目に見えない力−キリスト教における聖なる霊−  02-8-3

― キリスト教における聖なる霊 ―

 キリスト教とは何かといえば、単にキリストの教えだと思っている人が大多数を占めているのではないだろうか。ソクラテスやプラトンのような哲学者、あるいはシャカ(ゴータマ・シッダルタ)、孔子などの教えと同様な一つの古代の聖人の教えだと考えている場合がほとんどである。
 しかし、キリスト教といわれているものは、決してそのような教えが本体ではない。実際、一般には、キリストが始めて教えたと思われている、「隣人愛」ということも、つぎのように旧約聖書にすでに記されている。

復讐してはならない。人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(旧約聖書 レビ記十九・18)

 また、主イエスは失われた一匹の羊を探し求めるというよく知られた記述も、つぎのようにやはり旧約聖書にすでに見られることである。レビ記とはモーセが神から受けた教えとして伝えられているものであり、モーセとはキリストよりも千三百年ほども昔の人物である。

まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。…
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
                        (旧約聖書 エゼキエル書三十四・11〜16より)

 また、キリストの教えとして代表的な、山上の教えにはつぎのよく知られた言葉がある。

ああ、幸いだ。心の貧しい者!
なぜなら、神の国はその人たちのものだからである。
ああ幸いだ、悲しむ者たち!
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。(マタイ福音書五・3〜4)

 この言葉は、つぎの旧約聖書の言葉をより明確に表現したものだといえる。

わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書五十七・15より)

 打ち砕かれた人とは、心に何にも支えとなるものがなくなった人のことであり、それは心の貧しい者なのであり、また、悲しむ者でもある。大切に思っていたものが、失われ、また自分が生きていても何の役に立つのだろうかといった疑念からくる悲しみもある。いろいろの悲しみや空虚な心をかかえて苦しむとき、そこからキリストに求めるならば、神の国が与えられ、それは神の励ましと慰めを受けることができる。

 このように、キリストが教えられたこと自体は、旧約聖書にもよく似た内容がしばしば見られる。
 そのようなことを知ると、いったいキリスト教の独自性はどこにあるのかと思う人もいるであろう。キリスト教の独自性は、教えの内容よりも、つぎのような点にある。
 それは、人間のすがたをしていながら、神と同質のお方としてキリストが地上に現れたこと、そして神の力と権威をもって数々の驚くべき奇跡をなされ、十字架で処刑されたが、その十字架の死こそが、万人の罪を背負って死なれたということであった。また、死んでから三日目に復活されたこと、このこともキリスト教の独自な内容である。
 それらとともに、もう一つ、旧約聖書においてもごくわずかしかみられない重要な内容がある。
 それが、目には見えないが、聖なる霊が生きて働いており、私たちにも与えられるということである。この聖なる霊は、神の霊、聖霊、主の霊、キリストの霊など、いろいろに表現されているがいずれも同一のことを指している。
 
 キリスト教というのがキリストの教えだと思っている人にとっては、聖霊を与えられることこそは、キリスト教の中心にあるなどと言われると驚いてしまう。キリスト教は単なる教えでない。そのような教えがキリスト教の本質であるならば、それはとっくに滅びてしまっていただろう。
 なぜなら、キリストの教えをすぐそばにいて、キリストが十字架で殺されるまで、三年間最も身近にいて、たえずその教えを聞き取り、さらに主イエスのなされるあらゆる驚くべき奇跡をも目の当たりに見ていた弟子たちですら、キリストが捕らえられたときには、みんな逃げてしまったし、弟子たちの代表格であったペテロすら、キリストの逮捕のときに、自分も同罪で捕まえられることを恐れて、三度もイエスなど知らないと強く否定してしまったほどであった。
 これは、単なる教えがキリスト教の本体でないということを鮮やかに示している出来事である。
 いくらよい教えを受けて、そのときは感心して受けたように見えても、困難のときにはたちまちそのような教えなどは吹き飛ばされてしまうのである。
 どのようなことが生じてもなお、変わらぬ心で神に従っていこうとする心は、単なる教えでなく、強制でもなく、生まれつきの性格や意思の強さなどでもない。
 そのような心こそは、聖なる霊が生み出すものであり、聖霊の賜物なのである。
 聖霊については、新約聖書のさまざまの箇所に記されている。とくに、ヨハネ福音書、使徒行伝、使徒パウロの手紙などに多く見られる。
 ここでは、ヨハネ福音書からまず聖霊がどのような存在かを学びたい。
 主イエスが捕らえられて殺される前夜に、弟子たちとともに最後の夕食をされた。これは、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」という絵で広く知られている。なおこれは決して「晩餐」などという言葉で表現されるようなごちそうの会ではなく、きわめて質素な最後の夕食であった。この絵ばかりが有名で、その最後の夕食のときに語ったとされる長い、深い意味の込められた教えは一般にはほとんど知られていない。
 それは、キリストが山に登って教えた、「山上の教え」とともに、「別れの教え」としてきわめて重要な内容なのである。そのなかに、聖霊についても繰り返し説明されている。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(パラクレートス parakletos)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ福音書十四・16〜17)

