イスラム教とコーランについて 2001/10
私たち日本人はイスラム教とかその経典であるコーランについてほとんど知らないのが実状です。ここでは、イスラム教やコーランについて本など購入して調べるということのできない人も多くいるので、そのような人たちのために書いてみます。
(なお、イスラムとは唯一の神、アラー(アッラー)に絶対に服従することを意味し、信者のことをムスリムという。)
イスラム教の創始者であるマホメット(ムハンマド)は紀元五七〇年頃に現在のサウジアラビアのメッカで生まれ、六三二年に死去しています。コーランはマホメットが神から受けたと信じたことを語ったものが集められたものです。彼が最初にメッカで神の啓示を受けたと称するのは、四〇歳頃のことで、紀元六一〇年のことです。
マホメットが理想とするのは、旧約聖書の中心人物の一人、アブラハムの信仰です。日本人にとってイスラム教というのは、キリスト教、仏教、イスラム教
と並べていうことが多いために、聖書の宗教、つまりユダヤ教やキリスト教とはまるで別のように思う人が多いのですが、この二つの宗教と深い関係がありま
す。
アブラハムの信仰は、キリスト教においても、信仰の模範の一つとなっていますが、完全な模範はいうまでもなく、キリストです。
しかし、イスラム教はアブラハムの信仰を最終的な模範とし、アブラハムの宗教を復活させることが目標だとしています。
「アブラハムは、ユダヤ教徒でもなく、キリスト教徒でもなく、純正な人、帰依者であった。彼は多神教徒ではなかった。人々のなかで、アブラハムに最も近い者は、彼のあとに従った者、この預言者(マホメット)、信仰ある人々である。」(コーラン第三章67~68)
コーランの中には、アブラハムやモーセ、ヨセフといった旧約聖書の有名な人物の名前がしばしば現れます。その中には例えば「ヨセフの章」と題された章があり、それは旧約聖書のヨセフ物語の記事をもとにした内容だと直ちにわかるものです。ヨセフが兄弟たちのねたみを受けて野の井戸に投げ込まれ、兄弟たちが、父ヤコブに嘘を言うこと、エジプトに売られていったヨセフが、心のよこしまな女性によって、誘惑を受け、それを拒絶した結果、ヨセフは無実の罪を着せられたこと、投獄されたヨセフが夢を説いたことなどほとんど筋書きは同じです。その章は物語で終始している章となっています。これがコーランかと思うような旧約聖書のヨセフの物語の簡略版のような内容なのです。
マホメットが住んでいた地方にはすでにユダヤ人やキリスト者たちがいたし、彼の最初の妻の従兄弟であった人は、キリスト者であったと伝えられ、キリス
ト者たちが付近に隊商としてやってきたこともあると推測されています。
そうした人たちから聖書の話を聞いて知識としたようで、その知識はかなり不正確です。
例えば、コーランの第十九章は、「マリヤの章」と題されて、新約聖書のルカ福音書の一章をもとにして書かれているのがすぐにわかります。そこでは、ザ
カリヤやヨハネのこと、天使がマリヤにイエスの誕生を告げたこと、マリヤがそれに答えて「だれも私にふれたこともなく、不貞な女でもないのに、どうして
私に子供ができるでしょうか。」と答えたと記されています。これは新約聖書の「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに
」(ルカ福音書一・34)という、福音書の記述を借りてきて、それを少し変えたのだというのがはっきりわかります。
しかし、マホメットは聖書を直接にはよく知らなかった、読んでいなかったと考えられています。先ほどのマリヤの章の28節にはつぎのようにあります。
やがてマリヤはその子(イエス)を抱いて、一族のもとにやってきた。みなは言った。「マリヤよ、お前は大それたことをしたものだ。アロンの姉よ、お前の父は悪人でもなかったし、お前の母は不貞な女ではなかった」
この記述は、旧約聖書にアロンの姉がミリアム(マリアのヘブル語発音)であるという記述を間違って書いてしまったものと考えられています。(旧約聖書・出エジプト記十五・20)つまり、イエスより、千数百年ほども昔のアロンやモーセの姉と、イエスの母とを名前が同じマリヤであったために、混同しているのです。これは、マホメットが聖書を持っておらず、おそらく、旧約聖書や新約聖書の話を周囲の人たちから部分的に耳で聞いて、うろ覚えで書いたからこのような基本的な間違いをしていると考えられています。
また、ほかにもこのような間違いは見られます。
