ノーベル賞と平和 2003/1
昨年は二人の科学者(技術者)が、相次いでノーベル賞を受賞したというので、マスコミでも大々的に取り上げられ、とくに田中氏の庶民的な態度に人気が集中していた。
しかし、彼らのことがずいぶん詳しく報道されていたにも関わらず、核兵器と平和の問題について、またそれと密接に関連している原子力発電の危険性などについて全く二人とも触れていなかったのは残念であった。
核兵器は科学技術の生みだした究極的な兵器である。原爆の数百倍の破壊力を持っている水爆など一発が東京などで落とされたらおびただしい犠牲者が出るばかりでなく、激しい放射能汚染による多数の障害者や病者を生じ、関東一円が大混乱に陥ることになり、日本全体がかつてない状況になるだろう。
こうした危険性をもつ核兵器の問題について、科学技術者はつねに本来は発言していく義務があるはずである。
日本で初めてノーベル賞を受けた湯川秀樹博士は、そうした点では、今回の二人の姿勢とはまったく異なっていた。平和への願いを強く打ち出し、核兵器への反対をはっきりと表明し続けたのである。
…湯川博士は一九五四年の水爆実験に激しい衝撃を受ける。そして翌年ラッセル=アインシュタイン宣言に署名し、そこで呼びかけた世界の科学者のカナダにおけるパグウォッシュ会議に参加、六二年から八一年にかけて四回の科学者京都会議を主催して、核兵器の全廃と戦争廃絶を訴えつづけた。さらに世界平和アピール七人委員会にも積極的に参加し、世界政府・世界連邦運動の熱心な推進者でもあった。(平凡社・世界大百科事典より)
湯川氏は、科学者として、ただ研究だけしていればよいのだと思っていたが、原爆や水爆ができてからは重大な考え方の変化をもたらすことになったと次のように述べている。
自然現象に関する最も基礎的な研究をする物理学者の間では、社会的な責任などということは考えず、ひたすら科学的真理のために真理を探求するのが、最も尊敬すべき態度だと認められてきたのである。
実際、私自身も原子力の実用性が問題となるまではそれでよいと思っていた。
…ある学者が理論物理学を研究することと、他の多くの人々の生命や健康との間に、何のつながりもないように見えていた。しかしそれ以後、今日までの間に、私どもの考え方は変わらざるを得なくなった。…
最も著しい例は、人間の日常生活と非常に縁の遠い研究だと思われていたアインシュタインの相対性理論が、あらゆる原子力の研究に共通する基本原理の一つであることがわかったことであろう。
…今や原子物理学者の研究は、間接的であるにしても、一人の医者の診察を受ける患者の数とは比較にならない多数の人々の命と関係を持ちうることになったのである。少し大げさに言えば、「人類の存続」とさえ関係を持ちうるようになったのである。…(「現代科学と人間」湯川秀樹著 101~102Pより 岩波書店刊)
今回の受賞者に限らず、ノーベル賞は最も注目される賞であるが、近年受賞した日本の科学者たちも、科学技術と平和、あるいは科学技術と人間の精神的進歩との関連などについての発言はなされていない。たんに専門の科学技術の領域についての発言に留まっている。
科学技術がいかに進歩したところで、人間の精神面が進まなければ人間の滅びを促進するために用いられる可能性が大である。
現代の世界の危機は核兵器によって最も鋭く実感されている。もし、アメリカとロシアのような二つの大国が核戦争を起こして、相互に核兵器で攻撃したときには、双方が最低一億人もの死者が生じると言われるから、負傷者、病人を合わせるとおびただしい人間に被害が生じることになる。また、爆撃の基地とか大陸間弾道弾を収めてある場所などへの限定した攻撃の場合でも、一千万単位での死者が双方に出るという。
こうした恐るべき核戦争以外にも、原子力発電所への攻撃が行われて、爆発事故が生じるなら、あのチェルノブイリの原発事故でも想像できるように、その国に致命的な打撃を与えかねない事態が生じるであろう。
こうした核兵器のもとは、原子物理学の研究にある。その原子に関わる物理学に関わって、有名な業績をあげた科学者の相当の人物が、ノーベルを受賞している。
有名なキュリー夫妻、アインシュタインなどもそうした原子力物理学に多大の貢献をした人物であった。
一九三二年のノーベル賞を受けたハイゼンベルクは第二次世界大戦中はドイツの原爆計画に参画していた。
また、チャドウィックは一九三二年に中性子を発見した。この中性子を用いることによって今日の原子炉が作られたしこれによってプルトニウムが抽出され、それを用いて長崎に落とされた原爆が作られた。彼もまたノーベル物理学賞を受けた。チャドウィックは,第二次世界大戦中はアメリカのロス・アラモス研究所で原子兵器の研究に従事していた。
また、ニールス・ボーアは原子の構造の解明に特に重要なはたらきをした物理学者で、一九二二年にノーベル物理学賞を受賞した。彼は優れた物理学者であって、世界から有能な物理学者が集まったが、日本の仁科芳雄もその一人であった。ボーアは一九四三年、第二次世界大戦のドイツ占領下のデンマークを脱出してアメリカに渡り、原子力計画(マンハッタン計画)に参加し、原爆開発計画に協力した。
