リストボタンキリストが地上に遣わされた目的    2002/12

 キリストは何のために来られたのかについて、たいていの人は、よい教えを説くために来たと思っているようです。仏教とかイスラム教、儒教というように、日本では宗教の名前に、○○教と付けています。これは、中国語の表記をそのまま持ち込んだものです。(*
 このため、キリスト教とは字の通り、「キリストの教え」だと思いこんでいる人が多数を占めていると思われます。立派な教えを説くために来たのだというわけです。 もちろんキリストは歴史上でかつてない深い内容をわかりやすい言葉で、しかも権威をもって教えられたお方です。しかし、キリスト教といわれている信仰の本質は決してそのようなキリストが地上でおられたときに話した教えにとどまるものではないのです。

*)中国語では、キリスト教のことを、「基督教」と書きます。これは、現在の若い人なら、まちがって「キトクキョウ」と読む人が多いと思われる。中国語では、「基督教」と書いて「チィー トゥー チャオ」(ji du jiao)と読み、仏教も中国語で、フォー チャオ(fo jiao)と言う。
**)英語では、キリスト教のことを、Christianity という。-ity の部分は、「性質、本質、状態」などを表す接尾語。ドイツ語では、キリスト教のことを、Christen-glaube (キリスト信仰)または、 Christen-tum と表していて、-tum の部分は、英語と同様に、本質や状態を表す接尾辞。「教」というような語を含んでいない。

 それは新約聖書の最初にある、マタイ福音書の冒頭の箇所に記されています。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 主の天使が(夫のヨセフに)夢に現れて言った。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ福音書一・1825より)

 初めて聖書を読む人は、ここではまず、聖霊によってみごもるということが不可解で、信じがたいことと感じることが多いのです。そして最初に書かれてある「系図」と称する名前の羅列とともに、意味が不明でまるで心を惹かない内容だと思って、後を読む気がしなくなる人もいます。
 しかしこの系図と訳されている部分にも重要な内容が含まれています。(ここでは、それは触れませんが)そして、ここにあげた、聖霊によってみごもるということも、同様にまったく初めての人には不可解で受け入れがたいことです。そのために、聖書はわけのわからないことが書いてあると思いこむ人もいます。
 この聖霊によってみごもるということ、それはふつうには私たちの周囲では聞いたこともないことです。しかし、聖書でいう神とは、万能の神であり、万能とはあらゆることができる神ということです。もし、聖霊によって身ごもらせることができないような神であれば、それは万能の神ではありません。
 ということで、まだ一緒になっていない前に身ごもるなどということがない、というのは、そのような万能の神を信じない人であれば当然ですが、ひとたび一切のことができる神を信じるときには、そのような無限の力をもった神が無限の深い配慮と計画によって、歴史のなかで、一度だけ、このように特別にまだ結婚していない女性に身ごもらせるということも可能だということになります。
 要するにそんなことがあるかどうか、それはひとえに万能の神を信じるか、信じないのかという単純な問題になります。
 ここで、強調されているのは、「聖霊」ということです。新約聖書のこの最初のところで、いきなり聖霊という言葉が現れて意外に思うのは当然です。これは、聖書がいかに聖霊を重んじているかということの現れなのです。主イエスが生まれるときに、聖霊によって生まれたと記されており、また別のところでもこのことの重要性が強調されています。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊(聖霊)について言われたのである。(ヨハネ福音書七・3739より)

 この箇所では大切な祭りの最後の日、しかも大声で言ったと書かれています。これは特別な強調を感じる表現です。これはこの内容がとりわけ重要であったことを示しています。
 主イエスがそれほどまでの力を込めて大声で語った内容とは、信じる者には、「いのちの水」が与えられること、そしてほかのいかなるものも満たすことのできない心の渇きをうるおすということであり、その命の水とはすなわち、聖霊のことであったのです。

キリストがもう今夜捕らえられて翌日には殺されるという最後の夜の夕食の席で語った言葉のなかでもとくに強調されているのが、聖霊です。
 
 わたしは父にお願いしよう。父は別の助け主(弁護者)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 この方は、真理の霊(聖霊)である。
 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
 しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(ヨハネ福音書十四・1617

 また、キリストの使徒たちが、世界に福音を宣べ伝える最初の記録が、新約聖書に記されています。そこにも、つぎのように聖霊の重要性が見られます。 

イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒言行録一・35

 キリストが復活して四〇日にもわたっていろいろと教えられたのに、聖書ではそれらのことは、ここに書かれたこと以外はすべて省略しています。それは「聖霊」を与えられるということがいかに重要であるかを示しています。水による洗礼はキリストが始めたと思われていますが、ここでも書かれているように、キリストの道を備えたヨハネという人物がすでに水の洗礼をしていたのです。
 復活されたキリストは、水による洗礼でなく、聖霊による洗礼、すなわち神の霊を注ぐお方であることが強調されているのです。