シナイの山で、モーセが十戒を受けている間に山の下では、人々が偶像崇拝をして神への背信行為を繰り返していたときのことがコーランでも書かれていま
す。
「お前(モーセ)の去ったあとで、われらはお前の民(イスラエルの人たち)を試みにかけた。サマリヤ人が彼らを迷わせたのである。」(コーラン二十章85)
と書いてあります。しかしサマリヤ人というのは、モーセよりはるか後の時代に出てくる人のことです。イスラエルの人々を迷わせたのは、サマリヤ人でなく、アロンであったのです。
また、キリスト教の中心的な教義でもある、神とキリストと聖霊が同じ本質であること(三位一体と言われる)を否定しているが、そのことをコーランでは
つぎのように書いています。
「まことに、神は三者のうちの一人であるなどという人々はすでに背信者である。唯一なる神の他にはいかなる神もいない。・・マリヤの子(イエス)はただの使徒にすぎない。彼以前にも多くの使徒が出た。また、彼の母(マリヤ)は誠実な女であったにすぎない。二人とも、食物を食べていたのである。・・」(コーラン五章73~75より)
このように、三位一体という、キリスト教では、きわめて重要な教義についても、なんとマホメットは、「神とキリストとマリヤ」の三者が一体であると思いこんでいたのがうかがえます。
このように、旧約聖書や新約聖書の引用があちこちで見られますが、このような初歩的な誤りが見いだされるのです。
コーランでは、預言者として、つぎのように、旧約聖書で親しみある名前と、新約聖書からも一部、例えばイエスといった名前があがっています。
「まことに我らがなんじに啓示したのは、ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらはアブラハム、イシマエル、イサク、ヤコブと各氏
族に、またイエス、ヨブ、ヨナ、アロン、そしてソロモンに啓示した。またダビデに詩編を与えた。・・モーセには神が親しく語りかけられた。」(コーラン
第四章163~164)
このように、主イエスもコーランにおいては、預言者たちのうちの一人であって、人間のなかまにすぎないとしています。旧約聖書の神が預言者として特別に選んだ人物をコーランでもそのまま、預言者として受け入れているのに、どうして新しい宗教が必要であったのかと疑問になります。それをコーランではつぎのように説明しているのです。
「しかし、コーラン以前にも、導きであり、慈悲として授けられたモーセの経典があった。このコーランはそれを確証するもので、アラビア語で下され、悪い行いをするすべての者たちに警告し、善い行いをする者たちによい知らせを伝えるものである。」(コーラン四十六章12)
つまり、旧約聖書は神からの書であることを認め、それをさらに確証するものがイスラム教では、コーランだというのです。コーランは新約聖書をも部分的
に神から下されたものと認めます。
「このコーランは神をさしおいてねつ造されるようなものでなく、それ以前に下されたもの(旧約聖書と新約聖書)を確証するものであり、万有の主よりのま
ぎれもない経典をくわしく説明するものである。」(コーラン十章37)
このように、コーランを究極的なものとして位置づけます。
そしてユダヤ教徒もキリスト教徒も、その神からの啓示をゆがめてきた、それをアブラハムの正しい信仰に復元するのがイスラム教だという主張なのです。
しかし、キリスト教の内容に影響を受けてつくられたと考えられる教義には、復活、天使や悪魔の観念、それから死後の裁き、天国と地獄などの観念があります。これらは旧約聖書にはないか、あってもごくわずかです。アブラハムの信仰を目標とするといえども、アブラハムにはそのようなことについての信仰内容は見られないので、こうした観念は、新約聖書に影響を受けて作られているのがわかります。
現在深刻な問題となっている、テロはいったいどのようなコーランの内容に基づくのか、それは多くの人にとって疑問となっています。世界宗教とも言われるものが、あのような大量の無差別殺人を教えているのかと。これはもちろん否ですが、聖戦、これはつぎの箇所がもとになっています。
神(アッラー)の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。・・お前たちの出会ったところで、彼らを殺せ。お前たちが追放されたところから敵を追放せよ
。迫害は殺害より悪い。(コーラン第二章190~191)
