イエスのまなざし 2003/2
新約聖書で、ルカ福音書にだけ記されている、徴税人ザアカイの記事がある。現代の私たちの生活のなかで、徴税人といっても、今で言えば、税務署長といった仕事の人であり、大して関心もわかないであろう。どうしてこんな税金を集める人のことがとくに書かれているのか、初めて読む場合には疑問に思う人も多いと思われる。 この徴税人の記事を通して、現代の私たちにどういうことを告げているのか、考えてみたい。
…イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の長で、金持ちであった。
ザアカイはイエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆非難して言った。「あの人は罪深い人のところに行って宿をとった。」
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ福音書十九・1~10より)
当時のイスラエルの国では、税金を集めるという仕事が現在の日本とは大きく異なる意味があった。 この時代には、イスラエルはローマ帝国の支配下にあった。税を徴収するという仕事を、その支配下においていたユダヤ人を選んでさせていた。税をいくら徴収されるのか、現在のような広報や新聞などもなく、一般の人々にははっきり分からないことが多く、そこから不正をして、収める額以上の金額を自分のふところに入れるという徴税人が多くいたと考えられる。同胞がローマ帝国に侵略され、支配されているのに、その支配者の側に雇われ、命じられ、しかも自分のふところに勝手に税金からの金を取り込んでいるということになると、当然同胞のユダヤ人から強く憎まれることになった。
それゆえ、当時の聖書学者たちからは徴税人は盗人と同様なものとみなされ、社会的にも公的な仕事からは徴税人とその家族たちは除外された。そのことは、福音書にあらわれる徴税人という存在が、盗人のような罪人や娼婦と同様に並べられていることからも推察できる。
…イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に…。(マタイ福音書二一・31より)
…人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、…徴税人や罪人の仲間だ」と言う。(マタイ十一・19)
また、当時のユダヤ人は、ユダヤ人以外の人(異邦人)と交際することすら律法で禁じられていた。それは次のような箇所からもうかがえる。
…彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(使徒言行録十・28より)
そしてユダヤのすぐ北のサマリア地方の人とも交際していなかったことも新約聖書にみられる。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」(ヨハネ四・9より)
このように異邦人は神の言(律法)を知らず、従ってそれを守ることもしない。そのため偶像を神とあがめているし、ユダヤ人の律法で禁じられていた豚などの動物も自由に食べる。だから異邦人は汚れており、交際してはいけないというのであった。
しかし、徴税人はこうした規定にも背くことになる。異邦人であるローマ人と日常的に交わるからである。その上、彼らから徴税人という仕事をもらい、さらにユダヤ人から金をだましとったりして金持ちにまでなっているということであったから、ユダヤ人からは憎しみと軽蔑の対象になっていた。
こうした背景を知っていなければこのザアカイの記事の意味は分からないのである。
このような同胞からは見下され、憎まれていて誰が心の平和を感じるであろうか。徴税人という嫌われる仕事を選んだのは何か特別な理由、家庭の貧しさとかどうしても収入が必要な窮地にあったとかがあったのであろう。そしてその職務に忠実であったから、徴税人の長になっていた。しかしそうした地位が与えられるといっそう同胞のユダヤ人たちからは憎まれることになる。
周りのユダヤ人の人々から日常的に見下され、社会的にも見放されていた状態からくる淋しさ、孤独、あるいは悲しみが彼の心を支配していたであろう。こうした心の問題は、おそらく彼の家族からもたえず持ち出されていたと考えられる。しかしそういう状態から脱出する道はまったく見えなかった。もしその徴税人という職業を辞めたとしても、到底まわりのユダヤ人たちは赦してはくれないだろう、収入は無くなる上にどこにも仕事をする場もないとなれば、生きていけない。とすればいまの職業を憎まれつつも続けるほかはない。それは将来にまったく展望もなく、希望もない生活であった。
