パウロの祈り(その二)   2001/6

 パウロはどんなことを祈っていたのか、それを知ることは私たちの日ごとの祈りが正しく導かれるためにも重要なことです。
 新約聖書にはパウロの手紙が十三も収められています。それは十二弟子の代表的な人物であったペテロの手紙の十倍ほどの分量にもなっています。パウロの手紙以外の手紙を全部合わせてもパウロの手紙の三分の一程度にしかならないのです。それほどにパウロが書いたものは特別に神からの啓示がはっきりと示されていたということがわかります。他の弟子たち以上に神はパウロに多くの言葉を語りかけ、それを聖書として永遠に宣べ伝えるようにされたのがわかるのです。
 
恵みと平和を祈ること
 そのパウロの手紙の冒頭には、そのすべての手紙につぎのような言葉がみられます。
「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安(平和)があなた方にあるように。」
 ほかの人が書いた手紙(ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ヨハネの手紙など)には、ペテロが書いた手紙以外にはこのような言葉は見られません。さまざまの状況のもとにある各地のキリスト者に宛てる手紙においてはその状況にふさわしい内容を書いたのですが、この「恵みと平和」ということを手紙の冒頭において祈ることは、すべてに共通しています。ここにも、パウロがいかにこの「恵みと平和」ということを重要視していたかがわかるのです。
 これは単なる形式的な挨拶ではありません。
 日本語では恵みといっても、とくに深い意味はなく、雨があまり降らないときに、降るとそれを恵みの雨だといったり、地位の高い者が低い者に何かを与えるときに「恵んでやる」というように使ったりするので、大した内容を感じないことが多いのです。
 しかし、新約聖書では、とくに重要な内容を持っています。それは、とくにパウロがこの言葉に重要な意味を持たせて用いたからです。この恵みという言葉の原語(ギリシャ語)は、カリス(charis)といいます。
 この言葉は、マタイ福音書やマルコ福音書では全く用いられていないし、ヨハネ福音書ではその第一章にだけ三回だけ用いられ、ヨハネの手紙でもほとんど用いられていないのです。
 しかし、パウロの手紙では百一回も用いられているのです。 (なお、ペテロの第一の手紙と、使徒行伝ではやや多く、それぞれ十回、十七回用いられています。)
 なぜパウロはこのように「恵み(カリス)」という言葉を特別に多く用いたのか、それはキリスト教の根本にかかわる重要性を持っています。
 私たちは、どんなによいことをしようとしても、できない、かえって自分中心に言ったり、行ったりしてしまう。愛や正義、真実などのことをいくら聞いても、そのような心で日常を過ごすことができない、なにか私たちの心には不純なものがあります。そのようなことを思ったら、心に深い平安やさわやかさもなく、新しい力も湧いてきません。
 しかし、不思議なことに、そうした弱さや醜さをもったままで、キリストはそのような醜さ、すなわち罪のために死んで下さったのだと信じて受けるときには、そうした不満足や欠けた自分へのみじめな感情が消えて、心に自由と平安が与えられます。これがキリスト教信仰の根本にあります。
 パウロ自身も、みずからユダヤ人として、律法を精いっぱい守ろうとしても守れない自分に気付いていました。キリスト教とは、自分たちが千数百年も前から神からの直接の言葉として何より重んじている、モーセの律法を軽んじて無視していると思いこんで、キリスト教を徹底的に迫害していこうとしていました。
 そうした状況は大きい罪でありましたが、パウロはそれに気付かなかったのです。
 そんな自分であるのに、意外にもキリストが自分のそんな罪を責めるのでなく、かえって、神とキリストに立ち帰れと呼びかけをして下さり、自分のためにキリストが死んで下さったということを信じて受け入れたときには、それまでにかつて経験したことのない平安が与えられたという実感が与えられたのです。
 そのように、まったく自分には与えられる値打ちがないのに、ただで与えられたその平安や自由をパウロは「恵み」と言っているのです。
 キリスト教の中心の真理を記しているローマの信徒への手紙につぎのように記されていることはそのようなことなのです。 

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの信徒への手紙三・2324

 このパウロの表現はあがないとか、義とされるなどというふつう日本語としてはほとんど使われない訳語があるので、初めて読む場合には意味がよくわからないままになります。
 しかし、これは要するに私たちは何にもよいことができないし、していないのに、それでもキリストが十字架で死んで下さって、神との平和な関係を与えられ、平安を与えられるということを述べているのであり、これはパウロを最も支えていた真理であったのです。
 そのことはすぐに平和ということにつながっていきます。
 普通、平和というと、戦争がないことをだれでも連想します。しかし、新約聖書では、そのような外的なことよりも、キリストによってなされた平和が中心にあります。人間が、不信実であり、憎しみとか自分中心に考えるのは、真実や愛そのものである神に背を向けているからだ、つまり神に敵対しているからだと言えます。そのように神に背を向けることは、私たちの本性に根深くあります。
 そうした深い神への敵対の本質を罪といいますが、その罪がキリストの十字架の死によって打ち砕かれたのです。それを信じる者は、自ずから神への敵対の心が消えて、神との深い結びつきを実感するようになります。そのことをパウロはつぎのように述べています。
 
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており・中ヲ(ローマの信徒への手紙五・1

 このように見てくると、新約聖書においてとくにパウロが「恵みと平和(平安)」と繰り返し述べている理由がはっきりしてきます。それはキリスト教信仰の中心にある真理なのです。パウロ自身がその生涯で最も深くキリストの愛を知らされたこと、赦しを受けて、新しい命に変えられたこと、それをこの二つの言葉で表しているのです。
 だからこそ、彼はその手紙の初めにそれを読む信徒たちに必ず神からの「恵みと平和があるように」と祈っているのです。
 このような意味での恵みと平和を祈ることは、その程度の多少はあれ、その後に続くあらゆるキリスト者の願いともなってきたのです。

