キリスト教と戦争 2000/7
よく十字軍などを例にだして、「キリスト教は戦争をした」といって批判する人がいる。しかし、そうした人たちは、たいていキリスト教とは何かということをほとんど知らないで言っているのである。
そもそもキリスト教とは何だろうか。
それは、イエスが地上で生きていたときに、教えたこと、行ったことだけでなく、キリストが十字架にかかって私たちの罪を担って死んで下さったということ、キリストは殺されたが復活した、そしていまも見えない聖霊となって生きて働いている、世の終末にはキリストが再び来られて、新しい天と地にされるといったことである。
それらが福音書とか使徒たちの手紙などとして新約聖書は構成されている。
これらの内容のいかなる部分が戦争を肯定しているのか、新約聖書を詳しく調べるとわかるように、戦争を肯定している箇所はどこにも見いだすことはできない。また、キリスト以後の使徒たちの教えたこと、語ったこと、そして行ったことなどを記した使徒行伝にもそうした教えは見られない。
このように、新約聖書の数百頁にわたる内容には全く武力で戦争する必要が記されていないのである。キリスト教そのものは決して戦争を肯定していないのが、聖書を見ればすぐにわかる。
その意味でキリスト教が戦争したとかいう主張は、全く間違ったことである。
使徒パウロは、意識不明になるほどに、石で打ち倒されたことがある。そして郊外に引きずって行かれたことすらある。しかし、そのような時であっても、パウロは全く力をもってやり返さず、意識が戻ると再びその町に入って行ったと記されている。
ところが、ユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。(使徒行伝十四・20より)
また、キリスト教史上初めての殉教者であったステファノはやはり彼の信じる真理を語ったところ、激しい憎しみを受けて、石を投げつけられて死に至った。
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(使徒行伝)
これらはすべて主イエスご自身が、無実の罪にもかかわらず捕らえられて、十字架刑にされて殺されたがそのときにも、周囲の人々のために祈って最期を迎えたということにも現れている。
こうした例が示しているように、キリスト教そのものは、決して武器をもって殺し合う戦争を肯定していないのははっきりとしている。
しかし、旧約聖書には戦争の例があるではないかと反論する人がいる。たしかに、旧約聖書では、さまざまの戦いが記されている。エジプトを出た民が長い年月を要して約束の地であるカナンの地に入った後も、多くの戦いがあり、のちのダビデ王の時代にも同様であった。旧約聖書では武器をもって戦うことは、神の命令としてなされたことが記されている。しかし、旧約聖書に書かれていることがそのまま新約聖書の真理ではない。
例えば、アブラハムやヤコブ、ダビデなどは多くの妻を持っていた。今から数千年も昔のこうした例は、神がまだこうした方面において完全な啓示を与えていなかったことを示している。しかし、キリストの時代になって、結婚は、キリストと信徒の集まりとの結びつきを象徴するものであって、神聖な関係だということが記されている。そこでは、当然、一夫一婦ということが正しいこととされるようになった。
また、旧約聖書の時代には、異邦人は汚れているとされていて、使徒ペテロすらその意識から自由になるのは困難であって、キリストの死後、夢のなかで神から直接の啓示を受けてようやく異邦人も汚れているのでないとわかったのである。
あるいは、食物にしても、旧約聖書の時代では、タコ、イカ、あるいは豚などは食べると汚れるとされていたので、食べることは禁じられていた。しかし、キリストは、口から入るものによっては汚されないと明言された。
それから最近では、エホバの証人が言い出したことで知られるようになったが、輸血してはならないなどということはもちろん聖書には記されていないが、血を食べてはいけないという戒めは旧約聖書にある。しかし、これは血を出すと死ぬということやその鮮やかな色のために、いのちそのものだと見なされていたからこうした規定が作られたのだと思われる。
しかし、キリストは、すでに述べたように、何を食べても汚されない、口から出ていく汚れた思いが人を汚すといって、血を食べてはいけないなどということも全く問題にされていない。
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(マタイ十五・11)
また、ハンセン病(らい病)だけでなく、死体に触れることや、女性の出血の病なども汚れだと見なされて、そうした人間とは交際も接触することも禁じられた。
割礼という儀式をしなければ、神の民とされず救われないということは、はるか古代のアブラハムのときにすでに言われていた。
あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。
無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。(創世記十七章より)
このように、戦争のことだけでなく、旧約聖書には、キリストの時代になってから、全面的に捨てられた戒めや、より深い新しい内容になった戒めがいろいろとある。
例えば、割礼は、実際の肉体に受けるのでなく、心に割礼を受けることが重要であり、戦いも、剣や槍などの武器をもってする戦いでなく、目に見えない悪の力、悪霊との戦いであり、武器も、信仰や、正義、神の言というようなものがキリスト者の武器だということになった。
このような聖書の内容について知っているなら、キリスト教は戦争を肯定しているとか、歴史上でキリスト教は戦争をしてきたなどというのが、間違いであることははっきりとわかる。
歴史的に戦争したのは、キリストの教えや新約聖書そのものの教えからでなく、キリストの教えに忠実に従わなかった王や指導者が戦争をしたということなのであり、あるいはさまざまの政治や社会的問題のために、キリストの教えには反するが、やむなく戦争になったという例もあるだろう。
キリスト者であっても、隣人を愛せよと言われていても、どうしても愛することができなかったということがあるのと同様であり、ある問題でキリスト者が一時的にせよ、人を憎んだから、キリスト教が人を憎んだのだなどというのが間違いであるのと同様である。
キリスト教はあくまで、戦争は認めていない。しかし人間の弱さや罪がそのようなことをさせてきたのである。キリストを信じると称してきた人たちも戦争を始めたこともある。しかし、キリスト教そのもの、新約聖書は決して武力による戦争を認めてはいないのである。
私たちはいかに弱いものであって忠実に従えないものであっても、キリストの教えとその精神はあくまで正しいのがわかる。そこには永遠の真理がある。現在の日本や世界は、核兵器を使う戦争が全面的に生じたりすれば、滅んでしまうのははっきりしている。こうした時代にあって、真理そのものであるキリストの教え、武力を取る戦いを退けて、信仰や神の言をもって戦うことが求められている。
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