ボランティア 2000/6
以前はあまり使われていなかった言葉であるが、最近はだれでもがよく知っている言葉の一つにボランティアというのがある。
この言葉は、ラテン語の voluntas (ウォルンタース)から来ている。この語は「意志、自発、意図」などの意味を持っているが、この言葉は、もとは「
欲する、意志する」という、 volo (ウォロー)から造られた言葉である。
要するに、意志というのがこれらの言葉のもとにあるのがわかる。ボランティアとは自発的な意志による奉仕であり、仕事をいう言葉なのである。い くら自発的意志があっても、報酬をまず期待してすることはボランティアではない。報酬とか評判、何らかの見返りを期待しないで、しかも自発的な意
志で、援助を必要としている分野で仕事をする人をボランティアという。
ボランティアと反対のことは、強制とか、仕方なくやるとか、報酬を目指してするとかである。
目には見えない「神の国」のために働くことも一種のボランティアであり、本来キリスト教伝道に関わる者は、みな一種のボランティアだと言えよう。
なぜかといえば、キリスト者とは、キリストを信じて、自分の意思でなく神の意思をまず自由な心で求めようとするように変えられた者であるからだ。
キリストによって罪の赦しといういかなることにもかえがたい恵みを受けた者であるゆえ、おのずからその喜びを知らせたいと思うようになっている人だからである。
最大のボランティアとは、またそのような最も純粋なボランティア精神とは何だろう。それは、キリストであり、そのキリストを内に宿すようになった者である。内におられるキリストがうながし、キリストがそのなすべきことを導いていかれる。
キリストこそは最大の神の国のためのボランティアであり、その後現れた無数のボランティアの模範となった。
私たちを見守る神 (詩編121編より) 200/6
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わが助けはどこから来るのか。
わが助けは天地を造られた主のもとから来る。
主はあなたの足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださる。
見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方、あなたを覆う影、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。
主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守りあなたの魂を見守ってくださる。
あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
この詩は短い内容のなかに、繰り返し「見守る」(守る)という言葉が現れます。このような見守って下さる神を思う詩だとわかりますが、この作者はそのような見守る神を何によって思うようになったのでしょうか。
それは、最初の言葉によってうかがえます。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ」
この言葉によって、この詩人が山を仰ぐことによって神への心を燃え立たせることになったのが推察できるのです。
山、それは私たちの思いを引き上げ、清め、広げてくれる存在です。そのことは、私自身がもう三十五年ほど昔からずっと感じてきたことです。
人間世界は、狭く、汚れていて、たえず動揺しています。
しかし、山の広大さ、静けさ、清さ、確固不動の姿、高さなど、心に残るものがあります。それは人間世界とはまったく異なる世界です。
このような人間社会との大きな違いは、ただちに明らかとなります。
聖書においても、山は信仰と特別な関わりが記されています。
まず、最も有名な旧約聖書の場面とは、十戒を受ける場所です。そこは、シナイ半島であり、シナイのうちで最も高いところにある場所です。そんな荒々しい自然のただなかでどうして神の言という最も重要なものを頂くことになったのでしょうか。
山は、私たちの心を俗世界から引き上げ、人間のさまざまな思いから清める力を持っています。いかなる人間の意見にもわずらわされないで、ただ神のみに目を向けている必要があったことも考えられます。
また、モーセが地上のいのちを終えたのも、また平地でなく、約束の地をはるかに望むことのできる、ピスガ山でした。
また、旧約聖書の預言者のなかで最も重要な人物の一人は、エリヤです。彼は、偶像を拝む指導者たちを滅ぼしたことがありました。それも、カルメル山でなされました。現在この山の頂上には、エリヤの大きい像が建てられています。
そして一度は、その使命の重さと困難さに疲れはて、死ぬことを求めて砂漠に入って行ったこともあります。そのときに神に不思議な助けを与えられ、そこから、数百キロもある道のりを昼も夜も進んでたどりついたのがシナイ山でした。そしてその山で再び彼は神の声を聞き取り、新しい力と使命を示されて再びもとのところに帰って行ったということもありました。
ただ神の静かな細い声を聞くために、遠い道のりを命がけでシナイ山にまで行ったということ、なぜもっと近くで、神は語りかけなかったのかと不思議に思われます。しかし、それほどまでに、山は人間に不思議な力を持っているということがわかります。
新約聖書においても、やはり山は特別な意味があります。世界で最も読まれてきた箇所だと思われる主イエスの教えの中心的部分は、山に上って語られました。そのため、それは山上の垂訓として有名です。
あるいは、主イエスが神と本質が同じだと示すために、十字架にかけられる少し前に、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れてやはり高い山に上ったことがあります。イスラエルの周囲で高い山というと、標高二八〇〇メートルのヘルモン山だということになります。(近くのタボル山ではないかという説もありますが、これは標高六百メートルほどの低い山です。)
イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように 輝き、その衣は光のように白くなった。(マタイ十七・2)
