ナイチンゲールの苦しみ(伝記からの紹介) 2003/3
看護の世界で、ナイチンゲールと言えば、現在でも世界的にその名を知られている。しかし、彼女の心にどのような世界があったかは、日本ではほとんど知られていないと思われる。
彼女の伝記は、子供用の伝記やマンガなどではよく見かけるが、以前には正式な伝記は一般出版社からは出ていなかった。しかし、一九八一年に上下二巻で、計八〇〇頁を超える詳しい伝記が出版された。(*)
私はそれによって初めてナイチンゲールの歩んだ跡を詳しく知ることができた。ここでは、こうした本に親しむ機会がない多くの人たちに、ごく一部であるがとくに彼女の若いときの内面の戦い、苦しみなどを中心にして紹介したいと思う。
(*)「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」現代社
ナイチンゲールは一八二〇年、家族が旅行中に、イタリアで生まれた。生まれた地名をとって、フローレンスと名付けられた。彼女の両親は豊かな家に育った人たちで、何年でも外国旅行する余裕があるような人であった。家族で、晩餐会、舞踏会などをして客をもてなして過ごすような社会階級の一員であった。
ナイチンゲールはこのような華やかな家庭に育ったが、その心の内にはそうした華やかさにうち解けない全く別の風が吹いていた。
彼女は、まだ十六歳のとき、神の声を聞いた。彼女は、若い頃から個人的なメモ、日記のようなものを書き留める習慣があった。彼女の家庭は、家族同士の対立と性格の対立などから穏やかなものではまったくなく、家族のなかにうち明ける相手がいなかったことも影響して、フローレンスはことあるごとに、自分の本当の気持ちや考えを書き留めていったのである。それは小さい紙切れや、吸い取り紙、カレンダーの裏、手紙の余白など手当たり次第に用いたという。それらが残されているために、ナイチンゲールの若いときからのさまざまの苦しみや悩みをつぶさに知ることができる。
彼女が受けた、決定的なことであった神からの呼びかけということも、その私的なメモの中に書かれている。
「一八三七年二月七日、神は私に語りかけられ、『神に仕えよ』と命じられた。」
このとき、彼女は、十六歳であった。そしてこのような「神の声」は、生涯のうちで、四度語りかけてきたという。そしてそれは初めて病院勤務の職に就く前や、彼女を看護婦として世界的に知られるようにしたクリミヤ戦争の前など、彼女の人生のうちで、とくに重要な時に語りかけてきた。
しかし、初めて神からの語りかけを聞いた時には、どのようにして神に仕えるのかはわからなかった。彼女がそれ以後、耐え難いようなさまざまの苦しみに遭遇しながらも、看護婦の道へと進むことができていったのは、その「声」の主である神への信頼と、神からの見えざる導きによっていたのである。
看護婦の道に進むことがどうして耐え難いような苦しみを伴ったのか、それは現在の看護婦(看護師)の社会的地位を見ていてはまったく分からない。
以前からナイチンゲールは悩み続けていたことがある。それは自分の罪であった。
「私はあらゆることを他人からの賞賛を得るためにやっている」と書いて、自分は人間の集まりのなかで、注目の的になっていないと気がすまないところがある自分に気付いたと述べている。神から、「私に仕えよ」との声を聞いたが、それが具体的に何を意味するのかなかなか分からなかった。神からの答えを与えられるためには、こうした社交界で人に目立ちたい、誉められたいといったような気持ちにうち勝たねばならないのだと悟った。
二十四歳になる少しまえに、つぎのようなことを書き残している。
「私のように二重、三重もの罪を犯した人間が、さらに罪を犯すとどうなるか、この苦しみはだれにもわからないだろう。神をこれほど苦しませた人間はいないだろう。誰にもまして恵まれた環境にありながら、私は罪を犯してしまったのだ。」
ここでいう罪がどのようなものであったのかは分からない。罪とは心の汚れであり、不純な心であり、愛のない心、自分中心の心である。それは聖書やキリストの言動に示されているどこまでも高い標準と比べるようになると、自分の罪ふかさが浮かび上がってくる。
彼女が二十四歳のころに書いた手紙にはつぎのように記されている。
「何千、何万の苦しんでいる人々の存在を思うとき……農民たちの小屋という小屋には、同情さえも受け付けない苦しみが満ちているのを目にするとき ― そうしてこの世はすべてあいも変わらず朝ごとに同じことを繰り返している。 ― そしてこのさまよえる地球は永遠の沈黙を守りつつ、何事もないかのように、これまた冷徹な星々の間を、その単調な軌道のうえを、容赦なく回り続けるのです。こんなことなら死よりも、生きている方がいっそうわびしいというものです。」