 主イエスはまもなく十字架に付けられて殺される。そうすれば弟子たちは一体どうなるのか、数百年もの間、待ち望んできた救い主、メシアが現れたというのに、わずか三年で無惨にも殺されてしまうのなら、まったくそれはメシアでもなかったことになるし、弟子たちはすべてを捨てて主イエスに従ったのにこれもまた空しかったということになる。 
 こうした虚脱状態に陥ることは必然的であった。それゆえ肝心の導き手が殺されてもなお、神の御計画は続いていく、いっそう発展していくということを知らせることが不可欠であった。そしてキリストはやはり、世界の救い主であり、メシアであることを、弟子たちが世界に知らせるという重要な任務を与えられる必要があった。それを導くのが聖霊なのである。聖霊が与えられなかったら、弟子たちは、キリストを裏切って逃げてしまい、三度もイエスなど知らないと大きな偽りまで公言してしまった、哀れな敗北者の集団と化していただろう。じっさい弟子たちは、キリストが捕らえられて以後は、部屋に閉じこもって、内側から鍵を掛けていたほどであった。(*)

(*)その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。(ヨハネ二十・19より)

 こうして、単に教えだけでは何の力にもならないということが、鮮やかに示されている。このように、恐れて閉じこもっていた弟子たちのただなかに復活のキリストが現れ、「聖霊を受けよ」と言われた。聖霊が与えられてはじめて、耳で聞く教えだけでは決して与えられないものが、与えられるからである。
 このような重要な存在を指して言うのに、ことにヨハネ福音書だけが、すでに記したように「パラクレートス」というギリシャ語を用いている。
 パラとは、「側(そば)」、クレートスは、カレオー(呼ぶ)という動詞がもとにあってその受動態の形をしている。すなわち、パラクレートスとは、「側に呼ばれた者」という意味を持っている。何のために側に呼ばれたのか、それは「慰めるため、力づけるため、罪赦された者だと弁護するため、とりなすため、訴えを聞いてくれる相手になるため、助け主となるため、」なのである。(**)

(**)この言葉の原語がこのようにいろいろの意味を持っているために、外国語訳もさまざまになっている。(Helper(助け主)、Paraclete(パラクレート これはどの英語にも訳せないとの考えから、原語のギリシャ語をそのまま)、Counselor(相談相手)、Advocate(弁護者、代弁者)、Comforter(慰め主))
 
 このような多様な意味を持っている言葉をヨハネがとくに用いたということは、聖霊が多様なはたらきをする存在であることを指し示そうとしているのがうかがえる。ヨハネ福音書だけでも、そのはたらきはさまざまに記されている。
 
 まず、聖霊とは、「永遠にあなた方と一緒にいる」(ヨハネ十四・16)存在だと言われている。主イエスが殺されても、そのかわりに永遠にともにいて下さるという。そういう存在は神しかいないし、神とともにいるキリストだけにあてはまる。また、私たちの地上のいのちはごく短いのであって、永遠に私たちとともにいるという表現がされているのは、私たち自身も聖霊とともにあることによって永遠的な存在に変えられるということが暗示されている。

 また、この聖霊は「ともにいる」だけでなく、信じる人たちの「内にいる」とも言われている。そして主イエス御自身があなた方のところに戻ってくる、「父なる神とわたし(イエス)は、キリストを愛する人のところに行ってともに住む」とも言われている。このように、聖霊はキリストが処刑されてのちに、弟子たちに与えられると約束されているが、その聖霊と、復活したキリスト、そして神とは同一の存在として扱われているのがわかる。
 つぎにこの聖霊は、たんに内に住むだけでなく、「真理の霊」(17節)であるから、つぎのようなはたらきも持っている。