このように、主イエスが神としての本質を目で見えるように現したというのはこの箇所だけですが、ここでも高い山に上っています。
また、主イエスが最後の晩餐を終えて、十字架に付けられる前夜には、必死で祈られたのですが、そこもまたオリブ山という場所であったのです。
このように、山がさまざまの重要なことの舞台となっています。
この詩の作者も前方に広がる山の連なりによって心が神へと引き上げられ、そこからさらに神の守りへと心は広がっていったのを感じます。
わたしの助けは、天地を創造された神から来る。
山に心を向けた作者は、この確固不動の山を創造された神の力へと向かい、天地創造の神は、私を必ず救うことができる、私を日々支えて下さると確信するに至ったのです。
創造の神は、遠い昔にその業を終えたのでなく、現在もまた働き続けておられます。
私たちが人生のさまざまの苦しみのとき、また生涯の岐路に立つとき、私たちの信じる神は、天地創造の神であるということを思い起こすとき、新しい展望が開けることがあります。
どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない
人間はどんなに愛する者を見守っていようとしても、夜は眠らねばならないし、自分の目を離れるならどこでどうしているのかわからなくなります。到底一日中、見守り続けることなど不可能です。赤ちゃんを見守ることにすべてをかけている母親であっても、いつもずっと見守ることはできません。
このごろの少年の犯罪にしても、両親がずっと見張っていることなど到底できないことであるし、もしそんなことをしていたら一層依頼心の強い子供になってしまい、精神的にも弱い人間となると思われます。
人間の守りというのはこのように、弱くきわめて限定されたものでしかありません。
それに対して神の守りは、一日中眠ることなく、ゆるめることもないというのです。私たちが夜になって休んでいるときも、日中の活動のときも、また 私たちの方が神を忘れているような忙しいときであってもというのです。
これはなんという恵みだろうかと思います。
この詩は重要な詩ですが、わかりにくい箇所があります。それはつぎの箇所です。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。(6節)
この詩が書かれたのは、乾燥地帯です。雨は、日本と比べるとはるかに少なく、砂漠のようなところが多い所です。現在のイスラエルの重要な都市
である、テル・アビブでは、過去三十年間もの間、六月、七月、八月には、全く雨が降ったことがないという状態です。
このような乾燥した国においては、日中の太陽が人間に大きな害を与えることはすぐに分かります。日本から行った旅行者もイスラエルに行ってまもなく、日中に脱水症状を起こしたというのを聞いたことがあります。
しかし、「月が人を撃つ」と書かれていますが、どうして夜の月の光が人に害を与えるのかは、日本の人には全く不可解です。日本人にとって、月の光は害を与えるどころか、その柔らかな光は多くの人の心をなごませて、和歌にも多く取り上げられてきました。
しかし、乾燥した地域では雲一つない夜の月は澄み渡っていて、その光を浴びるとなにか精神によくない影響があると信じられていたのです。英語には、ルーナティック(lunatic)という言葉がありますが、これは、精神の病の人という意味です。そしてこの言葉は、ラテン語の月(luna)という語から造られているのも、古い時代には月が人間になにか悪影響を及ぼすという考えがあったことを暗示しています。
しかし、「昼は太陽があなたを撃つことなく、夜も月があなたを撃つことがない」というのは、砂漠地帯における太陽で象徴されるはっきりとわかる害を及ぼすようなもの、例え暴力とか悪口、貧困、病気などというようなものからも守られるだけでなく、夜の月で暗示しているような、闇にはたらく力、はっきりとはわからない力による攻撃からも守られると受け取ることもできます。
それは、オウム真理教などのような間違った宗教の影響とか、最近の世のなかの汚れた風潮などそれらは、いわば夜の月の光のように闇の中からひそかに心のなかに忍び寄ってくる力だと言えます。
このように、私たちにはさまざまの種類の攻撃がなされているのですが、そのようなあらゆる危害から守られるということなのです。
昼も夜も変わることなく、見守って下さるお方がいる、それは何にもかえがたい恵みです。
神がいないなら、いったい何者がそのように昼夜を分かたずに見守って下さるだろうかと思います。
単なる偶然的な出来事と、悪い事が満ちているようなこの世にあって、この詩も作られたはずですが、この詩は詩編全体のなかでもとくに見守る(守る)という言葉が多く使われています。
現実の世の中は、はるかな古代から現代にいたるまで、いつもさまざまの危険があり、事故や病気があり、戦争があり無惨にも殺され、苦痛にうめきながら死んでいくという出来事は至るところにありました。
神を信じている人もこうした悲惨な出来事にあってきました。イエス・キリストは完全な神の守りのうちにあったお方であるにもかかわらず、あのような十字架刑に処せられました。そのあとのキリスト教の時代にも数百年という長い間、迫害が続き数えきれぬ人たちが傷つけられ、殺されたのです
。
このような状況はこの詩編を書いた作者の時代も同様であったでしょう。
それにもかかわらず、この作者がこのように夜も昼も変わることなく守って下さる神を実感し、そのような神への賛歌を書き残したということ、そしてそれが真理であるとして数千年も伝えられてきたことに驚かされるのです。
これは単に見える現象を見ているだけでは決して得られない確信です。ここに神からの直接の啓示と自分自身の経験が背後にあったのがわかるのです。
私たちが個人的に、「お前をいつも守っている」という、神からの語りかけを聞き取るとき、周囲にいかなることが生じようとも、この詩人が経験したような神の守りを実感するだろうと思います。
私たちの日々は、私たちに絶えず害を与えようと見張っているサタン的な力に飲み込まれるのか、それとも全く逆に、私たちを夜も昼も愛をもって見守って下さっている愛の神にゆだねるのかという選択の日々だと言えます。