目覚めてきた魂にとって、苦しみがかくも至るところにあること、そしてそれがどうしようもなく存在して続いていること、人間はそうした広範囲の苦しみに対してほとんど何もできないこと、この広大な宇宙のなかで、地球や星々はそうした苦しみをまったく知らないかのようにまわっている。こうした何の言葉も暖かみもない、星々の世界にそのまま飲み込まれていくのか、この人生が謎のようなものを含んでいるということを、ナイチンゲールは若きときからこのように深刻に悩んでいたのがうかがえる。
その一年ほどあと、彼女は、ある社会的地位もある人から結婚の申し込みを受けた。彼女は、ふつうの上流階級の人生を送ることを断念していたために、その申し出を断った。しかしそれによって相手の人は打撃を受け、その家の人とは絶交になった。それまでにも数々の悩みと苦しみにさいなまれていた彼女は、そのことによっていっそう苦しみもだえた。
「ああ神様、神様、どうしてあなたは私を見放されたのですか!」という以外に言葉もありません。もう私にとっては人生は真っ暗闇です。このようなとるに足らないことでどうして私たちはこんなに苦しまねばならないのか。…」と、このころの手紙には書かれてある。
ここで、少し病院に関わる歴史的なことに触れておきたい。
ヨーロッパの病院は、中世において、キリスト教の愛の精神によって、貧しい人々、病気の人々などを、収容して世話をする施設にその起源がある。日本における病院(*)もそのヨーロッパのキリスト教精神から生まれた制度をモデルとして造られていったものである。
(*)日本では、「病院」という言葉は、一七八七年刊の森島中良編の「紅毛雑話」にオランダの病院の紹介がなされたときに用いられたのが最初である。
ナイチンゲールの生きた時代は、日本では江戸時代にあたるが、その頃は、病院で病気治療を受けるどころか、たべる食物すらないという大飢饉が、寛永の飢饉、享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉など、四回も発生している。天明の大飢饉の時など、東北地方では、飢え死にや栄養不良からくる多数の病死などで、村の人口の三分の一にまで、減少してしまったところもあるほどであった。徳川幕府は農民に対して「生かさぬように、殺さぬように」圧制を続けていったから、病院のような施設を造って病人を集めて治療しようというような発想はとても出てこなかった。
このような日本の状況に対して、ナイチンゲールの時代のイギリスにはすでに各地に病院があった。しかし、病院の状況は現代と比べると考えられないほど劣悪なものであった。
それは悲惨と堕落、不潔の巣窟のようなところであった。部屋は現代のような電灯がなかったから、薄暗く陰気で、汚物と衛生設備が整っていないために生じる病院特有の悪臭は当然のこととして放置されていて、その臭気があまりにも強烈なために、初めて病棟に足を踏み入れた人は吐き気を催すほどであった。さらに、床は掃除もされず、患者の屎尿設備もないために、汚れがべっとりとしみつき、それを洗うととても石鹸水と思えないような悪臭を放つのであった。
冬は暖房のため何ヶ月も窓を締め切ってしまうので、壁は冷やされて生じた水滴がしたたり落ち、カビやコケが生えてきて、異様な臭気が出てくる状態となる。
患者はコレラがひそむ貧民窟といわれるようなところや家畜小屋、地下室などから続々と来て、いろいろの酒類も持ち込まれ、目を覆うような凄絶な光景が繰り広げられ、半死状態の患者同士が争ったり、警察が呼ばれたりすることもあったという。病人は汚れきって入院し、からだを洗うということはほとんど全くなされなかった。ベッドもまた不潔で、新しい患者が入ってきても、前の患者が使ったままのシーツをそのままにして寝かせるのが当たり前で、洗濯などまずされなかった。
しかしこのような驚くべき状況すら、ナイチンゲールを妨げるものではなかった。それ以上に困難な障害となったのは、当時の看護婦たちの不道徳さにあった。社会的身分のある子女が看護婦になるということは当時はあり得ないことであった。彼女たちは、病棟のドアの外の階段の踊り場にある木製の檻(おり)のような部屋で寝泊まりしていたが、ふつうの女性なら到底寝られるような場所でなく、騒音もひどく、夜勤の看護婦が昼間に休憩するなど不可能であり、光もなく風も通らない。また看護婦たちは、病室以外に住居を持たず、病室で生活し、眠り、そこで炊事することもあったほどである。
一名の看護婦がおびただしい患者を受け持ち、夜勤看護婦一名が、四つの病棟を受け持っていた例もあったという。
しかも、看護婦たちは大酒のみで、婦長も同様であった。また、看護婦の寝泊まりする場も男子患者の病室で一緒に寝泊まりするようなことも公然と行われていて、品性の堕落したような女が多かったという。
