休憩室 2001/1
水と酸素、植物
植物には水がなければ育たないということはだれもが知っていることです。しかし、なぜ水がなかったら植物は生きられないのかと問われると、さて?と首をかしげる人も多いと思われます。
水は植物が地中から取り込んだ栄養分を溶かし、それを植物体内に運びます。また細胞内でさまざまの複雑な化学反応をするためには水がなければ反応は起こらないのです。例えば、私たちが毎日不可欠のものとして食べているご飯やパンなどは植物が作ったでんぷんを利用しています。そのでんぷんは細胞内の水のなかで複雑な光合成という反応があってはじめてできるのです。
さらに、私たちは生きていくためには酸素を取り込み、体内で生じた二酸化炭素を外に出す必要があります。しかしそうした反応もまた水がなければ生じないのです。生き
ていくには酸素が必要だ、これはだれもが知っていることです。しかし、その酸素はいったん水に溶けてから、細胞内に入るのです。水がなかったらいっさいの反応は生じないので、生きられないのです。
水の役目はそれだけではありません。じつは、私たちが呼吸している酸素は、植物が地中から吸収する水が分解されてできた酸素なのです。水(HO)は水素と酸素とが結びついた物質ですが、その酸素が植物体内で引き離されて外に出され、それを私たちが利用しているのです。
このように、私たちが無意識で吸って生きている酸素はじつは植物が地中の水を吸い取ったものから生じたのです。いかに、植物が重要であるかがこうした点を考えてもわかるのです。
野や田畑、あるいは山々に無数にある植物、それらの体内において水が重要なはたらきをしたあとで、分解されて、外に出て、それが私たちの呼吸する酸素になって私たちの体内に入り、今度は私たちの体内で私たちが取り入れた食物を燃焼させて、私たちは生きるエネルギーを得ているのです。
そしてそのような驚くべき仕組みを創造された神の無限の英知の深さを知らされます。
今から二千五百年ほども昔の預言者がつぎのように、水がつぎつぎと自然のなかをめぐって大きい役割をはたしていることを指摘して、さらにそのように、神の言葉も着実にそのはたらきをしているのだと言っているのです。
物質の世界もよく見てみると、精神の世界、目に見えない世界のことをしばしば象徴的に指し示しているのに気付くのです。
雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書五十五・10)
○冬の星座
今年の冬の星空は、三つの特に明るい惑星が見えるために、いっそう目を引く夜空となっています。夕暮れには、西の空に強い光で金星が宵の明星として輝き、夕方に南西の空に目を向ける人には必ず著しく明るい星として目に止まります。ことに、冬の冷たい風が吹きつのる日が暮れてまもない頃に、冷たいけれども澄み切った大気のなかに、私たちの心を引きつけてやまない星です。
そして南から東の方に目を転じていくと、やや高いところに土星、木星の二つが並んですぐに目をとらえるような目だった明るさで輝いています。木星と土星を南西へと延長して下ろしていくと金星に届きます。
木星と土星のすぐ近く(東側に見える)には、最も有名な星座であるオリオン座があり、それは、ベテルギウスという赤い色の巨星と青い色のリゲルという一等星を持っています。その近くには、大犬座があり、それはシリウスという恒星のうちでは最も明るい星が輝いています。オリオン座を見たことがないという人もいますが、青い星と赤い星の一等星と、二等星を五つも含むので、すべての星座のうちで、最も明るい星を多く含む星座であり、最も見つけるのも簡単です。見たことのない人は、ぜひこの冬の間に見つけて欲しいものです。
その他にはつぎのような明るい星を持つ星座があります。(かっこ内はその星座に含まれる一等星またはそれに準じる明るい星です。)
大犬座の上の方には小犬座(プロキオン)、そしてその上には、双子座(カストルとポルックス)といって、二つの明るい星が並んでいるのです。オリオン座の上の真上に近いところでは、五角形をしたぎょしゃ座(カペラ)も見えます。
このような夜空の星を見ることによって、私たちは神の創造の力の大きさと広大さを強く感じることができるからです。
神である方、天を創造し、地を形づくり、
造り上げて、固く据えられた方、
混沌として創造されたのではなく、
人の住む所として形づくられた方、主は、こう言われる。
わたしが主、ほかにはいない。(イザヤ書四五・18)
このように、旧約聖書の預言書も、しばしば神を思い起こすときに、天地を創造されたお方であるということを同時に思い起こすようにうながしています。この無限に広がる宇宙をも創造されたのが私たちの信じる神であるならば、どんなことをもなすことができるという確信を強くされるのです。
聖書における「憲法
最近は、憲法論議がいろいろなされるようになった。憲法とは国家の根本法であるが、その内容のうち、とくに憲法第九条を変えて、軍備、軍隊を持つ国家としたいという人たちが以前からいて、そうした人たちがかなり以前から議論していたものであった。
憲法に関する議論は、複雑で難しいものとなりやすい。戦力をどう認めるのか、自衛のあり方、集団的自衛権を認めるのかどうかとか天皇制の問題点、基本的人権の尊重と責任や義務とのあり方などなど。
一つ一つの条文を検討して議論していたら、いくらでも時間がかかるだろう。
大多数の人々にとって憲法とか法律全体はじつにわかりにくい表現であり、読む気がしないようなものとなっていると言えよう。
教育基本法を変えるべきだと主張していた自民党国会議員が、じつはその条文も読んでおらず、前文を見て、なかなか良いことが書いてあるともらしたとか、そんな話が新聞に書かれるほどに内容も知らずに、戦後五〇年経ったから変えようなどと、周囲に押し流されている人が多数を占めていると考えられる。