こうしたザアカイの心に、おそらくかつて耳にしたであろう、マタイ(レビ)という人のことがふとした折りに浮かんできたと思われる。マタイも同じ徴税人であった。しかし彼はその仕事中に、イエスという人から、「私に従って来なさい!」という一言で、徴税人の仕事を辞めて、イエスに従って行った。こんなことは前代未聞であり、同じ徴税人仲間の驚くべき出来事として、ザアカイのところにも届いていたと考えられる。
それまでの収入や仕事そのものをも、ただ一言のもとに捨てさせる人間とはいったいどんな人間なのか、自分の現在のこの平安のない生活からの転換をさせてくれるような人かも知れないと淡い期待を持って、何とかしてイエスという人を見たい、と強い願いを起こした。
しかし、人々はザアカイというと、自分たちから不当な税金を徴収して異邦人たるローマの人たちに収めている汚れた人間なのだと知っていたから、ザアカイを中に入らせるということもしなかった。彼は背が低かった、とわざわざ書いてある。背が低いということは、ただそれだけでも、見下す人ができるものである。ザアカイは政治社会的な意味においても、また宗教的な意味からしても、さらに体の特徴からしても背が低いということもあり、何重にも周囲の人から見下されていたのだとわかる。
こうした状況にあったから、ザアカイが何とかしてイエスを見たいと思っても、イエスを取り巻く人混みのなかに入っていくこともできなかった。
普通ならば、それであきらめるだろう。しかし、ザアカイの心の内に引き起こされたイエスを見たいとの強い願いは、手段を選ばなかった。彼は人に道を空けてくれ、自分も見たいのだといっても相手にされないのが分かっていた。それで周囲を見渡した。前方には一本の木があった。彼はそれを見て、唯一の手段としてその木に登ることをただちに決断した。それは徴税人の長としての振る舞いとしてはふさわしくないものであったといえよう。大人が、大勢の人たちのいるところで、木に登るなどということ自体が恥ずかしいことで決してできないようなことであったはずである。
しかし、主イエスが持つ力に引き寄せられた魂は通常のあり方、常識といった枠にははまり切らなくなる。
福音書の中に、中風で寝たきりの人がいて、その長い間の苦しみに接していた友人がなんとかイエスという驚くべき力をもったお方のところに会わせたいと熱望し、重い病人の体を担架のようなものに載せて運んできたことが書かれている。
しかし群衆にさえぎられてどうしてもイエスに会わすことができない。それで彼らは、雨量の少ない地方ゆえに屋根の構造が簡単であったので、その屋根をはいで、イエスの前につり降ろすという常識では考えられないような手段に訴えた。するとイエスはそうした行動を責めるのでなく、そうまでしてイエスへの信頼を表した人たちのその信仰をほめられ、罪の赦しといやしを与えられたのであった。(マタイ九・1~8)
この人々と似たような心がザアカイのなかにはあったのであろう。主イエスが持っている、目には見えないある力によってザアカイは木の上に引き上げられるように登っていった。 イエスは自分とは遠いところにいる。すぐ側でイエスに触れている者、話しを交わしながら歩いていく多くの群衆たち、しかし自分はただ木の上から見るだけだ、そういう思いもつかの間であった。誰一人予想してもいなかったことであるが、イエスの方から目ざとくザアカイを見つけたのである。近づけないほど人が周囲を取り巻いていたから、ザアカイが走っていくのも目にとまらなかったはずである。まわりの人々からおそらくひっきりなしに問いかけられる言葉もあっただろう。そのようなイエスが、たった一人離れた場に行って、木に登った男などまるでわからなかったと思われる。しかし、意外なことはそのようなみんなが顧みなかったたった一人の人間を主イエスだけは鋭くとらえ、その心に長年積もってきたであろう孤独と悲しみをも見抜かれたのである。これは驚くべき愛の現れという他はない。人間らしい扱いを受けてこなかった一人の苦しみや悩み、社会から見放され、盗人のような罪人扱いをされてきて、まともな仕事にももはやつけなくなっていた人間、そこからどのようにしても脱することのできない袋小路にはまりこんだ人間の抱える重荷を、主イエスはいち早く見抜くことができたのであった。主イエスのまなざしこそは、すべてを越えて本当に必要なところを見抜くのである。
そして木の下から、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と呼びかけた。そのイエスの一言が、それまでのあらゆるザアカイの苦しみや重荷を解決するものとなった。自分の過去の罪、それは人間にはどうしても赦してはもらえないものゆえ、前進することもできず、立ち往生していた一人の人間に、明確な道を指し示し、そこにいっさいの解決があることをたった一言で分からせることができたのである。