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ十四・26)
 
 真理の霊であるということは、何が真理か偽りかを見抜く霊であり、したがって人間に関わる精神的な真理、霊的な真理はことごとく知らされていくという。このことは、学校教育や家庭教育、社会に出てからの職業経験からも教えられることはないので、このキリストの言葉はとくに重要なものとなる。
 神に関すること、この世は何が支配しているのか、死んだらどうなるのか、世の終わりはどうか、何が正しくて、何が悪なのか、裁きはあるのか等などに関して、正しく知らされることは、学校や社会、家庭でもまったく期待できない。
 聖霊とは、こうした人間にとって最も重要な問題について、教え、また思い起こさせるものだという。
また、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ十五・26より)と言われているように、キリストも単に古代の偉人といった認識でなく、神と等しい存在だということ、キリストがすべてを持っているということも、聖霊が教える。聖霊なくば、キリストは過去の人間であって今は活きて働いてはいないと思ってしまうだろう。
 ヨハネ福音書では、以上のように聖霊についていろいろと語られているが、さらにつぎのように、そのはたらきがキリストによって言われている。

 今わたしは、わたしをお遣わしになった方(神)のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
 むしろ、わたしがこれらのこと(地上から去っていく、つまり殺されるということ)を話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。
 わたしが去って行かなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
 その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。(ヨハネ十六・8〜11)
  
 ここでは、いくつかに分けて聖霊のはたらきが言われている。しかしそれは必ずしもわかりやすいものではない。
 まず、どこへ行くのかとも尋ねようとしないとあるが、すでにペテロは主イエスに「どこへ行かれるのか」と尋ねている。(十三・36節) ここにあげた箇所は、そのように尋ねたがだんだん主イエスの話を聞いていると殺されるのは確実な様子だと分かってきた。メシアがそんなに殺されるなどと考えたこともない弟子たちにとって不安と悲しみと絶望的気持ちがつのり暗い心になって沈んでしまったために何も問わなくなってきたということである。
 そうした前途が見えない悲しみのなかにあって、主イエスはそのような悲しみを持つべきでない、なぜかというと、世界を変えていく最も重要な存在である聖霊が注がれるためには、主イエスは殺されねばならないということを説明している。
 死んだら終わりだというのが当時の弟子たちの気持ちであった。そしてそのような気持ちは現代も同様である。しかしそのような心は、聖霊が注がれるということが事実なら、全く異なってくる。
 キリストが殺されるという悲劇的な出来事は、聖霊が与えられるという、最大のよいことが生じるための通過点に過ぎないのである。
 聖霊の働きは何か。この箇所では三つに分けて説明されている。それらは、「罪と義と裁き」について明らかにするということである。
 この表現は分かりにくい。どうして聖霊が来ると罪について世の誤りについて明らかにするのだろうか。 なぜ、「罪とは私(キリスト)を信じないことである」と言えるのだろうか。(九節)
 聖霊は、罪がどういうところにあるかをはっきりと示すのである。世の中の人は、罪とは盗み、殺すなどだと知っている。そのような悪いことが罪であることは、なにも聖霊などというものがなくてもだれでも分かっていると、考えるだろう。
 しかし、聖霊が明らかにするのは、そんな新聞やテレビなどで知られているような罪を明らかにするのでなく、人間はだれでもそうした盗みや憎しみの根を持っているということである。それが何らか特別な状況が生じたときに、新聞で見られるような、実際に目でみえる形で行われるのである。そうした根はみんな持っているのであって、人間すべて罪人というのはそうした意味からである。キリストのことが分かって初めて、私自身も人間の心には真実に反する思いや考えが深く宿っているのを知らされたことであった。
 キリストはそのような、罪深い人間を救い出すために来られたお方である。しかし、そのような存在などいらない、罪などないと思いこむところから、さらに罪は心にはびこっていく。
 問題はその現実から救われる道がある、そのような罪深い人間の状態が変えられていく道があり、まったく異なる世界、神の国があるということなのに、それを信じようとしないことである。すべての人の罪が赦され、光と真実な世界が開かれていて誰でもが招待されているのに、それを否定し、背を向けて踏みにじろうとすることである。そのような心から、悪はいくらでも増大していく。私たちがいくら学問があり、頭があり、金を持っていても、そうしたこの世に存在する救いの道を信じないで、神の真理を否定するなら、そうした能力は必ず悪いほうに使われてしまい、罪は増大するばかりとなる。このように、罪とは、キリストを信じないところからますます力を持ってきて増えてしまうのである。
 主イエスを信じないばかりか、イエスは神を汚しているなどとしてイエスに憎しみを抱いて殺そうとまで考えるようになった当時のユダヤ人の指導者たちもこうした深い罪のなかにあった。そして現在の私たちにとっても、イエスを究極的な救い主として受け入れず、拒むならばやはり罪はいっそう深まってしまう。
 
