ンセン病とキリスト教 2001/6
先ごろのハンセン病訴訟の控訴を断念したというニュースは、特別な感慨をもって受けとめた人が多かった。このような苦しみに置かれた人たちの側に立って政府がはっきりと態度を示すということは、今までにほとんど見られなかったことだからである。水俣病に代表されるようないろいろの公害病などへの政府の対応は、たいていは患者の側に立つものでなかった。
例えば、瀬戸内海の長島は周囲十六キロメートルの小さい島であるが、そこに長島愛生園と邑久光明園という二つのハンセン病療養所がある。最も狭い所では対岸まではわずか三十メートルほどしかない。そこに橋を架けて欲しいという切実な願いが一九七〇年から始まって、何度も入園者が運動し、陳情に出かけ、厚生省の前で座り込みもして、厚生大臣に直接に訴えた。そのようにして陳情を続けて、架橋の予備調査の費用が認められたのは十年も後であり、橋が完成したのは、運動を始めて十七年もの後になっていた。
今回は、小泉首相が高い国民の支持があるということで、その支持を継続するためにも控訴断念ということになった。かつて小泉氏は厚生大臣であったが、そのときには今回のようなハンセン病についての議論などはまったくなかったのである。
政治というのは、昔から苦しむ人たちのために親身になって費用やエネルギーを注ぐということをしてこなかったのである。
ここでは、日本においてハンセン病の人たちにキリスト者がいかに関わってきたかの一端を記したい。そうしたことは、一連のハンセン病報道でもほとんど見られなかったからである。
ハンセン病とは、らい、らい病、天刑病、レプラなどと言われて、顔や手足の変形、そして手がなえて、脚をも切断に至る人もあり、重い皮膚の病状を呈する他、失明にも至るために、この世で最も不幸な病気であるとも言われてきた。紀元前二千四百年もの昔、エジプトの文書にらい病のことがすでに記録されているので、人類最初の疫病とも見られている。
この病気の病原菌は、一八七一年にノルウェーの細菌学者ハンセンという人が発見した。潜伏期間が五年~十年以上と長いためにどこから感染したのかも特定しがたい場合が多い。一九四三年以降は、プロミンという薬がハンセン病に驚くべき効果があるのが発表され、治る病気となった。
なお、らい病という名は、長い間、いまわしい病気の代表のように用いられて、この病気の人たちを汚れたとか、見下すニュアンスがしみこんでいるので、最近は、菌の発見者の名をとってハンセン病と言われるようになった。
日本でもハンセン病は最も悲惨な病気とされて、家庭や社会から閉め出された、ハンセン病にかかった人たちは四国八十八箇所の寺などを遍歴したり、あちこちさまよっていた。明治になっても、この病気に対する偏見と恐怖は変わることなく続き、多くのハンセン病人は昭和初期までは、乞食の姿で、全国を放浪していた。このような悲惨な状況にあった患者を救う事業に最初に手をつけたのは外国人のキリスト教宣教師であった。
一八八七年(明治20年)、カトリック教会の神父であったテストウィドは静岡御殿場地方を巡回していたとき、夫に捨てられた女性のハンセン病患者が、水車小屋の中で手足の不自由なためにはいまわって泣いており、彼女は一日一椀のご飯を食べてかろうじて命をつないでいるのを知った。神父はこの女性をみて、驚き、悲しんだ。そして何とかして彼女を救い出したいとの熱情から、御殿場に一軒の家を買い求めて、六人の患者患者を引き取った。そこから二年後に、御殿場神山に病院ができて復生病院と名付けられた。これが日本で最初のハンセン病の病院であった。
その七年ほど後に同様なことは、プロテスタントでも生じて、東京で一八九四年にプロテスタントの女性宣教師、ヤングマンらの組織する伝道団体によって東京目黒にらい病院が作られ、さらに熊本においても、一八九五年にイギリスの女性宣教師であったハンナ・リデルによって回春病院が作られた。
そしてその数年後、新たに熊本に一人のカトリックの神父が家を購入して三〇人ほどの患者を収容する新しい病院が作られた。
一九一六年には、聖公会の女性宣教師コンウォール・リーは群馬県草津にらい病院を開設した。ここでは、有名な温泉があったので、ハンセン病にも効果があるとのことであったが、一時的的に病気が治ることはないので、そこで金を使い果たした患者たちは帰ることもできず、付近に仮小屋を建てて住み着いて苦しい生活を余儀なくされ、そこからさまざまの犯罪や乱れた生活に転落するものもいて、目を覆うばかりの状態であったという。それを何とか助けたいとの一心から、らい病院を作ることになった。
