春-2001/2-1
時は流れ、再び春がやってきた。春が来るたびに思うのは、日本はいかに自然が豊かであるかということである。野山に少し出て注意して観察すれば、いたるところに初々しい若葉が出てくるし、それに
つぎつぎと花が咲き始める。
花壇に咲く大きくて見事な花だけでなく、道ばたや、野原、山々には小さくてもじつに可憐な花、また繊細な美しさをたたえた花が見られる。
主イエスが「野の花を見よ、ソロモン王の栄華を極めたときも、野の花の一つにも及ばない」(マタイ福音書六・28)と言われた意味が理解できる。
植物は沈黙のなかに、芽を出し、成長し、そして花を咲かせ、実をつける。じっとその場を動くことなく、太陽の光を受取り、沈黙のうちにすべてをなしていく。
置かれた場にじっととどまりながら、そこから、美しさや香りを放ち、その葉や果実は野菜や、米麦や果物として私たちの不可欠の食糧となり、雑草の類も家畜の食物となり、それがミルクや肉などとなって私たちを支えている。また、木材は家を作り数々の家具の材料となり、紙という不可欠なものの原料ともなる。そして、綿や麻のように私たちにとってなくてはならない衣類の原料でもある。さらに植物の作り出す酸素によって私たちは生きている。
私たちは単に人間の力で生きているのでない。沈黙のうちに祈るかのように生きていく植物によっても日々支えられているのである。
これは、私たち人間へのメッセージを含んでいるといえよう。
私たちもまた、沈黙のうちに、神の光を受けて、祈りによって神と交わりを続けていくときに成長し、花を咲かせ、実りをつけると言えよう。
確信なき時代
現代の日本はとくに確信を持って言う人が少ない。首相そのものがほかの国々の大統領とか首相と比べてまるで確信を持っていない。国の最高責任者という立場でありながら、辞める、辞めないとい
ことすら、明確に言わずにもやがかかったような発言を繰り返している。
未来の人間を作り出す役目をになう、学校の教員たちも確信もって生徒たちに真理を語ることができる人が少なくなった。それが、学校での学級崩壊とか、教師の権威の崩壊となっている。真理について確信なき教師は、いったい何を生徒たちに与えることができるだろうか。
一方では、雑誌、新聞やテレビなどは洪水のごとくにあふれ、さらにインターネットによって情報はおびただしく生み出されている。
しかし、真の確信は生まれない。それは、知識や情報をいくら多くしても生まれるものではない。かえってそうした雑多な情報によって確信を失わせていく傾向すらある。
確信なき世代とは、流され、動揺する世代である。
こうした時代には、まちがった確信のようなものも生まれる。戦前もそうした確信がはびこり、そして崩れて行った。はかないものであった。
しかし、ここに三千年を超えて本質的に変わることのない確信がある。そしてそれは数千年もの間、ずっと受け継がれてきた。それこそ、聖書が指し示す確信であり、求める者はだれでも与えられるものである。
わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり・中ヲ(ヘブル書六・19)
こうした確信なき時代において私たちに、動揺することを止め、時代とともに変わることのない真理に結び付けるものこそ、唯一の神への信仰であり、その神がすべてを善にされるという希望である。
キリスト者たちの受けた苦しみ
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になれ。
人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行け。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人が悪魔と言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。(マタイ福音書十・16〜25)
ここで言われているようなことは、現代の私たちにはあまりにもかけ離れていると思う人が大部分であろう。しかし、キリスト教の二千年の歴史には、事実ここで記されているようなことが生じたし、この箇所はそうしたときに神の声となってキリスト者たちを励ますものとなった。これは、まもなくキリスト者たちを襲った厳しい迫害の状況を思い起こさせるものがある。
なぜここで「へびのように賢く、鳩のように素直であれ!」と言われているのだろうか。狼の群れのような危険に満ちたところに羊を送り出すのであるなら、常識的には武力での装備が最も重要だということになるはずだ。
しかし、主イエスは、武力などではなく、「純真さをもて、素直であれ」と言われている。狼のような悪意や策略のあるところにおいて、このような素直さがなぜ、言われているのだろう。
それは、神の霊を十分に受けるためであった。迫害を受けるのは、そこにおいてキリストを証しするためなのだと主は言われた。苦しみを受けて尋問されるとき、聖霊が注がれて真の証しができるため
は、神の前に素直でなければならないのである。
ステパノの受けた迫害
事実、聖書に記されている最初の殉教者であった、ステパノはユダヤ人たちが、神から送られてきた預言者たちをずっと迫害してきたという歴史的事実を述べて、人々の心のかたくなさを指摘したために群衆から憎まれ、石で打たれて殺された。
