あなたの上には主の光が上り 2003/1
起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったからだ。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
起きよ! と呼びかけられているのは、直接的には、シオンです。エルサレムにある丘の一つですが、これをエルサレム全体、それから神に導かれる人々をも指していることがあります。
起きよ!と呼びかけられているということは、この呼びかけを受けているシオンあるいは、神の民が、倒れてしまっていることを暗示しています。悪の力によって、敵対する人々あるいは国々によって立ち上がることもできない状態にあることがうかがえるのです。
現代の人々も、精神的に見れば、起きあがれない状態にある場合が非常に多いと言えます。そのような倒れ臥した人々に対してこの言葉は言われているのです。
預言書という書物は驚くべき書物です。それは、今から二五〇〇年から三〇〇〇年近く昔の社会の状態に即して言われている言葉であるのに、はるか後の現代に生きている私たちと同様な問題を提示しているのですから。
しかし、起きよ!と、呼びかけられても、どうして起きるのか、また、光を放て!と言われてもいかにして光を放つことができるのか、おそらくほとんどの人は、「光を放て!」などと言われてもおよそ場違いな感じを受けて、自分とは何の関係もないと感じるのではないかと思います。
人間が光を放つなど、ふだんの私たちの会話では話題にもならず、考えたこともないからです。
これは聖書の世界においても同様です。聖書ほど人間のうちにひそむ暗いもの、悪魔的なもの、汚れたものを鋭く指摘している書はありません。ほかの古代文書にもいろいろありますが、例えばギリシャの神話には神々がいろいろと人間を誘惑したりすることが書いてありますが、これは日本の古事記などにも当たり前のようなかたちで現れます。例えば、有名な日本の神々の一つである、スサノオノミコトというカミが乱暴狼藉を働いた様が驚くほど赤裸々に書いてあります。これらは罪を犯すことが当たり前のような感覚で書いてあるのではないかと思わせるほどです。
ここには、そうした悪しき心の動きに対しての深い悲しみや嘆き、そのような悪に支配されることへの苦しみなどはまったく感じられないのです。
これに対して聖書では、いかに人間は罪深い存在であるか、ということが鋭く指摘されています。そしてその罪がなにをもたらすのか、どんな裁きがそこに下されるのかも書かれています。
真実なもの、正しいものへの背きは人間に深くしみこんだ本性だと記されているので、そのような人間が光を放つなどとは考えられないことです。
しかし、ただ一箇所、人間が光を放つようになったことが記されている箇所があります。それが、モーセの例です。
…モーセは主と共に四十日四十夜、シナイ山にとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる神からの契約の言葉を板に書き記した。
モーセが神から受けた十戒が記された石の板を持ってシナイ山を下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔が光を放っているのを知らなかった。人々がモーセを見ると、驚くべきことに、彼の顔は光を放っていた。(出エジプト記三四・29~30より)
四〇日もの長い間、神とともにあって神と交わり、それによってモーセの顔は光を放つようになったのです。モーセ自身は罪ある人間にすぎなかったけれども、神との深い交わりによって神の光を与えられたのだとわかります。
このイザヤ書の箇所も同様です。
起きよ、光を放て!
