リストボタン他者のために祈ること 02-9-7

モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足元に置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。(出エジプト記十七・11〜12)

 この聖書の言葉によって、戦いにおけるモーセの役割がうかがえるとともに、いかに祈りが重要であるかが示されている箇所です。これは単に戦いにおける祈りの重要性を示すにとどまらず、同胞への祈りであるとも言えます。
 すでに古い時代からこのように他者のために祈るということが象徴的な表現で記されています。モーセが手を上げているとは、祈っているということです。モーセの手が重くなったとは自分だけでは祈りが続かなくなったということであり、そのような時には他者によって支えられる必要があるのです。
 このことは現代の私たちにおいても当てはまります。私たちも祈ります。それによって悪の霊との戦いに勝利が与えられることを期待できます。しかし自分自身が疲れや苦しみに遭ったときには祈れなくなることもありましょう。そんな時でも誰かが祈りを続けていくことが重要なのです。
 そうした祈りの人の周りには、いわば天使がいてその祈りを助けてくれるように思われます。み心にかなった祈りとは、私たちの自我中心の心が砕かれてなされる祈りであり、また幼な子のような心でなされる祈りであり、そのような祈りはまっすぐに神のもとに届くように思われます。そしてそのように幼な子のような心をもって祈る者の周りには、天使がいる、しかもその天使は神の御顔を仰いでいるほどに最も近くにいる天使であると主イエスは言われたのです。

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ福音書十八・10)

 このような祈りは主の祝福を受けるゆえに、続けられていく、そしてそれは互いに支え合う祈りとなります。それはそのような祈りを主イエスが支えられるからです。
 主はつぎのように言われました。

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ福音書二十二・32)

主イエスは、自分自身が十字架上で釘付けになるというこの上もない苦しみに会いながらも、「彼らの罪を赦してください」と祈ったとも伝えられています。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書二三の34)

 使徒の働きを記録した文書(使徒行伝)においても、最初の殉教者となったステパノという人は、やはり殺されるとき、つぎのように言ったのです。

それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(使徒言行録七・60)

 このような死を前にした時ですら、自分を殺そうとしている憎しみにあふれた人々のために祈ることができる魂は、当然、日頃のさまざまの状況におかれた人々のために祈ることができただろうと思われます。
 自分のためだけなく他人のためにも絶えず祈る心、そこにとくに主はともにいて下さるのです。

 主ご自身が、私たちのために祈ってくださっている。それは主イエスは愛であるから。そして主は真実なお方であるから。

 敵のために祈れ、苦しみを与えようとするもののために祈れと言われた主御自身は私たちのために祈りを続けていて下さる。モーセの手は疲れることがあったが、主イエスの手は決して疲れることはない。それは神の御手だからです。
 キリスト者は本質的に祈りで結ばれた人たちだと言えます。キリスト者とは、キリストのからだであり、苦しみをある部分が味わうとき、他の部分もともに苦しむとあります。そうした心は祈りの心の現れです。絶えることのない祈りの心だけがそのように他者の痛みを、程度は少しであるにしてもわがもののように感じるからです。私たちの苦しみを御自分の苦しみとして感じてくださってご自身をも捧げられた主が共にいて下さるとき、初めて私たちも少しでもそのようにしていただけるのです。

「祈りの友」という祈りを主とする集まりを初めて提唱した内田 正規(まさのり)(*)は、つぎのように言っています。
「…私たち病める者、ことにながい、病床生活をよぎなくされている者の最も尊い仕事は祈りであると思います。いかなる重症患者も祈りだけはできます。…
 幸いにも、憐れみの父なる神を知ることができ、救われて病床に感謝の生活をおくっている私は、同じ病気になやみ苦しんでいる人たちを思うと祈らないではいられなくなりました。そこで私は毎日、朝夕の祈りのときに病気の友たちのために祈ることにしていました。…
 私は病気によって信仰に導かれたのでありますから、病友の一人でも多くがこの病気を通じて神のふところに入れられて、神のみ恵みによっていやされることを祈るものであります。」

(*)一九一〇年岡山市生まれ。一九四四年、三三歳で召される。一九三二年一月に当時では死の病として恐れられていた結核に苦しむ人たちに、自らも結核で苦しんでいた内田が呼びかけてその救いのために共に、時を定めて祈ることを提唱し、そこから「祈の友」という集まりが生まれた。ただ、互いの祈りを目的とするこの「祈の友」は七〇年の歳月を、数多くの病の人たちの祈りを軸とし、さらに健康な者もともに祈る集まりとして今日まで続けられてきた。

 この「祈の友」の祈りの中心は、他者のための祈りです。
 私たちの精神が十分に発達していないときには、祈りも自分中心となり、困ったときの神頼みという言葉のように、自分が病気とか家族の問題、あるいは仕事の上での困難など、なにかの事情で困ったことが生じたときだけ祈るということになります。
 旧約聖書に見られる祈りは、とくに詩篇に集中的に記されています。

呼び求めるわたしに答えてください
わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください
憐れんで、祈りを聞いてください。(詩篇四・2)