しかし、そうした激しい群衆の怒りや憎しみを受けて、石で死にいたるほどまでに打たれていながら、彼の生涯の頂点というべき経験を与えられた。
それは、その悪意と憎しみのただなかで、天が開け、主イエスが神とともにおられるのを明らかに見るという恵みを与えられ、そこから自分を殺そうとしている群衆たちのために祈り続けて死んでいったのである。
これは、主イエスが言われたことがそのまま実現したのである。すなわち、信仰のゆえに捕らえられるのも、そこで聖霊によって証しするためなのであった。
ステパノのそれまでの生涯においても経験したことのない、深い神との交わりと神と復活のキリストご自身をありありと見るということは、聖霊によらなければ、到底そのようなことは経験できなかった。
そのような周囲が敵ばかりという状況のなかでも、平静な心と祈りに満ちておることができたのは聖霊がほかのどんなときにもまさって豊かに注がれていたからなのであった。
このステパノの経験は、のちの数しれない殉教者においても、同様に生じていったのである。
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(22節)
キリストを信じるだけで、このように家族から激しい敵意を受けるなどは、現代の日本では見られないだろう。しかし、迫害の時代には、キリストを信じるだけで、家族もろともにたえがたい苦しみを受けて、社会的にも生活できないほどになるし、殺されることすら生じるとなれば、キリストを信じるようになった家族の一員を激しく責めてその信仰を捨てさせようとすることも生じた。
キリストもユダヤ人の多くから憎まれ、家族からも誤解され、最後には、群衆がみんな敵となってイエスを十字架につけよ、との怒号のもとで処刑されることになった。
また、先ほど述べたステパノも、真理を述べただけで、周囲のすべての人に憎まれた結果そのように石で打たれて殺されてしまったのである。
古代のキリスト者たちの受けた迫害
そして、新約聖書に書かれている時代のすぐあとにはどのようなことが生じたであろうか。それを、つぎに引用する。
これは紀元一七七年の頃にローマ帝国のある地方での、大量虐殺から生き残った人々が、別の地方のキリスト者にその迫害の状況を伝えるために宛てた手紙である。それが、エウセビウス(*)という歴史家によってかなり詳しく記されている。
(*)エウセビウス(263ころ―339)。主著《教会史》は使徒の時代から303年までのキリスト者たちのさまざまの活動を詳しく記したもの。現存しない他の著作家からの引用が多く、古代教会に関する最も貴重な史料となっている。ここに引用した記述は、その第五巻にある。ロエブ古典双書シリーズ(LOEB
CLASSICAL LIBRARY)で読むことができる。以下に引用したのは、「ヨーロッパキリスト教史」第一巻(中央出版社)を主としつつ、LOEB 版を参照して部分的に補ったもの。
キリスト者たちは、全く根も葉もない虚偽の訴えをされ、いまわしい罪を犯しているのだと偽りを言いふらされた。それに扇動された群衆や支配者、あるいは軍人たちが怒りに燃えて、キリスト者たちを迫害し始めた。
ここに現れる一人のキリスト者にブランディナという女性がいる。
彼女は弱い女の身であったから、まわりの者たちも、彼女がキリストを信じていることを告白することも到底できないのではないかと思われた。しかし、彼女は、神からの大いなる力に満たされていた。
朝から夜まで交代して現れる牢獄の番人によってもう他の手段がないほどにありとあらゆる拷問を受けた。彼ら自身がそのようなことを続けて疲れ果ててしまったほどであった。獄吏たちは、それほどまでしてもなお、彼女が生きていることに驚嘆した。それは、そうした拷問の一つを受けても、死に至るほどであったからである。彼女のからだは打ちのめされたために、傷口が開き、見るも無惨なすがたとなった。
しかし、彼女は、そのような苦痛にあっても、なお、神からの力を与えられて、「私はキリスト者です。私たちの中には、人々が言いふらしたような何ら悪しきことは行われてはいません」と真実を告白してやまなかった。
また、別のキリスト者(名は、サンクトス)に対しては、続けざまのきびしい拷問によって口を割らせ、何か悪いことをしていると言わせようとする試みが繰り返された。しかし、彼は、名前も、民族の名も、どこの出身であるか、また奴隷か自由人であるかなど一切答えようとしなかった。そしてそれらすべての問いかけに対してただ一つの答えをした。「私はキリスト者だ」と。(*)
(*)xristianos eimi
彼は、この言葉に出身地とか、名前、奴隷か自由人かなどのすべてをこめてこう言ったのであった。この原語は、「キリストにつく者」という意味であり、それだけあれば、他の一切の自分についての肩書きとか説明は不要と考えたのであった。
こうした態度は、使徒パウロがその書いた手紙の冒頭に「キリストの僕(しもべ)」という一言で自分の肩書きとし、自分の本質を表そうとしていたことを思い起こさせるものがある。(*)
(*)使徒パウロは、その代表的な手紙である、ローマの信徒への手紙の冒頭で、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから…」と言っている。