こうした複雑で難解な憲法議論に対して、聖書は国の根本的法律をどう規定しているのだろうか。
神の民の憲法、それは「十戒」である。分かりやすく言えば、つぎのようなものである。
天地万物の創造者である唯一の神のみを神とせよ。偶像を造るな。神の名をみだりに唱えるな。安息日を聖とせよ。両親を敬え。殺すな。まちがった男女関係を持つな。
盗みをするな。他人のことについて嘘の証言をするな。他人の持ち物を欲しがるな。
ここで言われているわずか十か条が、神の民の憲法というべき根本規定なのである。
なんと単純明快なことか。たしかにここにある内容を本当に守ることができれば、人間どうしの争い、民族間や国家間の戦争も生じないだろう。
唯一の神を神とするなら、すなわち真実と清い神、正義に満ちていてしかも、愛に満ちた神のみを何よりも重んじるなら、盗みとか殺人、不正な男女関係など生じることはないからである。この世のいろいろの犯罪とか争いはみなこうした基本的なことを守らないことから生じると言えよう。
主イエスはそれらの十戒をさらに簡潔にわずか二条に凝縮した。
神を愛せよ。
隣人を愛せよ
この二つに旧約聖書のすべての法の内容が込められていると明言された。たしかに、すでに述べたような意味での神を私たちが愛するなら、つまりそのような真実で愛に満ちた神に心を注ぎだすなら、おのずから隣人への心も清められ、愛することができるようになっていく。その二つの心があったら、あらゆる紛争は根本のところで消えていく。
聖書の「憲法論」はきわめて単純明快であり、かつどこまでも深い。
返舟だより
○インターネットメールから
私がときどきインターネットメールで希望の人に送っている、「今日のみ言葉」を読んで感想を書いて送ってこられる方、またそれを経営している会社の社員に転送されるようになった方、印刷して読まれる方、またご自分のホームページに転載される方などいろいろおられます。
メールで送られてきた返信から一部をあげてみます。短い聖書からの言葉であっても、神の言は私たちの思いを超えた力があり、その働きをするのだと思われます。
☆「今日のみ言葉」のなかにあった「日々、わたしたちを担い救われる神」が私の神様であると思い心強く思いました。日々、というところが特に心に迫ります。つらい時も、悲しいときも、うれしい時も毎日毎日主のみ手の中にあると思うととても平安です。(四国の方)
☆今メールを開いて、「今日のみ言葉」が送られているのを見つけて、大喜びで、プリントアウトしました。有難うございました。家内と繰り返し読みます。孫がやっと帰ったので、落ち着いて自分の時間が持てるようになりました。・・徳島の集会に参加させていただくのを楽しみにしています。シャローム(中国地方の方)
☆「今日のみ言葉」は、いつも神様の優しさを知らせてくれる御言葉で、本当に読むたびに心が軽くなるようです。特に今日の御言葉は、涙が止らないほど嬉しかったです。
自分ではどうしようもない欠点、なんでこんな性格に生まれたのかなとか思ったこともあったけど、神様が作ってくださったから神様が責任も負ってくださる、って思いました。
何か新しい人生が、また始まるような気分です。残りの人生が神様とともに、信仰によって歩めたらいいなぁと思います。(近畿地方の方)
○次は、やはり「今日のみ言葉」を送っている方からの返信の一部です。私はこのドキュメントを見ていないのですが、NHKがこのようなキリスト教に関わる内容を紹介するのは珍しいことだと思いました。
☆NHKのドキュメントをみてたら戦争で戦闘機を作り戦後は新幹線の仕事に携わった人が若くして特攻隊で散っていった人のことでずっと苦しんで、キリストに入ったという話、アサヒビールを立て直した樋口さんも京大の時、ある神父さんに巡り会って信仰を続けているとか。
また企業戦士だった人が五十一歳でアルツハイマーになった奥さんのために社会的な地位を全て、捨てて、奥さんの看病一筋になったきっかけもキリストへの信仰に巡り会ったことが要因だったとか。
そしてその方が奥さんを置いてガンで急逝したとき、息子さんがお葬式にあまりにたくさんの市井の人たちが来たので驚いたと言ってました。たて続けに、こんなドキュメントを見て改めて「信仰」ということに感動と驚きを感じました。(四国の方)
○以上のように、最近は、インターネットメールの普及でいろいろの方々からメールでの通信があります。まもなく、ほとんどの家庭でインターネットが使われる状況となるようですが、そこで単なるおしゃべりとかの人間の言葉だけがはんらんするのでなく、キリスト者は神の言を中心としての会話であり、情報交換の場となり、交流の場となれば、神からの祝福も受けることができると思われます。
○去年の十二月二十四日のクリスマス特別集会には、大人、子供合わせて六十八名の参加があり、久しぶりの人、初めての参加者も十名ほどありました。クリスマスメッセージの他に、子供向けの聖書の話や、歌、器楽、手話讃美、コーラス、それから二人の方による証しと数人の人による感話があり、その後で会食をしました。また、中国と韓国からの留学生も二人加わり、その内の中国からの方には、証しもして頂きました。キリストを中心とするときには、国や民族の隔てが感じられなくなるということは神の恵みの一つだと思われます。
なお、このような特別集会のときには、集会場が狭くて入りきらない状態となったので、少しだけ建て増しています。この集会場が神の言を聞く場となり、キリストによる交わりが深められる場として用いられればというのが願いです。
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