 つぎに義について。なぜ、キリストが父のもとに帰ることが「義」なのか、一見しただけでは、分かりにくい。義とは正義のことである。正義とは、悪の力に負けないで、正しいことを貫くことであり、悪に勝利することである。正義の人とは、悪に負けないで悪にうち勝っている人である。とすれば、最大の悪に勝利することこそ、最大の正義であるということになる。
 そして最大の悪とは、罪の力であり、一切を滅ぼす力である死の力である。だから罪をほろぼし、死にうち勝つ力こそ最大の正義だということになる。それはまさにキリストである。キリストが死にうち勝ち、復活して「神のもとに行く」ということは、そういう意味で最大の「義」を世の中に明らかにすることなのである。
 次に「裁き」について、ここでは、「この世の支配者が断罪されることである。」(十一節)と訳されているが、原文は「すでに裁かれている、裁かれた状態にある」という意味(現在完了形)である。だから、これと全く同じ形の表現は、ヨハネ三・18では、「すでに裁かれている」と訳されている。
 すなわち、表面的には、この世の支配者がイエスを裁いたと見えるが、実は、神の子であるキリストを受け入れず拒否して殺したということのなかに、すでに裁きが行われているということなのである。裁きははるか未来になってやっと行われるのでなく、現在すでに行われているということなのである。

 つぎに、聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」といわれる。悟るといっても、頭の中での知識ではない。地球の内部の化学組成とか、植物の無数の葉の数や形をすべてわかるとか、明日のことを言い当てるとか、アメリカや他の国の人口や産業の構成を言い当てるなどの知識でない。
 そのためには、「私は道であり、真理であり命である」というキリストの言葉を思い出すとよい。聖霊が与えられて真理がわかるとは要するにキリストが深く分かるということである。キリストが分かるとはキリストの力、真実や愛、正義などが分かることである、それが分かるとはそうした愛や真実が与えられなければ分からない。すなわち、キリストそのものが私たちに与えられる、パウロが言っているように、キリストが内に住んでくださることによって愛も正義も真実も全身で体得できるようになるということである。
 そして最後には、聖霊が与えられるとき、その人は栄光をキリスト(神)に帰するようになる。聖書とはまさにそうした本である。「聖霊は私(キリスト)に栄光を与える」(十四節)
 聖書はどんな人間にも栄光を帰してはいない。アブラハムもダビデもモーセもみな罪ある人間にすぎない、その弱い人間を用い、導き、大きいわざをさせたのはまさに神であり、キリストに他ならない。人間のあらゆるわざの背後にキリストの導きと力を実感するようになること、それが聖霊の働きなのである。
 聖霊を受けていないときには、当然、人間をあがめる。スポーツなど最近のサッカーや、野球などでみられるように、ほかのいかなる人間の活動領域でも決してあり得ないような、大きな紙面をさいて、特定の人間を大きく映し出したり特定の人間を大々的にほめあげたりしている。人間に栄光を帰している典型である。
 しかし、聖霊が注がれたときには、決してそのような特定の人間に栄光を帰することがなく、キリストと神に栄光を帰するようになる。だからこそ、主の祈りの最後にも、「御国も力も栄光も永遠に神のものです」といって絶えず私たちの心をキリストに、そして神に向けるようにと祈るのである。
 まことに聖霊こそは、現代の私たちの個人的、また社会的なあらゆる問題を解決する鍵なのであって、私たちの祈りと願いは聖霊をゆたかに注いでくださいということに集約される。区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。