パウロの伝道の心 2001/9
キリストの弟子たちのうちで、最も重要な働きをしたのはパウロであった。彼はどうしてそのような特別に深く、しかも広い領域で働くことができたのだろうか。それにはいろいろの理由があるし、神がそのように特別な器として選んだからだという他はない。
選ばれた器であったパウロの心の一端をうかがうことのできる言葉をつぎにあげる。
自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主に仕えてきた。・中ヲ
神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのである。
そして今、わたしは、霊(聖霊)に促されてエルサレムに行く。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分からない。
ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっている。
しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思わない。(使徒行伝二十章より)
神の前に低い者、小さき者という実感を深く持っていること、それがパウロの原点でもあった。自分は罪人のかしらであるとすら感じていた。そのような心を聖書では、「心の貧しい者」と言っている。そうした心の貧しい者には「天の国はその人たちに与えられる」とのキリストの約束がある。その約束の通りにパウロはゆたかな天の国、神の賜物を受けたのであった。
そしてまた、キリストは「悲しむ者は幸いだ、その人たちは、神によって励まされ、慰めれるからである」とも言われたが、パウロはまた、悲しみを深く知る人でもあった。涙を流しながら主に仕えてきたと言っている。
自分の罪を知り、人間全体の罪、ユダヤ人の罪を知って、神に祈り願う心があり、深い悲しみを持ちつつ、その闇のなかに与えられる光なるキリストをいっそうはっきりと見つめていたのであった。
そうしてさらにパウロを動かしていたのは、自分の考えや人間的な勇気でなく、他人に動かされるのでもなく、聖霊によって導かれていたのである。その聖霊が導くならば、命すら惜しまないという心が常にあった。
使徒行伝全体が、たんに使徒たちの働きを記すのでなく、その背後にあって導いた聖霊のはたらきを記した書物である。パウロも彼自身の考えや人に動かされたのでなく、聖霊によって導かれた人であったのである。