 マタイ福音書の最初のところで、初めに引用したように、キリストの二つの名が示されています。
 その一つは、イエスであり、もう一つはインマヌエルです。イエスとは、「ヤハウエ(神)は救い」という意味です。(*
 救いとは、たんに病気とか事故とかを治すということよりもっと深い魂の問題、つまり人間の心がどうしても正しいこと、真実なことに従えず、自分中心に生きてしまうという罪からの救いを与えるという意味です。病気が治っても、もしその人が自分中心に生きて、嘘をいうことも平気で、他人を愛する気持ちもないということなら、その人間は救われていないわけです。

*)もともとのヘブル語は、イェホーシューアといい、イェの部分は、ヤハウエ(聖書にいう、天地創造をなし、いまも宇宙を支配されている神の名)の短縮形で、ホーシューアの部分は、「救い」を意味する。それでこの言葉の意味は「ヤハウエは救い」となる。それがヨーシューア、イェーシューアともなり、(これは旧約聖書のモーセの後継者であったヨシュアの名。)そこから、ギリシャ語で、イェースースという発音となり、それが英語のジーザス、ドイツ語では、イェーズス、中国語の耶蘇(イェースー)、日本語のイエスという発音にもつながっている。中国の耶蘇については、日本では中国語の発音でなく、日本の漢字読みにして、ヤソと読んでいた。

 罪からの救いということは、キリスト教信仰は単に、隣人を愛せよとか、物を施せとか嘘をついたらいけないとかいうものと大きく異なっているのを示しています。そのような教えがキリスト信仰の本質でなく、そのような教えが実行できない心の傾向(罪)そのものからの救いこそがキリスト信仰の本質なのです。
 つぎに、生まれる救い主の名前は、「インマヌエル」と言われています。この言葉は、「神、我らと共に」という意味です。(「イン」は「共に」、「(マ)ヌー」は、「我ら」、「エル」は、「神」を意味する言葉。)

 キリストが来られたことによって、神が私たちとともにいて下さることが、はっきりとしたのです。というのは、キリストは神の本質をそのまま持っておられる方であり、キリストが私たちのうちに来られたということは、神が私たちのところに来られたということと同じです。
 このことはキリスト信仰の最も重要な内容の一つでもあります。そのために、ヨハネ福音書でも同様なことがその冒頭に記されています。
 
初めに言(*)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ここでの「言」とは、地上に来られる前のキリストを意味しています。この原語はロゴスであり、「言は肉となって」とあるように、ロゴスなるキリストが肉体をまとって、人間のかたちをとって私たちの間に宿られたと記されています。(**

*)この「言」とは、キリストを意味しているのであって、ふつう私たちがだれでも使っている「言葉」とはまったく異なる意味で使われている。この言葉の原語(ギリシャ語)は、ロゴスという。これは、非常に多くの意味をもった言葉であるが、ギリシャ哲学では宇宙を支配する理性といった意味にも用いられる。ここでは、そのような意味を含んでいる。ギリシャ人にとってとくに重要とされていた宇宙の理性といったものがじつはキリストであったのだという意味もここにある。それと、旧約聖書で表されているように、天地創造が神の言によってなされたほどに、力ある本質を持っているという意味もある。こうしたさまざまの意味を含んでいるのがこの箇所のロゴスという言葉であり、そのようないっさいを持っておられるお方がキリストであると言おうとしているのである。

**)「宿られた」の原語は「テント(幕屋)を張る」であって、砂漠地帯でイスラエルの人々が宿営したときに、神がともにおられる象徴でもあった神の箱(そこに神の言葉刻んだ石が収められていた)を幕屋に入れて運んだことを指している。

 このことは、とくに重要なことであったので、ヨハネ福音書でも最初の部分に書かれているのです。それが、インマヌエルということの別の表現となっているのです。
 宇宙を創造し、全世界を支配して導いている絶大な存在である神が、小さな人間である私たちとともにいて下さるということは、すでに旧約聖書から記されています。アブラハムやヤコブ、ヨセフといった創世記に登場する人物は神がともにおられたことがはっきりとわかります。
 またその後にエジプトに奴隷として強制労働させられたときに、モーセが神から使わされて砂漠を越えて故郷に帰るとき、そこでもその荒野の四〇年という苦しい歳月の生活のなかで、神が人々と共におられたことも旧約聖書の出エジプト記に詳しく記されています。ここでも神がともにおられなかったら滅んでしまっていたのです。
 神がともにいて下さるということが、キリストが来られてから以後の時代の決定的な特徴となりました。先ほどあげたヨハネ福音書の第一章に「言が肉体となって私たちの間に宿った」という、現在の私たちには不可解な表現も、じつはそのことを意味していたのであり、インマヌエル(神我らとともに)ということがたしかにキリストによって実現したということを意味しているのです。
 神ご自身と同質であったお方が、人間の体をもって、(肉体をもった姿となって)私たちの間に宿られた、すなわち私たちの生活、社会のただ中に宿られたということです。
 これは神が共におられるようになったということを意味しています。
 旧約聖書の時代では、イスラエル人というきわめて少数の人たちにだけ、神は共におられたのです。しかし、新約聖書のキリストの時代から後には、一挙に世界のいかなる人も、分け隔てなく、求める者にはだれにでも共におられるようになったのです。
 キリスト教というとキリストの教えを連想してしまうだけの人が大多数であって、今も活きて働いておられるキリスト(神)が私たちと共にいて下さることがその本質的な内容であるとは知らないのです。これはとても残念なことです。
 ヨハネ福音書では、そのような共にいて下さるキリストのことを、とくに繰り返し強調しています。最後の夜の食事のときのつぎのような言葉があります。