神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。(詩篇五十一・3)

 このように、何よりもまず自分が置かれている苦しみや悲しみの中からの叫びとしての祈りがあります。これは現代の私たちにとっても同様で、さまざまのこの世の問題に苦しみ悩みが生じるのは誰にとっても同様です。そうした中から、神を信じる者は神にむかって力を求め、救いを祈るのは最も自然なこと、そこに力の源があるのです。
 こうした出発点に立って祈るとき、神は何らかの力や救いを与えて下さる。そこから他者への祈りも芽生えてきます。
 旧約聖書の詩編にも、そうした他者への祈りは見られます。

救って下さい、あなたの民を。祝福して下さい、あなたの民を。
とこしえに彼らを導き養ってください。(詩篇二十八・9)

 また、つぎの詩は、神のはたらきを後の世まで宣べ伝えさせて下さいとの祈りです。

わたしの口は恵みの御業を
御救いを絶えることなく語り
なお、決して語り尽くすことはできない。

しかし主よ、わたしの主よ
わたしは力を奮い起こして進みいで
ひたすら恵みの御業を讃えよう。

神よ、わたしの若いときから
あなた御自身が常に教えてくださるので
今に至るまでわたしは
驚くべき御業を語り伝えて来ました。

わたしが老いて白髪になっても
神よ、どうか捨て去らないでください。
御腕の業を、力強い御業を
来るべき世代に語り伝えさせてください。
(詩篇七十一・15〜18)

 ここに切実な心で祈っている心にあるのは、神の驚くべき愛と正義のわざを、まだ知らない人たち、後の世の人たちにも知らせることができるように、との深い愛の気持ちです。まだ、見てもいない、自分とは直接に何の関係もない人々に対して、神のわざを伝えさせて欲しい、彼らが何としてもこの大いなる神のわざを知ってその力を受けて欲しいというあふれるような愛の心があります。
 このような他者への祈りは、すでに創世記においてアブラハムが滅び行くソドムとゴモラの町々のために真剣に祈っている姿のなかに見られます。
 さらに、そうした他者への祈りは、旧約聖書では預言者といわれる人たちによって深い祈りとなって後の世に流れていきます。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(イザヤ書二・4〜5)

 イザヤとは、今から二七〇〇年ほども昔、はるかな古代に現れた預言者です。そのような大昔、日本では文字もなく、文書もまったくなかったような原始時代に、数千年を経てもその真理が少しも衰えないような光が輝いていたのがわかります。
 これは、直接的には、「ヤコブの家」すなわち、当時のイスラエルの人々、神の民とされていた人々への呼びかけです。唯一の神が存在しているなどということは、全世界で、このイスラエルといわれる人々だけに知らされていたことです。その人々に対して神の定めたときには、あらゆる武力、戦争がなくなって、神からの平和に生きるようになる、そうした未来の輝かしい世界に入れて頂くために現在必要なことは、神の光に歩むことだと、呼びかけている。それは同胞のイスラエルの人々への呼びかけでありながら、じつは、その後の数千年にわたる世界の人々へのメッセージとなっています。
 他者への祈りとしてこのように雄大なものがあるでしょうか。自分だけの祈りから少し成長すると、私たちは身近な家族や友人、同じキリスト集会の人たちへの祈り、知人への祈り、ほかの様々の関わりある人々への祈りと広がっていきます。しかし、数千年もの期間にわたる、世界の人々を視野に入れた祈り、というのは通常の人のなかには生じないはずのものです。
 これは、神がイザヤという預言者に臨んでこのようなスケールの大きい、しかも深い祈りをさせるようにうながしたからだと思われます。
 預言者とは、神に背き続けている当時の人たちのために祈り、神の言葉を命がけで伝えた人々のことです。預言者が語った言葉は、その当時の時代への言葉であって、現代の私たちにはたいして関係はないと思っている人も多いようです。しかし、預言者たちが神から受けた言葉は、そこからあふれ出て世界の人々への祈りとなっているのです。
 
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ書九・1)

 このようなイザヤの言葉は、預言だと言われています。未来に救い主が現れる、それをこの言葉は預言しているのだと。その通りです。しかしこうした言葉は、預言者に多くありますが、それは単に未来に起こることを予告しているといっただけのものでは決してありません。
 多くの混乱と苦しみに置かれている人々に対して、それがなぜ生じているのかその原因を指摘し、裁きを告げることもみなその奥には同じ目的があります。
 それは、深いところで流れている他者への祈りです。どうか人々がよくなって欲しい、間違った道を歩いて裁きを受けて滅びることになってはいけない、神の道を正しく知って歩いて欲しい、間違っているところに気付いて悔い改め、神の道に立ち返ってもらいたい、神とともに歩む幸いを知って欲しい…という切実な祈りが背後にあるのです。
 だからこそ、間違った道を歩んでいく人々はそのようなことでは必ず滅びる、神の裁きの手によって大いなる苦しみや悲しみが生じると警告し、またいかに弱い者たちであっても、罪を犯してしまった者であっても、悔い改めることによって神は大いなる救いの道、幸いの道へと導かれるのだということを知らせるために、このように随所で希望の光が存在していること、決定的な希望が訪れることを予告しているのです。
 そむく者にもそのようにして愛を注がれ、何とかして救いを与えようとされる神の愛を知って、立ち返って欲しい、との願いがあります。