ハンセン病の人たちは、それまで社会的に放置され、国も社会もハンセン病の人たちを見捨てていたため、社会の冷たいさげすみと恐怖と嫌悪の目にさらされ、寺や神社をさすらい、そのあげくに病気が進行して苦しみと孤独のなかに表現しがたい闇のなかで死んでいく状態であった。
そのような時、彼らの友となり、その苦しみを共有しようとして病院を作り、そこで働こうとするキリスト者の医者や看護婦が現れた。
それは、この世的には暗黒の中へと入っていくことであり、人間的な栄達とかを求める感情では到底できないことであり、彼らの内に住んでいたキリストがそのように働きかけたのである。
今から七十年ほど前、東京のらい療養所であった全生病院では、患者数八百人ほどいたが、そのうちで、病気が原因で失明した人が驚くべきことに百七十人もいたという。それほどハンセン病が強くはびこっていた。
その頃その病院に医者として赴任した林文雄は北海道大学医学部出身のキリスト者であって自ら、父の強い反対を退けてそこに勤務した。(彼は、後に鹿児島に設立されたハンセン病院、星塚敬愛園長となった。富美子夫人も医者であり、林夫妻はともに生涯をハンセン病者のために尽くした。)
この林文雄がハンセン病の病院にて何を感じて、何を学んだのか、その伝記から長くなるが一部を紹介したい。こうした書物に実際に触れることのできる人は少ないと思われるし、ハンセン病の治療に生涯を捧げたキリスト者の医者が何を感じたかを知る一端となるし、私たちにも学ぶところが多いからである。次の記述は、林文雄がハンセン病の病院に初めて赴任したときのことである。
・中ヲ・中ヲ
そこでは、膿にまみれた顔、鼻が欠けた異様な顔の人、病気のため目をえぐり取られた悲惨な顔、手や足のない人、全身が潰瘍(かいよう)で、包帯に包まれた人々の群れがひしめいていた。あまりの悲惨とこの世ならぬ光景にたじろぎを覚えた。独特の悪臭にも悩まされた。しかし、そう感じたのは少しの間で、その時の日記には、つぎのように書いてあった。「しかし、美しいが高慢な婦人、傲慢な態度の紳士を見るよりもはるかに心持ちがよい」と。
林文雄がそれまでに与えられていたキリスト信仰の目をさらに開くことができたのは、ハンセン病の患者たちの生活に直接に触れたからであった。そこは、前述のように恐ろしいまでの苦悩に満ちた世界であったが、他方では、互いに助け合い、ともに病気の苦しみを分かちあい、励まし合う人たちが多くいたということであり、またそこで働く人々が美しい心をもってただひたすら、ハンセン病の患者の喜びを自分の喜びとし、ハンセン病の人の悲しみを自分の悲しみとするような生活をしているのにも出会った。
さらに、「ハンセン病患者の末期にある人たち、手足がくずれ、顔もくずれ、目は見えなくなり、重症者の部屋の片隅に悩む病人、その人たちが私の目を開いてくれた」という。
林は医者であって、患者の治療をする役目であったし、精神的にも患者を教え導く立場であった。しかし、そうした患者との関わりのなかで、かえって自分が重症の病人たちから霊感を受けて、新しい世界に生まれ変わることになった。
彼はつぎのように書いている。
「一人の重病のらい者が机を前にすわっていた。彼はのどが狭くなって声を出すことができぬ病状が寒さのため進んだのであろう。一息一息が苦しい。あと何日もつかが問題である。
しかし彼はにこやかに笑っていた。そして机の上には大きな字の聖書がある。彼は静かに薄暗い室の隅で聖書に親しんでいた。私は非常にこれに打たれた。…
全生病院に八木というらい者がいた。やはり重症の病人である。しかし彼の顔は常に輝いていた。彼ののどは侵されていたが、なお大いに立派な声を出した。そして常に祈り、常に暗記して讃美歌を歌った。
彼は先日亡くなったが、皆に別れを告げ、葬式の聖歌をえらび、『おお感謝すべきかな、私の胸の中にはキリストの十字架の血が流れている』と叫んで召された。
多くのらい菌が巣喰うて、むしばめるだけむしばんだ肉体、世の人の目から見たら汚れたもの、最も汚れたものである、そのらい者が『私の胸には神の子の血が流れる』と叫んでにこやかに主のもとに帰った。
大田というらい者がいる。身に六十幾つの傷を持つ者で気管切開をし、カニューレ(挿入された管)で呼吸して十年以上になる。しかし今は全生病院の聖者である。
また、らい者の祈りを聞くものは胸打たれる。
『私が癩にかかったことを感謝します。もしかからなかったら、世の人と同じように自分のしたい放題のつまらないことをして一生を空しく終わったでしょう。しかしらいになり、肉体の頼りないことを示され、真の救い主を与えられたことを感謝します』、『らい者となりすべての人に憎まれたことを感謝します。すべての人に憎まれたればこそ、ただ一人愛し給う主を見出すことが出来ました』。
