どこへ行くのか  2002/4

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」(*)(ヨハネ十三・36

 このヨハネ福音書における言葉は、弟子のペテロが、イエスはこれからどうなるのかという単純な質問だと思ってはいけない。そこにはさまざまの問題が秘められているのである。 

 どこに行くのかという問いは私たちの奥深くにある。生きている間も私はこのまま生きていってどこに行くのか、自分の人生はどうなるのか、どんな状態になっていくのか、死ぬときはどうなってどこで死ぬのだろう、死んだ後はどこへ行くのか等などである。
 明日のことも誰一人確言できないのがこの世である。大会社であっても、不正が発覚して数ヶ月もしないうちに会社が消えていくという事態にもなる。政治家も同様である。今をときめくような力を持っていた者もそうした不正が暴露されると、たちまちかつて想像したこともないようなところへと赴かねばならなくなる。
 さらにこの人間社会全体はどこに向かっていくのか、環境汚染問題、温暖化、資源枯渇などなど真剣に考えると将来、人類はどこに行くのかという大きな問題に突き当たる。
 地球や太陽すらどこへいくのか、という問題があり、五億年、十億年といったきわめて長い時間を見るなら、地球や太陽の死という問題すらはるかな前途には控えているのである。
 こうした様々の分野で「どこへ行くのか」という問いかけは生じる。その中で究極的問題はやはり、私たちは死ぬとどこへ行くのか、死のかなたに何があるのか、という問いである。
 なぜなら、環境問題にしても、地球や太陽の「死」ということですら、究極的には「死」の問題であり、死のかなたには何にもないのか、それとも何かが存在するのかという問題に直面する。
 こうした身近な毎日の生活や個々の人の人生だけでなく、あらゆる問題は最終的にはどこに行くのかという問いかけをつねに私たちに投げかけてくる。
 人間全体は、どこへ行きつつあるのか全くわかっていない。科学者も同様であって日本で最初にノーベル賞を受けた湯川秀樹氏も単に将来については暗い、不安を持っているだけであった。
こうした本来あらゆる人間が持っている、「自分はどこへ行くのか」「この世界はどこへ行きつつあるのか」というようなすべての問題の究極的な解決は、死に勝利したキリストが与えてくれる。主イエスが行くところは、無ではない。闇ではない。死後の不気味な沈黙や恐ろしい霊たちのいるような世界でもない。
 それは、光であり、真実であり、慈しみそのものである神、永遠の存在者である神のところへである。死んだらこのような輝かしいところに行くとは当時はまだ確信はなかった。弟子たちにとっては、死んだらどうなるかという問題については、最大の疑問符のままであった。
 イエスが行くところは、イエスを信じる者もまた行くことができる。イエスがこの世に来るまでは人間は究極的にどこに行くのかわからなかった。旧約聖書の世界ですらそれははっきりとはわからなかった。
 そうした全世界の人類があいまいであった問題に明確に答えたのが、キリストであった。キリストこそは道であり、真理であり、命そのものであるという宣言がそれである。そしてその道によって父なる神のもとに行くという宣言である。 
 キリストを信じて、道であるキリストによって父のもとに行くためには、重要なことがある。それは自分というものが砕かれねばならないということである。ペテロは「あなたのためなら命をも捨てる覚悟がある」とすら言い切った。しかし、キリストの行くところ、すなわち神の国に行くために不可欠なのは、そうした自分というものが砕かれることであるのをペテロはまだ知らなかった。自分の弱さや罪を思い知らされ、あらゆる誇りが一掃されなければ本当にキリストの行くところには行けない。自分の力でそうした自我をうち砕くことはできないので、キリストの十字架を信じて自我の罪を拭って頂かねばならないのである。

わたしの父の家には住む所がたくさんある。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
(ヨハネ福音書十四・23より)
 この箇所は、キリストがいるところ、すなわち死後の天の国に信じる者も迎えられて、キリストと共にいるという約束であると考えられる。しかしそのような死後の問題だけを言っているのではない。十三章の三十一節から始まる、最後に残す教えは、どれも単に死後のことを述べたのではない。すべて現在のこと、弟子たちがキリストの死後にいかに生きるべきかという問題であるからである。キリストは死んでも父のおられる霊的な家(場所)にいる。そして信じる者もキリストのいる霊の家にともに住むことができる。「あなた方を私のいるもとに迎える。私のいる所にあなた方もいるようになる」これは、二十三節の「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛し、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」といわれていることと同じことを別の表現で表していることなのである。
 我々人間は、そしてこの世界や宇宙は、究極的に「どこへ行くのか」、この問は万人の問である。意識しなくとも、人生の歩みのどこかでこの問が浮かび上がり、その答えを探そうとする。しかし大多数の者は、その答えを得ることができないで老人となり、真の平安を知らないままにこの世から去っていく。
 ペテロがキリストに向かって発したこの問いに対するその答こそは、私たちが究極的に与えられたいと欲しているものにほかならない。
  
*)この言葉は、新約聖書の外典である、ペテロ行伝(**)のなかに出てくる。そしてこの書物のペテロの言葉をもとにして、有名なポーランドの作家、シェンケビッチの代表作は「クォ・ヴァディス」という題名をとってい。「主よ、どこへ行かれるのですか」というのはラテン語では、ドミネ、クォ ワーディス Domine, quo vadis ? という。ドミヌスとはラテン語で「主」という意味、その呼格が、ドミネ Domine となる。 qou は英語のwhereで、「どこ」、ワーディスは「行く」というラテン語 vado の二人称単数形。 )
(なお、新約聖書の外典とは、新約聖書のうちには含まれなかったが、古代によく読まれていた文書。ペテロ行伝は、紀元二世紀の終わり頃に書かれたと考えられているから、古くから知られていたのがわかる。)(**)ペテロ行伝のなかからこの「主よ、どこに行かれるのか」という箇所を含む部分を下に引用する。


 ペテロは悪意をもった人々によって殺されそうになる。そこで、彼の身を案じる人は、使いをペテロのもとに走らせ、事情を明かした上で、ローマから去るようにと言わせた。他のキリスト者たちも、ローマを去るよう説き勧めた。そんな彼らにペテロは、「ローマから逃げ出せというのか」と言った。すると、「いえ、逃げるのではありません。あなたはこれからも主にお仕えすることのできるお方だから、別の場所に行って安全な地で、伝道して欲しいのです。」
 ペテロは兄弟たちに説得され、ねらわれているのは自分一人だといって、誰にも自分のために苦しませたくないからと、一人でローマの町を出て行った。
 ペテロが市の門を通り過ぎようとしていた時、主イエスが向こうの方からローマの町に入って来られるのを見た。それを見て、ペテロは、「主よ、何処へ行かれるのですか」(Domine, quo vadis ?)と尋ねた。主は彼に答えた、「私は十字架に掛けられる為、ローマに入って行く」。
 ペテロは驚いて彼に問い正した、「主よ、もう一度十字架に付けられるつもりですか」
「そうだ、ペテロよ。私はもう一度十字架に付けられるために行くのだ」と答えた。そう答えて、主は天に昇って行かれた。
 ペテロは非常な驚きに打たれて見送った。しかしその後でハッと我に帰った。
「私は人問的な思いわずらいにとらわれて、主の御心が何であるか問おうとしなかった。これまで大切な事は主の命じられた通りにしてきたし、少なくとも主に力づけられてから行動した。
 私は不信仰なことをした。それでまたもや主を十字架につけてしまうところだった」と自分の罪を悔い改め、ローマに帰った。(新約聖書外典 ペテロ行伝・三五より)


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