また、カール・アンダーソンはやはり一九三六年にノーベル物理学賞受賞して、原爆開発の責任者となるよう依頼されたが、断ったのであった。その代わりにやはり著名な物理学者であったオッペンハイマーが就任した。
これらは一例であるが、当時の世界的な大物理学者というような人の多くが原爆につながる原子物理学者なのである。日本の湯川秀樹もやはり原子物理学者であった。こうした人々の天才的な頭脳とその研究によって残念なことに、人類最大の破壊兵器である、原水爆が作られる道が備えられていったのである。
ノーベル賞の第一号の受賞者は、レントゲンである。彼は真空放電の研究をしていて、たまたま近くに置いてあった化学物質が蛍光を発しているのに気付いた。それが未知の目には感じないある放射線であることを発見し、そのゆえにX線と名付けた。(一八九六年)
これが目に見えない放射線への関心を強くすることになり、そのころ、フランスの科学者ベクレルが、やはり目に見えないウランからの放射線に気付いたのであった。その正体を研究していくことによって、その放射線は、ウランという原子核が、壊れて別の原子になっていくときに放出されるのだということが判明した。そうした研究から原子核を人工的に壊す(分裂させる)ことへと進み、原子核の分裂という現象の本質がつぎつぎと明らかになっていった。そしておよそ五〇年後には、その究極的な産物が、ウランやプルトニウムという原子核の分裂を用いた原爆となってしまったのである。有名なキュリー夫妻の研究も、この放射線に関する研究であり、その結果、ラジウムやポロニウムという新しい元素の発見につながった。
そういった意味では、キュリー夫妻も、原子物理学を耕す重要な科学者の一人であったから、原子爆弾へ道を備えた重要な人物の一人ということになる。夫妻は誠実な人たちであり、本人たちがそうした研究を始めたときには、未知の放射線へのひたむきな探求の心からなされたのであって、その研究が原爆のような恐るべき兵器につながっていくとは全く想像もしなかったのであるが、結果的にそのようになったのである。今日広く用いられている「放射能」という言葉を提唱したのもキュリー夫人であった。
このように、今日の最も輝かしい賞であるノーベル賞の出発点が、X線という目には見えない放射線を発見したレントゲンに与えられることから出発し、そのすぐあとにやはりノーベル賞を受賞したベクレルがやはり放射線の研究からノーベル賞を受賞したこと、そしてその研究によって開かれた道は、およそ五〇年後の原子爆弾の製造へとまっすぐに進んでいったのであった。
ノーベル賞という科学技術の最も栄光ある賞が、原子爆弾への道を最も備えた科学者に多く与えられたということになっているのである。
このような歴史的な事実を前にして直ちに分かることは、科学技術が進んだとかノーベル賞を多く受賞したといって、単純に喜ぶことはできないということである。
ノーベル賞を創設したノーベルの業績についてみても、彼が発明したダイナマイトに類する技術が単に土木や鉄道工事だけでなく、爆薬製造にも用いられ、戦争に用いられて数え切れない人々を殺傷することにもつながったのである。
ノーベル自身は平和を愛した人であったと言われ、そうした状況を悲しんでノーベル賞を創設したといわれているが、彼が一八六六年頃にダイナマイトを発明してわずか七年ほどの後には、ヨーロッパを中心に十五もの爆薬工場を建設し、約三五五種もの特許をとり、それによって巨万の富を得た。そこでそれを用いてノーベル賞受賞者に賞金を与えることになったのであった。
このように、今日では世界的な栄光のシンボルともなっているノーベル賞であるが、その賞が生まれた出発点のダイナマイト製造から原爆まで、戦争と深く関わることになってしまったのである。ことに最も脚光を浴びてきた物理学賞を受けた科学者たちは多くが原子爆弾への道を備える結果となってしまったのである。
このように見ても、この世の賞というものが持つ大きな限界を見ることができる。
主イエスが「人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」(ルカ福音書一六・15)という、きびしい言葉を出されたのを思い出す。
私たちはこの世で栄誉を受けるものが決して究極的な真理ではないということ、むしろ真理そのものをもっておられた主イエスが、この世の指導的な人たちから憎まれ、殺されてしまったほどであったことを思い起こす。
その主イエスがいかなる真理を持っておられたのか、天地の創造主である神の究極的な真理とは何なのか、それは聖書にはっきりと記されている。聖書を表面的に読んだり、またはある一部だけを全体の、とくに新約聖書の光に照らさずに読むときにはまったく間違った結論を引き出すことがある。例えば、アメリカの黒人差別とか、戦争肯定などである。
私たちは現在ますます武力や戦争を肯定する考え方がマスコミなどに増えている状況にあっていっそうそのようなこの世の流れに押し流されないような確たる土台に立っていることが求められているが、そのためには聖書を深く、正しく読むこと、そして祈りをもって読むことによって正しい土台が据えられていくことになる。