ことば 2002/7
(133)神の御心にかなうならば、ただその場所にとどまっているだけで、彼らは勝利を収め、み心に逆らって戦った場合には必ず敗北したのである。(フラウィウス・ヨセフス著「ユダヤ戦記第五巻」九)
・聖書に記されている戦いに関する基本的な考え方は、ここに引用したように、私たちが神に結びついているとき、神が戦ってくださるということである。現代の私たちの戦いは、パウロが教えているように、目に見える人間が相手でなく、目には見えない悪(悪の霊)との戦いである。そしてその場合も、この言葉にあるように、人間的な手段を揃えることでなく、神を信じて委ねていく時、神ご自身が戦ってくださる。主イエスが、「わた
しにつながっていなければ、あなた方は何一つできない。私にぶどうの木の枝のようにつながっているとき、豊かに実をむすぶ」と言われたことも同じような意味を持っている。
(134)真理が天の星のように見えた。(ダンテ「神曲」天国編第二八歌より)
・神の啓示あるいは真理の象徴的な存在である、ベアトリーチェによる説き明かしを聞いたとき、ダンテの気持ちはこのようであったという。聖書という書物自体が、この世において闇のなかに輝く星のようなものである。キリストの存在も同様であって、私たちがキリストを信じている限り、その人の魂の内にあって、星のような存在であり続けるであろう。星はいかに地上世界が戦乱や病気、悪で覆われようとも決してその輝きを止めることはない。同様に、神の真理もキリストも人間世界のあらゆる混乱や動揺にも関わらず、星のようにその輝きを続けている。
(135)キリスト教の極致
「キリストは今なお活きて、われらと共におられる」、キリスト教の極致はこれである。
キリストがもし単に歴史的人物にすぎないのなら、キリスト教の教える倫理はいかに美しく、その教義はいかに深くとも、そのすべては空の空にすぎない。
キリストが今なお生きておられないならば、われらは今日直ちにキリスト教を棄ててもよい。キリスト教の存在は、ひとえにキリストが今も活きておられるかどうかにかかっている。(内村鑑三・「聖書の研究」一九〇八年二月号」)
・キリスト教という宗教を、その「キリスト教」という名前の故に単に昔のキリストの教えを教訓としている宗教だと思っている人は実に多い。しかし、これは、仏教とか儒教とかいう中国の表現をそのまま取り入れたにすぎないのであり、キリスト教といわれる宗教は、そのような単なる教えでなく、内村が述べているように、日々生きて働くキリストに導かれ、力を与えられて、自分の罪赦され、神の愛を実感しつつ生きることである。