彼らの祈りはこのように祈られる」。
これは、今まで文雄の考え、見てきた世界とは全く別の世界であった。
らい病院の片隅に、世のすべてのものから引き裂かれて、ひとり病苦に苦しむらい患者が、ただ主イエスを信じる、ただそれだけのゆえに何人も奪うことのできない、あふるばかりの喜びを体験し、希望に眼を輝かせているのである。
そして、これこそ今まで文雄が願い求めて、得ることのできなかった世界の消息であった。しかし皮肉にも、それは文雄が求めれば得られるであろうと思って求めた場所とは全く反対の場所にあることを知ったときの文雄の驚きは大きかった。「私は太陽、星、花の美しさに神を見ていた。しかし、何も見ることのできぬ、また知覚を失って、何も感ずることのできぬらい者が『神は愛なり』と叫ぶのである。
私は立派な行ないがキリスト者的であり、また喜びであると思うていた。しかし、そうではなかった。一日何もできぬ盲人の重症者が動かない喜びにみちている。これはなぜであるか」。
文雄は今まで、大きいもの、美しいもの、明るいもの、そして何かキリスト教的徳目の実践こそがキリスト者であることの証しであり、信仰の徹底であると考えてきた。ところが、今見る世界はまさにその正反対であった。
小さいもの、弱いもの、醜いもの、動けないものの中に、「神の愛」が宿り給うているのである。文雄はこの現実の前に、従来持っていた価値観を根本的にくつがえされてしまった。これは文雄にとって大きな啓示的体験であった。
そして、よく見ると、これらの患者たちは、一様に、聖書をむさぼるように読んでいた。このことを発見して、文雄もまた、改めて聖書をとり、「同じ恵みを与え給えと祈りつつ」(同上)読みかえした。今までも聖書を何回も読んできたが、こんどは不思議なことに、目からうろこでも落ちたように、次々と新しい世界をそこに発見して驚くのであった。(「林文雄の生涯」おかの
ふみお著 新教出版社刊より。表現を一部わかりやすくした箇所もある。)
こうして彼は、キリストの十字架による罪のあがないの信仰の深い意味に霊の目を開かれ、新しい天と新しい地を見たというほどの経験を与えられ、それまでのキリスト教信仰が根本から新しくされたという。
このように、ハンセン病患者のために、自分の生涯を捧げたいと思って、赴任した一人の医者が、思いがけずに、その患者を通して自分の信仰に深い転機を与えられて生涯の感謝となったのであった。
人を真に助けようとするものは、その相手によって助けられるという真理を、林は深く体験したといえよう。
神がハンセン病という重い病の人をも「神のわざが現れるため」に、神の国のために用いておられるということを、患者たちの実態や、自分自身の魂における大きい変化によって知らされたのである。
このように、闇がいかに深くとも、そこに神の光が輝くのだと知らされる。その光のもとは、二千年前に地上に来られたキリストにある。キリストは、当時の社会がやはり同様に排斥し、汚れた者としていたハンセン病の人に、深い愛をもって接し、決して触れてはならない存在であったハンセン病の人に自ら手を触れていやされた。それは、キリストこそは、ハンセン病という最も苦しい病気、孤独な病気の闇にも手を差し伸べるお方なのだということを長い歴史にわたって預言するものともなったのである。
キリスト以前の時代には、旧約聖書に記されているように、神を信じる人たちもハンセン病の人には触れてはいけない、隔離して社会的にも排斥するということがなされていた。それを決定的に変えたのがキリストであった。
ハンセン病の病院にいる人たちは老齢化し、日本では次第に忘れられていくだろう。現在、ハンセン病の療養所にいる人たちの数は四千四百名、毎年二百人以上が死去している。そして、十二年ほどすれば、その数は二千人以下となる見通しだという。
しかし、まだ世界にはインドやアフリカなどを中心として一千万人を越えるという多数のハンセン病の人がいる。そしてハンセン病とは別のさまざまの病があるし、豊かな社会にも蔓延していく心の病がある。
最近の現在の日本はとくにオウム真理教事件以来、特異な状況が目立つ。それはそうした心の病が深く進行していきつつあるのを思わせる。
そのようなときに、何がいったい根本の解決の力を持っているのか、ほとんどの人たちは分からない状態である。二千年もの長い歳月を、いかなる闇にあっても光を照らし、魂をいやし、力づけるキリストの真理がこれからの世界に、いっそう貴重なものとなっていくであろう。それはハンセン病の人たちが直面させられた苦しみと深い闇をも、なお照らし続け、生きる希望と力を与え続けたという事実を知るときいっそう明確な確信となってくる。