神、われらと共に 2001/12/5
キリストが生まれるとき、天使が父のヨセフに現れて、生まれる幼な子の名前についてつぎのように告げた。
主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ福音書一・20~23)
これはキリストが生まれるときに生じた最も重要なことの一つなので、クリスマスの時には必ずといってよいほど思い起こされます。
ここにキリストのふたつの名が現れます。それは、イエスとインマヌエルという名です。これら二つはいずれもヘブル語で、イエスの方は、「ヤハウェ(神の名)は救い」という意味であり、インマヌエルというのは、「神、我らと共に」という意味です。(ヘブル語でイムは「共に」、ヌーは「我ら」、エルとは「神」を意味する)
この二つにキリストが地上に来られた意味が込められています。
イエスと言う名は、神は救いであるという意味ですが、救いとは、罪からの救いを意味しています。単に、苦しいことや、病気、人間関係からの目先の一時的な救いのためではないのです。いろいろの苦しみの背後には、人間の本質が真実なものに背を向けて人間の欲望とか自分の益を中心に考えてしまうということが罪であり、その根源的な傾向を改めて神中心に考えるようになることが、救いということです。
そのために、その罪を除くため、人間の罪を身代わりに背負うために、キリストは十字架にかけられたわけです。キリスト教のシンボルが十字架であるのは、このイエスの名前と意味を現しているのです。
このことがキリスト教といわれる信仰の中心であるために、聖書でも繰り返し強調されています。私たちのこの罪深い性質を日々思い知らされるとき、その罪の赦しがなかったら、前に進むことができないのです。
それとともにもう一つの、インマヌエルという名前は、一般の人には、ほとんど知られていないと言えます。
インマヌエルと呼ばれると旧約聖書で預言されているけれども、ふつうにはキリストのことをインマヌエルなどとは全く言わないし、キリスト者でもふつうには使っていない言葉です。
しかし、神が私たちと共にいて下さるということは、聖書全体を貫いている重要な真理です。
アダムは真実の神に対して不信実になったゆえに、楽園から追放されたとあります。それは神がともにいるという幸いな状態が壊されたということです。そしてその子供である、カインも神に背いて、自分の弟を理由もないのに殺害してしまった、その罰として地上をさすらう者となりました。
しかしそれでもなお、そのような重い罪を犯したカインに対してある守りを与えて、特別にしるしを付けて、カインに出会う者が彼を撃つことがないようにされたと書かれています。このような罪犯した者ですら遠くから見守り、完全には見放さなかったというのです。ここに、神がいかに人間と共にいて守って下さろうとするお方であるかが記されています。
アダムの別の子孫たちはすべて長寿を与えられたがみな、死んでいった。しかしエノクという人だけは、「エノクは神とともに歩み、神が取られたので、いなくなった」という特別な記述がされています。ここには、当時はまだ神とともに歩むということが稀であり、そのうちでも、人間が直接に死を見ないように「神が取る」というようなことはほかに例がなかったことと考えられます。
旧約聖書の代表的な出来事は、奴隷になっていて四百年も苦しんでいた人々が、モーセによってエジプトから脱出して、神の約束の地まで四十年もかかってたどりついたことです。
その間、砂漠のような乾燥した水も食物もほとんどないような荒野を数十万もの人々がどのようにして耐えて、前進することができたのか、どう考えても不可解なこと、謎のようなことです。その間のことを書いてあるのが、出エジプト記です。
困難な荒野の生活を支えたのは、神がともにおられたからでした。そのことを人々がつねに実感できるようにと、移動式の聖所である幕屋を造ることを神は命じています。
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。(出エジプト記二五・8)
幕屋というのは一般には使われない言葉です。これは、聖書において、荒野をさすらう民のためのテント式の聖所を意味しています。困難を極める砂漠的な地方での長期にわたる生活の中心として、神がともにおられることを象徴するものでした。
そしてその書物の最後には、つぎのように書かれています。
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れた。そして人々はすべてそれを見ることができた。(出エジプト記四十章より)
この意味は、どんな時にも神が人々と共におられたこと、その神の導くままに移動していったということです。このように、出エジプト記に記されている神の民の特徴は、どんなことがあっても、共にいて導く神を与えられていたことです。
これが、いかなる困難にあっても神の民が滅びなかったことの最大の理由だと言えます。
新約聖書においては、神がともにいて下さるということは、一般の人にはわかりにくい表現ですがヨハネ福音書では第一章に書かれています。
言(ことば)は肉となって私たちの間に宿られた。(ヨハネ福音書一・14)
この短い表現にはさまざまのことが含まれています。しかし、ふつうには使われない表現があって、初めて読む場合には意味がよくわからないのではないかと思われます。
言(ことば)とは、単なる私たちの会話の言葉とは違うのです。この原語はギリシャ語でロゴスといって、これは、宇宙を支配している目に見えないあるもの、理性というようなものをも意味する言葉でした。一般にはキリストというと、二千年前に生まれたイエスという人のことだ思われています。しかし、聖書では、キリストはそれ以前から、永遠の昔から存在していて神と共にあった、あるいは神であったと言われています。
そして二千年前に人間のかたちをとって(肉となって)、人々の間にこられて住むようになられたということなのです。