この「僕」という語は、原語のギリシャ語では「奴隷」という意味で、真理そのものであるキリストに全面的に従う者という意味が込められていた。
こうした揺るぎない信仰を見て、総督や拷問を加えていた者たちは、ついに灼熱した真鍮板を彼のからだの最も柔らかい部分に押しつけた。彼の手足は、焼けていった。しかしそれでもなお屈服せず、
彼らに従おうとはせず、キリスト者であることを告白し続けた。彼はキリストのからだから注がれてくる天の命の泉によって力付けられ、命を与えられていたのであった。彼の体は全身焼けただれて、傷だらけとなり、もはや人間の体でないほどになった。
それでもなお彼は、固く信仰を守り続けた。数日後、そのひどい傷に腫れ上がって、手で触れられただけでもその痛さに耐えられないだろうと思われるほどになった。
彼を痛めつけていた者たちは、サンクトスのひどい姿を見て、今度こそ拷問を加えれば、キリスト教を捨てるだろうし、もしそうでなくても拷問のために死んでしまうだろうと考えた。そしてそうなると、他のキリスト者たちに恐怖を起こさせるだろう考えた。
しかしいくら拷問をしても、彼は屈服もしなかったし、キリスト教信仰を捨てようともしなかったうえ、死ぬこともなかった。彼はさらなる拷問を受けると、あらゆる人間的な予想を越えて、彼は立ち上り、体はまっすぐとなり、手足も動き出した。これは、キリストの恵みを豊かに受けていたからであった。
このように拷問の責苦が全く効果をあげないので、不潔な牢獄の暗闇に閉じ込めて苦しめる方法が考えられた。広げられた足かせにキリスト教徒の脚をしめつけ、股裂きの形にしたまま放置したり、その他いろいろの野蛮なことが、牢獄の番人によって行われ、多くの人々が暗い牢獄のなかで、ひそかに殺されていった。
このように、密室に幽閉されて生命を落すもの、暴行、虐殺によって死んで行くものの数は増した。
その中に九十歳を越した老司教ポティノスも含まれていた。法廷に引き立てられた老司教は、浴びせかけられたあらゆる種類の怒号と罵倒に対して、静かに高貴な証言を繰り返すだけであった。
総督の「いったいキリスト教の神とはどんなものなのか」との問に、彼は「もしあなたがそれに値するなら、あなたはそれを知るであろう」と答えた。この答を聞いて、人々は怒り狂い情容赦なく老人をひきずり廻し、近くにいるものは手で打ち足で蹴り、遠くのものは手当り次第に石などを投げつけた。息もたえだえになったポティノスは、牢獄に戻され、二日の後息をひきとった。…
拷問の責苦、牢獄でのむごたらしい扱いの次に待っていたのは、闘技場での試練であった。闘技場に引き出された、トゥロスとサンクトスは、今までなにも苦しめられていなかったかのように、改めてあらゆる拷問を加えられた後、野獣をけしかけられた。
野獣の牙に噛み裂かれる凄惨な光景に興奮した群衆は、それでもなお二人のキリスト者が死なないのをみると、いっせいに大声でさまざまの種類の責道具を要求した。ついに赤く焼かれた鉄の椅子が持ち出されて、彼の体が焼かれる異様な臭いがたちこめた。それでもなおサンクトスの口からは、信仰告白の言葉以外は何も聞くことができなかった。その言葉は、最初から一貫して言い続けてきた
言葉であった。そして最後まで苦しめられて、ついに息絶えた。
女奴隷であったブランディナは杭に吊され、それに向けて野獣の群が放たれた。ところが不思議にも野獣は一匹もブランディナに触れようとしなかった。そこで彼女は杭から下され、再び牢獄に戻された。もっと素晴しい見世物にとっておくためである。ブランディナの体は、小さくて弱く、その身分は奴隷であったけれども、杭に吊された彼女の姿を信者たちは十字架の主を仰ぐ思いで眺めた。…
皇帝は、拷問などの苦しい目に会わされて、キリスト教を捨てたものは釈放すべきことを命じていたが、総督は直ちに釈放しないで、もういっぺん問いただしてみた。ところが彼らの大多数はかつていったんキリスト教を捨てたのに、殉教者たちの雄々しい姿に打たれて、再び信仰を告白し、そのために処刑されて殉教者の列に加えられていった。
その尋問の場にいた、医者アレキサンドロスは、再び問いただされていた信者たちを目つき身振りで励ましていた。しかし、そのようなことが起こるとは全く思ってもいなかった群衆の憎しみと怒りが、彼に向けられた。
総督の「お前はだれか」という問に、彼は「わたしはキリスト者」と答えた。逆上した総督は直ちにアレキサンドロスを野獣と戦わせる判決を下した。
翌日アレクサンドロスともうひとりアッタロスは野獣と戦わされた後、ひどい拷問を受け、アレクサンドロスは身をよじる苦しさにもうめき声一つあげず、静かに心の中で神と語りながら死んで行った。
ブランディナと十五歳の少年ポンティコスの二人は毎日闘技場に引き出され、目の前でキリスト者たちが,拷問され、野獣に噛みさかれるのを見せつけられた上、偶像を崇拝するようにと強要されていた。しかし、この二人は信仰を固く守り、群衆たちのすることに動じないのであった。
これを見て総督や群衆たちは、怒りに燃えて、少年がまだ子供なので憐れみを持つとか、ブランディナが女性であることへの配慮など全く持たなくなってしまった。人々は、二人にあらゆる恐怖を見せつけ、拷問をつぎつぎと実行して偶像を崇拝させようとしたが、ついにそれはできなかった。