なぜなら、あなたを照らす光は昇り、
主の栄光はあなたの上に輝いているから。
Arise, shine;
for your light has come,
and the glory of the LORD has risen upon you.(NRSV)
この英語訳にあるように(for が理由を表しています)、ほかの英語、独、仏語などの外国語訳でも参照した限りはほとんどはっきりと理由を現す言葉があります。それは原文ではその言葉があるからです。すなわち、「起きよ、光を放て! なぜなら、あなたの光が上ったからだ。」
という意味なのです。私たちに起き上がれ、と命じられているのはどうしてかというと、神からみるなら、すでに述べたように(霊的にみると)人間はみんな倒れ伏した状態だからです。
これらの言葉は、今から二五〇〇年ほども昔に言われたとされています。そして預言書というのは、もともとは当時の社会的な混乱や悪に対して、神からの警告であり、神に立ち返るべきであるというメッセージであるのですが、それが驚くべきことに、その後のあらゆる時代の人々にもあてはまり、現代の私たちにもそのまま言われていると受け取ることができる真実性を持っているのです。
当時、この言葉が言われた相手は、半世紀の間遠い異国バビロンで捕囚となり、ようやくその生活から解放され、祖国に帰ることができて、生活を再建したユダヤの人々であったのですが、聖書の言葉は、そうした時代や地域をはるかに越えて、万人にいつの時代にも生きてはたらく言葉であり続けてきました。
人間が倒れ伏している状態だということは、外見を見るだけではわからないことです。ある人は、とても元気よく働いているし、ある人は重い病気などで弱って動けない人がいる。ある人は天才的な才能をもって世界的に活躍している、その名声は世界に響いている。ある人はひどい犯罪を犯して何十年も牢獄に入れられている…こうした千差万別の人間の状態をどうして、人間はみんな倒れ伏しているなどと言えるのかと、反論する人は多いはずです。
これは、そうした人間の能力だけに目を取られて、真実なものや、弱く苦しむ人間への愛や清い心を持っているのか、何を見つめて生きているかという観点から見ないからです。いかに科学や芸術、スポーツなどの能力があっても、真理を愛し、人間の苦しみに共感し、そこに愛を注ぐといった心があるのかという面からみると、きわめて多様な人間がいるにもかかわらず、とたんに同じようになってきます。
学者としてはすぐれていても、数学などはごく初歩しか知らない人以上に愛があり、真実であるとは限らないし、マスコミなどでもてはやされている人たちも同様です。
聖書にいうような愛や真実があるのかという観点からはだれもかれも同じように、できていないのに気付きます。
それが倒れている、伏しているという状態です。これは新約聖書においてさらに、死んだと同様な状態だと言われます。
・このようなわけで、…死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマの信徒への手紙五・12より)
・ 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である。(同八・5)
ここで言われている、霊の思いとは、聖霊を与えられ、聖霊に導かれた思いということです。それは神の命を実感し、その命をさらに豊かに受けることにつながり、それは神の平和を実感することです。
しかし、聖なる神の霊を受けていないときには、人間は当然自分中心の思いとなります。自分の力を自慢する心、他人を無視する気持ち、ねたみ、憎しみ、自分の好きなものだけを大事にするような「愛」、仕事をしても自分のため、何かでとても努力しても自分が認められ、自分が人より上に立つため、あるいは自分を目立たせ、支えるために最も役に立つと思われている金や財産を持っていること、そうしたことを第一に心で思うのが、ここで「肉の思い」と言われていますが、それは「死」だと明確に述べています。そのような思いを延長していけば、清い喜びや揺るがない平安は決して与えられず、目に見えない聖なる力を実感することもあり得ず、死ということによってすべて消えていくしかありません。それは死んだような状態です。
冒頭にあげた聖書の箇所で、私たちが励まされるのは、私たちの上にすでに光が上っている、今その光は私たちを照らしているということです。周囲の世界はこのイザヤ書の言葉にもあるように、「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」という状態であり、いろいろの人たちが、武力に頼り、軍備増強を声高に唱えるようになっています。このような闇のただなかにあっても、私たちが神を仰ぐそのときに、神の永遠の光はすでに私たちの上にのぼって輝いているということに気付くのです。
こうした周囲の闇のただなかに輝く光というのは、聖書全体を貫くメッセージとなっています。
聖書の最初の書、創世記において、「闇が深淵のおもてにあり…」(創世記一・2)とはじめに記されています。しかしそのような闇のただなかに、神は命じるのです。
「光あれ!」と。その神の言の一言によって、闇のなかに光は生まれ、その光はいかなる闇に対しても勝利し続けてきたと言えます。
