水や木の葉のコーラス-2000/11-2
谷川のほとりに立つ。そこには心ひかれる音、せせらぎの音がある。そこに立ち尽くして耳を傾けたことは何度あることだろう。山を歩くとき、しばしば谷川にさしかかる。登り口からすでに純白の水しぶきをあげて流れ下る谷川とともに歩くときも多い。
そのとき、その川の色、水しぶきの真っ白い色とともに、岩を流れ下る音のなんという響き!
かつてある山深い滝の近くにて長い時間その水音に聞き入ったことがあった。そこに行くまでには、家からは数時間を要した。夕方近くに着くようにしたため、誰一人いなかった。周囲に群がる樹木たち、そしてその間に響きわたる水音。ただ一人、聞き入るとき私のまえに、しずかにある何かを感じたのを忘れることができない。
水の流れとともに、私の心にあったさまざまのもつれたようなものが流されていった。谷川のほとりで心を集中してその水と音にひたるとき、いつしか自分もまた、その水と一つになっていくようであった。
水は清める力を持っている。その水音もまた心に深く入ってくる。
それはどうしてなのか。不思議にも、やはり大風のときに、大きな松の木々に近くにいるとき、不思議な重々しい響きに心惹かれたことも幾度となくあった。
また、海辺に立つとき、そこに打ち寄せる波の音も数しれない人々の心を励まし、共感し、苦しみをいやし、またともに悲しみをも受けとめてくれたと感じさせたことだろう。
それは、みな小さな数しれないものの生み出す音。無数の水粒がいっせいにコーラスするのが、あの谷川の意味深い音であり、大波の壮大な打ち寄せる音であり、松の小さな無数の葉たちのコーラスがあの重々しい響きとなるのだった。
神は小さきものを用いられる。無数の小さきものが、神に用いられるとき、他にはかえがたい音楽を生み出すのである。
パウロの祈り
主イエスが教えられた主の祈りは、世界中で最も多く繰り返し言われてきた言葉だと思われます。それは礼拝のたびごとに繰り返し祈られてきたからです。少しでもキリスト教の集まりに参加しはじめた人は主の祈りを知っているわけです。
そのキリストの霊を最も豊かに、圧倒的に受けてきた人はパウロです。だからこそ、彼の書いた手紙は新約聖書の相当多くの部分を占めているのです。ほかの弟子たちとは比較にならないほどに多くが聖書として、神の言として収められているということは、パウロが受けた聖霊が最も豊かであったことをしのばせるものがあります。
そのパウロはどんな祈りをしていたのでしょうか。
パウロの祈りは、彼の書いた手紙のあちこちに見られます。パウロはつねに祈りつつ書いていたと考えられるので、それは当然のことです。神の言とは、いつも真実な祈りの魂へ最もゆたかに注がれるからです。
そのパウロの祈りをここでは学びたいと思います。わかりやすくするために、番号を付けてあります。
パウロの祈り(T)
祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(エペソ書一・15〜19)
(一)祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
ここには、パウロが広い範囲の信徒たちに絶えず深く心を注いでいたにもかかわらず、一人一人をも思い出して祈りのうちで、神に感謝していたのがうかがえます。
このエペソ書のほかにもパウロがこのように一人一人を思い出して祈っていることを示す箇所をあげておきます。
わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし・・(ロマ書・一・9)
(二)どうか、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。
知恵と訳されていますが、日本語の「知恵」という語はずいぶん軽い意味です。知恵の輪というおもちゃもあるし、子供が少し生意気なことを言うと、知恵がついてきたと言ったりします。このようなことから、日本語では知恵といっても、大したことでないという感じを持たせる言葉です。しかし、この語の原語(ギリシャ語)は、ソフィアといって、これは、真理にかかわる洞察を意味します。
このような、真理を知ってさまざまのことの本質を見抜く力をいうので、それらは神の霊を受けてはじめて与えられるということです。パウロはそのようなことを人々に対して祈っていたのだとわかります。そして、これは、主イエスが最後の夕食のときに、約束したことでした。
真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(ヨハネ福音書十六・13)
パウロはこの主イエスの約束が実現されるようにと祈っているのです。これは現在の私たちにとっても重要なことで、自分についても他人についても、聖霊が注がれて真理を見抜く力が与えられるようにとの祈りはすべての人間に対して必要なものです。
(三)神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖徒たち(キリスト者)の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
私たちが神に呼ばれて見させて頂いている希望とは、どんな内容なのか、将来与えられるものがどんなに素晴らしいものか、それを知るほど私たちは現在の苦しみや闇に打ち倒されなくなると思います。将来に希望がないと思うとき、心は暗くなり、絶望的になります。希望のない心には力は生まれてきません。