少年は信仰の姉であるブランディナの励ましと慰めに力づけられ、ありとあらゆる拷問に耐え抜いてその魂を天にゆだねた。こうした苦しみにあっても、なおブランディナが少年を励まし、力づけているのは、群衆たちにさえ見て取れたのであった。
残ったブランディナは鞭で打ちのめされた後、野獣に噛みさかれ、ついで熱いなべであぶられ、さらに網にくるまれて牛の前に投げ出され、長い間繰り返し牛の角で空中に放り上げられては地面に叩きつけられたので感覚をまったく失ってしまった。
しかしそのようであってもなお、彼女は、復活の希望とキリストと共にいることによって耐え抜いて、地上の命を終えた。
以上のような厳しい迫害は、ローマ帝国でつねに生じたのではなかった。皇帝によって厳しい迫害をする場合もあれば、またかなり寛容な皇帝もあった。しかし、全体としては厳しい迫害が波状的に繰り返し行われて、多くのキリスト者たちが殉教していったのである。
日本における迫害
この点では、日本の状況もその迫害の厳しさにおいて劣るものではなかった。
一五八七年に豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が出されて以来、キリスト教は禁止されることとなった。しかし、一時的には、その禁令はゆるやかになっていたこともあったが、徳川家康は、一六一二年に禁教令を出して、全国的にキリスト教を禁止する命令を出し、翌年には、僧崇伝にキリスト教の禁止令を書かせて徹底的に弾圧する方針を公にした。
京都でも、迫害が始まり、宣教師たちは追放され、キリスト信徒たちは厳しい探索を受けた。迫害者たちは見つけしだいに捕らえて二重の俵に入れ、縄で縛りあげてこれを四条や五条の河原に積み上げて、食物も与えず、放置して見せしめにしたのであった。あまりの苦しさに耐えかねて信仰を捨てたものは助けられたが、信仰を捨てなかった者たちは、木を燃やして焼き殺されてしまった。
家康のつぎに将軍となった秀忠は、さらに厳しい迫害を始めた。外国の宣教師や日本人伝道士、その人々をかくまった人やその家族など、五五人が捕らえられ、処刑されることになった。そのうち、宣教師や伝道士など二五名は火で焼かれて処刑され、残りはその前で、首を切られることになった。
柱に結び付けられて火に焼かれることになった人たちに対しては、わざわざ炎に焼かれる苦痛を大きく、しかも長引かせるために、火は五メートルも体から離して燃やされた。しかしそうした身を焼かれる苦痛の中においても一人の宣教師は、目の前で別のキリシタンたちが首を切られて処刑されているにもかかわらず、説教を続け、詩篇を歌い、信徒を激励し、祝福を与えて、さらに「われら一人が死ねば、百人の宣教師が立ち上がるであろう」と言って迫害者たちの非を説いた。そしてそのうち火が服に燃え移り、最初に殉教した。のこった人たちも天を見つめ、不動の姿勢を崩さずに苦しみに耐えつつ死んでいった。
また、つぎのような記録が残されている。
大分県竹田市のある村はキリシタンが多かった。村長もキリシタンで、二人の息子と長男の妻もその子たちも信徒であった。領主は、この一家がキリシタンをやめるならば他はみのがしてやろうともちかけた。村長はどうすればよいかと困り果て、家族の反対を押しきって、独自の判断でキリシタンをやめるという誓いの文を提出した。
村長である父は息子にいった。
「おまえたちは自分で誓いの文を提出したのではないから、知らぬふりをしておればよい。それが多くの人々を苦難に会わせないためなのだから」と。
しかし、二人の息子は承知せず、領主のいる城へ、わざわざ自分たちはキリシタンであると名のりでたのである。
幕府にキリシタンはいないと報告したばかりの領主は動揺し、二人を捕え、父にキリシタンを辞めるよう、説得させようとしたが、父は息子たちの真実な信仰に動かされて拒否した。こうして二人の息子は火刑に処されることになった。
けなげであったのは殺されることになった長男の妻である。彼女は役人の脅迫に従わなかったため、腰巻ひとつの裸にされ、ざらざらして肌を刺す俵の中に頭だけだして入れられ、七日間、部屋にとじこめられた。
七月の暑いさかりであった。それでも屈しない彼女を、役人は夫と義弟の処刑場に引きだし、かれらが火あぶりにされて殺されるすさまじい光景を見せ、背教しなければおなじ刑罰をうけることになろうと説きつけた。
しかし、彼女はただ、「どんなことがあってもキリシタンであることをやめはしない」と答えるだけであった。
役人は、いった。「もしおまえが死んだら、七人の子どもたちは身よりのない孤児になってしまうだろう。そんな不人情な母親になってよいのか」。
これに対して、その女は答えた。「無慈悲なのはあなた様方で、わたくしではございません」。
ついに問答に疲れはてた役人の手で、彼女は斬首された。首斬り役人が刀をふりあげてから二度、背教の意志はないかと聞いた。髪をたばねて首をすっかり見えるようにした女は、二度ともはっきりと「否」と答えた。(「日本の歴史・第十七巻」より。小学館刊)
ほかにも多くの殉教の人たちの堅固なキリスト信仰の多くの実例が、「日本キリシタン宗門史 全三巻」(岩波文庫)に掲載されている。これは、あるフランス人の書いた綿密な日本の歴史書の一部であった。宣教師たちが本国に書き送った書簡や報告などの膨大な資料を駆使して書かれたものである。