(*)バビロンとは、古代メソポタミアの首都を指す。現代のイラクの首都バクダッドの西南にある。バビロン捕囚とは、紀元前五八七~五三八年まで、ユダの人々がバビロニア(現代のイラク地方)に奴隷状態の者として連れて行かれた出来事を指す。
このような闇のなかの光を受けた者はどうなるのか、それがイザヤ書の冒頭の箇所のつぎに記されています。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちはその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。
…若いらくだがあなたのもとに押し寄せる。
(異国の)人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
…
これらは誰か。雲のように飛び、巣に帰る鳩のように速い。
それは島々がわたしに向けて送るもの
タルシシ(*)地方の船を先頭に
金銀をもたせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、主の御名のため
あなたに輝きを与える
イスラエルの聖なる神のために。
あなたの城門は常に開かれていて
昼も夜も閉ざされることはなく
国々の富があなたのもとにもたらされ
その王たちも導き入れられる。
(*)スペイン南部の地中海の最西端にあったとされる町。「世界の西の果て」という響きを含む表現としても用いられている。
こうした記述はいったい何を意味しているのか、これは一見現代の私たちと何の関係もないように見えます。これはかつて真実な神に背き、正義に反することを行い続けたために神の裁きを受けた民に、時がきて彼らが神に立ち帰り、神の恵みを受けるようになる、その時には、このようにかつてとは逆に、あらゆるよいものが周囲の世界から流れ込んでくるというのです。タルシシとは地中海西端の町を指しており、当時知られていた世界の西の端です。そのような世界の果てからもよき物が運ばれてくる、ここには神の光や神の力を受けたものがいかに周囲からよいものを引き寄せるかということが記されています。
神に逆らい、不真実と不正を重ねるときには、よきものが次々に奪われ、侵略され人間も遠くへと連れ去られていく、それが実際に紀元五八七年頃に行われたバビロンへの捕囚であったわけです。そのような悲劇はどこの国々でも見られたことです。強力な軍事力をもった国に、侵略され、よいものが略奪され国のよいものも破壊されていく。
しかしこのイザヤ書にある箇所では、神に本当に立ち帰るときにはいかに良きものがつぎつぎと流れ込んで来るかを詳細に記しています。それほどこのことは実際に生じることであると強調されているのです。
私たち一人一人にとっても、同様なことが言えます。神(真理)に背を向けている間は、努力しても努力しても何かが抜けていく、渇くという気持ちになります。
穴のあいた器に水を満たそうとするようなものです。しかし、神に立ち帰るとき、私たちの心にはある良きものが流れ込んでくるという感じが生まれてきます。それは神から注がれるものであり、私たちのほうで拒むことがなかったら注いで下さるものです。
「私は…あなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇八一・10)
とある通りです。
また、それは私たちの心に向かって戸をたたくというたとえでも記されています。
見よ、わたし(キリスト)は戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にする。(黙示録三・20)
復活されたキリストがこのように一人一人の魂の扉をたたいていると言われています。私たちが心の戸を開くなら、キリストご自身が心に入ってくださって、食事を共にする、すなわち祝福を共にして下さるということです。
神の光が私たちの上に上った、だからこそ私たちもその光を受けて立ち上がることができる、このことこそ、新約聖書の中心にあるメッセージです。キリストが十字架で死んで下さったゆえに私たちは、どうすることもできなかった罪を赦されている、これも私たちの魂の上に神の光が上ったと言えることです。罪が赦されていない魂は、正しい道へと立ち上がって歩むことができないからです。
御父(神)は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。(コロサイの信徒への手紙一・13)
このことも同様な内容を表しています。いつの時代にも私たちを取り巻くのは、闇であったわけです。聖書の最初にも、「闇が深淵の表面にあった」とあり、新約聖書のマタイ福音書のキリストの伝道の最初の記述のところにも、
「暗闇に住む民に大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ福音書四・16)
と記されています。
また、ヨハネ福音書の最初にも、「光は闇のなかに輝いている。 闇は光にうち勝たなかった」とあります。(ヨハネ一・5 口語訳)
こうしたすべてによって、聖書はキリストこそ私たちの最終的な光であり、その大いなる光が二〇〇〇年前にこの世界に輝き始めたのであり、万人のうえにその光が上ったのだ、だからその光の方向へと向きを転じて、その光を受けるようにと勧められているのがわかります。これこそ旧約聖書から新約聖書にいたるまで一貫して言われているメッセージなのです。