私たちが神を信じるとき、万能の神がして下さると信じるゆえに私たちは希望を持つことができる、しかもその希望は不滅の神に結びついているからこそ、決してこわれない希望です。
(四)わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
この締めくくりの祈りで、パウロがいかに神の力が大きいと感じていたかが、私たちにも伝わってきます。私たちに対して働く神の力が絶大なものであると知れば知るほどにその神に対して希望を持つし、その神が私たちに与えようとしている大いなる天の国の賜物も絶大なものだとわかり、万事が希望に満ちたものとなるわけです。
その反対にもし神が小さいものと思うなら、そこには揺るぎ無い希望もあり得ません。
つぎに、もう一つの箇所で記されているパウロの祈りを見てみます。
パウロの祈り U(エペソ書三・14〜21より)
(五)どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
パウロの祈りの中心にあったことは、人々の心にキリストが住んで下さるようにということでした。これは別の箇所でもつぎのように述べています。
生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる。(ガラテヤ書二・20)
キリストが私たちの内にしっかりと住んで下さってはじめて私たちは愛にしっかりと立つものとなります。なぜならキリストは愛そのものといえるお方だからです。このように、パウロの祈りの中心は、キリストが私たちのうちに住んで、そこから神から頂いた愛をもって生きるようにということであったのがわかります。
(六)あなたがたがすべての聖徒たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストが内に住んで初めて私たちは愛ということを知り、神を見つめて生きてきた人間は、ますますキリストの愛がどんなに底知れないものであったかがよくわかります。それをこのようにパウロはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さといった物質的な用語を用いて語っています。
キリストの愛はたしかに「長い」。それは、一時的なものでなく、二千年も続いています。私たちもキリストの愛の一端を受けるとき、他者のことを祈り続けることが少しずつできるようになります。
また、パウロの祈りは、キリストの愛の高さを深く実感することもあったのがうかがえます。それはどこまでも高く、深い神との交わりに導かれていくミスティク(mystic)としての祈りの体験をも与えられていました。
それは第三の天にまで引き上げられるほどの祈りだったのです。(使徒ヨハネ、あるいはアシジのフランシスコ、スペインのテレサやダンテなどにも深い神との直接的な交わりを与えられていたのがその著作に現れています。)
人間同士の愛と言われるものが、すぐに憎しみや妬み、単なる愛欲だけのような実に低い所まで堕落してしまうのとは大きな対照をなしています。
(七)わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることができる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
彼の祈りの最後は、栄光、神にあれ!ということでした。どんなに働いても、学んでも、業績をあげても、自分が偉いのだ、自分の努力がすばらしい・・などと自分に語っているようでは、決していいことはない。キリスト者は、いつもあらゆるよいことを自分や他人の努力とか能力のせいにするのでなく、そうした力を与えた神がして下さったと思って、神に感謝すること。それが神に栄光を帰するということです。
「主の祈り」のあとに付けられる、「御国も力も栄光も永遠に神のものです」という祈りに共通するものがここにあります。
以上のようなパウロの祈りをさらにこまかな内容にまで触れた箇所を見てみます。
兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。(ロマ書十・1)
ここでは、パウロは、敵対するユダヤ人のために、まさに「敵を愛し、敵のために祈る」ということを実際に行っていたのがわかります。ユダヤ人へのひそかな復讐的な気持ちとか裁きを願う気持ちでなく、絶え間ない痛みを感じつつ、彼らのかたくなさに対して深い悲しみを持って祈っていたのです。
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることであるが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがある。
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っている。(ロマ書九・1〜3)
ユダヤ人たちが彼に対してどんなにひどいことをしたかは使徒たちの記録に詳しく記されています。ある時は、石で打たれ、意識不明になって郊外に引きずり出されたこともありました。またある時には、殺そうとする人たちの手から逃れて危うく一命を取り留めたこともあったのです。しかし、そのようなあらゆる敵意にもかかわらずパウロは、ユダヤ人を憎むとか報復するということは決して考えなかった。逆にユダヤ人のためなら自分がのろわれて捨てられてもよいとまで同胞であるユダヤ人を愛していたのです。
自分がキリストから離されてもよいとまで祈るとは!