このような状況を知れば、当時のふつうに育った女性が看護婦になるということがいかに考えられないことであるかがわかる。ナイチンゲールの場合は、上流階級の人で、いわゆる貴婦人たちの社会にいたので、そのような人が、こうした職業に就くことはいまわしいこと、考えられないことであった。「病院」の看護婦になるということは、当時は「世にも恐ろしい言葉」であったという。
ナイチンゲールが二四歳になったとき、アメリカの社会事業家で盲学校も初めて創設したサムエル・ハウ博士と会う機会があった。そのとき、彼女は自分のような、上流階級にある若い女性が病院などで看護婦の仕事に一生を捧げることについてどう思うか尋ねた。そのとき、ハウ博士はつぎのように答えた。
「それは確かに異例のことです。しかし私は『進みなさい』と言いましょう。
もし、そのような生き方が自分の示された生き方だ、自分の天職だと感じるのであれば、その心のひらめきに従って行動しなさい。他者の幸いのために自分の義務を行っていくかぎり、決してそれは間違っていないということが分かってくるでしょう。
たとえ、どんな道に導かれようとも、選んだ道をひたすら進みなさい。そうすれば神はあなたと共にあるでしょう。」
ナイチンゲールの後の生涯はこの言葉に沿っているのがわかる。彼女が看護婦として歩もうとする道にいかに多くの障害があったか、それを詳しく知るにつけても、まったく道のないところをある強い力に引かれて行ったという感を受ける。彼女はときには動けなくなり、またときには後退し、ときにはいわば迷路にはまりこむというような困難な歩みを続けていったのである。そして確かに神は彼女とともにおられて、最終的には彼女のはたらきを用いられたのだとわかる。
このような励ましの言葉を受けたこともあって、彼女が神からの声を聞いてから七年の歳月を経てようやく、自分の天職は、病院に収容されている病人のなかにこそあるという認識に達した。 彼女が看護婦になることを両親に言ったときに、当然のことながら両親は嫌悪感とともに激しく反対したのも、当時のこうした看護婦社会の実態を見ればうなづける。
翌年二五歳のとき、彼女は両親や家族に自分の希望を言った。母親は驚きと恐れのために、震え上がった。それは病院のむかつくような面より以上に、医者や同僚看護婦たちの品性によって汚されるという思いであった。なおも彼女が自分の希望を主張したとき、母親は恐れから怒りに変わった。そして娘が品性卑しい医者と隠れた恋に陥るような恥知らずなことに心を奪われているとか、社会の下層階級から来ている看護婦たちによって汚されるというようなことを言った、そして母親は激しく泣いた。母親にとって、娘のフローレンスは自分がながらく築いてきたものを根底から打ち壊していくように見えたのであった。
母親は看護婦になるなどは恥ずべき願いだとし、父親も「看護などという愚かなことを!」と軽蔑をこめて語った。
こうした強い反対にあって、ナイチンゲールは家族のなかでも全く孤立し、彼女は敗北感と、無力感にうちひしがれ、何をする元気もなく、ふさぎ込んでしまった。「年ごとに若さを失っていくだけで、私が生き続けていても何に得るところもありません。…私は塵芥(ちりあくた)ほどの価値もない人間です。ああ、何か、強い力が働いて、このいまわしい人生を過去に押しやってくれないものでしょうか。」とこの頃の手紙に書かれている。
この頃の彼女がいかに、精神的に打撃をうけ、悩み抜いていたかはこの頃のメモなど書かれたものによく表れている。
やはり二十五歳のころ、彼女はつぎのように書いているという。
「…私はどん底まで落ち込んだ。私のみじめさと心の空しさはとても筆舌に尽くせるものではない。」
「…今朝の自分は、涙に魂までも流れ果てる思いである。胸をえぐる悲しみ、孤独の苦しみ、このどうしようもない淋しさ、……」
「もう私は生きていけない。主よ、どうかおゆるし下さい。そしてどうか今日私に死を与えて下さい。」
「…黄泉(よみ)の悲しみが私を取り巻いている。どうか神様が私の魂を黄泉の世界に捨ておかれませんように。」
「…鋤で魂をえぐられる思いだ。」
こうした苦しみはなおも続いていく。彼女が三十歳になったころに彼女はだれにも言えない心のなかの叫びや苦しみを書き記していた。それは鉛筆のなぐりがきで、筆跡も不安定、判読できないほどのものであった。
「三月七日 神は朝、私を呼ばれて、神のために、ただ神のためだけに、わが身の名声を顧みずに、善をなす意志があるかと問われた。」
三月八日 つぎの質問についてじっくり考える。女子修道院長はこう私に問うた。「あなたは、全世界を支配されている神と、あなたの小さな名声との板ばさみになって、万が一にも迷うのですか。」