こうした迫害は、明治政府になってすぐに停止されただろうか。そうではなかった。明治政府が最初に力を入れて実行したことの一つがキリシタンへの激しい迫害であった。古くからの悪いしきたりを打ち破ったはずの新しい政府であれば、江戸幕府が行ったような残酷なことは決してしなかったのではないかと思う人が多い。しかし、事実は逆であった。
一八六八年に明治政府は、五カ条の誓文を出した。そこには「広く会議を興して万機公論に決すべし」と、会議をもっていろいろの考え方を出し合うというような新しさが見えている。しかし、その翌日に出された、五枚の立て札には、「上に立つ者とそれに従う者、親子、夫婦などのあり方を正しくせよ」といった常識的な戒めだけでなく、「キリシタン邪宗門は従来通りにこれを厳禁す」とか、「集団を作って強訴するな(一揆を禁止)、また集団で自分の住んでいる地域を離れるな。」といった民衆を押さえつける方針も同時に示したのである。こうした民衆の自由を奪い、権力で押さえつけようとする姿勢は、その後の明治政府の本質をはやくも指し示すものとなった。
このうち、「キリシタン邪宗門は、江戸時代と同様に、厳禁する」という方針とその背後にある考え方は、きびしく実行に移されることになった。
明治の新政府になって、キリスト教の迫害はただちに行われた。木戸孝允(桂小五郎)らが長崎に派遣され、キリスト教の指導者たち百十四名をいっせいに検挙し、それを長州藩、津和野藩、福山藩の三つの藩に分けて投獄した。その獄中の取扱いは過酷を極めた。木戸孝允は、西郷隆盛や大久保利通らとともに維新三傑とも言われたほどの人物であったが、信仰の自由とかいうことに対しては全く考えを持っていなかったのである。
さらに、その翌年の一八六九年(明治二年)には、浦上村の全部の住民をキリシタンであるというだけで、三千四百人ほどを逮捕して、彼らを九州、中国、四国、近畿地方などの十九の藩に分けて投獄した。
そしてキリシタンたちは、信仰を捨てさせるために、食物も与えられずに飢えに苦しめられ、拷問をも受けて、死の苦しみをなめさせられたのであった。かれらは何にも悪いことをしたわけでもない、ただ信仰を持っているというだけで、一つの村全部の住民を遠い他の藩へと送って投獄し、さんざんに苦しめたのである。
こうしてキリシタンの中心地であった浦上地方のキリシタンを徹底的に排除するという方策をとった。浦上村は全部の村人たちが、移送され無人の村となってしまった。
それからおよそ五年間、浦上の人たちはあちこちの県においてさまざまの拷問や苦しみにさらされ、六六四名もの犠牲者をだした。
こうした非人道的な政策に対して、外国からの非難がはげしくなり、一八七三年(明治六年)になってようやくキリシタン厳禁という命令を撤廃することになったのである。
ここで、各藩に送られたキリシタンたちがどんな仕打ちを受けたかの例をあげる。
浦上村の百姓、仙右衛門や甚三郎らは、明治元年津和野に流された指導的人物だったが、改宗をせまる彼らへの弾圧は陰惨をきわめた。
山口藩にも食物をあたえないで改宗をせまる「勘弁小屋」というのがあったが、津和野藩では足をのばすこともできなければ立つこともできない、約九〇センチ四方の三尺牢がつくられた。
これは約三・六センチの厚い松板でかこまれ、ただ一方のみに約六センチ角の柱が格子状に一寸おきに打たれていた。そして屋根にあたる部分には小さな穴があけてあった。
そこから食物がわずかに差入れられるのである。この三尺牢は三つ作られた。取調べに答えなかったらたちまちこれにおしこまれた。それは人間の箱詰めにひとしい。仙右衛門らの仲間、和三郎や安太郎はこの三尺牢で死んだ。
明治二年十一月二六日、大雪の日だった。風邪で寝ていた仙右衛門らは呼び出された。そして役人は、彼らに着物をぬいで凍り付くような池に入れと命じた。ただちに従えなかった二人は、丸裸にされ、池に突っ込まれた。池はふかい。頭まで没してしまう。かろうじてまん中の浅瀬に立つと、水があごまでくる。
役人はそばにズラリと並び、さも気持ちよさそうに見物している。時々長い柄のついたひしゃくでザアザア水をかける。
二人は天を仰ぎ両手を合せた。仙右衛門は「天にまします我らの父よ」という主の祈りを、甚三郎は「身を献ぐる祈祷」を一心に祈り続けた。
役人等は座敷から「仙右衛門、甚三郎、デウス(神)が見えるか」とあざける。両人はひたすら祈り続けていて何とも答えない。もうこれが最後だと覚悟して一心に祈っている。彼等の落ちつきはらった態度が、役人たちには腹立たしくなり、「顔にもっと水を掛けい、水を掛けい」と叫び、さんざんののしりの言葉を浴びせた。
時間はどの位経っただろうか、ずいぶん長かったように思われた。寒さは体のしんまでしみとおった。身体がふるえて止まらない。ことに仙右衛門は老体である。数日来熱を病み、疲れ果てていたので、苦しさがひとしお強く身にこたえる。
両手を堅く組み合せて天を仰ぎ、一心不乱に祈っているが、しかし身体はしだいに感覚を失った。両手はだんだん下って来た。心もぼんやりしてきた。
役人は相変らず水をザアザアと浴びせる。それが目に入り、耳に入り、キリで刺されるように思われる。今はもう顔色が青黒くなってきた。
甚三郎は気づかって「仙右衛門さん」と声をかけた。もう舌の根がこわばっている。「甚三郎、、もう世界がキリキリまわる。おれはこのまま行くが、お前は覚悟が出来たか」と言う。実際もう数分もすれば生命はないものと思われた。