各地の信徒のことを覚えて祈る
 パウロの祈りの特徴の一つは、いつも各地の信徒を思い出して、心に覚えて祈ることです。この祈りは新約聖書のパウロの手紙にもいろいろの箇所で現れます。
 本来、神の愛は、一人一人に及んでいるはずのものです。雨や太陽は悪人にも善人にも同じように注がれると主イエスも言われた通りです。
 悟りを開くといった抽象的な祈りでなく、具体的に人を思い起こしてその人のために祈ることの重要性をパウロは私たちに示しています。そうした心から個々の人の苦しみや問題をいつも覚えてその問題が神によって解決されるようにとの祈りへと導かれます。
 そうしたパウロの祈りを新約聖書からつぎに取り出してみます。

神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし・中ヲ願っています。(ローマの信徒への手紙一・9

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。・中ヲ監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。(ピリピの信徒への手紙一・18

わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。(コロサイの信徒への手紙一・3

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(テサロニケ一・23

このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。(テサロニケ一・11

 このように、各地の信徒のことを絶えず思い起こし、神に感謝し、そして神の恵みと平和が与えられ、さらに信仰が深められ、主の導きに歩むようにとの祈りであったのです。 

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。(ピリピ 一・34

 パウロの祈りは、感謝をもって始めています。しかし、私たちの世の中には感謝できることもありますが、しばしば感謝どころかどうして自分にはこんなことが生じるのかと周囲の人や社会に対する悲しみや、神への不満、怒りなどが生じてくるものです。
 パウロ自身、各地のキリスト者の集まりについても

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。(コリント十一・2728より)

 こうした心配や悩みをもっていたが、同胞であるユダヤ人についても絶えず心に痛みを感じていたのです。

わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。(ロマ九・23

 このように悩みや苦しみ、悲しみを持っていてもなお、パウロは各地のキリスト者のことを思い出すたびにすでにあげたように、感謝をもって手紙を書き始めているのです。
 これを見ても、キリストに深く結ばれるときには、どんなに重い悩みを持っていてもなお、感謝とか喜びが主ご自身から直接に与えられるのだとわかります。
 ああ、幸いだ、悲しむ者は! という主イエスの有名な言葉は、パウロのように、悲しみのただなかにおいて、主イエスと深く結びつくことを与えられていた人の経験なのです。
 こうした感謝の心は、主から来るものであって、人間が創り出したりできないものです。私たちは誰かのことを思い出すとき、いつも感謝をもってすることができるだろうか。人間の感情は、感謝というものでなく、好感を持っている人は自然な喜ばしい感情が生じますが、何か心が合わない、という人とは、そのような感情は生じないし、また心でどこか反感を持っているときにはなおさら感謝などは生じてこないわけです。
 またそうでない場合には、無関心であり、大多数の人に対する私たちの感情はそのようなものです。
 しかし、パウロの祈りによって私たちが知らされるのは、人々を導く神に対して深い感謝を神に捧げていたということです。
 パウロは各地にキリストの福音を宣べ伝え、それによってキリスト者となった人々も多く生じました。そうした人々はパウロにとっては、霊的な子供といえる人々であったのです。
 パウロは復活のキリストから直接に導かれ、聖霊を豊かに注がれて、福音を伝えて行ったのです。そのようなパウロに比べると、各地のキリスト者たちは信仰を持ったばかりで、パウロとは霊的には親子のような大きい差があったのです。
 しかしパウロはそのような信仰的にも未熟なと思われる人々にも、ある願いを持っていました。それは、自分のことを祈ってほしいと頼むことでした。

同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。・中ヲわたしが語るべきことをはっきり語って、この(キリストの)計画を明らかにできるように祈ってください。(コロサイ書四・34

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊(聖霊)が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。(ローマ書十五・30

 右のような箇所は、いかにパウロがキリスト者たちの祈りを求めていたかを示しています。また、次の箇所はキリスト者の祈りがキリストの霊と並べられてあるというところに、パウロがいかにキリスト者の祈りを重要視していたかがうかがわれるのです。

あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。(ピリピ書一・1920

 これは意外なことです。例えば、画家の大家がいるとします。その人が、まだ絵を描き始めたばかりの人に対して、絵のことで助けて欲しいと頼むことなど有り得ないと思われます。スポーツなどでも同様です。
 しかし、キリスト教の世界では、信仰をもってまもないような人、信仰的にはまだまだ不十分であったはずの人からでも、祈りという最も重要なことをともにして欲しいとパウロは願っています。
 ここに祈りの世界がほかの世界と違うところがあるのに気付くのです。それは、キリストを信じる人の集まりはキリストのからだであると言われているからです。一つのからだなので、例えば、指の先の小さなところを通る血液は全身を通っていくように、ある小さい指先が傷ついても全身でその痛みを感じるわけです。
 同様に、私たちが本当のキリスト者であればあるほど、一人のキリスト者の痛みや喜びは他の人にも伝わるし、ある人の祈りはちょうど血液が全身をめぐるように、他の人にも伝わっていくのです。
 パウロよりはるかに信仰的に遅れている人、まだまだキリスト者としては不十分であっても、その人たちの祈りは、パウロ一人で祈るよりずっと力あるものとなるのを知っていたのです。
 祈りは呼吸のようなものであると言われます。また他方祈りは心臓のようなものでもあります。心臓が血液を全身に送り出しているように、祈りは目に見えないものを送り出していくからです。祈る人自身にも、また祈る相手に対しても。

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