 闇の中を歩む民、死の蔭の地に住む人々が大いなる光を見たというのは、そのような光が臨むのだから、あなた方、罪を犯した者、裁きを受けた者も希望を捨てるな、あなた方も救われるのだ、ただ神を仰ぎ、立ち返るだけでよいのだ、との祈りの込められた呼びかけとなっているのです。
 預言者の言葉それ自体が、当時の人々への、そして後の幾千万という人々へのとりなしの祈りなのです。 こうした深い他者への祈り、人々が真理を知って罪を赦され、神の平和と神の国の幸いを与えられるようにと、キリストを神はこの世界に送って下さった。
 そしてキリストが来られてからこの他者への祈りは、旧約聖書のときのように、特別なきわめて少数の預言者といわれる人々だけでなく、キリストを信じた人すべてがこのような他者への祈り、とりなしの祈りができるようにして下さったのです。
 それが信じる者に与えられる聖霊のはたらきです。つぎにあげる使徒パウロの言葉にあるように、私たちの不十分な祈りをも、私たちに与えられる聖霊がとりなしてくださって、最善の祈りとしてくださるというのです。私たちの祈りの心が不十分でさまよいがちであっても、小さな祈りの芽を持っている限り、そこに聖霊が注がれてその小さな祈りに水を注ぎ、正しい祈りへと導いて下さる。

同様に、(神の)霊も弱いわたしたちを助けて下さる。
わたしたちはどう祈るべきかを知らないが、(神の)霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからである。…
(神の)霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからである。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている。…

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できようか。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがあろうか。
だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか。…
だれがわたしたちを罪に定めることができようか。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのである。(ローマの信徒への手紙八章より)

 私たちも自分の信仰が小さいとか祈りが弱いといって祈りをしないのでなく、私たちの祈りをとりなして導いて下さる神と聖霊を信じて祈りを続けたいと思います。

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。…
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。
正しい人の祈りは大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブの手紙五・13〜16より)

 このように使徒ヤコブが教えています。パウロは互いに祈り合うということについてもその重要性を繰り返し私たちに告げています。

終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。
主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。…
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(Uテサロニケ三・1〜3より)

 キリストを信じる者とは、このように互いに祈り合う間柄だと言えます。
 それは、単独で悟りを開くのでなく、また精緻な思索で孤高の存在となるのでなく、また特定の指導者が命令通りに動かすのでもなく、組織の歯車のように機械的に動かされるのでもない、また信仰箇条だけを信じているとか聖書を研究するのが中心となってしまった知的集団でもありません。
 キリスト者とは、キリスト(聖霊)に導かれ、ともにいて下さるキリストにあって互いに祈り合い、そこで示されたことを各人が自発的になしていく人たちのことです。
 私たちがこのように日々互いに覚えて、祈り合って生きること、それがキリストのからだとして生きるということだと言えます。
 
「主の祈り」
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』

 祈りの文で最も広く知られているのは、「主の祈り」です。弟子たちが自分たちにもいかに祈るべきか、どんな祈りが最も神の御心にかなった祈りなのかと尋ねたときに、答えられた祈りで多くの教会では礼拝のときに毎回この主の祈りがなされています。
 主の祈り、それはこうした他者への祈りが最も簡潔に、また広くそして深い内容をもっているものです。「御国が来ますように」とは、神様の真実で愛の御支配が自分や他人、そしてこの世界全体に来ますようにとの願いです。壊れた心をかかえて苦しむ人間や家庭や社会に神様の御支配が来ますように、神の愛と真実が注がれますようにとの願いです。だからそれはあらゆる他者への祈りとなることができます。
 本来なら罪ゆえに滅びてしまうはずの自分がこのように生かされ、救われたことは何にも変えることができない、だからこそそのような神の力がこの世のすべてに及ぶようにとの願いです。
「ご意志が、天に行われるように、地上でも行われますように。」
 この祈りも同様で、地上では悪の意思が至るところではびこっているのが感じられます。
 しかし、そのようなただ中で、神のご意志が行われますようにとの願いがこの祈りです。ここにも、周囲のさまざまの人々の心が、不純な人間の意志によって動かされている、だからこそ、真実そのものの神のご意志が為されますようにということも、他者へのとりなしの祈りであり、他人の前途をいつも心にかけていることを伺わせるものとなっています。
 このように、他者への祈りということは、旧約聖書にはまだごく一部の内容にしか載っていないのですが、新約聖書の時代、キリストが来られてから、全く違ってきて、それが中心的な内容になっています。
 それは隣人を愛せよ、敵のために祈れ、と言われた主イエスのお心に従うことであり、また実際そのようにして前に進んでいこうとするとき、神は必ず救いの御手を差し伸べられるのです。区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。