役人はそれを見て、「甚三郎、仙右衛門上れ」と大声でいった。・中ヲ
こうした驚くべき苦しみにあってもなお、信仰を捨てようとせず、神に心を向けて祈り続けることができたというところに、ステパノが味わったような経験、天が開けて神の世界を見つめていたのがうかがえる。そのように命のかぎりに神を見つめて生き抜いたということが、キリストを証しすることになった。ここでも、迫害を受けるのは、キリストの証しのためであると言われた主イエスの言葉が実現しているのがわかる。
また、九州の西部、五島列島地方では、明治になってもつぎのような迫害が行われた。
一八六八年(明治元年)十月に六メートルと、四メートル足らずの小さな家が牢屋とされた。狭い獄舎に男女別々に二百人ものキリシタンを閉じこめて、ぴったりと戸が閉め切られたのである。人がとうていじっと座れる空間でないために、人間の上に押し上げられて足が地につかない状態となった。宙に浮いたまま眠る者さえあった。子供などはこの密集した人間のなかに踏みつけられると上に上がれない状態であった。
食事としてはわずかにイモを朝と夕方に一切れずつ投げ込むだけであった。それは到底休めるような状況ではなく、人間がひしめき合い、便も尿も垂れ流しという状態なのであった。しかも、それらの人々を青竹や生木で打ちたたき、死んでも何日もそのままにしておいたため恐ろしい不潔と臭気によって苦しめられた。さらにその上、死体からウジ虫がわいて、その虫のために下腹を食い破られた女児もでた。
以上のような迫害の実態を知るとき、はじめにあげた新約聖書の記述はそれが書かれてから二千年もの歳月を通じて現実に生じていくことの預言であり、そのような地獄の責め苦のなかにあっても、神はともにいるのだという、強い励ましの言葉として言われたのだとわかる。
こうした長い歴史をもキリストはすべて見通しておられたのである。キリストは決して安易なことを約束しない。時としてこの世の現実はいかに厳しいものがあるか、私たちの想像を絶するものがある。
しかし、そのような暗黒の力が吹き荒れるときであっても、その背後には神がおられる、神はそうしたいっさいのことをも私たちには分からないような大きいご計画をもって導かれているのだと信じる道がキリストの道なのであった。そしてその信仰にこたえて、神はきびしい迫害のときにも安全なときには決して経験できなかった神との深い交わりと励ましと力を与えられていったのが、こうした記録からうかがえる。
このような厳しい道を正しく歩むことができるのは、だれなのか、それはだれにもわからない、本人にもわからない。ただ、神がそのご計画に応じて呼び出され、聖霊を特別に注いだ者だけがそのような過酷な状況にあってもなお、いのちをかけてキリストに従っていったのであろう。そして神はそのような人たちを二千年の長い歴史のなかでつぎつぎと起こしてこられたのである。その大多数は記録にも残されず、死んでいった人たちである。しかし、神のいのちの書にはっきりと記されている。そしてそのように生き抜いた無数の人々の祈りと生涯をキリスト教の真理はうちに包んでいる。
彼らの苦しみは過去のものとなって、消えてしまったのでなく、今も生きて働いている。その一例をあげる。
ある牧師が受けた感動
榎本保郎は、最近のプロテスタントキリスト教の指導者(牧師)としては特に広く知られて、多くの人に深い影響を与えたと思われる。自分が神にいかに導かれてきたかをわかりやすく書いた「ちいろば」は、キリスト者のあいだで広く読まれて、強い印象を残してきた。三浦綾子も同様でそのために日本各地はもとよりわざわざアメリカまでいって取材してそれを「ちいろば先生物語」という書にまとめたほどである。また、榎本の「新約聖書一日一章」と「旧約聖書一日一章」は今日でも多くの人によって愛読されているし、彼の起こしたアシュラムという祈りの集まりは現在も各地で続けられている。
その榎本がキリスト教に引き寄せられたのは何であったか、それは以下に引用するように、江戸時代のキリスト者たちの迫害に耐えた姿を知ったからであった。
榎本保郎は、敗戦とともに満州から引き揚げてきた。戦争中は天皇のため、日本のため、東洋のためなどということを教え込まれ、それを目標として生きてきた。しかしそうしたことを教えていた連中が国民を欺き、おびただしい犠牲を出したのだとわかって、榎本は生きる目標をまったく見失ってしまった。心は暗く、わが家にせっかく無事で帰ったのに、毎日悩み苦しんでいた。
何か生きる目標がほしい、自分のいっさいをささげつくせるような目標がほしい、それが彼の切実な思いであった。満州から引き揚げて、淡路島に帰り、我が家の家族と再会しても、どうしても心は明るくならなかった。まわりの人たちは、食べること、金を稼ぐことに一心になっているのに、彼はいつまでたってもそのような気持になれなかった。
毎日部屋にこもって、「おれはこれからいったい何のために生きたらいいんだろう?ということばかりを考え続けていた。ある日のことである。何もかもわからなくなって、天井を見ながら横になっていると、「保郎はどうしてる」という心配そうな父の声が聞こえてきた。すると母がすすり泣きながら「お父さん、保郎は気が狂ったのではないかしら」とつぶやいているのが聞こえた。たまらなくなった私は、トントンと二階から降りていって、「ぼくは気が狂ったのではない」とどなりつけて、また二階にかけあがり、身をもてあましてねころんだ。しばらくして、下から「あれが気が狂った証拠だよ」といっている声がきこえてきた。だれも理解してくれないつらさ、淋しさ、どこにもぶっつけていけないもどかしさ、私にとって苦しい毎日がつづいた。
