考えなくなるという状態です。
 北斗七星は大熊座の中の尾と体の一部を構成している星で、星座名ではありません。しかし、昔は水をくむのにはどこの民族でも不可欠であった柄杓の形をしている上に、よく似た明るい星が七つ並んでいることから、どこの民族からも注目されてきました。
 また、地球からの距離もこれらの星たちはよく似ていて、六十年光年〜百五十光年の距離にあり、比較的近いところにある星です。
 聖書にもつぎのように引用されています。

(神の)御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。・・
神は山をも移される。・・
神は大地をその立つ所で揺り動かし、地の柱は揺らぐ。・・
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンを、すばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。(旧約聖書・ヨブ記九章より)

あなたは銀河をその時が来れば引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。(ヨブ記三八・32)

 これらの詩句を見ると、二千数百年昔にヨブ記を書いた大詩人はあの北斗の七星を見つめて神の創造の大いなるわざに思いを馳せていたのが感じられます。

ホオジロ

 小さい頃から、わが家のすぐ裏山の木の梢にとまって鳴いている小鳥をよく覚えています。澄んだ明るい声でのさえずりは、印象的であの小鳥は何という名前だろうかといつも思ったものです。
 その小鳥の名前がホオジロということがわかったのはずっと後になってからでした。最近、暖かくなってあの懐かしいさえずりが、折々に聞こえるようになっています。ついこの間は、わが家の前の庭先をえさを探しながら飛び歩いていたのです。また、それから少し後には、家の前の小枝にとまってさえずっていたこともありました。わずか十メートルにも足らない近くでさえずりを目にしたのは初めてのことです。
 野草や野鳥については、学校時代にほとんど習った記憶がありません。これは大多数の人にとっても同様のようです。小学校や中学の頃までに身近な野草や樹木ん、小鳥たちに親しむことは、その後ずっとそれらの身近な自然に対して親しみをもって見つめることになり、またそれらから善きメッセージを受け取ることにつながると思われます。

梅と桜と、唯一の神への信仰

 まだ寒さ厳しい頃から、梅はぼつぼつと咲き始め、それだけにいっそう心引く花だと感じられます。まだ他の草木が寒さのために眠っているようなときに、よい香りを放ち、そのうえに純白や赤い花を咲かせる姿は、私たちにもなにか清さを伴って感じられるものです。そしてかなり長いあいだ咲き続けることでいっそう寒さに耐え続ける姿を示してくれます。
 桜にはそうした厳しさが感じられません。暖かくなって、卒業や入社、入学シーズンでもあり、また桜の下で花見と称する宴会なども結びつくからかも知れません。そして、いっせいに咲いたらそのあとは、たちまちいっせいに散ってしまうというはかなさがあります。桜の下の宴会の楽しさもほんのひととき、入学、入社の華やかさとか、ときめきもたちまち消えていくのとよく似ています。
 このように同じバラ科で花の形や色も似ている花であっても、性格がかなり違っていて、人々に与える印象も対照的であるのは興味深いことです。
 日本人は、桜の花をことに愛して、古来「花」と言えば桜を指すほどでした。このようにいっせいに咲いて、またたちまち散ってしまうはかなさが日本人の性質に合っていたからだと思われます。
 このような傾向は、今月号の「初めに神は天地を創造された」の一文で述べたように、日本の古事記では初めに現れた最初の五つの神々が、まもなくいなくなったというはかなさに通じるものを感じさせます。
 このように短命なもの、はかないものに引かれるということは、他方、自然の世界のうちで、最も永遠的で、その存在が確固たるものといえる星について、万葉集や古今集などはきわめてわずかの関心しか寄せていなかったことにもつながっています。
 そしてこの傾向は、現在に至っても、最も永遠の存在である唯一の神への信仰を持つ人々の割合が他の国々と比べて特別に低いということも関係があると思われます。
 キリスト者の割合を見ると、日本はわずかに人口の一%にも満たない状況で、百万人余りしかいません。
 しかし、例えば日本に一番近い韓国は二十五%あると言われ、中国でも、キリスト者は最近では、二千万人から三千万人になっていると推測されており、これは人口の二%を越えていてますます増えているといいます。長い間、キリスト教が認められていなかった中国のような国でも、現在は日曜日に千五百人も集まる教会ができていて、座る場所がなくて立ったまま礼拝を受けるような教会もあるということです。(キリスト新聞・99年一月30日号による)
 また台湾のキリスト者は人口の10%ほどで、フィリピンでは94%に及ぶのです。また、以前のソ連は38%ほどでした。(以上の統計は、「世界キリスト教百科事典」教文館刊による)
 こうしたデータを見れば、同じアジアで日本を取りまく国々と日本では、実に大きい開きがあるのがわかります。

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