聴かれない祈り 2001/11/1
私たちは日常の生活のなかで、祈りや願いを誰でも持っている。そしてその願いは時によっては切実なものになる。難しい病気や突然の事故に遭遇してで苦しむとき、身体の障害に悩まされている場合、主よ、癒して下さい、どうか健康を回復して下さい、と必死になって祈る。
また、とくに家族に困難な問題が生じたときも、他人なら時折思い出して祈るということで済んでも、最も身近な存在である家族に関する困難な問題は忘れることができないであろう。それが十年、二十年と続くこともある。
その問題が深いものであるほどに、日夜祈らずにはいられなくなる。
どうかこの難しい問題を解決して下さい。またともに祈ることができるよう、同じ方向、神を見つめて生きて行けるように、どうか主よ、あなたのわざをなして下さい・中ヲ等など、身近な者への祈りは、止むことがないであろう。
しかし、そのような切実な祈りであっても、私たちが願うようには聴かれないことも多い。そのような聴かれない祈りに耐えかねて、神に向かって祈り願う心が旧約聖書の詩編にも見られる。
主よ、帰って来てください。
いつまで捨てておかれるのですか。
あなたの僕らを力づけてください。(詩編九十・)
いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。(詩編十三・2)
聴かれないように見える祈り、もう神は聴いては下さらないのではと思えるときでも、それでも私たちは祈り続ける。私たちの時と神の時が異なるゆえに。神は真実な神、憐れみの神であるゆえに。神の時が来るならば必ず、神は最善のことをなして下さると信じるゆえに。