同じこと(繰り返しということ) 036-4-2
キリスト教の伝道においては、同じことを繰り返し告げる。キリストの真理は変わることがない。だから、当然キリスト教の文書も本質的には同一のことが書き続けられていく。
そのことを表面的に受け取ると、また同じことが書かれていると思う人もあるだろう。しかし、キリスト教の真理においては、本質的に同じことを書くことこそが重要なのであって、読む者の関心を惹くために興味本位で書くことはキリスト教の真理にそぐわない。
その点で、対照的なのは、新聞やテレビ、週刊誌、雑誌などである。それらはつねに目新しいことを書き続けなければならない。その理由は、単純なことである。つまり同じことを書いては売れないからである。それがどんなにつまらないこと、または、社会的に良くないこと、いまわしいことであっても、人々の関心を引くようなことであれば、書きつづける。
使徒パウロもその伝道の記録でもある使徒行伝で見ると、つぎのように繰り返し同じことを語り、証ししていることがうかがえる。
キリスト教徒を迫害する指導的人物であったパウロは、迫害のさなかに天からの光を受けて、回心する。回心の後にただちにパウロはキリストの福音を宣べ伝え始めたことがつぎのように書かれている。
サウロ(パウロのこと)は、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。 (使徒行伝九・20)
また、現在のトルコ地方にある、アンテオケという都市では、つぎのように語っている。
こうして、…、人々はイエスを木(十字架)から降ろし、墓に葬った。しかし、神はイエスを死者の中から復活させて下さった。…わたしたちも、…あなたがたに福音を告げ知らせている。すなわち、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのである。…
しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかった。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされる。
(使徒行伝十三・29〜39より)
ギリシャのテサロニケという都市では、パウロはつぎのように語った。
「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。(使徒行伝十七・3
)
さらに同じギリシャの都市アテネでも次のように宣べ伝えている。
さて、神は…、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられる。それは、キリストによって、この世を正しく裁く日を決められたからである。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証を与えられた。」(使徒十七・30〜31)
また、エルサレムで捕らえられたとき、最高法院(日本で言えば国会のようなところ)でユダヤ人相手に自分の行動を説明したときにもつぎのように語っている。
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
(使徒行伝二十三・6)
以上のように、パウロの最初の伝道における内容の要点は、キリストがふつうの人間でなく、旧約聖書に現れたような預言者と同列の人間とかでもなく、「神の子」すなわち神と同じ本質をもったお方であることが語られている。それは、死に勝利して復活したそのキリストにパウロが出会って変えられたからであった。そしてあたかも神があらわれるように、キリスト教徒を迫害しているパウロに現れ、パウロのいっさいを変えてしまい、彼に命じて復活のキリストを宣べ伝える者とされた。
パウロに実際に復活したキリストが現れ、現実にそれまでの彼の信仰の根本が変えられたため、彼にとって復活を疑うということはなく、キリストの復活こそがキリスト教の伝道において最も重要なことになった。そしてその復活があったからこそ、キリストは神の子であり、神と同じ力を持っているからこそ、人間の罪をもぬぐい去ることができる。それがもう一つのキリスト教中心的内容となった、私たちの罪のためにキリストが十字架の死をとげて下さったということである。パウロは、それによって人間の罪が赦され、罪の束縛から解放されたという確信が与えられたのである。
このように、パウロの宣教の内容の本質はきわめて単純であって、それはキリストが復活した、だからこそ神の子であり、その死は人間の罪をあがなうものであったということに尽きる。この単純な真理をパウロも行く先々で繰り返し宣べ伝えていたのであった。ギリシャの都市コリントに宛てた彼の手紙には、その二つを最も重要なことと明確に述べている。パウロはどこに行ってもこの真理を繰り返し宣べ伝えていたのがうかがえる。そしてそこには聖霊の助けと祝福がつねにあったからこそ、短期間にておどろくべき多くの人たちがキリストを信じるようになっていったのである。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものである。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、…、また聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと…。(
Tコリント十五・3)
ふつう、繰り返しというとつまらないと思う者が多いだろう。しかし、キリスト教そのものもこのパウロが宣べ伝えた単純な真理を繰り返し語ってきたのである。どうしてそれが飽きることなく、繰り返し語られ、しかも新しい力をもってつぎの世代にも受け継がれてきたのだろうか。
それは、そこに聖霊が伴っていたからである。どんなに同じことを語ろうとも、そこに主がともにおられ、神の権威と力を伴わせるときにはその単純な繰り返されてきた言葉がおどろくべき力を発揮する。
私自身も、パウロが強調している真理、キリストが十字架にかかって死んだことは私たちの罪からの解放のためであったということの簡単な記述を見て、ただそれだけでキリスト者へと変えられたことを思い出す。それは作者の文章の巧みさでもなく、知識や洞察の深さによるものでもなかった。そこに聖なる神の霊が働いたからであった。
疲れている人、心身の弱っている人に対して、キリスト教関係の讃美がふしぎな力を発揮することがある。つい先日も、そうした人に続けて出会ったばかりである。病気で弱っていた人が、讃美歌を聞いていると、新しい力を注がれていったのである。
讃美歌の言葉そのものは、同じ言葉の繰り返しであり、曲そのものも同じ曲を繰り返し、何十年も歌っている。にもかかわらず、その歌はあらたな力をもって、聞く人、讃美する人に迫ってくることがある。それはそこに聖なる霊がはたらくからである。
キリスト教の内容について私たちが書いたり、語ったりする内容もいくら繰り返しであっても構わない。そこに聖霊がはたらくとき、それはどんな目新しいことや高度な学問研究などにもまさって力を発揮する。単なる繰り返しと感じさせない力が現れる。しかし、そうした聖霊が伴わないなら、繰り返しはじつに退屈で、良きはたらきもなく、かえって真理への関心を失わせるものとなるだろう。
他方、どんなに目新しい記述も一時的な関心をひくとか、知的な興味を満足させることはあっても、聖霊が伴わないときには、魂の救いとか霊的な力にはならない。
専門的な学識の深さや、あるいは百科事典的な知識でもなく、ただ聖なる霊がそこにはたらいて下さるかどうか、そこにすべてがかかっている。