それはキリストがいわば、犯罪人としてのろわれたごとくに殺されたそのような死の有り様を思い浮かべているのではないかと思われます。
このパウロの驚くべき祈りは、主イエスが十字架で息絶えるときに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」と叫んだことを思い起こさせるものがあります。主イエスは自分が捨てられたと感じるほどに深く人々のために最後まで生きたということなのです。人が他者のために命を捨てることほど大なる愛はないと記されていますが、パウロもまさにそうした祈りと願いをユダヤ人に対して持っていたのがうかがえます。
(八)共同の祈り
兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。(Uテサロニケ三・1〜2)
パウロは二千年の歴史でも、最も高く引き上げられ、聖霊を豊かに注がれた人だから、他人から祈ってもらう必要などなかったと思われるかも知れません。しかし、そうではなく、一層他者からの祈りの重要性を知っていたのがわかります。人間は自分だけでは、うっかり祈りをしていないことがある。高ぶってしまうこともある。他人の非難に腹を立てたり、また逆に誉められたり重んじられたらいい気になってしまい、自分の罪が一時的にせよ見えなくなってしまうこともあります。
使徒ペテロはキリストの十字架での死のあと、聖霊を豊かに注がれた人であったけれども、それでもなお、信仰の事柄で根本的な誤りを犯したことも聖書で記されています。(ガラテヤ書二・11〜14
参照。)
さらに、病気や悩みなどが深刻になったら、そのことばかりで他人のことまで心が及ばなくなって心が狭くなることもあります。そうしたすべてから守られるためにも、他者に祈ってもらう必要があるのです。
共同の祈り、それはキリスト者はすべてキリストのからだであると言われていることから、当然というべきものです。私たちがキリストのからだの部分であることを知るのは、他者のことを真剣に祈っているときにはっきりと感じるものなのです。
(九)祈りの戦い
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、御霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。
(「一緒に熱心に祈って下さい」というギリシャ語原文の意味は、「祈りの内で、ともに戦って下さい。」であり、共に戦うという語 シュナゴーニゾマイ sunagonizomai が用いられています。sun
は共にを表す接頭語、agonizomai は「戦う」という意味。ロマ書十五・30)
パウロの祈りはまた、戦う祈りでした。キリスト者の戦いは、目に見える人間や組織との戦いではなく、目に見えない悪の霊との戦いであることは、聖書にはっきりと記されています。(エペソ書六・10〜18)
そうした戦いにおいては、どんな人でも加わることができます。霊の戦いであるからこそ、寝たきりの人、老人、死の近づいた人ですら可能なのです。ここには、学問とか経験、あるいは家柄などはいっさい関係がありません。
(十)未知の大地を見つめて・世界の果てスペインまで・
このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。・・
しかし今は、・・何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。(ロマ十五・20〜24より)
パウロは、自分が知っている人たちだけを念頭においているのでなく、何があるかわからないような未知の大地、世界の果てをもキリストのゆえに見つめ、そこへと導かれることを心から願っていました。今から二千年前では、イスパニア(スペイン)というのは、文字通り世界の果てでした。パウロはローマ帝国の首都であるローマでなく、はるかな遠いイスパニアを思い浮かべ、そこに神の光を、キリストの救いの福音を宣べ伝えるべく祈りを続けていたのです。
(十一)パウロの祈りの雄大さ
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。栄光が神に永遠にあるように、アーメン。(ロマ書十一・36)
パウロは、神が万物を動かしていること、そして最終的には、万物を神に向かわせていると知っていました。こうしたパウロの言葉を見ると彼は宇宙的スケールで万物を見ていたのがわかります。そのような雄大な神のご計画を見つめつつ、果てしなく大きい存在である神にすべての栄光があるようにと祈っているのです。
パウロの祈りは、神とキリストの深い交わりを持ちつつ、小さき者を一人一人思い浮かべる祈りであり、さらに小さい仲間だけのことを祈るのでなく、敵対する者をも祈る祈りでした。そして時間的には、世の終わりにいたるはるかな未来を見つめ、地理的には、世界の果てを見つめ続ける祈りであったのです。
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