ここで、「宿られた」と訳されている原語(スケーノオー skenoo)は、ふつうに使われる「住む」という言葉でなく、じつは「幕屋を張る」と言う言葉です。(幕屋、テントは、スケーネーという)これは、黙示録以外の新約聖書ではほかには一度も使われていない言葉です。ヨハネがこのキリストの使命を一言で現すために特別な意味をこめて用いたのがうかがえるのです。モーセに導かれてエジプトから脱出した人々が死と隣り合わせていた砂漠地帯の困難な生活を支えていたのが、幕屋といわれる移動式の聖所(礼拝場)でした。それと同様に、キリストが人間のすがたをして来られたのも、私たちの数々の困難のある現実の生活のただなかに、宿って下さるためであったと言おうとしているのです。
黙示録では、この「幕屋を張る(スケーノオー)」という言葉は、最後に近いところに、あらわれます。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・中ヲ
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み(幕屋を張り)、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録二十一・1~4より)
ここでは、この世の究極的なすがたが象徴的な表現で書かれています。聖書における最後の言葉とも言えますが、それが、神がかつての荒野のさすらいのときにつねに人々と共にいたように、世の終わりには、永遠に神が人とともに幕屋を張って住んで下さるということです。
こうして聖書は私たち対して、出エジプト記から黙示録まで、「神は、人々のただなかに住んで下さる」と言おうとしているのがわかります。
キリストの本来の名前はイエスです。この名はすでに述べたように、「救い」という意味を持っていますが、その救いとは罪からの救いです。キリストが十字架にかかって死なれたこと、それは人間の持っているどうしようもない深い罪を担って死んで下さった、それによって私たちを悪の力から買い戻したということであったのです。
それによって私たちは神とともにいることができるように整えられたと言えます。罪から救われた人間が、その後はどうなるのか、それが、神がともにいて下さるということです。
肉体をもって地上に来られたイエスが死んだのちに、復活して、聖霊として存在するようになったのも、信じる者すべてのところにつねにともにいて下さるためでした。肉体をもったままでは、ごく限られたところでしか存在できない、しかし聖霊は、いつでもどこでも存在できるからです。
さらに使徒パウロはともにいて下さる主イエスについて深い啓示を受けています。それは、私たちの生活のなかで共にいて見守り、導いて下さるだけでなく、私たちの内に住んで下さるということなのです。人間の一番深いところ、その魂をいわば宮としてそこに住んで下さるということほど、ともにいて下さる神を感じることはないと言えます。
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である。(Ⅰコリント 六・19)
といい、また、つぎのようにも言っています。
生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる。(ガラテヤの信徒への手紙二・20)
このような直接的な表現のほかに、パウロが特別に用いているのが、「キリストの内にあって」とか「主の内にあって」という言葉です。これはパウロが実に一六四回も使っている表現なのです。キリストはたんにはるか昔に生まれただけのお方ではない、いまも生きておられ、そのキリストの内に自分は置かれているのだ、またキリストご自身も自分の内に住んで下さっているのだということがパウロを支えていたことであったのです。そのようにとくにキリストのうちにあったからこそ、彼の書いたものが、ほかの弟子よりも多く新約聖書に含まれるようになったと考えられるのです。
ヨハネ福音書でもこれと同様なことは、キリストこそがぶどうの木であり、その内に留まれ、そうすればキリストも私たちの内に留まって下さる(*) ことが繰り返し強調されています。これがよく知られたぶどうの木のたとえです。(ヨハネ福音書十五章)
(*)なお、新共同訳では、ぶどうの木に「つながる」と訳しているがこの箇所の原語はメノー(meno)であって、これは、「留まる」という意味である。ヨハネ十五・4「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっている。」という箇所の原文の直訳は、「わたしの内に留まれ、そうすれば私もあなた方の内に留まる」であって、単に平面的につながるのでなく、「内に」留まることが強調されている表現となっていて、パウロがよく用いている、「キリストの内にある」というのと同じ内容を持っている。
このように主は私たちといつも共にいて下さるけれども、しばしば神はともにおられるのだろうかと疑問になることもあります。つぎつぎと続く困難に直面したとき、耐え難い苦しみに出会ったときなどそうした気持ちになることはだれにでもあると思われます。そのようなときに、一人だけで祈るのでなく、二人、三人で祈ると主が共にいて下さるのを強く実感できることも多くあります。そのことを、主はつぎのように約束されたのです。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ福音書十八・20)
神が私たちとともにいて下さるということは、旧約聖書から新約聖書にいたるまで、以上のようにさまざまの箇所で、またいろいろの表現によって繰り返し強調されています。 神がともにいて下さるのでなければ、この、暗雲の漂う世界にどうして心安んじて生きていけるでしょうか。共にいる存在として私たちはたいてい、人間を求めます。幸福な結婚、家族、友人それは本当に得難い賜物であると言えます。しかし、それらがみな得られる人はごく一部に過ぎないのです。また、そうしたものを持っていても、病気や事故、人間の心変わりのためにいつ失われるかわかりません。さらに最も深い悩みや苦しみはどんな人にも本当にはわかってはもらえないのであり、ただ神のみ、生きて働くキリストのみがわかってくれるものです。
それゆえに、主イエスは聖霊として、また内に住んで下さる神として、私たちといつもともにいて下さることを約束し、聖書全体がそのことを証ししているのです。