求めよ、探せよ、門をたたけ 2002/6

求めよ。そうすれば、与えられる。
探せ。そうすれば、見つかる。
門をたたけ。そうすれば、開かれる。(マタイ福音書七・7)

 これは聖書のなかでも最も有名な言葉のうちの一つであろう。そしてほとんどの人はこの言葉の深い意味に感じないままで、忘れていくだろう。
 求めていく意思の重要性をこれはきわめて簡潔に述べている。しかもそれは人間にでなく、何よりも神に求めていく姿勢の重要性である。神を信じて求め続ける心は必ず報いられるという約束がこの言葉なのである。
 求めたら与えられるといっても、自分が求めているものそれ自体が与えられるとは限らない。例えば、ある病気になったとする。だれでも病気の苦しみと痛みはひどくなるほど耐え難いものがある。それを必死でいやされるように祈っても、病気がなおらないこともあり得る。ついに病気がいやされないまま、死に至ったキリスト者ももちろん無数にいる。
 それなのに、なぜこの言葉はかわらぬ力をもって過去二千年の間、人々を惹きつけてきたのだろうか。
 それは、神の万能を心から信じ、そこに信頼し、その神に向かって切実に求める心は、神の国に属する何かが必ず与えられるのを実感するからである。たとえ愛するものが祈り空しく若くして召されたとしても、たとえ大きな誤解を親しい者から受け続けているとしても、そのために祈り続けるならば、必ず神の国が与えられる。聖霊のいぶきを受けることができる。そしてそこから、神の国を遠望するかのように、見ることを許されるようになる。
 求めているものが与えられないという現実によって、神は求める者のまなざしが、もなおも、遠く、なおも高く引き上げられていくようにと導いていかれる。神に求めよ、そうすれば霊的な視力がますます遠くまでのびていく、深まっていくという恵みが与えられるのである。主はそのような意味でも私たちに約束されている。
 まず神に向かって求める心が必要である。そしてそれから具体的に探し、門をたたかねばならない。真理を欲しいという切実な求める心が必要である。ただ求める気持ちだけではいけない。それを理性を用いても、また実行によっても探して行かねばならない。また、じっとしていては開かれない。人間も事柄も、事件も門をたたいていかねばならない。具体的にある人間のところを訪問して門をたたく、また文書の類、書物などでも探す。求めるだけでなく、探さねばならない。
 求めよという呼びかけに私たちは神に求めるまなざしを向ける。そしてそこから神の励ましを受けるとき、探していく、それは同じ苦しみを持つ友であるかも知れない、同じように神を信じる友であり、また彼らの賜物を分かち与えてもらうことであるかも知れない。ほかの人にも祈ってほしいと求めること、それは祈ってくれる人を探すことであり、ともに祈ることによって、開かない扉をたたくことである。ともに祈ることは、「二人、三人主の名によって集まるところには、主がともにいる」という約束の通り、そこに主がいて下さるゆえに、一人では開かない扉も開くのである。
 門をたたけ、ともに祈りによって開かない門をたたこう。
 探せ、自分だけでは探せないところを他のひとの助けによって、探そう。苦しむ人への助けの道は、手段はどこにあるのか、一人で考えても分からないことがある、そんなとき、ともに祈ってその道を探そうとするとき、主が与えて下さることがある。 
 この世は、神にむかって求め、その神へのまなざしを持ちつつ、この地上の生活で探し続け、門をたたき続けることで成っている。伝道も同様である。求める人はどこにいるのか、探し求める気持ちをもっているとき、神はそのような求める人を近くに招き寄せてくださる。また、固い心になった人をも、動かないような困難な状況に直面しても、不思議な力が働いて、それが開いていく。
 主イエスご自身も、この典型であられた。世を徹しての祈り、それは神に求めることであった。激しく求め続けることであった。そして自分に従う者たちを探された。本当に福音を必要とするもの、失われた羊をどこまでも探し続けられた。それはつぎのよく知られた箇所に見られる。

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。(ルカ福音書十五・4〜6)

 主イエスは形式や権力、あるいは伝統や習慣で縛られていた、当時の信仰のあり方に、神の力をもってその扉をたたいた。すると、それまで決して開かないと思われていた新しい命の信仰の世界へと扉が開いたのであった。 
 今日の私たちはその主イエスが開いてくださった門から導き入れられ、主の平安を知らされた者なのである。


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