「父は別の助け主(弁護者、慰める者)を送って、永遠にあなた方と共にいるようにしてくださる。」(ヨハネ福音書十四・16

「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛して、父と私はその人のところに行き、共に住む。」(同23節)

 そしてこのようにずっと共にいて下さるようになるために、必要なことがあります。それが、つぎの主イエスの言葉です。

イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ福音書十三・)
 
 キリストによって足を洗っていただくということ、つまりキリストによる罪の清めを受けることです。そのためにこそキリストは十字架にかかって私たちのあらゆる罪を身代わりに背負って下さったのです。主イエスによって足を洗って頂く、つまり汚れたところ(罪)を洗っていただかねば、キリストとは何の関わりもなくなると言われます。私たちが十字架のキリストによって心の奥深い不真実である罪の力から解放され、赦され、清められるということが不可欠だというのです。そしてそれが出発点となり、さらに日々の生活のなかでもその汚れを主イエスによって清められねばならないということです。
 十字架はだれもが知っているキリスト教のシンボルですが、なぜそのようになったのか、それはキリスト(神)が私たちと共にいて下さるようになるために、罪からの清めが必要であり、その清めを果たしたのが、十字架での死だったからです。
 つぎの言葉もそのことを意味しています。

次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。(テモテ書二・11

 キリストと共に死ぬといっても分かりにくい表現です。これは、キリストが私たちの罪のために死んで下さったと信じるだけで、キリストとともに死んだと同様に扱ってくださるということです。そうすれば、私たちはキリストと共に生きることができるようになるという意味なのです。

 キリストの霊(聖霊)を最もゆたかに受けた人は、たしかにパウロであったと思われます。だからこそ、彼の書いた手紙が断然多く新約聖書に収められているのです。そのパウロが特別に多く用いている表現があります。それは、「キリストにあって、主にあって」という言葉です。これは、パウロが百六十四回も用いているほどです。(*

*)キリストのことを代名詞を用いて「彼にあって」などとなっている箇所も合わせての回数。
なお、新共同訳では、「主と結びついて」と訳していることが多いが、原文は en kurio in Christ)であって、「主の内にあって」という意味を持っている。 

 これほど多く用いられているのは、パウロにとって「生きることは、キリスト」であり、聖霊なるキリストの内に留まり続けて生きていたことがうかがえます。それほどにパウロにとって、キリストは神が我らと共におられるということを実現した存在であったのです。
 そしてそのことは、単にパウロだけにとどまるのではもちろんありません。聖書に書いてあることは、どれも一種の約束で、そこに書かれていることはその程度こそ違え、信じる人にはだれにでも実現することなのです。
 それこそ、私たちが聖書をいつまでも読み続けて飽きることがなく、そこから命をくみ取ることができる理由でもあります。聖書はたしかに生きた書物であり、そこにキリストが私たちと共にいて下さることを実感させ、実現させる導きをしているのです。
 この地上に生きている限り、私たちはいろいろの問題に悩まされます。職業において、家庭の問題、また病気の苦しみ、孤独の淋しさ、将来の不安等など。そうしたときの最終的な希望は、死後の希望となって私たちの心を天にと引き上げます。
 私たちの死後にこそ、完全な意味で神は私たちと共におられるようになると約束されています。パウロもそのことを強く願っていたことはつぎの言葉でわかります。

 (自分の前途には)、地上で働くことと、この世を去って、キリストと共にいることの二つがある。自分としてはキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。しかし、人々のためには、この地上に留まることが望ましい。(ピリピ書一・2223

 こう言ってパウロは、この世を去るとキリストと永遠に共にいることを心に強く願いつつ、地上の使命を果たすべく、日夜主のために霊の戦いを続けたのです。
 
 こうして、キリストが生まれるときにその名として記されている二つの名、イエスとインマヌエルは、キリスト教の本質を指し示しているのがわかります。イエスという名は、私たちを罪から救うことを意味し、インマヌエルとは、その罪の束縛から解放され、救われた者には神が共にいて下さるという生活になる。そしてこの神と共にある生は、人が背いて捨て去るのでないかぎり、この地上においてだけでなく死後も、私たちとともに永遠に続くことを指し示しています。
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