弟子たちの足を洗うキリスト(その一)  2002-3-4

 最後の晩餐という言葉は、広く知られています。レオナルド・ダ・ヴィンチという天才画家がその場面を描いたことで、教科書にも必ずといってよいほど取り上げられてきたためです。しかし、その絵だけが知られていて、その最後の夕食のときに、どんなことを教えたのかはキリスト者がほとんどいない日本人にはあまり知られていません。
 さらに、その夕食の直前に主イエスが何をされたのかに至っては、ごく一部のキリスト者にしか知られていないと思われます。それは弟子たちの足を洗ったということです。
 
 さて、過越祭の前のことである。
 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、愛し抜かれた。(最後まで愛された)
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、(ヨハネの福音書十三・13
 
 この数節にキリストの本質と使命が圧縮されています。
まず、「過越祭」(*)ということが、最後の夕食のことを書き始めるに当たって記されています。このことは、十二章の冒頭にも、「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこは死者の中から復活させたラザロがいた。」と特に書かれて、読者の関心を過越祭へと導く役割を果たしています。それは、地上に来られたキリストの目的に関わることだからです。
 過越祭において、十字架刑で殺され、血を流すことは、はるか昔の出エジプトのときの過ぎ越しのことが、霊的な意味において実現することなのだということなのです。

*)キリストよりも千数百年の昔に、モーセがエジプトで奴隷のようにこき使われていた人々を神の導きによって導き出すとき、小羊の血を塗ったイスラエルの人々の家には神のさばきが過ぎ越したという重要なことを記念する祭り。
 あなたたちのいる家に塗った小羊の血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。 (出エジプト記十二・13
 
 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り

 この短い一言は、イエスの死は、神の定めた御計画によるものであり、神の定めた時が来たから、地上の生活を終える。キリストが殺されて滅んでしまって、いなくなるのでなく、父なる神のもとに帰ることだと言われています。すべてを愛と真実をもってなされたような、神と等しいお方を、十字架につけて、重罪人として殺すこと、それが単なる悲劇とか悪の勝利でなくて神の深い御計画であって、最善のことがなされたということです。

 つぎに「愛し抜かれた」とありますが、原文は口語訳のように「最後まで愛された」とも訳される表現です。(英語訳ではそちらの方が多数を占めています。)ここにもイエスの本質が記されています。人間がどんなに不真実であってもなお、イエスは私たちをどこまでも愛し続けて下さっている。世の終わりまで共にいるということは、世の終わりまで愛し続けて下さるということです。
 この世が不正や悪や不真実で覆われているとき、ただ一つだけ、いかなることがあっても消えることなく、弱ることなく続いている愛があるということは驚くべきことです。
 パウロの言った有名な言葉、「信仰と希望と愛はいつまでも続く」というのも、神の愛について言われている言葉です。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り

 すべてを委ねられたとは、神の持っておられるすべてがキリストにあるということです。だから全知であり全能であり、また真実とか正義、愛などあらゆる神の本質がキリストにもあるということになります。このことは、すでにヨハネ福音書では、冒頭の第一章に記されています。このことを信じないときに、他の宗教も同じだなどという考え方になっていきます。
 キリストにすべてが神から委ねられているからこそ、私たちはキリストに対して神に祈るように祈ることが赦されるのです。

(イエスは、)食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。(ヨハネの福音書十三・411

 これで最後という夕食のときに、イエスがなされたのは、驚くべきこと、だれも予想すらできないことでした。それは水をたらいに汲んできて、弟子たちの足を洗い始めたということです。だいたい、足を洗うということは、現在でも、病人以外では他人にしてもらうということはふつうはまずないことです。老人の背中を流してあげるとかは耳にすることはあっても、足を洗ってあげたというのは、母親が幼児の外で遊んで汚れた足を洗ってやるというようなこと以外には、耳にしないことです。
 当時は現在のようなきれいで丈夫な履き物もなく、非常な乾燥地帯だから、足はずいぶん汚れるはずです。その上、当時はイスラエルの人にとっては汚れているとされた異邦人も多く、路上で死んだり、戦いのために血を流したりすることも多く、そのような地を歩いていく人には汚れがつきまとうということが言えます。そのような汚れを洗うというのは、そのころは非常に数が多かった奴隷のするような仕事であったと言われています。
 こともあろうに、そうした汚れに関わることを主イエスが直接にしようとされる。弟子のペテロはそんなことをメシアであり、未来の王であるようなお方がするなどとはもっての他と、「私の足など決して洗わないで下さい!」と思わず言ってしまったほどです。
 しかし、主イエスは、「もし、私があなたの足を洗わないなら、私と何の関係もなくなる。」と、これも驚くべきようなことを言われたのです。じっさいにこの場面ではこの主イエスの言葉は理解しがたいことのはずです。足を洗ってもらわなければ、イエスと関係がなくなるとはどういうことなのか、誰一人わからなかったのです。現在の私たちも、ここを初めて読んだときには、おそらくたいていの人が何のことかわからないと思われます。
 文字通りの意味で、イエスが足を洗わねば、イエスと何の関係もなくなるという意味ではないのはすぐにわかります。文字通りに取るなら、イエスが実際に足を洗えるのは、この十二弟子だけであって、他の人間はみなイエスと関係なくなるというようなことになってしまいます。そんなことはもちろんあり得ません。 それではどんな比喩的な意味がここに込められているのか。
 それは、足を洗うとは、汚れを除くということなのです。イエスによって私たちは日々の汚れ、罪を清め、赦して頂かねば、イエスとは関係がなくなる。

イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」 (ヨハネの福音書十三・10

 弟子たちはいつ体を洗ったのか、体を洗ったのなら、足もきれいになったのではないか等などの疑問が生じます。この言葉を理解するには、少し後に出てくるつぎの箇所が参考になります。

わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。(ヨハネの福音書十五・3

 イエスの話した言葉を信じることによって、その人間の本質は清められる。 なぜかといえば、主イエスの言葉を信じることは、それを語ったイエスを受け入れることだからです。
 しかし、そのようにして清めを受けても、日々の生活のなかでさまざまの罪を犯し、間違いを繰り返すのが私たち人間の実態です。そのような私たちの日々の汚れを主イエスによって清めて頂くことが、キリストによって「足を洗って頂く」ということです。
 罪が清められないのに、そのまま生活していくとき、それは神との間に壁をつくることです。そのためにますます神から離れ、人間中心の心で生活していくようになります。そのことがイエスとは関係がなくなるということです。そのことは、べつの箇所で言われているように、キリストというぶどうの木から切り離されるということです。そうなれば、枯れてしまうと言われているように、霊的な養分を受けられなくなるから実際にその人の魂は枯れていく、滅んでしまうということになります。
 
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。( ヨハネの福音書十三・14

 「互いに足を洗い合う」とは,現在の私たちにとってどういうことを意味するのか、それは他の箇所によってよりはっきりとこの言葉の意味が浮かび上がってきます。
 当時のユダヤ人は、異邦人を汚れた者とみなし、外国人と交際したり、訪問したりすることすら禁じていました。(使徒行伝十・28)そして動物や人間の死体に触れても汚れると考えていました。道を歩く際にはそうした汚れを受けることにつながります。そういう意味で足とは最も汚れた部分だということになります。そのような足を洗うということは、実際、だれもやりたがらないのは当然です。
 このことを、現在のキリスト者にあてはめて考えてみます。キリストを信じる者同士が、罪などに対して、それを洗おうとしないとは、その罪を見て、その人を見下したり、排斥したり、憎んだりすることです。そしてそれを洗い合うとは、互いの罪を見てもそれを祈りをもって、その罪が清められるようにと願い、罪を犯すような心がなくなるようにと祈りの心をもって対することだと言えます。
 こう考えてくると、「互いに足を洗い合う」とは、同じヨハネ福音書に現れる「互いに愛し合う」ということと同じ意味を持っているのがわかります。キリスト教でいう、愛とはこうした人間の奥深い出来事である罪を赦すというところにはっきりとその力を現すからです。神の愛もやはり、私たちの罪を清め、赦すためにキリストを送って来られた点にあると言われている通りです。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 (ヨハネの福音書十五・12

 このことは、とくに重要なことであるので、ほかの箇所でもつぎのように繰り返し言われています。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 (コロサイ人への手紙三・13

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 (エペソ人への手紙四・32

だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。 (ヤコブの手紙五・16

 このようにキリストを信じる者同士の特質は、「互いにしあう」というところにあります。その原点は、キリストがまず私たちにそのように罪を赦し、汚れたところを洗って清めて下さったというところにあります。
 こうした重要な教えは、ユダの裏切りという記述にはさまれるようにして記されています。このことは、キリストの愛は、サタンの攻撃のただなかで行われたという意味が込められています。サタンは人を攻撃し滅ぼそうとする、しかし、キリストのわざはそのただ中で行われ、神のわざであることが明らかにされるのです。現在においてもどのように、サタンが勢いをふるっているように見えても、そのただ中で、キリストの力はそのわざをなしている。そしてそのことが最も現れるのは、私たちが互いに、相手の罪をキリストからの愛をもって赦し合い、互いに祈り合うことにおいてであるとされています。そのことが神の力が泉のようにあふれていくことにつながるのだとわかります。

区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。