五月十二日 今日で私は三〇歳、キリストが伝道を始められた年だ。もう子供っぽいことはたくさん。人を好きになることも、結婚ももう結構。
主よ、どうぞ御心のみを、私への御心のみをなして下さい。主よ、御心を、御心を。
五月二十一日 私は三〇歳。…ただ神の御心のみを全うし、自分の栄光を願うことのないように…。
六月七日 …こんな最悪の状態に落ち込んだことは初めてだ。三〇歳になったら、自分の魂はいやされると思っていた。もう八ヶ月間も…ただの一日たりとも私は罪を犯さなかった日はない。…この実に憐れむべき私を、この死のからだから救い出してくれるのは誰であろうか。
六月一七日…一晩中眠れず、肉体も精神も衰えきって、もうだめ…。私は奴隷同然。…ただもう眠ること以外にこの世では望むことはない。
七月一日 寝床に伏し、神に救いを求めて祈る。
以上のような記述は、だれにも見せるということがないはずの紙切れやノートの端などに自分の心の叫びとして、また孤独な彼女が書くことによって気をまぎらわせ、倒れそうになっている心、誰とも深い交わりのできない苦しみをただ書かずにいられない気持ちから書き続けたその内面をよく表している。
こうした深い苦悩と悲しみ、孤独のなかで、彼女は三〇歳を過ぎても苦しみ続けたのである。貴婦人といった生活を約束されていた時代において、そこから自由に出て、自分の天職だと信じる方向に進むことがきわめて困難であって、そのために家族とも周囲の人たちとも大きな分裂や戦いを余儀なくされていったのがよくわかる。
そしてそのような苦しみと孤独のなかから、どこかにその倒れそうになる心を抱えて書かずにはいられなかった気持ちが、彼女のこうした私的メモには赤裸々に現れている。
死ぬほどの苦しみ、死んだほうがましだというほどの苦しみと絶望感は、聖書における、ヨブを思い出す。ヨブは信仰深き人間であったが、突然のおそるべき不幸というべき出来事がつぎつぎと生じて、自分自身のからだにも、ハンセン病のようなたえがたい病気が現れ、耐え難い苦しみとなった。そのときに、ヨブは自分が生まれたことも忘れられたらよいのにと強い願いを持つようになった。
…わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
静けさも、安らぎも失い
憩うこともできずに恐れふるえる。(旧約聖書・ヨブ記三章より)
こうした深い苦しみは、旧約聖書の詩篇二三編にある、「死の陰の谷」を思い起こさせる。
また、中世の大詩人ダンテは、やはりさまざまの大きな苦しみをなめた人であった。彼の詩「神曲」が、七〇〇年にわたって、大きな影響を与えてきたのは、なぜか。それは一つには彼の深い苦しみがもとにあったからである。そのことは、神曲の冒頭の部分でうかがうことができる。
人生の道のなかばで
正しい道を見失い
目覚めたときには暗い森のなかにいた。
その森が、いかに厳しく、荒れ果てていたか、
そのありさまを語ることが、いかに難しいことか!
その森のことを思い出すだけでも、恐れが新たとなり、
死の苦しみにも劣らないほどの苦しみとなる。(神曲・地獄編第一歌より)
ナイチンゲールの味わった苦しみはこのような苦しみと同様なものであったのが推察できる。
その深い闇を通っている間は、私たちはそれが後になってよい実を結ぶのだなどとは到底考えることができない。ただ、襲いかかる苦しみや痛みに必死に耐えて、一日一日を過ごすのが精一杯なのである。耐えきれないと思う心も押し寄せる。そのようなとき、「主よ、どうして私たちを捨てられるのか、どうして来て下さらないのか!」という深刻な疑いが生じることになる。
しかし、神は人間に数々の重荷や苦しみを与えることによって、人間の考えや計画をはるかに超えたところで、神が導いておられるのを学びとるようにされる。
ナイチンゲールはこのような長い孤独な苦しみと戦いに耐えつつ、看護婦を目指して歩んでいった。その結果、彼女の歩みは看護という世界にまったく新しい世界を示していくことにつながっていった。 神が何か大いなることを人にさせようとするときには、まずその人を深い苦しみに落とすといわれるが、ナイチンゲールの場合もまさにそうであったのである。
聖書にも、使徒パウロが神の光を受けて、キリスト教の迫害者から突然変えられたとき、パウロに新しい使命が告げられた。その時に、主の言葉が次のように告げられた。
… すると、主は言われた。「あのパウロは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒行伝九・15~16)
私たちはこうした歴史における実例を知ることによって、神の導きがどのようなものであるかを改めて知らされる。