このようないらだちの毎日を送っていたある日、私は一冊の書物にめぐりあい、むさぼるようにして読んだ。それは「キリシタン宗門史」というような題の本であった。キリシタンが迫害を受け、殉教していく記録であった。
いっさいを神(天主)にささげきって死んでいくキリシタンの姿は、その時の私にとって大きな光明のように思えた。
これだ、これだ、ここにこそ自分のいのちをささげるものがある。何度もなんども泣きながらそれを読むうちに、私の心は久しぶりに平静をとり戻し、はじめて心のなかが明るくなるのをおぼえた。喜びは爆発した。
「おれはキリシタンになる!」この突飛な宣言に、父も母もおどろきあわてた。周囲の者も心配した。ある者は弘法大師の教えをもって私のまちがいを指摘し、ある者はキリシタンのおそろしさを語って私の決心をひるがえそうとした。
しかし、私ははじめて死に場所を見つけたと思いこんでいたのだから、そのような反対や説得で動くはずはなかった。どんなにいわれてもがんとしてそれらの忠告を聞きいれなかった。
祖父は「わしの孫にこんなものが出てご先祖さまに申しわけがない」と泣いた。「戦争に行って戦死したと思ってあきらめます」母はこういって集まってきた親戚の人たちにあやまってくれた。親が諦めるのなら仕方がない、というわけでみんなは帰っていった。
しかし、「キリシタンになる」と宣言したものの、そのキリシタンになるにはいったいどうしたらよいのか、さっぱりわからず、私は途方にくれてしまった。
思案にくれた私は、こっそりと当時同志壮大学の神学部長であったA先生宛に手紙を出した。そのときどうして同志杜に手紙を出したのか、どこからA先生の名前を知ったのか、今はどうしても思い出せない。とにかくキリシタンになりたい一心だった。まもなくA先生からいちど同志社に来てみなさい、という便りが届いた。私は天にも昇る思いで京都へ出かけ、同志社を訪ねた。
・中ヲ(「ちいろば」聖燈社刊 9〜11Pより)
こうしてキリスト教の力をキリシタンたちが迫害に耐えたその証しによって知った榎本は、同志社大学の神学部にて学ぶことになった。彼の信仰は同志社では育たないのが後になってわかって直接に主イエスに従う道に生きるようになっていく。
このようにして、江戸時代から明治の初めのキリスト者たちの大きい苦しみは、現代に生きる人々にも働きかけているのがわかる。彼らを支えた力は今も信じる人たちにその程度の多少はあっても与えられるのである。
私たちに告げられていることは、キリスト教というのはそれほどまでの大きい苦難、迫害に耐えて、それらすべてに勝利したゆえに、現在まで全世界に広がってきたのだということである。そのような比類のない力をもっているのが、キリストの真理であり、キリストはそのような無限の力を与えるためにこそ、私たちの弱さのただなかへ来て下さるのだと言えよう。
教育基本法を変えようとする動きについて
現在の政府、自民党は、さまざまの失態を重ねる首相を支えてきたが、それは決して首相だけの問題ではない。
しかし、首相を辞任させて別の人が首相になったからとて、なにも変わらないだろう。そういう首相を選んだ自民党の問題であり、またそのような腐敗がずっと重ねられているにもかかわらず、自民党を選び続ける日本人の体質の問題でもあるからだ。
いろいろな不可解な発言を繰り返している首相であるが、前にも日本は天皇を中心とする神の国であるなどと公言したこともあった。
天皇中心の神の国という考え方が、戦前にどんな悲惨な事態を招いたか、それが全くわかっていない。普遍的な真理を中心とするのでなく、弱い人間にすぎない天皇中心にすべてが動いたからこそ、
教育でも、天皇のために生きるとか死ぬということが教え込まれ、外国への侵略戦争も天皇の命令だからといって盲従する、そしてそのために相手国の計り知れない多くの人が死ぬことになっても、かえってそれを勝利だとして喜ぶといった状況になった。
そうしたまちがった考え方は教育で培われたからこそ、教育基本法によって、戦前のような天皇とか国家中心でなく、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を願い求めるということが、教育の基本方針とさ
れたのであった。 こうした反省の上にたって、教育基本法の精神はつぎのように定められたのである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。(教育基本法の前文)
こうした基本的な考えのもと、第一条に「教育の目的」として、つぎのようなことがあげられている。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び、社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神にみちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
このような重要な内容を持っている教育基本法を変えようとする動きが出てきた。
