キリストの力と驚き 2002/9
マルコ福音書の最初に記されている記事によれば、主イエスが最初に会堂に入って教え始めたとき、人々には非常な驚きがあったのが記されていて、しかもこの「驚き」が二回、繰り返されていることからも、このことが強調されているのがわかります。
イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。…
そのとき会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。…
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。…」(マルコ福音書一・21~27より)
これはこの福音書を書いたマルコの驚きをも反映しているであろうし、キリストを信じるようになったものがその程度の多少はあれ、だれもが感じることなのです。
私たちの心は本来は、善いこと、美しいこと、真実なものに驚き、感動するように造られています。だれでも嘘に対しては嫌悪感を持つし、美しい風景に感じる。
けれども、だんだんとこの世の醜さに触れて、そうした良いものへの驚きや感動がなくなっていく。そしてこの世の事件や悪いこと、本来悲しむべきこと、目をそむけるべきようなことに驚き、関心をもってしまうようになる。テレビや雑誌の数々の悪や罪についての報道や番組などが強い関心を呼び、たくさん読まれるのもその現れと言えます。
しかし、そうしたただ中で、この福音書が強調しているように、キリストが私たちのところに来られるときには、神の力に驚き、その力が今も働いていることに心を動かされるようになります。
キリストを信じることとは、そうした新しい感動を与えられることなのです。ことに、この箇所で言われているように、人間の心に宿る汚れた霊、悪の力を追い出されるということに最大の驚きを感じるのです。
この箇所にあるようなことは決して特異なことでありません。「汚れた霊」とかいったことは私たちは話題にはしないことです。ですからこうした用語があるために、何かこんな記事は私たちには何の関係もないと思ってしまいがちです。
しかし、私たちは、それぞれの心の中に、そしてその人間の集団である社会全体に入り込んでいる、汚れた霊、言い換えると悪の力につねに悩まされています。毎日の生活における悩みや問題はみな、そうした何らかの悪の力に支配されているからであり、国家同士の戦争や争いなどもみなそこに宿る悪の力の故です。
そうした悪の力そのものを人間とは全く異なる力と権威をもって追い出すのがキリストの働きなのです。本当にキリストを私たちが心に受け入れるとき、たしかに闇の力が追い出されるのを感じます。信じたからといってまったく人間が善くなるのでなく、まだいろいろと罪が残っているのですが、それにもかかわらず、それまではどうすることもできなかった魂の深い部分を支配していた悪の力が追い出されたという実感を与えられます。
そこに私たちの驚きの原点があるのです。
キリスト教では十字架がそのシンボルとなっています。それも、人間の奥に宿る悪の力、罪の力をキリストが十字架上で死ぬことによって滅ぼしたことが意味されていて、やはり人間から汚れた霊、悪の力が追い出されたという象徴であるからなのです。
ヨハネ福音書のはじめの箇所に、
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(ヨハネ一章16)
と記されているのも、それを書いたヨハネ―すでに相当高齢になっていたと推測されています―の深い驚きが感じられます。最晩年になって、この世の数々の悲哀や悪に心が枯れてしまうのでなく、神(キリスト)から満ちあふれる豊かさを受けて、恵みのうえにさらに恵みを受けてきた、という実感は深い魂の驚きから生じているのがわかります。
私たちはだれでも、主イエスを信じて歩むなら、こうした驚きの生活へと導かれていくのだというのが、こうした福音書が告げようとしていることなのです。