主イエスの愛のまなざしを受け、その個人的な呼びかけを聞き取った者は、ザアカイのように、主イエスが自分のところにきて、留まって下さるのを実感する。ヨハネ福音書で、「私の内に留まっていなさい。そうすれば私もあなた方の内に留まっていよう」(ヨハネ福音書十五・4)と言われているとおりである。
私自身、キリストの福音を知るまではどのように考えても、学生仲間と議論しても、教授の話や講演などを聞いても道が見えてこなかった。周囲の者たちもそうした問題の解決をまったく知らなかったのである。そのような私にやはり、わずかの言葉で主イエスは根本的な転換を与えて下さった。
そうした自分自身の経験から、このザアカイがイエスの一言で変えられたのも共感できる。それほどイエスの一言は力がある。それは神の言葉であるから。イエスの個人的な呼びかけによって、ザアカイは周囲の非難のまなざしを浴びせる人たちのただなかで、新しく生まれた宣言をすることができた。
…ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ十九・8)
財産とは長い間かかって造ったものであり、それをたいそう重要だと考えていたからこそ貯えてきたのである。現在の私たちの感覚でいうと、財産とは土地建物や預金などを含むのであるから、相当な金額になるだろう。その半分をただちに他人に与え、さらに残った金額をも、不正な取り立てをしていた場合には、四倍にして返すとまで、宣言するというのは、驚くべき転換である。よほどの力が魂にはたらかないとこんな決断はできない。その財産に結ばれていたザアカイの魂は、主イエスの一言によってその金や地位の引力から断ち切られ、主イエスに結ばれたのであった。私たちに必要なのはこうした力ある言葉なのである。人間同士の議論は、雑誌、新聞やテレビなどに日々満ちあふれている。しかしそれらは知識は得るであろうが、生きる力は与えることができない。困難や苦しみのただなかにあっても、なお希望を持ち続けることのできる精神の力はそうした人間の議論では得ることができないのである。それはただ、真実な力の源である神から、そしてその神が私たちに送られた主イエスから来る。
ザアカイは何もよいことをしたわけではない。それどころか、同胞から非難され、後ろ指をさされるような生き方をしてきたのである。にもかかわらず、主イエスは彼をだれもが見下すただなかで、神の愛をもって見つめ、名をもってザアカイを呼び出し、無条件で救いを与えられた。ここにキリスト信仰の本質がある。キリスト教という信仰は、なにかよいことをたくさんしなければ救われないというのではない。どこかの組織に加わらないと救いが与えられないというのでもない。あるいは多額の寄付金を献金しなければいけないというのでもない。病気で何もできなくても、また老年であるとか、貧しさや無学、過去に犯した罪がいかにあろうとも、ただこうしたキリストからの呼びかけを感謝して受けるだけで、救いへと、すなわち本当の幸いへと入れていただけるのである。
「今日、救いがこの家に来た!」 この主イエスの宣言によってザアカイの救いは家族の救いへの第一歩となったこともうかがえる。
キリストによる救いは、このように不連続的なのである。いろいろとよい行いを積んで、経験を重ねて、あるいは宗教的修業をやってからようやく救われるのでない。今も活きておられる、キリストからの呼びかけを感じてそれを受けるとただちに救いはそこに来たのである。これは私自身が、ある日突然にして信仰を与えられたという経験があるゆえに、その真実性をいっそう強く感じる。
もちろん徐々に救いの確信が与えられることも多い。しかし基本的には救いとはイエスの言葉、そしてイエスの力によってつねに不連続的に与えられるものなのである。キリスト者となってからも、私たちは罪を犯したり、意気消沈したり、力を失ったりする。しかしそこから主イエスをしっかりと見上げるとき、直ちに私たちにそこからの救いが与えられる。自分ではどうしたらよいのか分からないほどに苦しいときもある。それでも私たちが立ち帰れ!との促しにしたがって、主イエスを、神を見上げるときには、私たちの感情や気分の如何を問わずすでに救われているのである。
「人の子は、失われた者を捜し出して救うために来た。」と言われた。イエスは捜しておられる。ザアカイのように、過去の罪によって苦しむ者、病気やさまざまの問題で疲れ、歩けないようになっている者たちを。主イエスの捜されるまなざしを感じて私たちがふり返るとき、私たちを神の愛をもった御手でとらえてくださり、御国へと歩む者として下さるのである。