最近も、一部の人々たちが「新・教育基本法私案」なるものを出した。その第一条にはつぎのようである。
「(教育の目的)日本の教育の目的は、人間が潜在的に有する道徳的・知的能力を発揮させ、わが国の歴史・伝統・文化を正しく伝えることによって立派な日本人をつくることにある。」というものである。
現在の教育基本法と比べるとそのちがいがはっきりとわかる。それはすでに述べたように、「平和的な国家を目指す」こと「真理と正義を愛する」「個人の価値を尊ぶ」といったことが削除され、そのかわりに、「わが国の歴史、伝統、文化を正しく伝える」ということが強調されているということである。
憲法を変えて、軍事力を持つことができるようにしようとする動きとこの教育基本法を変えようとする動きは結びついているために、「平和的な国家をめざす」という項目が削られたのである。
また、「真理と正義を愛する」のはきわめて当然であるのにそれをわざわざ削除したのはいかなる意図によるのだろうか。
それは、わが国の歴史、伝統、文化を強調するときには、単なる神話にすぎないこと、事実でないことであっても、それをあたかも事実であるかのように主張してくることをしばしば伴ってくる。
例えば、太平洋戦争のときの日本の中国への侵略を、侵略でないと強弁するのは、歴史的事実に反することである。あの中国との戦争のときに中国の解放のため、中国人への愛のためであったなどといったいだれが考えて戦争をしただろうか。日本は中国を徹底的に攻撃して支配下に置くために戦争を拡大して十五年ほども戦争を続けていったのである。
また、ふつうの人間にすぎない天皇を、偽って現人神として教え、崇拝を強要したことも伝統や文化を強調するときに生じた偽りの例であった。
戦前は、最も伝統や歴史を重んじると称した時代であったが、それがいかに個人の自由を縛り、国家が偽りを国民に指示してきたか、少し歴史を調べればわかることである。
また、最近では、不正な金を受取り、国会を舞台にして自分の利益を計ったとして逮捕された村上という参議院議員は、参議院議員会長であり、参議院憲法調査会長でもあった。そして以前の元号法制化のときにも積極的に関わり、憲法改正や君が代、日の丸などの法制化をも押し進めた人物であった。
彼は、日本の歴史とか伝統、文化とかいうことをとくに強調していた人物なのである。そのような人物が不正な多額の金を受け取って、国会を自分の利益を得る場として利用してきた人間なのであった。
新・教育基本法案なるものに、「真理と正義を愛する国民の育成」ということを削った精神とどこか通じるようなものがある。
(*)元号法制化によって天皇の事実上の個人名を時間を使うときに使うようにさせることになった。このような不合理で、民主主義に反し、かつ不便なことは世界ではどこもやっていない。
教育基本法を変えると主張する人たちは、これに環境問題への教育をも加えるなどと言っているが、彼らの本音はそこにはない。
環境問題は、なにもわざわざ基本法を変えなくとも、現在の教育基本法にある真理と正義を愛すること、個人の尊厳を重んじるということから、自然に導かれることである。ぜいたくや、何をしても、とにかく儲かればよいという考え方、過度の享楽などによって環境を破壊することは、多くの人々に健康を害することになってはねかえってくるのであって、他人の尊厳を重んじ、正義を愛する精神から、環境問題を正しく考えることができるものである。それは現在の教育基本法の精神を生かすなら十分できることである。
じっさい、足尾銅山の公害問題は、今から百年以上も前の、初期の環境汚染問題であったが、それは真理と正義を愛し、重んじた田中正造や内村鑑三らによって、その非人間的な実態にたいしてはげしく抗議がなされたのである。
教育基本法を変えて、日本の伝統と文化の重視をというが、その日本の伝統の代表的なものが天皇制だ、と彼らは考えている。だからこそ、天皇讃美の「君が代」を多くの反対を押し切って、十分な審議もせずに法律をつくって、強制的にうたわせたり、日の丸も強制的に使わせようとするのである。戦前は日の丸も天皇を象徴的にあらわすとされていたのであって、こうした一連の動きは、日本に天皇というただの人間を中心にしようとする根強い考え方から生じている。
こうした人たちが教育の基本をかえようとしているのである。しかし、何年もにわたって特定の団体から十五億とか二十億円という巨額の不正の金を受けとったと言われるような政党がそもそも教育の基本法を変えるなどという資格があるのかということである。
こうした政治の貧困のただなかにあって、私たちはその波に飲み込まれないようにしなければならないと思う。
祈り
主よ、われらの神よ、あなたは私たちの助け、また励ましです。
私たちはあなたを、あなたのいろいろの約束を希望をもって見つめています。
個人的なことがらにあっても、常に強く、勇気を持ちつづけ、われらが不平不満を言う者でなく、
地上におけるあなたの大いなる勝利をいきいきとして、喜びをもって待つ者として下さい。
あなたは、 私たちをご自分の民にしようとされる。人々に聖霊を与えて下さい。
少しの者たちだけでなく、多くの者に与えて、私たちがみんなあなたのものと言えるようにして下さい。
主よ、地上に、さまざまの人々のなかに御心が行われますように・u・uこれこそ私たちの願いです。
(ブルームハルトの「夕べの祈り」より)
|
|
|
|