このように、言って、イスラム教徒を迫害することは、殺すことより悪いとして、イスラムを迫害する敵がいる場合には、相手を殺すべきなのだとはっきり敵を殺すことを命じています。
こうした戦いのことを聖戦(ジハード)と言っています。そしてこうしたイスラム教徒以外の敵との戦いで死んだ者は、アッラーの神のもとで神からの恩恵を受けて生きている、とされています。(コーラン第三章169~170)
今回のアメリカの高層ビルへの攻撃は、この聖戦と称する戦いだと信じてなされたのが推察されるのです。
マホメットは「剣とコーラン」をもって征服していったと言われます。イスラムの敵には容赦なく処刑するという姿勢、イスラム教の敵は殺すことをすら正当化すること、こうしたことが、現在の一部のイスラム原理主義の者たちが、無差別的なテロを行う宗教上での根拠ともなっています。
このように、イスラム教は、旧約聖書や新約聖書のとくに福音書をも神の啓示とみなし、ユダヤ教やキリスト教からもいろいろとコーランに引用しています
が、つぎのような点でキリスト教と根本的に異なっているのです。
コーランはイエスをマホメット同様ただの人間の仲間であるとします。しかし、キリスト教はイエスは神と同質のお方であるということが啓示されるところ
から出発しています。イエスが人間なら、罪の赦しもできず、復活もありえず、死を超える力を与えることもできない。イエスを人間と同じだとするなら、それは、聖書を用いる宗教の一つではあっても、決してキリスト教とは言えないのです。
そして、信仰の究極的な模範を、イエスやモーセでもなく、アブラハムに置いています。それによって、神がキリストを長い間の預言の成就として、この世に送ったのに、それを無にすることであり、歴史を逆戻りにさせ、イエスより千七百年ほども昔のアブラハムを完全な信仰の模範として、それに帰ろうとするのです。
さらに、武力を用いることを当然とすることや、一夫多妻もキリスト教と根本的な違いの一つです。マホメットは、十数人もの妻を持っていました。その中には、政略結婚のようなものもあったり、わずか六歳の幼女と婚約し、その三年後に結婚しているような例もあります。
このようにつぎつぎとたくさんの女性を妻に迎えるなどということは、キリスト教では考えられないことで、武力の肯定、宗教上の敵を殺すべきだというような点とともに、キリスト教とはきわだった違いだと言えます。
主イエスは、敵に対する態度は究極的にはどのようであるべきか、このことについて、聖書を見てみます。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。・・
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・38~44より)
また、コーランが宗教上の敵には殺すこと(剣をとること)を命じているのに対して、キリストは、つぎのように言われました。
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは言われた。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ福音書二六・51~52)
この言葉の通り、武力で敵を征服しようとするものは、必ずまた武力によって滅びていくということは、歴史のなかで繰り返し見られることです。
そして主イエスの霊を最も多く注がれた使徒パウロもつぎのように教えています。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書かれている。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・19~21)
このような、明白なキリストの教えと、その精神に反して、アメリカやヨーロッパの主要国がいっせいにアメリカとともに武力での攻撃、戦争を始めようとしています。そのようなことは、決してよいことを生み出すことはできないのです。
イスラム教の大きい問題点は、このように、イスラム教に敵対する者を殺してもよいとする、マホメットの教えにあります。
主イエスは、こうした武力によっては決して問題は解決しないということを深く見抜いておられました。そして、そうした武力報復とはまったく異なる道で悪に立ち向かうことを教えたのです。
それは、神の前に静まり、敵のために祈り、あくまで真実な神の力に頼り、その神の裁きに委ねていくということです。ここにこそ、あらゆる紛争の根本的
な解決の道があります。